川端康成とか三島由紀夫のおすすめ作品2
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しかし何者が本多にこんな夢を見せたのであらう。
慶子との会話を知つてゐるのは、慶子と本多の二人しかゐないのであるから、その「何者」は、
慶子でなければ本多にちがひない。が、本多は自分でそんな夢を見たいと決して望んだ
わけではない。本多に何のことわりもなく、その希望を一向参酌せずに、勝手な夢を見させたものが、本多自身であつてよい筈はない。
もちろん本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうな
ものが実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の
何者かが、いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 「…僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。さうして
ゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に出るためには、
こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手を
ゆるめないだらう。だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければ
ならない。むやみに突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして
一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。
でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね」「わかつたわ、透さん。私、何でもあなたの言ふなりになる。その代りしつかり私を支へてね。
美しさの毒でいつも私の足はふらふらしてゐるんだから。あなたと私が手をつなげば、
人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすつかり晒して漂白してしまへる
かもしれなくつてよ。さうなつたときは、この地上が天国になり、私も何ものにも脅えないで、
生きてゆくことができるんだわね」
三島由紀夫「天人五衰」より ――絹江が去つたあとでは、透はいつもその不在をたのしんだ。
あれだけの醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。すべて
絹江の美しさを前提にして交はされたあの会話は、その美しさ自体が非在のものだつたから、
絹江がこの場を去つた今も、少しも変らずに馥郁と薫つてゐた。
……遠いところで美は哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向うで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。絹江だけが醜さの罠で、その鶴をつかまへることに
成功したのだつた。そして又、たえまない自意識の餌で、末永く飼育することにも。
三島由紀夫「天人五衰」より 競技を終つた競技者の背中から急速に退いてゆく汗のやうに、黒い砂利のあひだを退いてゆく
白い飛沫。
無量の一枚の青い石板のやうな海水が、波打際へ来て砕けるときには、何といふ繊細な変身を
見せることだらう。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと別れる白い飛沫は、苦しまぎれに
かくも夥しい糸を吐く、海の蚕のやうな性質をあらはしてゐる。白い繊細な性質を内に
ひそめながら、力で圧伏するといふことは、何といふ微妙な悪だらう。
一瞬レンズの中に現はれた、天にも届かんばかりの一滴の白い波の飛沫があつた。
これほどまでに一滴だけ高く離れた波しぶきは、何を目ざしたのか。この至高の断片は、
何のためにさうして選ばれたのか。彼一滴だけ?
自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?
三島由紀夫「天人五衰」より 波は少しづつ夕影を帯びると共に、険のある硬質のものになつた。光りはますます悪意に
染まり、波の腹の色は陰惨味を増した。
さうだ。砕けるときの波は、死のそのままのあらはな具現だ、と透は思つた。さう思ふと、
どうしてもさう見えて来る。それは断末魔の、大きくあいた口だつた。
白いむきだしの歯列から、無数の白い涎の糸を引き、あんぐりあいた苦しみの口が、
下顎呼吸をはじめてゐる。夕光に染つた紫いろの土は、チアノーゼの唇だ。
臨終の海が大きくあけた口の中へ、死が急速に飛び込んでくる。かう無数の死を露骨に
見せることをくりかへしながら、そのたびに海は警察のやうに大いそぎで死体を収容して、
人目から隠してしまふのだつた。
そのとき透の望遠鏡からは、見るべからざるものを見た。
顎をひらいて苦しむ波の大きな口腔の裡に、ふと別な世界が揺曳したやうな気がしたのである。
透の目が幻影を見る筈はないから、見たものは実在でなければならない。しかしそれが
何であるかはわからない。
三島由紀夫「天人五衰」より 海中の微生物がたまたま描いた模様のやうなものかもしれない。暗い奧処にひらめいた光彩が、
別の世界を開顕したのだが、たしかに一度見た場所だといふおぼえがあるのは、測り知られぬ
ほど遠い記憶と関はりがあるのかもしれない。過去世といふものがあれば、それかもしれない。
ともあれそれが、明快な水平線の一歩先に、たえず透が見通さうと思つて来たものと、
どういふつながりがあるのかわからない。砕けようとする波の腹に、幾多の海藻が纏綿して、
巻き込まれながら躍つてゐたとすれば、つかのまに描かれた世界は、嘔気を催ほすやうな
いやらしい海底の、粘着質の紫や桃いろの襞と凹凸の微細画であつたかもしれない。が、
そこに光明があり、閃光が走つたのは、稲妻に貫かれた海中の光景だつたのだらうか。
そんなものが、このおだやかな西日の汀に見られよう筈はない。第一、その世界がこの世界と
同時に共在してゐなければならぬといふ法はない。そこに仄見えたのは、別の時間なので
あらうか。今透の腕時計が刻んでゐるものとは、別の時間の下にある何かなのであらうか。
三島由紀夫「天人五衰」より 自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。
透は必然を軽蔑し、意志を蔑してゐた。
時折鏡を見て、自分の微笑の漂ひをよく調べると、鏡にさしかかる光りの加減で、少女の微笑に
似てゐると感じられることがあつた。どこか遠い国の、言葉の通じない少女は、こんな微笑を、
他人との唯一の通ひ路にしてゐることがあるかもしれない。自分の微笑が女らしいといふ
のではない。しかし媚態でもなければ羞らひでもない、夜と朝との間の薄明に、白みかかる道と
川との見分けのつかない、一つへ足を踏み出せば溺れるかもしれない、さういふ危難を
相手のためにしつらへて、ためらひと決断の間のもつとも微妙な巣の中で待つてゐる鳥のやうな
微笑は、ちやんとした男の微笑とは云へない。透は、ふとして、この微笑を父親からでも
母親からでもない、幼時にどこかで会つた見知らぬ女から受け継いだのではないかと
思ふことがある。
三島由紀夫「天人五衰」より それにしても相手の動機は、一体それほど不可解だつたらうか? これにも何ら不可解な
ものはない。透は知つてゐた、退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだと。
自由主義の経済学から美しい予定調和の夢が崩れたのはずいぶん昔だつたが、マルクス主義
経済学の弁証法的必然性もとつくに怪しげなものになつてゐた。滅亡を予言されたものが
生きのび、発展を予言されたものが、(たしかに発展はしたけれども)、別のものに
変質してゐた。純粋な理念の生きる余地はどこにもなかつた。
世界が崩壊に向つてゆくと信ずることは簡単であり、本多が二十歳ならそれを信じもしたらうが、
世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。
三島由紀夫「天人五衰」より 人々はさうやつて財産が少しづつふえてゆくと思つてゐる。物価の上昇率を追ひ越すことが
