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2ch厨房が新書等のベスト 5冊目
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0577つづき
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2013/01/17(木) 01:41:15.48
ではより良い理論の条件とは何か。著者は「天動説と地動説」や「プレートテクトニクス」などの科学史の例を見ながらそれに答えていく。それは、
「より多くの新奇な予言をしてそれを当てる事ができる」「アドホックな仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くの事柄をできるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」、という3つの条件である。
3章では「科学的説明」とは何かについて。それは、
「原因を突き止めること」「一般的・普遍的な仮説・理論から、より特殊な仮説・理論を導くこと」「正体を突き止めること」 である。
4章では推論の方法として「演繹」と「非演繹」を説明。後者は「帰納」「投射」「類比」「アブダクション」に分けられる。
また演繹と非演繹の合体による「仮説演繹法」について説明。ここでは「アブダクション」によって仮説を立て、そこから演繹によって予言を引き出すという、推論の方法の一種としている※。
第5章と6章では実験の方法論(対照実験やコントロール)や統計リテラシーについての基礎的な話。
ポパーの反証可能性の指標と、反証が出たからといってすぐに理論が捨てられるわけではないという話もこの中で説明されている。
統計の話題の中では、センター試験の成績と二次試験の成績の相関の話が面白い。入学者だけを母数としたら負の相関が出てしまったそうである。
落ちた人も含めないと正の相関にならないのだ。
0578つづき
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2013/01/17(木) 01:42:09.42
第二部では原発事故を題材に、放射線リスクについて具体的に考えながら、「市民」に必要な科学リテラシーについて論じていく。
現代社会では、科学・技術だけでは解決できない問題の領域があり(トランスサイエンス)、それを解決するには市民の主体的な参加が必要であるという。
素人であっても科学の暴走を防ぐ責任があるのだ。これを著者は「シビリアンコントロール」と称している。
これは、STSでは「ガバナンス」などと言われる事だが、著者は市民の責任を強調するためにあえて刺激的な言葉を使っている。
市民は、問題の枠組み(フレーミング)を提議するべきであり、個々の科学知識というよりも、メタ科学的な方法によって科学の営みをチェックできることが重要ということ。
良識的な議論ではあるが、ここで立てられている「市民」というのは、いかにも丸山真男的というか近代的な主体であり、我々愚民にはいささか荷が重い感じがする。
著者は内田樹などの言葉を引いて、市民は「大衆」であってはならないと言うのだが、
これは一歩間違うと、テクノクラートや為政者の過失の責任を、自己責任の名のもとに一般市民に押し付けるための詭弁にもなるのではないか。
第二部の論旨に関しては、もう少し「社会科学」の分野で検討されるべきではないかという気がする。
「社会科学」の科学性について著者がどう考えているのかはこの著書ではよくわからない。価値観が完全に分離されない限り「社会科学」は狭義の科学には分類されないのかもしれない。
この本で扱われる「科学」はほとんど「自然科学」を想定しているようである。冒頭では、「相関」「有意差」といった統計用語が「メタ科学概念」に分類されているが、
それはなぜ「メタ」なのかと突っ込んで問われるとなかなか難しいところ。このあたりの説明もしてほしかった。
0579つづき
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2013/01/17(木) 01:44:38.53
全体として初心者向けで読みやすいが、一言で言うと「啓蒙主義的」な感じがする。「グレーゾーンの中でよりマシな方向を目指す」という科学観は決め打ちされており、
他の異端的な考え方…素朴な科学絶対主義も、ファイヤアーベントのような過激な相対主義や懐疑主義的な反科学思想も最初から無視されている(冒頭で言及されている竹内薫はファイヤアーベント信奉者)、
両極端が止揚され乗り越えられた結果が、グラデーション的科学観となる、という感じか。
この先生の以前の一般向け著作…『論文の教室』(NHKブックス)などを読んだ印象では、もう少し面白みというかサービス精神のある文章を書く人だと思っていたのだが、
この本では「市民の啓蒙」を意識したせいか、やや堅苦しくエンタメ性は薄い。自分が読んだのは第二刷だが、第一刷からだいぶ修正・改訂がされているとのこと。★★★★

※「仮説演繹法」についてググって調べてみると、「演繹によって予言を引き出す」だけでなく、その後の検証の過程も含めて説明しているものもある。
「検証」すなわち「帰納」の過程であるから、その意味で「仮説演繹法」とは「帰納法」の一種ということになる。
おそらくヒューウェルによってこの言葉が作られた時には「演繹による予測」の方法だったものが、ポパーらによって援用されていくうちに検証過程も含む意味になってきたのではなかろうか。
原義によるなら「仮説演繹法」という命名でも妥当だが、後者の意味だと混乱しやすい。「数学的帰納法」が実質的には演繹法であるのと同様に紛らわしい言葉だ。
0580無名草子さん
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2013/01/18(金) 00:29:38.31
レビューおせーよ
0581無名草子さん
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2013/01/21(月) 00:15:49.42
新書ベストというスレの趣旨に合わないかもしれないが、ここらで変な本を紹介してみます。森山徹『ダンゴムシには心はあるのか』(PHPサイエンス・ワールド新書)。
それなりに期待して買った新書。一見まともな理系本。動物行動学や認知科学・システム論の本だろうと予想。
ところが「心とは何か」と題した第一章を読み進むにつれ、困惑が雨雲のごとく脳裏に広がっていく。
まずは心の科学を開始するにあたって、「心とは何か」についての考察を展開しているわけだが、妙に思弁的な話で、腑に落ちる感じがしない。
著者の「心とは何か」についての理論はおおむね以下のとおり。心とは「行動する観察対象における、隠れた活動部位」であり
「状況に応じた行動の発現を支えるために、余計な行動の発現を抑制している」ものである。
しかし「未知の状況」では、「自律的」にある行動の抑制を解き、その余計な行動を「自発的」に発現させる。
よって、対象を「未知の状況」に置き、「予想外の行動」を発現させてみれば、隠れた活動部位すなわち心の実体を現前させることになる、と言うのである。
また、我々は、他者や動物の「行動の発現を抑制している隠れた部位」の働きを「気配」として感じるのだ、とも言う。
(「気配」というのも怪しい言葉だが、認知科学的に基礎づけるのは可能なのかもしれない)。よくわからないながらも、なかなか面白そうな着眼点ではあるし、
哲学における「心の哲学」や現象学のようなものに照らしてみれば、それなりに正当化できる部分もありそうではある。
しかしそうした既成の哲学を参照したり哲学者との議論を蓄積した形跡はない(参考文献にも哲学関連のものは挙がっておらず、認知科学や動物行動学関連ばかりである)
もっとも哲学も独断の宝庫だから、哲学的に議論したところで客観性が増すとは限らないが。
著者は、動物や虫だけではなく最終的には石ころなどの無生物にも心が見いだせると言う。
一種のアニミズムであり、文化的・宗教的には目新しいものではないが、それが科学として成立するものかどうか疑惑が生じる。
もっとも、物理学でも「素粒子の自由意志」※という考え方があるらしいし、科学にならないとも断言できない。

※(→筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』岩波科学ライブラリー)
0582つづき
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2013/01/21(月) 00:18:13.39
また、よくわからない文脈で著者の幼少の頃のエピソードが述べられており、これがまた奇妙な印象を残す。曰く、
「著者が3歳の頃、友達の家に遊びに行った時に廊下に木製の薬箱を見かけた。それを見た瞬間、著者は自分が走りだし薬箱に躓いて転び
頭を打ち出血するという光景がありありと目前に浮かんだ。次の瞬間に、実際に自分が走りだして躓いて転び頭から出血した」という話である。
つまり自分の衝動的な行動をその直前に予見視した、というのだ。
著者は「想像したことを身体が勝手に実行したのだ」と解釈しているが、どうも自分にはこれは「記憶の改変」の事例ではないかと感じられる。
実際には予見などしておらず、衝動的に走って転んで怪我をした後に、「予見をした」という記憶が作られたのではなかろうか。
いくら幼児とは言え、頭から出血するところまで予見しながら、その通りの行動をしてしまうのは不自然ではないか?
真実は藪の中だが、自分の記憶に疑問を持たない認知科学者というのもどうかと思うし、ここでも独断的なものを感じてしまった。
実はこの第一章で読み続ける気力がだいぶ失せてきたのだが、第二章でようやくダンゴムシが登場して、少し面白くなる。
ダンゴムシというのは気色悪くもあるが、よく見るとなかなか可愛らしい(写真あり)。実験ではダンゴムシの「交替制転向」という本能に注目する。
例えば障害物などに突き当った時に右に曲がったら次は左に曲がり、左の次は右に曲がるという性質がある。
捕食者に追われて逃げる場合、右に曲がった次に、すぐまた右に曲がったら、敵のいる方に戻ってしまうわけで、交替制転向は生存戦略の上で理にかなった進化だと考えられる。
実験では、ダンゴムシをいろいろな「未知の状況」に置き、この交替制転向の行動に変化が見られるかどうか観察する。
するとダンゴムシの一部は「予想外の行動」を示し、著者はこれを自律的な「心の発現」だと解釈する。
0583つづき
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2013/01/21(月) 00:18:56.75
実験自体は面白いと思うが、いろいろ疑問点は多い。
例えば著者は「未知の状況」「予想外の行動」と言うが、この「未知」とか「予想外」というのは誰目線なのか?本当にダンゴムシにとって「未知」で「予想外」と言えるのか?
はっきりした基準があるように見えないし、著者の恣意的な主観による解釈ではないのか?(まぁ実験室で自然界にはない状況を作れば「未知」だとは言えるかもしれない)
そして「予想外の行動」が現れたことについては認めるとしても、それが「心の現前」だと解釈するのは飛躍しすぎと感じる。それは単なる予想外のバグじゃないのか?(虫だけに…)
また行動が「自律」かどうかについても明確な判別基準がないように見える。もっとも科学の研究というのは一見トンデモない発想であっても強い信念で突き進むことによって新しい発見に繋がるものなのかもしれない。
しかしこの強い信念が間違っていた場合には修正がきかず本当にトンデモない方向に逝ってしまうリスクもあるのではないか。
自分はこれを読みながら、アフォーダンスとか、郡司ペギオ幸夫などの奇抜なシステム論の人達を連想していた。
するとあとがきで、著者は大学院で郡司氏の指導を受けていたことが判明、妙に納得してしまった。
自分には意味不明なところが多くて評価不能だが、さしあたり「奇書」のカテゴリーに入れておくのが妥当な気がする。
トンデモとは断定しないが先日紹介した戸田山先生の本に即せば、黒に近いグレーといいうことで星2個★★
0584無名草子さん
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2013/01/21(月) 20:03:24.20
レビューありがとう。今年もよろしく。
0585つづき
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2013/01/22(火) 00:04:57.87
私物化してるみたいで恐縮ですが、このスレがある間は書かせて頂きますのでよろしく。
0586無名草子さん
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2013/01/22(火) 00:18:34.39
上村忠男『ヴィーコ』(中公新書)。17〜8世紀のナポリ出身の哲学者ヴィーコの学問論を中心に解説した入門書。
まえがきによると、著者は大学院でイタリア・ファシズムの研究を進めるに当たって、「そもそも学問とは何か」という疑問に突き当たり、
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を紐解く中でヴィーコに出会ったとのこと。
第一章ではナポリ大学の開講式で講演した『開講講演集』を検討してヴィーコの学問観をを探る。
ここでは「人間の自然本性」に従えという提言、「クリティカ」(真偽の判断に関する術)に対する「トピカ」(論拠の在り処の発見にかかわる術)の重要性、
「実践」とは単なる「理論の応用」ではなく、実践特有の意義があること、などが述べられる。
「トピカ」とはいかなるものかについては、ここではまだあまり詳しく説明されていないが、現代の用語で言えば「ヒューリスティック」に近いのだろうか。
さらに現代風に超訳すれば、論理的・演繹的・コンピュータ的な真偽の判断(クリティカ)に対する、人間的・直感的な発見の方法(トピカ)の重視、という風に自分は理解した。
第二章では、近代の自然学における、数学的・デカルト的な演繹的方法への批判について。
またヴィーコの科学論と、当時のナポリの科学アカデミーである「インヴェスティガンティ」の知識理論との関係が検討される。
0587つづき
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2013/01/22(火) 00:19:16.61
第三章では、デカルト批判とともに、「真なるものと作られたものは置換される」「真理の基準は当の真理自体を作り出した」というヴィーコの知識理論を説明・検討する。
また伝統的なキリスト教神学がヴィーコの知識論に与えた影響が指摘される。このあたりの議論はなかなか難しいが、
簡単に言えば、人間が作ったもの、作り得るものは人間が理解できる(それ以外は神のみぞ知る)というようなことか。
第四章では、法と人間社会に関するヴィーコの思想を検討。1725年に出た『新しい学』では、政治哲学の論証可能性について「コペルニクス的転回」が生じたとする。
まずヴィーコは、「万民の自然法」の解明とためには、哲学者の「道理」・文献学者の「権威」は拠り所とするに値しないと言う。
これらの人間および神に関する一切の学識について白紙に戻さなくてはならない。その上で、原始古代の人間世界の起源に立ち戻るべきであると言う。
そして「人間の世界は人間によって作られてきた」という事実に永遠の真理を見る。
よって原始の社会の諸原理は「人間知性の自然本性的なあり方のうちに、ひいては私たちの理解の能力のうちに見出される」ということになる。
前章との関係で言えば、法や社会は人間が作ったものであるから理解し得るはずのものである。
さらにこうした「人間の自然本性に基づいた制作」という確実な足場を見出した以上、そこから幾何学的演繹的な推理・証明も可能になる。この演繹的証明は「神的」なものでもある。
第五章ではこうしたヴィーコの到達した思想と、キリスト教的プラトニズムとの関係について論じている。この章の論点も多岐にわたっていて要約が難しいので省略w
0588つづき
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2013/01/22(火) 00:22:13.84
第六章では、「最初の人間たち」の思考を推理することの困難、人類の「共通感覚」への着目が語られた後、
ヴィーコの方法とは、「世界をあたかも一冊のテクストのように見立て…意味のコンテクストを“知性の内なる辞書”を頼りに読みといていこう」というものだという。
そしてこれは、本居宣長の方法に近いと言う。本居宣長は、「漢意(からごころ)」の主知主義的・理性主義的錯誤の危険性を認識しつつ、
感情的自己移入の不可能性をも自覚していた。また、レヴィ=ストロースやフッサールとの共通性を指摘している。
第七章では「最初の諸国民は詩的記号によって語っていた」というヴィーコの思想と、レトリック(修辞学)の伝統との関連が示される。
また現代の哲学者ガダマーの思想と比較されている。第八章では「バロック人」としてのヴィーコが語られる。
『新しい学』に附された口絵のように、寓意画などを使用する思考の方法はバロック的なものだという。
また寓意画のような視覚の知とはヴィーコの重視する「トピカ的な知」でもある。最後の「結語」では、以上の濃密な内容を簡単に要約している。
啓蒙書としてはやや本格的なものだが、ヴィーコの思想自体は、現代の科学批判などに通じる部分が結構あって、特に理解が困難ということはない。
ただ翻訳されたヴィーコの引用文はやはり読みにくく、それに影響されたのか、著者自身も時おり、とんでもなく長く複雑な構文の文章を書いていて、ゲンナリさせられる部分もある。
ヴィーコの思想に現代的な意義があるのかどうかはよくわからないし、自分がどの程度理解できたのかもよくわからないが、人文系教養書としては上質なものだと思うので星4つ★★★★
0589つづき
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2013/01/26(土) 19:12:29.03
言われなくても読んでおくべき岩波新書青版をオススメ順に力の限り紹介する
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-662.html

