初めて実家に婚約者の明理を招いた日のことだ。
 沖縄で生まれた明理は厚手の服をしっかり着込み、寒い寒いと言いながら、ベッドの上をころころ転がっている。
 俺は笑いながらイーゼルを彼女に向け、立てかけたスケッチブックに鉛筆を走らせていた。
 両親との顔合わせを兼ねた食事を終え自室で明理と二人きり。窓の外は雪が吹き荒れていたが、部屋の中は空調がきいていて暖かい。
 家は隣のスキー場が見渡せる山の中腹にある。俺が28年間生まれ育った家だ。
 美大予備校の講師をしている俺は、高校教師の明理と合コンをきっかけにして知り合い、二年ほど付き合っている。
 結婚したら明理の実家のある沖縄に移り住む予定だ。彼女の家は観光客向けの土産物屋を営んでいたが父親が倒れてしまい、急遽俺たちが結婚してつぐことになったのだ。
 美大予備校の仕事にはそれほど情熱はないし、のんびり土産物屋の親父をやりながら南で絵を描くのも悪くないなあと思いつつ、三十路前の彼女にうまく丸め込まれたような気も少ししていた。
「なあ、明理の家の近くって海があるんだろ? 俺、サーフィンやってみようかな」
「翔には無理だよ。泳げないじゃん」
 童顔に笑みを浮かべながら、明理は大きくベッドの上で伸びをした。
 ファー素材の服を着た彼女は抱きしめたら暖かくて柔らかそうだ。
 なんだかんだ言っても可愛い彼女である。そろそろイチャイチャしようかなと鉛筆を置いて、ふと窓に視線をやった。
「え……? なんだあれ」
 目を見張った。スキー場で女が一人、裸で横たわっていたのだ。あそこは確か立ち入り禁止地域のはずである。
 何を考えてるんだ、頭がおかしいのか。窓に近づくと、女がこちらを振り向いた。
 笑っている? よく見るために冷たい窓ガラスに額をつけると、女は点滅するように透明になってすぐに戻った。やばい、幽霊だと思いぞっとした。ぞっとはしたが目が離せなくなっていた。
 なんて美しい。
 女の体の曲線から生まれた陰影は、ゆるやかに盛り上がった雪の影のように淡い。
 灰味を帯びた雪を浴びる白い肌は柔らかい微光を発していて、絹糸のような黒髪が肌の上で乱れて白さを引き立てている。光沢のない黒い瞳はあてどもなくさまよっていて、そのぼんやりとした様子はたまらなく官能的だった。
 思わずイーゼルをつかむ。ベッドに横たわる明理に背を向けて、スケッチブックとキャンパスを入れ替えた。
「どうしたの、翔?」
 明理の声が遠くなる。指の形にへこんだ使いかけの絵の具チューブをとり、パレットに厚く盛り上げた。
 早く描かないと、女がどこかへ行ってしまう。
 恐ろしいほどの焦燥感につき動かされて、我を忘れて筆を動かした。
 絵筆を動かすたびに、なめらかな肌をなであげる凍てついた風が、女のわずかな血色をひきたてる遠くの青白い連峰が、その場にいないのに関わらず次々と頭に入ってきて、それは俺の筆力では到底追いつけそうにないほどの情報の洪水だった。
「ちっくしょう」
 あまりの指のもどかしさに筆を床に叩きつける。明理の息を飲む声が聞こえた。
 我に返って振り返った。明理は怯えてはいるが口元は緩んでいる。
「あ、あはは……びっくりしたあ。翔、急にどうしたの?」
「ごめん」
「いいよ。早く沖縄に行きたかったんだよね? ふふっ」
 そう言って明理はキャンパスに指を差す。振り返って俺は愕然となった。
 荒々しい筆致で描いた絵はほぼ形をなしていなかった。俺が夢中でとらえようとした女と雪景色は輪郭があいまいで、まるで光の粒子が内側から溢れだしているかのようだ。南の絵に見えたとしても仕方がない。
「……不思議な絵だね。外の絵なのに、閉じこもってる感じっていうか」
 いつの間にか隣に立っていた明理がぽつりとつぶやく。俺も感じていたことをそのまま言い当てられた気がした。
 エネルギーの塊のような絵ではあるが、雪国らしい陰鬱さも同居していて、その二つが絶妙なバランスとなって鳥肌のたつ魅力となっている。これを本当に俺が描いたのだろうか?
「……ごめん。明理。俺、まだ南には行けない」
 窓を見ると、女は今にも消えそうな儚い笑顔で俺を手招きしていた。慌ててコートをひっ掴み、スケッチブックを脇にはさむ。
 あれは幽霊ではないのだろう。消えかけている俺の未知の可能性が女の姿になって現れたに違いない。私は南の太陽に溶かされるようなぬるい男に捕まえられる女ではない、と。
 明理の声をドアを閉めて遮る。雪の女を探し当てるべく、寒風ふきすさぶ中、猛然と一足踏みだした。