できれば、事実それはふえてゐるにちがひない。しかしもともと生命と反対の原理に立つものの
そのやうな増加は、生命の側に立つものへの少しづつの浸蝕によつてしかありえない。
利子の増殖は、時の白蟻の浸蝕と同じことだつた。どこかで少しづつ利得がふえてゆくことは、
時の白蟻が少しづつ着実に噛んでゆく歯音を伴ふのだ。
そのとき人は、利子を生んでゆく時間と、自分の生きてゆく時間との、性質のちがひに
気づく。……
自意識が、自我だけに関はつてゐる、と考へてゐたあひだの本多はまだ若かつたのだ。
自分といふ透明な水槽の中に黒い棘だらけの雲丹のやうな実質が泛んでゐて、それのみに
関はる意識を、自意識と呼んでゐた本多は若かつた。「恒に転ずること暴流のごとし」。
印度でそれを知得しながら、日々のくらしに体得するまでには三十年もかかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。本多の耳は骨を蝕む白蟻の歯音を
聞き分けるやうになつた。一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ
稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ
具はつてゐることを学ぶのだ。稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。
……さうして血が失はれるやうに時が失はれてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。
ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてゐた
すばらしい時期に、時を止めることを怠つたその報いに。
さうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は
失はれてゐる。
絶頂を見究める目が認識の目だといふなら、俺には少し異論がある。俺ほど認識の目を休みなく
働らかせ、俺ほど意識の寸刻の眠りをも妨げて生きてきた男は、他にゐる筈もないからだ。
絶頂を見究める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。
三島由紀夫「天人五衰」より 意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではなからうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。
……それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
俺はこの目でさういふ人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。
何といふ能力、何といふ詩、何といふ至福だらう。登りつめた山巓の白雪の輝きが目に
触れたとたんに、そこで時を止めてしまふことができるとは! そのとき、山の微妙な心を
そそり立てるやうな傾斜や、高山植物の分布が、すでに彼に予感を与へてをり、時間の
分水嶺ははつきりと予覚されてゐた。
……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。
時間を止めても輪廻が待つてゐる。それをも俺はすでに知つてゐる。
透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これが
あの少年に対する俺の教育方針だ。
三島由紀夫「天人五衰」より 「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。「きちんとした作法で
自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちが
いいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』と
いふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふだけのことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、
そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の
口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。だからこそ、
透は十六歳から洋食の作法に習熟すべきだつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の
何ものでもない。相手に思ひきり喋らせることができればお前の勝ちなのだ。それを片時も
忘れてはいけない。
世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。お前は先輩を興がらせるやうな或る無害な偏執を
持つべきだ。機械いぢりとか。野球とか、トランペットとか、なるたけ平均的抽象的で、
精神とは何ら縁のない、いはんや政治とは縁のない、それもあんまり金のかからない道楽をね。
それを発見すると、先輩たちは、お前の余剰エネルギーのはけ口が確認できて、安心するのだ。
それについては多少大袈裟に自負心を示してもいい。
高校に入つたら、勉強の邪魔にならぬ程度のスポーツもやるべきで、それも健康が表面に浮いて
見えるやうなスポーツがいい。スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
政治には盲目で、先輩には忠実だといふことぐらゐ、今の日本で求められてゐる美徳は
ないのだからね。
三島由紀夫「天人五衰」より ――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかつたのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だつた。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。
のみならず、
『あの人の翼はあれはただのアクセサリーですよ。気にすることはありません。附合つてみれば、
ごくふつうの、常識的な、信頼できる人ですからね』
とあちこちへ宣伝してくれるのだ。かういふ口伝ての保証はなかなか莫迦にならない。
清顕も勲も月光姫も、一切この労をとらなかつた。それは人間どもの社会に対する侮蔑でもあり
傲慢でもあつて、早晩罰せられなければならない。かれらは、苦悩に於てさへ特権的に
振舞ひすぎたのだつた。
三島由紀夫「天人五衰」より しかし自殺によつて別段、自分を猫に猫と認識させることに成功したわけぢやなかつたし、
自殺するときの鼠にも、それくらゐのことはわかつてゐたにちがひない。が、鼠は勇敢で
自尊心に充ちてゐた。彼は鼠に二つの属性があることを見抜いた。一次的にはあらゆる点で
肉体的に鼠であること、二次的には従つて猫にとつて喰ふに値ひするものであること、
この二つだ。この一次的な属性については彼はすぐ諦めた。思想が肉体を軽視した報いが
来たのだ。しかし二次的な属性については希望があつた。第一に、自分が猫の前で猫に
喰はれないで死んだといふこと、第二に、自分を『とても喰へたものぢやない』存在に
仕立て上げたこと、この二点で、少くとも彼は、自分を『鼠ではなかつた』と証明することが
できる。『鼠ではなかつた』以上、『猫だつた』と証明することはずつと容易になる。
なぜなら鼠の形をしてゐるものがもし鼠でなかつたとなつたら、もう他の何者でもありうる
からだ。かうしてこの鼠の自殺は成功し、彼は自己正当化を成し遂げたんだ。……どう思ふ?
三島由紀夫「天人五衰」より 「ところで鼠の死は世界を震撼させたらうか?」と、彼はもう透といふ聴手の所在も問はず、
のめり込むやうな口調で言つた。独り言と思つて聴けばいいのだと透は思つた。声はものうい
苔だらけの苦悩を覗かせ、こんな古沢の声ははじめて聴く。「そのために鼠に対する世間の
認識は少しでも革まつたらうか? この世には鼠の形をしてゐながら実は鼠でない者が
ゐるといふ正しい噂は流布されたらうか? 猫たちの確信には多少とも罅が入つたらうか?
それとも噂の流布を意識的に妨げるほど、猫は神経質になつたらうか?
