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0544無名草子さん
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2012/09/27(木) 14:18:47.98
片岡剛士『円のゆくえを問いなおす』(ちくま新書)読了。副題「実証的・歴史的に見た日本経済」。
第一章では「円高が深刻化しています」とひとまず断言した上で、日本経済の現状を概観。
日本企業への影響、円高のデメリットがメリットを上回っている点、政府の対応、日銀の金融政策などを一通り見ていく。
第二章では為替レートとは何か、という基礎的な解説から始まる。
為替レート・名目実効為替レート・実質実効為替レートという3つの指標、購買力平価説・金利平価説、などを説明。
その後、浜矩子らの「円高ではなくドル安だ」(※1)といったグローバル要因説が批判される。
そして為替レートに影響するのは国と国の間の通貨比率であり、中央銀行の金融政策である、と結論される。
第三章では、まず経済政策の3分類「経済安定化政策」「成長政策」「所得再分配政策」(※2)、
マンデル・フレミング効果、国際金融のトリレンマなどを説明した後、為替相場制度の歴史を概観する。
そして大恐慌について現在主流の説とされる「金本位制が大恐慌の主因」説を紹介する。
また70年代の日本経済における低成長化とインフレの原因についても最新の説を提示している。
この高インフレについても日銀の金融政策の誤りを指摘しているのは新鮮でもあり、また一般常識と食い違うところだろう。

(※1)は第一刷では「円高ではなくドル高だ」と誤植されている。名指しで他人を批判する部分で誤植はまずい。
(※2)の「再分配」は「再配分」と誤植されている。分配と配分は区別するのが慣例。紛らわしいけれど。
0545つづき
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2012/09/27(木) 14:19:27.95
第四章では、まずアメリカからの圧力(プラザ合意)による「円高シンドローム」を検討。
しかし95年以降はアメリカは「強いドル」政策に転換したので、現在の円高についてはアメリカの圧力では説明できない。
もう一つは政治家や日銀総裁らの「強い円」信仰が指摘される。ここで、なぜプラザ合意直後の円高は日本経済にダメージは与えなかったのか、
そして現在の円高はなぜ問題なのかが説明されている。それによると実質実効為替レートへの交易条件の改善が寄与する割合が大きい場合は、円高の害は少ないということ。
90年代〜現在は交易条件の悪化と円高が同時進行する「過度な円高」である。
そして「変動為替相場制では各国の名目金利および予想物価上昇率に応じて為替レートが決まる」のであれば、過度な円高とは取りも直さずデフレのことである。
円高とデフレは貨幣的現象であることが再確認され、結局、中央銀行の金融政策が決め手となる。章の最後ではユーロ危機について触れている。
第五章では「円高とデフレを止めるために何をすべきか」と題して、リフレ論が展開され、日銀とFRBの金融政策を比較したりしている。
また「デフレと金融政策に関する10の論点」として、リフレ論に対するありがちな反論・疑問に答えるFAQが置かれている。
「おわりに」では全体の論旨をまとめている。
0546つづき
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2012/09/27(木) 14:20:44.61
力作ではあるが、やはり既にリフレにある程度好意的な人たちの間で消費されて終わるのではないか、と自分はちょっと悲観的。
まず純然たる初心者向けとは言えない点。一応、第二章では初歩的な事柄を説明しているが、もともと頭の良い人は別として、これらを初めて読んでサラッと理解できる人は少数だろう。
また既に自己流の経済理解で頭が固まっている人も脳内を修正するのは困難だろう。なんでもそうだが、経済学の論理や因果関係を理解するにも多少の訓練がいる。
そしてここに書いてあることを理解できたとしても、それがどこまで正しいのか判断するのはまた難しい。
一般に因果関係の実証は難しいが、経済学では厳密な実験が困難ゆえなおさらだろう。だから「他の可能性」はどこまでいっても排除できない。
よって相当おかしな事を言っているエコノミストでも淘汰されにくい。いくら批判されても浜矩子や藻谷浩介はビクともしないだろう。
通俗エコノミストだけでなく、アカデミックなマクロ経済学者でもこうしたリフレ論に冷淡もしくは懐疑的な人の方が多いのは周知の通り。
自分はこの本の内容に納得したが、かと言って、斎藤誠や大瀧雅之などのマクロ経済学の大御所先生を批判する能力があるわけでもない。
全体の構成に関しては、著者はできる限りわかりやすく整理しようと苦闘した跡がうかがえるが、やはり経済書に慣れていない人だと見通しが悪いと感じるかもしれない。
初心者は先に岩田規久男の『国際金融入門』(岩波新書)あたりを読んでから取り掛かるといいかもしれない。
安達誠司『円高の正体』(光文社新書)は同趣旨のものだが、あっさりしすぎていて、既にリフレ派の議論を知っている人には目新しさはないし、
リフレに懐疑的な人を説得できるものでもないと思う。現代日本における問題の重要性を鑑みると星5つ付けたいところだが、
やはり誰にでも勧められる本ではないので星4つか…★★★★
0547無名草子さん
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2012/10/28(日) 13:20:29.12
長谷川眞理子『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書)。進化生物学の入門書。
この人の新書は、性淘汰を解説した『オスとメス=性の不思議』(講談社現代新書)がベストに入っているが、本書はより基礎的な内容。
第1章では、種の多様性・生物の生活史やサイズの多様性、環境への適応ということを様々な具体例と共に見ていく。
これらを説明するためには進化という考えが必要になる。
第2章では、生物の定義、遺伝・DNAについて説明した後、DNAの複製に伴う間違いや組み換えによって個体変異が生じることを説明。
また生命の誕生はただ一回きりであり、すべての生物が共通の祖先から派生してきたものだという。
第3章では自然淘汰と適応について解説。この章の後半では、進化論についてのありがちな誤解を正している。
すなわち「進化には目的はない」「進化とは“進歩”ではない」「適応は万能ではない」。
第4章では変異と淘汰の種類について詳しく述べる。さらに中立進化についても簡単に説明している。
第5章では、種とはなにか、種の分岐とはどういうことかが述べられる。
第6章は「進化的軍拡競争と共進化」。アリと蝶の共生、虫と植物の「食う・食われない」競争、カッコウの托卵など、さまざまな共生や騙し合い・軍拡競争の面白い例が紹介されている。
0548つづき
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2012/10/28(日) 13:21:31.52
第7章では「最適化」について説明。第8章ではゲーム理論が導入され、「タカ・ハトゲーム」などを説明。
また、多くの生物で雄と雌の数の比が1:1になっているのはなぜか、という問題をフィッシャーの理論によって解く。
この7章と8章では初歩的な数理的分析が登場し、進化論では工学や経済学に似た手法を使っていることがわかる。
第9章では、雄と雌はなぜあるのかなど、性の起源と性淘汰について掘り下げている。
第10章では進化論学説史の概説。博物学の時代から、リンネの分類学、ウィリアム・ペイリーのデザイン論、ラマルクの獲得形質遺伝説などを経て、ダーウィン、ウォレス、メンデルが登場する。
岩波ジュニアということで中高生を主な対象としているのだろうが、手抜き一切なしの良質な内容で万人にお勧めできる。
基礎をきっちり押さえた上で、動物の面白い生態の具体例も豊富(自分も知らなかった事が多い)。
また現代の研究でわかっていることとわかっていないことの峻別、自分の専門でカバー出来ている部分と漏れている部分も明確化しており、科学的知的誠実さという点で申し分ない。
欲を言えばより進んだ学習のための文献案内があればよかった。初心者向けの進化生物学入門書というのはあまり良い物がないのだろうか。
これは数少ない良質な入門書ということで星5つ進呈★★★★★。あとこれは1999年発行で既に13年経過しているが、研究の進歩が早い分野なので、そろそろ改訂版が欲しいかも。
0549蛇足
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2012/10/28(日) 13:22:59.15
個人的に気になった事(批判ではない)。著者は「自然主義的誤謬」(「自然の事実が〜である」から「〜であるべきだ」を導出する誤謬)に注意を促しているが、
同時に「進化を知り…生命の流れを知ると、みんな一人ひとり個人的に、自分自身が生きていく上で、何か重要なものを見いだせるのではないでしょうか?」とラストで述べている。
また冒頭でも「生物の美しさと多様性とを同時に説明する唯一の理論」という風に「美しさ」という主観的な価値観を入れている。
自然から直接に普遍的な規範を導くのは誤謬でも個人的な価値観を読み込むのは自由なのかもしれない。
(また「自然主義的的誤謬」がなぜ誤謬なのかと突っ込んで考えるとよくわからないし、実際に「誤謬ではないかもしれない」という議論もあるらしい)。
しかし自分は進化には美しさなどよりもどちらかと言えば残酷さを感じてしまうし(自分が淘汰される側の弱い生き物だという感覚があるのだろう)それもまた自然な感情だと思う。
そしてこうした“自然”な感情が、進化論への誤解や歪曲や拒否の原因となることもある。ならばやはり進化を論じる際には「残酷」というような感情や価値観は括弧に入れた方がいい。
とするなら「美しい」という価値観も平等に括弧に入れた方がいいのではないか、と思う。
もう一つ、これも批判でも何でもなく個人的に気になったことにすぎないのだが、「進化には目的はない」と述べつつ、実際には進化的な究極要因が目的論的に記述されていること。
まぁ機能論的に限定して記述しようとしても、どうしても目的論が紛れ込んでしまうだろうし、言葉や人間の認知の枠組みの問題なのだろうけれど、中には混乱する人もいるのではないかと思う。考えすぎか。
0550無名草子さん
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2012/10/28(日) 22:04:29.08
小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』(ちくま新書)。著者は霊長類研究者であり、現在は名古屋工業大学院で環境教育を担当している人。
この本では、主に進化心理学から環境問題を論じている。第一章では生物にとっての「環境とは何か」と問うているが、
ここでは環境よりも、生物とは何か、遺伝子・ニッチ・生態系とは何か、そして進化とは何かについて基礎的な説明をしている。
環境問題に対するアプローチとしては大きく「人間中心主義」と「自然中心主義」に分けられるが、著者は、ディープエコロジーに代表される後者に批判的であり、一応前者の立場に立つ。
第二章では、自然人類学の最新の研究に基づいて、人類の進化と文明の芽生えについて概観。
第三章では、人間心理の進化について、認知心理学や行動経済学の知見を参照しながら論じる。
まず進化心理学において基本となっている「リバースエンジニアリング」という考え方について説明している。
元はIT用語だが、ここでは機能や目的から構造の意味を探ることを指している。心の成り立ちについては「モジュール説」を採用している。
そして、「群れ」ができるメカニズムを進化論によって説明し、ヒトの集団サイズについてのダンバーの理論を紹介。さらに性淘汰と集団形成の関係について論じる。
第四章では「環境との認知」と題して、環境リスクを人間がどのように認知しているか、また環境リスク認知の性差に関する研究を紹介。
そして行動経済学の知見から確率に関するヒトの認知の歪み、ヒューリスティック、感情の進化、「内集団ひいき」や利他行動の進化などについて論じる。
0551つづき
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2012/10/28(日) 22:05:11.63
第五章では「共有地の悲劇」などの社会的ジレンマについて、ゲーム理論の基礎を講じながら考察。このあたりはゲーム理論の啓蒙書などでもお馴染みの話題。
第六章では環境倫理を考えるにあたって、再びゲーム理論を使って「道徳の進化」を論じていく。(同時に「自然主義の誤謬」にも注意を促している)。
自分としては今までに読んだ、進化論・ゲーム理論・認知心理学・脳科学・行動経済学などの啓蒙書で断片的に触れた知識と重なる部分が多かった。
その分、新鮮さはあまりなかったが、スラスラ読めた。ただ「環境」がテーマであるはずが、あまり環境自体の話題は掘り下げられておらず、
もっぱら「人間の本性」と道徳性の問題に焦点が当てられているようだ。タイトルの『ヒトは環境を壊す動物である』というテーゼについても掘り下げが甘くて肩透かしの印象。
また第四章の「環境リスク認知についての性差」の研究は、あまり納得できるものではなかった。
「昇進のために環境の悪い地に赴任することを受け入れますか」というような質問に対して受け入れると答えた人が女より男の方が多い、という話なのだが、
これを生物学的な性差によるものとするのはあまりにも説得力がないのではないか。
むろん自分は社会構築主義者ではないのだが、この事例ではどう考えても社会的な要因の方が強いのではとしか思えない。
自分はNHKブックスから出ているスティーヴン・ピンカーの啓蒙書を読んで進化心理学の面白さを知ったけれども、近作の『思考する言語』などもちょっと勇み足と感じる部分が多かった。
進化心理学は竹内久美子などによって通俗的な紹介のされ方をしてきた不幸な経緯もあり、一般の誤解を解きながら啓蒙していく必要もあるだろうが、
この学問自体まだまだ取扱い注意なのかなという気がする。★★★

