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お題:『了解です』『蛾』『令和』『万世元年』


【万世元年】

『――ってわけだから、悪いけどよろしく頼むわ、佐々木』

 そして。鼓膜に、前触れもなく聞き慣れた上司の声が訪れる。
 それは狼狽すべき異常な出来事で、実際に一度目はそうなり、二度目は困惑し、三度目は――どうだったか。
 もはやその記憶さえも遠い彼方へと忘れ去ってしまった。そうでもなければ、とても正気を保つことなどできはしない。

 けれどもちろん、私の正気を証明するものなど、言うまでもなく世界中のどこにもないのだが。

 佐々木。
 佐々木涼。それが、意味を喪失しかけた私の名前だ。
 今回もまだ、きちんと、覚えている。

「――了解です」

 自分の物ではないかのような自動化された声が、喉を通ってスマートフォンの先の上司へと伝えられる。
 実際に、これはもう自分の意思とは関係がない。どうやらそう答えるという電気信号は脳から送られてしまった後であり、だから抵抗などしても意味はないのだ。どうでもいいことだが。
 そこから一言二言挨拶があって、電話は切れる。

 ここまでが、ルーチンワークだ。
 数えることさえとうに諦めた、何万度目かもわからない一年の始まりの。

 用件の済んだスマートフォンをスーツの懐に仕舞い、都内の喧騒に紛れる路上で青空を見上げる。
 整然と区画整備された大通りの、ビル街。歩き行くのは自分と同じスーツ姿の営業マンや、OL、学生、老人に、その他の「何をしているのかわからなかった」人々。
 平日の昼過ぎ。令和元年五月二十四日、午後十二時四十八分。
 東京都千代田区麹町、三丁目二-五。スターバックス麹町店の、その目の前。
 そこが、すっかり文字列まで暗記してしまった、スタート地点だ。

 街路樹の一本に、今回もいつも通り蛾がとまっている。その毒々しい色彩は、都内では比較的珍しい。
 何故都内には蛾をあまり見かけないのか。私自身の勘違いなのか、それとも駆除が水面下では着々と行われているのか。
 どれだけ前かもわからない周回の際に思いつき、それ以来ずっと気がかりな、くだらない疑問。

 けれどそれは、絶対に調べることはしないと心に決めていた。
 何もかもを知ってしまうことは、避ける。守ろうが守るまいが、誰も困らない自分だけのルール。
 だがそれらを一つ一つ守ることが、今の私にとっては何よりも重要なことなのだ。

「さて、今回はどうしようかな……」

 誰に聞かれることもない呟きを漏らす。
 脳内で適当に考えを纏め、ストックしておいた『アイデア』の一つを選んで決める。

「あっ!」

 そして、手近な横断歩道を渡りきった場所で、小さな悲鳴が聞こえた。
 段差につまずいた拍子に、女子高生がポケットの中からスマートフォンを落としてしまったのだ。