ところが愕く勿れ、猫は何もしなかつたのだ。すぐ忘れてしまつて、顔を洗ひはじめ、それから
寝ころんで、眠りに落ちた。彼は猫であることに充ち足り、しかも猫であることを意識さへして
ゐなかつた。そしてこの完全にだらけた昼寝の怠惰のなかで、猫は、鼠があれほどまでに熱烈に
夢みた他者にらくらくとなつた。猫は何でもありえた、すなはち偸安により自己満足により
無意識によつて、眠つてゐる猫の上には、青空がひらけ、美しい雲が流れた。風が猫の香気を
世界に伝へ、なまぐさい寝息が音楽のやうに瀰漫した……」
三島由紀夫「天人五衰」より 老人はいやでも政治的であることを強ひられる。七十八歳はたとへ体のふしぶしが痛くても、
愛嬌を見せ、上機嫌であることによつてしか、無関心を隠すことができない。本当の大前提は
無関心だつた。この世界の莫迦らしさに打ち克つて生きのびるには、それしかなかつた。
それは終日波と雑多な漂流物とを受け入れる汀の無関心だつた。
お追従とおちよぼ口に囲まれて生きるには、まだ自分にすりへつた圭角が残つてゐて、些かの
邪魔をする、と本多に感じられることもあつたが、それも徐々になくなつた。あるのは圧倒的な
莫迦らしさだけで、卑俗が放つ匂ひは混和されて、すべて一ト色になつてゐた。この世には実に
千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識に
あふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、
狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の
最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。本多もその一人にはちがひなかつたが、
人とちがつてゐるのは自他に対する異様に鋭い嗅覚だけだつたらう。
三島由紀夫「天人五衰」より 何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。僕は愕かない。
ところでこの世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。
百子は、急に食欲を失くした飼禽を見るやうに、心配さうに僕を見つめてゐた。彼女は幸福は
大きなフランス・パンのやうにみんなで頒つことができるといふ、低俗な思想に染つてゐたので、
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だといふ数学的法則を
理解しなかつた。
僕は人の行かぬ一角を求めて、寝覚め滝のそばへ下りた。小滝は涸れ、滝の落ちる池は澱んで
ゐるのに、水面がたえずちり毛立つてゐるのは、無数のあめんばうが水面を縫つて、あたかも
糸の引きつれのやうな紋様を描いてゐるからだつた。
感情さへ持たなければ、人間はどんな風にでも繋り合ふことができるのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 僕は雪崩る。
雪が僕の危険な断面を、あまりに穏和なふりをして覆つてゐるのに、いや気がさすから。
しかし僕は自己破壊とも破滅とも縁がない。僕がこの身から振ひ落し、家を壊し、人を傷つけ、
人々に地獄の叫喚を上げさせるその雪崩は、ただ冬空がかるがると僕の上へ齎らしたもの、
僕の本質とは何の関はりもないものだからだ。しかし雪崩の瞬間に、雪のやさしさと、僕の
断崖の苛烈さとが入れかはる。災ひを与へるのは、雪であつて、僕ではない。やさしさであつて、
苛烈さではない。
ずつと昔から、自然の歴史のもつとも古い時点から、僕のやうな無答責の苛酷な心が
用意されてゐたのにちがひない。多くの場合は、岩石といふ形で、その至純なものが
すなはちダイアモンドだ。
しかし冬の明るすぎる日は、僕の透明な心にさへしみ入る。何ものも遮るもののない翼を
わが身に夢みながら、僕の人生では何事も成就するまいといふ予感にとらはれるのは
かういふ時だ。
僕は自由を得るだらう。が、それは死とよく似た自由にすぎない。この世で僕が夢みたものは
何一つ手に入るまい。
三島由紀夫「天人五衰」より 僕の明晰を見ると、すべての人間が裏切りの欲望を感じるだらう。僕ほどの明晰を
裏切ることぐらゐ、裏切りの勝利はないからだ。僕に愛されてゐないすべての人間が、
僕に愛されてゐると信じ切つてゐるだらう。僕に愛された者は、美しい沈黙を守るだらう。
世界のすべてが僕の死を望むだらう。同時にわれがちに、僕の死を妨げようと手をさしのべる
だらう。
僕の純粋はやがて水平線をこえ、不可視の領域へさまよひ込むだらう。僕は人の耐へえぬ苦痛の
果てに、自ら神となることを望むだらう。何といふ苦痛! この世に何もないといふことの
絶対の静けさの苦痛を僕は味はいつくすだらう。病気の犬のやうに、ひとりで、体を慄はせて、
片隅にうづくまつて、僕は耐へるだらう。陽気な人間たちは、僕の苦痛のまはりで、
たのしげに歌ふだらう。
僕を癒す薬はこの世にはなく、僕を収容する病院は地上にはないだらう。僕が邪悪であつたと
いふことは、結局人間の歴史の一個所に、小さな金色の文字で誌されるだらう。
三島由紀夫「天人五衰」より そのまま老人は同じ歩度で遠ざかつた。老人自身は気がつかなかつたのではないかと思ふが、
家の門をすぎて五米ほど行つてから、大きな墨滴を落したやうに、外套の裾から何かが
雪の上に落ちた。
黒い、鴉らしい鳥の屍骸が落ちてゐた。九官鳥だつたかもしれない。僕の耳にさへ、瞬間、
ばさつと、落ちた翼が雪を搏つやうな音がきこえる錯覚さへあつたのに、老人はそのまま去つた。
そこで永いこと、まつ黒な鳥の屍が僕の難問になつた。その位置はかなり遠く、前庭の梢に
遮られ、しかもふりしきる雪がものの影を歪めてゐるので、いくら瞳を凝らしても、目が
確かめる力には限りがあつた。双眼鏡でも持つて来ようか、それとも外へ出て行つて
確かめようか、といふ考へにとらはれながら、何か圧倒的な億劫さに制せられてゐて、それが
できなかつた。
何の鳥だつたらう。あまり永く見詰めてゐるうちに、その黒い羽根の固まりは、鳥ではなくて、
女の鬘のやうにも思はれだした。
三島由紀夫「天人五衰」より 美女だと信じてゐる絹江も、愛されてゐると信じてゐる百子も、現実を否定してゐる点では
同じだつたが、他人の助力が要る百子に引きかへて、絹江にはもう他人の言葉さへ要らなかつた。
百子をあそこまで高めてやることができたら! それが僕の教育的情熱、いはば愛だつたから、
「愛してゐる」といふことはまんざら嘘でもなかつた。しかし百子のやうに、現実肯定の魂が
現実を否定したがるのは方法的矛盾ではないだらうか。彼女を絹江のやうな、全世界を相手に
闘ふ女にしてやるには、並大抵のことでは行くまい。
しかし「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に
何かの変質をもたらすものだ。僕はほとんど愛してゐるかのやうに感じ、愛といふ禁句の
この突然の放埒な解放に、心の中の何ものかが酔つてゐるやうにも感じた。下手な初心者の
操縦に同乗して、万一の場合を覚悟せねばならぬ飛行機訓練士に、誘惑者といふものは
いかに似てゐることか。
三島由紀夫「天人五衰」より 九月のはじめ家へかへつたとき、百日紅の満開の花が、そのあたかも白癩の肌のやうに円滑に
磨き上げた幹に映じたのを見るのを、たのしみにしてゐたのに、いざかへつてみると、
百日紅のない庭があつた。前の庭とはまるでちがつてしまつたその新らしい庭を作つたのは、
他ならぬ阿頼耶識にちがひない。庭も変転する、と感じた瞬間に、別のところからどうしても
制御できない怒りが生じて、本多を叫ばせたのだが、叫んだときから本多は怖れてゐた。
(中略)
「あの木はもう年寄になつたから、要らないんだ」
透は美しい微笑をうかべた。
かういふとき、透は厚い硝子の壁をするすると目の前に下ろすのである。天から下りてくる硝子。
朝の澄み切つた天空と全く同じ材質でできた硝子。本多はもうその瞬間に、どんな叫びも、
どんな言葉も、透の耳には届かないことを確信する。むかうからは開け閉てする本多の
総入歯の歯列が見えるだけだらう。すでに本多の口は、有機体とは何の関はりもない無機質の
入歯を受け入れてゐた。とつくに部分的な死ははじまつてゐた。
三島由紀夫「天人五衰」より 何もかも知つてゐる者の、甘い毒のにじんだ静かな愛で、透の死を予見しつつその横暴に
耐へることには、或る種の快楽がなかつたとはいへない。その時間の見通しの先では、
蜉蝣の羽根のやうに愛らしく透いて見える透の暴虐。人間は自分より永生きする家畜は
愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。
「…でも本当のところ何と思つて?……己惚れていらしたんでせう? 人間つて、自分にも
何かの取柄があるといふことは、すぐ信じたがるものですからね。それまであなたが心に
抱いてゐた子供らしい夢と、私たちの申し出とが、うまい具合に符合したやうな気が
したんでせう? あなたが子供のときから守つてゐたふしぎな確信が、いよいよ証拠を
見せたやうな気がしたんでせう? さうでせう?」
透ははじめて慶子といふ女に恐怖を抱いた。階級的圧迫などはみぢんもなかつたが、多分
世の中には、何か或る神秘的な価値といふものに鼻の利く俗物がをり、さういふ人間こそ
正真正銘の「天使殺し」なのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 人はそれぞれ目的を持つて生きてゐて、自分のことしか考へないのですよ。尤も、一番自分の