20冊紹介されてる中で自分は12冊が未読。
コンプリートしようという気もないが、そのうち何冊かは読む予定。
0590無名草子さん
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2013/01/26(土) 21:21:12.09
>>589
偉そうに。言われなくても?
誰もお前求めてねーからやめろ
0593無名草子さん
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2013/02/11(月) 22:59:09.01
もうすぐバレンタインですね
0595無名草子さん
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2013/02/17(日) 13:59:04.26
聖書の入門書だと、どれがいいですか?
0596無名草子さん
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2013/02/17(日) 14:51:34.90
>>595
キリスト教じゃなくて聖書なの?
0597無名草子さん
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2013/02/17(日) 17:12:32.89
>>596
はい、そうです。
聖書の記述に沿ったような入門書を探しています。
0598無名草子さん
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2013/02/17(日) 22:35:24.85
>>597
聖書の何が知りたいかにもよるんじゃないの。
聖書の成り立ちの歴史とかそういうこと?
0600無名草子さん
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2013/02/17(日) 23:46:07.83
ただ>>599の新書リストの中で選ぶとすれば
古いところでは、赤司道雄『聖書』(中公新書)とピーター・ミルワード『聖書は何を語っているか』(講談社現代新書)あたり
新しいところでは、大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書)あたりに絞られてくるだろうな。
0601無名草子さん
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2013/02/25(月) 14:22:42.67
初心者向けのを求めているなら、「面白いほどよくわかる」シリーズの『聖書のすべて』とか
図解雑学『聖書』などでいいんじゃないかな。
もっと高度なのが欲しいならキリスト教徒に訊いてくれw
0602無名草子さん
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2013/02/26(火) 18:20:22.95
>>599
その聖書本いいよな。俺もおすすめ。
あとは「捏造された聖書」とかもおすすめ。
0603無名草子さん
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2013/03/04(月) 01:01:03.30
そういえば、レビューなくなったな
0604無名草子さん
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2013/03/06(水) 00:15:54.79
角山栄『茶の世界史』(中公新書)。『〜の世界史』というタイトルの新書はたくさん出ているが、その初期のものだろう(初版は1980年)。
『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)の著者である川北稔はこの人の弟子にあたるらしい。
二部に分かれていて、第一部は「文化としての茶」第二部は「商品としての茶」というタイトルになっている。
ただ、タイトル通りの内容になっているかどうかは微妙。文化としての茶に注目していても、同時に商品としての側面を無視できないし、逆も同じだろう。
第一部は、ヨーロッパがアジアて茶を発見し、文化として受け入れ広がっていく過程、つまりヨーロッパ目線で記述されており、
二部は明治以降の日本が官民一体で世界市場に向けて茶を輸出するべく悪戦苦闘していく経緯、つまり日本目線で述べられている。
著者は「文化VS商品」という図式にこだわっており、目次にもそれが反映されている。
ヨーロッパ人は16世紀後半に、中国や日本の茶文化を知り、特にオランダ人は日本の茶の湯文化に大いに驚いたという。
イギリスには1630年代中頃にオランダを通じて入ってきて、コーヒー・ハウスで売られる。コーヒー※は茶より少し前に入ってきていた。
最初は薬効が宣伝され、後には宮廷における東洋趣味に乗って文化として広がっていく。また、最初は緑茶の輸入が多かったが、だんだん紅茶の割合が増加していく。
ちなみに「緑茶が船で運ばれて来る途中で熱帯の暑さで自然に発酵して紅茶となった」という話は俗説であるとのこと。
0605つづき
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2013/03/06(水) 00:16:54.08
次いで、イギリスにおいて、コーヒーやココアを抑えて茶が一般化した理由を考察。理由としては、水が適していた点、伝統的な代用茶がすでにあった事など。
コーヒーに関しては、コーヒーの供給確保の国際競争に負けたことで衰退したらしい。
ココア・チョコレートは高かったことと、ハリケーンでイギリス領のカカオが壊滅した事件などが影響して衰退したとのこと。
なお、壊血病対策(ビタミンC確保)のために茶が普及したという説が紹介されているが、著者は否定的(紅茶にはビタミンCは乏しい等)。
フランスやドイツでは茶はあまり普及しなかった。次に中世・近世において、食い物を手づかみで食っていたような西洋の食文化が、
中国などに比べて貧しかったことを指摘し、西洋はそうしたコンプレックスをバネに紅茶文化を発展させていったことが述べられる。
しかし、この点は著者のバイアスが強い感じがある。箸で食うよりも手づかみで食う方が文化が貧しい、とは必ずしも言えないだろう。
ところで、紅茶には砂糖とミルクが付き物であり、紅茶の普及と共に砂糖の需要も増大していく。
こうして砂糖植民地の確保が課題となり、紅茶文化は「紅茶帝国主義」として展開していく。
アフリカ西海岸における奴隷貿易と西インドの奴隷制砂糖植民地、そしてイギリス本土との三角貿易が展開していく。
さらに中国に対しても、茶の輸入の決済のためにイギリスから銀が流出することが問題となり、
この貿易不均衡是正のためにインドで栽培したアヘンを中国に輸出する。これがアヘン戦争に繋がる。
イギリスに産業革命が起こり、インドの綿業を壊滅させる。19世紀になるとインド茶の製造が開始される。
0606つづき
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2013/03/06(水) 00:17:53.88
第二部では日本の開国から話が始まる。最初の日本の二大輸出品は生糸と茶であったが、次第に茶の割合は減っていき、明治20年代末には綿にも抜かれて脱落していく。
官民一体となって、イギリス、オーストラリア、アメリカへと、市場を求めて販路拡大に勤しむのだがが、結局はセイロン茶などに敗れていくことになる。
この第二部の内容の方が著者の専門における本領らしく、日本の茶輸出ビジネスの盛衰が豊富な資料とともに詳細に記されている。
しかし、お茶業界に特に思い入れもない者としては、正直あまり興味が持てる内容ではなかった。単に比較劣位の産業が衰退しただけじゃないの?という冷めた見方をしてしまう。
日本の茶輸出産業史なので、「世界史」という感じも薄い。ただ、アメリカでは一時期、日本から輸入した緑茶が飲まれていた(しかも砂糖とミルク入りで)というのは意外な話で面白い。
コーラやスタバのコーヒーを飲んでいる現代アメリカ人は、何代か前の先祖が緑茶を飲んでいたことを知っているのだろうか。
日本の茶が敗れた原因としては、生産性が低く、品質が悪く割高、しかもマーケティングや宣伝が拙劣だったとのこと。
商売が下手な上に、しばしば粗悪品を納入して信用を失っていた(少し前の中国みたいなことをやっていた)というから負けるのは当然であった。
そもそも官僚主導の産業政策が成功する余地があったのかどうかという疑問もあるが、著者はその点は論じていない
最後に再び、「商品」の世界(大量消費・大衆社会・資本主義)を批判し、茶の湯などの「文化」の復権を主張して終わる。
最初にも書いたが、今読むと、「商品VS文化」という図式化がどうも陳腐に感じる。これが書かれた当時は新鮮だったのかもしれないが。
著者はどちらかと言えば保守寄りで、ナショナリスティックでもあるが、帝国主義の理解などに関してはマルクス主義とほぼ同じ見解を踏襲しているようだ。
面白さは期待したほどではなく、文化についての考え方にも古臭さを感じたが、この手の新書のパイオニアに敬意を表して星4つ★★★★。

