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0644つづき
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2013/05/26(日) 02:19:39.27
第4章では、「儀礼のコスモロジー」として、「御物(ごもつ)」と称する内裏や将軍家のお宝の扱われ方や、贈与における動産と不動産の扱いの違いや、労働の贈与について論じている。
御物は、貴族達の共有財産という性格を帯びており、しばしば困窮した貴族に貸し出され、借りた貴族はその御物を質に入れて資金を調達したとのこと。
最後に本書で扱った「贈与」は、純朴な無償の贈与=「純粋な贈与」ではなく、「義務的な贈与」と「商業的な交換」との境界線上で展開されたものであることを確認している。
著者も述べているように、本書で扱っている時代は中世後期のみとかなり限定されているが、贈与と経済の問題を考える上では普遍的な広がりを持っている。
特に、市場経済を批判して、贈与と共同性の倫理の復権を持ち出すような、ある種の知識人の思想がいかに紋切り型なのかがわかる。星5つ進呈★★★★★
0645無名草子さん
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2013/05/26(日) 02:31:28.12
うわっ出だしの文章がおかしいwww推敲すりゃよかった
0647無名草子さん
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2013/05/29(水) 22:04:30.82
>>646
俺は最近、純文学を意識的に読んでるよ。読むの遅いからたいした量じゃないが。
面白さはよくわからんし、しんどい。マラソンしてるのと同じ。読んだ後の達成感はあるが。
0651無名草子さん
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2013/06/23(日) 23:18:36.25
平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書)。副題は「資源、食糧問題から開発製作まで」。
アフリカを中心とした開発援助問題とその歴史について論じたもの。第1章では、近年盛んになった中国のアフリカ援助について。
中国の経済成長に伴う、資源需要の増大により、資源獲得のために、中国はアフリカに莫大な援助・投資を投じ、大きな影響力を発揮するようになっている。
第2章では、資源輸出によってアフリカが経済成長しつつある現状を論じる。それは開発なき成長であり、
かつての「オランダ病」のような、いわゆる「資源の呪い・資源の罠」という問題を妊み、成長の果実が末端・農村にまで行き渡らず、格差をもたらしている。
第3章では、アフリカの農業生産性の低さが、低成長と格差を生んでいることを指摘している。またこれは全世界的な食料安全保障上の脅威でもある。
第4章ではODAなど戦後の開発・援助の歴史と、開発経済学や援助の理念の変遷を概観。
第5章では、南アフリカなどから勃興したグローバル企業の活躍と、アフリカの経済成長への寄与を述べている。
また、BOPビジネスと呼ばれる、貧困層を対象したビジネスの興隆を指摘。今日のCSR(企業の社会的責任)のあり方についても論じる。
0652つづき
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2013/06/23(日) 23:20:05.19
第6章では、長期経済低迷している日本の、あるべきアフリカ開発援助戦略について論じて終わる。
論旨明晰で、問題点がわかりやすく整理されており、問題解決の方向性も明確。
自分は「食糧危機」というのは現状ではあまり差し迫った問題とは思っていなかったのだが、
アフリカの農業生産力が上がらないと将来的には危機となる、という話には蒙を啓かされた。
あと、「世界システム論」の開発援助史上の位置づけなどは個人的には興味深かった。
6章の、日本の長期低迷の主因が市場の閉鎖性にあるかのような議論には、こじつけっぽくてあまり説得力は感じなかった。
予備知識としては、ミクロ・マクロ・国際経済学の初歩の考え方に多少慣れていた方がいいが、開発経済学の知識は特に必要ないと思う。
ただ、「グラントエレメント」といった耳慣れない外来語が説明なしで用いられている部分は若干あった。
数少ない経済系新書の良書ということで星5つ★★★★★。
この本については既に優れたレビュー↓がネットに出ているので詳しくはそちらを参照してください。

平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書) 10点
http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52022462.html

マルクスからカント、そしてヘーゲルへ
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20130401/p1
0653無名草子さん
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2013/06/23(日) 23:55:18.81
安藤寿康『遺伝子の不都合な真実』(ちくま新書)。
著者は教育学・教育心理学・行動遺伝学者で、主に双子の調査によって行動・心理への遺伝と環境の影響を研究している人。
副題は「すべての能力は遺伝である」となっているが、これは明らかに最近の新書によく見られる販促のための「釣り」で、
「はじめに」では「すべては遺伝子の影響を受けている」と言い直されている。編集者の良識が疑われる部分だが、
これを許してしまった著者も、自分の意図が歪んで伝えられる危惧を持たなかったのだろうか。心理学者にしては甘い判断だと思う。
まず第1章では、「バート事件」と言われる、知能の遺伝研究に関する事件について。
知能の遺伝的影響を主張したバートの論文が、環境決定論者達によってデータ捏造が指摘されたが、それは冤罪だった可能性が高いという後年の知見を紹介する。
そして、データ捏造説を無批判に引用し、行動遺伝学を軽視する行動心理学者の鈴木光太郎を名指しで批判している。
第2章では、もともと環境決定主義者として教育学を目指した著者が、遺伝の重要性を認識するようになった経緯と、
双子研究によって、遺伝の影響と環境(共有環境と非共有環境)の影響を測定する統計的方法について説明する。
0654つづき
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2013/06/23(日) 23:56:18.03
第3章では、遺伝子操作による出産が当たり前になった世界を描く『ガタカ』というSF映画を例にとって、遺伝子診断の現状と、それにともなう生命倫理的な難問に触れる。
第4章では、「環境こそが遺伝子を制約している」という著者の考え方が示される。
第5章では、遺伝と社会・経済の関係を考える。収入と遺伝の関連、教育投資の見返りなど。
また、経済学・社会学・法学・教育学などの根幹の設計思想を、遺伝の知見が覆すと述べている。
第6章では、行動遺伝学を前提とした教育のあり方や、人種・民族差や優生思想などについて、進化心理学によって見出される人間の本能的な利他性や、
ロールズの正義論などを動員して、公平や平等といった倫理的な問題を論じている。
0655つづき
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2013/06/23(日) 23:57:18.09
多くの感情的抵抗を被りやすい題材や倫理的難問に果敢に挑みつつ、やっかいな泥沼に足を取られるほどには深入りせず、とりあえず穏当な結論を導いている、という印象。
個人的には、こうした題材については、ずいぶん前にスティーヴン・ピンカー『人間の本性を考える−心は空白の石板か』(NHKブックス)などを読んでいて、
心理的抵抗感に関してある程度は克服しているつもりだが、改めて遺伝の問題を突きつけられると、自分の能力の限界を見せられるようでやはり多少嫌な気持ちになる。
この遺伝的影響を否認したがる心理的バイアスというのは、本能的な道徳感情に由来するだろう。この感情自体ある程度生得的なものだ。
「努力すれば夢は叶う」「誰にでも無限の可能性がある」という信仰を否定される事は、努力へのモチベーションの低下や、教育の無力感に繋がりやすいだろう。
心理的抵抗感を克服したとしても、次には『ガタカ』のような倫理的難問が立ち塞がるわけで、なかなか大変な話である。
道徳というのは、様々な信仰、極端に言えば「嘘」によって支えられている面もあるわけで、こうした身も蓋もない科学的真実を我々みんなが知ることが本当にいいことなのかどうか、
誰もが納得する説明ができているかは疑問。少なくとも学問の世界では遺伝の問題をごまかさずに直視することは正しいとは思うが。
あと細かいことを言えば、生得的なものがすべて遺伝というわけではなく、母体内環境という要因もあるはずだが、そこは説明されてなかった。
副題など多少の不満はあるが、行動遺伝学の知見が、今もなお人文系や社会科学系で『不都合』なものとして黙殺されているとすれば、
それ自体が重大な問題として提起する価値があるだろう、ということで星4つ★★★★。
0656つづき
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2013/06/24(月) 00:37:44.35
ちょっと付け加えると、遺伝の影響を否認もしくは過小評価したがる感情バイアスが
実害をなす場合というのも確実にありますね。
「誰でも頑張ればなんでもできる・できないのは頑張ってない証拠」という精神主義の傾向とか。
一番ひどいのは子供の発達障害を母親の育児責任に帰すもの。
0657無名草子さん
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2013/06/25(火) 21:59:42.83
しつこいようですが上の本に関してちょっと追加。たまたま関連するエントリーを見かけたので。

コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130622/paul_and_greg_2013_4

コント:ポール君とグレッグ君(2013年第4弾)・続き
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20130623/paul_and_greg_2013_4_2

上のエントリーの「続き」の方で、
グレッグ・マンキューが遺伝の影響の強さについて言及している。
こうして見ると、「遺伝の寄与の強さ」の知見が、
「教育機会の均等化に政策コストをかけるのは無駄」というような方向に政治利用され、
格差容認の方向に行きがちなのかなとも思う。
ロールズとかアマルティア・センなどの思想で対抗できるのか?
0658無名草子さん
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2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
頑張れよ
0659無名草子さん
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2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
過疎りすぎだろ
0661無名草子さん
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)。2009年大佛次郎論壇賞受賞作。
新書大賞を受賞していたかと自分は勘違いしていたが、そちらはエントリーされただけであったようだ。
社会が成熟し、もはや経済成長せず「定常型社会」となってきた現代の日本におけるコミュニティの意義を論じている。
この「成熟社会」「定常型社会」「もう経済成長はしない・成長を目指すべきではない」というのは何度も強調される。
このあたりの著者の思想については岩波新書の『定常型社会』※を始めとして、他著で既に詳しく論じられており、
本書では大前提とされているが、一応4章でも簡単に解説されている。
「定常化」の論拠として、「人口減少」「資源・環境制約の顕在化」「貨幣で計測できるような人間の需要の飽和」が挙げられている。
また巨視的な歴史のサイクルとして人口変動などを見ると現代は3度目の定常化を迎えているという。
0662無名草子さん
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
またコミュニティについて考え始めるに当たって、まず農村型コミュニティと都市型コミュニティに分類し、
前者の情緒性・閉鎖性と後者の普遍性・開放性を対比しつつ、人間には両者の要素が必要だとしている。
これらを前提として、第1部では、コミュニテイという主題を考えていく「視座」として、都市というテーマを考え、
コミュニティの空間的な中心について論じ、グローバル化との関係を考える。
第2部「社会システム」では、社会保障・福祉制度、都市計画、土地、住宅、環境などについて論じる。
ここでは、「ストックをめぐる社会保障」として、フローではなくストックの再分配、例えば、土地所有制の見直しと公共化などを提言している。
とにかく市場経済に頼るのではなく、ストックを公や共によって有効利用しようという考えのようだ。
3部では「原理」と称して、科学論や医療論(ケアとしての科学)、独我論とコミュニティの閉鎖性の関係、
「普遍性」と「多様性」の問題、宗教・スピリチュアリティの必要性などを論じている。
0663つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
「成熟社会」「反経済成長論」を前提もしくは主題とした新書は現在ものすごく多く、
これはその中の代表作ということで、今回ようやく読んでみたわけだが、正直、予想以上につまらなかった。
一方に「空虚なイデオロギー」としての経済成長主義があるのは確か(例えばアベノミクスの「成長戦略」とか「コーゾーカイカク連呼」など)なので、
それらに対する反発として、反成長主義にも一定の正当性はあるのだろう。ただ、反成長と言っても、
「もう成長はしない」「成長するべきではい」「成長を目指すべきではない」はそれぞれ意味が違うので、各々の立場が何を言わんとしているのかまず整理すべきだろう。
また「実質成長」と「名目成長」を分けて考えるという作業もした方がいいかもしれない(生産性を上げるのか景気対策をするのか)。
確かに科学技術の進歩や効率化は人を幸福にするとは限らないし、このままどんどん効率化が進めば労働者がどんどん必要なくなって失業者だらけになるかもしれない。
しかし科学技術の進歩や効率化を止めるというのは非現実的だろう。あるいはアーミッシュのように強力な宗教的伝統でもあれば別だが。
だとすれば、失業を増やさないためには、少なくとも当面は名目成長率を上げる必要はあるのではないか。
まぁこういうのに賛同する良心的インテリという人達はたくさんいると思うので、そういう方たちに喧嘩を売るつもりは毛頭ないが。
ただ、著者が理想とする北欧的な福祉社会やスローライフ的な「贅沢」は経済成長抜きで本当に可能なのだろうか?と疑問を呈しておく。星2個★★。