※同姓同名の別人で文化人類学者の小田亮という人がいて同じちくま新書から『レヴィ=ストロース入門』を出している(これは良書なのでおすすめ)。
0552無名草子さん
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2012/10/28(日) 23:13:14.57
石川幹人『だまされ上手が生き残る』(光文社新書)。進化心理学の入門書。上記の小田亮や長谷川眞理子の本とかぶる部分が多い。
序章では「恐怖」という感情を取り上げ、恐怖の生得性、生存に有利であることなどを指摘。また近親相姦タブーの生得性を述べ、
「至近要因」(生理的メカニズムなど)と「究極要因」(進化的要因)という概念を説明。
第1章では、進化生物学の基礎を簡単に説明している。既に長谷川眞理子の入門書を読んでいれば、飛ばしていいところ。
ただ、「退化」とは「進化」の反対語ではなく、進化の一種であることを指摘しているところは目を引く。
これは長谷川眞理子の本では「進化は進歩ではない」と述べているところに対応する。
石川の本では、本文とは別に、「進化心理学は何でないか」と題して、進化論と進化心理学に対する誤解を解くコラムを設けている。
第2章は「遺伝子の生存競争」で、ハトータカ戦略の話や、カッコウの托卵の話など、これも長谷川の本の内容とかぶっている。
第3章は、オスとメスの話。性淘汰の話なども出ててくるが、性差の生得性について論じている部分が多い。
正直、このあたりの議論は(小田亮『ヒトは環境を壊す動物である』と同様に)乱暴な印象が否めない。
自分は社会構築主義的なジェンダー論に詳しいわけでもないのだが、現代の日常的な男と女のステレオタイプを短絡的に進化にこじつけているように見えてしまう。
進化心理学自体が粗雑なわけではないのだろうが、啓蒙書レベルで語った場合、厳密さが犠牲になっているのではないか。
無駄な反発をくらわないためにも、もう少し繊細な語り口が必要ではないかと思う。
0553つづき
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2012/10/28(日) 23:14:02.62
第4章では、人類の歴史のおいて長い狩猟採集生活がもたらした、心の進化について。ここでも認知能力等に関する男女の性差について述べている。
第5章では、さらに認知心理学やゲーム理論などを導入しながら、「協力行動」の進化について論じる。
「協力」は全員に利益をもたらすが、「裏切り」や「タダ乗り」は協力行動を脅かす。そこで人間は裏切りやタダ乗りに対する憤りの感情を進化させた。
このあたりは思い当たる所が多くて面白い。先日あった生活保護不正受給バッシングなどは、こうした原始的な道徳感情の噴出だろう。
第6章は第5章の続きで、群れの協力行動に必要な「信頼」の進化について。ここでは贈与や貨幣や記号など、経済人類学や文化人類学との接続を試みている印象。
第7章では、狩猟採集生活に適応した人類の、現代社会への不適応について考える。例えば「肥満」は慢性的な飢えを生き抜いてきた人類が豊かな社会には適応できていない例である。
またイギリスの進化生物学者ロビン・ダンバーの説によれば、人間が密な交流を結べるのは150人が限度ということで、より大きな集団になると戦争など様々な問題が起こる。
最終章では嘘と自己欺瞞について論じ、意識とクオリアの進化の謎に触れたあと、「だまされ上手の極意」として、進化心理学の知識を応用して幸福に生きるハウツーが書かれている。
この「だまされ上手」というキーワードはなかなか含蓄があって面白い。(光文社新書らしいキャッチーなタイトルで若干いかがわしさもあるが)
6章で論じられる「貨幣」にしても、単なる紙切れに価値が宿っているかのようにみんなが「騙されてやる」ことによって経済が回るわけである。
宗教や道徳も同じだろう。「神」という嘘をみんなが信じることによって絆が生まれみんながハッピーになれるわけだ。
とすると進化論が宗教や道徳感情によって拒否されがちな理由も、宗教や道徳の本質が「嘘」であることを暴いてしまうからなのだろうということがわかる。
また「上手」の意味するところは、騙されきってしまうと色々と弊害も出るので「上手く」騙されよう、ということだろう。
0554つづき
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2012/10/28(日) 23:14:50.31
実はこの本の中で一カ所、自分には意味がわからないところがあって、それは第1章でモグラの眼の退化を説明した部分。
土の中で生活するモグラには視力は必要ないので眼が退化するわけだが、眼はあってもなくてもいいという意味では中立なのに、なぜすべてのモグラの眼が退化するのか?
この説明として、眼が退化したモグラの個体の中に、土の中で生きるのに有利な変異が生じたからだ、と言う。これは変ではなかろうか?
眼の見える方のモグラに有利な変異が起こる可能性だってあるはずだからだ。むしろ最初は眼の見える個体の方が多いのだから、有利な変異が起こる確率も大きいはず。
素人考えでは「不必要な機能の維持にはコストがかかるから、不要なものはない方が有利だから」ではないかと思うのだが、著者はそういう説明はしていない。
自分が何か根本的に誤解しているのかもしれないが(退化が発現する群の方が突然変異率が高いとか、中立進化が関わる問題だろうか?)いずれにしても説明不足だと思う。
人間の心や社会の諸相を統一的に理解できるような気がするという意味では面白いし、進化論に対する誤解を解くために労力を費やしているのは評価できるが、
竹内久美子などによって植え付けられた胡散臭いイメージが拭い去られるところまでは行ってないので星3つ★★★。
0555無名草子さん
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2012/10/29(月) 00:32:28.93
太田朋子『分子進化のほぼ中立説』(ブルーバックス)。副題「偶然と淘汰の進化モデル」とあるように、
遺伝子浮動(ドリフト)と自然淘汰の両方の効果が関わる分子レベルの進化を論じたもの。
「ほぼ中立」とは、純粋な中立進化ではなく、ごく弱い淘汰が加わる進化のことである(弱有害突然変異仮説)。
「進化とはほとんどが中立進化だ」という意味ではない(自分は最初そのように誤解していた)。
「ほぼ」は副詞なので、「ほぼ中立である」なら自然だが、「中立説」という名詞を直接修飾するのは違和感がある。
しかし「準中立」とすると「純」と紛らわしいという問題が生じるので「ほぼ中立説」という命名に落ち着いたのだろうか。
言葉の段階で既にわかりにくいわけだが、内容はさらに難しく、やや専門的な叙述になっているので、正直、後半は自分には理解できない部分が多かった。
よって自分の能力では要約は不可能。
0556つづき
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2012/10/29(月) 00:33:23.58
一応用語解説が付いているし、先に(ベストに入っている)木村資生『生物進化を考える』(岩波新書)を読んで、
「中立説」についてだいたいのことがわかっていれば、全然読めないということはない。
ポイントは「集団が大きいときは遺伝的浮動の力が弱く、淘汰が有効に働いて、弱有害突然変異が集団から除去される」が
「小さな集団では遺伝的浮動の力が大きくなって、弱有害突然変異が中立のようになり、集団中にある程度広がる」ということである。
もっと縮めて言うと、集団大の時は淘汰・集団小の時は中立ということ。
著者の説明は初心者にはちょっと不親切な感じはするが、よくわからないながらも理系の頭脳の切れ味の良さみたいなものが感じ取れて、読んでいてなかなか気持ちよかった。
後半の「ロバストネス」(遺伝子は違うのに表現型が同じ)と「エピジェネティクス」(遺伝子は同じなのに遺伝子発現が変化)の話も面白い。
しかし分子・遺伝子レベルの話と形態レベルの話がどう繋がるのかはやはりよくわからない。普通に考えて、形態レベルではほとんど淘汰が働くのだろうとは思うが。
難しいけれど、生物学の本当の面白さが垣間見れるということで星は4つ★★★★(よく理解できもしないものに偉そうに星をつけたりするのはいかがなものかとも思ったが、まぁいいか…)
0557無名草子さん
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2012/12/08(土) 13:42:52.94
高護『歌謡曲』(岩波新書)。主に1960年代から80年代までの「歌謡曲」史。一応「はじめに」では、戦前から戦後、1950年代までが短くまとめられている。
1章は60年代、2章は70年代、3章は80年代、という構成になっていてわかりやすい。特に70年代と80年代前半の記述が充実している。
原則的に、シンガーソングライター(作曲者として言及される場合は別)やGS以外のロックバンドはほとんど省かれている。
しかし、例えば加山雄三「君といつまでも」や寺尾聡「ルビーの指輪」は自作曲であるが、大きく取り上げられている。
確かにこの2曲は大ヒットしたせいか歌謡曲の範疇と感じられる。あるいは作曲のみ自作で作詞は作詞家が行なっているためかもしれない。
ニューミュージックの中でも歌謡曲に接近したアリスやさだまさし、あるいは矢沢永吉やサザンには言及されていないのは、作詞作曲共に自分でやっているからだろうか。
むろん、シンガーソングライターまで網羅しようとすれば収拾がつかなくなってしまうのは明白なので、この限定措置は妥当なのだろう。
終章では「90年代の萌芽」として、ダンスビートの系譜(特にユーロビート)についてのみ簡単に論じている。
90年代に小室サウンドが一世を風靡し、和製ヒップホップやR&Bが定着し、現在の集団アイドルも基本的にダンスビート歌謡であるから、この着眼点も妥当だと思われる。
要所要所で詳論されている歌手と楽曲の選択もおおむね納得できる。
0558つづき
垢版 |
2012/12/08(土) 13:43:49.65
70年代歌謡の中では割と軽視されがちな黛ジュンと奥村チヨが大きく扱われているのは、歌謡曲オタとしてはニヤリとさせられる。
一方でアイドルの起源の一人と考えられる天地真理の扱いが小さい(作曲家・森田公一の紹介のついでという扱い)のはちょっとガッカリではあった。
80年代では松田聖子と中森明菜が、ガッツリ論じられていて、特に明菜の評価が高いのが意外だった。
簡にして要を得た音楽的分析がすばらしく、歌詞の分析も鮮やか、楽器や機材の知識も散りばめられており、痒いところに手が届く出来。
溢れんばかりの歌謡曲愛を迸らせつつ、オタク的な視野狭窄はなく、もちろん昔の竹中労や平岡正明の歌謡曲評論みたいな思い入れ過剰・思想性過剰でもなく、バランス感覚に優れている。
欲を言えば、50年代が端折られているので、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの全盛期が省略されている点(美空については60年代の章で詳述されるが)がちょっと残念か。
輪島祐介『創られた「日本の心」神話・「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 (光文社新書)※と合わせて読むべし。
個人的には星5つレベルだが、歌謡曲オタ向け、もしくはオッサン・オバサン向けで読者が限定される事を鑑みて星4つ★★★★

※…こちらの本は文句なしの星5つで、歌謡曲に興味がなくても読む価値あり。内容は、演歌の「系譜学」と言えるだろう。
すなわち起源の虚構性や歴史の物語性を明らかにしながら、それらの虚構がどのように作られていったかを分析している。
0559無名草子さん
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2012/12/08(土) 13:45:44.71
岩根國和『物語・スペインの歴史』(中公新書)。著者はスペイン文学者であり、セルバンテスの研究者。
あとがきで自ら、スペイン史の執筆は自分の任ではないのではないかと思ったと書いているが、「物語」というコンセプトならばやってみよう、とのこと。
したがって、標準的でバランスのとれたスペインの通史を期待すると裏切られる。
T章は「スペン・イスラムの誕生」。西ローマ滅亡後、西ゴート族の圧政下にあったスペインをイスラム帝国が攻略し統治する。
イスラム帝国内の内部抗争と弱体化を突いて、キリスト教勢力が国土回復を図る。U章ではイサベルとフェルナンドのカトリック両王がイスラムを破り、国土を奪還する。
当初は寛容な政策をとっていたが、次第にイスラムとユダヤに対する迫害が強くなる。
この地では異端審問がヨーロッパの他の地域より長く続き、ルター派なども迫害の対象となる。この章の後半では異端審問の模様が詳しく語られる。
V章では、トルコ帝国に対抗すべく、スペイン・ヴェネチア・教皇庁の間に神聖同盟が締結される。そして、レバント湾にてトルコ艦隊とスペイン艦隊の海戦となる。
総司令官は国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の私生児ドン・ファン・デ・アウストゥリアであり、艦隊の中にはセルバンテスもいた。
この章ではレバント海戦の模様が詳しく描かれる。またこの戦争でセルバンテスは左手を負傷するが、この左手が切断されたのか、不具になっただけなのかという問題についてなぜか細かく追求している。
W章では全編にわたって、セルバンテスがトルコの捕虜になった話が展開されている。セルバンテスは何度も脱走を試みては連れ戻されるが、処刑は免れている。
最終的には高額の身代金が支払われ、どうにか身請けが成功した。
0560つづき
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2012/12/08(土) 13:46:37.37
X章ではスペイン無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペイン継承戦争を経て凋落するまで。
終章では「現代のスペイン」と題して、まず悲惨なスペイン市民戦争とフランコ将軍独裁について少しだけ触れる。
フランコが第二次大戦時にはヒトラーからの援助要請をきっぱり断ってスペインの立て直しを図ったことについては著者は評価している。
フランコ死去後には王政復古、民主化、社会主義労働党政権、そして現在の国民党政権となる。
もう一つの話題は、バスク民族主義のETAのテロ活動について。ここではETAの残忍なテロ事件を列挙し、厳しく非難している。
しかしただ単にテロを非難しているだけで、テロリスト側の主張やバスク人達の置かれた状況など、民族問題に対する分析が全然ないのは、ちょっとどうかと思う。
やはり通史としてはバランスを欠いていて、全体が見通しづらい。戦争の叙述などは臨場感たっぷりに描かれているが、省略されているところは思い切り省略されていて、
世界史全体の中での位置づけもわかりにくい。ある程度世界史の知識が頭に入っている人でないと楽しめないのではないか。
またいくら著者がセルバンテスの専門家とはいえ、一章まるまるセルバンテスの話だけというのもいかがなものか。
その前の章でもセルバンテス左手の負傷という瑣末な点について妙に深く追求しているのはやりすぎの感がある。
やはりこのあたりの話は、セルバンテスの伝記で書くべきことではなかろうか。
文章については、常套句が多く、紋切型の言い回しがちょっと鼻につくのだが、「物語」というコンセプトを鑑みれば、むしろ評価すべきところか。
結局、歴史の物語化をどこまで許容できるかによって、評価は異なってくるのかもしれないが、物語としてもそれほど面白いわけでもない。
ちょっと不満ありで星3つ★★★。
0561無名草子さん
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2012/12/08(土) 13:49:53.65
>>559タイポ
T章は「スペン・イスラムの誕生」