※コーヒーに関しては、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る』(中公新書)がベストに入っている。
0607無名草子さん
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2013/03/06(水) 01:28:16.44
橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書)
20世紀初頭のオーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタイン※1の「後期」の哲学における主要な考え方である「言語ゲーム」の入門とその応用。
第1章ではヴィトゲンシュタインの経歴と時代背景を素描。ウィーンの同じ工業高校にヒトラーも通っていたとのこと。
第2章は、20世紀における、フレーゲ、ラッセルによる論理学の展開、カントールの集合論、数学基礎論の展開を簡単にまとめている。
このあたりは他に多くの啓蒙書が存在するということで、あまり詳しい説明はされていない。
3章では、ラッセルに弟子入りして哲学を始めた事と、第一次大戦やロシア革命などの時代背景が述べられる。
4章では、第一次大戦に従軍しながら書き上げた『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)について解説。
この著作でのポイントは、まず、命題の構造と出来事・世界の構造は「論理構造」において一致し、「言語と世界が一対一に対応する」こと。
そして、「世界」は丸ごと『論考』という書物の中に押し込めてしまえるということである。
これは、無限集合においては、その全体集合と真部分集合の間に一対一対応が付いてしまう事に対応し、
また「世界」が一つの書物に押し込められるというイメージは、この哲学が一種の「独我論」である事に対応する。
このあたりはなかなか説得力があるが、著者独自の解釈だろうか。また戦争と宗教的思想がそれに与えた影響を論じている。
宗教的・倫理的影響としては、従軍当時に熟読していたというトルストイ『要約福音書』が重要とのこと。
さらに、『論考』の最後の命題7「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」について。これは一種の自己言及的パラドックスの論理であって、
それまでに述べてきた命題すべてを消去するような「…なおこの書物は自動的に消去される」と言うことに等しい。
『論考』とは読まれた後に消滅すべき書物であり、「間違った哲学にふりかける消化薬のようなもの」である。
0608つづき
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2013/03/06(水) 01:29:08.95
第5章では『論考』によって哲学の問題はほぼ消滅したと考えたヴィトゲンシュタインが哲学をやめ、小学校の教師をしたり、姉の新築の建築をやったりするが、
次第に『論考』の言語理論「世界と言語が一対一に対応する」の間違いに気づき、哲学を再開する。そして「言語ゲーム」のアイデアを得る。
第6章ではいよいよその「言語ゲーム」の説明。言語ゲームとは「規則(ルール)に従った人々のふるまい」である。
『哲学探求』(以下『探求』)※2では、石工の親方と助手の建築作業を例にして、この「言語ゲーム」を描写する。
「言語の意味」とは人々が現にルールに従って行動していることによって根拠づけられる。
「私的言語」や「数列モデル」に触れた後、この章の後半では、ナチスの台頭とともにユダヤ系であるヴィトゲンシュタイン一家が危機に陥っていく経緯が述べられる。
第7章ではクリプキやネルソン・グッドマンの議論を参照しながら「ルール懐疑主義」とその解決の方向が論じられる。
例えば、一つの数列からはどんなルールでも読み取ることができる。著者は常識的な「規則」に対して、無理に読み取られた奇妙な規則を「奇則」と名付けて、
それが「奇則」であることは「見ればわかる」と片付けている。しかし時には「奇則」が採用されてしまうこともあり、それがナチスだったとも言う。
第8章では「言語ゲーム」の考え方を法学に応用。H.L.A.ハートという法哲学者の法理論を「言語ゲーム」的に解釈している。
ここでは規則を「一次ルール」と「二次ルール」に分けている。前者は、審判のいない草野球のように、法がなくても皆が自然に暗黙のルールに従っている状態であり、
後者では法が明文化され人々はそれを参照しつつ従っている。章の後半では、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における法の位置づけについて整理している。
第9章では「言語ゲーム」で仏教を分析。第10章では江戸時代の日本思想、伊藤仁斎・荻生徂徠・山本闇斎らの儒学及び朱子学批判と、本居宣長の国学を扱う。
著者は日本の歴史・思想史も言語ゲームの蓄積の歴史と考える。第11章では、ヴィドゲンシュタインの哲学の「前期」と「後期」のつながりを考える。
また信仰や価値観との関係を論じ、文明の衝突や相対主義を超える可能性を「言語ゲーム」の思想に見出す。
0609つづき
垢版 |
2013/03/06(水) 01:30:22.78
読んだ感想としては、非常に感心した部分と、強い違和感を覚えた部分が混在。
「言語ゲーム」の考え方を社会の原理の根底に据えようという著者の態度は、「現象学」を社会の共同性の原理に据えようという竹田青嗣の思想を思わせる。
自分はいずれにも違和感を覚える。また、著者の思考が「演繹」だけに偏っているような気がする。論理の整合性だけで満足しているような印象。
そもそも「言語ゲーム」というアイデアを社会学や思想史に応用することについて、ヴィトゲンシュタイン自身はおそらく同意しないと思われる。
本書でも述べられているように、ヴィトゲンシュタインの哲学は、哲学的病いに対する薬であり、個々の問題に対して慎重に処方すべきものであり、
万能薬のように使われることは想定していないのではないか。もっとも後世の人間が過去の遺産をどう使おうと自由なのかもしれないが。
また著者が「ルール懐疑論」を「見ればわかる」と簡単に片付けているのもどうかと思う。
ヴィトゲンシュタインは「哲学病」に対する医者であろうとしたが、自身が患者も兼ねていた(そういう面ではニーチェにも似ている)。
懐疑は自分の実感でもあったのだと思う。そして現実に「正しいルール」を読み取ることが困難な、ある種の発達障害のような人もいるわけである。
「異常なルール」を「奇則」などと名付けるのは、そうした少数者を切り捨てるように見え、どこか無神経な感じがする。★★★

※1 他の本や翻訳では「ウィトゲンシュタイン」と表記されることが多いが、著者は「ヴ」と表記している。
※2『哲学探求』の和訳がアップされているサイト→ http://www.geocities.co.jp/mickindex/wittgenstein/idx_witt.html
ただし、全訳ではないようだ。
0610無名草子さん
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2013/03/17(日) 03:01:09.55
大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎新書)。著者は超弦理論で世界的な業績を持つ一流物理学者。現役バリバリの理系研究者が新書を書いたということで、かなり話題になった。
一流の研究者が必ずしも啓蒙書を書くのが得意とは限らないが(というより、現役の研究者は自分の研究が忙して、啓蒙書など書く隙がない人が多いと思われるが)、
この人は珍しく非常に啓蒙に乗り気な人で、かなり熱を込めて書いている。
第一章では「重力の七不思議」と題して、重力の不思議な性質をまとめている。同時にニュートン力学レベルにおける重力の概念がだいたいわかるようになっている。
第二章では、特殊相対性理論の説明。このあたりの話題については、昔からブルーバックスなど多くの啓蒙書が出ているわけだが、
最先端の理論を説明する場合でも、相手が一般人であれば、いちいちごく基礎的な話から始めなくてはならないのが理系啓蒙書の辛いところだろうとお察しする。
亜光速における時間の伸び縮みや、E=mc^2の説明など、数式をほとんど使わずに、上手く説明している。
第三章では一般相対性理論を説明しながら、重力はなぜ生じるのかを論じる。
時空の歪みの理論と、その実証的証拠として、「水星の軌道」「重力レンズ効果」「重力波」「GPS」を提出する。
第四章では、ブラックホールと宇宙創世ビッグバンの話。
ペンローズとホーキングの理論によると、アインシュタインの方程式を使って宇宙の過去に遡ると、初期宇宙には特異点が生じ、アインシュタイン理論は破綻してしまうと言う。
第五章では量子力学・場の量子論・素粒子論。このあたりについてもブルーバックスなどの啓蒙書が多くあるわけだが、ここでは30ページほどで簡単にまとめている。
第六章では超弦理論が解説される。著者は「超ひも」ではなく「超弦」の語を使っているわけだが、
「弦が振動する」というニュアンスを伝えるためにも「弦」の方が妥当だということらしい。ここではトポロジーが導入され、素人にはもう理解し難くなってくる。
0611つづき
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2013/03/17(日) 03:01:59.88
第七章ではブラックホールの情報問題が論じられる。「ホーキング放射」や「負のエネルギー」が登場し、難解だが面白い。
ホーキングによると、ブラックホールが蒸発すると、ブラックホールに投げ入れられた情報は失われ因果律が崩壊するので、
相対論と量子力学のうち、量子力学の方を修正する必要があると考えた。
しかし超弦理論とホログラフィー原理によって、ブラックホールの情報問題は量子力学のみの問題に還元されたとのこと。
量子力学は重力の関わらない理論なので情報は失われない。著者はこの問題が解けたことを、超弦理論にとって大きな成功だと言う。
最後の第八章では、超弦理論の実証的展開を展望している。
金の原子核同士を亜光速で衝突させる実験で、クォークが解放される「クォーク・グルーオン・プラズマ」が、粘性のない「完全流体」となることが発見された。
しかしこの結果は超弦理論のホログラフィー原理で予言されていた。また、高温超伝導の原理が、超弦理論を使って解明されることも期待されている。
最後に、マルチバース宇宙モデルや人間原理が紹介される。ただし著者は、なんでも人間原理で割りきってしまうことに対する批判も述べている。
「最初から人間原理で考えていると、実は理論から演繹できる現象を見逃して「偶然」で片付けてしまうおそれがあるから」である。
前に幻冬舎新書で出て結構売れた、村山斉の『宇宙は何でできているか』と同様、幻冬舎にしては良心的な科学啓蒙書であるが、
これを読んでも「わかったような気になる」だけにすぎないとも言える。きちんと理解するためには、高度な知能と長年にわたる専門的な知的訓練が必要なのだろう。
自分などはこれから一生かけて勉強しても理解できないだろうが、これを読んだ小中学生の中から、また大栗先生のような世界的な物理学者が誕生するとすれば素晴らしいことだ。
我々凡人は「わかったつもりになる」ことだけは自戒した上で、気軽に楽しんで読めばいいと思う。★★★★
0612無名草子さん
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2013/03/17(日) 03:07:28.24
香取眞理『複雑系を解く確率モデル』(ブルーバックス)。相転移や臨界現象の複雑系を扱う統計物理学※の入門書。
第1章では、水の三相を扱う「格子ガスモデル」について。格子のマス目に(様々な圧力の設定に従って)分子を配置し、
隣同士の分子が相互作用する確率を決めてシミュレーションする。すると臨界点ではフラクタル構造を示す。
第2章では、磁力の謎を解くために、量子力学と統計力学を使った「イジングモデル」を紹介。多くの電子のスピンの向きがマクロで揃うと磁力が生じる。
スピンの向きが揃うと、パウリの排他律によって電子同士が距離を保つので、電子間のクーロン力が働かずポテンシャルエネルギーが低く、
2つの電子の向きが逆だと近づけるためクーロン力が働きポテンシャルエネルギーが高くなる。
エネルギーは高い状態から低い状態に変化するので、スピンは揃うようになる。だが温度が上がるとエントロピーが増えて乱雑化の方向にも向かい、
「キュリー温度」という「共時性相転移の臨界温度」では磁力がなくなるのである。
これもスピンの向きを上下の矢印にして格子に配置してモデル化する。著者はこのモデルが森林生態のモデルに似ていることに注目する。
0613つづき
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2013/03/17(日) 03:08:16.29
第3章では、「伝承病伝播モデル」と、「パーコレーションモデル」を紹介。
伝染病モデルは格子のマス目に人が一人づつ住んでいる状態を考え、前後左右に感染者が1〜4人いる状態ごとに感染する確率を決める。
周囲に感染者が1人いる場合の感染率をλとすると4人いる場合は4λである。簡便化のために感染者は一週間で自然治癒するものとしておく。
こうして感染率λを様々に設定してシミュレーション。するとある感染率以下では伝染病は有限時間内に撲滅されてしまうが、
ある臨界値をを超えると無限に蔓延していく「蔓延相」へと相転移する。この臨界感染率を今のところ理論計算では求めることはできない。
ある人の隣に感染者がいる確率を求めるのが難しい(そのまた隣の周囲にどれだけ感染者がいるのか知らねばならず、そのまた隣の…となる)ため。
また「感染者による、感染プロセスに対する遮蔽効果」(感染している最中の人には感染しない)もある。
「パーコレーション・モデル」とはコンクリートなどに水が染みこんでいくモデルである。
水は細かいひび割れや樹状の隙間を通って染みこんでいくので、モデルはあみだクジのようになる。これも、見た目のわかりやすさに反して非常な難問だという。
0614つづき
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2013/03/17(日) 03:11:28.92
第4章では「自己組織化臨界現象」における「べき乗則」を説明し、「砂山くずしのモデル」を検討。
べき乗則とはスケール変換をしても形の変わらない(部分と全体が相似)べき乗関数・分布に従う物理法則である。
砂浜などでサラサラの砂で山を作ると、ある程度以上の勾配を持った山を作ることはできず、無理に積み上げると「なだれ」を起こして、また同じ勾配に落ち着く。
これをブロックの階段のようなモデルにして、隣のブロックとの段差がある程度以上増えると、ブロックが隣に転げ落ちるようにする。
隣に落ちて隣もその低い隣との段差が増えと、そのまた隣へと転げ落ち「なだれ」になる。
これをさらに一般化して、段差だけを考え、大きさを決めた二次元正方格子にして(砂山を上から見た形)、
「なだれ」がその正方形の外まで落ちたらそれっきり「散逸」するものとする(本物の砂山と違いそれ以上でかくならない)。
こうしてブロックをランダムに積んで「なだれ」の規模や継続時間の分布を調べる。
1回のなだれに巻き込まれた格子(サイト)の総数sをなだれのサイズと定義すると、サイズごとの頻度分布P(s)はべき乗分布に従う。
0615つづき
垢版 |
2013/03/17(日) 03:13:16.24
第5章では、統計的定常状態とはどういうものかについて簡単に紹介する。熱平衡状態のような定常状態では、エネルギーはある平均値の周りで揺らぎながら安定している。
またミクロなレベルでは、たとえばスピン反転の向きが上から下へ遷移する確率と下から上へ遷移する確率が対称で釣り合っている(詳細釣り合い)。
これに対して、伝染病のモデル(コンタクト・プロセス)では、自分が感染している状態から自然治癒には遷移するが、
自分が健康で周囲も健康な状態から感染はしないので、ミクロでは非対称である。しかしマクロでは定常状態になる。これを非平衡定常状態と言う。
最後に、場の量子論と融合させた統計的場の理論に言及。エピローグでは、確率モデルの研究における空間構造を考慮することの重要性が認識されてきたこと、
それにはコンピュータの発達と研究者の間で「臨界現象」への関心が高まってきたことを述べる。
統計物理学と複雑系に関する優れた入門書だが、97年発刊で、こうした分野の進歩の早さを考えるとやや古いかもしれない。
この本で「まだわかっていない」と書かれている事項も、今ではわかっているものがあるかもしれない。
理系の啓蒙書で最先端の研究を扱う場合の宿命だろう。絶版になっているのは、賞味期限切れということかもしれない。
しかし基礎的な部分で定説が覆っているようなことはないと思われる。自分には少し難しかった。星4つ★★★★。