※著者の『定常型社会』(岩波新書)は随分前に読んだが、内容ほとんど忘れた。
0664無名草子さん
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書)。いじめ研究の第一人者と言われる社会学者による、いじめの社会理論。
まず第1章では、巷の識者による、混乱した「いじめの原因論」を列挙する。それらをまとめると、
「人間関係が希薄でありかつ濃密である」「若者は幼児的であると同時に計算高い小さい大人でもある」「秩序が過重であり、かつ解体している」
といった互いに矛盾するかのような主張になる。こうした混乱は、「秩序」を「単数」と考えている事による、と著者は言う。
「秩序と無秩序」という単純な二分法ではなく、複数の秩序が存在すると考える。秩序を「場のノリ」が優先するような「群れの秩序(群生秩序)」と
「市民社会の秩序」に分けて考えれば、いじめの空間では前者が過重であり、後者が解体している、と整理できる。
0665つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
第2章では、いじめの秩序を分析する。そのメカニズムは、自分たちが群れて付和雷同することによって醸成された場の情報(空気)が個人に「寄生」して
個人の「内的モード」を切り替えてしまい、その切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が、さらに次の時点の集合的な場の形を導く。
そしてその場の情報がまた…という形で連鎖するものである。
また、心理と社会の認知情動システムとして見ると、「不全感」(なんとなくムカつく・存在自体が落ち着かない)から
「全能感」(世界と自己が力に満ち全てが救済される感覚)への暴発として捉えられる。
全能感の内部にも、暴力の全能感→群れの全能感→暴力の全能感→…という再生産サイクルがあり、また、全能感と不全感の間にも再生産サイクルがある
。著者はこの全能感を成立させる道筋を「全能筋書」としてモデル化し、「破壊神と崩れ落ちる生贄」「主人と奴婢」「遊びたわむれる神とその玩具」と三類型に整理している。
命名が妙におどろおどろしいが、いじめの実際を思い浮かべれば意味はだいたいわかると思う。
第3章では「癒しとしてのいじめ」として、いじめる側といじめられる側の心理を分析している。
両者に共通する価値観として「タフであること(逆境に耐え事態を上手く切り抜ける強さ)」に注目している。これも一種の全能感である。
またいじめの場の秩序形成の契機として「祝祭」と、空間占有の全能感(「属領」)を挙げている。
0666つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
第4章では、いじめを形成する要素として前章までで詳しく説明されていた「全能感」と、もうひとつの要素である「利害」のマッチングについて分析。
「全能感」の方は合理的な利害を超えて暴力を暴走させることもあるが、いじめの不利益が大きなものであればブレーキとなりうる。
利害と全能感が一致すると、動かしがたい政治空間となる。よって「利害計算」と「全能図式」を一致させないようにする方法を考える必要がある。
政治権力は利害図式から構成されているので、制度を変えることによって利害構造を変えられる。
第5章では、学校という制度がいじめに及ぼしている影響について。閉鎖空間で「ベタベタ」する関係を強制する「学校共同体主義」を激しく批判する。
群生秩序を蔓延させる制度を変えるべだきとして、これを「生態学的設計主義」と称する。
第6章では、まず、短期的な教育制度変革の政策として、「学校の法化」と「学級制度の廃止」を提言する。
前者は学校内にも市民社会のルールを貫徹して、暴力には警察で対処するというようなこと。
後者はクラスを廃止して、強制的にベタベタさせる共同体の拘束を緩めようということ。
中長期的には義務教育制度を削減し、代わりに権利としての教育を拡充し、教育バウチャー制度などを取り入れて、大胆な教育の自由化を提案している。
最後に「中間集団全体主義」として、中間集団が全体主義に奉仕する面を強調し、共同体主義に対する嫌悪を露わにしている。
0667つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
自分はこの人の本を読んだのは初めてだが、以前に著者のネットでの発言などを見たことがあるし、いじめ理論や学級制度撤廃論についても多少知っていた。
ただ教育制度改革についてここまで過激な考えを持っていることは今回初めて知った。どうも、この人のいじめ論には理論だけがあって実証や実験への志向がない。
また教育学や社会心理学など他の分野や現場の教育者との連携が現状でどの程度進んでいるのかわからない。
フィールドワークはしているが、これだけを読むと理論に合致する例だけをピックアップしているような印象は拭えない。
諸概念が明晰に整理されていて、巷の通俗的ないじめ論よりも普遍性を達成しているのは確かだろうが、
理論だけで政策化できると考えているとすれば、独断性・独善性において通俗論者と五十歩百歩だろう。
「学級制度撤廃」は著者が昔から主張していることであり、その当然考えられる副作用についても長く議論がされてきているだろうし、
著者も既に答えを持っているのだろうが、ここでは全く考慮されていない。
例えば、学級がなくなっても自発的な小集団はたくさんできるだろう。そうした小集団ではいじめは起きないだろうか?自発的な集団であれば離脱はたやすいと本当に言えるだろうか?
小集団に入れない子に居場所はあるだろうか?(もちろん「いじめを伴う孤立」より「いじめなき孤立」の方がずっと良い、などの答えを出すことは可能だが)、
クラスがなくなれば担任が個々の生徒をケアできなくなるし、不可視性が高まるが大丈夫だろうか?(「透明な社会」を非難する著者としてはそれで良いと言うのだろうか)
学校の周囲でも「市民社会」が成立してない場合はどうすんの?など……
0668つづき
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2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
いずれにしろやってみないとわからない。実験校を作って実際にやってみようという動きはあるのだろうか?
一校だけで効果を検証するのは難しいだろうが、少なくとも副作用の程度についてはわかるだろう。そして副作用が大きければ考えなおすべきである。
しかし著者は「まず小さな規模で実験してコツコツ実績を積み上げて」という発想はないようだ。そもそも中間集団を嫌悪しているので、ボトムアップ的な実践はできないのかもしれない。
中間集団をすっ飛ばして抜本的な改革をするとなると、強大な権力が要請されるが、それでいいのか?といった問題もある。
もっとも、こういうありがちな自由主義批判やら近代主義批判みたいなものをスッパリ無視するのも清々しいとも言えるが。
著者の主張する「自由」は経済システムを考慮していないし、弱者主体の自由なので、リバタリアンの「自由」とは異なるが、その原理主義的な態度はリバタリアンと共通するものがある。
他にも「全能感」という精神分析風の概念の妥当性とか、古典的な共同体暴力のモデル(ルネ・ジラールの「スケープゴート」モデルや今村仁司の「第三項排除暴力」など)との関係とか、
考えたいことはいくつかあるが、長くなったのでここまで。星3個★★★
0669無名草子さん
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2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN
小山田和明『聞き書き・築地で働く男たち』(平凡社新書)
著者は築地の仲卸業者の家に生まれ、現在は小揚会社に勤めている人(小揚会社とは卸売業者から委託されて競り場での商品管理を行う荷役会社)。
大学では歴史学を学び、民俗学や文化人類学も勉強している。幼い頃から売れ残りの傷んだ不味い干物を食わされ続けて、魚は嫌いになったとのこと。
一応業界内の人ではあるが、外側から見ているという感じもあって、適度な客観性をキープしている。
まず「築地市場の基礎知識」として、築地市場の簡単な歴史、仕組み、そこで働く各業者(卸売業者・小揚業者・仲卸業者・その他の関連業者)についてまとめている。
次の章から、各業者の体験談が8編まとめられている。登場するのは、マグロの仲卸業者、練り物・干物など加工品を扱う業者、
ターレと呼ばれる市場で使われる運搬車を扱う業者、元仲卸業者である著者の父、小揚会社の社長、魚を入れる箱(昔は木箱・今は発泡スチロール)を扱う会社の社長、
「小車」という人力で魚を運搬する車を作る職人、仲卸業者の配達員、の8人である。
最初は社長クラスばかりにインタビューしてるのかな、と思ったが、最後の人は60才過ぎた今も長時間の肉体労働をしている労働者である。
市場の制度や施設や技術の移り変わり、戦後経済史と市場の歴史の関連、現場で働く人々の諸相、仕事の細かいスキル、様々なエピソードが興味深く語られる。
魚の臭いが充満し、やくざが常駐し、喧嘩や事故の絶えない荒々しい現場の活況が生々しくて面白い。
印象的なのは、人々の語りに、業界で成功した人にありがちな自慢や美化の臭気がなく、過去の失敗も正直に話しているところ。
著者のまとめ方も上手いと思う。最後の配達員のおじさんの話など、失敗談だらけであり、全然立派じゃないけれど、読むとしみじみとした感動がある。
外部の社会学者やルポライターでは、こうした業界の人々の懐に飛び込むようなインタビューはできなかったろうし、
逆に業界にどっぷり浸かっている人では客観性が保てなかっただろう。この著者にしか書けなかったルポだと思う。★★★★
0670無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
有田隆也『生物から生命へ−共進化で読みとく』(ちくま新書)
この人は(新書ベストにも入っている)『心はプログラムできるか』(サイエンス・アイ新書)の著者でもある(ずいぶん前に読んだので著者名には覚えがなかった)。
共進化モデルと最新の人工生命研究について解説する本だが、最初に「モノ的生命感からコト的生命感へ」という大風呂敷を広げているのが特徴。
「モノからコトへ」というのは廣松渉の哲学からの引用だと思うが、廣松への言及はない。また「要素還元論的手法から構成論的手法へ」という方法論の違いも強調している。
共進化という生命のプロセスの研究には、現象を自分で作って理解していく「構成論的手法」が重要だとのこと。
そして、著者達の行なっている人工生命による進化のヴァーチャルな実験は、従来の「シミュレーション」とは違うということも何度か強調される。
つまり従来のシミュレーション、たとえば台風のシミュレーションではコンピュータ内で本当に台風が生じているわけではないけれど、
人工生命の進化実験では、コンピュータ内で生じているのは本当の「進化」そのものであって「進化のシミュレーション」ではないと言うのだ。
なるほど、と思う反面、ちょっと強引な気もする。人工生命はリアルな生物ではない以上、やはり「生物の進化のシミュレーション」ではなかろうか?などとも思うが、