ことしか考へないあなたが、ついその点で行きすぎて、盲らになつてゐたのでせうが。
あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。
例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は
『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んで
くれる筈ですわ。
あなたはそんな償ひの要らない天才だと、自分を思つて来たんでせうね。何か人間世界の上に
泛んでゐる一片の、悪意を含んだ美しい雲のやうに、自分を想像して来たんでせうね。
三島由紀夫「天人五衰」より 精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の
病だといふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な
病ではなくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉髄の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。
人はどうして老い衰へてからはじめてそのことを覚るのであらう。肉体の短い真昼に、耳もとを
すぎる蜂の唸りのやうに、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れて
しまふのであらう。たとへば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに
恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のやうにたばしる水滴を眺めてゐるとき、その
生命の汪溢自体が、烈しい苛酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであらう。
三島由紀夫「天人五衰」より 今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と
思ひ当つた。この同義語がお互ひにたえず相手を謗つて来たのはまちがひだつた。老いて
はじめて、本多はこの世に生れ落ちてから八十年の間といふもの、どんな歓びのさなかにも
たえず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。
この不如意が人間意志のこちら側またあちら側にあらはれて、不透明な霧を漂はせてゐたのは、
生きることと老いることが同義語だといふ苛酷な命題を、意志がいつも自ら怖れて、
人間意志自体が放つてゐた護身の霧だつたのだ。歴史はこのことを知つてゐた。歴史は
人間の創造物のうちでもつとも非人間的な所産だつた。それはあらゆる人間意志を統括して、
自分の手もとへ引き寄せながら、あのカルカッタのカリー女神のやうに、片つぱしから、
口辺に血を滴らせて喰べてしまふのであつた。
三島由紀夫「天人五衰」より われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。火中に死んだ今西は、いかにも彼らしい
軽薄な流儀を以て、このことに皮相ながら気づいてゐた。そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。
しかし本多は何たる餌だつたらう! 何たる滋養のない、何たる味のない、何たるかさかさの
餌だつたらう。本能的に美味な餌であることを避けて周到に生きてきた男は、人生の最後の
ねがひとして、自分の不味な認識の小骨で、喰ひついてきた者の口腔を刺してやらうと
狙ふのだが、この企図も亦、必ず全的に失敗するのだ。
ベナレスで本多が見たものは、いはば宇宙の元素としての人間の不滅であつた。来世は、
時間の彼方に揺曳するものでもなく、空間の彼方に燦然と存在するものでもなかつた。
死んで四大に還つて、集合的な存在に一旦融解するとすれば、輪廻転生をくりかへす場所も、
この世のここでなければならぬといふ法はなかつた。
三島由紀夫「天人五衰」より 清顕や勲やジン・ジャンが相次いで本多の身辺にあらはれたのは、偶然といふもおろかな
偶然だつたのであらう。もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質の
ものであつたとしたら、一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を
踏むにも及ばない。それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味する
からである。来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて
一旦卓上に散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ
落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には今や
思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。
三島由紀夫「天人五衰」より 狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身をひそめてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。
『自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ
観念の想である。あるがままを見、あるがままを心に刻まう。これが自分のこの世で最後の
たのしみでもあり、つとめでもある。今日で心ゆくばかり見ることもおしまひだから、
ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう』
『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ』
本多は極度の現実感を以てさう考へた。
自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。
三島由紀夫「天人五衰」より 「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに
見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」
「しかしもし、清顕君がはじめからゐなかつたとすれば」と本多は雲霧の中をさまよふ
心地がして、今ここで門跡と会つてゐることも半ば夢のやうに思はれてきて、あたかも
漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去つてゆくやうに失はれてゆく自分を
呼びさまさうと思はず叫んだ。「それなら、勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンも
ゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。
「それも心々ですさかい」
これと云つて奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声が
ここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ
何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……
三島由紀夫「天人五衰」より 皆さんは月に一つぺん位、大きな入道雲を御覧になるでせう。入道雲はおどけた人のやうな顔を
してゐます。あれは、淋しく弟と暮らしてゐるお母さんを笑はせてなぐさめるために、
月に一度来るときには必らずお面をかぶつて来る男の子の姿なのです。
一度あのお面をとつて見たいものですね。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳(推定)「大空のお婆さん」より
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「彩絵硝子」より
死のもたらす不在はそのすみずみまでが、あらけない不吉な確信にみたされてゐる。それは
はげしい風のやうにすべてをそのなかに見失はせてしまふ。だがそこからは再びなにものも
生れてはこないのであらうか。それらのおもひでを耕す鍬を人はもう失くしてしまつたので
あらうか。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「青垣山の物語」より
ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「祈りの日記」より 恋のはじめといふものは鞦韆(ぶらんこ)の下の花のやうなものである。自分で鞦韆を
うごかしておきながら、花をつむことの難しさに、わざと大きくゆらして花をとりたい気持を
自分自身に隠さうと見栄を張るのだ。
愛情の爆発でない嫉妬といつたら、形式的な虚栄(みえ)の混つたものではないだらうか。
わづかにのこつた薄い愛情からも嫉妬は炎え出すものであるが、愛情が薄ければうすいほど、
その形式的な気持や虚栄が濃くなつてくるものとはいへないだらうか。世の人の、
