夜明けは遠い。
月の光を浴びて青白く輝く頂きが、満天の星空を背景この世ならぬ荘厳な景色を見せていた。
八千メートルを超える山脈を行く手に控えて、その夜気は一段と凍りつく。
いったいどれほど彷徨ったのか、男が吹雪に道を失って随分経つ。
雪に埋もれた両足はもはや感覚すらなく、体を温めてくれたスキットルも疾うに空だ。
所詮おれには無理だったのだと、何度心のうちで繰り返したことだろう。
いや、実際口に出していたかもしれない。
しかしそれを聞き咎めるものは、おそらくこの数キロ四方にはいない。
三千メートルを超えるコルで、男はただひとりだった。
視界を遮るほどに吹き荒れていた雪が、今は止んで、深い静寂が新雪を圧していた。

ゴータマに憧れ、その智慧と真理の体系の触れたいと願い、霊峰の奥深くに隠遁すると噂に聞く覚者に一目会いたいと全てを投げうって出かけた旅であったが、やはり自分のような俗にまみれた穢者には叶わぬ望みだったのだ。
身の程知らずという自虐の罵りが、今更のように口を突いて出る。
妻と別れ、子を捨て、流離いを気取ってはみたものの、生への未練は絶ち難く、こうして迷道の途上で死の際にありながら尚、自他端と思い悩んでいる。
死こそが、おれの望んだものの正体なのかも知れない、と考えぬでもない。
このまま目を閉じて心地よい眠り身を任せてしまうことが、この恥の多い無意味な生涯にして唯一の正しい選択のように思えてくる。

「おぬし、何を知りたい」
やにわに降ってきた声に、男は心臓をぎゅっと掴まれた思いがした。
声のあたりに人影はみえるが、月を背にしているせいか、その風体はさっぱりわからぬ。
しかしその輪郭は、むかし軸物で見た達磨のようにも思える。
いよいよ死期が迫ったようだ。おれは幻覚を見ているらしいが、話に聞く走馬灯のようには回らぬものなのだなと、妙な笑いがこみ上げる。
垂れた鼻を啜ると、ついでにクシャミが一つ出た。
「おぬし、何を知りたいのかと聞いておるのじゃ。早よ答えんか。わしはおまえほど暇でないのでな」
その声には真理が宿り、声が発する目覚めた響きにより、峰々が震えた。

彼なのか。おれはついに彼に会うことができたのか。
男はしかし、自分が目にしている光景を、自分が耳にした言葉を信ぜずにいた。
これがもし真実ならば、現実ならば、この出会いを予感させるなにかしらの約束があったはずだ。
そうではないか。真理を、神を見出した人々はみな、喜ばしい予兆の末に祝福を得ているではないか。
道に迷い、吹雪に埋まって死を待つしかない此の期に及んで、なぜいきなり彼が現れたのか男には理解できなかった。
これではおれが掴んだ真理を誰にも伝えることができないではないか。

「メンドくさいやっちゃのう。わし、行くで、行ってまうで」
「ま、待ってください」
「なんや、言う気になったか。ほな聞いたるわ。おぬし、何を知りたい」
「宇宙とは何ですか。人はなぜ生きるのですか」
「そんなんでええのんか。わしに聞きたいことてそんなんか」
「私は知りたいのです。宇宙の真理を、人生の意味を」
男が言い終わる前に、影は堪え切れぬように笑い出し、ひとしきり笑った後「こいつ、本でも読んだか」と言い残し、姿を消した。
やがてまた雪が降り出し、それはすぐに吹雪となった。