著者によれば、これこそ「構成論的手法」に対する典型的な無理解ということになるだろう。
「人工生命」は「生物のシミュレーション」ではなく、それ自体が「コトとしての生命」だということらしい。
著者の思想には、他の一般的な生物学者の「構成論的手法」への無理解に対する憤懣や、自分達の研究に対する過剰な思い入れが込められているようだ。
0671無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
本論では、進化論と共進化に関する基礎的解説(適応度地形など)、病原菌とヒトとの共進化、協力行動とネットワークの共進化、
人工生命研究の最先端、ニッチ構築の原理、文化と生命の共進化、言語と生命の共進化、と続く。
最後にまた「コト的生命感」の大風呂敷に戻り、いきなりアートについて論じ始め、生命とアートに共通する創発性に関する思弁を展開している。
要するに、進化論、ゲーム理論、情報理論、さらにネットワーク理論や複雑系システム論まで統一した方法を使うと、
「生物」の枠を超えて、生命・文化・言語・芸術など、より広い世界の原理を統一的に扱えるわけである。
それ故、やや誇大妄想的な大風呂敷を広げているようにも見えるわけだ。本論は科学的で怪しい部分はないのだが、
「創発」というところに焦点を合わせて思弁を展開すると、どうしても神秘主義的な口調になりがちなのかもしれない。
進化論に馴染みのない人は、先に長谷川眞理子の進化論入門書やドーキンスの本などを読んでから読む方がいいだろう。★★★
0673無名草子さん
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2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
内田亮子『生命をつなぐ進化のふしぎ』(ちくま新書)。副題は「生物人類学への招待」となっていて、主に人類の進化を扱ったもの。
第1章では、著者が体験した、とある数学者が進化生物学に対する無理解を示したエピソードが紹介され、生命の進化における偶然と必然をどう考えるかが論じられる。
第2章では、オランウータンの食性およびエネルギー代謝と繁殖のスピードに関する研究を紹介し、人類進化において食と歩行が果たした役割を論じている。
現代人の肥満の問題についても言及されている。これは社会の変化に対して生物としての人間の進化が追い付いていない例としてよく出されるもの。
第3章では、社会性の進化について。霊長類の社会や脳の研究を土台として、人類の社会性がどのように進化していったのかを考える。
「信頼」を醸成するホルモンであるオキシトシンの話題や、暴力行動、狩猟採集社会における分配と平等、互恵的懲罰など。
このあたりの話は、新書ではないが、山極寿一『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)とある程度共通する内容なので、興味のある人は併読してみてください。
第4章では雄雌の配偶と繁殖について。フェロモンの話題や、異性の体臭に対する男女の好みについてのちょっと変わった研究なども紹介されている。
第5章では動物や人間の発生・成長・子育てについて。女子割礼について少し言及している。普通はジェンダー論の方向から考察されたり批判されたりする文化制度だが、
著者は、父性を確実にするために女の生殖を制限するという生物学的戦略が根幹にある事を指摘しており、その点を考慮することから解決を検討する事を提案している。
第6章は老化について。第7章は死について、である。人類進化に関する様々な話題が盛り込まれているが、一般向け啓蒙書としては、テーマが絞り込まれてなくて散漫な感じがする。
前述の山極寿一の本のように「暴力」などの何か統一したテーマがあれば、もう少し読みやすかったかもしれない。
巻末に膨大な参考文献(ほとんど英語)が載っている。とても誠実で、学者らしい学者という感じ。★★★★
0674無名草子さん
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2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
渡辺政隆『ダーウィンの夢』(光文社新書)著者はスティーヴン・J・グールドの『ワンダフルライフ』などを訳したサイエンス・ライター。
文体の感じから、わりと若い人かと思っていたが、1955年生まれだから50代後半でキャリアは長い。
地質学・古生物学を中心に参照しながら生命の誕生から生物進化の歴史をたどる。序章では、バージェス頁岩層を著者が訪れた話。
『ワンダフル・ライフ』に描かれたカンブリア大爆発の奇妙な生物の化石が発見された場所である。
第1章では、生命の誕生についての諸説。古い説である「雷放電説」「宇宙からの飛来説」に加えて、最新の有力説である「熱水噴出孔説」が紹介される。
第2章では、最古の単細胞生物の誕生から、細胞内共生説について。
第3章では、アメーバや粘菌について。有性生殖が生じた理由については、いまだに決定的な説がないとのこと。
またオーストラリアのエディアカラ丘陵から出たクラゲ形の奇妙な動物群について言及。
第4章では、カンブリア大爆発に関して、なぜ多様化したのかが問われる。ここで、生態学的地位(ニッチ)という概念が説明される。
アンドリュー・パーカーによる、目の進化が生物の多様化を促進したという「光スイッチ説」も紹介されるが、これは広く認められたものではないとのこと。
第5章では、進化発生学(エボデボ)の祖として、津田梅子の研究などが紹介される。多くの生物で共通する「ホメオティック遺伝子」や「ホメオボックス」の発見など。
第6章では「魚類」の誕生について。もっとも生物学上は「魚類」という分類は存在せず、「硬骨魚綱」「軟骨魚綱」「無顎綱」などの総称にすぎないとのこと。
ここでは脊索動物の起源に関する最新の研究が紹介されていて、人類の最古の祖先とされていたカンブリア紀の「ピカイア」よりもさらに前にナメクジウオのような原索動物がいたとのこと。
0675つづき
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2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
第7章では、魚が上陸するに至る過渡期について考察。俗に言う、浮き袋が肺に進化したというのは間違いで、実は肺の進化が先で、浮き袋は肺から進化したという。
また、陸上への進出の誘引は、池や川の干上がりだと言われていたが、当時、水中と比べて地上には捕食者・競争者が少なく、食べ物が豊富だったからとのこと。
水中から陸上への進化における最大の難関は、肺の進化ではく、重力によって内蔵を圧迫することであった、と著者は言う。
体重を支えるために、胸鰭から腕が進化しなくてはならなかったのだ。
第8章は、両生類と節足動物の時代。第9章は、始祖鳥に関する論争の歴史をたどりながら、恐竜から鳥への進化について論じる。
第10章では、改めてダーウィンの伝記と、ビーグル号の航海について振り返る。
この章では、イリエワニというワニが時速40キロで走るというトリビアがちょっと怖くて面白い。襲われたら人間は絶対に逃げられないという。
第11章では、人類の進化と、アフリカから全世界へと散らばっていく旅の過程について、簡単にまとめている。
終章では、バージェス動物群以降の最新の発見について概観している。
キャリアの長いサイエンス・ライターだけあって、一般向けの本を書き慣れているのか、妙にこなれた感じがする。
当時まだ出たばかりの村上春樹『1Q84』や「崖の上のポニョ」を引用したりして、一般読者に対するつかみはソツがなく、文章のまとめ方も上手い。
ただ、個人的には、このソツのなさがちょっと鼻につく。★★★
0676無名草子さん
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2013/09/15(日) 22:04:50.17
野内良三『うまい!日本語を書く12の技術』(生活人新書)
著者は仏文教授で、レトリックの本も出している。これは文章術の本で、文章心得を12条にまとめた上で、レトリック指南も行っている。
その12条は以下の通り;「1条・短い文を書こう」「2条・長い語群は前に出そう」「3条・修飾語と被修飾語は近づけよう」「4条・係り−受けの照応に注意しよう」
「5条・読点は打たないようにしよう」「6条・段落は大切にしよう」「7条・主張には必ず論拠を示そう」「8条・具体例や数字を挙げよう」
「9条・予告・まとめ・箇条書きなどで話の流れをはっきりさせよう」「10条・文末を工夫しよう」「11条・平仮名を多くしよう」「12条・文体を統一しよう」となっている。
具体的にどうすべきなのかは説明されないとわからないものもあるが、2条の「長い語群は前に出そう」や5条の「読点は打たないように」などは、このままで役に立ちそうだ。
ただ後者は、単に「読点を使うな」ということではなく、「使わずに済むような文章を心がけよ」ということで、読点を打つべき場合についても解説されている。
自分の感覚では、縦書きよりも横書きの場合に多く読点が必要になるような気がするが、そのあたりは触れられていない。
著者の文章観は「書くとは引用である」ということで、「定型表現をたくさん覚えて使え」という主張に集約される。
他の文章読本では「紋切り型」を避けるべき事を主張したものが多いが、著者はそれに異を唱えている。
0677つづき
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2013/09/15(日) 22:05:56.37
こうした文章観を前提とした上で、ここでは芸術的・文学的文章よりも実用的文章を、わかりやすく・明晰に・論理的に書く技法について論じられている。
著者の文章もセンテンスが短く、論理的で、おおむね読みやすくなっている。ただ冒頭では「孜々として」などという難しい言葉が出てきており、
「わかりやすい文章」というテーマといきなり矛盾しているので、読んでいてしばらくは違和感があった。
そもそも「平明な達意の文章」という言い方自体、現代人にとってそんなにわかりやすくはない。
また「平仮名を多めに」と言っている割には、「巷間に流布する」「平にして凡」「〜にしくはない」のような文語調や漢文調の言い回しも目につく。
まぁ本全体から見るとそれほど多くはないので、バランスを考えてアクセント的に使っているのだろう。
著者が使用を推奨する「定型表現」というのは古いものが多いので、現代人にとっての「わかりやすさ」と矛盾することもあるようだ。
自分に使いこなせるかどうかは別にして、論理的な文章構成法やレトリックの解説が結構面白かったので感心して読みすすめられ、これは文章読本としては上質かなと思った。
ところが後半で「野口悠紀雄は“比喩を用いて一撃で仕留めよ”と檄を飛ばす」という文章に遭遇。この「檄を飛ばす」の用法は間違いではなかろうか?※
定型表現や辞書の重要性も論じられている中で、こういう誤用はいかがなものか。ということで星4個のところを1個減点で★★★。