T章は「スペイン・イスラムの誕生」
0562無名草子さん
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2012/12/08(土) 13:51:03.42
渡辺啓孝『フランス現代史』(中公新書)。第二次大戦終了後のフランス解放から、シラク大統領の時代まで。
まず第一章ではフランス解放後の、エピュラシオン(ナチ協力者などへの報復的懲罰)の模様と、終戦処理、ドゴール臨時政府の成立、そしてドゴールの辞任までを素描。
第二章は、第四共和政の成立と展開。冷戦下の外交と、国内政治における諸勢力の興亡、復興と高度成長、そしてインドシナ紛争、アルジェリア紛争勃発。
こうしてフランス帝国の没落が始まる。このアルジェリア紛争の経緯はいろんな意味で香ばしく、ここだけを詳しく書いた本を読みたくなる。新書では出ていないようだが。
第三章はドゴール時代。第五共和政の発足。ドゴールはアルジェリアの独立を容認する。
ドゴールはフランスの「自立」と「偉大さ」を求め、対外的には東西両陣営のいずれにも従属しない均衡政策を採った。
経済的には豊かになり消費社会が到来したが、雇用問題の悪化などを背景に、68年には有名な五月危機が起こる(左派などは「五月革命」と称することが多いが、ここでは「五月危機」と書かれている)。
そしてドゴールの引退と死去。
第四章ではポンピドゥー大統領とジスカール・デスタン大統領の時代を扱う。石油ショック以後の高度成長の終了とスタグフレーションを招いた時代。
0563つづき
垢版 |
2012/12/08(土) 13:51:43.05
第五章はミッテラン大統領の時代。86年にはシラクが首相となり、大統領が左派で首相が保守というコアビタシオン=保革共存が成立。
その頃、ルペンを代表とする極右の「国民戦線(FN)」も勃興する。国内的には移民問題が浮上する。また、ヨーロッパ経済統合の準備として緊縮財政が行われる。
96年にはミッテランが前立腺癌で逝去。第六章ではシラク大統領が登場し、97年にジョスパン社会党内閣が成立して第三次コアビタシオンとなるまで。
全体的に政治史としては詳細で、経済史にもかなり踏み込んでいる。社会や文化の側面はあまり触れられていない(第三章で社会階層や消費社会について述べられているくらい)。
しかし経済史に踏み込んでいると言っても、当時の経済に対する診断と経済政策は正しかったのか否かは、これを読んだだけではよくわからない。
これらは経済学者による本格的な分析が必要なところであるが、自分のいい加減な印象で言えば、フランスの現代史は経済失政の歴史であるかのように見える。
経済政策論で言う「政策の割当」が滅茶苦茶だったのではないか。現在のユーロ圏におけるドイツ以外の国の惨憺たる経済状況を見るにつけ、感慨深い。日本も人ごとではないが。
文章は単調かつ無味乾燥(アマゾンレビューを見るとこの点を批判している人がいる)だが、自分はあまり気にならなかった(むしろ『物語・スペインの歴史』での陳腐な文学的レトリック満載文章の方が辛かった)。
無味乾燥とは言っても、ドゴール、ミッテラン、シラク達の肖像はそれなりに生き生きと描写されている。政治史のまとめとしては、これで充分だと思う。
ただ、著者の責任ではないかもしれないが、アルファベットの略語が次から次へと出てくるのは勘弁してほしかった(CFLN・CNR・CDL・FFI・CGT・SFIO・MRP・UDSR・RGB等々々…略語フェチかw)
略語だけの索引が欲しかったくらい。一応星4つ★★★★(ちょっと甘め)
0564無名草子さん
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2012/12/20(木) 18:54:52.31
>>557『歌謡曲』
これ書き忘れたけど、一刷では沢田研二のヒット曲『勝手にしやがれ』の元ネタの映画を、フェリーニだと書いてある(むろん正解はゴダール)
ちょっと恥ずかしい凡ミス。二刷では訂正されてるかな?
他のデータはたぶん正確だと思うが。
0565無名草子さん
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2013/01/02(水) 17:40:43.08
あけおめ。ことよろ
0566無名草子さん
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2013/01/02(水) 17:53:21.97
あけおめことよろ
0567無名草子さん
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2013/01/02(水) 21:19:42.07
あけおめことよろ今年も謙虚に生きていきたいと思います(ドヤ顔
0568無名草子さん
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2013/01/07(月) 20:32:13.77
早く新しいレビューしろよ。お正月暇だったんだろ
0569無名草子さん
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2013/01/10(木) 00:15:33.19
田中美知太郎『ソクラテス』(岩波新書)ギリシア哲学の泰斗によるソクラテス入門。
限られた資料の中からソクラテスの実像を浮かび上がらせようとする。
実証的な態度でソクラテスの出自や生活的事実にアプローチしていくのが少し意外であった。
どうやって生計を維持していたのか、というような形而下的な事実をまずは追求している。
有名な悪妻伝説については、実際は誇張であると推定している。
次に、当時のギリシアの思想状況とソクラテスへの知的な影響、そしてソクラテスが知的世界にどのような影響を与えたのかが検討され、
なぜソクラテスが死に追い込まれたのかの手掛かりを探る。
四章ではソクラテスの行動を制限した霊のごときものである「ダイモン」について詳しく検討される。
五章では、ソクラテスが、デルポイの神託を受け、そこから「無知の知」(この本では「不知の知」「無知の自覚」と書かれている)という解釈を引き出す経緯。
六章ではソクラテスにとっての「知」とは何かが問われ、それは「徳」や「正義」という倫理的な知であることが述べられる。
最後に再び、ソクラテスが訴えられ死刑にされた原因を考察。
決して奇矯な思弁にはのめり込まず、常識から出発し、あくまでも現実的な思考を積み重ねている。
しかし同時に、執拗に問い続け、決して考え続けることをやめない思考のスタイルは、本物の哲学者らしいと言える。
自らの「思い込み」の外に出ようとする意志を感じる。これは最近の哲学者や思想家の一般向けの発言にはあまり感じられない点である。星5つ★★★★★
0570無名草子さん
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2013/01/10(木) 00:21:56.35
斎藤忍随『プラトン』(岩波新書)。あまり初心者向け入門書という体ではなく、ある程度の教養のある読者に向けたプラトン概論という趣。
トインビーやラッセルなど現代の歴史家や哲学者による様々な批判に対する反論が述べられ、やや論争的な内容となっている。
「死」や「知と美への恋」や「政治」や「イデア」といった主題を検討しながら、プラトンの思想に迫っていく。
「死」の章では、神話やホメロス叙事詩において、死がどのように考えられていたかを詳しく追っていき、プラトンについては最後の一行で言及されるのみであるのにはちょっと驚いた。
ここでは、ギリシアの伝統的思想における「死の肯定」、人間は早く死ぬ方が良いという思想があったことが述べられる(但し自殺はいけない)。
「恋」の章に入ってもしばらくは「死」についての考察が続き、半ば頃でやっとソクラテスが登場する。少年愛が、知への愛の契機となることが指摘される。
「政治」の章ではプラトンの「ポリティアー」(「国家」)が詳しく分析される。
「ポリティアー」はマルクス主義者やラッセルやポパーによって、全体主義的、反民主主義的だとして激しい批判にさらされたが、著者はそれらに対して反論を試みている。
「イデア」の章では、「洞窟の比喩」をいかに解釈すべきかが問題とされる。最後に、プラトンの著作が簡単に紹介され、この部分が最も入門的になっている。
プラトン本人よりも、神話のアポロンや、ホメロスの叙事詩についての論考の割合の方が多い感じであった。
神話や宗教、叙事詩やギリシアの思想全体との関係におけるプラトンの思想の位置付けを考察する内容。ちょっと難しい。星4つ★★★★
0571無名草子さん
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2013/01/10(木) 00:30:21.38
上尾信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書)。
音楽史というよりも、音楽と歴史の関わり、すなわち音楽と宗教・政治権力・軍事との関係性を追ったもの。また楽器についても詳しく書かれている。
T章では、古代オリエント、旧約聖書に出てくる音楽と楽器(角笛・ラッパ)、古代ギリシア・ローマ(竪琴)等。
U章では中世キリスト教における音楽。グレゴリオ聖歌やオルガン、天使の奏する楽器など。またイスラムの影響の大きさにも言及。
V章では、十字軍や百年戦争など、中世の戦争・軍事にまつわる音楽。そして王権と祝祭で用いられる音楽など。
W章では、音楽が宗教改革の宣伝に使われたことなど。X章では再び戦争に使われた軍楽について。
オスマントルコの軍楽、イングランドの内戦・清教徒革命(清教徒革命では世俗音楽が弾圧されたことにも言及)、
イタリアではルネサンスからバロックへ、フランスでは、太陽王ルイ14世による戦争と祝祭のための音楽など。
このあたりからいわゆる近代クラシック音楽の歴史が始まる。
Y章では「国歌と国家」と題して、各国の国歌の成立とナショナリズムの関係を論じていく。また近代の革命と世界大戦に伴う音楽について述べる。
アマゾンレビューでも言われていたが、ある程度、世界史と音楽についての知識がないと、耳慣れない固有名の羅列が多くてピンと来ないかもしれない。
文章が悪いという評価もされていたが、自分はそうは思わない。むしろ名文の範疇ではなかろうか。
ただ文章からは音楽は聞こえてこないわけで、頭に入りにくいのは仕方のないところか。
図版も豊富なのだが、これを見て何かを感じろと言われてもちょっと無理があるかもしれない。★★★
0572無名草子さん
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2013/01/10(木) 00:45:45.11
森本恭正『西洋音楽論・クラシックに狂気を聴け』(光文社新書)
著者はクラシック・現代音楽系の作曲家・指揮者。アカデミックな音楽学研究者という感じではないのだが、短大教授で、アメリカの大学で講演もしている。
まずクラシックとは本来アフタービート(アップビート)であり、日本人にはその感覚がない、という指摘から始まる。西洋人もその事はほとんど自覚していない。
そして著者は、どんなジャンルの音楽でも聴くだけで演奏しているのが日本人か西洋人かわかるようになったという(ホントか?)
クラシック音楽の本質は、アフタービートに基づくスイングであり、それがジャズやロックにも継承されているのだ。黒人由来ではないのである。
そこからさらに、西洋人と日本人の音楽を聴く脳の違い、右脳と左脳という話になっていく。著者の音楽観については個人的に首肯できる部分も多い。
ジャズやロックについても、確かに黒人の影響は強いが、西洋音楽との連続性の方が大きいというのは、ポピュラー音楽史的にも現代の主流の説だろう。
はっきりとアンチ・クラシックであり黒人音楽びいきの中村とうようなども、初期のジャズにおける白人的要素の強さは指摘していた。
0573つづき
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2013/01/10(木) 00:46:29.33
割と同意できるところは多いのだが、疑問点も多い。右脳左脳談義は少々眉唾で、疑似科学的ヨタ話にとどまっていると思う。
おそらく現在の音楽心理学や脳科学ではもう少し緻密な知見が積み上げられているはずだろう。
西欧人には言語の特性などからアフタービートの感覚が自然に身に付いていると言うが、それは本当か?とも思う。
Youtubeで古いR&Bやポップスなどのライブ動画を見ると、時おり白人の観客が思い切りオンビートの宴会手拍子をしているのを見ることができる。
昔の白人もリズム感は日本人とあまり変わらなかったのではないかと思ったりするのだがどうなのだろう。
それから、日本VS西欧という図式の中の議論が中心で、黒人音楽や他の非西欧音楽との関係は、いまひとつはっきりしない。
ハンガリー民族音楽を研究していたバルトークの音楽が、クラシックには珍しいオンビートであるとか、
ベートーベンの第九・喜びの歌が非西欧的なオンビートであるなどの興味深い話題はあるのだが、全体の論旨とどう繋がっているのかちょっとわかりにくい。
また、日本の三味線の「さわり」を始めとして非西欧地域の弦楽器がノイズを伴っているのに対して、西欧音楽の楽器はノイズを排除していったのか、という議論もなかなか面白いのだが、
そうした西欧/非西欧の文化に対してどういう態度をとるべきかに関しては、著者の立場は両義的で複雑である。
結局、非西洋人としての日本人が西洋文化を学ぶ際の矛盾と屈折という明治維新以来の問題がいまだにくすぶっているということか。ネタ的には面白い本だが…星3つ★★★
0574無名草子さん
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2013/01/10(木) 00:48:10.20
レビューおせーよ
0575無名草子さん
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2013/01/17(木) 01:36:40.67
平川秀幸『科学は誰のものか』(NHK出版生活人新書)読了。STS(Science Technology and Society・科学技術社会論)の入門書。
この先生は震災以降に原発問題などで積極的に発言していて、最近はネットでも名前をよくお見かけするが、この本は震災以前のもの。
第1章では、60年代には科学技術に対する明るく希望に満ちたイメージがあったが、70年代になるとそれに暗い影がさしてきたことを述べている。公害・環境問題と核の恐怖である。
第2章では「ガバナンス」という概念を提起。「統治」だと上からの権力で治めるニュアンスがあるので、民主的な意味を込めて「ガバナンス」と言うらしい。
市民活動、公共空間、双方向的コミュニケーション、参加型テクノロジーアセスメント、コンセンサス会議、シナリオワークショップ、サイエンスカフェ等々。
第3章では科学とは何かという科学論の初歩。科学の不完全性や不確実性について。
第4章では、科学と社会・政治との関係を考える。アーキテクチャー権力の問題、「緑の革命」の失敗(市場の失敗・南北問題)等。
第5章では、3章で出てきた「不確実性」を参照しつつ、リスクをどう扱うべきかを論ずる。
第6章では個人の努力だけでは解決できないことがあることを指摘し、市民活動のような社会参加を呼びかける。
第7章では、エイズ治療新薬のための臨床試験のあり方について、活動家達が疑問を突きつけ改善させた事例が紹介される。
これは興味深い例で、SF作家グレッグ・イーガンの短篇で、まさにこのテーマを取り上げたものがあった(臨床試験でプラシーボを渡された患者は治る可能性がない、という倫理的問題)
全体として穏当な主張で、科学と社会の橋渡しという重要な仕事を担う学問らしい。
ただ少し気になったのが、STSとか「ガバナンス」を始めとして、カタカナ語が多すぎじゃないのかと。
非知識人とのコミュニケーションを目的としてるはずが、横文字が多いというのはどうなのか(コミュニケーションも横文字だが)。
職業・階層関係なく誰でも参加できる、と言いながら、実際には横文字言葉に拒否反応しないような一定レベル以上の知的階層の人しか参加していないのではないか。
別にそれが悪いとも思わないが、直接民主主義が可能であるかのような幻想があるのではないかとも思った。★★★
0576無名草子さん
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2013/01/17(木) 01:39:57.81
戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書)。
自分はちょっと勘違いしていて、「科学哲学」の入門書かと思っていたが、微妙に違っていて「科学リテラシー」の啓蒙書である。
もちろん科学哲学の成果にも基づいているが、科学哲学自体を詳しく検討しているわけではない。二部に分かれており、
第一部では、科学的思考の方法について基礎的なレクチャーを行い、第二部では、政治や社会と科学の関係、STSなどの話。
第一部第一章では、まず「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」を区別し、後者を「メタ科学的概念」とし、これを身につけることを第一部の課題としている。
さらに、「事実と理論」「科学と疑似科学」のような、白か黒かの二分法的思考を廃し、程度問題として考えることを勧める。
すなわち科学とはグレーゾーンの中で、より良い理論を目指してよりマシな方向に進歩していくものだということである。完全な白や完全な黒はありえない。
師匠の内井惣七氏と同様、ベイズ主義的な立場だろうか。著者は他の考え方は最初から排除しており、やや天下り的。
本当に「マトモな科学者」はみなそう考えるのだろうか?という疑問は残る。たとえば、白とグレーと黒という三分法で考える科学者もいるのではないか。
しかし著者は二分法でも三分法でもなく、連続スペクトル的な科学観に沿って議論を進めていく。
よって、疑似科学問題にしても「疑似科学」と断定するのではなく「疑似科学っぽい」とグレーな言い方をしている。正確さを期すがゆえに曖昧な言い方をしているわけだ。
0577つづき
垢版 |
2013/01/17(木) 01:41:15.48
ではより良い理論の条件とは何か。著者は「天動説と地動説」や「プレートテクトニクス」などの科学史の例を見ながらそれに答えていく。それは、
「より多くの新奇な予言をしてそれを当てる事ができる」「アドホックな仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くの事柄をできるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」、という3つの条件である。
3章では「科学的説明」とは何かについて。それは、
「原因を突き止めること」「一般的・普遍的な仮説・理論から、より特殊な仮説・理論を導くこと」「正体を突き止めること」 である。
4章では推論の方法として「演繹」と「非演繹」を説明。後者は「帰納」「投射」「類比」「アブダクション」に分けられる。
また演繹と非演繹の合体による「仮説演繹法」について説明。ここでは「アブダクション」によって仮説を立て、そこから演繹によって予言を引き出すという、推論の方法の一種としている※。
第5章と6章では実験の方法論(対照実験やコントロール)や統計リテラシーについての基礎的な話。
ポパーの反証可能性の指標と、反証が出たからといってすぐに理論が捨てられるわけではないという話もこの中で説明されている。
統計の話題の中では、センター試験の成績と二次試験の成績の相関の話が面白い。入学者だけを母数としたら負の相関が出てしまったそうである。
落ちた人も含めないと正の相関にならないのだ。
0578つづき
垢版 |
2013/01/17(木) 01:42:09.42
第二部では原発事故を題材に、放射線リスクについて具体的に考えながら、「市民」に必要な科学リテラシーについて論じていく。
現代社会では、科学・技術だけでは解決できない問題の領域があり(トランスサイエンス)、それを解決するには市民の主体的な参加が必要であるという。
素人であっても科学の暴走を防ぐ責任があるのだ。これを著者は「シビリアンコントロール」と称している。
これは、STSでは「ガバナンス」などと言われる事だが、著者は市民の責任を強調するためにあえて刺激的な言葉を使っている。
市民は、問題の枠組み(フレーミング)を提議するべきであり、個々の科学知識というよりも、メタ科学的な方法によって科学の営みをチェックできることが重要ということ。
良識的な議論ではあるが、ここで立てられている「市民」というのは、いかにも丸山真男的というか近代的な主体であり、我々愚民にはいささか荷が重い感じがする。
著者は内田樹などの言葉を引いて、市民は「大衆」であってはならないと言うのだが、
これは一歩間違うと、テクノクラートや為政者の過失の責任を、自己責任の名のもとに一般市民に押し付けるための詭弁にもなるのではないか。
第二部の論旨に関しては、もう少し「社会科学」の分野で検討されるべきではないかという気がする。
「社会科学」の科学性について著者がどう考えているのかはこの著書ではよくわからない。価値観が完全に分離されない限り「社会科学」は狭義の科学には分類されないのかもしれない。
この本で扱われる「科学」はほとんど「自然科学」を想定しているようである。冒頭では、「相関」「有意差」といった統計用語が「メタ科学概念」に分類されているが、
それはなぜ「メタ」なのかと突っ込んで問われるとなかなか難しいところ。このあたりの説明もしてほしかった。
0579つづき
垢版 |
2013/01/17(木) 01:44:38.53
全体として初心者向けで読みやすいが、一言で言うと「啓蒙主義的」な感じがする。「グレーゾーンの中でよりマシな方向を目指す」という科学観は決め打ちされており、
他の異端的な考え方…素朴な科学絶対主義も、ファイヤアーベントのような過激な相対主義や懐疑主義的な反科学思想も最初から無視されている(冒頭で言及されている竹内薫はファイヤアーベント信奉者)、
両極端が止揚され乗り越えられた結果が、グラデーション的科学観となる、という感じか。
この先生の以前の一般向け著作…『論文の教室』(NHKブックス)などを読んだ印象では、もう少し面白みというかサービス精神のある文章を書く人だと思っていたのだが、
この本では「市民の啓蒙」を意識したせいか、やや堅苦しくエンタメ性は薄い。自分が読んだのは第二刷だが、第一刷からだいぶ修正・改訂がされているとのこと。★★★★