※「統計物理学」とは聞き慣れない学問だが、「統計力学」よりも広く、複雑系科学などを含んだ名称のようだ。

複雑系やカオスについての入門書は新書でもいくつか出ているようだが、初心者向けとしてどれがいいのかはよくわからない。
蔵本由紀『非線形科学』 (集英社新書)などは、基礎を学ぶためのものというより、研究現場の雰囲気を知るための本だったと思う。
統計力学の基礎については、竹内淳『高校数学でわかるボルツマンの原理』(ブルーバックス)がある。
べき乗則については、新書ではないが、マーク・ブキャナン『歴史は「べき乗則」で動く』(ハヤカワ文庫)という啓蒙書が出ている。
0616無名草子さん
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2013/03/18(月) 01:14:21.17
清水徹『ヴァレリー』(岩波新書)。副題は「知性と感性の相克」。
近代フランスを代表する「知性の人」として知られるヴァレリーの評伝。詩人・文芸評論家でありながら、理数系の学問にも傾倒したという万能型知識人である。
この新書では「知性」の面よりも「感性の人」としての側面に注目し、特に恋愛遍歴を重点的に追っている。
第1章ではヴァレリーが17才の時に出会った、20才年上のロヴィラ夫人への片想い。同時期に詩人マラルメに出会う。
それ以前から詩を書いていたヴァレリーだが、マラルメとの出会いと共に、その及び難さに直面したためか、詩を書くのをいったんやめている。
またある嵐の夜に「ジェノヴァの夜」と言われる一種の内面の「クー・デタ」を体験する。
具体的にヴァレリーの心の中で何が起こったのかはよくわからないが(宗教的回心に似ているがヴァレリーは一貫して無神論者である)、
どうやら「知性の人」への変化のきっかけになったらしい。やがてヴァレリーは自己省察や日々の思考を「カイエ」と呼ばれる膨大な手記として書き継いでいくようになる。
第2章では「ジェノヴァの夜」以降に変化したヴァレリーが書いた『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という評論と、
『ムッシュー・テストと劇場で』という小説について。ムッシュー・テストはヴァレリーによって創造された「知性の人」の理想像である。この頃に陸軍省に就職し、結婚もする。
第3章は、ロンドン旅行とヴァレリーがそこで受けた刺激についてや、ドイツ帝国の勃興について論じた「方法的制覇」という評論のことなど。この評論は第一次大戦を予見したものとして後に評判になった。
0617つづき
垢版 |
2013/03/18(月) 01:15:37.61
第4章では第一次大戦の勃発、そして、ずっとやめていた詩作を再開し、長詩『若きパルク』の制作に着手する。ナショナリストであるヴァレリーは第一次大戦の帰趨に心は惑乱する。
戦争は詩にも影響を与え、フランスの勝利によって、『若きパルク』の結末も明るいものになった。
戦後に発表された『若きパルク』は評判になり、さらに『曙』『篠懸の樹に』『海辺の墓地』などの代表作が発表され、ヴァレリーは大詩人という評価を確立する。
第5章で、ヴァレリーは聡明で知性に満ちた貴婦人カトリーヌに出会い、熱愛関係になる。この時ヴァレリーは49才。妻子ある中年の不倫だが、家庭生活は恋愛とは別に平穏に営んでいた。
やがて、カトリーヌの自立心の増大、結核の悪化、様々なすれ違いが重なって、カトリーヌの方から関係を切られることになる。
第6章では、女流彫刻家ルネ・ヴォーティエへの恋。これはルネも他の男に片想いしていたためもあって、報われなかった。
既に50代後半の妻子あるインテリのオッサンが、千通ものラブレターを書送るというのは、日本人の感覚では「微笑ましい」の範囲を超えていて、
すげえなと思うばかり。今だとヘタすればストーカー扱いではなかろうか。
7章では、ヴァレリーの崇拝者であるエミリーとの交際。ヴァレリーはルネへの未練を残しながらも、自分のファンの据え膳を食った形。エミリーはヴァレリーやマラルメについての論文を発表した。
8章では、ヴァレリー最後の愛人ジャンヌ・ロヴィトンについて。ヴァレリーは既に60代半ば。ジャンヌは作家になるためのコネと結婚相手探しを兼ねて、劇作家のジロドゥーなどと二股三股かけていた。
ヴァレリーはこの恋愛から刺激を受けて、『我がファウスト』『孤独舎』といった対話劇を書き、さらにまた詩を書き始め、『コロナ』『コロニナ』という詩集が出来上がる。
しかし、ある日ジャンヌは自分が結婚することをヴァレリーに告げ、ヴァレリーはあっさり振られる。傷心のヴァレリーは健康も衰え、最後に未完の散文詩『天使』に手を入れた後、没する。
最後の「カイエ」では「心情」の勝利が書き記されており、「知性」が「感性」に敗北したかのようである。
0618つづき
垢版 |
2013/03/18(月) 01:37:36.94
読んだ感想としては「いい歳こいて元気な爺ィだな」に尽きる。最後のジャンヌとの別離にしても、そこまで落ち込むか?という疑問が。
年齢差を考えれば単なるパトロン扱いでも仕方ないだろう。しかもヴァレリー本人は老妻と別れる気などないのである。
これはヴァレリーの妻目線で見たら、相当ひどい話ではなかろうか。今でもフランスは不倫に対して寛容だというイメージがあるが、
フランスの恋愛文化では、ヴァレリーの行動は普通なのだろうか。家庭にまったく波風が立たなかったというのが不思議な感じがする。
日本の文士も浮気しまくりで、それが作品の題材だったりもするが、日本の場合は男の「遊び」は許容され、「本気」の不倫はスキャンダルになることが多いのではないか。
ヴァレリーについて何も知らなくても読める評伝ではあるが、ヴァレリーの「感性」の面中心の話なので、「知性の人」としての側面を知りたいという要求にはあまり応えてくれない。
そして、正直のところ、よく知りもしない他人の恋愛話など、たいして面白いものではない。
確かに引用されるヴァレリーの恋文は実に文学的で、一般人のものとはレベルが違うなとは思うが、そんなプライバシーを根掘り葉掘り追求するのも悪趣味な気がする。
0619つづき
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2013/03/18(月) 01:39:26.26
『ムッシュー・テスト』というのは自分は一応読んだことがあるが、実にわけのわからない小説であるし、ヴァレリーの詩も難解なものが多いが、本書でこれらの意味がわかりやすく解説されているわけではない。
(今回、ヴァレリーの評論集『精神の危機』(岩波文庫)も併読してみた。前述の「方法的制覇」も収録されている。こちらは意味は一応わかるが、時代状況との関係を知らないと深くは理解できない)
またヴァレリーの文学史的・思想史的位置付けについてもあまり書かれていないので、初心者向け入門書とは言えないかもしれない。
日本の文学や知識人への影響も大きいと思われ、その辺りの話があるかと期待したが、それもここでは扱われていない。
フランス近代文学史について既にだいたいのことを知っている人や、ヴァレリーの詩※に親しんでいる人向けか。
本の内容が悪いわけではないが、自分の興味に応えてくれなかったので星3つ★★★。

※『ヴァレリー詩集』が岩波文庫で出ている。作品「海辺の墓地」の中の「風立ちぬ」の一節は堀辰雄の小説で有名。松田聖子の歌にも「風立ちぬ」というのがあるのを知っている人もいるだろう。
 (ただし岩波文庫では口語訳で「風吹き起る」になっている)
0620無名草子さん
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2013/03/19(火) 19:17:36.34
http://junko717.exblog.jp/

高い鼻を咲かしてくれ!
「そろ、そろ出番だ、お前のお鼻でも束ねるか?」

渡邊美樹の鼻(フラワー)ワタミの介護 控室。
渡邊美樹の悪口「会長って 鼻がヘン」厨房の男性が話していた。
「何か、鷲鼻、付けてる鼻、魔女の鼻」話してた。
0621無名草子さん
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2013/03/26(火) 22:13:25.02
過疎ってるな
0623無名草子さん
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2013/03/31(日) 22:02:05.53
砂糖の世界史と大して内容変わらないんだろ
0625無名草子さん
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2013/03/31(日) 23:44:57.13
「砂糖の世界史」と「茶の世界史」どちらもいい
どちらも図書館にある
「砂糖の世界史」は黒人奴隷の章がきつかった
0626無名草子さん
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2013/04/13(土) 00:39:59.94
ちくまプリマー新書
「世界征服」は可能か?
0627無名草子さん
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2013/04/13(土) 01:24:59.92
岡田斗司夫ね。ずいぶん前にブクオフで買ったけど未だに読んでないなぁ…
0628無名草子さん
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2013/04/28(日) 18:40:56.41
中村光夫『日本の近代小説』(岩波新書・青版)。著者は著名なフランス文学者であり、日本近代文学に関する著作も多い。元東大総長の蓮實重彦の師匠でもある。
この新書では、詩歌や戯曲や評論については省かれているが、明治から大正までの代表的な小説家をほぼ網羅している。
まず明治最初期に開花期の風俗を滑稽にとらえた戯作・戯文が流行し、明治10年〜20年には政治小説と翻訳小説が登場した。
そして坪内逍遥が『当世書生気質』『小説神髄』を発表する。次にロシア文学に影響を受けた二葉亭四迷による『浮雲』が発表される。
言文一致体によって、現実と乖離した知識人の姿と、順応的で出世主義的な人物の成功を描いた。
彼は近代小説の真髄を正しく我が国に移植したが、そのために孤立を強いられ、作品はわずか3作に終わった。
また明治18年には尾崎紅葉が中心となって硯友社が結成される。同人誌「我楽多文庫」が発刊され、山田美妙などが参加。
紅葉の弟子には泉鏡花・徳田秋声などがいる。硯友社には属していないが紅葉と並んで重要なのが幸田露伴。
また同時代では、森鴎外・島崎藤村・北村透谷・饗庭篁村・斎藤緑雨・樋口一葉が挙げられている。
0629つづき
垢版 |
2013/04/28(日) 18:41:56.39
続く日清戦争終結から日露戦争終結までの10年間は、ロマン的な文学の全盛期とされ、詩や評論が前面にでて小説は第二線に退いたとされる。
川上眉山・広津柳浪・泉鏡花などの観念小説、小杉天外・永井荷風(初期)のゾライズム、徳富蘆花・内田魯庵などの社会小説がこの時代の傾向。
そして自然主義が現れる。自然主義の影響は、一見これに対立したように見える耽美派・白樺派や、鷗外・漱石といった孤立した巨人たちにも及んでいる。
自然主義の小説家としては、まず国木田独歩、そして田山花袋・島崎藤村・岩野泡鳴・徳田秋声と続く。
ここで、西欧文学における自然主義の影響が、日本の小説においては私小説として現れたのはなぜなのかが問題となってくる。
西欧では自然主義とその根底をなした科学主義の思想はロマン主義に対する反動だったのに対して、
日本においては自然主義がむしろロマン主義思想の一部をなしていたことによる、と著者は説明してる。
大正期になると、耽美派と白樺派が登場する。耽美派としては、永井荷風と谷崎潤一郎が挙げられ、特に著者は荷風を非常に高く評価している。
孤立した大作家として森鴎外と夏目漱石にそれぞれ改めて一章づつを当てた後、白樺派として、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などが挙げられる。
ここでは「心は心を抱きたがっている」と「心に直接触れる芸術」の思想を唱えた武者小路が重視されている。
0630つづき
垢版 |
2013/04/28(日) 18:44:35.94
大正期には世界的には第一次大戦とロシア革命といった大変動が起きているが、当時日本の文学者はそうした世界の流れからは孤立していた。
しかし大正4,5年から大正12年の大震災までの数年間に若い才能が異常な密度で輩出した。
広津和郎・葛西善蔵・宇野浩二・佐藤春夫・室生犀星・久保田万太郎・久米正雄・山本有三・菊池寛・芥川龍之介などに言及。
最後に芥川龍之介の自殺の意味を、その直前の谷崎潤一郎との論争と合わせて考察。
自分はここに出てくる作家の中で多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい。
個人的には作家の名前がずらずら出てくるだけで割と楽しめるので、このレビューでも作家名を羅列してみました。
知らない作家についても、今後読むかどうかはともかくとして、興味は惹かれた。
ここに出てくる作家の作品は青空文庫で読めるものも多いので(武者小路実篤や志賀直哉や谷崎潤一郎などまだ著作権が切れていないものは載ってないが)、
気が向いたら読んでみてもいいのではないか。年表・人名索引付き。星4つ★★★★。

