自分の名前以外は完全に覚えている。どこの組織にデザインドとして生を受け、訓練に励み、どういう技術を習得したか。同じデザインドである亜麻色の髪の少女とは
幼い頃から無二の親友で……違う。私は彼女に構わなかった。弱者に興味が無かったからだ。
「4261回」声と共に我に帰る。すり鉢状の大地の底に、私は青年に組みふされていた。彼のぼさぼさとした髪の向こうには満天の星と……
満月に酷似した物体が浮かんでいる。何がどうなっているのだろうと疑問に思う間もなく、視界が白く消失。
自分の名前以外は完全に覚えている。どこの組織にデザインドとして生を受け、訓練に励み、どういう技術を習得したか。幼い頃から無二の親友であった亜麻色の髪の少女が
正義の組織の構成員と恋に落ち、懐妊。デザインドの懐妊は奇蹟だ。懲罰を科そうとする組織から彼女を守……らなかった。
私は組織の手先として親友を子供ごと屠った。裏切り者の処分が私の職務だったから。いや、違う。寂しかったのだ。私が彼女に置いて行かれる事に。
「4800万9261回」声と共に我に帰る。私は青年に組みふされている。月のような物体がすり鉢状の上空を覆い始めている。再び視界が白く消失。
自分の名前以外は完全に覚えている。どこで生を受け誰と出会い、共に組織を脱出したのか。愛する彼と出会い、戸籍を獲得、就職し、
一般人の生活を送りながら吸血鬼や、宇宙人、古代の神と戦いつつ、闇社会のエージェントとして世界を巡る日々。あらゆる困難を拳で粉砕……できなかった。
彼氏はライブツアー先でセッションを組んだ外人大物歌手と結婚してしまった。先月の話だ。
「45億8250回……お疲れ様。最後の1回をクリアだ」
青年は私から離れて、上空を見上げた。私もつられる。月のような物体は赤黒く発光し、今にも私達を押しつぶしそうだ。突如、振動と轟音。地震だと気づく前に、上空の物体の底に無数のひびが入る。
その全てが煌く破片となって、私達にゆっくりと降り注ぐ。ルビーとブラックダイヤモンドの、雨……の向うに、オーロラが生まれた。
いや、極彩色にくねり煌くそれは、鳥だった。姿態としては孔雀に近い。或いは……。
「セフィロト。生命の樹。または不死の鳥。僕らの親にして養い子。綺麗だろう」
青年の声は穏やかだった。私の胸に熱い物がこみ上げる。何がどうなっているのか分からないままに鳥、生命の樹は宇宙の彼方に飛び去っていった。
この後、青年は私の横、ひび割れた土に腰を下ろし、後ろ手をついて星空を見上げながら、事情を話してくれた。
鳥は生命の樹。春かなる古代、宇宙の果ての母鳥に産み付けられた卵として、猿だった人類に知性と感情を与えた。この時、青年、集合的無意識も生まれた。
鳥は感情の波動によって温められる。卵が熱という振動によって孵るのと原理的には同じらしい。とてつもない長い歳月を経て、卵は温められ、そして今晩、孵った。
「長かったよ。やっと見送れた」「何故、私を」45億8250回も記憶喪失にして、揺さぶったのか。訊く前に彼は答えた。
「君の感情の波動は強い。昨今稀に見るくらいにね。だから使わせて貰った」「私は貴方に負けたのですか?」この問いに青年は肩をすくめた。
「勝ちも負けも無いさ。僕は人類の無意識だ。つまり、僕はあらゆるヒトなんだよ。もちろん、君でもある。僕と君を隔てる事自体が無意味であり、
この肉体だってただの依り代に過ぎない。それより『名前は思い出せた』かい?」「いいえ」
「だろうね。名前は固体識別番号に過ぎない。鳥の孵化に伴って、全人類が今、同一化している。僕としては構わないけど、どうする?」
「どういう事ですか?」「簡単な事さ。今がチャンスなんだ。鳥は飛び立ったから、もう人類は感情を持つ必要がない。全が一。一が全てとして、
ええと、分かりやすく言うと仏陀レベルの悟りを共有して、人類は行動する。個人という感情は消滅して、全人類が全人類のために最適な行動を取るようになる。
温かい水のように快適な世界が実現するんだ。君の中には45億8250回の悲しい事実があるけれど、次の1回は無くなる。さあ、どうする? 頑張ったご褒美だ。選ばせてあげよう」
「名前を返して下さい。私は私として、闘い続けたいです」「うん、分かった」青年は白い歯を見せて笑った。
気がつくと、夜の道にいた。結婚してしまった元彼のアパートに向かう路である。寂しさを覚えた時、スマホが振動。ラインの通知。元彼からだった。
『離婚した。腹減った。飯食わせてくれ』
思わず踵が地上から数センチ飛び上がった。嬉しい。まだ、私の恋、この闘いは続いているのだ。
『うん、分かった。何が食べたい?』と、震え急く指で、私はメッセージを打った。