※「仮説演繹法」についてググって調べてみると、「演繹によって予言を引き出す」だけでなく、その後の検証の過程も含めて説明しているものもある。
「検証」すなわち「帰納」の過程であるから、その意味で「仮説演繹法」とは「帰納法」の一種ということになる。
おそらくヒューウェルによってこの言葉が作られた時には「演繹による予測」の方法だったものが、ポパーらによって援用されていくうちに検証過程も含む意味になってきたのではなかろうか。
原義によるなら「仮説演繹法」という命名でも妥当だが、後者の意味だと混乱しやすい。「数学的帰納法」が実質的には演繹法であるのと同様に紛らわしい言葉だ。
0580無名草子さん
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2013/01/18(金) 00:29:38.31
レビューおせーよ
0581無名草子さん
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2013/01/21(月) 00:15:49.42
新書ベストというスレの趣旨に合わないかもしれないが、ここらで変な本を紹介してみます。森山徹『ダンゴムシには心はあるのか』(PHPサイエンス・ワールド新書)。
それなりに期待して買った新書。一見まともな理系本。動物行動学や認知科学・システム論の本だろうと予想。
ところが「心とは何か」と題した第一章を読み進むにつれ、困惑が雨雲のごとく脳裏に広がっていく。
まずは心の科学を開始するにあたって、「心とは何か」についての考察を展開しているわけだが、妙に思弁的な話で、腑に落ちる感じがしない。
著者の「心とは何か」についての理論はおおむね以下のとおり。心とは「行動する観察対象における、隠れた活動部位」であり
「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制している」ものである。
しかし「未知の状況」では、「自律的」にある行動の抑制を解き、その余計な行動を「自発的」に発現させる。
よって、対象を「未知の状況」に置き、「予想外の行動」を発現させてみれば、隠れた活動部位すなわち心の実体を現前させることになる、と言うのである。
また、我々は、他者や動物の「行動の発現を抑制している隠れた部位」の働きを「気配」として感じるのだ、とも言う。
(「気配」というのも怪しい言葉だが、認知科学的に基礎づけるのは可能なのかもしれない)。よくわからないながらも、なかなか面白そうな着眼点ではあるし、
哲学における「心の哲学」や現象学のようなものに照らしてみれば、それなりに正当化できる部分もありそうではある。
しかしそうした既成の哲学を参照したり哲学者との議論を蓄積した形跡はない(参考文献にも哲学関連のものは挙がっておらず、認知科学や動物行動学関連ばかりである)
もっとも哲学も独断の宝庫だから、哲学的に議論したところで客観性が増すとは限らないが。
著者は、動物や虫だけではなく最終的には石ころなどの無生物にも心が見いだせると言う。
一種のアニミズムであり、文化的・宗教的には目新しいものではないが、それが科学として成立するものかどうか疑惑が生じる。
もっとも、物理学でも「素粒子の自由意志」※という考え方があるらしいし、科学にならないとも断言できない。

※(→筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』岩波科学ライブラリー)
0582つづき
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2013/01/21(月) 00:18:13.39
また、よくわからない文脈で著者の幼少の頃のエピソードが述べられており、これがまた奇妙な印象を残す。曰く、
「著者が3歳の頃、友達の家に遊びに行った時に廊下に木製の薬箱を見かけた。それを見た瞬間、著者は自分が走りだし薬箱に躓いて転び
頭を打ち出血するという光景がありありと目前に浮かんだ。次の瞬間に、実際に自分が走りだして躓いて転び頭から出血した」という話である。
つまり自分の衝動的な行動をその直前に予見視した、というのだ。
著者は「想像したことを身体が勝手に実行したのだ」と解釈しているが、どうも自分にはこれは「記憶の改変」の事例ではないかと感じられる。
実際には予見などしておらず、衝動的に走って転んで怪我をした後に、「予見をした」という記憶が作られたのではなかろうか。
いくら幼児とは言え、頭から出血するところまで予見しながら、その通りの行動をしてしまうのは不自然ではないか?
真実は藪の中だが、自分の記憶に疑問を持たない認知科学者というのもどうかと思うし、ここでも独断的なものを感じてしまった。
実はこの第一章で読み続ける気力がだいぶ失せてきたのだが、第二章でようやくダンゴムシが登場して、少し面白くなる。
ダンゴムシというのは気色悪くもあるが、よく見るとなかなか可愛らしい(写真あり)。実験ではダンゴムシの「交替制転向」という本能に注目する。
例えば障害物などに突き当った時に右に曲がったら次は左に曲がり、左の次は右に曲がるという性質がある。
捕食者に追われて逃げる場合、右に曲がった次に、すぐまた右に曲がったら、敵のいる方に戻ってしまうわけで、交替制転向は生存戦略の上で理にかなった進化だと考えられる。
実験では、ダンゴムシをいろいろな「未知の状況」に置き、この交替制転向の行動に変化が見られるかどうか観察する。
するとダンゴムシの一部は「予想外の行動」を示し、著者はこれを自律的な「心の発現」だと解釈する。
0583つづき
垢版 |
2013/01/21(月) 00:18:56.75
実験自体は面白いと思うが、いろいろ疑問点は多い。
例えば著者は「未知の状況」「予想外の行動」と言うが、この「未知」とか「予想外」というのは誰目線なのか?本当にダンゴムシにとって「未知」で「予想外」と言えるのか?
はっきりした基準があるように見えないし、著者の恣意的な主観による解釈ではないのか?(まぁ実験室で自然界にはない状況を作れば「未知」だとは言えるかもしれない)
そして「予想外の行動」が現れたことについては認めるとしても、それが「心の現前」だと解釈するのは飛躍しすぎと感じる。それは単なる予想外のバグじゃないのか?(虫だけに…)
また行動が「自律」かどうかについても明確な判別基準がないように見える。もっとも科学の研究というのは一見トンデモない発想であっても強い信念で突き進むことによって新しい発見に繋がるものなのかもしれない。
しかしこの強い信念が間違っていた場合には修正がきかず本当にトンデモない方向に逝ってしまうリスクもあるのではないか。
自分はこれを読みながら、アフォーダンスとか、郡司ペギオ幸夫などの奇抜なシステム論の人達を連想していた。
するとあとがきで、著者は大学院で郡司氏の指導を受けていたことが判明、妙に納得してしまった。
自分には意味不明なところが多くて評価不能だが、さしあたり「奇書」のカテゴリーに入れておくのが妥当な気がする。
トンデモとは断定しないが先日紹介した戸田山先生の本に即せば、黒に近いグレーといいうことで星2個★★
0584無名草子さん
垢版 |
2013/01/21(月) 20:03:24.20
レビューありがとう。今年もよろしく。
0585つづき
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2013/01/22(火) 00:04:57.87
私物化してるみたいで恐縮ですが、このスレがある間は書かせて頂きますのでよろしく。
0586無名草子さん
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2013/01/22(火) 00:18:34.39
上村忠男『ヴィーコ』(中公新書)。17〜8世紀のナポリ出身の哲学者ヴィーコの学問論を中心に解説した入門書。
まえがきによると、著者は大学院でイタリア・ファシズムの研究を進めるに当たって、「そもそも学問とは何か」という疑問に突き当たり、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を紐解く中でヴィーコに出会ったとのこと。
第一章ではナポリ大学の開講式で講演した『開講講演集』を検討してヴィーコの学問観をを探る。
ここでは「人間の自然本性」に従えという提言、「クリティカ」(真偽の判断に関する術)に対する「トピカ」(論拠の在り処の発見にかかわる術)の重要性、
「実践」とは単なる「理論の応用」ではなく、実践特有の意義があること、などが述べられる。
「トピカ」とはいかなるものかについては、ここではまだあまり詳しく説明されていないが、現代の用語で言えば「ヒューリスティック」に近いのだろうか。
さらに現代風に超訳すれば、論理的・演繹的・コンピュータ的な真偽の判断(クリティカ)に対する、人間的・直感的な発見の方法(トピカ)の重視、という風に自分は理解した。
第二章では、近代の自然学における、数学的・デカルト的な演繹的方法への批判について。
またヴィーコの科学論と、当時のナポリの科学アカデミーである「インヴェスティガンティ」の知識理論との関係が検討される。
0587つづき
垢版 |
2013/01/22(火) 00:19:16.61
第三章では、デカルト批判とともに、「真なるものと作られたものは置換される」「真理の基準は当の真理自体を作り出した」というヴィーコの知識理論を説明・検討する。
また伝統的なキリスト教神学がヴィーコの知識論に与えた影響が指摘される。このあたりの議論はなかなか難しいが、
簡単に言えば、人間が作ったもの、作り得るものは人間が理解できる(それ以外は神のみぞ知る)というようなことか。
第四章では、法と人間社会に関するヴィーコの思想を検討。1725年に出た『新しい学』では、政治哲学の論証可能性について「コペルニクス的転回」が生じたとする。
まずヴィーコは、「万民の自然法」の解明とためには、哲学者の「道理」・文献学者の「権威」は拠り所とするに値しないと言う。
これらの人間および神に関する一切の学識について白紙に戻さなくてはならない。その上で、原始古代の人間世界の起源に立ち戻るべきであると言う。
そして「人間の世界は人間によって作られてきた」という事実に永遠の真理を見る。
よって原始の社会の諸原理は「人間知性の自然本性的なあり方のうちに、ひいては私たちの理解の能力のうちに見出される」ということになる。
前章との関係で言えば、法や社会は人間が作ったものであるから理解し得るはずのものである。
さらにこうした「人間の自然本性に基づいた制作」という確実な足場を見出した以上、そこから幾何学的演繹的な推理・証明も可能になる。この演繹的証明は「神的」なものでもある。
第五章ではこうしたヴィーコの到達した思想と、キリスト教的プラトニズムとの関係について論じている。この章の論点も多岐にわたっていて要約が難しいので省略w
0588つづき
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2013/01/22(火) 00:22:13.84
第六章では、「最初の人間たち」の思考を推理することの困難、人類の「共通感覚」への着目が語られた後、
ヴィーコの方法とは、「世界をあたかも一冊のテクストのように見立て…意味のコンテクストを“知性の内なる辞書”を頼りに読みといていこう」というものだという。
そしてこれは、本居宣長の方法に近いと言う。本居宣長は、「漢意(からごころ)」の主知主義的・理性主義的錯誤の危険性を認識しつつ、
感情的自己移入の不可能性をも自覚していた。また、レヴィ=ストロースやフッサールとの共通性を指摘している。
第七章では「最初の諸国民は詩的記号によって語っていた」というヴィーコの思想と、レトリック(修辞学)の伝統との関連が示される。
また現代の哲学者ガダマーの思想と比較されている。第八章では「バロック人」としてのヴィーコが語られる。
『新しい学』に附された口絵のように、寓意画などを使用する思考の方法はバロック的なものだという。
また寓意画のような視覚の知とはヴィーコの重視する「トピカ的な知」でもある。最後の「結語」では、以上の濃密な内容を簡単に要約している。
啓蒙書としてはやや本格的なものだが、ヴィーコの思想自体は、現代の科学批判などに通じる部分が結構あって、特に理解が困難ということはない。
ただ翻訳されたヴィーコの引用文はやはり読みにくく、それに影響されたのか、著者自身も時おり、とんでもなく長く複雑な構文の文章を書いていて、ゲンナリさせられる部分もある。
ヴィーコの思想に現代的な意義があるのかどうかはよくわからないし、自分がどの程度理解できたのかもよくわからないが、人文系教養書としては上質なものだと思うので星4つ★★★★
0589つづき
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2013/01/26(土) 19:12:29.03
言われなくても読んでおくべき岩波新書青版をオススメ順に力の限り紹介する
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-662.html

