>>245
使用お題:『幽霊』『百』『ひみつ道具』『乳酸菌くんの家族』『チューハイ』

【リバー】

深夜一時をまわり、あたりには一片の灯りすらない。真っ黒な川の水面は、一センチ下も見通せない。
河底の岩が大きく盛り上がって、川に起伏が生じている。起伏でカヤックの船体がうねり、揺れと自分の呼吸音のあと、船に打ちつける水音が追ってくる。
パドルを置いてじっとすると、川音が自分の呼吸のずっと近くにあるのが分かる。

カヤックは、もともとシベリア先住民の暮らしの中にあったものだ。アザラシを主食とする彼らは、白人たちの持ち込んだ酒類を飲み過ぎ、大勢がアルコール依存症になってしまった。
このポイントは、漁協の遊魚規則で夜釣りを禁止されている。何せ山奥で人家は遠い。
酎ハイをあおりながら前後不明で、一人で流されるままにしている酔狂な人間は、俺とエスキモーぐらいのものだろう。
不確かな樹葉の影が躍ってみえる。こちらを見下し嗤っている。

ちょうど一年前のこの日に、この船で、この川にいた。
後部座席の娘は、何かのマスコットキャラクターの話を嬉々としていて、俺は調子を合わせて聞いた。
『じゃあ、その乳酸菌くん、家族はいるの?』
『歯周病菌!』とメイは答えた。
『完全に違う菌だろ、それ』
俺は苦笑しながら後方にしゃべりかけた。いつもと違う、持っていかれる操舵の手応えに、気がかりをおぼえていた。
水量の多さに気を付けるべきだった。もっと早くに。
彼女は激しく揺れる黄色の船体に歓声をあげて、パドルを岩にぶつけた。落としたそれを、拾おうとした。

水難事故では、一年に数百人の死者が出ている。
河川で多いのは、突発的な増水を甘く見て、水中の身体をコントロール・アウトさせてしまうことだ。ライフジャケットを着ていても、流れが荒れていると岩で事故が起こる。
彼女へのプレゼントだと秘密にしていたぬいぐるみの熊は、そうやって無駄になった。

いつしか波音に俺の嗚咽が混ざっていて、何やら喚いてもいたらしい。
視界は怪しく、ほどよく酔ったようだ。まともに泳げなくなるぐらいには十分だ。
もう、十分だ。
パドルを放流した。デッキから転げ落ちようと身体を傾けた。
そのとき、船が、自分以外の何かで動いた。
「お父さん」
後部座席から声がして、水の砕ける音が、それをかき消した。

「メイか」俺は尋ねたが、答えはない。
振り返ることができない。
振り返ってしまえば。無くなってしまう気がする。

船が小さい滝を落ち、荒い岩場に入る。操船者を失ったカヤックは、岩盤と衝突し、俺の身体を投げ出そうとする。
船体は転覆し、水中の世界で水を飲む。反転し、空気の世界に戻って空気をすわせる。
岩肌に肩や頭をぶつけ、水の飛沫を浴びては、意識が気を失いかける。
船から落ちないよう、俺の胸をずっと船体に押さえようとする、冷たい手があった。
彼女の手は、川水の冷度に震えていた。柔らかな、小さい手だった。
死者の手に、俺は手のひらをかさね、ずっと何かを叫んだ。
言葉ではない。


気を取り戻すと、朝の川の中だった。船は岸に引っかかって、山の冷気が峻烈にあった。
緑がかった水の濁流が、わきを流れていた。まだ生きているらしい。
息をのむ。後ろの座席を振り返るが、誰もおらず、しばし呆然と見た。
あの子と一緒に、ずっと居てやるつもりだったのに、断られてしまったのか。

ぬいぐるみを空の座席に置き、緑の山を振りあおぐ。
朝の光に貫かれた山は厳しくて、大きく見え、じわりとぼやけた。