※…と思ったら、辞書的な意味では間違いとは言えないようだ。(檄を飛ばす=自分の主張を広く知らせる)
自分は、政治的扇動のニュアンスがないと間違いだと思っていたが。
参考:「檄を飛ばす」の本当の意味→ http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/51/index.html
0678無名草子さん
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2013/09/16(月) 00:01:04.40
乙乙
0681無名草子さん
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2013/09/16(月) 21:28:55.05
このスレがあれば問題無
0682無名草子さん
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2013/09/30(月) 02:26:19.03
速水健朗『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)。ラーメンの歴史を主軸に、日本の文化や社会を論じた本。
第1章は、日本の食生活の変化について。戦後にアメリカの余剰生産物であった小麦が日本にもたらされ、小麦食普及のキャンペーンが行われた事など。
第2章では、戦後にフォーディズム的大量生産が導入される過程を、安藤百福によるチキンラーメンの発明と普及の物語を中心に描く。
第3章では、戦後日本におけるラーメンと文化の関わりあいの歴史を、テレビドラマや漫画や事件などに見ていく。浅間山荘事件とカップヌードルのエピソードなど。
第4章では、田中角栄の思想と政治による国土開発の過程と、ご当地ラーメンの誕生について。
第5章では、90年代以降の社会とメディアの変化(湾岸戦争の報道やTVバラエティにおける「ガチンコ!」「電波少年」などのリアリティショーの流行)と、
ラーメンの和風化およびナショナリズムとの関係を論じる。戦後の文化や食に関する豆知識は、自分は知らなかったことが多くて面白かった。
(細かい内容については、既にあちこちで紹介されているので端折ります)
0683つづき
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2013/09/30(月) 02:27:33.00
だが、「ラーメンとナショナリズム」というテーマに関しては、こじつけ以上の説得力は感じなかった。
確かに現在、ラーメンは国民食であり、ほとんど和食と言っていいものとして日本人に認識されているだろうが、中国起源という物語が忘れられているわけではない。
また「ご当地ラーメン」において、伝統の捏造による想像の共同体といった議論を展開しているが、これは地域のレベルであって、
これだけでは国家としての統合の幻想を作るものとは言えない。愛郷主義・民族主義・国家主義が一致するとは限らないし、時には対立することもある。
著者は内田樹の論を引用して、イタリアのスローフード運動の地域主義的側面を強調し、これを単純にナショナリズム的としているが、
これはイタリア北部の分離独立運動と連動しているのだから、イタリア全体を統合するナショナリズムとは対立するはずだ。
こうした批判を見越してか、著者は、阿部潔や浅田彰による「表層的な模造としての共同体」とか、
大澤真幸による「文化的・趣味的共同体としてのナショナリズム」といった議論を参照している。
こうした新しい形態のナショナリズムは、旧来の国民国家統合としてのナショナリズムとは違うというわけである。
簡単に言えば、ネタだとわかった上で演じるナショナリズムということか。ジジェクとか北田暁大なども似たようなことを言っていた記憶があるし、割りとよく見かける分析である。
例えば西部邁や小林よしのりのナショナリズムでは、「伝統」が物語=虚構であることを認めた上で伝統を重視しているわけだが、
そういうものとラーメンを結びつけるのはやはりネタとしても無理があるのでは、と思った。読み物として充分に面白いのは認めるが、評価は星3つ★★★。
0684無名草子さん
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2013/10/18(金) 21:24:32.49
伊達宗行『「理科」で歴史を読みなおす』(ちくま新書)。著者は物性物理学の専門家。歴史については趣味的な研究のようだ。
主に日本の科学史を論じたものだが、通史ではなく、数の文化や古代の天文知識や鉱物資源の利用技術などのテーマが、著者の興味に沿ってピックアップされている。
第一章は、人類の進化から旧石器時代を概観した後、縄文時代の文化を考察する。言語や人口分布、交易ルート、土器の発明と煮炊きによる食の革命など。
また、当時の夜空が歳差運動により現代と異なり、北極星は日周運動の中心から遠く離れ、北斗七星は現代よりコンパクトに回転し、日本から南十字星も見えたとのこと。
そして縄文人がドット数字を用いていた証拠となる土版から、彼らが太陰暦を使っていた可能性や天文台により太陽観測をしていたらしいことを著者は推測している。
第二章では主に弥生時代の文化について。世界的には鉄が発明され、日本にも伝播してくる。
稲作も始まり、当時温暖だった北方にまで広まるが、その後古墳時代にかけて寒冷化し北上した稲作は壊滅したとのこと。この章の後半では古代の数詞について推測する。
少し紹介すると、1から10までは「ひとつ・ふたつ・みっつ…とを」であるが、11・12・13…は「とをあまりひとつ・とをあまりふたつ」と言う。
20・30・40はそれぞれ「はた・みそ・よそ」、100・200・300は「もも・ふたほ・みほ」、1000は「ち」、10000は「よろづ」、である。
百(もも)や千(ち)八百万(やおよろず)は漢字の読みとしては今日でも残っている。
大陸などで行われていた「結縄」という文字や数詞の代わりに縄を結んで記録する文化についても触れている。
これは日本古代のものは残っていないが、沖縄のものが明治まで残っていた。
0685つづき
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2013/10/18(金) 21:25:46.89
第三章では、中国の数詞・漢字の輸入による現代数詞の確立を見る。
現代数詞は「イチ・ニ・サン…」と読むわけだが、ここで「億(オク)」までは「呉音」である(ただし「九」の「ク」は呉音で「キュウ」は漢音)。
その上の「兆(チョウ)」「京(ケイ)」「垓(ガイ)」…「極(キョク)」といった巨大数詞の読み方は「漢音」であることが指摘されている。
これは最初に数詞が流入したルートが呉音文化圏からだったからである。また仏教語も呉音であるから、同時期に入ってきたと推定できる。
後に唐文化を輸入した時には漢音が推奨され、「兆」以降の巨大数詞の漢音読みもこの時輸入された。
更にその上の「恒河沙・阿僧祇・那由他…」といった超巨大数はまた呉音になるが、これは仏教と関係するからだろうとされている。
他にも今昔物語・古事記・万葉集などを参照し、漢字による日本語表記や数詞表現について様々な話題が語られる。
さらに磁石の知識、黄金の発見、算木・算盤、和算の出現など盛りだくさん。
0686つづき
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2013/10/18(金) 21:27:54.58
第四章は「金銀銅の社会史」。鉱物に関する解説では物性物理学者である著者の本領が発揮されている。
現在では「資源のない日本」と言われるが、過去には鉱物資源は豊富だった。
古代から近世にかけて採り尽くされてしまったのだ。まず縄文時代には、琥珀と翡翠が装身具等で使われ流通していたが採り尽くされた。
黒曜石と瀝青も使われたがこれは残った。金については、まず西日本で取れる砂金は10〜11世紀まで、東日本の金は江戸期に枯渇する。
奈良の大仏や梵鐘などに使われた銅の生産は10〜12世紀に衰退する。この頃なんと大陸の銅銭を銅材料として輸入してたとのこと。鎌倉の大仏も銅銭で作られたらしい。
室町から戦国時代にかけては銀の精錬法も発達し輸出が始まる。江戸時代には長崎での交易を通じて金銀が海外に流出していき、新井白石はこれについて警告を発していた。
鎖国のため海外の金銀の相場を知らず買い叩かれたらしい。
0687つづき
垢版 |
2013/10/18(金) 21:30:29.12
第五章では、日本に限らず、数の文化や遊びをいくつか取り上げる。ピタゴラスが発見し凶数とされた無理数の話、
フィボナッチ数列や黄金比の話、日本が最初に採用した用紙規格(AB版)の豆知識、魔法陣の話など。魔法陣の作り方も解説。
第六章では、世界の科学史をざっくり概観している。ここでは自然(ラテン語でナトゥーラnatura)と対になる概念として、技芸(アルスars)という言葉に注目し、
古くは哲学や芸術と一体であった西欧科学の伝統と本質について論じ、また日本における科学の受容の歴史とその問題点を指摘している。
著者は物理学者で歴史家としてはアマチュアゆえ、かなり自由気ままに仮説を立てていたりして、
学問的にはどうなのかというのは判断できないところがあるが、好きなことを好きなように研究する楽しさはすごく伝わってくる。
ただ、人類の進化を論じた第一章の冒頭で引っかかった所がある。それは「人類は苦難に遭うことで、それを乗り越えて進歩してきた」(p17)という部分。
ここでは「進化」と「進歩」がきちんと区別されていない。現代の進化論では進化に進歩の意味を含めると間違いになる(いわゆる自然主義の誤謬)。
おそらく著者は科学と人知の進歩を素直に顕揚する、健全な進歩主義者なのだろうが、少し無頓着かなと思った。評価は星4つ★★★★。
0688無名草子さん
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2013/10/20(日) 22:00:49.75
安いけれど読みごたえある新書ってなにかないか?
岩波ジュニア新書とかプリマーで探したいが、
ネット書店の割引クーポンがあと2時間しか使えないんだ。
0689無名草子さん
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2013/10/20(日) 22:24:21.87
一回読んだらそれまでの内容が薄いものは結局、高くついたなあと思い、
えらく損した気分になるもので。
ここのテンプレのなら大丈夫?
0690無名草子さん
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2013/10/20(日) 22:33:34.78
おーい(^o^)/誰かいないのか?
0692無名草子さん
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2013/10/20(日) 23:49:05.06
誰も答えられないところを見ると中身の濃い新書なんかないってことなんだろうな。
単なる値引きクーポンだし、
カネをドブに捨てずに済んだということで寝るわ( ̄q ̄)zzz
0693無名草子さん
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2013/10/21(月) 00:13:50.62
俺も期待して読んではガッカリの連続だから自信持ってオススメできるようなのはないわ
0694無名草子さん
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2013/10/21(月) 23:00:01.66
俺がいるよ
0695無名草子さん
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2013/10/24(木) 22:57:56.16
中途半端に仕事してたら冷たい目線で見られたりするんじゃないのか
0696無名草子さん
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2013/11/04(月) 00:08:44.62
芥川也寸志『音楽の基礎』(岩波新書・青版)。簡潔かつ手際よくまとめられた音楽入門書。
T章では、音のない状態すなわち静寂の意味から説き起こし、倍音など、音響学的な音の分析、そして音楽の素材について述べる。
U章では、まず「記譜法」として楽譜の歴史と形式について説明する。次にCDEFGABの音名と音階について。
音階はドリア・フリギア・リディア・ミクソリディア・エオリア・イオニアなどを始めとして、現代音楽や民族音楽・日本の音楽で使われる音階についても説明する。
さらにピュタゴラス音階・平均律音階・純正律音階について説明。最後に五度圏などを参照しながら調性について説明※
V章では「音楽の形成」として「リズム」「旋律」「速度と表情」について述べる。著者は音楽において根底的なものとしてリズムをもっとも重視している。
西欧音楽のリズムの単調さに対して、民族音楽や日本の謡曲のリズムの複雑さを指摘している。
0697つづき
垢版 |
2013/11/04(月) 00:10:40.93
W章の「音楽の構成」では「音程」「和声」「対位法(カノンやフーガ)」「形式(ソナタやロンドなど)」について説明。
「音程」についての説明が「音階」の説明より後に来ているのは、ちょっとわかりにくい構成ではなかろうか。
「和声」については割とわかりやすく整理されていると思う。ただ、トニック・ドミナント・サブドミナントをT・D・Sと略記しているのは、Dが音名のDと紛らわしい。
T・W・Xで書いてくれた方が自分にはピンとくる。「調性」もなかなか難しいところなのだが、ちょっと説明不足な気がする。
楽典というのは数学的な面倒くささもあって、なかなか頭に入りにくい。
せめて中学の音楽の授業で習うくらいのことは理解してないと、いきなりこれを読んでもお手上げかもしれない。
古い本だが、既にベストに入っていることでもあるので星5つ進呈★★★★★