こうした公式的な文学史に対して、フーコー的な方法を使って文学史そのものが捏造されていく過程を分析したものとして、
柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)があるので、興味のある人は併読してみてもいいと思う。
0631無名草子さん
垢版 |
2013/04/28(日) 18:49:25.83
中村光夫『日本の現代小説』(岩波新書・青版)。『日本の近代小説』の続編。
「現代」と言っても、この新書の初版が1968年(昭和43年)だから、その時代までということになる。
大正期、横光利一・川端康成らの「新感覚派」やプロレタリア文学から始まって、
最後に(当時の)新進作家代表として、石原慎太郎・開高健・大江健三郎が挙げられて終わる。
だから「内向の世代」は入っていないし、丸谷才一・中上健次・村上龍・村上春樹なども入ってない。
左翼思想と転向の文学史について概観できたのは良かったが、自分が戦後の左翼作家(野間宏など)を読んでみたいかというと、否である。
作家の名はたくさん出ていて、読書ガイドとしては悪くないが、こちらには索引が付いていないので不便。
あと『日本の近代小説』にもこちらにも、内田百閧ェ載ってないのにはちょっとガッカリ。
百間は随筆が主で小説作品は少ないので省かれたのかもしれないが、宇野千代は出てくるのである(この人も小説は寡作でエッセイが主)。
内容を詳しく紹介しようとすると、また作家名を羅列するだけになるので省略。星3つ★★★
0632無名草子さん
垢版 |
2013/04/29(月) 01:17:06.41
>>630の「多少なりとも読んだことがあるのは半分くらい、名前だけ知ってるのは8割くらい」
というのは、文字通り読んだら計算が合わんわな。
「名前だけ知ってるのも含めたら8割くらい」と書くべきだったな。
0633無名草子さん
垢版 |
2013/05/19(日) 01:31:30.44
コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』(ブルーバックス)。
量子力学における「多世界解釈(マルチバース)」を中心に紹介しながら対立する諸解釈を検討し、付随する哲学的問題などを考察する。
第1章ではスクラッチカードのモデルを使って、量子論の不思議な帰結であるEPRパラドックスや、その解釈の試みを戯画的に描く。
EPRパラドックスとは、一つの電子のスピンや光子の偏向を測定することが、遠く離れた別の粒子の測定結果に
瞬間的に影響を及ぼすように見える現象(エンタングルメント・量子絡み合い・量子もつれ)。
第2章では、光や電子における粒子と波の二重性についての考察。「状態の収縮(波の収縮)」や
ハイゼンベルクの不確定性原理を説明するために「波に粒子が乗っている」という「ガイド波」仮説が検討される。
第3章では、前述のエンタングルメントの存在を実験によって証明され、ガイド波解釈を採ると、超光速による情報伝達(非局所性)を認めなくてはならなくなる。
第4章では、まず、超光速が一種のタイムマシンを可能にする仕組みを相対性理論に従って説明する。
(著者としては「タイムマシンが可能」という事態はパラドックスを招くので出来れば避けたい)。
そしてこうしたパラドックスを含む「量子力学の基本問題」なるものを4項目にまとめている。
0634つづき
垢版 |
2013/05/19(日) 01:32:34.86
第5章では改めて量子力学の歴史をたどり、先人たちが採用したコペンハーゲン解釈などを検討。ボルンの確率波の理論では、確率の扱いが問題となる。
確率とは通常は、人の「無知の尺度」であるとされるが、量子論の確率波解釈ではそれでは済まない(真のランダム性・真の非決定性があることになる)。
第6章では、重ね合わせ状態空間を表すために、ヒルベルト空間が導入される。重ね合わせ状態において、システムの構成要素が互いに強く相互作用する場合、
実現する確率の高い持続的パターンと、状態が調和せず消えていくパターンが生ずる。
いくつかの互いに影響を及ぼさないパターンに分岐していくプロセスを「デコヒーレンス(干渉性の喪失)」という。
第7章では、ニュートン力学における「謎の遠隔作用」を、電磁気学や相対論が克服してきた近代科学史を振り返りながら、
量子力学においても「局所性」を保つように理論を整備すべきことを説く。第8章では、前述の「局所性」の要請に合う解釈として、多世界解釈が導入される。
第9章と第10章では、エンタングルメントの実在を実証する実験と、それを利用する「量子コンピューター」※1の話題。それらを無理なく解釈できるのが多世界解釈である。
第11章では、多世界解釈にともなう確率概念の処理(測度論)について触れた後、多世界解釈を採る学者達の紹介。
第12章では多世界解釈がもたらす世界観と様々な哲学的な問題を検討する。
個人のアイデンティティと確率に関わるパラドックスの一つである「眠り姫問題」※2も多世界解釈で考えると明確になってくるという。
0635つづき
垢版 |
2013/05/19(日) 01:34:11.58
第13章では多世界解釈と対立するペンローズの説を紹介。ペンローズは、「重力による収縮」の説と、人間の脳が量子コンピュータであり、
波の収縮は文字通り心の働きによるという説を唱えている。
第14章では、やはり多世界解釈に反対する実験家アントン・ツァイリンガーの説を紹介。
この人は、量子論的宇宙は有限の情報しか持てないという所に注目し、非局所的な情報の相互関係があると考える。
第15章では多世界の証明の可能性や最新の宇宙論との関係を考察し、今後を展望する。非常に面白いが、自分がちゃんと理解できたかどうかは不明。
最新科学の難しい内容を、あの手この手の比喩を駆使して説明しているわけだが、アマゾンレビュー※3にも指摘されているように、誤解の危険は否めないだろう。
素人としてはSFでも読むような感じで読むしかあるまい(実際、多世界とアイデンティティ問題のネタを扱ったたSFは多い)。
理系の話題ではあるが、「解釈」の話になると、不思議な哲学的問題が出現するので、文系にとっても興味を惹きやすいと思う。
ただ論理的思考に「意味」を必要としないような純理系的な感覚の人にとっては「解釈」の問題がそれほど重要だとは感じないかもしれない。
科学というより哲学的な面白さを評価して星4つ★★★★

