四畳半の下宿で寝転がる。天井の染みを見るともなしに見る。暇であった。
 さて、寝るまでの時間をどう潰すかと思案していると『おーい』と呼ばわる声が聞こえる。
 初め、それが私を呼んでいる声だと気付かなかった。しかし二度、三度と繰り返される内に、どうやら聞き覚えのある声だと気付き、私は身を起こした。
 蝶番の錆びた窓を、ギィ、ギィと鳴らしながら開ける。下を覗き見ると、見上げる先輩の顔があった。
「急にどうしたんです?」尋ねると、先輩は「一寸散歩をしよう」と言う。
 はて、先輩に散歩に誘われたことなんてあったかしら? と訝しく感ぜられたが、丁度暇を持て余していたのだと思い出す。
 帯の間に包んだ時計を取り出すと、時間は七時前。まだ宵の口。小一時間程度、散歩に付き合っても構うまい。
「待っていて下さい」
 窓から首を引っ込めると、袴の上に羽織を羽織ろうとして眉を顰める。そうだ、羽織は先日、生垣に引っかけて袖が破れてしまったのだ。
 もう春とはいえ、朝夕は冷えるが。……一寸散歩するだけならよかろう。私は四畳半の部屋を飛び出し、薄汚れた狭苦しい階段を下り、先輩の前に出る。
「やあ、悪いね、急に誘って」
「暇だったから構いやしませんが。しかし、どうしたんです?」
 私はまた尋ねる。先輩は「花時分だから」ともごもご口にした。「はあ」と要領を得ないまま生返事する。
 先輩が先に歩き出す。私も追いかけて歩き出し、通りに出る頃に横に並んだ。
 通りに出ると、道脇にぽつぽつと桜の樹が立っている。
「六分咲、いや、七分咲かな? 満開にはもう幾日かかかりそうですね」
「ああ。でも綺麗だよ」
 確かに綺麗だ。花の下散歩するのも悪くない。見上げれば、桃色の花弁だけでなく、黄金色の月まで見られるのだから、悪いわけがない。
 漫然と歩いているだけでも心和やかにさせられる。暫く互いに無言で歩いていたが、先輩が不意に口を開く。
「君、喉は渇かないか? どれ、麦酒でも奢ってあげよう」
 いよいよ可笑しい。吝嗇で有名な先輩が麦酒を奢る? 私は半目で先輩を見た。
「どうしたんです?」三度目の問いだ。先輩は観念したのか「相談がある」と白状した。
「金は貸しませんよ」いや、断るより先に逃げ出すべきかと重心をやや下げる。
「待て、待て! 君に迷惑を掛けるような相談じゃない!」

 麦酒を呷って口を開く。
「つまり、先輩が懸想してる女人への贈り物を一緒に考えて欲しい、と」
 私が確認すると、先輩は「ああ」と気恥ずかしそうに頷く。云々と私は唸った。
「どうして私なんぞに尋ねるんです?」
 自慢ではないが、私は色恋のあれこれとはとんと縁がない。むしろ先輩の方が異性と仲良くしているのをよく見かける。
 その辺の疑問をぶつけてみると、先輩は首を横に振る。
「友人付き合いは多いが、恋仲になった人は一人もいやしない。これが好いた女に贈る初めての贈り物なんだ」
 成る程、初めての贈り物か。それなら何を贈ればいいか悩んでも可笑しくあるまい。だが。
「やはり、私から役立つ答えなんぞ出やしないと思いますが」「何、難しく考えなくてもいい」
 先輩は顎髭を撫でる。
「参考にする程度さ。君が責任を感じることじゃない。気軽に提案してくれ」「はあ」
 先輩は身を乗り出す。「例えばだ。君は来月誕生日だろう? 何を贈られたら嬉しい?」「男と女では、贈られて嬉しいものも違うでしょう」「まあまあ、試しに言ってごらんよ」
 先輩がしつこく尋ねて来るので頭を捻る。あっと、下宿を出る時の事を思い出した。
「羽織の袖を破いちまって。新しい羽織を贈ってもらえれば嬉しいですね」
「成る程、身に着けるものか。服飾は、贈り物の定番かもしらん」
「先輩気を付けて下さいよ。恋仲になっていない女人に宝飾の類を贈ると、怖がられそうですよ」
「そうだな。しかし、洒落た簪の一つくらいなら問題なかろう」「はあ、かもしれません」
 先輩は生返事が気に食わなかったか、もう聞くべきことは聞いたと判断したのか「さあ、深酒は良くない。君はもう帰り給え」と私を露骨に追い出しにかかる。
 二杯もただ酒を飲めたのだ。文句を言う筋合いでもなかろうと、私は大人しく席を立った。

 後輩の坂田が店を出て行くと、私の傍に女給の良子さんが近付く。
「聞こえたかい、良子さん。彼は、破れた羽織の代わりが欲しいそうだよ。洒落たものを見繕えばどうかな」
 そう言ってやると、良子さんは二度、三度頭を下げる。
「しかし、縁結びの真似事をするのも初めてだ。上手くいくことを願ってやまんよ」
 私は残った麦酒を一息に飲み干した。