※この辺のことを詳しく説明している新書としては、小方厚『音律と音階の科学』(ブルーバックス)があるが、あまりわかりやすくはなかったと思う。
0698無名草子さん
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2013/11/04(月) 00:14:11.15
F.P.マグーン『フットボールの社会史』(岩波新書・黄版)。1985年に出た新書。原著は1938年刊行。
原著者はハーヴァード大の古期中期英語英文学教授。翻訳者は忍足欣四郎というサッカー好きの英文学者。本来通俗書ではなく学術書として出されたものらしい。
主にイギリスにおけるフットボールの、発祥から19世紀後半までの歴史を、多くの一次資料を引用しながら検討している。
イギリス以外の他国の状況については、イタリアとフランスについて若干の言及があるのみ。
フットボール自体の歴史というよりも、イギリスにおけるフットボールに関連する古文書研究というおもむきである。
原著ではスコットランドに関する章があったが、この翻訳では割愛されている。
1章では、最古の記録から中世末(1500年)まで。最古の記録では、まだ蹴球と言えるものなのかどうか曖昧である。13世紀には死亡事故の記録が現れる。
また、国防を理由に、弓術を推奨し蹴球は禁じられた。この頃チョーサーの詩などに蹴球ボールを比喩して使った詩句が現れ、教会の木彫りに蹴球を描いた像らしきものが現れる。
2章はルネサンス期から1,642年まで。この時代には詩歌やエッセイでの言及は増えてくる。ゲームは粗暴で、相変わらず事故は多く、禁止の法令がなんども出された。
1581年に蹴球擁護の嘆願書が出されたが、この頃としては異例であり、影響力を持たなかった。
0699無名草子さん
垢版 |
2013/11/04(月) 00:15:42.80
3章では、戯曲での言及を追う。シェイクスピアのリア王でも「この浅ましい蹴球選手め!」という台詞がある。
4章では共和制時代から王政復古時代まで。「清教徒が登場すると蹴球は衰退した」という通念があるが、これは間違いで、徒弟・農民の間で盛んであった。
ここではフランスの事情に少しだけ触れており、ラブレーが引用されている。
5章では18世紀から19世紀半ばまで。6章では、オックスフォードやケンブリッジなどの大学での蹴球について。
このあたりから、下層の民衆のものであった蹴球に上流階級も加わっていくのだろうか。本文では、あまり階級との関連については掘り下げられていない。
著者自身は当然上流の出だと思われるが、階級の差について鈍感なのか、あるいは階級を問題化する視点そのものがないのか。
7章では、パブリックスクールで行われるようになる。蹴球協会が結成され、統一ルールが検討され、ラグビー協会が独立する。
8章では「告解火曜日」という祝日に開催されてきた蹴球大会の慣習についてまとめている。
言い伝えでは非常に古い起源を持つとされているが、著者は否定的である。また儀式を起源とする説にも批判的である。
最後に訳者による解説では協会成立以降の経緯をまとめている。
0700つづき
垢版 |
2013/11/04(月) 00:16:53.28
冒頭で記したように、一次資料の引用が主体となっており、詩歌や俗謡などの引用が多くを占め、
事故の記録や禁止の法令以外には散文的なわかりやすい記録というのは19世紀まではあまり出てこない。
また蹴球の様子を描いた絵画なども非常に少ない。これらは自分の感覚ではかなり不思議なのだが、なぜそうなのかという説明はされていない。
やはり下層の民衆による粗野な娯楽だったので、言説を支配する上流では無視されていたのだろうか?
「社会史」と銘打たれている割には社会の分析はあまりされていない。
また、ほぼイギリスの事情だけしか述べておらず、その他の国の事情はほとんどわからない。
啓蒙書の体裁を取っていないので、新書として出したのは失敗ではなかろうか。
こうした研究書を底本として翻訳者が世界のサッカー史をまとめたほうが良かったかもしれない。
フットボールといういかにも面白そうな題材だが、あまり気楽に読める本ではなかった。星3つ★★★
0701無名草子さん
垢版 |
2013/11/04(月) 00:22:29.83
長島伸一『大英帝国』(講談社現代新書)。副題は「最盛期イギリスの社会史」。
産業革命をなしとげた19世紀のイギリス、ヴィクトリア女王の治世の社会史を、同時代に生きたナイチンゲールの証言などを元に描き出している。
この時代は1820年代〜60年代の自由主義の時代と、それ以降から第一次大戦までの帝国主義の時代に大きく分けられるが、
著者はさらに自由主義の時代を、産業革命完成期の前半期と、成熟の時代である後半期に分けている。
産業革命による機械性大工業化は、都市化をもたらした。そして、公害・失業・貧困を生み出していく。
鉄道網の整備によって物と人の移動も頻繁になり、教育制度やジャーナリズムも発達して、大衆化も進んでいく。
しかし1873年の世界恐慌から始まる長期停滞から、衰退への道をたどっていく。とはいえ不況期に至っても大衆化と生活向上は進んでいった。
だが失業と窮乏も目立つようになり、当時行われた社会調査によって貧困の実態に明らかになるにつれ、イギリスはやがて福祉国家への道を選んでいく。
0702つづき
垢版 |
2013/11/04(月) 00:24:04.85
2章ではこの時代のイギリスの階級社会を概観する。
3章では、当時の国際情勢を概観しつつ、イギリスにおける奴隷制廃止の運動および奴隷貿易廃止への動きを追う。
奴隷貿易廃止後は、植民地経営を、植民地の自治をある程度認める方向に転換し、英・印・中の新たな三角貿易が定着する。
中国から紅茶を大量に輸入していたイギリスは、対価の銀の流出に悩まされ、綿をインドへ、インドから阿片を中国へ輸出することにした。
こうしてアヘン戦争が起こる。
4章では「ジャックと豆の木」の民話が、イギリスの植民地政策を寓意しているという説が唱えられる。この物語には英国の侵略を正当化する心理が描かれているという。
5章では、レッセフェールの伝統を出発点としつつ、初等教育の大衆化や、統計的な社会調査が行われる中で貧困対策の必要が認識されるようになり、
国民にナショナル・ミニマムを保証する福祉国家の思想が生まれてくる過程を描く。
6章では、大衆化と消費社会の進展を描く。鉄道やガス灯によって、交通や照明も進歩し、大衆の食事も改善し、サービスの商品化も進む。
ロンドン万博が開催され、旅行が大衆化され、海水浴などのレジャーも行われるようになる。但し、その質は階級によって異なった。
0703つづき
垢版 |
2013/11/04(月) 00:25:43.54
7章では、さらに大衆社会の諸相をいくつか取り上げている。「リスペクタブル」と呼ばれる、労働者の中でも中流に近づいた上層労働者も現れる。
女性の解放はなかなか進まなかったが、19世紀後半には中流階級女性の就業機会は開かれてくる。
サッカレーが『虚栄の市』で語ったように、大衆社会における都市は、見たり見られたりすること楽しむ舞台装置である。
コーヒー・ハウス、パブ、コンサート会場、オペラ劇場、安芝居小屋などが、庶民の娯楽として栄える。処刑見物も大衆の粗野な楽しみとしてお祭り騒ぎとなっていた。
また、庶民の健全な娯楽としては、ピクニックがあり、イギリスに亡命中で貧窮生活を送っていたマルクスもこれを楽しんでいたというエピソードが語られる。
スポーツも盛んになり、フットボール、クリケット、クローケー、ローン・テニス、サイクリング、アーチェリー、ローラースケート、アーチェリーなどが行われるようになる。
見るスポーツとしては、ボクシングなどがあった。最後に国民的娯楽の殿堂として「ミュージックホール」が紹介される。
ここでは、歌・踊り・道化芝居などのバラエティーショーが演じられ、「スター」という言葉もここから生まれた。
本書は、時代はイギリスの19世紀に限られているが、雑多な話題が詰め込まれていて、焦点が絞りこまれていないという印象。
大英帝国の植民地政策にしろ、奴隷制廃止の経緯にしろ、民話の分析にしろ、貧困対策と福祉国家への道筋にしろ、階級にしろ、大衆消費社会の描写にしろ、
それぞれ本1冊費やして論じることができる話題だと思うが、欲張ったせいで、どれも掘り下げ不足という感じになってしまった感じ。
ただ上の『フットボールの社会史』よりはるかに読みやすい。この時代のだいたいの全体像を見たい人には合っていると思う。★★★★
0704無名草子さん
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2013/11/04(月) 00:46:11.31
読みなおしてみたら「感じになってしまった感じ。」とか書いてるのを発見w
0705無名草子さん
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2013/11/04(月) 12:17:51.63
きんも
0708無名草子さん
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2014/01/06(月) 04:23:59.58
このスレはレベルが高い
「新書」から引っ越してこよう
0710無名草子さん
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2014/01/07(火) 01:01:43.57
橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)
大澤が生徒役、橋爪が先生役になり、大澤が橋爪に対して、キリスト教に関する素朴な疑問を投げかけ、橋爪がそれに答えるという構成になっている。
第1部は、ユダヤ教ないし旧約の教義と歴史、第2部は、イエスキリストの登場とキリスト教の歴史、第3部は、プロテスタントの出現と西洋近代の形成について。
冒頭から橋爪が全知の教師然として自信満々で語る態度に違和感を覚える。宗教社会学の先生とのことではあるが、
どう見てもキリスト教の専門家ではないのに、なぜ権威を持っているかのように語れるのか。ちょっと池上彰を連想した。
概ねウェーバー(本書では「ヴェーバー」と表記)の宗教社会学をベースにして論じられているようだが、個々の説について、出典をはっきり示していない場合が多く、
また、過去にどのような神学的議論がされてきたのかを一切無視して、いきなり橋爪自身の見解や解釈を述べるところも多い。
橋爪の説にしても、神学的根拠があるのか、単なる独自の思いつきなのかはっきりしない。
ただ、自分は宗教や歴史に関して無知なので、怪しいなと思いつつも、割と楽しく読んでしまった。
最初に「キリスト教文明の中からいかにして西洋近代が形作られてきたのか」あるいは「西洋近代の母体となったキリスト教の宗教としての特殊性とは何か」
というようなウェーバー的なテーマがあり、そうした社会学的な興味からキリスト教そのものを分析するということになったのだろう。
0711無名草子さん
垢版 |
2014/01/07(火) 01:02:56.98
「予定説」から資本主義的な勤勉が生じたのはなぜか、という問題に対する橋爪の回答は、ウェーバーに即したものなのか、独自の説なのか、これも曖昧なのだが、
いずれにしてもアクロバティックな論理で、よくわからない。これについては自分もいろいろ考えることができて、それなりに楽しかった。
なお、この本については出版直後から宗教学や神学関係者から猛烈な批判が浴びせられており、ネット上でも批判がまとめられている※。
これによると、宗教学・神学のみならず史実のレベルで間違いだらけとのこと。中には高校世界史レベルのミスもあるようだ。
問題はこうした批判に著者らがどう対応したかだが、以下のような著者のコメントを知って愕然とした。
曰く「この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。」事実が書いてないのなら内容を要約しても仕方がないので、要約は放棄しました。
橋爪大三郎という人については好きでも嫌いでもなかったが、これによって印象は悪化した。
この居直り方に既視感があったのだが、内田樹『日本辺境論』の序文で似たような責任回避をやっていたのを思い出した。
批判を受ける前に先手を打って開き直るところは内田先生の方が一枚上手である(さすが武道家)。
大澤真幸先生は、この本では生徒役なので、ミスの責任はあまり問われないわけで、意外と立ち回りが上手いと思った。★★