20冊紹介されてる中で自分は12冊が未読。
コンプリートしようという気もないが、そのうち何冊かは読む予定。
0590無名草子さん
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2013/01/26(土) 21:21:12.09
>>589
偉そうに。言われなくても?
誰もお前求めてねーからやめろ
0593無名草子さん
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2013/02/11(月) 22:59:09.01
もうすぐバレンタインですね
0595無名草子さん
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2013/02/17(日) 13:59:04.26
聖書の入門書だと、どれがいいですか?
0596無名草子さん
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2013/02/17(日) 14:51:34.90
>>595
キリスト教じゃなくて聖書なの?
0597無名草子さん
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2013/02/17(日) 17:12:32.89
>>596
はい、そうです。
聖書の記述に沿ったような入門書を探しています。
0598無名草子さん
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2013/02/17(日) 22:35:24.85
>>597
聖書の何が知りたいかにもよるんじゃないの。
聖書の成り立ちの歴史とかそういうこと?
0600無名草子さん
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2013/02/17(日) 23:46:07.83
ただ>>599の新書リストの中で選ぶとすれば
古いところでは、赤司道雄『聖書』(中公新書)とピーター・ミルワード『聖書は何を語っているか』(講談社現代新書)あたり
新しいところでは、大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書)あたりに絞られてくるだろうな。
0601無名草子さん
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2013/02/25(月) 14:22:42.67
初心者向けのを求めているなら、「面白いほどよくわかる」シリーズの『聖書のすべて』とか
図解雑学『聖書』などでいいんじゃないかな。
もっと高度なのが欲しいならキリスト教徒に訊いてくれw
0602無名草子さん
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2013/02/26(火) 18:20:22.95
>>599
その聖書本いいよな。俺もおすすめ。
あとは「捏造された聖書」とかもおすすめ。
0603無名草子さん
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2013/03/04(月) 01:01:03.30
そういえば、レビューなくなったな
0604無名草子さん
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2013/03/06(水) 00:15:54.79
角山栄『茶の世界史』(中公新書)。『〜の世界史』というタイトルの新書はたくさん出ているが、その初期のものだろう(初版は1980年)。
『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)の著者である川北稔はこの人の弟子にあたるらしい。
二部に分かれていて、第一部は「文化としての茶」第二部は「商品としての茶」というタイトルになっている。
ただ、タイトル通りの内容になっているかどうかは微妙。文化としての茶に注目していても、同時に商品としての側面を無視できないし、逆も同じだろう。
第一部は、ヨーロッパがアジアて茶を発見し、文化として受け入れ広がっていく過程、つまりヨーロッパ目線で記述されており、
二部は明治以降の日本が官民一体で世界市場に向けて茶を輸出するべく悪戦苦闘していく経緯、つまり日本目線で述べられている。
著者は「文化VS商品」という図式にこだわっており、目次にもそれが反映されている。
ヨーロッパ人は16世紀後半に、中国や日本の茶文化を知り、特にオランダ人は日本の茶の湯文化に大いに驚いたという。
イギリスには1630年代中頃にオランダを通じて入ってきて、コーヒー・ハウスで売られる。コーヒー※は茶より少し前に入ってきていた。
最初は薬効が宣伝され、後には宮廷における東洋趣味に乗って文化として広がっていく。また、最初は緑茶の輸入が多かったが、だんだん紅茶の割合が増加していく。
ちなみに「緑茶が船で運ばれて来る途中で熱帯の暑さで自然に発酵して紅茶となった」という話は俗説であるとのこと。
0605つづき
垢版 |
2013/03/06(水) 00:16:54.08
次いで、イギリスにおいて、コーヒーやココアを抑えて茶が一般化した理由を考察。理由としては、水が適していた点、伝統的な代用茶がすでにあった事など。
コーヒーに関しては、コーヒーの供給確保の国際競争に負けたことで衰退したらしい。
ココア・チョコレートは高かったことと、ハリケーンでイギリス領のカカオが壊滅した事件などが影響して衰退したとのこと。
なお、壊血病対策(ビタミンC確保)のために茶が普及したという説が紹介されているが、著者は否定的(紅茶にはビタミンCは乏しい等)。
フランスやドイツでは茶はあまり普及しなかった。次に中世・近世において、食い物を手づかみで食っていたような西洋の食文化が、
中国などに比べて貧しかったことを指摘し、西洋はそうしたコンプレックスをバネに紅茶文化を発展させていったことが述べられる。
しかし、この点は著者のバイアスが強い感じがある。箸で食うよりも手づかみで食う方が文化が貧しい、とは必ずしも言えないだろう。
ところで、紅茶には砂糖とミルクが付き物であり、紅茶の普及と共に砂糖の需要も増大していく。
こうして砂糖植民地の確保が課題となり、紅茶文化は「紅茶帝国主義」として展開していく。
アフリカ西海岸における奴隷貿易と西インドの奴隷制砂糖植民地、そしてイギリス本土との三角貿易が展開していく。
さらに中国に対しても、茶の輸入の決済のためにイギリスから銀が流出することが問題となり、
この貿易不均衡是正のためにインドで栽培したアヘンを中国に輸出する。これがアヘン戦争に繋がる。
イギリスに産業革命が起こり、インドの綿業を壊滅させる。19世紀になるとインド茶の製造が開始される。
0606つづき
垢版 |
2013/03/06(水) 00:17:53.88
第二部では日本の開国から話が始まる。最初の日本の二大輸出品は生糸と茶であったが、次第に茶の割合は減っていき、明治20年代末には綿にも抜かれて脱落していく。
官民一体となって、イギリス、オーストラリア、アメリカへと、市場を求めて販路拡大に勤しむのだがが、結局はセイロン茶などに敗れていくことになる。
この第二部の内容の方が著者の専門における本領らしく、日本の茶輸出ビジネスの盛衰が豊富な資料とともに詳細に記されている。
しかし、お茶業界に特に思い入れもない者としては、正直あまり興味が持てる内容ではなかった。単に比較劣位の産業が衰退しただけじゃないの?という冷めた見方をしてしまう。
日本の茶輸出産業史なので、「世界史」という感じも薄い。ただ、アメリカでは一時期、日本から輸入した緑茶が飲まれていた(しかも砂糖とミルク入りで)というのは意外な話で面白い。
コーラやスタバのコーヒーを飲んでいる現代アメリカ人は、何代か前の先祖が緑茶を飲んでいたことを知っているのだろうか。
日本の茶が敗れた原因としては、生産性が低く、品質が悪く割高、しかもマーケティングや宣伝が拙劣だったとのこと。
商売が下手な上に、しばしば粗悪品を納入して信用を失っていた(少し前の中国みたいなことをやっていた)というから負けるのは当然であった。
そもそも官僚主導の産業政策が成功する余地があったのかどうかという疑問もあるが、著者はその点は論じていない
最後に再び、「商品」の世界(大量消費・大衆社会・資本主義)を批判し、茶の湯などの「文化」の復権を主張して終わる。
最初にも書いたが、今読むと、「商品VS文化」という図式化がどうも陳腐に感じる。これが書かれた当時は新鮮だったのかもしれないが。
著者はどちらかと言えば保守寄りで、ナショナリスティックでもあるが、帝国主義の理解などに関してはマルクス主義とほぼ同じ見解を踏襲しているようだ。
面白さは期待したほどではなく、文化についての考え方にも古臭さを感じたが、この手の新書のパイオニアに敬意を表して星4つ★★★★。

※コーヒーに関しては、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る』(中公新書)がベストに入っている。
0607無名草子さん
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2013/03/06(水) 01:28:16.44
橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)
20世紀初頭のオーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタイン※1の「後期」の哲学における主要な考え方である「言語ゲーム」の入門とその応用。
第1章ではヴィトゲンシュタインの経歴と時代背景を素描。ウィーンの同じ工業高校にヒトラーも通っていたとのこと。
第2章は、20世紀における、フレーゲ、ラッセルによる論理学の展開、カントールの集合論、数学基礎論の展開を簡単にまとめている。
このあたりは他に多くの啓蒙書が存在するということで、あまり詳しい説明はされていない。
3章では、ラッセルに弟子入りして哲学を始めた事と、第一次大戦やロシア革命などの時代背景が述べられる。
4章では、第一次大戦に従軍しながら書き上げた『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)について解説。
この著作でのポイントは、まず、命題の構造と出来事・世界の構造は「論理構造」において一致し、「言語と世界が一対一に対応する」こと。
そして、「世界」は丸ごと『論考』という書物の中に押し込めてしまえるということである。
これは、無限集合においては、その全体集合と真部分集合の間に一対一対応が付いてしまう事に対応し、
また「世界」が一つの書物に押し込められるというイメージは、この哲学が一種の「独我論」である事に対応する。
このあたりはなかなか説得力があるが、著者独自の解釈だろうか。また戦争と宗教的思想がそれに与えた影響を論じている。
宗教的・倫理的影響としては、従軍当時に熟読していたというトルストイ『要約福音書』が重要とのこと。
さらに、『論考』の最後の命題7「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」について。これは一種の自己言及的パラドックスの論理であって、
それまでに述べてきた命題すべてを消去するような「…なおこの書物は自動的に消去される」と言うことに等しい。
『論考』とは読まれた後に消滅すべき書物であり、「間違った哲学にふりかける消化薬のようなもの」である。
0608つづき
垢版 |
2013/03/06(水) 01:29:08.95
第5章では『論考』によって哲学の問題はほぼ消滅したと考えたヴィトゲンシュタインが哲学をやめ、小学校の教師をしたり、姉の新築の建築をやったりするが、
次第に『論考』の言語理論「世界と言語が一対一に対応する」の間違いに気づき、哲学を再開する。そして「言語ゲーム」のアイデアを得る。
第6章ではいよいよその「言語ゲーム」の説明。言語ゲームとは「規則(ルール)に従った人々のふるまい」である。
『哲学探求』(以下『探求』)※2では、石工の親方と助手の建築作業を例にして、この「言語ゲーム」を描写する。
「言語の意味」とは人々が現にルールに従って行動していることによって根拠づけられる。
「私的言語」や「数列モデル」に触れた後、この章の後半では、ナチスの台頭とともにユダヤ系であるヴィトゲンシュタイン一家が危機に陥っていく経緯が述べられる。
第7章ではクリプキやネルソン・グッドマンの議論を参照しながら「ルール懐疑主義」とその解決の方向が論じられる。
例えば、一つの数列からはどんなルールでも読み取ることができる。著者は常識的な「規則」に対して、無理に読み取られた奇妙な規則を「奇則」と名付けて、
それが「奇則」であることは「見ればわかる」と片付けている。しかし時には「奇則」が採用されてしまうこともあり、それがナチスだったとも言う。
第8章では「言語ゲーム」の考え方を法学に応用。H.L.A.ハートという法哲学者の法理論を「言語ゲーム」的に解釈している。
ここでは規則を「一次ルール」と「二次ルール」に分けている。前者は、審判のいない草野球のように、法がなくても皆が自然に暗黙のルールに従っている状態であり、
後者では法が明文化され人々はそれを参照しつつ従っている。章の後半では、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における法の位置づけについて整理している。
第9章では「言語ゲーム」で仏教を分析。第10章では江戸時代の日本思想、伊藤仁斎・荻生徂徠・山本闇斎らの儒学及び朱子学批判と、本居宣長の国学を扱う。
著者は日本の歴史・思想史も言語ゲームの蓄積の歴史と考える。第11章では、ヴィドゲンシュタインの哲学の「前期」と「後期」のつながりを考える。
また信仰や価値観との関係を論じ、文明の衝突や相対主義を超える可能性を「言語ゲーム」の思想に見出す。
0609つづき
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2013/03/06(水) 01:30:22.78
読んだ感想としては、非常に感心した部分と、強い違和感を覚えた部分が混在。
「言語ゲーム」の考え方を社会の原理の根底に据えようという著者の態度は、「現象学」を社会の共同性の原理に据えようという竹田青嗣の思想を思わせる。
自分はいずれにも違和感を覚える。また、著者の思考が「演繹」だけに偏っているような気がする。論理の整合性だけで満足しているような印象。
そもそも「言語ゲーム」というアイデアを社会学や思想史に応用することについて、ヴィトゲンシュタイン自身はおそらく同意しないと思われる。
本書でも述べられているように、ヴィトゲンシュタインの哲学は、哲学的病いに対する薬であり、個々の問題に対して慎重に処方すべきものであり、
万能薬のように使われることは想定していないのではないか。もっとも後世の人間が過去の遺産をどう使おうと自由なのかもしれないが。
また著者が「ルール懐疑論」を「見ればわかる」と簡単に片付けているのもどうかと思う。
ヴィトゲンシュタインは「哲学病」に対する医者であろうとしたが、自身が患者も兼ねていた(そういう面ではニーチェにも似ている)。
懐疑は自分の実感でもあったのだと思う。そして現実に「正しいルール」を読み取ることが困難な、ある種の発達障害のような人もいるわけである。
「異常なルール」を「奇則」などと名付けるのは、そうした少数者を切り捨てるように見え、どこか無神経な感じがする。★★★