「最も激しい嫉妬」といふものこそ純粋な嫉妬の姿なのである。
恋敵への嫉妬は帰するところ、盗人への怒りである。恋人への嫉妬はそんな単純なものではない。
寛容と憤怒、失望と敗者の自己嫌悪、その他のあらゆるものが激し合ひ融け合ひ、彼あるひは
彼女の上に注ぎかゝる。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より >>135の前
女は愛するだけが最大の幸福だ――何といふ腹だゝしい定理であらう。
いかさま恋といふものは自分の想像も及ばないやうな深いところに現はれて来るものなのである。
真実の恋とは自分では気付かないものなのだ。恋の最初の身振はいささかの無理を伴つて来る。
人々は強ひて、自分の狂ほしい気持をその深い井戸のなかへもつて行かうとする。
恋は保護色であらゆる色のなかにしみいつてゐるものなのだ。すべての女たちのやうに
恋人に対してわれ知らず自分の印象をよく見せようにしてゐる天性が彼女のなかに果して
少しもなかつたか。恋といふものは決して裸かでは為されないものである。身につけあつてゐる
さまざまな鎧がいつか鎧ではなくなつて、それが攻撃の道具となり手引となり、身体の
一部と相手に思はせるやうになるものなのだ。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より 儂がまだまだずつと若い頃のことぢや。勿論、こんなに腰も曲つて居らんでな。白いひげなんか、
一つもなかつた時分ぢや。いつ頃のことか忘れて了うたが、その晩は全く妙な夜ぢやつた。
月はうまさうな朧月ぢやつたとおぼえとる。星が沢山々々儂の家の屋根にあつまつての、
まるで話しでもしとるやうぢや。
儂はひよんな事ぢやと思うたから、下駄をつつかけて庭へ出て、一生懸命星を見とつたが、
どうも不思議でならん。それでな、上を見て、ぼんやりしとつた所が、おやおや何と
気味の悪いことぢや、足下の叢から人の声が聞えてござらつしやる。
じーつと見て居つたらの。竜胆(りんだう)の葉のかげで、小人どもが踊つてゐるのぢや。
真中に、角力の土俵のやうなものが有つて、一人が踊ると、踊らん小人らは恰好をなほしたり、
注意したりして、まあ、やかましいのなんのつてお話にならんのぢやが、その中の一人が
こんなことを言ひよつたのぢや。
『今晩“萩ヶ丘”でやる舞踏会はな、十二時きつかり始まるで、それまでによう練習
しとかんといかん』
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「緑色の夜」より なんというたらいゝぢやらうか。
その綺麗なことこと。錦の布の金糸、銀糸をほどいて、それを細う切り、ぱアーつと
散らばしたやうぢや。
気の早い連中がこんなにも多いと見えて、未だ一時間あるのにもう踊りのけいこをしとる。
大分長い間たつた。十二時十分前頃にな。ほれ、珍客どもが揃つてござつたわ。
湖底の洞にすむ竜の背中で暮してゐる小人は、竜のキラキラする鱗をつづつて作つた
甲冑のやうな洋服を着て来居つた。
橄欖(かんらん)の木に居る妖精は、葉の面を剥いで仕立てた、つやのある、天鵞絨
(ビロード)のやうなのを、大きな樹の叉に住まつて山蚕を飼つとる小人は、そのまゆで
こしらへた良い肌ざはりの絹の衣裳を着て来るのぢや。
水晶の沢山ある山に住んどる奴は赤い木の実をつぶして染めた紅衣裳に、水晶の粉を
ちりばめて来たが、まあ、その美しかつたことと云つたら。口では話せんわい。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「緑色の夜」より 祖母は神経痛のために風にあたるのを嫌つたので、障子は悉く閉め切られ、光は殆ど得られなかつた。
わたしは祖父のところへ行き、書籍をよみをはつたのをうかゞつて「おぢいさまはこんなに暖かいのに何故
こたつなんかに這入つていらつしやるの」と言ふと、祖父は小さく笑ひ乍ら私を見た。わたしは炬燵蒲団の上に
細々と砕けてこぼれてゐる正午に近い陽光を指さした。祖父とわたしとでゆつくりと庭へ下りる前にわたしは、
祖母の居間の障子をそうおつと明け放つた。風は草の葉を揺がす程もなく、祖母は徐ろに庭先を眺めた。そこには
新緑が春光に反射されて、さふあいやのやうな光を放ち、庭木は逞ましい腕をさしのべて蒼穹に向つて伸び
行きつゝあつた。その木の間に真赤なひらひらするものが、こまかい枝々をとほして見えた。祖母が何ときいたので、
山椿ですよ、と答へた。まあ、山椿! もう山椿が咲き出す時分になつたかねえ。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より わたしはその下に行つて、手頃な小枝を二三本手折つた。びろうどのやうな不透明な柔かさがしつとりと指先に
吸ひついた。――祖母は女中に一輪差を持つてこさして自分がさし、顔をそうーつと花のそばへ持つて行つた。
葩一枚一枚には、春光がすつかりしみ込んでゐた。祖母の面(おもて)は、眼(まなこ)は俄かに若々しくなり
再び一輪差の中からそれをとり出していつまでももてあそんだ。
祖父は涼亭(ちん)へ行つて了つたので、わたし一人芝生の上にとりのこされた。芝の匂ひはむせるやうに
激しくて、一匹の蟻がよたよたと嬰子のやうな恰好して歩いて来た。怪我をしてゐるらしかつた。わたしは急に
いとほしくなり、そうおつと掌にのせてやつて蠢(うご)めいてゐる小さな生物の生命のよろこびをたのしんだ。
祖父は涼亭の石段をことことと下りて来た。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より 三島由紀夫のレター教室。
セクースのお誘いの手紙が妙にエロくてなまなましくて良かった。 「やあ子」が泊りに来るときはその八畳の中央に床をならべた。康子の「す」の音がうすつぺらな感じを与へるので、
「やあ子」といふ彼女の撫肩そつくりな発音の愛称を、私は好いた。風呂から上るとこの小さな女の子は、洋服を
きちんと畳んで枕許におくので、おまんはそれを模範として私にも所謂「いゝ癖」をつけさせようとした。
癪にさはつて私がいふのである。
「お床にいれる方があつたかくなるからボクがいれてあげよう、やあちやん」
気のいゝ彼女はこの親切にさからへない。翌朝、私の床のなかに筋目も何もなくなつたしわくちやな洋服を
見出だして、おまんは憤慨し、やあ子は泣き出すのだつた。
大人つぽく肱で頬つぺたを支へながら、やあ子は心臓を下にし、私は左肩を上にして向ひあひ、お互に床ふかく
埋つて千代紙みたいな会話を交はした。それは千代紙のやうに稚拙な色をもち、金粉をかけ、皺がより、断片的な、
子供特有のあの会話の型式なのだ。私は「天井の木目」がこはくなくてすむところから、かうした夜々を好きに思つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より ひどく心配さうな目附で彼女が云ふのである。「沙漠のね」
「沙漠の?」
「なんだつたかしら」
「え?……」
「ラクダにのつかつて」
「隊商!」
「隊商がね、ラクダでザックザックつてくるでせう。その音がとほくからきこえるの」
「ほんたう?」
「やめようとおもつてもきこえるの。上をむくときこえないけれど枕を耳にあてるときこえてよ。近くなつて
くるわよ、だんだん」
「きこえない」
「あらへんね。やあ子とおんなじ方むいたら?」
「きこえない」
「へんね、やあ子ずつときこえてゝよ。また近くなつた……こはあーい」
さう云ふなり彼女は耳をおさへて私の床へはひつてきた。私は強がらないわけにはいかなくなり、
「大丈夫」とおまんの口真似をするのだつた。
その幻聴はやあ子の貧血の前駆症状だつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より 玩具をみるときの子供の目つきは、ちやうど美しくめづらしい石をみつけたときの原始人の目付に似てゐる。
子供が大人からその玩具の使用法をおそはつて暫く無意識に何度もねぢを廻しては殆ど目的のぼやけた「興味」を
傾けたのち、はじめて子供はその玩具の本当の使用法を知るに到るのだ。玩具は玩具函のなかにあるものではない。
玩具は子供のなかにゐるものなのだ。母親たちはわづか二、三日でその玩具の機械(からくり)をまはさなく
なつた子供に悲観してはならない。玩具がもつてゐる不変の機械作用は、ほんの外面のものに過ぎないのだ。
玩具を了解する瞬間に子供にとつてそれは有形のものではなくなり、無形の抽象物……即ち消極的に生活の一部を
支配し、ある重要なつとめを有(も)つものと変る。かくして私のまはりの透明体の城壁の一部――それを
見透かすときあらゆる生物が植物のやうにみえ、あらゆる事物が不自然に拡大されてみえる城壁の一部として、
その玩具があらたに加はつたのを、私はすぐさま感じた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より 召使たちの別棟は、塀近い御長屋風の二階建で、おまんは塀へむいた二階の二間を占有してゐた。私の部屋の傍から、
長い覆附の渡廊下が、その棟に続いてゐた。祭の日に行列の通る時刻を予め問ひ合はせ、その半時ばかり前から、
おまんが私を迎ひに来るのだつた。これといつて刺戟のない日々に引き比べて、その前の晩、私はなかなか
ねつかれなかつた。ことにおまんが自分の部屋を「仕度し」にいつてゐる小一時間、私はひとりでそこへ行つて
了つてはつまらない気がするので、あのお年玉を待つときそつくりな気持でおまんの迎ひを待ちこがれてゐた。
倦怠と焦慮の様子は、両者とも時間をもてあましてゐる点で大へんよく似てゐるものである。(中略)