※→http://www32.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html
0712無名草子さん
垢版 |
2014/01/07(火) 01:22:35.36
八木雄二『中世哲学への招待』(平凡社新書)
タイトルでは中世哲学全般の入門書のようだが、内容はほとんど、13世紀のスコラ哲学・神学者であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスについてのもの。
彼の思想は難解をもって知られ、精妙博士と呼ばれた。「はじめに」で、日本人のキリスト教に対する無関心と、近代思想の通念である中世暗黒史観を批判した後、
「その一」では中世哲学の歴史を簡単に区分し、ヨハネスの生涯を素描する。
「そのニ」では「神の存在証明」についてのキリスト教思想の歴史。また、神の存在に関連して、「なぜ悪が存在するのか」という神学的問題にも触れる。
ここではこうした神学的思考の中に、既に科学的思考の芽が含まれているということを強調している。
「その三」では、普遍と個別化の問題について、中世哲学の議論を概観しつつヨハネスの見解を中心に論じる。
大雑把に言って、普遍こそが真に存在するという考えはプラトンに由来し、実在するのは個別者だという考えはアリストテレス的なものである。
ヨハネスの思想はイデア論か唯名論かという二者択一の単純なものではなく、普遍の実体性を認めつつ個別者の実体性に重点を移した。
0713つづき
垢版 |
2014/01/07(火) 01:23:41.48
「その四」では、三位一体論についての議論から、その「父と子と精霊」の3つのペルソナが人間精神の3つの働き「記憶」「理知(知識)」「意志(愛)」に照応するという思想が生まれてきたことを論じる。
「記憶」はプラトンの「イデア想起説」と関連し、ヨハネスは、習い覚えたものではなく、最初から無意識に持っているものを「記憶」としている。この生得的な記憶が理解を可能にする。
三番目の「意志」と「愛」が同一視されているが、これは「記憶」と「理知」の問題が「認識論」であるのに対して、「愛」の問題は「実践論」であることによる。
ここでの「愛」は盲目的な愛ではなく理知的な愛であり、世界の理解に基づいて目的と手段を選択し愛を実践するのが「意志」である。また「神の愛」は人間の意志の力を超える。
「その五」では前章を引き継いで、愛と自由意志について論じる。まず、自由・意志と理性の関係についての西欧の伝統的な考え方を説明する。
西欧哲学の伝統では、自由であるために、目的の善と、その手段に関わる理性的判断の正しさは不可欠とされた。
自由・意志と理性は不可分であったのを、ヨハネスはこれを分離し、意志を理性からある程度独立させた。これは哲学・倫理的にいろいろと興味深い帰結をもたらす。
現代の可能世界論に繋がる面もあり、近代科学の前提となった思考でもある。この辺りの議論は面白いが長くなるので省略。
「その六」では、時間と宇宙についてのヨハネスの思想を紹介。ヨハネスは時間を空間的に理解することを拒み、「一瞬」の中に存在を捉えた。
この思想はニュートン・ライプニッツの微積分の考え方を準備したとも言える。
0714つづき
垢版 |
2014/01/07(火) 01:24:50.91
冒頭で記したように、著者は中世暗黒史観に対して怒っており、中世哲学と近代思想や現代科学との連続性を強調している。
ただ現代の話が引き合いに出されるところや、欧州キリスト教文化と日本文化を対置させているところには少し怪しい部分もある。
たとえば欧米では、見知らぬ客を無条件で歓迎するキリスト教的な歓待の習慣があり、日本は外からの客に冷たいなどと言っているが、
日本でもマレビトを歓待する習俗は古来からあるし、欧米でもよそ者に冷たい閉鎖的な村はいくらでもあるだろう。
著者は環境保全のボランティアにも関わっているが、このボランティアの精神もキリスト教に基づく欧米と日本では違うと言う。
日本でのボランティアは滅私奉公のイメージがあるが、欧米では本人の自由意志が最重要である。これについては、なるほどと思うけれど、
本当にそうなのかはよくわからない。欧米と日本の対比にこだわりすぎじゃないかとも感じた。
自分はタイトルから、中世神学やスコラ哲学全般を初心者向けに概説したものを期待していて、こんなマニアックな思想家についての本だとは思わなかった。
トマス・アクィナスのようなもっとメジャーな人について先に知りたかったとも思うが、初心者が読んで理解不能ということもなかった。
近代哲学を理解するためには、このあたりのことを知っておくのが有用だろう★★★★(ググってみたらどうやら絶版らしい)
0715無名草子さん
垢版 |
2014/01/07(火) 01:43:34.78
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
先に読んだ八木雄二『中世哲学への正体』は、ほぼドゥンス・スコトゥス中心の入門書だったが、こちらは西欧キリスト教思想に関する通史になっている。
神学のみの歴史というわけではなく、神学と哲学が相互に影響を与えあいながら発展していく過程を描いている。特に「啓示」と「理性」の関係を軸に据えて記述されている。
著者自身も神学と哲学の中間に身を置いていて、信仰に対しては、神学ほどには接近せず、哲学ほどには離れずといったスタンス。
第一章では、ユダヤ教の中からキリスト教が誕生してから、15世紀くらいまでの全般的な流れをたどる。
ヘレニズム文化・ギリシア思想との関係、布教におけるギリシア語やラテン語の問題、グノーシス主義との対決、啓示とロゴスの問題、
神の本性の問題(神は感覚や感情を持たないのか)、三位一体論争、肯定神学と否定神学、などの話題が雑然と提出される。
0716つづき
垢版 |
2014/01/07(火) 01:45:11.51
第二章では、改めて西方における初期キリスト教思想から中世神学・スコラ哲学までを代表的な神学者とともに解説する。
初期にはテルトゥリアヌス、アウグスティヌス、アンセルムスなど。
13世紀にはアリストテレス哲学が流入し、アルベルトゥス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ロジャー・ベーコン等が登場。
14世紀にはオッカムやビュリダンといった人たちの思想の中に科学的思考の萌芽が見られる。一方でエックハルトのような神秘主義者も出てくる。
他にも自分は名前を見たこともない多くの神学者・思想家が紹介されている。そして結びでは八木雄二『中世哲学の正体』と同様に「中世とは暗黒の時代ではない」ことが強調されている。
第三章は「近代の葛藤の誕生」と題して、ルネサンスと人文主義(ユマニスム)、宗教改革(ルター、ツヴィングリ、カルヴァン)、
近代科学の誕生(クザーヌス、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン)と続く。
さらに近代哲学の、デカルト、ライプニッツ、パスカル、スピノザといった人たちのキリスト教思想を検討する。
これらの近代哲学者にしろニュートンのような科学者にしろ皆キリスト教徒であった。
18世紀にはヴォルテールらの啓蒙思想の登場でキリスト教思想は縮小し、また、ロックらによって理神論あるいは自然宗教に引き戻されていった。
カントに関しては、キリスト教の合理主義化の到達点だと著者は評している。またルソーは市民的宗教の思想を抱き、市民革命を予見した。
0717つづき
垢版 |
2014/01/07(火) 01:46:35.74
第四章は、19世紀の状況だが、著者はこの時代はキリスト教思想の崩壊の時代と見ている。
フランス革命を重大な契機として、カトリック教会は保守反動化し、勃興する近代科学にも対応できず無力化していく。
哲学では、ヘーゲル、ニーチェなどの思想を検討する。ヘーゲルは哲学と神学を統合しようとして、キリスト教思想の完成者であり破壊者であるという両義的な存在となった。
ニーチェはプロテスタンティズムを激しく批判し、相対的にカトリックの優位を唱えた。キルケゴールはヘーゲルに抗して実存的信仰の立場をとった。
神学者としては、信仰を近代人に適応させようとして非宗教的なところまで行ってしまったシュトラウスや、
近代科学と矛盾する教義を排し、自我意識を基盤とした信仰を唱えたシュラエルマッハーが紹介されている。
近代科学に関しては、特に進化論への対応について論じられている。結論としては進化論と信仰との両立は不可能ではないとのこと。
さらに実証的歴史学と聖書注解学との関係や、カトリック思想の復興についても詳しく論じられている。
0718つづき
垢版 |
2014/01/07(火) 01:48:28.14
第五章では、現代のキリスト教思想の状況をざっと見渡している。
プロテスタント神学者カール・バルトは、神の超越性・絶対的他者性と啓示の外部性を強調し、信仰と宗教の対立という問題を提出している。
哲学ではハイデガーの影響が無視できない。カール・バルトやキルケゴールの影響を受けた急進的神学として、ヴァハニアンの「神の死の神学」というものも紹介されている。
最後に現代言語学や言語哲学が神学にもたらしている問題と、現代フランスにおける神学・哲学者(ポール・リクールなど)に触れて終わる。
キリスト教誕生から中世までについて記した第一章と第二章は、内容が凝縮しすぎていてややわかりにくい。
近代以降は知っている名前が多く出てくるせいか、割と把握しやすかった。
入門書とは言っても、キリスト教に無縁な日本人にむけて書かれた本ではないので、とっつきにくいのは仕方のないところ。
どちらかと言うと、宗教より哲学に興味のある人向けか。★★★★。
著者の経歴を見てちょっと驚いたのだが、この人はエコノミストでもあるらしく、経済関係の著作もあるとのこと。
0719無名草子さん
垢版 |
2014/01/07(火) 02:26:18.38
ありがとう、こっちへも顔を出した意味があった
エルヴェ・ルソー『キリスト教思想』(文庫クセジュ)
買って、読んでみることにした
0720無名草子さん
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2014/01/11(土) 01:14:44.87
恐縮です
>>715『中世哲学への正体』
>>716『中世哲学の正体』は誤りで『中世哲学への招待』に訂正します
0721無名草子さん
垢版 |
2014/01/12(日) 11:52:40.07
>>720
いえ、わかるから大丈夫です
0722無名草子さん
垢版 |
2014/01/12(日) 13:47:02.72
素晴らしいスレですね。あげ
0723無名草子さん
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2014/01/13(月) 18:09:34.38
堤未果『(株)貧困大国アメリカ』岩波新書