※1 他の本や翻訳では「ウィトゲンシュタイン」と表記されることが多いが、著者は「ヴ」と表記している。
※2『哲学探求』の和訳がアップされているサイト→ http://www.geocities.co.jp/mickindex/wittgenstein/idx_witt.html
ただし、全訳ではないようだ。
0610無名草子さん
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2013/03/17(日) 03:01:09.55
大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎新書)。著者は超弦理論で世界的な業績を持つ一流物理学者。現役バリバリの理系研究者が新書を書いたということで、かなり話題になった。
一流の研究者が必ずしも啓蒙書を書くのが得意とは限らないが(というより、現役の研究者は自分の研究が忙して、啓蒙書など書く隙がない人が多いと思われるが)、
この人は珍しく非常に啓蒙に乗り気な人で、かなり熱を込めて書いている。
第一章では「重力の七不思議」と題して、重力の不思議な性質をまとめている。同時にニュートン力学レベルにおける重力の概念がだいたいわかるようになっている。
第二章では、特殊相対性理論の説明。このあたりの話題については、昔からブルーバックスなど多くの啓蒙書が出ているわけだが、
最先端の理論を説明する場合でも、相手が一般人であれば、いちいちごく基礎的な話から始めなくてはならないのが理系啓蒙書の辛いところだろうとお察しする。
亜光速における時間の伸び縮みや、E=mc^2の説明など、数式をほとんど使わずに、上手く説明している。
第三章では一般相対性理論を説明しながら、重力はなぜ生じるのかを論じる。
時空の歪みの理論と、その実証的証拠として、「水星の軌道」「重力レンズ効果」「重力波」「GPS」を提出する。
第四章では、ブラックホールと宇宙創世ビッグバンの話。
ペンローズとホーキングの理論によると、アインシュタインの方程式を使って宇宙の過去に遡ると、初期宇宙には特異点が生じ、アインシュタイン理論は破綻してしまうと言う。
第五章では量子力学・場の量子論・素粒子論。このあたりについてもブルーバックスなどの啓蒙書が多くあるわけだが、ここでは30ページほどで簡単にまとめている。
第六章では超弦理論が解説される。著者は「超ひも」ではなく「超弦」の語を使っているわけだが、
「弦が振動する」というニュアンスを伝えるためにも「弦」の方が妥当だということらしい。ここではトポロジーが導入され、素人にはもう理解し難くなってくる。
0611つづき
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2013/03/17(日) 03:01:59.88
第七章ではブラックホールの情報問題が論じられる。「ホーキング放射」や「負のエネルギー」が登場し、難解だが面白い。
ホーキングによると、ブラックホールが蒸発すると、ブラックホールに投げ入れられた情報は失われ因果律が崩壊するので、
相対論と量子力学のうち、量子力学の方を修正する必要があると考えた。
しかし超弦理論とホログラフィー原理によって、ブラックホールの情報問題は量子力学のみの問題に還元されたとのこと。
量子力学は重力の関わらない理論なので情報は失われない。著者はこの問題が解けたことを、超弦理論にとって大きな成功だと言う。
最後の第八章では、超弦理論の実証的展開を展望している。
金の原子核同士を亜光速で衝突させる実験で、クォークが解放される「クォーク・グルーオン・プラズマ」が、粘性のない「完全流体」となることが発見された。
しかしこの結果は超弦理論のホログラフィー原理で予言されていた。また、高温超伝導の原理が、超弦理論を使って解明されることも期待されている。
最後に、マルチバース宇宙モデルや人間原理が紹介される。ただし著者は、なんでも人間原理で割りきってしまうことに対する批判も述べている。
「最初から人間原理で考えていると、実は理論から演繹できる現象を見逃して「偶然」で片付けてしまうおそれがあるから」である。
前に幻冬舎新書で出て結構売れた、村山斉の『宇宙は何でできているか』と同様、幻冬舎にしては良心的な科学啓蒙書であるが、
これを読んでも「わかったような気になる」だけにすぎないとも言える。きちんと理解するためには、高度な知能と長年にわたる専門的な知的訓練が必要なのだろう。
自分などはこれから一生かけて勉強しても理解できないだろうが、これを読んだ小中学生の中から、また大栗先生のような世界的な物理学者が誕生するとすれば素晴らしいことだ。
我々凡人は「わかったつもりになる」ことだけは自戒した上で、気軽に楽しんで読めばいいと思う。★★★★
0612無名草子さん
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2013/03/17(日) 03:07:28.24
香取眞理『複雑系を解く確率モデル』(ブルーバックス)。相転移や臨界現象の複雑系を扱う統計物理学※の入門書。
第1章では、水の三相を扱う「格子ガスモデル」について。格子のマス目に(様々な圧力の設定に従って)分子を配置し、
隣同士の分子が相互作用する確率を決めてシミュレーションする。すると臨界点ではフラクタル構造を示す。
第2章では、磁力の謎を解くために、量子力学と統計力学を使った「イジングモデル」を紹介。多くの電子のスピンの向きがマクロで揃うと磁力が生じる。
スピンの向きが揃うと、パウリの排他律によって電子同士が距離を保つので、電子間のクーロン力が働かずポテンシャルエネルギーが低く、
2つの電子の向きが逆だと近づけるためクーロン力が働きポテンシャルエネルギーが高くなる。
エネルギーは高い状態から低い状態に変化するので、スピンは揃うようになる。だが温度が上がるとエントロピーが増えて乱雑化の方向にも向かい、
「キュリー温度」という「共時性相転移の臨界温度」では磁力がなくなるのである。
これもスピンの向きを上下の矢印にして格子に配置してモデル化する。著者はこのモデルが森林生態のモデルに似ていることに注目する。
0613つづき
垢版 |
2013/03/17(日) 03:08:16.29
第3章では、「伝承病伝播モデル」と、「パーコレーションモデル」を紹介。
伝染病モデルは格子のマス目に人が一人づつ住んでいる状態を考え、前後左右に感染者が1〜4人いる状態ごとに感染する確率を決める。
周囲に感染者が1人いる場合の感染率をλとすると4人いる場合は4λである。簡便化のために感染者は一週間で自然治癒するものとしておく。
こうして感染率λを様々に設定してシミュレーション。するとある感染率以下では伝染病は有限時間内に撲滅されてしまうが、
ある臨界値をを超えると無限に蔓延していく「蔓延相」へと相転移する。この臨界感染率を今のところ理論計算では求めることはできない。
ある人の隣に感染者がいる確率を求めるのが難しい(そのまた隣の周囲にどれだけ感染者がいるのか知らねばならず、そのまた隣の…となる)ため。
また「感染者による、感染プロセスに対する遮蔽効果」(感染している最中の人には感染しない)もある。
「パーコレーション・モデル」とはコンクリートなどに水が染みこんでいくモデルである。
水は細かいひび割れや樹状の隙間を通って染みこんでいくので、モデルはあみだクジのようになる。これも、見た目のわかりやすさに反して非常な難問だという。
0614つづき
垢版 |
2013/03/17(日) 03:11:28.92
第4章では「自己組織化臨界現象」における「べき乗則」を説明し、「砂山くずしのモデル」を検討。
べき乗則とはスケール変換をしても形の変わらない(部分と全体が相似)べき乗関数・分布に従う物理法則である。
砂浜などでサラサラの砂で山を作ると、ある程度以上の勾配を持った山を作ることはできず、無理に積み上げると「なだれ」を起こして、また同じ勾配に落ち着く。
これをブロックの階段のようなモデルにして、隣のブロックとの段差がある程度以上増えると、ブロックが隣に転げ落ちるようにする。
隣に落ちて隣もその低い隣との段差が増えと、そのまた隣へと転げ落ち「なだれ」になる。
これをさらに一般化して、段差だけを考え、大きさを決めた二次元正方格子にして(砂山を上から見た形)、
「なだれ」がその正方形の外まで落ちたらそれっきり「散逸」するものとする(本物の砂山と違いそれ以上でかくならない)。
こうしてブロックをランダムに積んで「なだれ」の規模や継続時間の分布を調べる。
1回のなだれに巻き込まれた格子(サイト)の総数sをなだれのサイズと定義すると、サイズごとの頻度分布P(s)はべき乗分布に従う。
0615つづき
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2013/03/17(日) 03:13:16.24
第5章では、統計的定常状態とはどういうものかについて簡単に紹介する。熱平衡状態のような定常状態では、エネルギーはある平均値の周りで揺らぎながら安定している。
またミクロなレベルでは、たとえばスピン反転の向きが上から下へ遷移する確率と下から上へ遷移する確率が対称で釣り合っている(詳細釣り合い)。
これに対して、伝染病のモデル(コンタクト・プロセス)では、自分が感染している状態から自然治癒には遷移するが、
自分が健康で周囲も健康な状態から感染はしないので、ミクロでは非対称である。しかしマクロでは定常状態になる。これを非平衡定常状態と言う。
最後に、場の量子論と融合させた統計的場の理論に言及。エピローグでは、確率モデルの研究における空間構造を考慮することの重要性が認識されてきたこと、
それにはコンピュータの発達と研究者の間で「臨界現象」への関心が高まってきたことを述べる。
統計物理学と複雑系に関する優れた入門書だが、97年発刊で、こうした分野の進歩の早さを考えるとやや古いかもしれない。
この本で「まだわかっていない」と書かれている事項も、今ではわかっているものがあるかもしれない。
理系の啓蒙書で最先端の研究を扱う場合の宿命だろう。絶版になっているのは、賞味期限切れということかもしれない。
しかし基礎的な部分で定説が覆っているようなことはないと思われる。自分には少し難しかった。星4つ★★★★。

