ミューズ猫

 いつもより水の音が大きく聴こえる日だった。宿を出て露地に入り込み、かなり河から離れ
たと思われる場所になっても、その、耳鳴りに似た水の音はしつこいくらいかおりの耳にこび
りついたまま離れなかった。
 耳鳴りに半分心奪われたままかおりは、今朝見たあの死体のせいかもしれない、と思ってみ
る。
 今朝、坂倉と二人で乗った観光用の小舟の上から見たその死体はまだあまり水を吸ってはい
ないようでそんなに膨れてはいなかったが、それでももうかなり、人間でないと思えるほど容
積を増していて、妙な存在感を持った物体だった。
 そういった死体は、河を眺めてさえいれば一日に何度か上流から流れてくるものだから、河
に浮かんだ死体を見る事に対して、自分はもうすでに免疫が出来てはいるはずで、そう驚くこ
とはないはずだ、とかおりは思う。
 そう考えてみると、手の届きそうなほどの至近距離から見た、今朝の、あの死体だけが自分
にとって何か特別な死体のような気がした。
 左足の小指に、いわくいいがたい冷たい感触を感じて、かおりは足を止め、自分の左足を見
た。
 かおりの左足は露地に数多く落ちている牛糞のひとつに接触してしまっていた。かおりは少
しだけその、嫌らしい感触の排泄物を嫌悪し、憎んだが、接触した部分が小指だけだったこと
を思ってじきに安堵した。
 洗い流す水も近くに見つかりそうにないし、乾けば吹き出物が落ちるように剥離しぽろりと
落ちるだろうと思い、再び歩き始める。まだ、水の音は大きくかおりの耳に響き続けていた。

 寛之の宿に行き、受付の男に挨拶して、勝手に寛之の部屋へ行く。扉には鍵がかかっていた。
かおりは時計を見る。午前八時四十四分。おそらく食事にでも出たのだろうと思い、受付の前
の椅子に座って待つことにした。本でも読んで待っていようと文庫本を開いた途端、
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