※1 竹内繁樹『量子コンピュータ』(ブルーバックス)がベストに入っている。

※2 眠り姫問題 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B2%A4%EA%C9%B1%CC%E4%C2%EA
0637無名草子さん
垢版 |
2013/05/19(日) 01:51:52.07
和田純夫『量子力学が語る世界像』(ブルーバックス)。著者は、上のコリン・ブルース『量子力学の解釈問題』を翻訳した人で、この人も多世界解釈支持者。
内容は重複するので細かい説明は省略。コリン・ブルース『量子力学の解釈問題』と比べると、細かい枝葉は大胆に省略しており、話題の拡がりを抑制して、
基礎的なエッセンスだけを詳しく説明している感じ。奇抜な比喩なども控えめである。
微妙でめんどくさい問題には深入りしていないので、多世界解釈の簡潔さと論理的な堅牢さが目立っている印象。
哲学的な面で言うと、人間の意識は物理的な世界に従属しており、物理は人間の意識を超越している、という実在論的な世界観と言える。
しかし人間は一つの世界に閉じ込められていて多世界を俯瞰することはできないのに、多世界の実在を確信するというのは、何によって保証されるのだろうか。
著者は「科学と論理」と言うのかもしれないが、徹底した唯物論・実在論を採ると、多世界のすべてを俯瞰する超越的な視点、すなわち神が要請されるような気もする。
それでも神を拒否するとすれば、「科学主義」になるだろう。
実在の確信ではなく「多世界解釈」も人間が科学を行うための「便宜」の一つに過ぎないというプラグマティックな捉え方をすれば、人間中心主義的になるだろう。
自分はこのプラグマティズムの方が無難だと思うが、著者の「確信」にもある種の魅力があるのも確か。★★★★。
0638無名草子さん
垢版 |
2013/05/19(日) 02:23:36.44
森田邦久『量子力学の哲学』(講談社現代新書)。副題は「非実在性・非局所性・粒子と波の二重性」。
上の『量子力学の解釈問題』と『量子力学が語る世界像』と同じ題材を論じているわけだが、そのニ著が「多世界解釈」を主に支持しているのに対して、
この本の著者は「時間対称化された解釈」を主に支持している。そして、前ニ著の著者が物理学者であるのに対して、この著者は哲学者である。
上のニ著と重複する部分は省略して、「時間対称化された解釈」についてだけ簡単に紹介しておく。
これは、現在の物理量の状態の確率が、過去の状態だけでなく未来の状態にも影響されて決まるのである。
時間の流れや因果律についての日常的な直観からすると、多世界解釈以上に不思議な感じがするが、ミクロの物理ではむしろ時間対称であるのは普通のことである。
著者はこの解釈の一種に多世界解釈を加えたものを支持している。
最後に「ハーディのパラドックス」なるものを図解し、これに「時間対称化された量子力学」を使うと「マイナスの確率」というものが出てきてしまうことを述べている。
これも人間の自然な認知能力をあざ笑うような珍現象で、目眩のするような面白さがある。
以上、および「多世界解釈」以外にも、「裸の解釈(2種)」「単精神解釈」「一貫した歴史解釈(多歴史解釈)(2種)」「様相解釈(2種)」といったいろいろな解釈が紹介されている。
多くの話題を詰め込んでいる分、説明不足感が否めない。自分は上記二冊を先に読んでいたのでなんとかついていけたが、これをいきなり読んでいたらほとんど理解できなかったかもしれない。
この手の新書としては読者の知的好奇心を刺激すればそれで成功と言えるだろう。ただ、これはないものねだりになってしまうが、
「解釈」という行為そのものの科学における位置づけについて、哲学者ならではの視点でもう少し掘り下げて欲しかった。★★★
(余談だが、この人の名前でググったら、とあるブログでボロクソに叩かれていた。自分の著書で条件付き確率の問題を間違えた上に、訂正の際の言い訳が潔くなかったらしい。)
0639無名草子さん
垢版 |
2013/05/19(日) 02:39:04.94
古澤明『量子テレポーテーション』(ブルーバックス)読了。この人は実験畑の人で、実際に量子テレポテーション実験を成功させている。
不確定性原理を所与として、量子もつれ(エンタングル)と量子重ねあわせの原理を使って、量子情報を送信する方法を説明している。
原理自体はそれほど複雑ではないし、数式はなるべく使わず図版を豊富に使い、割と歯切れのよい文章で読みにくくもないのだが、いまひとつ勘所が上手く伝わってこない。
特に「量子もつれ」とは何かが説明不足だと感じた。実際にそういうクレームが多かったのか、著者は『量子もつれとは何か』という続編も出している(こちらは未読)。
説明がやっかいなところに差し掛かると「大学へ行って物理学を勉強してください」とか「拙著をお読みください」
と、逃げる態度をあからさまにしている部分が多く、啓蒙書ではやむを得ないところだが、人によっては腹が立つかもしれない。
ひとつ気になったのは、量子テレポテーションの送信は超光速ではない、と最初に述べている部分。
本文ではこの点について説明がないのだが、上の『量子力学の解釈問題』では超光速(というか同時)であるとしているのと齟齬をきたす。
どちらが正しいのか、自分で調べる能力もないし面倒なのでしてません。
序説で著者は、高校生の物理離れを憂いていて、物理を学ぶ若者を増やす目的で執筆したらしいが、
どちらかと言うと、物理のセンスのない生徒を選別して諦めさせる効能の方が強そうだ。★★★
似たような内容、同じくらいのレベルの啓蒙書を4冊も読んだわけだが、互いに補い合って理解が助けられた。
もちろん、能力が高い人はこんな無駄なことはせず、本格的な教科書に進むべきだが、自分はそんなものは読めないので仕方がない。
0640無名草子さん
垢版 |
2013/05/21(火) 00:35:52.78
森田邦久『科学哲学講義』(ちくま新書)。『量子力学の哲学』の著者による、科学哲学入門書。
第1章は、演繹・帰納・アブダクション、帰納的推論の正当性、必然性とは何かについて論じている。
必然性については「可能世界」という概念が、あまり詳しい説明抜きで唐突に導入されている。
第2章は「因果性」ついて。「因果」の実在に対する懐疑は「帰納」への懐疑と同様、ヒュームによって提起された。
これには時間論も関わってくる。この話題は詳しく論じられていて、おそらく著者の本領だと思われる。
『量子力学の哲学』と重なる部分もある。
第3章は、科学で扱われる原子や電子のような物は、目に見えないのに本当に実在すると言えるのか、と問われる。
第4章では、科学と科学でないものはどう区別されるのか。科学と疑似科学の線引き問題。
このあたりは、>>576の戸田山和久の本や、ベストに入っている伊勢田哲治の本でも扱われており、割と馴染みのある話題である。
ポパーの「反証可能性基準」やクワインの「全体論」について説明される。
0641つづき
垢版 |
2013/05/21(火) 00:36:44.23
第5章は、前章を引き継いで、科学の合理性について論じる。
クーンの「パラダイム論」、ラカトシュの「研究プログラム説」、「研究伝統説」、「社会構築主義」などについて説明。
第6章では、反進化論や超心理学といった疑似科学と見做されている事例を検討しながら、科学的説明とは何か、
そして科学と他の知識体系との違いに関する著者の考えをまとめている。
全体として、一応初心者を意識して書かれており、一見とっつきやすそうな感じなのだが、実はそんなにやさしくない。
後半の話題は他の科学哲学入門書でも広く扱われていることもあって、理解はしやすいのだが、
第1章で「可能世界」の概念を使って「必然性」について分析する部分や、
第2章で、因果性を「反事実条件文」を使って分析する部分などは、初心者にとってはかなりの壁になる。
「因果性」については他の科学哲学啓蒙書ではあまり扱っているのを見たことがないので、新鮮だったし面白いのだが、
やはり説明不足ではないかと思う。個人的には「因果性」だけで一冊出して欲しかったが、
それだと読者が限定されてしまって販売戦略上まずいのだろう。★★★
0642無名草子さん
垢版 |
2013/05/26(日) 02:18:01.23
桜井英治『贈与の歴史学』(中公新書)。非市場経済や文化としての「贈与」については、文化人類学や経済人類学でよく扱われるが、
タイトルだけ見ると贈与文化に関する通史かと期待させるが、そうではなく、この本では、日本の中世(主に室町時代)の贈与慣行について述べられている。
文化人類学の影響を受けた現代思想などでは、「贈与」は功利性や市場経済と対立するものとして言及される事が多いが、
日本中世における「贈与」には、功利性の側面が強く、市場経済との連続性をもって表れていると言う。
第1章では、マルセル・モースの『贈与論』などを参照し、贈与の「四つの義務」…(提供の義務・受容の義務・返礼の義務・神に対する贈与の義務)を出発点として考察を進める。
そして「神への贈与の義務」が、租・調といった税となっていく過程を追う。また、「人への贈与」が義務化し、税と化していくこともあった。
第2章では、贈与が宗教性を脱して世俗化し、また、義務化していく過程を詳述している。贈与が「先例」となると、定役化・義務化しやすくなるのである。
そこで、贈与を行う人々は、それが先例化しないように微妙な駆引きを行ったりした。この「先例」の力とは「法」の起源でもある。
また、当時の贈与交換の儀礼において、双方の「相当」の観念、すなわち贈り物同士の価値の釣り合いにこだわっていた。
贈られた側が価値不足と感じた場合は贈り物を突っ返したりもしていた。「相当」という等価交換への厳格さが、中世の「礼の秩序」を形作っていた。
一方で、厳格な制度と化した贈与は、人格性からは切り離されていった。つまりかなりドライな側面を持っていた。
0643つづき
垢版 |
2013/05/26(日) 02:18:57.91
第3章では「贈与と経済」と題して、贈与と市場経済がどのように共存し連続していくかを見ていく。
著者は、日本の中世には貨幣経済・商品流通・信用経済が発達し、市場経済が成立していたと考えている。
13世紀後半には、年貢を貨幣で納める体制(代銭納制)が定着している。そして、贈答品市場が存在し、人々は贈り物を市場で調達し、贈られた品を市場で売り払っていた。
神社には神馬が奉納されるが、神社が贈られた馬を全て飼い続けるのではなく、博労に売却していた。また贈答儀礼そのものが物資調達手段となっている場合もあった。
室町幕府の財政も贈与儀礼に頼っていた。将軍が京中の禅宗寺院に「御成」と称して訪問しては「献物」を貰ってまわっていたのだ。
次に贈与と信用経済の関連では、「折紙」という贈り物に添えられる目録が大きな役割を果たす。
先に「折紙」を贈り、贈答品は後から贈るという慣行から、「折紙」が約束手形のような機能を果たすようになる。
債権債務関係の会計処理同様に、贈答の相殺をしたり、折紙の譲渡も行われる。
賄賂としての贈与では、折紙を先に渡して、利益供与を受けた後で現物を贈るという仕組みによって、贈り損を避ける機能もあった。
神仏へのお供えでも、折紙を先に供えて願いが叶った時だけ後から現物を供えた、という話は面白い。
こうした証券化などの、贈与の非人格化・省力化は、贈答品の本質が「使用価値」から「交換価値」へ移っていく事を意味する。
それは贈与があと一歩で贈与でなくなる臨界点を示している。しかし、こうした中世独特の贈与の信用経済は、15世紀末から16世紀初頭には急激に廃れ、
パーソナルな社会関係が復活してくる。歴史が直線的に進行するとは限らないという一つの例である。
0644つづき
垢版 |
2013/05/26(日) 02:19:39.27
第4章では、「儀礼のコスモロジー」として、「御物(ごもつ)」と称する内裏や将軍家のお宝の扱われ方や、贈与における動産と不動産の扱いの違いや、労働の贈与について論じている。
御物は、貴族達の共有財産という性格を帯びており、しばしば困窮した貴族に貸し出され、借りた貴族はその御物を質に入れて資金を調達したとのこと。
最後に本書で扱った「贈与」は、純朴な無償の贈与=「純粋な贈与」ではなく、「義務的な贈与」と「商業的な交換」との境界線上で展開されたものであることを確認している。
著者も述べているように、本書で扱っている時代は中世後期のみとかなり限定されているが、贈与と経済の問題を考える上では普遍的な広がりを持っている。
特に、市場経済を批判して、贈与と共同性の倫理の復権を持ち出すような、ある種の知識人の思想がいかに紋切り型なのかがわかる。星5つ進呈★★★★★
0645無名草子さん
垢版 |
2013/05/26(日) 02:31:28.12
うわっ出だしの文章がおかしいwww推敲すりゃよかった
0647無名草子さん
垢版 |
2013/05/29(水) 22:04:30.82
>>646
俺は最近、純文学を意識的に読んでるよ。読むの遅いからたいした量じゃないが。
面白さはよくわからんし、しんどい。マラソンしてるのと同じ。読んだ後の達成感はあるが。
0651無名草子さん
垢版 |
2013/06/23(日) 23:18:36.25
平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書)。副題は「資源、食糧問題から開発製作まで」。
アフリカを中心とした開発援助問題とその歴史について論じたもの。第1章では、近年盛んになった中国のアフリカ援助について。
中国の経済成長に伴う、資源需要の増大により、資源獲得のために、中国はアフリカに莫大な援助・投資を投じ、大きな影響力を発揮するようになっている。
第2章では、資源輸出によってアフリカが経済成長しつつある現状を論じる。それは開発なき成長であり、
かつての「オランダ病」のような、いわゆる「資源の呪い・資源の罠」という問題を妊み、成長の果実が末端・農村にまで行き渡らず、格差をもたらしている。
第3章では、アフリカの農業生産性の低さが、低成長と格差を生んでいることを指摘している。またこれは全世界的な食料安全保障上の脅威でもある。
第4章ではODAなど戦後の開発・援助の歴史と、開発経済学や援助の理念の変遷を概観。
第5章では、南アフリカなどから勃興したグローバル企業の活躍と、アフリカの経済成長への寄与を述べている。
また、BOPビジネスと呼ばれる、貧困層を対象したビジネスの興隆を指摘。今日のCSR(企業の社会的責任)のあり方についても論じる。
0652つづき
垢版 |
2013/06/23(日) 23:20:05.19
第6章では、長期経済低迷している日本の、あるべきアフリカ開発援助戦略について論じて終わる。
論旨明晰で、問題点がわかりやすく整理されており、問題解決の方向性も明確。
自分は「食糧危機」というのは現状ではあまり差し迫った問題とは思っていなかったのだが、
アフリカの農業生産力が上がらないと将来的には危機となる、という話には蒙を啓かされた。
あと、「世界システム論」の開発援助史上の位置づけなどは個人的には興味深かった。
6章の、日本の長期低迷の主因が市場の閉鎖性にあるかのような議論には、こじつけっぽくてあまり説得力は感じなかった。
予備知識としては、ミクロ・マクロ・国際経済学の初歩の考え方に多少慣れていた方がいいが、開発経済学の知識は特に必要ないと思う。
ただ、「グラントエレメント」といった耳慣れない外来語が説明なしで用いられている部分は若干あった。
数少ない経済系新書の良書ということで星5つ★★★★★。
この本については既に優れたレビュー↓がネットに出ているので詳しくはそちらを参照してください。

平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書) 10点
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html