おまんの袖に抱かれるやうにして、「御前様にみつかりなさると大変でございますよ」いふおまんの声に
せきたてられて、一気に駈けぬける廊下は長かつた。杜鵑花(さつき)の植込の、非常に赤いのが目に残つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より 几帳面で綺麗好きなおまんは、自分の部屋へ私が来るといふので、女の部屋特有な調度類は皆片附けて、隅々まで
掃除したうへ、道路に面した窓を一杯にあけはなしておいてくれた。なかんづく懐かしかつたのは、その時
用意してくれるウエファースだつた。ふだんの「お茶」にはウエファースなぞあまりつかないのに、祭のたびに
おまんが揃へておいてくれるのは決つてウエファースだつた。それも子供じみた秘密な儀式の、たのしい
「しきたり」の一つになつた。
私は窓ぎはにちよこなんとすわつて、祭のさきぶれの、ひどくあけつぱなしな雑踏をながめながら、うすい
九重(ここのへ)に頻りにウエファースをひたしては喰べてゐた。さうしてゐる私は、また自分の背中いつぱいに
注がれてゐる、いとしくてたまらないといふおまんの目附をあたゝかく感じて幸福に思つた。
疎らな竹藪と丈の高いひばの並木は街道のざわめきをよく見せた。裏二階はどこも開け放され、物干は満員だつた。
乾物のいろどりの間に、人の顔がいつぱい詰つてゐるのがゴシック模様のやうだつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より 焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で
走つて居ました。
私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。
陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を
被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが
するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、
眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。
やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。
これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、
《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より 体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。
そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。
道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、
体のもまれやうが大変でした。
やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。
そして、せまい器の中へ納まりました。
さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、
器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。
それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに
なつて了つたのです。
私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が
のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より 面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。
捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、
黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。
泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。
「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」
私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。
「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、
この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、
さがし出して上げませう」と云つて別れました。
やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より 闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に
早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。
川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、
多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。
それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。
ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。
又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも
ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。
小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、
私達はするすると、荻の間を進みました。
やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに
気付いたのです。
そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。
海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに
こんな方法もあつたのでした。
春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に
高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。
私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より 川端やお堀端やどれもこれも同じ顔立をしてゐるところがふるさとのかなしい人々を思はせるゆがんだ軒並や、
築泥や舟板塀だのに沿うて走つてゐる電車は、ハンドルをまはしつゞけると何度も同じ汽車が鉄橋のうへに
出てくるあの玩具にも似て、かうした退屈な町ではどの電車も一台だと信じてうたがはぬだらうと思はれるほど、
みな同じにいたましくペンキが褪せ、いつしんにはしつてゐた。お客の影は、ものゝ二三人しかみえない。
凸凹なみどりのシイトが、まのびした長さでひろがつてゐる。わたしはかうした町へきてふるい空々(ガラガラ)な
電車にのるたびに、もう何年もあはぬなつかしい人にあへるやうな気がしてならない。稚ないころすでに
としとつてゐたそれらの人たちは、あるひはもうこの世にゐないのかもしれないけれど、昔よりもつと若い、
さうして古風な皃立(かほだち)に地味な小紋の着物をきた束髪の姿で、おせんかなにかの土産包を片手にしながら
よろよろと急な乗降口を、のぼつてくるやうな気がしてならない。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より 髪を高い「行方不明」に結ひあげたあの上品な吃りのお婆さんは、祖父時代の芸者あがりの富士見町の秋江さんは、
それからいつも植木をみやげにもつてくる昔道楽ものでならしたといふへうきんな小父さんは、いつたいどこへ
行つてしまつたのだらう。聞かぬ名前のひつそりとした停留所を、わき目もふらず電車がすぎてしまふと、
その停留所ちかくの町の一廓にあゝいふ人々の表札がのきごとにかけつらねてあるやうな気がする。生垣や
ひくい板塀ごしに、さういふひとたちのひいてゐるもう拙なくなつた三味線の音が、なにかおどけたものゝやうに
きこえてきはしないか。……だがその停留所をすーつとすぎてしまつたことに、悔いやのこり惜しさを感じつゝも、
何だかそれをみきはめずにおいたことが、ひどく安心なやうな気持がうまれてくる。と、それにしたがつて益々
つよい色彩でさうした空想がにじみ出てくるのであつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より ひとむかしまへ西片町時代の奉公人であつたのが、すこしへんになつて暇をやつてからといふもの、ちかごろは