これは、TとUにもまして衝撃的だった
たとえば、知的財産権を設定した遺伝子組み換え種子と
強烈な除草剤とを組み合わせて販売して
他の作物を一切栽培できないようにして
一国の農業を丸ごと支配できるアメリカのアグリビジネス
はじめは「援助」の美名の元に行われるから、それに気づくことは難しいと

これは、日本の近未来農業を考えるために読んでおいてよかった

TPP交渉は二国間協議ではないからまだ安全という
最近行われる議論もなるほどと思わせる
0724無名草子さん
垢版 |
2014/01/27(月) 00:22:58.38
山竹伸二『「認められたい」の正体』(講談社現代新書)。
近年、社会評論などでよく取り上げられる「承認欲求」や「承認不安」について、現象学や精神分析に依拠して論じたもの。
第1章では、黒沢清の映画や、近年の無差別殺傷事件などを参照して、現代は承認への不安に満ちた時代であり、「空虚な承認ゲーム」が蔓延っていると言う。
第2章では、まずミルグラムのアイヒマン実験を参照して、伝統的な価値観がゆらぐ不安の中で権力に服従する人々の心理と承認欲望について論じる。
他に、マズロー、カール・ロジャーズ、フロイト、アドラーらの心理学における欲望論を概観。さらにこれらの源流にあるヘーゲルの承認論に触れる。
次に著者の立場として現象学を用いて、承認の欲望の本質を考えていく。まず承認を与える「他者」を「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」に分け、
それぞれの他者による承認を考える。第3章では発達心理学と精神分析を参照しながら、子供が、親や友人や世間の承認を求めながら成長していく過程を考える。
子供は成長していくにつれ「一般的他者」による承認を求めるようになり、普遍的価値を内面化して自己承認ができるるようになりつつ大人になっていく。
ここでは、ベイトソンのダブルバインドとか、共依存といった「歪んだ承認関係」にも触れる。
この章では現代の発達心理学を参照すると言っている割りには、古い精神分析の援用が大半を占めている。
0725つづき
垢版 |
2014/01/27(月) 00:24:39.60
第4章では、近代において伝統的価値が崩壊したために、自由と承認の葛藤が生じていることを論じる。この葛藤から「本当の自分」が社会に抑圧されているという世界像も生み出された。
第5章ではこうした承認不安と空虚な承認ゲームからの脱出の処方箋を考察。それには自由と承認の両立が必要である。
そして人が自由を実感するためには「自己決定による納得」が必要である。自己決定をするためには自己の欲望と当為(〜すべし)についての自己了解が必要となる。
このとき「一般的他者」からの視点で内省することが重要だ。こうした自己了解によって自由と承認の両立が可能となる。
では現代において「一般的他者の視点」を可能にするような普遍的価値はあるのだろうか、という問いに対して、著者は「道徳的価値」の普遍性をあげる。
そしてアダム・スミスの「中立的な観察者」やルソーの「一般意志」なども引用し、「一般的他者の視点」を成熟させていくべきことを説く。
読んでいる途中で気づいたが、この人は、現象学による近代的相対主義の乗り越えを企図している竹田青嗣の一派に属している。
0726つづき
垢版 |
2014/01/27(月) 00:25:53.69
自分なりに一生懸命に内容を要約してきたが、正直苦痛であった。
実は第1章冒頭で「現代は承認の不安に満ちた時代である」と何の実証的論拠もなく断言している時点で、かなり読む気をなくしてしまった。
せいぜい「そういうことを問題にするのが論壇で流行っている」ということが言えるだけではないのか。この人は精神科医でも臨床心理士でもないので、具体的な経験談すらない。
そもそも人間は社会に承認されなければ生きていけない動物であり、承認欲求があるのは当たり前であって、そこにはなんら謎を感じない。
人間の子供は親に承認されなければやはり生きるのは困難だし、異性に承認されなければ子孫も残せない。
確かに「承認欲求」「承認不安」という言葉を使うと、人間のいろんな行動を説明できる。
例えば自分がチラシの裏に書いとくべき読書感想文をこうして2chでわざわざ公開するのも承認欲求の賜物であるし、
ブログなどで堂々と書かずに過疎スレにコソコソ書いているのは承認不安があるからだ。しかしこんな分析に何か意味があるだろうか。
つまらないと思いつつも一応「承認」「欲望」に関する思想の系譜をヘーゲルから精神分析や社会学まで知ることができればいいか、と思って読み進めたわけだが、
そうした思想史的な整理はあまりなく、竹田青嗣流「現象学」と精神分析による著者の図式的な自論が語られているだけであった。星2個★★
0727無名草子さん
垢版 |
2014/01/27(月) 00:35:15.85
佐々木孝次『甦るフロイト思想』(講談社現代新書)。上の本を読んで「精神分析って何?」という疑問を持ったので読んでみた。
著者は、あの難解で名高い『エクリ』(自分は以前に一巻だけ読んでギブアップ)の翻訳者の一人。
したがって、ラカンの理論を解説した入門書かと思ったが、ラカンについての説明はあまり多くない。かと言って、フロイトについての初心者向けの説明もほとんどない。
「みかけ」といった著者独自の用語や、森田正馬や森有正の思想を参照しつつ、日本人特有の欲望に関する議論を展開している。
充分な説明のないまま精神分析的な思考法でどんどん話が進むので、精神分析に慣れていない読者は置き去り気味になると思う。
一見難しい言葉は用いていないが、普通の言葉でも精神分析の思考文脈で理解しなくてはならないので、概念として簡単とはいえない。
著者はできる限り分かりやすく書いているつもりのようだが、これでどうして一般読者に通じると思えるのかが不思議。
1章では漱石の小説『道草』を題材に、夫と妻が互いに相手の「形式主義」に不満を覚えるという関係性を分析する。
ここでは既に、鏡像へのナルシシズム的な段階(想像界)から、「他者」の介在による欲動と欲望の分離(象徴界)といった、フロイト・ラカン的な論理が展開されているのだが、
教科書的な叙述がされていないので、あらかじめ多少なりとも精神分析の知識がないと何を言っているのかわからないと思われる。
2章では改めてフロイト理論に沿って欲動と欲望の違いを説明。と言ってもわかりやすくはない。
単純化して言えば、欲動は生物学的なもので欲望は社会的なものだ、と考えればいいのだと思うが、晩年のフロイトの欲動論では「死の欲動」というのも現れてくるのでややこしい。
ただ、ここでは「死の欲動」には深入りしていない。
0728つづき
垢版 |
2014/01/27(月) 00:37:31.52
3章では日本人に多いと言われる対人恐怖症をとりあげ、森田正馬の療法を批判的に参照しつつ、日本社会の「形式主義」に原因を求める。
4章では、森有正の「二項関係」という概念を使って人間関係を分析。「二項関係」とは、「相手」と「相手の相手としての自分」との関係、すなわち「汝-汝」の関係と言われる。
ここでは、森有正の理論と、フロイト・ラカンの理論をすり合わせるようなことをやっている。そして、日本の文化に何かが決定的に欠けていると指摘する。
要するに、二項関係の外の視点、つまり「意味」としての第三者が欠けている、と言いたいようだ。
5章では、さらに日本人の人間関係における「ふり」の果たしている役割を考え、精神分析がこれに対応できるのか、ということを論じている。
「ふり」とは「〜のふりをする」の「ふり」で役割演技みたいなことだろう。
6章では、ラカンに影響を与えたヘーゲル研究者のコジェーブが、日本の文化を評した言葉「スノビスム」を検討。
ここで言うスノビスムとは、ヘーゲル的な歴史の終わりを実現した日本文化を指している。これはバブル時代の文化を思い浮かべればわかりやすいのではなかろうか。
飢えも葛藤もない平和で豊かな世界だがどこか退廃的で虚しいわけだ。
7章では「叫び」という概念を提出する。形式主義とスノビスムの文化から「意味」が抜け落ちているので、苦しみを訴える言葉は意味を構成せず「叫び」となる。
0729つづき
垢版 |
2014/01/27(月) 00:45:14.79
8章では再び森有正の思想とラカン理論をすり合わせるようにして「一人称-三人称関係」というものを考える。
社会とは「一人称-三人称」関係で構成されるものだが、日本では「汝-汝」の二項関係が強く支配して、一人称を弱体化させるとのこと。
これもやたら難解な話になっているが、ごく簡単にいえば個人が自立していないということだろう。ラカン用語を使うと、日本では想像界の力が強くて象徴界の成立を妨げるという感じか。
9章ではラカンの用語としての「他者」を問題とする。ラカンの言う(大文字の)「他者」とは、第三者、父、神、言語秩序、などを含むわけだが、これだけでは何のことだかわからないだろう。
これも簡単にいえば、母と子の密着や、鏡像的なナルシシズムに介入して、社会の一員としての個人を作り出すものなのだろうが、
著者はラカンの理論を詳しく説明する気もないらしく説明不足。(ファルスとか去勢といったラカン用語も出てこない)。
またここには欲望の問題が関わり、「他者の欲望を欲望する」とか「欠如としての欲望」といった論点が出てくる。
いずれもいかにも難解で謎めいているが、日常的な経験に照らしてみれば理解できなくもない。
動物的な食欲性欲のような欲動ではなく、人間的な欲望を持つ限り、それは既に言語や他者に媒介されている(「金持ちになりたい」「キレイになりたい」「出世したい」「権力がほしい」)。
そして欲望の対象とは既に失われているものである(既に手に入ったものは魅力がない、常に今ここにないものが欲しい、隠されているものが見たい)
言葉によって生まれる欲望は、いつも別のもの(言葉)に対する欲望であるから、言葉は、実はその言葉とは別の意識されていない言葉に対する欲望を告げている。
よって言葉は無意識と密接な関係をもつ。そして言葉をこのような人間の世界の言葉にするのは「他者」の働きである。日本的な形式主義やスノビスムに抗するためにも「他者」という契機は重要だ。
0730つづき
垢版 |
2014/01/27(月) 00:52:35.35
「汝−汝の関係」というと堅苦しいが、下世話に言えば電車の中とかで人目も憚らずイチャついているカップルみたいなもんだろう。社会も第三者の目も存在しない二人だけの世界。
10章ではこれまでの論旨をまとめており、「汝の鏡像を殺せ」というラカンの言葉を引用している。
これも身も蓋もない単純化をすれば、鏡の世界=想像界から出てオトナになれ、というような意味だろう。
本書は、精神分析について初心者向けの説明をせずに、精神分析を知らない一般人に向けて、精神分析の論理で語った代物で、意図不明と言うしかない。
著者が言いたいことは、要するに「三人称」とか「他者」の機能の弱い日本では精神分析は困難だ、ということでしかないようだ。
これは結局、精神分析が役立たずである理由を、日本人のあり方に押し付けただけとも言える。
「日本が一神教ではない」とか「空虚な形式としての天皇制」ということも大いに関係すると思うが、この本では宗教への言及はほとんどない。
精神分析、特にラカン派の奇怪な思考法に触れてみたい人は読んでみてもいいもしれない。★★★。(何しろ内容が難しいのでレビューも長くなってしまいました…)
0731蛇足
垢版 |
2014/01/27(月) 00:54:17.28
※ラカンの理論というのは、わかりやすく説明しようとすれば不可能ではないと思うのだが、自分はわかりやすい入門書を見たことがない。
ベストに入っている新宮一成『ラカンの精神分析』もほとんど意味不明だったし、福原泰平『ラカン』(講談社)というのも読んだが、文章がひどくて読めたものではなかった。
斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)はわかりやすそうだったので読み始めたが、序章を読んだらアホらしくなって中断。
ラカン入門書としては他にジジェクの本が出ているが、自分は未読。
佐々木中の『野戦と永遠』上(河出文庫)は、一応読める日本語で明晰に書かれているので、ラカン入門としては意外にいいのではないかと思う。
もっとも、ラカンの「難解さ」自体に意味があるとも言えるので、わかりやすさを求めるのは間違いかもしれない。
つまり、難解さの誘惑によって頭のいい人の「欲望」をかきたてて「釣」り、ラカンとその学習者との間に非対称的な関係を作り出す。
この関係性がラカン理論自体と相似形ともなっている。それと、わざとわからないように書くことによって「人間の心なんて簡単に理解できると思うなよ」ということを言いたいのかもしれない。
0732無名草子さん
垢版 |
2014/01/27(月) 01:01:59.56
ありがとうございました