マルクスからカント、そしてヘーゲルへ
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20130401/p1
0653無名草子さん
垢版 |
2013/06/23(日) 23:55:18.81
安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』(ちくま新書)。
著者は教育学・教育心理学・行動遺伝学者で、主に双子の調査によって行動・心理への遺伝と環境の影響を研究している人。
副題は「すべての能力は遺伝である」となっているが、これは明らかに最近の新書によく見られる販促のための「釣り」で、
「はじめに」では「すべては遺伝子の影響を受けている」と言い直されている。編集者の良識が疑われる部分だが、
これを許してしまった著者も、自分の意図が歪んで伝えられる危惧を持たなかったのだろうか。心理学者にしては甘い判断だと思う。
まず第1章では、「バート事件」と言われる、知能の遺伝研究に関する事件について。
知能の遺伝的影響を主張したバートの論文が、環境決定論者達によってデータ捏造が指摘されたが、それは冤罪だった可能性が高いという後年の知見を紹介する。
そして、データ捏造説を無批判に引用し、行動遺伝学を軽視する行動心理学者の鈴木光太郎を名指しで批判している。
第2章では、もともと環境決定主義者として教育学を目指した著者が、遺伝の重要性を認識するようになった経緯と、
双子研究によって、遺伝の影響と環境(共有環境と非共有環境)の影響を測定する統計的方法について説明する。
0654つづき
垢版 |
2013/06/23(日) 23:56:18.03
第3章では、遺伝子操作による出産が当たり前になった世界を描く『ガタカ』というSF映画を例にとって、遺伝子診断の現状と、それにともなう生命倫理的な難問に触れる。
第4章では、「環境こそが遺伝子を制約している」という著者の考え方が示される。
第5章では、遺伝と社会・経済の関係を考える。収入と遺伝の関連、教育投資の見返りなど。
また、経済学・社会学・法学・教育学などの根幹の設計思想を、遺伝の知見が覆すと述べている。
第6章では、行動遺伝学を前提とした教育のあり方や、人種・民族差や優生思想などについて、進化心理学によって見出される人間の本能的な利他性や、
ロールズの正義論などを動員して、公平や平等といった倫理的な問題を論じている。
0655つづき
垢版 |
2013/06/23(日) 23:57:18.09
多くの感情的抵抗を被りやすい題材や倫理的難問に果敢に挑みつつ、やっかいな泥沼に足を取られるほどには深入りせず、とりあえず穏当な結論を導いている、という印象。
個人的には、こうした題材については、ずいぶん前にスティーヴン・ピンカー『人間の本性を考える−心は空白の石板か』(NHKブックス)などを読んでいて、
心理的抵抗感に関してある程度は克服しているつもりだが、改めて遺伝の問題を突きつけられると、自分の能力の限界を見せられるようでやはり多少嫌な気持ちになる。
この遺伝的影響を否認したがる心理的バイアスというのは、本能的な道徳感情に由来するだろう。この感情自体ある程度生得的なものだ。
「努力すれば夢は叶う」「誰にでも無限の可能性がある」という信仰を否定される事は、努力へのモチベーションの低下や、教育の無力感に繋がりやすいだろう。
心理的抵抗感を克服したとしても、次には『ガタカ』のような倫理的難問が立ち塞がるわけで、なかなか大変な話である。
道徳というのは、様々な信仰、極端に言えば「嘘」によって支えられている面もあるわけで、こうした身も蓋もない科学的真実を我々みんなが知ることが本当にいいことなのかどうか、
誰もが納得する説明ができているかは疑問。少なくとも学問の世界では遺伝の問題をごまかさずに直視することは正しいとは思うが。
あと細かいことを言えば、生得的なものがすべて遺伝というわけではなく、母体内環境という要因もあるはずだが、そこは説明されてなかった。
副題など多少の不満はあるが、行動遺伝学の知見が、今もなお人文系や社会科学系で『不都合』なものとして黙殺されているとすれば、
それ自体が重大な問題として提起する価値があるだろう、ということで星4つ★★★★。
0656つづき
垢版 |
2013/06/24(月) 00:37:44.35
ちょっと付け加えると、遺伝の影響を否認もしくは過小評価したがる感情バイアスが
実害をなす場合というのも確実にありますね。
「誰でも頑張ればなんでもできる・できないのは頑張ってない証拠」という精神主義の傾向とか。
一番ひどいのは子供の発達障害を母親の育児責任に帰すもの。
0657無名草子さん
垢版 |
2013/06/25(火) 21:59:42.83
しつこいようですが上の本に関してちょっと追加。たまたま関連するエントリーを見かけたので。

コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130622/paul_and_greg_2013_4

コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)・続き
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130623/paul_and_greg_2013_4_2

上のエントリーの「続き」の方で、
グレッグ・マンキューが遺伝の影響の強さについて言及している。
こうして見ると、「遺伝の寄与の強さ」の知見が、
「教育機会の均等化に政策コストをかけるのは無駄」というような方向に政治利用され、
格差容認の方向に行きがちなのかなとも思う。
ロールズとかアマルティア・センなどの思想で対抗できるのか?
0658無名草子さん
垢版 |
2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
頑張れよ
0659無名草子さん
垢版 |
2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
過疎りすぎだろ
0661無名草子さん
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)。2009年大佛次郎論壇賞受賞作。
新書大賞を受賞していたかと自分は勘違いしていたが、そちらはエントリーされただけであったようだ。
社会が成熟し、もはや経済成長せず「定常型社会」となってきた現代の日本におけるコミュニティの意義を論じている。
この「成熟社会」「定常型社会」「もう経済成長はしない・成長を目指すべきではない」というのは何度も強調される。
このあたりの著者の思想については岩波新書の『定常型社会』※を始めとして、他著で既に詳しく論じられており、
本書では大前提とされているが、一応4章でも簡単に解説されている。
「定常化」の論拠として、「人口減少」「資源・環境制約の顕在化」「貨幣で計測できるような人間の需要の飽和」が挙げられている。
また巨視的な歴史のサイクルとして人口変動などを見ると現代は3度目の定常化を迎えているという。
0662無名草子さん
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
またコミュニティについて考え始めるに当たって、まず農村型コミュニティと都市型コミュニティに分類し、
前者の情緒性・閉鎖性と後者の普遍性・開放性を対比しつつ、人間には両者の要素が必要だとしている。
これらを前提として、第1部では、コミュニテイという主題を考えていく「視座」として、都市というテーマを考え、
コミュニティの空間的な中心について論じ、グローバル化との関係を考える。
第2部「社会システム」では、社会保障・福祉制度、都市計画、土地、住宅、環境などについて論じる。
ここでは、「ストックをめぐる社会保障」として、フローではなくストックの再分配、例えば、土地所有制の見直しと公共化などを提言している。
とにかく市場経済に頼るのではなく、ストックを公や共によって有効利用しようという考えのようだ。
3部では「原理」と称して、科学論や医療論(ケアとしての科学)、独我論とコミュニティの閉鎖性の関係、
「普遍性」と「多様性」の問題、宗教・スピリチュアリティの必要性などを論じている。
0663つづき
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
「成熟社会」「反経済成長論」を前提もしくは主題とした新書は現在ものすごく多く、
これはその中の代表作ということで、今回ようやく読んでみたわけだが、正直、予想以上につまらなかった。
一方に「空虚なイデオロギー」としての経済成長主義があるのは確か(例えばアベノミクスの「成長戦略」とか「コーゾーカイカク連呼」など)なので、
それらに対する反発として、反成長主義にも一定の正当性はあるのだろう。ただ、反成長と言っても、
「もう成長はしない」「成長するべきではい」「成長を目指すべきではない」はそれぞれ意味が違うので、各々の立場が何を言わんとしているのかまず整理すべきだろう。
また「実質成長」と「名目成長」を分けて考えるという作業もした方がいいかもしれない(生産性を上げるのか景気対策をするのか)。
確かに科学技術の進歩や効率化は人を幸福にするとは限らないし、このままどんどん効率化が進めば労働者がどんどん必要なくなって失業者だらけになるかもしれない。
しかし科学技術の進歩や効率化を止めるというのは非現実的だろう。あるいはアーミッシュのように強力な宗教的伝統でもあれば別だが。
だとすれば、失業を増やさないためには、少なくとも当面は名目成長率を上げる必要はあるのではないか。
まぁこういうのに賛同する良心的インテリという人達はたくさんいると思うので、そういう方たちに喧嘩を売るつもりは毛頭ないが。
ただ、著者が理想とする北欧的な福祉社会やスローライフ的な「贅沢」は経済成長抜きで本当に可能なのだろうか?と疑問を呈しておく。星2個★★。

