言葉というものはまことに水面に投げる石のようだな、と勅使河原作者は思った。
自由という淫靡なる文体を得意とする創作者の言葉は、無機質であるはずのスレに、明らかな
どよめきを生み出したのである。
それは波紋のようなものであった。この電子空間に視線を注ぐ男たちの喉が、一斉に『ごくり』という
音をたてたような錯覚を、
勅使河原原作者は覚えたし、それは本質的に間違いではなかった。
知の蓄積。交流の軌跡。うず高く積み上げられた書物とも思しきこのスレの記録は膨大であり、
新参の方々は(勅使河原作者も新参であり、
執筆歴も短い、小学生に毛が生えたような創作者であることを彼は棚にあげているのは言うまでも無い)
リーマン氏の芸術とも言うべき
あるいは唾棄すべき理不尽なる陵辱を描いた近親相姦作品を知らぬのではないかとも思った。
そう、なろうの上流作家だけあって、彼は何事もそつなくこなすのである。
そつがない、というのは和食的な響きを伴う。素材の味を大切にする。一見真似が容易にも見えよう。
その実、高度なる技量が要求されるのである。
軽やかな読書感、それは彼の特性と言える。だが・・・・・・。

− あの時の彼は違った。−

荒々しかったのだ。文体が、作中の人物の感情の流れが。動作の因果、起承転結。
勅使河原作者はかの作品の向うに、リーマン氏の姿を観た。一心不乱に淫靡なるものを希求していた。
そこには創作者としての情熱があった。

勅使河原作者はそこまで考えてから、ストーヴの熱気で室内の空気が淀んでいるきがして、窓に
寄り、勢いよく開いた。

流入する凍てつく外気は清冽であった。
勅使河原は夜空を見上げた。

「次のワイ杯はエロがテーマだといいな。お師匠様が主人公で」
彼は雲の向うに月の姿を探しながら、そうひとりごちた。

2018年は1月7日。七草粥に代表される晩の話であった。