千住加奈子との逢瀬の翌日、七尾浩太が朝のゴミだしで、袋からはみ出た指を発見した時、
彼は呆気にとられてしばらくカーゴの前に立ち尽くし、
集積所から立つむわっとした生ゴミの臭気だけが、目覚めはじめた都市の喧騒のなかを
鼻にのぼった。

浩太は34歳である。大学を卒業してから勤めた信金は勤続12年。大学の同期でテニスサークル仲間だった
妻の裕香とは結婚12年目だ。
これまでいくつものきわどい状態を、公私ともに迎え、乗り越えてきた浩太は、この朝、新たなる危機を迎えた。


「今日残業だから芽衣の迎え、よろしくね」
浩太の逡巡の中の妻は、たたきで彼に背を向け、靴べら片手に膝を曲げ腰をかがめてそう言った。
そのまま夫を振り返ることなく玄関扉の向うに消えていった。

声色に特段変わったものは感じられなかったのも、浩太にとってはいつも通りだ。

芽衣は小学5年生。不登校児であり、現在は横浜在住の裕香の親元に預けられているが、週末には帰ってくるという
サイクルを送っている。

つまりその朝は、何も変わった事の無い朝であった。
ゴミをまとめるのは裕香であり、出すのは浩太。娘の芽衣を迎えに行くのは残業の予定の無い
方が担当をする。浩太の中では完璧な役割分担だった。

昨夜、浩太が加奈子とした浮気もばれてはいないはずだった。もし裕香が勘づいたとしても、そもそも
気にするような彼女ではない。

では何故、たたきにまとめられていて、浩太が集積所に運び、放ったゴミ袋から、人の指が出て
くるのか。裕香が誰かを加害して指を切断、ゴミ袋に入れたのか。

それともサイコパスなどこぞの誰かが、朝の七尾邸に侵入し、ゴミ袋にこっそりと指を紛れ込ませた
のか。

現実性は低いが、後者だと浩太は思った。彼はゴミ袋に屈み、手を伸ばして指を包むように掴む。
ぐにゃりとした感覚。妙にざらざらとしているのは切断面だろう。

浩太は指をそのまま背広の裏ポケットにしまいこむついでにハンカチを取り出し、両手をもむように
して拭いてから、カーゴを閉じた。
それからバス停に向かって歩き始めつつ、腕時計で時刻を確認。バスの時間が迫っていた。
もし、何らかの事件に巻き込まれつつあるとしても……。
遅刻するわけにはいかない、と浩太は考えていた。なんせ、今日は芽衣が帰ってくる日なのだ。
職場には残業ができないと、彼は伝えていた。
その上、事件に巻き込まれて遅刻など、もっての他である。査定に響くからだ。