大分よくなつたと毎年々々たづねてくるその男に、幼な心にも「まだヘンだ」といふ気持をすぐかんじた。
勝手口から女中連を大声でからかひながら、それでも小綺麗な唐草の棉風呂敷片手にはひつてきて、奥へ挨拶に
ゆくまではよいのだが。……
「けふらは大奥様のお好きな枝豆をうんともつてめえりやした」といふ。この寒さに枝豆もないものだと祖母が
おもつてゐると、すばやく兼さんは包をあけひろげてゐた。中味といふのが汚ない菜つ葉と小如露と、子供の
バイである。みるなり「そらいつもの兼さんがはじまつた」と祖母と女中が笑ひくづれるのへ「ほうれ女房め
いれまちがひしよつたわい」と頭をかきながら一旦調子をあはせるものゝ、またすぐけろりとして十五、六分
話しこんだすゑ、ふいにかへつてゆくのであつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より 落語の「堀之内」を地でゆくやうだと、奉公人たちは笑ひあつたが、その兼さんも、「死んだ」といふあやふやな
風聞(うはさ)ばかりのこして、祖母の死後つひぞ姿をみせなくなつてしまつた。
どこの河畔の何町だかすつかりわすれたあひかはらずガラ空きの電車に足をふみいれてぎくりとした。
古半纏(ふるはんてん)の兼さんがこつちむきにすわつてゐるのだ。妙なことにひとのかほさへみれば
「坊ッさ、大きなられましたなあ」と大声でいふ筈のが、目の前にみてゐながら声ひとつかけようとしない。
大体目のピントがすつかりはづれてゐるのだ。少々頬のあたりなど狂暴でうすきみわるかつた。前歯が一本
戸まどひして、唇の間からたれてゐた。胃癌になつた鷄といふ感じがした。車掌が前をとほると首にぶらさげた
合財袋から無意識的に小銭をとりだす。なれつこになつてゐるとみえて車掌はつりを袋のなかへおしこんだ。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より 終点で下車してわたしはしばらく尾(つ)けてやらうとおもつて、ちやうど同じ方向であるのをさいはひに川端を
あるいていつた。川に映つた空のなかには燻製のやうな太陽がいぶつて流れてゐた。空にうつつたその川のやうに、
曇天のなかにひときは濃い、ひとすぢの雲が澱んでゐた。半纏を柳と平行になびかせてうつむきながら狂人は
あるいた。それがふいに立ち止つたのでわたしはびつくりした。
川のなかをそはそはのぞきこんでゐる。
ときふに膝をたゝいて廻れ右をして、おどろくわたしを尻目にもかけず、すたすた目のまへをすどほりし、
折から今来た方向へ走つてゆくかへりの電車にとびのつて了つたのである。この一幅のカリカチュアのなかの自分に
苦笑してふりかへつたわたしの視界を、電車はいつもの暗い音をひゞかせながら、不器用にとほのいて行つた。……
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より お父さんが大阪へ転任したので、それからちよいちよい関西旅行をするやうになつたある夏のこと、お父さんは
わたくしをお役所へつれていつてくれました。仔熊をみたいとせがんだからです。その仔熊は――若しおぼえて
いらしたら、大阪の新聞や、その社のコドモニュウス映画で、ごらんになつた方々も、ずいぶん多い筈だと思ひます。
お父さんは仔熊をうつした写真を、よく東京へもつてきました。お役所の女のひとだのお父さんだのが、
眩しいやうなコンクリイトの空地のうへで、熊にお菓子をやつてゐるところでした。さうしてどの写真の熊も
チンチンをして一寸首をかしげて、まだ小つぽけな両手の爪を、全部だらしなく出してゐました。
赤か、それとも派手な模様のリボンを、首につけてやりたいやうでした。
お役所のAさんは話してくれました。
「あんまり深い山でも有名な山でもありませんけど、大阪近県の山おくで、きこりが木をきつてゐたのです。
するとどつかで、コリッコリッといふ音がしてきました。…
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より (中略)
ふいに明るいところへ来て眩しかつたものか、目をしよぼしよぼさせた仔熊が、耳だのあるかないかわからないほどな
尻尾だのをぴくぴくうごかして、両手でつかんだきいろい木片をコリッコリッと噛みながら出てまゐりました。
さきほどからの音はこの音だつたんです。
おいしくもなさゝうなその木片を、さも大事さうにカジつたりシャブつたりなめたりしてゐるのをみると、
きこりはかはいらしくつてふきだしさうになる一方、大へんかはいさうにも思ひました。きつとたべるものが
なくなつたので空きぬいたお腹をだますために、そんなものをかじつてゐたのに相違ないのです。きこりは熊を
抱き上げました。すると真暗な、小さな革コップをかぶせたやうな鼻先を、しきりにきこりのえりだのふところだのに
つつこみました。手を出してやるとふんふんといひながら、ふざけるつもりか喰へ物と思つたのか、そつと
やはらかく指をかみます。
ありあはせの縄で傍らの木にひとまづつないでおき、お弁当なんぞを分けてやつたのち、仕事がすむとそれを抱へて、
村里へ下りてゆきました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より (中略)
営林署の大竹さんがあるいてきました。
『へ、だんな熊ッ子です』ときこりは、いちぶしじゆうつかまへた話をしました。どれどれとわらひながら
大竹さんは熊を抱かうとして手をのばしました。すると口にくはへてゐた煙草をおとしてしまひました。大竹さんが
ちよつと惜しさうにしてそれをみますと、熊も心配さうな顔をして、自分が落し物をしたやうに下をみました。
大竹さんはアハヽハと笑ひました……」
Aさんはそこまで話して自分もをかしさうに笑ひながら、
「営林署でゆづりうけてそれから大阪の、この営林局へつれてこられたんですよ……」といひました。
背のひくい女のひとゝAさんとの案内で、わたくしは熊を見に行きました。廊下の両側にはタイプライタアの音が
つつかゝるやうにやかましく響いてゐました。(中略)
小さいドアをあけて二三段下りると、地べたへぢかの屋根付廊下がまはりを囲み、バラックがみえてゐて、
ちよつとペンキの匂ひもする、一面セメントのたゝきのやゝ広い場処へ出ました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より 仔熊はそのはじつこの岩乗な檻のなかでオォン・ウォンとないてゐました。営林局へ来てからといふもの世話を
一ト手に引き受けていちばん懐かれてゐる小使さんが、わたくしたちを待つてゐました。(中略)
やがて小使さんが小さな金だらひに御飯でつくつた糊をたんといれたのをもつてきて、をりの戸をあけますと、
熊はなれなれしく小使さんにすりつきました。それをいれてやるとみるまにパクパクたべてしまひましたが、
いよいよ手が要用になつて前脚でたらひを抱へ、顔をすつかりつつこんで隅から隅まできれいにしてしまひました。
お食後には林檎をひとつやりました。一寸爪先で皮をむくやうなまねをしましたけれども、思ひ直したやうに
ガブリとかみついて芯から何からみなたべてしまひました。
「熊を出しませう」と小使さんが云ひました。わたくしはもうちつとも熊がこはくなくなつてゐましたから、
ニコニコ笑ひました。
「あんよはお上手」なんぞと言はれながら小使さんに前脚を持たれると熊は困つたやうな顔をして立つたまんま
危なつかしげに出てきました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より 足の裏のぶよぶよした灰色が、そのとき日に光つてまつしろに濡れてみえました。鎖をつけて小使さんが引つぱつて
あるきました。
「また梯子のぼりさせようぜ」と云つて別の小使さんが梯子をもつてきて屋根にかけました。満腹で御機嫌に
なつたので、熊は云ふとほりになりました。ウヴォオンと呟やいて梯子のまへにチンチンすると、屋根のうへの方を
まぶしげに眺めながら、手招きしつづけてゐるやうな前脚をそつと梯子にかけ、それからはすらすらと三四段
上りました。
もうそれ以上はのぼれないとわかると熊は恨めしさうにトタン屋根のまぶしい反射を見上げて、かへりはひどく
用心ぶかく下りてきました。
……そのときむかうの出口から給仕さんがやつてきました。「お父さんがお呼びですよ」
……わたくしは何度も何度も熊のはうを見ながら、のこりをしさうにその扉の前の段段を上つてゆきました。
熊はねぶられたやうな眩しい目付をして一寸わたくしを見ましたが、なんだつまらないと云つた顔付で、また
むかうを向いて歩いて行きました。……
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より (中略)
あるときお父さんが大阪からかへつてきて夕食のときに申しました。
「あの仔熊は室垣さんとこへ払下げちやつたよ」
「まあ何につかふんでせう、まさか毛皮にするんぢやないんでせうね」とお母さんがいひました。(中略)
室垣さんといふのはお父さんの高等学校時代からのお友達で、温泉の会社をやつてゐました。その会社では
温泉地に宿屋なんぞを経営してゐるのださうで、そんなところへ仔熊は買はれて行つたものとみえます。
「こんどつから大阪行つてもつまんないな」とわたくしが言ひましたらお母さんは、
「熊の毛皮は冬ころしたんぢやないと毛がぬけてだめなんですつて」と別なことをいひ出しました。それをきくと
なんだかあの仔熊はどうしても皮をはがれなけりやならないやうな気がして来て可哀さうで御飯がたべられませんので、
水ばかりのんで流しこんでゐました。
