山道は閑散としていて人気は無い。俺は前を歩くウィンドブレーカーの背中を追った。長年待ち焦がれた人物に会わせてくれるのだと言う。俺は花束を用意して胸に抱え、ひたすら導かれるままに歩いた。

 しんしんと雪の降る中、私はテントから這い出した。濃い紺色に色を変えつつある空。その中に黒く浮かび上がった周囲の山々が銀色の衣を纏い始める頃
私の中に彼女の笑顔がより鮮明に蘇ってくる。
 こうしてこの山でご来光を拝むようになって今年で20年目になる。人間に合わせてくれない山の都合もあるので20回目ではないが。
「また来年もここで会いませんか」朝日に包まれながらそう言って微笑む彼女の言葉に心がときめいた。山を理解してくれなかった妻と別れた翌年
の大晦日だった。こんな日に家庭人が山なんてありえない。私は家族を失った寂しさと引き換えに山に登る自由を得た。そんな時に彼女に会ったのだ。
 こんな日に自ら山に登る女性なんて。ご来光で有名な富士等ならわかる。女が大晦日に赤岳でテント泊なんて変態もいい所だ。
 彼女21歳大学生、俺27歳サラリーマン。歳は離れていたがその極めて同族の匂いに惹かれた。そして彼女も山を理解してくれない彼氏に浮気を疑われたそうだ。
 売り言葉に買い言葉で逆縁を叩きつけたものの、その時はやはり傷心中だった。父が山家で当たり前のように登山を覚えた。その当たり前の事を理解されない寂しさ。自分を否定されたような口惜しさに涙をこぼしたそうだ。
 俺のテントに何の警戒心もなく入ってきた彼女はそう語った。俺がマヨネーズの容器に詰めて持ってきたウォッカを、雪で割ってちびりちびりと飲んでいた彼女は、思い出したように涙を浮かべつつ指で拭った。
 ナンパなんてする度胸もない俺が、恐ろしいほど自然に彼女の手を握ると、彼女は目で応えた。俺が手をついて彼女の横にゆっくりと移動して寸前で体を止めると、彼女は寄りかかってきた。

 突き刺すような冷気で俺の背中は氷のようだった。
 しかし抱いている彼女は焼け石のように熱かった。冷たい頬に彼女の火炎放射のような息がほほにかかる。彼女が大きくのけ反って悲鳴のような声を上げた時、俺の頭も白くなり、この冬の山々に溶け込んで行くようだった。
 再開の約束をまるっきり信じた訳ではない。彼氏に振られた寂しさを、偶然出会ったしがないサラリーマンぶつけただけなのかもしれない。今はもう結婚して山に登る事もできず、幸せな家庭に納まっているのかもしれない。
 しかし俺は一縷の希望を諦めきれなかった。もう日が昇る。「いよいよ昇りますね」不意に聞こえた声にドキリとして横を振り返ると、女性の影が見える。驚いて回りを見回すと、いつ設営したのか少し離れた所にテントがある。
 俺はまさかと思って彼女を凝視したが、顔がよくわからない。俺の胸は期待に膨らんだが、何かおかしい。あれから20年。彼女であれば41になっているはずだ。声があまりにもあどけなさすぎる。「え、ええそうですね」
 隣の峰が陽をこぼし始めると。女性が俺の前に回った。太陽が昇って輝きを増す。俺の顔を凝視しているようだが、俺からは彼女の顔はわからない。
「田中さんですよね?」名前を言い当てられてさらにわけがわからなくなった。「泣きボクロ」そう言いながら俺の横に立った彼女の顔を見る。俺の心臓は口から飛び出さんばかりだった。「ま……さか……カナさん?」そう言うと
彼女はそれまでの笑顔を消した。前に向き直った彼女が朝日を眺めながら薄く微笑んで言った。「彼女は亡くなりました」絶句した。展開に頭がついていかない。カナさんそっくりの女性。そして彼女の知っている事。
「彼女は20年前に妊娠が発覚しましたが、検査で子宮頸癌が見つかったんです」頭の中がパニックで何がなにやらわからない俺に彼女はさらに言った。「お母さんは治療は受けない、この子を産むと言って私を産んでくれました」
 頭の隅に何かがひっかかた。そのひっかかりが何かを解決しようとしたが、他の情報が邪魔してなかなか考えが纏まらない。そんな俺の心情を察したかのように彼女はまた俺の前に回った。日は完全に昇った。
「き……君は一体」「初めまして、睦月といいます、お父さん」

 1時間ほど歩いてついた山麓の小さな平場。そこに大山加奈の墓はあった。石で積んだ小さな小山の上に三角点のような石柱が立っている。俺は涙を止める事ができないまま花を供えると、手を合わせた。
「なんてこった……」西を向いたその墓は、遠く赤岳を望むように立っていた。俺は合わせていた手を下ろして震えた。「なんて事だ、毎年あなたに会っていたなんて……」睦月が横にしゃがんで俺の肩を抱いた。
「お父さん、今度は一緒に行こうね」俺は肩にかけられた手に手を重ねた。