健司は足を止めて辺りを見渡した。遠くの山から近くの林までずっと白く覆われている。
足元も膝まで積もる雪が、健司が歩いた道を除いては、未踏のまま綺麗に降り積もっていた。晴天に恵まれなければ確実に遭難していたであろう。
「この辺りのはずなんだが……」
 独り言は希望も込めて呟かれた。専らの都会育ちの健司は雪道を歩くことに慣れていない。
足を乗せれば深く埋まり踏み込むともっと沈み込む為、体勢を崩さぬように気を張り続けて歩かねばならない。
まして今は大荷物を背負っている。体力は限界に近かった。
「本当にこの辺りなのか?」
 背中に向けて声をかけたが、当然妻の返事は聞こえてこない。一体どこの世界に遺言を言い直してくれる死体があろうか。健司はもう一度、周囲をつぶさに観察した。
 すると林の向こうで立ちはだかる崖に、縦に裂けるようにして空間があるのに気が付いた。
一縷の望みをかけてそこへ行くと、裂け目の根元に小さな建物が関所のように建っていた。屋根には大きく『氷葬場』と書かれていた。

「本日はようこそいらっしゃいました。道中は大変だったでしょう?」
 黒い礼装の男に連れられて、健司は長い階段を降りていた。雪山を削って作られたであろう階段は人一人がやっと通れるほどの狭さで、両側は岩肌がそのまま露出している。
所々ある裸電球のみが薄暗く足元を照らしている。建物の奥にこんな空間があるとは想像もしなかった。
「おい、本当にここでいいんだよな? 遺体を冷凍保存して弔ってくれる所ってのは」
「はい。氷の棺にてご遺体の姿をそのままに未来へと紡ぐ、『氷葬』を行っているのは当館で間違いありません」
「もっと研究施設みたいな所だと思っていたが案外粗末な所だな」
「一年を通して氷が溶けない環境であれば良いのです。コールドスリープと違って−196℃に保つことも不凍液で遺体を満たす必要も無いですから」
 氷葬場の門を叩いた時に妻の遺体はスタッフへ預けた。遺体のお化粧などで少し時間がかかると言われ、健司は苦笑した。
最期まで化粧で時間を取らせる所が実に彼女らしかった。時間潰しに安置場を見学しませんかと勧められて今に至るわけだが、健司はずっと心ここにあらずだった。
 妻とは居酒屋で出会ったのがきっかけだった。仕事帰りに杯を交わして愚痴を言い合う内に意気投合し、結婚した。
しばらくは自宅での晩酌が楽しみとなったが、それは長く続かなかった。
 ある日、妻が小じわを気にして化粧品にこだわるようになった。気付いた頃には美容院やらエステに通い始め、
アルコールが肌に影響を与えるという噂を恐れてお酒も飲まなくなってしまった。美容体操に勤しむ妻を肴に飲む酒は退屈で、美味くなかった。
そして突然難病にかかるとみるみる衰弱、自宅で息を引き取った。その間際に及んでも『若い姿のまま凍らせてほしい』などと言った時には流石に呆れた。
何故妻はあれほどまでに美に執着しだしたのか、もしや自分の言動が原因か、健司はついに分からなかった。
「さあ、着きましたよ」
 いつしか最下段に着いていた。正面には鉄製の扉。男がゆっくりと開け放った。
「すごい……」
 そんな言葉が健司の口から零れ落ちた。
 安置場と言うくらいだ、てっきり霜の降りた死体が棺桶に入れられ、整然と棚に収められているものだと思っていた。しかし全然違った。
部屋は体育館ほどに広く、直方体の氷の柱がいくつも並んでいる。透明度の高い氷は水銀灯の明かりを遮ることなく通し、向こう側が透けて見えるほどに綺麗だ。
そしてそれぞれの内部には遺体、さながらショーウィンドウに飾られたマネキンのように、皆様々な衣装、ポーズで微笑んでいる。
 言葉を失う健司を見て、男が説明をした。
「氷葬を希望される方はこの世に未練がある人が多いのです。死んでもこの世を楽しみたいという思いから、安置の仕方もこのように多様になるのです」
「未練、か……」
 男は妻の安置の仕方に希望はあるかと聞いてきた。妻の未練は言うまでもない、出来るだけ美しくしてやってくれと伝えた。
そしてふとある考えが頭をよぎり、健司はもう数点の注文を付けた。それはもはや健司自身の未練であり、願いだった。
しかし出会った時のあの日々は妻にとっても楽しいものであったはずだ、そう信じて男に伝えた。
 男は快諾した。

 数十年後、氷葬場に遺体が届けられた。安らかに眠るご老人は、生前の希望通りに楽しそうにグラスを掲げる姿で氷葬された。
 安置場に運ばれるとある女性の遺体の隣にひっつくように設置された。女性はとても美しくメイクされて微笑んでいる。そして彼女の手にもまたグラスが握られていた。
 二人の遺体は晩酌を楽しんでいるように飾られた。