五年前に書いた「春の闇」のお題の作品がこれ!(`・ω・´) 賛否両論の一作!

 最寄りの駅は山を越えた先にある。健脚を誇る者でも通える距離ではない。朝と晩だけに張り切るバスが乗客を揺さぶって駅まで運んでいた。
 それが十年くらい前の話である。地元の若くて野心的な町会議員が中央に華々しくデビューを果たした。途端に辺鄙な町に高速道路がやってきた。
 開発に邪魔な山は根元からぶった切られ、駅まで引っ張り込んだ。町全体に恵みの雨が降り注ぎ、筍のように商業施設がぼこぼこと誕生した。
 その怒涛の展開に金山家も巻き込まれた。居丈高なマンションが四方から押し寄せる。百坪の土地が半分に思えるくらいの圧迫感の中、丸っこい老婆がポケットのあるカーディガンを羽織って縁側に座っていた。
 春の柔らかい陽光に照らされて目を細めている。
「ババアは楽でいいよなー」
 口の悪い息子の嫁が縁側の方向を睨みながら掃除機を掛けていた。小豆色の日本家具にノズルの先端をガツガツと当てる。老婆は庭にある小さな池の辺りに目を向けて、あー、と間延びした声を出した。
 嫁の眉間に亀裂のような皺が入る。掃除機の扱いが悪化して派手な音を連続で立てた。そこに老婆の脱力した合いの手が混ざる。

 あー、ガツガツ、ガッシャーン、あーあー、ドカドカ、ガッシャーン、あー、ガツガツ、ドッカン、あーあーあー。

「微妙に合わせてくるんじゃねぇよ!」
 老婆は丸い背中のままで庭を見ていた。嫁は射殺すような視線を緩めて鼻で笑う。
「まー、そこまでボケりゃ、言葉なんか意味ねーよな」
 半ば落とすようにしてノズルを手放した。嫁は老婆の元に大股で歩いて真横に立った。
「でもな、私は言霊の力ってもんを信じてんだよ。アンタの寿命のロウソクを全力で扇いでんだから、少しは応えろよな。すぐとは言わないさ。私も鬼じゃないんで一年以内に頼むわ」
 あー、と老婆は返した。嫁の片頬が不自然に引きつく。エプロンのポケットから文庫サイズの本を取り出した。表紙のタイトルに『とっても簡単心理学』と丸文字で印刷されていた。
「最近の私って、この手の心理学にハマってるんだけど、これが実に良いんだよねー」
 陽だまりで微睡む猫のような老婆に嫁が顔を寄せる。双眸に明らかな殺意を込めて言った。
「専門用語ってヤツにアファメーションってのがあって、言葉で自分を励ましてその通りになっちゃうみたいな。これって言霊なわけよ。
 有名な学者に証明されてんのよ。言葉の力でアンタをぶちのめし、ここの土地を売り払って私は大金持ちになるんだ」
 自分の言葉に興奮して鼻息が荒くなる。溜まっていたものを吐き出した効果で冷静にもなれた。嫁は踵を返して掃除機へと向かう。
「ん、なんの音だ?」
 微かな異音に振り返る。春の暖かい風を顔に受けると凄まじい形相で鼻を摘まんだ。
「ババア、屁をぶっ放しやがったな」
 言葉や表情が無くても人は気持ちを伝えることができる。老婆は実践して見せた。

 ぶぶ、ぶぶび、ぶりゅぶ、ぶりゅぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。

 老婆の臀部に薄茶色の染みが瞬く間に広がり、許容量を超えたものが床に溢れ出した。
「な、な、なに漏らしてやがんだ。ふ、ふざけんなよ」
 春の風は毒だった。嫁の顔は赤を通り越してやや黒い。たじろぎながらも立ち向かう。
「このクソババア、それ以上はやめろ! バケツと雑巾を用意するまで、ちょっと止めとけ! わかってんのか、クソババア!」
 急ぐ足を掃除機のノズルが引っ掛けた。嫁は柱の角に額をぶつけて涙目になった。一蹴りの報復で奥へと走る。
 残された老婆は、ヒヒ、と奇妙な声を出した。カーディガンのポケットから文庫サイズの本を取り出した。タイトルには『超実践、応用の心理学』とあった。
「アンタの生活、楽じゃないよ」
 ヒヒヒヒ、と陰湿な声で嗤った。

 金山春の闇は深い。