降りしきる雪の中、俺は山頂へと続く長い石段をゆっくりと登っていた。
 肌を刺す冷たい風。星明かりすら無い暗闇。雪に埋もれた石段は滑り易く、ともすれば足を取られそうになる。
 目指す奥の院は、この山の上だ。それほど高い山ではないが、麓から山頂までの二千段は運動不足の身にはかなりキツい。くそっ、何でこんなことに……。
 あいつのせいだ。あいつが俺と別れてくれなかったから。
 せっかく重役の娘との縁談が決まったというのに。最初から遊びという約束だったじゃないか。それを急に別れたくないなんて言い出しやがって。その上妊娠しただなんて。
 冗談じゃない、先方に知れたら俺の将来はどうなる。
 思わず首を絞めてしまったのは失敗だったかも知れない。だがやってしまったものは仕方がない。遺体はダンベルと一緒にスーツケースに詰め込んでダムの底だ、当分は見つからないはず。
 このまま最後まで逃げ切れるはずだった。なのに……。
 チラリと後ろを振り返ると、暗闇の中に女の顔が浮かび上がる。
 赤ん坊を抱いたその女は、俺と目が合うとニッと笑った。俺は心臓を掴まれるような恐怖に息を飲み、無言で前を向くと再び頂上を目指した。くそ、まさか亡霊に取りつかれるなんて。
 山門をくぐり、雪を掻き分けながら本堂の裏手に回ると、そこに古びた御堂があった。
 古いだけでなくその形状は実に奇妙だ。真っ直ぐ建っているように見えて傾いているようでもある。その名も田螺堂。ここが俺の目的地だ。
 この堂は中が螺旋状の通路になっている。訪れた者は坂道のような廊下をぐるぐると登って最上階へと向かい、登り切ると今度は反対回りにぐるぐると降りて裏口から外に出る。
 しかも登りと下りは別の道で、途中で人がすれ違うことはない。つまり二重螺旋の構造になっているのだ。
 ここを通る内に、厄や魔を螺旋に絡め捕り祓う、それが田螺堂だ。
 ただ注意しなければならないのは、入り口と出口は決まっていて、これを反対に辿ると魔に取り殺されてしまうということ。
 実はこれと同じ構造の建物は会津にもあるらしい。あちらは栄螺堂といい世界唯一と銘打っているが、唯一どころかこっちの方が先だと、俺は幼い頃から聞かされていた。
 そう、ここは俺の故郷の山だ。
 亡霊が現れたのは、一月前。その時俺は恐怖のあまり泣きながら許しを請うた。だが亡霊は暗く笑うだけで、答えようとはしなかった。
 それからずっとだ。昼も夜も関係なく、振り向くとそこにいた。
 気が狂いそうな日々の中、この堂のことを思い出した。もうこれしかない。そう思ったら矢も楯もたまらず、車を走らせてここへ向かった。

 入り口の前でもう一度振り返ると、女が笑う。くそっ。
 田螺堂の御利益が迷信とは思わない。これが迷信なら亡霊だって迷信だ。だがこいつはここにいる、ならば田螺堂だって本物に違いない。
 だが俺は、入り口の扉を開こうとして愕然とした。鍵が掛かっている!
 しまった。俺は慌てて足元の雪を掻き分け、石を探し当てた。南京錠をガツガツと殴りつけ、なんとか外す。
 中は、僅かな光さえない暗闇。俺はスマホを取り出し、画面のライトで中を照らそうとした。が、寒さでバッテリーがやられたのか電源が入らない。落ち着け、中は一本道だ。迷う心配はない。
 そろそろと中に入り、四つん這いになる。床が傾いている、そうだここを登ればいいんだ。
 何も見えない。何も聞こえない。このまま永遠の闇に囚われてしまいそうな錯覚に怯えながら、震える手足を無理矢理動かす。
 床が平らになっている事に気付いた時、俺は子供のように泣いた。
 よし、出口はもうすぐ。ホッとしながら伸ばした手が空を切る。あっ! と思った時は手遅れだった。俺は三階分の急斜面を転げ落ち、最後は壁にぶち当たって止まった。
 息が、出来ない。体が……。骨が折れたかも知れない。それでも……。
 俺の勝ちだ。扉を探り当て、一気に押し開く!
 動か…ない? かっ、鍵かっ!
「うわあああっ!」
 俺は大声を上げて体当たりした。何度も、何度も。だが固い扉はびくともしない。ちくしょう! ここまで来て!
 どうする、こんな所に閉じ込められたら凍え死んでしまうぞ。こうなったら、引き返して入り口から出るしか。俺は傷だらけの体を動かして、もう一度坂を登った。
「ああ、ここまで来ればもう大丈夫だ。下りは慌てず慎重に行こう」
 そう声に出しながら振り返った俺の前に、満面に歓喜の笑みを浮かべた女の顔があった。
「捕まえたあああ!」
 飛び掛かってきた女と縺れ合ったまま、暗闇の中を転げ落ちて行く。永遠に続く坂道を、どこまでもどこまでも。