「ん、あれはシュン? 珍しいこともあるものね……」
 聖ヶ丘中学2年、秋尽メイが書架の前に立ちつくした人影に気付いて小さく声を上げた。
 夕日の差しこむ学校の図書室。
 今日の数学の課題を手早く済ませたメイが、家路につこうと席から立ったちょうどその時のことだった。
 さっきから本棚の前に立ったまま、細かく肩を震わせているのは2年C組のメイのクラスメートの男子だった。
 幼馴染の如月シュンだ。
「どうしたのシュン? 図書室なんて珍しいね?」「おわっ! メイ?」
 メイがシュンに声をかけると、シュンはビクついた声を上げた。今、メイに気が付いたらしい。
「いったい何やってるの。さっきからソコに立ちっパでさ?」
「ああメイ。コレを見つけちゃってさ……」
 首を傾げてメイがシュンにそう訊くと、彼は震える指で書架に並んだ1冊の本をさした。
「『背中に回した血塗れの手をあなたは知らない』?」「ああソレだよ……」
 メイは真っ赤な布張りの背表紙に書かれたタイトルを読んで、眉をひそめた。
「ダラダラ長ったらしい割に要領を得ないセンスの無いタイトルね。この本がいったいどうしたの?」
「知らないのかメイ? 御珠町の七不思議の1つ『誰も読んだことのない本』だよ!」
「なにそれ? そんなの色々、設定がおかしいわ?」
「いやメイ。正確には、読み終わった人間が誰も残っていない本ってことなんだ……」
 色々納得のいかないメイに、シュンは小さくそう答えた。

『背中に回した血塗れの手をあなたは知らない』。
 作者も表記されていない、ジャンルはミステリと思しきその本は、1度読み始めるとあまりの面白さに読むのを止めることができなくなってしまうという。
 やがて本の内容に取りつかれてしまった読者は、どこかに姿を消してしまい2度と戻ってこないのだ。
 一説では、本の中に吸い込まれて、本に捕らわれてしまうのだとか。
 そしていつの間にか、図書室の書架には赤い布張りの本だけが返却されているという。
 結末を知っている人間が誰も残っていない本。だから『誰も読んだことのない本』なのだ。

「噂ではいま聖ヶ丘中学に返却されてるっていうから探しに来たんだ。でも本当に……!?」
「バカバカしい。そんなの都市伝説だって。この本も誰かのイタズラよ」
 真顔で噂を口にするシュンを、メイは一笑に付した。
 だが……
「本当に、一度読み始めたらやめられない……そんなに面白いのか?」
「ちょ、ちょっとシュン!?」
 書架に手を伸ばし本を手に取るシュンに、メイは少し慌てた。
 噂に決まってる。現実的に考えて、そんなことあるワケない。
 だが万が一にも……ひょっとしたら……!

「誰も読んだことのない本……誰も……!」
「シュン。やめなって!」
 赤い布張りの表紙をまるで魅入られたように見つめるシュン。
 メイは小さく悲鳴を上げた。シュンが表紙に手をかけ、中を開こうとしたのだ。
 だが……
「おわっ!」
 シュンがおかしな声を上げた。シュンの手から本がこぼれ落ちた。本は、シュンの手で開くことは出来なかったのだ。
 ページとページの間が、ノリか何かでしっかりと貼り合わされているのだ。
「なるほど。『誰も読んだことのない本』……というより『誰も開けない本』ってことか。しょうもないイタズラね……」
 メイが、少しホッとしたように息をついて、床から本を拾い上げた。
「トリックがわかってしまえば他愛ない話だったね。さ、帰ろシュン?」
「ああ、そうだなメイ……」
 メイの言葉に、シュンが拍子抜けした顔で書架から踵を返した、だがその時だった。
 タスケテ……タスケテ……
 二人の耳に、幽かに誰かの声が聞こえた気がした。
「「…………!!」」
 声のする元を振り向いたシュンとメイの顏がこわばった。
 本当に微かな、小さな声。だが確かに聞こえる。何人もの男の声。女の声。大人。子供。老人の声……!
 声の元は、閉ざされた本の内側だった。
「誰カガ……コノ本ヲ危ナイト思ッタ誰カガぺーじヲメクレナクシテシマッタ……息ガデキナイ……開ケテ……タスケテ!」
 シュンとメイは震えながら赤い布張りの背表紙を見つめていた。本から助けを求める、何人ものヒトの声。
 「開ける」べきなのだろうか。「助ける」べきなのだろうか。だがその時、本から出てくるモノとはいったい……!?
 図書室を照らした落日が辺りを真っ赤に染めている。夕闇が急に濃さを深めて来た。
 書架の暗がりの前に立ち尽くしたまま、2人はただジッとその本を見つめていた。