※「統計物理学」とは聞き慣れない学問だが、「統計力学」よりも広く、複雑系科学などを含んだ名称のようだ。

複雑系やカオスについての入門書は新書でもいくつか出ているようだが、初心者向けとしてどれがいいのかはよくわからない。
蔵本由紀『非線形科学』 (集英社新書)などは、基礎を学ぶためのものというより、研究現場の雰囲気を知るための本だったと思う。
統計力学の基礎については、竹内淳『高校数学でわかるボルツマンの原理』(ブルーバックス)がある。
べき乗則については、新書ではないが、マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』(ハヤカワ文庫)という啓蒙書が出ている。
0616無名草子さん
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2013/03/18(月) 01:14:21.17
清水徹『ヴァレリー』(岩波新書)。副題は「知性と感性の相克」。
近代フランスを代表する「知性の人」として知られるヴァレリーの評伝。詩人・文芸評論家でありながら、理数系の学問にも傾倒したという万能型知識人である。
この新書では「知性」の面よりも「感性の人」としての側面に注目し、特に恋愛遍歴を重点的に追っている。
第1章ではヴァレリーが17才の時に出会った、20才年上のロヴィラ夫人への片想い。同時期に詩人マラルメに出会う。
それ以前から詩を書いていたヴァレリーだが、マラルメとの出会いと共に、その及び難さに直面したためか、詩を書くのをいったんやめている。
またある嵐の夜に「ジェノヴァの夜」と言われる一種の内面の「クー・デタ」を体験する。
具体的にヴァレリーの心の中で何が起こったのかはよくわからないが(宗教的回心に似ているがヴァレリーは一貫して無神論者である)、
どうやら「知性の人」への変化のきっかけになったらしい。やがてヴァレリーは自己省察や日々の思考を「カイエ」と呼ばれる膨大な手記として書き継いでいくようになる。
第2章では「ジェノヴァの夜」以降に変化したヴァレリーが書いた『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という評論と、
『ムッシュー・テストと劇場で』という小説について。ムッシュー・テストはヴァレリーによって創造された「知性の人」の理想像である。この頃に陸軍省に就職し、結婚もする。
第3章は、ロンドン旅行とヴァレリーがそこで受けた刺激についてや、ドイツ帝国の勃興について論じた「方法的制覇」という評論のことなど。この評論は第一次大戦を予見したものとして後に評判になった。
0617つづき
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2013/03/18(月) 01:15:37.61
第4章では第一次大戦の勃発、そして、ずっとやめていた詩作を再開し、長詩『若きパルク』の制作に着手する。ナショナリストであるヴァレリーは第一次大戦の帰趨に心は惑乱する。
戦争は詩にも影響を与え、フランスの勝利によって、『若きパルク』の結末も明るいものになった。
戦後に発表された『若きパルク』は評判になり、さらに『曙』『篠懸の樹に』『海辺の墓地』などの代表作が発表され、ヴァレリーは大詩人という評価を確立する。
第5章で、ヴァレリーは聡明で知性に満ちた貴婦人カトリーヌに出会い、熱愛関係になる。この時ヴァレリーは49才。妻子ある中年の不倫だが、家庭生活は恋愛とは別に平穏に営んでいた。
やがて、カトリーヌの自立心の増大、結核の悪化、様々なすれ違いが重なって、カトリーヌの方から関係を切られることになる。
第6章では、女流彫刻家ルネ・ヴォーティエへの恋。これはルネも他の男に片想いしていたためもあって、報われなかった。
既に50代後半の妻子あるインテリのオッサンが、千通ものラブレターを書送るというのは、日本人の感覚では「微笑ましい」の範囲を超えていて、
すげえなと思うばかり。今だとヘタすればストーカー扱いではなかろうか。
7章では、ヴァレリーの崇拝者であるエミリーとの交際。ヴァレリーはルネへの未練を残しながらも、自分のファンの据え膳を食った形。エミリーはヴァレリーやマラルメについての論文を発表した。
8章では、ヴァレリー最後の愛人ジャンヌ・ロヴィトンについて。ヴァレリーは既に60代半ば。ジャンヌは作家になるためのコネと結婚相手探しを兼ねて、劇作家のジロドゥーなどと二股三股かけていた。
ヴァレリーはこの恋愛から刺激を受けて、『我がファウスト』『孤独舎』といった対話劇を書き、さらにまた詩を書き始め、『コロナ』『コロニナ』という詩集が出来上がる。
しかし、ある日ジャンヌは自分が結婚することをヴァレリーに告げ、ヴァレリーはあっさり振られる。傷心のヴァレリーは健康も衰え、最後に未完の散文詩『天使』に手を入れた後、没する。
最後の「カイエ」では「心情」の勝利が書き記されており、「知性」が「感性」に敗北したかのようである。
0618つづき
垢版 |
2013/03/18(月) 01:37:36.94
読んだ感想としては「いい歳こいて元気な爺ィだな」に尽きる。最後のジャンヌとの別離にしても、そこまで落ち込むか?という疑問が。
年齢差を考えれば単なるパトロン扱いでも仕方ないだろう。しかもヴァレリー本人は老妻と別れる気などないのである。
これはヴァレリーの妻目線で見たら、相当ひどい話ではなかろうか。今でもフランスは不倫に対して寛容だというイメージがあるが、
フランスの恋愛文化では、ヴァレリーの行動は普通なのだろうか。家庭にまったく波風が立たなかったというのが不思議な感じがする。
日本の文士も浮気しまくりで、それが作品の題材だったりもするが、日本の場合は男の「遊び」は許容され、「本気」の不倫はスキャンダルになることが多いのではないか。
ヴァレリーについて何も知らなくても読める評伝ではあるが、ヴァレリーの「感性」の面中心の話なので、「知性の人」としての側面を知りたいという要求にはあまり応えてくれない。
そして、正直のところ、よく知りもしない他人の恋愛話など、たいして面白いものではない。
確かに引用されるヴァレリーの恋文は実に文学的で、一般人のものとはレベルが違うなとは思うが、そんなプライバシーを根掘り葉掘り追求するのも悪趣味な気がする。
0619つづき
垢版 |
2013/03/18(月) 01:39:26.26
『ムッシュー・テスト』というのは自分は一応読んだことがあるが、実にわけのわからない小説であるし、ヴァレリーの詩も難解なものが多いが、本書でこれらの意味がわかりやすく解説されているわけではない。
(今回、ヴァレリーの評論集『精神の危機』(岩波文庫)も併読してみた。前述の「方法的制覇」も収録されている。こちらは意味は一応わかるが、時代状況との関係を知らないと深くは理解できない)
またヴァレリーの文学史的・思想史的位置付けについてもあまり書かれていないので、初心者向け入門書とは言えないかもしれない。
日本の文学や知識人への影響も大きいと思われ、その辺りの話があるかと期待したが、それもここでは扱われていない。
フランス近代文学史について既にだいたいのことを知っている人や、ヴァレリーの詩※に親しんでいる人向けか。
本の内容が悪いわけではないが、自分の興味に応えてくれなかったので星3つ★★★。

※『ヴァレリー詩集』が岩波文庫で出ている。作品「海辺の墓地」の中の「風立ちぬ」の一節は堀辰雄の小説で有名。松田聖子の歌にも「風立ちぬ」というのがあるのを知っている人もいるだろう。
 (ただし岩波文庫では口語訳で「風吹き起る」になっている)
0620無名草子さん
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2013/03/19(火) 19:17:36.34
http://junko717.exblog.jp/

高い鼻を咲かしてくれ!
「そろ、そろ出番だ、お前のお鼻でも束ねるか?」

渡邊美樹の鼻(フラワー)ワタミの介護 控室。
渡邊美樹の悪口「会長って 鼻がヘン」厨房の男性が話していた。
「何か、鷲鼻、付けてる鼻、魔女の鼻」話してた。
0621無名草子さん
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2013/03/26(火) 22:13:25.02
過疎ってるな
0623無名草子さん
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2013/03/31(日) 22:02:05.53
砂糖の世界史と大して内容変わらないんだろ
0625無名草子さん
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2013/03/31(日) 23:44:57.13
「砂糖の世界史」と「茶の世界史」どちらもいい
どちらも図書館にある
「砂糖の世界史」は黒人奴隷の章がきつかった
0626無名草子さん
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2013/04/13(土) 00:39:59.94
ちくまプリマー新書
「世界征服」は可能か?
0627無名草子さん
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2013/04/13(土) 01:24:59.92
岡田斗司夫ね。ずいぶん前にブクオフで買ったけど未だに読んでないなぁ…
0628無名草子さん
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2013/04/28(日) 18:40:56.41
中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書・青版)。著者は著名なフランス文学者であり、日本近代文学に関する著作も多い。元東大総長の蓮實重彦の師匠でもある。
この新書では、詩歌や戯曲や評論については省かれているが、明治から大正までの代表的な小説家をほぼ網羅している。
まず明治最初期に開花期の風俗を滑稽にとらえた戯作・戯文が流行し、明治10年〜20年には政治小説と翻訳小説が登場した。
そして坪内逍遥が『当世書生気質』『小説神髄』を発表する。次にロシア文学に影響を受けた二葉亭四迷による『浮雲』が発表される。
言文一致体によって、現実と乖離した知識人の姿と、順応的で出世主義的な人物の成功を描いた。
彼は近代小説の真髄を正しく我が国に移植したが、そのために孤立を強いられ、作品はわずか3作に終わった。
また明治18年には尾崎紅葉が中心となって硯友社が結成される。同人誌「我楽多文庫」が発刊され、山田美妙などが参加。
紅葉の弟子には泉鏡花・徳田秋声などがいる。硯友社には属していないが紅葉と並んで重要なのが幸田露伴。
また同時代では、森鴎外・島崎藤村・北村透谷・饗庭篁村・斎藤緑雨・樋口一葉が挙げられている。
0629つづき
垢版 |
2013/04/28(日) 18:41:56.39
続く日清戦争終結から日露戦争終結までの10年間は、ロマン的な文学の全盛期とされ、詩や評論が前面にでて小説は第二線に退いたとされる。
川上眉山・広津柳浪・泉鏡花などの観念小説、小杉天外・永井荷風(初期)のゾライズム、徳富蘆花・内田魯庵などの社会小説がこの時代の傾向。
そして自然主義が現れる。自然主義の影響は、一見これに対立したように見える耽美派・白樺派や、鷗外・漱石といった孤立した巨人たちにも及んでいる。
自然主義の小説家としては、まず国木田独歩、そして田山花袋・島崎藤村・岩野泡鳴・徳田秋声と続く。
ここで、西欧文学における自然主義の影響が、日本の小説においては私小説として現れたのはなぜなのかが問題となってくる。
西欧では自然主義とその根底をなした科学主義の思想はロマン主義に対する反動だったのに対して、
日本においては自然主義がむしろロマン主義思想の一部をなしていたことによる、と著者は説明してる。
大正期になると、耽美派と白樺派が登場する。耽美派としては、永井荷風と谷崎潤一郎が挙げられ、特に著者は荷風を非常に高く評価している。
孤立した大作家として森鴎外と夏目漱石にそれぞれ改めて一章づつを当てた後、白樺派として、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などが挙げられる。
ここでは「心は心を抱きたがっている」と「心に直接触れる芸術」の思想を唱えた武者小路が重視されている。
0630つづき
垢版 |
2013/04/28(日) 18:44:35.94
大正期には世界的には第一次大戦とロシア革命といった大変動が起きているが、当時日本の文学者はそうした世界の流れからは孤立していた。
しかし大正4,5年から大正12年の大震災までの数年間に若い才能が異常な密度で輩出した。
広津和郎・葛西善蔵・宇野浩二・佐藤春夫・室生犀星・久保田万太郎・久米正雄・山本有三・菊池寛・芥川龍之介などに言及。
最後に芥川龍之介の自殺の意味を、その直前の谷崎潤一郎との論争と合わせて考察。
自分はここに出てくる作家の中で多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい。
個人的には作家の名前がずらずら出てくるだけで割と楽しめるので、このレビューでも作家名を羅列してみました。
知らない作家についても、今後読むかどうかはともかくとして、興味は惹かれた。
ここに出てくる作家の作品は青空文庫で読めるものも多いので(武者小路実篤や志賀直哉や谷崎潤一郎などまだ著作権が切れていないものは載ってないが)、
気が向いたら読んでみてもいいのではないか。年表・人名索引付き。星4つ★★★★。

こうした公式的な文学史に対して、フーコー的な方法を使って文学史そのものが捏造されていく過程を分析したものとして、
柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)があるので、興味のある人は併読してみてもいいと思う。
0631無名草子さん
垢版 |
2013/04/28(日) 18:49:25.83
中村光夫『日本の現代小説』(岩波新書・青版)。『日本の近代小説』の続編。
「現代」と言っても、この新書の初版が1968年(昭和43年)だから、その時代までということになる。
大正期、横光利一・川端康成らの「新感覚派」やプロレタリア文学から始まって、
最後に(当時の)新進作家代表として、石原慎太郎・開高健・大江健三郎が挙げられて終わる。
だから「内向の世代」は入っていないし、丸谷才一・中上健次・村上龍・村上春樹なども入ってない。
左翼思想と転向の文学史について概観できたのは良かったが、自分が戦後の左翼作家(野間宏など)を読んでみたいかというと、否である。
作家の名はたくさん出ていて、読書ガイドとしては悪くないが、こちらには索引が付いていないので不便。
あと『日本の近代小説』にもこちらにも、内田百閧ェ載ってないのにはちょっとガッカリ。
百間は随筆が主で小説作品は少ないので省かれたのかもしれないが、宇野千代は出てくるのである(この人も小説は寡作でエッセイが主)。
内容を詳しく紹介しようとすると、また作家名を羅列するだけになるので省略。星3つ★★★
0632無名草子さん
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2013/04/29(月) 01:17:06.41
>>630の「多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい」
というのは、文字通り読んだら計算が合わんわな。
「名前だけ知ってるのも含めたら8割くらい」と書くべきだったな。
0633無名草子さん
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2013/05/19(日) 01:31:30.44
コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』(ブルーバックス)。
量子力学における「多世界解釈(マルチバース)」を中心に紹介しながら対立する諸解釈を検討し、付随する哲学的問題などを考察する。
第1章ではスクラッチカードのモデルを使って、量子論の不思議な帰結であるEPRパラドックスや、その解釈の試みを戯画的に描く。
EPRパラドックスとは、一つの電子のスピンや光子の偏向を測定することが、遠く離れた別の粒子の測定結果に
瞬間的に影響を及ぼすように見える現象(エンタングルメント・量子絡み合い・量子もつれ)。
第2章では、光や電子における粒子と波の二重性についての考察。「状態の収縮(波の収縮)」や
ハイゼンベルクの不確定性原理を説明するために「波に粒子が乗っている」という「ガイド波」仮説が検討される。
第3章では、前述のエンタングルメントの存在を実験によって証明され、ガイド波解釈を採ると、超光速による情報伝達(非局所性)を認めなくてはならなくなる。
第4章では、まず、超光速が一種のタイムマシンを可能にする仕組みを相対性理論に従って説明する。
(著者としては「タイムマシンが可能」という事態はパラドックスを招くので出来れば避けたい)。
そしてこうしたパラドックスを含む「量子力学の基本問題」なるものを4項目にまとめている。
0634つづき
垢版 |
2013/05/19(日) 01:32:34.86
第5章では改めて量子力学の歴史をたどり、先人たちが採用したコペンハーゲン解釈などを検討。ボルンの確率波の理論では、確率の扱いが問題となる。
確率とは通常は、人の「無知の尺度」であるとされるが、量子論の確率波解釈ではそれでは済まない(真のランダム性・真の非決定性があることになる)。
第6章では、重ね合わせ状態空間を表すために、ヒルベルト空間が導入される。重ね合わせ状態において、システムの構成要素が互いに強く相互作用する場合、
実現する確率の高い持続的パターンと、状態が調和せず消えていくパターンが生ずる。
いくつかの互いに影響を及ぼさないパターンに分岐していくプロセスを「デコヒーレンス(干渉性の喪失)」という。
第7章では、ニュートン力学における「謎の遠隔作用」を、電磁気学や相対論が克服してきた近代科学史を振り返りながら、
量子力学においても「局所性」を保つように理論を整備すべきことを説く。第8章では、前述の「局所性」の要請に合う解釈として、多世界解釈が導入される。
第9章と第10章では、エンタングルメントの実在を実証する実験と、それを利用する「量子コンピューター」※1の話題。それらを無理なく解釈できるのが多世界解釈である。
第11章では、多世界解釈にともなう確率概念の処理(測度論)について触れた後、多世界解釈を採る学者達の紹介。
第12章では多世界解釈がもたらす世界観と様々な哲学的な問題を検討する。
個人のアイデンティティと確率に関わるパラドックスの一つである「眠り姫問題」※2も多世界解釈で考えると明確になってくるという。
0635つづき
垢版 |
2013/05/19(日) 01:34:11.58
第13章では多世界解釈と対立するペンローズの説を紹介。ペンローズは、「重力による収縮」の説と、人間の脳が量子コンピュータであり、
波の収縮は文字通り心の働きによるという説を唱えている。
第14章では、やはり多世界解釈に反対する実験家アントン・ツァイリンガーの説を紹介。
この人は、量子論的宇宙は有限の情報しか持てないという所に注目し、非局所的な情報の相互関係があると考える。
第15章では多世界の証明の可能性や最新の宇宙論との関係を考察し、今後を展望する。非常に面白いが、自分がちゃんと理解できたかどうかは不明。
最新科学の難しい内容を、あの手この手の比喩を駆使して説明しているわけだが、アマゾンレビュー※3にも指摘されているように、誤解の危険は否めないだろう。
素人としてはSFでも読むような感じで読むしかあるまい(実際、多世界とアイデンティティ問題のネタを扱ったたSFは多い)。
理系の話題ではあるが、「解釈」の話になると、不思議な哲学的問題が出現するので、文系にとっても興味を惹きやすいと思う。
ただ論理的思考に「意味」を必要としないような純理系的な感覚の人にとっては「解釈」の問題がそれほど重要だとは感じないかもしれない。
科学というより哲学的な面白さを評価して星4つ★★★★

