これはもはや雪山というより氷山だ。しかも一個の巨大な氷の塊ではなく体と同じ
大きさの無数の氷が積み重なり突兀と聳える厳しい氷山だ。私は氷の冷たさに体温を奪
われて身動き一つ取るのにも難儀している。その上最悪なことに私は素足で
靴をどこで失くしたであろうか。しかしそれよりもっと大事な何かをすでに失
くしてしまっているような気がする。そしてその何かを私は思い出せずにいる。
 折しも山頂付近から血が流れ落ちて来る。死体からの大量出血?とんでもな
い。複数の死体から合流された血の川?とんでもない。それは血の海である、津波である。
山頂付近から波は寄せては返すのでなく徐々に足もとを浸食して来る。足場が
不安定になる、私は血の海に飲み込まれないよう動かない体に何とか鞭打つ。
 まさに死の山だ。ここには私一人しかいない。仲間たちは一体いずこ。そもそも私
に仲間などというものが存在したろうか。もし存在したなら私と同種の彼らにはどの
ような属性が持ち合わされていたのであったか。失った何かを思い出させるため
神は私にこのような雪山の試練を与えたとでもいうのか。
 血の海の浸食からの避難場所を見出したかと思いきや束の間だった。絶望した。次
なる試練は隕石の落下であった。空一面を覆い尽くすような鈍色の、薄く光沢を放ちなが
らその巨大な隕石は山頂付近に落下した。とても立っていられない震動、地響き、そし
て山の形が破壊され雪崩が起きる。体と同じ大きさの氷塊が無数に転げ落ちて来
る。直撃したら即死だ。だが神は私を見放していなかったということか、直撃は免
れた。山頂を見上げる。隕石がめり込んでもう山頂は原形を留めていない。取り敢
えず命があったことに胸を撫で下ろす。しかしどうも様子が変だ。またしても地
響きが起り直後に雪崩が発生した。今度こそ寄せては返す波のように隕石は空へ舞い
戻っていく。その有り様を見た時に一瞬、郷愁が脳裏をよぎらなかったといえば嘘にな
る。しかし感傷に浸っている暇など風前の灯火の私になく波は、隕石はもう一度雪
山へ向かって容赦なく落下して来た。しかもどうやら私の真上に第二波は直撃しそう
な気配だ。とてもよけられそうにない。終わった。
 私が一体何をそんなに悪いことをしただろうか。死ぬ前に神にそれだけは教えてほしい。
思えば平凡な人生だった。結婚することもなく英雄的な仕事を全うせられたわけでもな
く、世のため人のために生きたとはとても言えないかもしれない。しかし平凡とは、
普通とはそんなにいけないことなのだろうか。平凡なら平凡な方がいい。普通
に生きるというのが何よりだ。世の中というのは大恋愛の恋人たちや英雄的な仕事人たち
によって成立しているわけでは必ずしもない。ごく平凡なごく普通の人たちのありふれ
た、何気ない日常生活により成立せられている。少数の天才ではない無数の凡人、
それが一つまた一つ、氷塊のように積み重なり雪山の如くこの世界は全き形成をされ
ている。私の人生ももしかしたら虫けらのようなちっぽけなものであったかもしれない。
しかしそれでも我が人生に一片の後悔もない。
 その時、突然私の背中から翼が生えた。いや違う、これは最初
からそこにあった。私には翼があった。私が忘れていたもの、種の属性とは紛れ
もないこの両翼、つまりは天使ですらあったのだ。隕石が落下して来る。私は翼をは
ばたかせ飛び立つ。隕石の位置より更に高く大空へ舞い上がる。思い出した、
私は選ばれし神の子だった。翼を風になびかせ飛び回れる自由奔放の天使であっ
た。雪山を離れて私は空へ、本来の居場所である光の元へ帰る。しかし忘れてはいけな
い、私は決して光輝の英雄などではない。ありふれた一人の、普通の平凡な人生としてこ
れからも確実に歩んでいこう、そしてそれこそが真に尊いのであると……。

「ちょっと〜ケンちゃん。何一人でぶつぶつさっきから独り言いってんの」
「いや何でも。それより早く食っちまえよ、もたもたしてっと溶けちゃうぜ」
「分かってるわよ。ちょっと〜かき氷にハエが止まってるじゃないの。ケンちゃんそれ
に気づいてたってこと?ちょっと〜罰として私のいちごシロップと交換してよ。ケンち
ゃんのは何のシロップ?」
「俺のはブルーハワイだ。ほれ交換してやる」
「ちょっと〜それくらいで私の機嫌が直ると思わないでよね」
「分かったよ、なら来年の夏には本当にハワイに連れて行ってやる」
「そんなお金がどこにあるのよ。分かった、どうせ格安ツアーか何かなんでしょ」
「それでいいんだ。何気ない普通の、平凡な恋愛が俺たちの幸せなんじゃないか。これか
らも愛してるよ、マリ」