二本松少年隊

二本松丹羽家10万石。二本松藩の兵力は少年老人を根こそぎかき集めても僅かに約1千人、対して薩摩長州土佐などの西軍は最新式の武器を持つ精兵約7千人。

慶応4年(1868)7月29日(旧暦)、あと40日で「明治」になろうという時期に、奥州街道を進軍してきた薩長連合軍(新政府軍)に対して、旧式軽砲ながら小高い丘に陣取っていた二本松藩砲兵隊から1発の砲弾が撃ち込まれた。

二本松戦争の始まりであった。この戦端を開いたのが通称「二本松少年隊」と呼ばれる、1人の青年武士に率いられた少年たちばかりの部隊である。

よく知られる会津白虎隊の少年たちは、その中心が16〜17歳であったが、二本松少年隊は更に幼く、最年少12歳、最年長17歳、中核は13〜14歳であった。

しかもこれは「数え年」であって、現代でいえば12歳〜13歳、即ち小学6年生〜中学1年生という少年たちであった。当時の12歳〜13歳の体格は現代の8歳〜10歳位と同じで本当に子供でしかない。

大壇口で連合軍と交戦状態に入った二本松少年隊は、僅か30分ばかりで戦闘部隊としては制圧されてしまった。しかし、13、4の少年たちとしては決死の奮戦であった。

この大壇口での戦闘で、隊長木村銃太郎が戦死。少年たちの中では、奥田牛之助(15歳)が戦死した。他の少年たちは殆どが重軽傷を負った模様である。

大壇口から城下へ引いて彼らは決死の斬り込みを繰り広げた。

副隊長二階堂を中心とする敗残の少年たちが、二本松の名刹曹洞宗大隣寺へ辿り着こうとした時、山門下馬先に黒ずくめの兵が4名、休息しているように見えた。

笑みを浮かべ手招きしたとも言われているが、二階堂以下少年たちが味方だと錯覚して近づいた途端、兵たちは一斉射撃を浴びせてきた。

副隊長二階堂衛守即死。岡山篤次郎(13歳)も撃たれ、敵に捕らわれて野戦病院へ運ばれたが、そこで戦死した。このような黒い筒袖、洋袴によって敵味方を錯覚するという現象は、実は戊辰戦争のあちこちの局面で見られた史実である。

この岡山篤次郎は、山奉行岡山持の次男で、木村銃太郎の最初の門下生である。菊人形のような美男であったと伝わる。彼は出陣前夜(26日夜)、母おなおに、装束、持ち物すべてに「二本松藩士 岡山篤次郎 13歳」と書いて欲しいと頼んだ。

討ち死にした時、下手な字では敵に恥を晒すし、母親が自分の死体を探す時、母自身の筆なら探し易いだろうというのである。確かに岡山篤次郎の筒袖服、白鉢巻には女文字で姓名が書き込まれていたという。

篤次郎は、あまりの幼さに驚いた薩摩隊によって野戦病院に運ばれたのだが、絶命するまでの数日間、昏睡状態にありながらも「鉄砲だ!鉄砲を持ってこい!無念だ!」と呻き続けた。

お城(霞ケ城)は紅蓮の炎を上げている。城下には既に敵兵が充満している。哀れにも残った少年たちは地獄を彷徨ったのである。木村隊以外の部隊に配属された少年たちも城下へ敗走してきていた。

木村隊成田才次郎(14歳)。成田外記右衛門の次男。敵に相まみえたら、斬ってはならぬ、ひたすら突け!と日頃から叩き込まれていた。重傷を負い意識も朦朧とする中、フラフラと燃え盛る城下を彷徨っていた。

連合軍兵卒たちは、彼を狂人とみて道を開けた。成田はそのまま長州兵の一団に近づき、やっとの思いで身長からすれば長過ぎる刀を抜き払い、白熊の冠りものを付けた隊長と思しき者だけを眼中に収めて突きかかった。

この指揮官が長州藩士白井小四郎(31歳)であったことが判っている。白井に油断があり、成田の剣は父の教え通り、白井を斬らずに真っ直ぐ突いた。白井はその場で絶命。

絶える息の間に「己の不覚。少年を殺すな」と言ったらしいが、周囲の兵たちは銃を逆手にとり成田を撲殺した。

橋辰治(13歳)。既に連合軍兵卒で溢れる29日夕刻の城下。とある邸の前の堀の中に転がっていたが、泥まみれになってヨタヨタと這い上がり、刀を構えて敵兵の中に突っ込んでいったが忽ち斬り殺された。

この時の様子をその邸に潜んでいた下僕が目撃しており、この事実が伝わったものである。

徳田鉄吉(13歳)。彼の父徳田茂承は永らく病床にあり、文久3年(1863)、藩が江戸湾警備を命じられた際、富津へ赴くはずが適わず、これを恥じて自害した。祖父母もその後を追った。

家督を継いだ兄伝七郎は既に前線へ出ている。母おひでは「お祖父様や父上の分まで働かねばなりませぬ」といって、鉄吉を送り出した。鉄吉の死体は、新丁登り口の自宅近くで発見されている。

恐らく深手を負って母に別れを告げに必死に自邸近くまで辿り着いて息絶えたのであろう。

二本松藩二本松少年隊の玉砕戦は、他藩には見られない壮絶な最期でした。