男性器の消失に気づいたのは、クリスマス・イブ、都内のホテルでの事だ。
32歳の僕の股間は野ざらしの跡地みたいになっていた。幼児のような水分と滑らかさを帯びた皮膚。
ベッドに膝立ちで、指の先で触れてみる。割れ目はない。
一瞬『女性になってしまったのか』という勘違いをしてしたが、割れ目は無いし胸だって覆うのは筋肉だけだ。
僕は下っ腹だって出ていない。32歳にしては頑張っていること言えるこの体は僕にいくばくかの自信をくれる。
だからこそ、僕は壮絶なすったもんだの末に、彼女を誘うことができたのだ。

彼女は華・富花と言う。台湾人。僕が講師をしている日本語学校の生徒だ。実家は貿易商。
面と向うと眠気が少し飛ぶような美人の彼女に、僕は懐かれている。

きっかけはカキ氷だった。夏の事だ。台湾のカキ氷が食べたいという彼女に、とある店を紹介した。
本場志向すぎてあまり流行っていないこの店について話す時、僕は怪訝な顔をされた。デートの誘いをしていると勘違いをされたらしい。
そんな事は無かった。純粋な善意だったからだ。僕はその店が如何に本格志向かを力説し、訪ねて見ることを強く勧めた。誠意は通じた。
華さんは切れ長の瞳を柔らかくし、その目じりを思いっきり下げて、にっこりと笑ってくれた。
「どえふあ、いっとえいみますぅね(では、いってみますね)」と彼女はたどたどしい日本語で言ってくれた。

講師と生徒という壁を越える事は、かなりの覚悟を必要とすると思う。国籍が違えば尚更だ。
だから僕はそういう事はしてこなかった。代わりに壁越しに耳を澄ませ呼びかける。誠意を持って、親身になれば、留学生たちは自分で問題の解決を見つける。
これが仕事のやりがいだ。相談に乗るフリをして、男女の関係を目論むことなど、職業倫理的に許される事ではない。
が……。華さんについては違った。

原因はやはりカキ氷屋だろう。とても美味しかったという感想を華さんから貰った僕は、久しぶりにあの店を訪ずれたくなった。翌週実際に足を伸ばし、異変に気づいた。
いつもは威勢良く迎えてくれる店主に覇気がない。何かが違う。だから僕は訊いてしまった。

「何かあったのですか?」
店主の顔が一瞬強張った。そしてその視線を素早く空間の隅に走らせた。僕の目の端に、巨体の男性が映った。
それまで全然気づかなかった。黒のシャツから伸びる腕は筋張っていて、指の先につまむスプーンが、とても小さく見える。
スプーンの先ですくうカキ氷は果物に彩られ、たっぷりとかけられた濃厚なマンゴーソースと共に、1つの楽園を体現している。この楽園を、男の黒のサングラスが映している。

生物学的な恐怖が僕を襲った。

その後、色々な出来事が僕を襲い、華・富花さんの実家はマフィアと判明した。カキ氷屋にいた大男は彼女の護衛の1人だった。
マフィアと因縁があり怯える店主に『逃げたらばらして臓器にする』と脅していた。僕が『華さん警護団』と名づけた彼らは、華さんの脅威を躊躇なく排除する。
彼女が快適に過ごせるように、あらゆる行動に出る。

僕は彼らと、華さんの事情を知っても態度を変えたくなかった。彼女は実家が特殊というだけの、僕の生徒だ。……という想いが勢い余り、壮絶なすったもんだを経て、
僕は『華さん警護団』と対峙し、彼らに彼女への想いを堂々と述べるとこになった。
クリスマスイブに彼女を誘うとも伝えた。

カキ氷屋で初めて会った巨漢は僕の言葉にじっと耳を傾けてから、口を開いた。
「華お嬢さんの貞操を守ることが、俺たちの仕事じゃねえ。が、泣かせたら、……分かっているな?」

そうなのだ。当の華さんは、現在僕の前にいる。
着衣のままベッドの上に仰向けに寝そべっている。抱擁の末、熱い口付けを交わし、部屋の照明は落とした。窓から差し込む夜の街の灯り、そしておぼろげな月光だけが、
僕らを照らしている。

このうす闇の中で、華さんの瞳は潤んでいた。歓喜。そう、彼女は僕と結ばれたいと思っている。その想いは僕も同じだ。
が、何故だろう。腰が痺れるような感覚はあるのに、股間に圧迫を感じない。とにかく上を脱ぎ、ズボンのボタンにも手をかけて、気づく。無い、のだ。男性器がどこかへ旅立ってしまった。
今夜はクリスマス・イブだ。愛の奇蹟が起きる夜だ。彼女も期待している。僕だってそうだ。
文字通り命がけで、彼女の期待に応えるつもりだった。失望させたら『華さん警護団』に殺される。死は確定している。なのに……ない。
どこにもない。

「さて、どうしたもんかな」
と、僕は言葉を漏らした。