※著者の『定常型社会』(岩波新書)は随分前に読んだが、内容ほとんど忘れた。
0664無名草子さん
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)。いじめ研究の第一人者と言われる社会学者による、いじめの社会理論。
まず第1章では、巷の識者による、混乱した「いじめの原因論」を列挙する。それらをまとめると、
「人間関係が希薄でありかつ濃密である」「若者は幼児的であると同時に計算高い小さい大人でもある」「秩序が過重であり、かつ解体している」
といった互いに矛盾するかのような主張になる。こうした混乱は、「秩序」を「単数」と考えている事による、と著者は言う。
「秩序と無秩序」という単純な二分法ではなく、複数の秩序が存在すると考える。秩序を「場のノリ」が優先するような「群れの秩序(群生秩序)」と
「市民社会の秩序」に分けて考えれば、いじめの空間では前者が過重であり、後者が解体している、と整理できる。
0665つづき
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
第2章では、いじめの秩序を分析する。そのメカニズムは、自分たちが群れて付和雷同することによって醸成された場の情報(空気)が個人に「寄生」して
個人の「内的モード」を切り替えてしまい、その切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が、さらに次の時点の集合的な場の形を導く。
そしてその場の情報がまた…という形で連鎖するものである。
また、心理と社会の認知情動システムとして見ると、「不全感」(なんとなくムカつく・存在自体が落ち着かない)から
「全能感」(世界と自己が力に満ち全てが救済される感覚)への暴発として捉えられる。
全能感の内部にも、暴力の全能感→群れの全能感→暴力の全能感→…という再生産サイクルがあり、また、全能感と不全感の間にも再生産サイクルがある
。著者はこの全能感を成立させる道筋を「全能筋書」としてモデル化し、「破壊神と崩れ落ちる生贄」「主人と奴婢」「遊びたわむれる神とその玩具」と三類型に整理している。
命名が妙におどろおどろしいが、いじめの実際を思い浮かべれば意味はだいたいわかると思う。
第3章では「癒しとしてのいじめ」として、いじめる側といじめられる側の心理を分析している。
両者に共通する価値観として「タフであること(逆境に耐え事態を上手く切り抜ける強さ)」に注目している。これも一種の全能感である。
またいじめの場の秩序形成の契機として「祝祭」と、空間占有の全能感(「属領」)を挙げている。
0666つづき
垢版 |
2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
第4章では、いじめを形成する要素として前章までで詳しく説明されていた「全能感」と、もうひとつの要素である「利害」のマッチングについて分析。
「全能感」の方は合理的な利害を超えて暴力を暴走させることもあるが、いじめの不利益が大きなものであればブレーキとなりうる。
利害と全能感が一致すると、動かしがたい政治空間となる。よって「利害計算」と「全能図式」を一致させないようにする方法を考える必要がある。
政治権力は利害図式から構成されているので、制度を変えることによって利害構造を変えられる。
第5章では、学校という制度がいじめに及ぼしている影響について。閉鎖空間で「ベタベタ」する関係を強制する「学校共同体主義」を激しく批判する。
群生秩序を蔓延させる制度を変えるべだきとして、これを「生態学的設計主義」と称する。
第6章では、まず、短期的な教育制度変革の政策として、「学校の法化」と「学級制度の廃止」を提言する。
前者は学校内にも市民社会のルールを貫徹して、暴力には警察で対処するというようなこと。
後者はクラスを廃止して、強制的にベタベタさせる共同体の拘束を緩めようということ。
中長期的には義務教育制度を削減し、代わりに権利としての教育を拡充し、教育バウチャー制度などを取り入れて、大胆な教育の自由化を提案している。
最後に「中間集団全体主義」として、中間集団が全体主義に奉仕する面を強調し、共同体主義に対する嫌悪を露わにしている。
0667つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
自分はこの人の本を読んだのは初めてだが、以前に著者のネットでの発言などを見たことがあるし、いじめ理論や学級制度撤廃論についても多少知っていた。
ただ教育制度改革についてここまで過激な考えを持っていることは今回初めて知った。どうも、この人のいじめ論には理論だけがあって実証や実験への志向がない。
また教育学や社会心理学など他の分野や現場の教育者との連携が現状でどの程度進んでいるのかわからない。
フィールドワークはしているが、これだけを読むと理論に合致する例だけをピックアップしているような印象は拭えない。
諸概念が明晰に整理されていて、巷の通俗的ないじめ論よりも普遍性を達成しているのは確かだろうが、
理論だけで政策化できると考えているとすれば、独断性・独善性において通俗論者と五十歩百歩だろう。
「学級制度撤廃」は著者が昔から主張していることであり、その当然考えられる副作用についても長く議論がされてきているだろうし、
著者も既に答えを持っているのだろうが、ここでは全く考慮されていない。
例えば、学級がなくなっても自発的な小集団はたくさんできるだろう。そうした小集団ではいじめは起きないだろうか?自発的な集団であれば離脱はたやすいと本当に言えるだろうか?
小集団に入れない子に居場所はあるだろうか?(もちろん「いじめを伴う孤立」より「いじめなき孤立」の方がずっと良い、などの答えを出すことは可能だが)、
クラスがなくなれば担任が個々の生徒をケアできなくなるし、不可視性が高まるが大丈夫だろうか?(「透明な社会」を非難する著者としてはそれで良いと言うのだろうか)
学校の周囲でも「市民社会」が成立してない場合はどうすんの?など……
0668つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
いずれにしろやってみないとわからない。実験校を作って実際にやってみようという動きはあるのだろうか?
一校だけで効果を検証するのは難しいだろうが、少なくとも副作用の程度についてはわかるだろう。そして副作用が大きければ考えなおすべきである。
しかし著者は「まず小さな規模で実験してコツコツ実績を積み上げて」という発想はないようだ。そもそも中間集団を嫌悪しているので、ボトムアップ的な実践はできないのかもしれない。
中間集団をすっ飛ばして抜本的な改革をするとなると、強大な権力が要請されるが、それでいいのか?といった問題もある。
もっとも、こういうありがちな自由主義批判やら近代主義批判みたいなものをスッパリ無視するのも清々しいとも言えるが。
著者の主張する「自由」は経済システムを考慮していないし、弱者主体の自由なので、リバタリアンの「自由」とは異なるが、その原理主義的な態度はリバタリアンと共通するものがある。
他にも「全能感」という精神分析風の概念の妥当性とか、古典的な共同体暴力のモデル(ルネ・ジラールの「スケープゴート」モデルや今村仁司の「第三項排除暴力」など)との関係とか、
考えたいことはいくつかあるが、長くなったのでここまで。星3個★★★
0669無名草子さん
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2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN
小山田和明『聞き書き・築地で働く男たち』(平凡社新書)
著者は築地の仲卸業者の家に生まれ、現在は小揚会社に勤めている人(小揚会社とは卸売業者から委託されて競り場での商品管理を行う荷役会社)。
大学では歴史学を学び、民俗学や文化人類学も勉強している。幼い頃から売れ残りの傷んだ不味い干物を食わされ続けて、魚は嫌いになったとのこと。
一応業界内の人ではあるが、外側から見ているという感じもあって、適度な客観性をキープしている。
まず「築地市場の基礎知識」として、築地市場の簡単な歴史、仕組み、そこで働く各業者(卸売業者・小揚業者・仲卸業者・その他の関連業者)についてまとめている。
次の章から、各業者の体験談が8編まとめられている。登場するのは、マグロの仲卸業者、練り物・干物など加工品を扱う業者、
ターレと呼ばれる市場で使われる運搬車を扱う業者、元仲卸業者である著者の父、小揚会社の社長、魚を入れる箱(昔は木箱・今は発泡スチロール)を扱う会社の社長、
「小車」という人力で魚を運搬する車を作る職人、仲卸業者の配達員、の8人である。
最初は社長クラスばかりにインタビューしてるのかな、と思ったが、最後の人は60才過ぎた今も長時間の肉体労働をしている労働者である。
市場の制度や施設や技術の移り変わり、戦後経済史と市場の歴史の関連、現場で働く人々の諸相、仕事の細かいスキル、様々なエピソードが興味深く語られる。
魚の臭いが充満し、やくざが常駐し、喧嘩や事故の絶えない荒々しい現場の活況が生々しくて面白い。
印象的なのは、人々の語りに、業界で成功した人にありがちな自慢や美化の臭気がなく、過去の失敗も正直に話しているところ。
著者のまとめ方も上手いと思う。最後の配達員のおじさんの話など、失敗談だらけであり、全然立派じゃないけれど、読むとしみじみとした感動がある。
外部の社会学者やルポライターでは、こうした業界の人々の懐に飛び込むようなインタビューはできなかったろうし、
逆に業界にどっぷり浸かっている人では客観性が保てなかっただろう。この著者にしか書けなかったルポだと思う。★★★★
0670無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
有田隆也『生物から生命へ−共進化で読みとく』(ちくま新書)
この人は(新書ベストにも入っている)『心はプログラムできるか』(サイエンス・アイ新書)の著者でもある(ずいぶん前に読んだので著者名には覚えがなかった)。
共進化モデルと最新の人工生命研究について解説する本だが、最初に「モノ的生命感からコト的生命感へ」という大風呂敷を広げているのが特徴。
「モノからコトへ」というのは廣松渉の哲学からの引用だと思うが、廣松への言及はない。また「要素還元論的手法から構成論的手法へ」という方法論の違いも強調している。
共進化という生命のプロセスの研究には、現象を自分で作って理解していく「構成論的手法」が重要だとのこと。
そして、著者達の行なっている人工生命による進化のヴァーチャルな実験は、従来の「シミュレーション」とは違うということも何度か強調される。
つまり従来のシミュレーション、たとえば台風のシミュレーションではコンピュータ内で本当に台風が生じているわけではないけれど、
人工生命の進化実験では、コンピュータ内で生じているのは本当の「進化」そのものであって「進化のシミュレーション」ではないと言うのだ。
なるほど、と思う反面、ちょっと強引な気もする。人工生命はリアルな生物ではない以上、やはり「生物の進化のシミュレーション」ではなかろうか?などとも思うが、
著者によれば、これこそ「構成論的手法」に対する典型的な無理解ということになるだろう。
「人工生命」は「生物のシミュレーション」ではなく、それ自体が「コトとしての生命」だということらしい。
著者の思想には、他の一般的な生物学者の「構成論的手法」への無理解に対する憤懣や、自分達の研究に対する過剰な思い入れが込められているようだ。
0671無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
本論では、進化論と共進化に関する基礎的解説(適応度地形など)、病原菌とヒトとの共進化、協力行動とネットワークの共進化、
人工生命研究の最先端、ニッチ構築の原理、文化と生命の共進化、言語と生命の共進化、と続く。
最後にまた「コト的生命感」の大風呂敷に戻り、いきなりアートについて論じ始め、生命とアートに共通する創発性に関する思弁を展開している。
要するに、進化論、ゲーム理論、情報理論、さらにネットワーク理論や複雑系システム論まで統一した方法を使うと、
「生物」の枠を超えて、生命・文化・言語・芸術など、より広い世界の原理を統一的に扱えるわけである。
それ故、やや誇大妄想的な大風呂敷を広げているようにも見えるわけだ。本論は科学的で怪しい部分はないのだが、
「創発」というところに焦点を合わせて思弁を展開すると、どうしても神秘主義的な口調になりがちなのかもしれない。
進化論に馴染みのない人は、先に長谷川眞理子の進化論入門書やドーキンスの本などを読んでから読む方がいいだろう。★★★
0673無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
内田亮子『生命をつなぐ進化のふしぎ』(ちくま新書)。副題は「生物人類学への招待」となっていて、主に人類の進化を扱ったもの。
第1章では、著者が体験した、とある数学者が進化生物学に対する無理解を示したエピソードが紹介され、生命の進化における偶然と必然をどう考えるかが論じられる。
第2章では、オランウータンの食性およびエネルギー代謝と繁殖のスピードに関する研究を紹介し、人類進化において食と歩行が果たした役割を論じている。
現代人の肥満の問題についても言及されている。これは社会の変化に対して生物としての人間の進化が追い付いていない例としてよく出されるもの。
第3章では、社会性の進化について。霊長類の社会や脳の研究を土台として、人類の社会性がどのように進化していったのかを考える。
「信頼」を醸成するホルモンであるオキシトシンの話題や、暴力行動、狩猟採集社会における分配と平等、互恵的懲罰など。
このあたりの話は、新書ではないが、山極寿一『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)とある程度共通する内容なので、興味のある人は併読してみてください。
第4章では雄雌の配偶と繁殖について。フェロモンの話題や、異性の体臭に対する男女の好みについてのちょっと変わった研究なども紹介されている。
第5章では動物や人間の発生・成長・子育てについて。女子割礼について少し言及している。普通はジェンダー論の方向から考察されたり批判されたりする文化制度だが、
著者は、父性を確実にするために女の生殖を制限するという生物学的戦略が根幹にある事を指摘しており、その点を考慮することから解決を検討する事を提案している。
第6章は老化について。第7章は死について、である。人類進化に関する様々な話題が盛り込まれているが、一般向け啓蒙書としては、テーマが絞り込まれてなくて散漫な感じがする。
前述の山極寿一の本のように「暴力」などの何か統一したテーマがあれば、もう少し読みやすかったかもしれない。
巻末に膨大な参考文献(ほとんど英語)が載っている。とても誠実で、学者らしい学者という感じ。★★★★
0674無名草子さん
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2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
渡辺政隆『ダーウィンの夢』(光文社新書)著者はスティーヴン・J・グールドの『ワンダフルライフ』などを訳したサイエンス・ライター。
文体の感じから、わりと若い人かと思っていたが、1955年生まれだから50代後半でキャリアは長い。
地質学・古生物学を中心に参照しながら生命の誕生から生物進化の歴史をたどる。序章では、バージェス頁岩層を著者が訪れた話。
『ワンダフル・ライフ』に描かれたカンブリア大爆発の奇妙な生物の化石が発見された場所である。
第1章では、生命の誕生についての諸説。古い説である「雷放電説」「宇宙からの飛来説」に加えて、最新の有力説である「熱水噴出孔説」が紹介される。
第2章では、最古の単細胞生物の誕生から、細胞内共生説について。
第3章では、アメーバや粘菌について。有性生殖が生じた理由については、いまだに決定的な説がないとのこと。
またオーストラリアのエディアカラ丘陵から出たクラゲ形の奇妙な動物群について言及。
第4章では、カンブリア大爆発に関して、なぜ多様化したのかが問われる。ここで、生態学的地位(ニッチ)という概念が説明される。
アンドリュー・パーカーによる、目の進化が生物の多様化を促進したという「光スイッチ説」も紹介されるが、これは広く認められたものではないとのこと。
第5章では、進化発生学(エボデボ)の祖として、津田梅子の研究などが紹介される。多くの生物で共通する「ホメオティック遺伝子」や「ホメオボックス」の発見など。
第6章では「魚類」の誕生について。もっとも生物学上は「魚類」という分類は存在せず、「硬骨魚綱」「軟骨魚綱」「無顎綱」などの総称にすぎないとのこと。
ここでは脊索動物の起源に関する最新の研究が紹介されていて、人類の最古の祖先とされていたカンブリア紀の「ピカイア」よりもさらに前にナメクジウオのような原索動物がいたとのこと。
0675つづき
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2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
第7章では、魚が上陸するに至る過渡期について考察。俗に言う、浮き袋が肺に進化したというのは間違いで、実は肺の進化が先で、浮き袋は肺から進化したという。
また、陸上への進出の誘引は、池や川の干上がりだと言われていたが、当時、水中と比べて地上には捕食者・競争者が少なく、食べ物が豊富だったからとのこと。
水中から陸上への進化における最大の難関は、肺の進化ではく、重力によって内蔵を圧迫することであった、と著者は言う。
体重を支えるために、胸鰭から腕が進化しなくてはならなかったのだ。
第8章は、両生類と節足動物の時代。第9章は、始祖鳥に関する論争の歴史をたどりながら、恐竜から鳥への進化について論じる。
第10章では、改めてダーウィンの伝記と、ビーグル号の航海について振り返る。
この章では、イリエワニというワニが時速40キロで走るというトリビアがちょっと怖くて面白い。襲われたら人間は絶対に逃げられないという。
第11章では、人類の進化と、アフリカから全世界へと散らばっていく旅の過程について、簡単にまとめている。
終章では、バージェス動物群以降の最新の発見について概観している。
キャリアの長いサイエンス・ライターだけあって、一般向けの本を書き慣れているのか、妙にこなれた感じがする。
当時まだ出たばかりの村上春樹『1Q84』や「崖の上のポニョ」を引用したりして、一般読者に対するつかみはソツがなく、文章のまとめ方も上手い。
ただ、個人的には、このソツのなさがちょっと鼻につく。★★★
0676無名草子さん
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2013/09/15(日) 22:04:50.17
野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』(生活人新書)
著者は仏文教授で、レトリックの本も出している。これは文章術の本で、文章心得を12条にまとめた上で、レトリック指南も行っている。
その12条は以下の通り;「1条・短い文を書こう」「2条・長い語群は前に出そう」「3条・修飾語と被修飾語は近づけよう」「4条・係り−受けの照応に注意しよう」
「5条・読点は打たないようにしよう」「6条・段落は大切にしよう」「7条・主張には必ず論拠を示そう」「8条・具体例や数字を挙げよう」
「9条・予告・まとめ・箇条書きなどで話の流れをはっきりさせよう」「10条・文末を工夫しよう」「11条・平仮名を多くしよう」「12条・文体を統一しよう」となっている。
具体的にどうすべきなのかは説明されないとわからないものもあるが、2条の「長い語群は前に出そう」や5条の「読点は打たないように」などは、このままで役に立ちそうだ。
ただ後者は、単に「読点を使うな」ということではなく、「使わずに済むような文章を心がけよ」ということで、読点を打つべき場合についても解説されている。
自分の感覚では、縦書きよりも横書きの場合に多く読点が必要になるような気がするが、そのあたりは触れられていない。
著者の文章観は「書くとは引用である」ということで、「定型表現をたくさん覚えて使え」という主張に集約される。
他の文章読本では「紋切り型」を避けるべき事を主張したものが多いが、著者はそれに異を唱えている。
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