思いがけぬ雪は、やむことなく行く手に降りつづけた。ただでさえ険しい山道は、つづく雪に覆われ見えなくなってゆく。このままでは山越えは難しいとみえた。
岡総一郎は、幹まわり二十尺ほどもある杉の大木までなんとか辿り着くと、その根元にあいている穴に入りこんだ。杉はたいそう古く、長年の歳月を経てなかは朽ち果て、大きな空洞となっていた。
そのなかで雪にまみれた笠と蓑をぬぐと、総一郎は枯葉の厚くつもる地面に腰をおとした。
――――この穴は幼いときと、ほとんど変わってはいない。
脳裏に、無邪気に笑っていた十才の八重の顔が浮かぶ。この一畳半ほどの広さの洞で、十二才だった総一郎は幼なじみの八重とふたりでにわか雨を凌いだ。
隣家の長女である八重は、郷にかえった乳母逢いたさに、総一郎に乳母のもとへと連れていってくれと頼んだのだ。むろん親には内緒ででかけたふたりであった
けもの道のような山筋で急な雨に降られ、たまたま近くにあったこの樹の洞に逃げこんだ。
だが、乳母の家から戻るとこっぴどく叱られ、その後ふたりは話すことも禁じられてしまった。
あれから、七年。 総一郎と時折り思いがけず顔をあわせると、白い頬を赤くしてうつむく年頃の八重であった。

――――その八重の父を暗殺せよというのか。
昨夜、藩の家老荒木助蔵の屋敷に呼び出された総一郎は、八重の父である里田右衛門が藩の金を横領していると聞かされた。他にもさまざまな悪行を並べ立てられたが、内心、総一郎がそれを信じるはずもない。
清貧に甘んじる謹厳実直な里田を、幼い頃から目にしてきてよくわかっていた。荒木のまったくの私怨であろうことは目に見えている。
父母を病で亡くしたひとり身であり、城下の剣術道場で腕の立つ総一郎は暗殺の駒としてはもってこいということであろう。世情騒がしく家中でも内紛の動きがあることを感じてはいたが、このような形で己に降りかかろうとはと、総一郎は思った。
荒木を偽るため一旦は引き受けたものの、その足で里田の家に向かうとすべてを打ち明けた。
旅支度をととのえると、夜も開けぬうちに総一郎は出奔したのである。

――――おれは、もう戻れぬのか。
荒木の一派に命を狙われるのは無論、それよりも総一郎の心を刺すなにかがあった。
そのときである。洞のなかにひびく風雪の音とはあきらかに異なるものが聞こえた。
同時に総一郎は片膝を立て刀に手をかけると、静かに鯉口を切った。
洞の口をかかんで人が入ってくる。
「総一郎さま……」
それは、八重であった。
真っ白になった頭巾をとり全身の雪をはらうと、どこかでかいだ花のような匂いがする。
「八重っ。なぜここに。こんな雪山のなかを」
「父からすべて聞きました。このまま総一郎さまにお会いできないのでは思うと、いてもたってもいられず……。父も許してくれました。岡殿ならば大丈夫だと申しておりました」「こたびのこと、大目付に訴えるゆえ、しばし堪えろとも」
「なぜこの山道をゆくとわかったのだ」
「わかりません。けれど、足がこちらにしか向かなかったのです。そして、総一郎さまはいてくださった。この懐かしい木の洞に……」
総一郎も同じであった。自然とこの道を選んでいたのだ。

「あの日、親に叱られたとき、総一郎さまはおれが八重を勝手に連れ出したのだと、最後までわたくしをかばってくださいました。八重は……」
八重は唇をふるわせると言葉を切ったが、そのあとが総一郎にはわかるような気がした。
さっきまで心を刺していた痛みが、いまは雲散霧消していた。痛みは八重のことであったのだ。

見ると、八重の手指は雪道を来た寒さで紫色であった。身体も小刻みにふるわせている。
総一郎は冷えきった八重の手をとると、抱き寄せた。その小柄な身体におのが羽織をかける。初めてふれる八重であった。
白くなめらかな頬が総一郎の胸にそっとふれる。
八重の顔が耳まで赤くなるのが、薄暗がりのなかでも見てとれた。総一郎の心にも赤々とした熱いものが広がってゆく。

「雪がおさまったら山を越える。しばらく休むがよい」
心の臓が伝わるほど鳴りひびき、細い身体に力が入っていた八重であったが、よほど疲れていたのであろう。ほどなくして小さな寝息をたてはじめた。
それを聞きながら総一郎もしばし目を閉じると、去来するものがある。

総一郎は、おのが心のなかに剣を八双に構える自分自身の姿を見た。
八重を守って立つ姿が。
それは、剣術の道場に立つよりも研ぎ澄まされ、たぎるなにかを背負っていた。

いつのまにか雪はなりをひそめ、重い雲が細くきれたあたりに深い青がのぞいていた。
幕末維新となる、少しまえのことであった。