「ワインを持ってきたよ、赤で良かったよね」
 男が声を掛けるが、女は返事をすることなく部屋の壁――否、そこに掛けられた数点の絵画を凝視していた。
 男はやれやれと肩を竦める。
「そんな絵の何がいいのやら」
 女はようやく振り向く。
「そんな絵? とんでもない! これらは人類の宝よ。……ドガ、モネ、ルノワールに、ピカソまで。いずれも真作。惚れ惚れするわ」
 うっとりした口調に、男は苦笑する。
「止めてくれよ、エリス。まるで死んだ父が戻って来たかのようだ」
「ジャンのお父さま――高名な美術品蒐集家のドミニク氏ね。残念だわ。ご存命なら、きっと話が合ったでしょうに」
 ジャンは、グラス二つにワインを注ぎながら頷く。
「だろうね。きっと僕を置いてけぼりに、二人で盛り上がったろうさ。いや、三人かな? 母も父の遺したこれらの絵を大切にしていてね。手放すのを決して許して下さらない」
「賢明なお母さまに感謝ね。そのお陰で、これらの名画をじっくりと鑑賞できるのですもの」
「はいはい、どうせ僕は、芸術の何たるかを分からぬ詰まらない男ですとも」
 ジャンは片方のグラスをエリスに手渡すと、ソファに腰掛ける。
「あら、そんな拗ねた言い方しないでよ」
 エリスは、ジャンの隣に腰掛けた。
「確かに芸術談議ができないのは残念だけど……。それ以外では、あなたは素敵な男よ。ハンサムだし、仕事もできる。何より、彼女である私を大切にしてくれる。最高の彼氏よ」
「本当にそう思ってる?」
「勿論」
 エリスは自分のグラスをサイドテーブルに置くと、潤んだ瞳でジャンの顔を見詰める。頬に手を添え、熱烈な口付けをした。
 二度、三度角度を変え、唇を重ねること十秒余り。貪るような口付けを終えると、エリスはジャンの体にしなだれかかる。
 ジャンは口紅の付いた口角を上げる。
「おいおい、ワインが零れてしまうよ」
「なら、早く飲んで頂戴。続きを楽しみましょう?」
「そうするとしよう」
 ジャンはワインを一息に飲み干した。

 ハッと、ジャンはソファの上で目覚める。そうして壁に視線をやった。――ない。彼の父が遺した絵が一枚もない。
 それを確認したジャンは、部屋の中に視線を巡らせる。サイドテーブルの上に、一枚の書置きがあることに気付いた。
 手に取ると、そこには『ジャン、あなたは絵画を見る目だけでなく、女を見る目もなかったようね』と記されていた。
 ジャンはパチンと額に手を当てる。
「ハハ、ハハハハ、ハハハハハハ!」
 壊れたように笑い続けた。

 後日、ジャンの母のソフィアは怒り狂った。ジャンの事を『女の色香に騙された愚か者』と詰り、聞くに堪えない罵声を一時間に渡りジャンに聞かせた。
 ジャンは悄然とした顔で聞き続けた。やがて気が済んだのか、はたまた怒り疲れたのか、ソフィアは足音荒く立ち去っていく。
 その背中が見えなくなるのを待ってから、ジャンは部屋に備え付けられた衣装箪笥の前に立つ。引き出しを引き、服の下から預金通帳を取り出した。それを捲り、ほくそ笑む。
 ジャンの父が遺した絵画に、ジャンは美術品保険をかけていた。彼のかねてからの望み通り、絵画を全て金に換えて見せた。