「汝−汝」関係はマルティン・ブーバーですよね

ラカンは、コレージュド・フランスの講義の前夜には鏡の前で話す顔の角度まで考えて
わざとわかりにくく語ったという「伝説」があるくらいですから
わかりにくいのは仕方がないような気がします

たしかにわかりやすいラカン入門書はありませんが
大橋洋一『新文学入門』(岩波書店)のラカンの解説が意外にわかりやすいですよ
0734無名草子さん
垢版 |
2014/01/29(水) 21:51:26.86
小林千草『女ことばはどこへ消えたか』(光文社新書)。著者は1946年生まれの国語学(日本語学)教授で、小説家でもある。
女ことばの来し方行く末を論じている。著者は、ある日ファミレスで「ヤンママ」が子供に向かって「ちげーよ(違うよ)」という言葉を使っているのを見てショックを受ける。
男女の言葉の差がどんどんなくなってきている現状のひとつの例としている。一方で「おひや」「おかか」という室町時代の「女房詞」が現代でも使われていることを指摘している。
第一章では、100年前の女ことばを検討するために、夏目漱石の小説(主に『三四郎』)で使われている女ことばを拾っていく。
女性の笑い声「ほほほ」、文末の「〜わ」「〜よ」「〜てよ」「〜て」「〜ね」「〜の」「〜こと」「〜もの」など。これらの女ことばを、
小説を丁寧に読み解くことによって、その微妙な心理の彩やニュアンスを掬いあげている。
第二章では200年前に遡り、式亭三馬『浮世風呂』に書かれた、当時の庶民の女たちの生き生きした会話を見ていく。
ここでは、世代や階層・教養や出身地域の違いなどによって、女ことばの違いが書き分けられている。特に下層の少女達の、落語に通じるような乱暴で勢いのある江戸弁が面白い。
また、この時代の女ことばと、その100年後の『三四郎』や二葉亭四迷『浮雲』での女ことばとを比較している。
0735つづき
垢版 |
2014/01/29(水) 21:52:38.97
第三章は、「おことば」「もじことば」のルーツを遡る。「おことば」とは名詞に「お」をつけて尊敬や丁寧を表すことば。『三四郎』からは「おあにいさん」が参照されている。
『浮世風呂』からは「おかちん(餅)」「おむし(味噌)」が参照されているが、これは「かちん」「むし」だけでも室町時代の女房詞に由来する婉曲語である。
章の後半ではこれらの様々な女房詞を紹介する。「もじことば」はこの女房詞における造語法のひとつで、鯉→こもじ、鮒→ふもじ、ツグミ→つもじ、などとして元の言葉をぼかす。
他にも、そうめん→ほそもの、葱→うつほ、塩→しろもの、豆腐→かべ、といった言い換えがある。現在でも使われている女房詞として「おかず」「お冷」「お手元」などがある。
第四章では、現代女子学生の言語実態を調査した結果を検討している。
若者語と思われる「〜じゃん」「やっぱ」「きもい」「きれいかった」「きもちかった」「ちがくて」「私って〜な人」「ちげーよ」
を日常的に使っているかどうかを女子短大生にアンケートで尋ねている。また女子学生はこれらの言葉使いに関して反省のコメントなどを述べている。
第五章では、女優の田中絹代の言葉遣いや太宰治『斜陽』のお嬢様言葉に触れつつ、現在形骸化したお嬢様言葉を無理に使うことに対しては批判している。
また現在もっとも女らしい言葉を残している人々としてニューハーフに言及。最後の「付録」では『源氏物語』・『平家物語』・狂言・能などの女ことばに触れている。
0736つづき
垢版 |
2014/01/29(水) 21:55:15.59
全体を通して感じたのは、女ことばの由来については多くの知識が得られるが、なぜ日本語に女ことばが生まれたのかという点については、掘り下げられていないということ。
そうした点を考察するには、ジェンダー・フェミニズム的な分析が必要になると思うが、ここでは視野の外に置かれている。
また、第一章では夏目漱石の小説のみが参照され、かなり細かい文学的な分析がされているが、漱石だけで大丈夫か?とも思った。小説と現実の差も気になる。
小説を参照するにしても女流作家の方が女ことばのニュアンスはよくわかっているのではないかとも思うのだが、100年前だと女流の数も少なかったから仕方ないのかもしれない。
四章の若者言葉の調査に関しては、言葉の選定が微妙な感じもするし、それらの言葉が使われる具体的な状況についての考察が不十分な気もする。
「きれいかった」などは、調査でもある程度明らかになっているように、西日本のいずれかの方言由来ではなかろうか。
「私って〜な人」は一時期流行った自己呈示の話法だが、もともと使う場面は多くない言葉だ。
また「ちげーよ」は若者同士であっても、ごく親しい間でしか使わないはずである。強い否定の言葉だから、気心がしれた間柄でないと喧嘩になるかもしれない。
言い換えると「ちげーよ」を普通に言い合うことによって仲間意識の確認になっているのだと思う。
こうした由来や機能の異なる言葉を若者言葉として一緒くたにまとめてもあまり意味がないかなという気がする。
個人的にはもっと、現代小説やラノベ、映画やTVドラマ、漫画やアニメ、歌謡曲・J.ポップの歌詞、などにおける女ことばの変遷、及び現実とのズレなどが知りたいところ。
たぶん研究している人はどこかにいるとは思うが。★★★
0737無名草子さん
垢版 |
2014/01/29(水) 21:56:18.77
中村桃子『女ことばと日本語』(岩波新書)。先に読んだ、小林千草『女ことばはどこへ消えたか』で自分が感じた疑問に対して、ジェンダー論の立場から解答されている。
「女ことばの伝統」とは、「言説」によって歴史的に作られた伝統であり、イデオロギーであるという主張であり、小林千草らの言語観とは根本的に対立する。
「言説」という用語を使っていることからわかるように、M.フーコーの系譜学の方法を採用している。
第1部では「規範としての女ことば」として、鎌倉時代から江戸・明治までの、女性の言葉遣いに対する規範の言説をたどっていく。
女のおしゃべりを諌め、慎みを説く規範は中世から現代まで連綿と継承されていく。
女房詞は、元々は高い身分の者が使う言葉と認識され、性差の意識は薄かったが、規範の言説によって次第に女が使うべき言葉とされるようになった。
小林千草の本で書かれているような、女房詞という起源から現代の女ことばへと自然に発展していったのではなく、そこには意図的な力が加わっているのだ。
0738つづき
垢版 |
2014/01/29(水) 21:57:34.66
第2部は、“「国語」の登場”と題して、近代国民国家を統合するための国語の制定に伴って、女ことばの規範が成立していく過程を論じる。
明治の知識人は、標準語を「教養ある東京人の話す言葉」とすることを提案し、方言や女性の話す言葉を排除した。
ここには「ひとつの国語」の思想と「男女の言葉の違い」という矛盾があるが、それは「“国語”とは男が話す言葉だ」という前提が潜在しているということである。
次に、「女学生」という(作られた)カテゴリーと「女学生ことば」の成立過程を分析している。
明治初期の女子学生の中には「僕は〜」「〜したまえ」などの書生言葉を使う者もいたが、これがまずメディアから批判される。
その後「てよだわ言葉」が使われ始める。これは当時の女子学生が、良妻賢母思想へのささやかな抵抗として使い出したと思われる言葉だが、
下賎な起源を持つ下品な言葉として批判される。ただし当時の女子学生が「てよだわ言葉」だけを使っていたわけではなく、書生言葉や外来語・漢語など多様な言葉を使っていた。
ではなぜ、「てよだわ言葉」が「女学生」の典型的な言葉として固定観念化したかというと、まず坪内逍遥らが翻訳小説で西洋女性の話し言葉として採用し、小説を通じて広く普及したからである。
「てよだわ言葉」は最初は軽薄さを示すものとして見られ、後にはエロ小説に使われセクシュアリティを表象する。現代風にわかりやすく言えば、萌えキャラ立てに使われたというようなことだろう。
ここまでの段階では女ことばは、「国語」から排除されることによって否定項として国語統合の役割を果たした。
0739つづき
垢版 |
2014/01/29(水) 21:58:44.86
第3部では“女ことばが日本語の「伝統」である”という通念が言説によって捏造されていく過程を分析する。
国語から排除され貶められていた女ことばが、日本語の美しき伝統とされるようになるのは戦中である。
まず女房詞と敬語が女ことばの起源であるとする言説が国語学者から出された。また女房詞が宮中から出たことから天皇家との連続性を強調する言説も現れた。
さらに、他国にない女ことばが存在する日本語の優位性も主張される。日本語の優位性を証することは植民地政策上も必要だった。
「ナショナリズムの時間的矛盾(国家は過去と未来に向かわなくてはならない)」解消のために、女性性を過去(すなわち伝統)に、男性性を未来に結びつける必要があったのだ、と著者は分析している。
戦中期には、文法書や国語教科書にも女ことばが組み入れられ、言葉の性差を強調した。女ことばが国語になったと言ってもあくまでも周縁に位置づけられた。
このことは戦時総動員体制の下で女性を国民に組み入れ銃後の守りに当たらせたこととパラレルである。
戦後は男女平等の理念の下、進歩的知識人によって女ことばが批判されるようになった。
しかし、「女性の先天的な女らしさに基づく自然な女ことば」を擁護する言説が現れる。女ことばは天皇制から切り離されつつも国語の中に残されていった。
なぜ女ことばが存続させられたかについては、敗戦・占領によって自信や誇りを失った日本人が、天皇制・家父長制・儒教的家族制度の存続の欲求があったためとのこと。
冒頭で述べたとおり、小林千草の本では解決されなかった「なぜ日本語には女ことばがあるのか」という疑問に対してかなりすっきりした解答が与えられている。
また、ご覧のとおりフェミニズム及び社会構築主義どっぷりでもある。マニュアル化・単純化されたフーコー的方法を使うことについての、カルスタやポスコロに対するのと似た不満はあるし、
現在の平等の理念から過去を断罪する態度も散見されて正直辛い部分もあるが、そこら辺にはあえて目をつぶって星4つ★★★★
0740無名草子さん
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2014/02/01(土) 02:25:04.34
思想のない小林千草と思想だらけの中村桃子の対比は興味深いですね
これは人文系の学問では、京大系と東大系にほぼきれいに分かれますよね
0741無名草子さん
垢版 |
2014/04/19(土) 19:35:26.71
児玉聡『功利主義入門』(ちくま新書)。功利主義を中心とした、倫理学全般についての入門書。
「はじめに」では「倫理を学ぶ2つの仕方」として、社会で生きていく上で守るべきルールを学ぶという道徳教育的なものと、
倫理の根拠を問うような批判的思考の二種がある、として、本書では後者の立場をとる。
第1章では、「倫理は相対的か」「宗教なしの倫理はありえるか」「人間は利己的だから倫理は無駄か」
「自然に従うだけではいけないのか」「倫理学は非倫理的か」といった倫理と倫理学に対する素朴な疑問に答えていく。
最後の「倫理学の非倫理性」というのは「トロッコ問題」のような倫理的ジレンマに関する思考実験が、しばしば残酷な話であるというようなこと。
第2章では、功利主義の思想家ベンタム(本書では「ベンサム」ではなく「ベンタム」と表記)の思想を解説。
「最大多数の最大幸福」の原理や「功利計算」の意味を検討し、その特徴を「帰結主義」「幸福主義」「総和最大化」の3つにまとめている。
第3章では功利主義に対する様々な批判を検討。映画「シザーハンズ」のエピソードから「お金を拾ったらどうするか」という問題を考える。
普通の正解は「警察に届ける」で、シザーハンズは「その金で友人や大切な人にプレゼントを買う」と答えたのだが、功利主義者は「貧しい人にあげる」と答える可能性がある。
ここでベンタムと同時代の功利主義者ウィリアム・ゴドウィンが登場。彼は、功利主義の原理を徹底し、家族など身近な人間をえこひいきすることは許されないと説いた。
社会全体の幸福のために有用な人物と身内の2人が命の危険にされされていて、どちらか一方しか助けられないのであれば、迷わず前者を助けるべきだと言う。
ゴドウィンは自由恋愛主義者で結婚制度にも反対していたが、メアリ・ウォルストンクラフト(初期のフェミニスト思想家)に迫られて結婚を承諾してしまう。
また後に彼の娘(メアリー・シェリー;『フランケンシュタイン』の作者)は詩人シェリーと駆け落ちしてしまう。
こうした経験からゴドウィンは功利主義思想に修正を加える。
第4章では、この修正を加えて洗練された功利主義について解説。ゴドウィンは、他人の幸福に対する感受性を育むものとして家族や身近な者に対する愛情も肯定するようになる。
0742つづき
垢版 |
2014/04/19(土) 19:38:22.59
第5章では、現代の公共政策における功利主義的思考を論じる。災害医療における「トリアージ」などについて説明し、
ロールズによる批判なども参照しながら、19世紀前半のイギリスにおける公衆衛生政策と功利主義の関係を論じる。
功利主義による公衆衛生の改善を目指した思想家として、チャドウィックとJ.S.ミルが挙げられる。前者はパターナリスティックであり、後者は自由主義的であった。
喫煙規制の問題などにも触れつつ、自由との兼ね合いにおいて功利性実現のための介入はどこまで許されるのかという問題を考察し、リバタリアン・パターナリズムという思想も紹介。
第6章では「幸福」とは何かについて考察。まず、ベンタムやミルの「幸福=快楽、不幸=苦痛」説や、それに対する批判を検討する。
また経済学などで採用されている「選好」「欲求」といった概念を説明し、これに対する批判としてアマルティア・センによる「適応的選好」の問題(奴隷の幸福)や「愚かな選好」(麻薬など)の問題を指摘する。
第7章では「道徳心理学と功利主義」と題して、統計に基づく理性的な判断と共感に基づく心情的判断の間のギャップなどの心理的バイアスについて考える。
功利主義は理性を重視するが、最新の脳科学や心理学の知見によって、倫理に対する感情の役割が無視できなくなる。
そこで倫理的動機を生み出す方法として「直感的思考の強化戦略」「共感能力の特性利用戦略」「理性的思考の義務付け戦略」の3戦略を提案している。
長々とまとめてきたが、ぶっちゃけて言うと個人的にはあまり面白くなかった。自分が倫理については善悪の彼岸から考える癖がついているからだろうか。
どちらかというと最初にちょっと紹介されている「メタ倫理学」の方に興味を惹かれる。あと「有用性」やプラグマティズムとの関係もできれば知りたかった。
5章の公衆衛生の問題に関しては、喫煙規制問題などはさほど難問とは思えず、それより予防接種の問題※の方が特に日本においては深刻ではなかろうか。★★★

※社会全体のリスクはもちろん、個人のリスクから言っても予防接種はある程度強制すべきだが、周知の通り予防接種には小さな確率にしろ副作用の可能性がある。
万一、子供が予防接種の副作用で死んだ場合、「予防接種はするべきではなかった」とその親が考えるのは自然だろう。では予防接種をどこまで強制できるのか?
0743無名草子さん
垢版 |
2014/04/19(土) 19:40:25.83
内藤淳『進化倫理学入門』(光文社新書)。著者は法哲学者で、法や人権に対して自然主義的基礎付けを行っている。
サブタイトルは「“利己的”なのが結局、正しい」とあり、内容はこれに尽きる。
ここで真っ先に気になるのは、いわゆる「自然主義的誤謬」論に対して、いかに反論・対処もしくは問題回避しているのかという点であるが、
驚くべきことに、そもそも問題として認識していない模様。ドーキンスの「利己的遺伝子」論や、スティーヴン・ピンカーなどを参照して、
利他性も利己性に還元できることを説明し、そこから一足飛びに「利己性=正しい」を導き出している。ある意味清々しいほどの素朴な「自然主義」。
利己性を公理とするのはかまわないのだが、利己的遺伝子にとっての「利」と、人間個体にとっての「利」ですら既に異なるし、
時には対立する事をどう考えているのか不明(後者が前者から生じたものだとしても、前者=後者ではない)。
せめて、利己的遺伝子から生物個体レベルでの利己性と利他性、そして人間の社会性・利他性・倫理・自由・意志などが、
どのように進化してきたのか、ゲーム理論などを援用して説得力あるシナリオを描いて欲しかった。
例えば、一般に道徳・倫理は利己性を否認するが、これは道徳・倫理の本質的な属性と考えるべきだろう。
それはなぜか、という事も利己性を出発点として進化論的・ゲーム理論的に説明できるはずである※。
ドーキンスや佐倉統を絶賛している割には、進化論やゲーム理論をちゃんと理解しているのかどうか怪しい感じもする。
経済学や功利主義の知見も取り入れるべきかと思うが、あまり参照されている様子はない。
本来、酷評するのであれば、内容を詳細に検討して公正に批評するべきなのはわかっているのだが、
そういう気力すら失わせる脱力物件。己れの自然な感情に従って星1個進呈★。
(言うまでもなく、倫理学とか法の自然主義的基礎付けなるものに関して自分は何も知らないので、根本的に勘違いしている可能性はあるのでご了承ください)
0744つづき
垢版 |
2014/04/19(土) 19:42:41.06
※まず人間は未来を予測し高度な目的を立てることが可能なように進化してきているので、
目先の利益と未来の利益を比べて後者が大きければそちらを選択することができる(未来へのコミットメント)。
この点でも目先の利によってしか選択できない進化及び利己的遺伝子の利とは違うのではないか。
また人間は他者との協力による利益を得るために、約束を守りそれを信頼する(他者へのコミットメント)。
特に囚人のジレンマ状況の際に、双方が利己的に振る舞うと双方が利益を失うので、双方が利己心を捨てる事が必要になる。
つまり利益を得るためには利益を忘れることが必要になる。道徳はこの矛盾した選択を可能にするための仕掛けであると考えられる。
(しかし相手がお人好し戦略を取るとわかっていれば依然として裏切り戦略が有利なので、「裏切り者を罰する」(いわゆるしっぺ返し戦略)という道徳のもう一つの面も進化したのだろう。)

・更に蛇足

そもそも利己性を否定するのが道徳の原則だと思うが、一方、日本には「情けは人のためならず」ということわざもある。
これは利他性=利己性ということをぶっちゃけているようにも見えるが、やはり半分は嘘であり、嘘であることに意味があると思う。
つまり、他人への「情け」が自分にとって損になる可能性・裏切られる可能性を隠しており、隠すことで道徳的標語として機能しているのだ。
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