>>681つづき

   ガソリン自動車を電気自動車に“取り換える”ことはできても、ガソリン自動車と電気自動車の両方持ちまではできません。“電気自動車を持つことがステータスだ”という信念の元、電磁自動車の流通を世界中の企業が進めようとしていますが、やっていることって、“生活モデルの見取り図”の販売であって、“生活モデル”そのものでもなければ、“生活”でもないわけです。
   というか、日本に至っては自動車社会ではないという事実があるわけで、ここで電気自動車を導入することのメリットがないわけですね。家庭用自動車であれば電気自動車に取り換えることをステータスといえるかもしれませんが、トラックを電気自動車に替えて[つまり電動式トラックに替えて]社会を回せるのか? と言ったときに、実はそのことについて誰も論じていないという事実があるのです。つまり、心の奥底でトラックの電動化について“無理”と考えているわけですね。積載量に対して運搬に必要な電力賄えないわけです。というか、エネルギー効率って100%は不可能であるという物理学の命題があるなかで、石油エネルギー→電力→電気自動車の動力という変換はエネルギー効率が悪すぎます。これで経済を回そうとするのは限界があるでしょうね。

   つまり、ここで話のすり替えが起きてるんです。GDPの問題がいつの間にか“環境に優しい=文明的”という等式に変わっているのです。

   これはヨーロッパ文明特有の話のすり替えですね。“ヨーロッパが文明的である”という命題を維持するために、“何をもって文明的であるか”という定義をヨーロッパが規定しちゃっている。ヨーロッパが負けそうになると定義がころころ変わる。オリンピックの競技種目とかそのルールが典型的にそうですが、ヨーロッパ強いとなる様にルールをころころ変えたり競技をころころ廃止したりするわけですよね。
   だから、中国がGDP世界一位になる段階で、恐らくGDPを国際比較の指標には使わなくなります。欧米が勝つような指標づくりに組み替える。例えば環境指標みたいなのを突然作ってみたりとかです。

   むしろ、頭打ちと認識して、権利関係の確保の方に回らないとゼロサムゲームに勝てないというのが懸念ですね。もう新しい物質的生産物というのは供給不可能です。だからIT化という分配効率型に移ったのです。生産効率はもう頭うちなんです。

   だから、文明レベルというのはどうなっているかというと、生産効率ベースではまず上がりません。むしろ干ばつとか起きてるのでかえって落ちるでしょうね。
   分配効率ベースで考えるとむしろこれから先下がるでしょう。というのも、“経済よりも環境”と言うことで経済性について放棄しようという流れを作ろうとしている。だから、経済効率の悪くなる分配“規範”を作ることに専念する。むしろ分配効率が悪そうなものを持つことがステータスになるような“規範”を作って、それが文明的であると主張する訳です。それがヨーロッパの流れ。逆に中国はそれをガン無視して分配効率性を上がる社会システムを作って「我々は文明的である」と主張しているわけですよね。
   ですが、分配効率性って、実は第三次産業従事者のためのものであって、農業・工業従事者のためのものではないわけです。つまり、搾取・収奪システムをより効率的にしているだけ。都会暮らしの人たちが贅沢できている状態を“文明的”と主張しているに過ぎない。中国も確かに北京や上海は文明的ですが、じゃあ内陸はどうなっているかというと、悲惨なわけですよ。