昔、先代の大巫女から聞いた。『人の子の願いを聞き届けられた神様は、奇跡を施し下さるのですよ』と。
 ……奇跡は、まだ起きない。

 今日は三月三日。私の十三回目の誕生日。でも、例年の誕生日とは明らかな違いがあった。
 窓の外を見る。視線の先に広がるは、一面の銀世界。全てを雪の白さが覆い隠していた。この国で、三月にもなって雪が残っていたことなど記憶にない。
「大巫女様、食糧がもう……」
 背後から侍女が報告する。
「底を尽きそう?」「はい」「更に食事量を切り詰めて。特に私の分をね。私は子供だから、さほど量はいらな…コンコホン!」
 言葉の途中で咳が出た。
「そんな! どうかご自愛下さい! 只でさえ風邪を引かれておいでなのに。民の願いを神へと届けて下さる大巫女様には…『いいから! 命令に従いなさい!』」
 侍女を咎めると、窓辺を離れ私室に戻る。寝台で横になった。少しでも体力を温存する必要がある。雪解けまで凌ぐ為に。
 布団の中で一人呟く。
「……願いを届ける? 一体どうやってよ?」 

 昨年は冷夏だった。実りの秋は瞬く間に過ぎ去り、十月末には初雪が降った。異常気象だ。そうして長い冬が訪れた。
 乏しかった冬の蓄えは、冬の始まりから切り詰めて切り詰めて、それでももう持たない。村々では、餓死者が何人も出ていると聞く。
 人々は最早祈るしか出来なかった。……いるかどうかも定かでない神とやらに。
 私は頭を振る。丁度その時、戸を叩く音がした。
「何かしら?」「民たちが社に押し寄せています。大巫女様に面会したいと」「……分かりました」
 食糧を乞いに来たか、それとも、神の奇跡を引き出せぬ私を糾弾しに来たか。
 重い足取りで向かった先には、民たちが頭を垂れて待っていた。籠に入れた雑多な食材を捧げ持ちつつ。
「大巫女様が臥せっておいでと聞きました。尊い御身です。どうか、これらで滋養をお摂り下さい」
 痩せこけた男が、代表して口上した。
 ――止めてよ! そう叫び出したかったけれど、ぐっと堪える。
 彼らの唯一の希望の拠り所を、他でもない私が否定するわけにもいかない。
「ありがとう。貴方たちに、神の恩寵があらんことを」
 何て空疎な言葉。それを嬉しそうに聞く民たちを見るのが、辛い。
 
 その日の晩は、ここ数日で一番の量の夕食が出た。
 民たちのなけなしの食糧を掠め取ったそれらの味は、まるで砂を食んだかのようだった。
 食事を終えると、逃げるように私室に戻る。
『神よ、神よ、本当におわすなら、どうか、どうか、どうか……!』
 繰り返し続けた言葉を、また念じながら寝台で瞼を閉じた。
 
 ――暖かい? 疑問と共に瞼を開き顔を持ち上げる。不思議なことに、私は花畑の中寝そべっていた。
「いつも惑う」
 いつの間にか、傍に青年が座っている。その顔は苦渋に満ちていた。
「大昔のことだ。私は事あるごとに、人の子らに救いの手を差し伸べた。が、次第に人々は怠惰になった。何かあっても、私が救ってくれると」
 青年は独白を続ける。
「私は、ここぞという時にのみ救いの手を伸ばすことにした。が、ここぞという時とはいつか? どれほど犠牲が出た段階だ? それとも、犠牲が出る直前なのか? ……分からない」
 青年の体は震えている。拳を強く握り締めていた。私はその場で額ずく。
「民たちは過酷な冬に限界まで苦しんでいます。今、救いの御手を差し伸べられても、誰も思い違いをしないでしょう。もしも思い違いをする者が出ても、大巫女である私が正して見せます。どうか、民をお救い下さい」
「そうか。……そうだね。お前はもうお戻り」
 私の頭に御手が触れた。

「ん。今の夢は、それに……」
 布団を捲る。肌寒さをさほど感じない。
 まさか、という思いに駆られて、寝台を抜け出すと裸足のまま駆け出す。窓を開いた。ぶわっと、強い風が吹き込む。だけど、身を切るような冷たい風ではない。包み込むような温かい風であった。
「あ、ああ……」
 視界に飛び込んだのは、白。しかし、雪の純白ではない。淡く色づいたそれは、桜吹雪。信じられないことに、昨日まで蕾だった桜の花々が、全て満開になっている。
 呆然と立ち尽くしていると、家に籠っていた民たちが、次から次へと外に飛び出していく。
 痩せこけた体。しかし、その顔は喜色に溢れている。
「奇跡だ!」「春が来た!」「万歳! 万歳!」
 祭りのような陽気な声。民たちは歌い、踊り出す。その姿が滲む。温かいものが溢れ出すのを、止められなかった。
「ありが…ッ、ありがとう…ございます。ありがとうございます」
 私は深々と頭を垂れた。