※1 竹内繁樹『量子コンピュータ』(ブルーバックス)がベストに入っている。

※2 眠り姫問題 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B2%A4%EA%C9%B1%CC%E4%C2%EA
0637無名草子さん
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2013/05/19(日) 01:51:52.07
和田純夫『量子力学が語る世界像』(ブルーバックス)。著者は、上のコリン・ブルース『量子力学の解釈問題』を翻訳した人で、この人も多世界解釈支持者。
内容は重複するので細かい説明は省略。コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』と比べると、細かい枝葉は大胆に省略しており、話題の拡がりを抑制して、
基礎的なエッセンスだけを詳しく説明している感じ。奇抜な比喩なども控えめである。
微妙でめんどくさい問題には深入りしていないので、多世界解釈の簡潔さと論理的な堅牢さが目立っている印象。
哲学的な面で言うと、人間の意識は物理的な世界に従属しており、物理は人間の意識を超越している、という実在論的な世界観と言える。
しかし人間は一つの世界に閉じ込められていて多世界を俯瞰することはできないのに、多世界の実在を確信するというのは、何によって保証されるのだろうか。
著者は「科学と論理」と言うのかもしれないが、徹底した唯物論・実在論を採ると、多世界のすべてを俯瞰する超越的な視点、すなわち神が要請されるような気もする。
それでも神を拒否するとすれば、「科学主義」になるだろう。
実在の確信ではなく「多世界解釈」も人間が科学を行うための「便宜」の一つに過ぎないというプラグマティックな捉え方をすれば、人間中心主義的になるだろう。
自分はこのプラグマティズムの方が無難だと思うが、著者の「確信」にもある種の魅力があるのも確か。★★★★。
0638無名草子さん
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2013/05/19(日) 02:23:36.44
森田邦久『量子力学の哲学』(講談社現代新書)。副題は「非実在性・非局所性・粒子と波の二重性」。
上の『量子力学の解釈問題』と『量子力学が語る世界像』と同じ題材を論じているわけだが、そのニ著が「多世界解釈」を主に支持しているのに対して、
この本の著者は「時間対称化された解釈」を主に支持している。そして、前ニ著の著者が物理学者であるのに対して、この著者は哲学者である。
上のニ著と重複する部分は省略して、「時間対称化された解釈」についてだけ簡単に紹介しておく。
これは、現在の物理量の状態の確率が、過去の状態だけでなく未来の状態にも影響されて決まるのである。
時間の流れや因果律についての日常的な直観からすると、多世界解釈以上に不思議な感じがするが、ミクロの物理ではむしろ時間対称であるのは普通のことである。
著者はこの解釈の一種に多世界解釈を加えたものを支持している。
最後に「ハーディのパラドックス」なるものを図解し、これに「時間対称化された量子力学」を使うと「マイナスの確率」というものが出てきてしまうことを述べている。
これも人間の自然な認知能力をあざ笑うような珍現象で、目眩のするような面白さがある。
以上、および「多世界解釈」以外にも、「裸の解釈(2種)」「単精神解釈」「一貫した歴史解釈(多歴史解釈)(2種)」「様相解釈(2種)」といったいろいろな解釈が紹介されている。
多くの話題を詰め込んでいる分、説明不足感が否めない。自分は上記二冊を先に読んでいたのでなんとかついていけたが、これをいきなり読んでいたらほとんど理解できなかったかもしれない。
この手の新書としては読者の知的好奇心を刺激すればそれで成功と言えるだろう。ただ、これはないものねだりになってしまうが、
「解釈」という行為そのものの科学における位置づけについて、哲学者ならではの視点でもう少し掘り下げて欲しかった。★★★
(余談だが、この人の名前でググったら、とあるブログでボロクソに叩かれていた。自分の著書で条件付き確率の問題を間違えた上に、訂正の際の言い訳が潔くなかったらしい。)
0639無名草子さん
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2013/05/19(日) 02:39:04.94
古澤明『量子テレポーテーション』(ブルーバックス)読了。この人は実験畑の人で、実際に量子テレポテーション実験を成功させている。
不確定性原理を所与として、量子もつれ(エンタングル)と量子重ねあわせの原理を使って、量子情報を送信する方法を説明している。
原理自体はそれほど複雑ではないし、数式はなるべく使わず図版を豊富に使い、割と歯切れのよい文章で読みにくくもないのだが、いまひとつ勘所が上手く伝わってこない。
特に「量子もつれ」とは何かが説明不足だと感じた。実際にそういうクレームが多かったのか、著者は『量子もつれとは何か』という続編も出している(こちらは未読)。
説明がやっかいなところに差し掛かると「大学へ行って物理学を勉強してください」とか「拙著をお読みください」
と、逃げる態度をあからさまにしている部分が多く、啓蒙書ではやむを得ないところだが、人によっては腹が立つかもしれない。
ひとつ気になったのは、量子テレポテーションの送信は超光速ではない、と最初に述べている部分。
本文ではこの点について説明がないのだが、上の『量子力学の解釈問題』では超光速(というか同時)であるとしているのと齟齬をきたす。
どちらが正しいのか、自分で調べる能力もないし面倒なのでしてません。
序説で著者は、高校生の物理離れを憂いていて、物理を学ぶ若者を増やす目的で執筆したらしいが、
どちらかと言うと、物理のセンスのない生徒を選別して諦めさせる効能の方が強そうだ。★★★
似たような内容、同じくらいのレベルの啓蒙書を4冊も読んだわけだが、互いに補い合って理解が助けられた。
もちろん、能力が高い人はこんな無駄なことはせず、本格的な教科書に進むべきだが、自分はそんなものは読めないので仕方がない。
0640無名草子さん
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2013/05/21(火) 00:35:52.78
森田邦久『科学哲学講義』(ちくま新書)。『量子力学の哲学』の著者による、科学哲学入門書。
第1章は、演繹・帰納・アブダクション、帰納的推論の正当性、必然性とは何かについて論じている。
必然性については「可能世界」という概念が、あまり詳しい説明抜きで唐突に導入されている。
第2章は「因果性」ついて。「因果」の実在に対する懐疑は「帰納」への懐疑と同様、ヒュームによって提起された。
これには時間論も関わってくる。この話題は詳しく論じられていて、おそらく著者の本領だと思われる。
『量子力学の哲学』と重なる部分もある。
第3章は、科学で扱われる原子や電子のような物は、目に見えないのに本当に実在すると言えるのか、と問われる。
第4章では、科学と科学でないものはどう区別されるのか。科学と疑似科学の線引き問題。
このあたりは、>>576の戸田山和久の本や、ベストに入っている伊勢田哲治の本でも扱われており、割と馴染みのある話題である。
ポパーの「反証可能性基準」やクワインの「全体論」について説明される。
0641つづき
垢版 |
2013/05/21(火) 00:36:44.23
第5章は、前章を引き継いで、科学の合理性について論じる。
クーンの「パラダイム論」、ラカトシュの「研究プログラム説」、「研究伝統説」、「社会構築主義」などについて説明。
第6章では、反進化論や超心理学といった疑似科学と見做されている事例を検討しながら、科学的説明とは何か、
そして科学と他の知識体系との違いに関する著者の考えをまとめている。
全体として、一応初心者を意識して書かれており、一見とっつきやすそうな感じなのだが、実はそんなにやさしくない。
後半の話題は他の科学哲学入門書でも広く扱われていることもあって、理解はしやすいのだが、
第1章で「可能世界」の概念を使って「必然性」について分析する部分や、
第2章で、因果性を「反事実条件文」を使って分析する部分などは、初心者にとってはかなりの壁になる。
「因果性」については他の科学哲学啓蒙書ではあまり扱っているのを見たことがないので、新鮮だったし面白いのだが、
やはり説明不足ではないかと思う。個人的には「因果性」だけで一冊出して欲しかったが、
それだと読者が限定されてしまって販売戦略上まずいのだろう。★★★
0642無名草子さん
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2013/05/26(日) 02:18:01.23
桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書)。非市場経済や文化としての「贈与」については、文化人類学や経済人類学でよく扱われるが、
タイトルだけ見ると贈与文化に関する通史かと期待させるが、そうではなく、この本では、日本の中世(主に室町時代)の贈与慣行について述べられている。
文化人類学の影響を受けた現代思想などでは、「贈与」は功利性や市場経済と対立するものとして言及される事が多いが、
日本中世における「贈与」には、功利性の側面が強く、市場経済との連続性をもって表れていると言う。
第1章では、マルセル・モースの『贈与論』などを参照し、贈与の「四つの義務」…(提供の義務・受容の義務・返礼の義務・神に対する贈与の義務)を出発点として考察を進める。
そして「神への贈与の義務」が、租・調といった税となっていく過程を追う。また、「人への贈与」が義務化し、税と化していくこともあった。
第2章では、贈与が宗教性を脱して世俗化し、また、義務化していく過程を詳述している。贈与が「先例」となると、定役化・義務化しやすくなるのである。
そこで、贈与を行う人々は、それが先例化しないように微妙な駆引きを行ったりした。この「先例」の力とは「法」の起源でもある。
また、当時の贈与交換の儀礼において、双方の「相当」の観念、すなわち贈り物同士の価値の釣り合いにこだわっていた。
贈られた側が価値不足と感じた場合は贈り物を突っ返したりもしていた。「相当」という等価交換への厳格さが、中世の「礼の秩序」を形作っていた。
一方で、厳格な制度と化した贈与は、人格性からは切り離されていった。つまりかなりドライな側面を持っていた。
0643つづき
垢版 |
2013/05/26(日) 02:18:57.91
第3章では「贈与と経済」と題して、贈与と市場経済がどのように共存し連続していくかを見ていく。
著者は、日本の中世には貨幣経済・商品流通・信用経済が発達し、市場経済が成立していたと考えている。
13世紀後半には、年貢を貨幣で納める体制(代銭納制)が定着している。そして、贈答品市場が存在し、人々は贈り物を市場で調達し、贈られた品を市場で売り払っていた。
神社には神馬が奉納されるが、神社が贈られた馬を全て飼い続けるのではなく、博労に売却していた。また贈答儀礼そのものが物資調達手段となっている場合もあった。
室町幕府の財政も贈与儀礼に頼っていた。将軍が京中の禅宗寺院に「御成」と称して訪問しては「献物」を貰ってまわっていたのだ。
次に贈与と信用経済の関連では、「折紙」という贈り物に添えられる目録が大きな役割を果たす。
先に「折紙」を贈り、贈答品は後から贈るという慣行から、「折紙」が約束手形のような機能を果たすようになる。
債権債務関係の会計処理同様に、贈答の相殺をしたり、折紙の譲渡も行われる。
賄賂としての贈与では、折紙を先に渡して、利益供与を受けた後で現物を贈るという仕組みによって、贈り損を避ける機能もあった。
神仏へのお供えでも、折紙を先に供えて願いが叶った時だけ後から現物を供えた、という話は面白い。
こうした証券化などの、贈与の非人格化・省力化は、贈答品の本質が「使用価値」から「交換価値」へ移っていく事を意味する。
それは贈与があと一歩で贈与でなくなる臨界点を示している。しかし、こうした中世独特の贈与の信用経済は、15世紀末から16世紀初頭には急激に廃れ、
パーソナルな社会関係が復活してくる。歴史が直線的に進行するとは限らないという一つの例である。
0644つづき
垢版 |
2013/05/26(日) 02:19:39.27
第4章では、「儀礼のコスモロジー」として、「御物(ごもつ)」と称する内裏や将軍家のお宝の扱われ方や、贈与における動産と不動産の扱いの違いや、労働の贈与について論じている。
御物は、貴族達の共有財産という性格を帯びており、しばしば困窮した貴族に貸し出され、借りた貴族はその御物を質に入れて資金を調達したとのこと。
最後に本書で扱った「贈与」は、純朴な無償の贈与=「純粋な贈与」ではなく、「義務的な贈与」と「商業的な交換」との境界線上で展開されたものであることを確認している。
著者も述べているように、本書で扱っている時代は中世後期のみとかなり限定されているが、贈与と経済の問題を考える上では普遍的な広がりを持っている。
特に、市場経済を批判して、贈与と共同性の倫理の復権を持ち出すような、ある種の知識人の思想がいかに紋切り型なのかがわかる。星5つ進呈★★★★★
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