お父さんは新聞に夢中になつて活字のうへにひとつごはん粒をこぼしました……。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より 十二月のなかごろに室垣さんは久し振りにたづねてきました。そしてあしたから××といふ山の温泉へいきませうと
いひました。お正月もそこですごすつもりで、学校が早くお休みになつたわたくしはお父さんと室垣さんとで
さきに行き、妹や弟たちもお休みになつてから、お母さんといつしよにやつてくることになりました。(中略)
駅には宿の番頭さんや二、三人のひとが迎へに来てゐました。鈴蘭灯がつゞいてゐる町をぬけると、そのへんは
大へん静かでした。早くも梅のつぼみがふくらんでゐました。宿はまつしろい谷川をみおろして、古びた土橋の
よこにたつてゐました。
わたくしはお風呂にはひるまへに、熊をみにいきました。
「さあさあどうぞ、こちらですわ」とお女将さんが案内してくれました。いちど玄関においてお客さまにみせて
ゐたのですが、おびえてちゞこまつてばかりゐるので、人の少ないこつちの内庭へ、移したのだといつてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より それは宿屋から渡り廊下でつゞいてゐるお女将さんたちの家の、ごく内輪な庭で、茶梅(ささんくわ)の白と
鴾(とき)いろの花が、落ちついた濃みどりの葉のあひだに、少しちりかけてゐました。文鳥がかつてありました。
三万を棟に囲まれた庭の隅に、営林局のころよりはずつとしやれた檻にいれられて熊はゐました。銅板に彫つた
トミィといふ名札がうちつけてあるところをみると、この仔熊も「トミィ君」になつたとみえます。わたくしが
トミィ、トミィや、と呼びますと、寄つてきて前とおんなじのクスンクスンフンフンをやりましたから、
かはいらしくてだつこしてみたくさへなりましたが、何分大へん大きくなつてゐてかみつかれる心配もなくは
なささうでした。
おかみさんは、
「オヤオヤはじめてン人には見向きもしないのにお坊ちやんばかりには大へんな甘つたれですわ」と云つてゐました。
わたくしがさいしよにそれを見たとき感じたのがほんとになつて、熊は首にまつ赤な絞りの首巻をしてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの
自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて
生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。
*
告白とはいひながら、この小説のなかで私は「嘘」を放し飼にした。好きなところで、そいつらに草を喰はせる。
すると嘘たちは満腹し、「真実」の野菜畑を荒さないやうになる。
*
同じ意味で、肉まで喰ひ入つた仮面、肉づきの仮面だけが告白をすることができる。告白の本質は「告白は
不可能だ」といふことだ。
*
私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考へるが、もしかすると
私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部(セックス)に他ならないかもしれないから。
三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」より 私は永遠の少年だ。永遠の十六歳だ。どうか私を、私の好きなやうにさせてくれ。その代り私の言ふことを一切
本気にしないでくれ。
*
この醜怪な告白に私は自分の美学を賭けたつもりだ。
*
比喩を用ひる。――私は鏡の中に住んでゐる人種だ。諸君の右は私の左だ。私は無益で精巧な一個の逆説だ。
*
逆手の一つ。――私は自伝の方法として、遠近法の逆を使ふ。諸君はこの絵へ前から入つてゆくことはできない。
奥から出てくることを強ひられる。遠景は無限に精密に、近景は無限に粗雑にゑがかれる。絵の無限の奥から
前方へ向つて歩んで来て下さい。
(中略)
*
私は豹や狼を気取らうといふのではない。私は植物的な人間だ。しかし植物の魂といふものは、ひよつとすると
極めて残忍なものかもしれない。樹木が静かな様子をしてゐるのはそのせゐかもしれない。
*
この本を書かせたのは私の見栄坊な心だ。
三島由紀夫「序文(『仮面の告白』用)」より お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる
腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして
おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の
世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた
平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに
類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも
あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。
それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を
持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな
生活それ自体に他ならないかもしれない。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より ――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の
素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、
彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい
媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく
知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、
踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、
外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より (中略)
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に
その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び
生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は
存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を
運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時
われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を――
感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。
少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。
彼の文学を知る道も、この他にはないのである。
三島由紀夫24歳「川端康成論の一方法――『作品』について」より 「学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、
「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つて
ゐるやうに思はれる。
川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか。僕が「羽仁五郎は
雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と
反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。
「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、
「でも碌(ろく)な本はありますまい」
と云つたら、
「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。
雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端康成印象記」より 川端さんの寡黙は有名である。(中略)或る新米の婦人記者が、川端さんを訪問してまづ名刺を出しお辞儀をした。
川端さんは名刺をうけとつて会釈された。婦人記者は用件を切り出す前に、何か世間話をと考へたが、なかなか
思ひ切つてものが言ひ出せない。何か話のきつかけを作つて下さるのを待つほかはなかつた。十分たつた。
川端さんは黙つたままである。廿分たつた。やはり黙つたままである。新米記者は心細くなつて、胸がどきどきし、
冷汗が出て来た。ますますこちらから切り出すのがむつかしくなる。卅分たつた。婦人記者がわつと泣き出した。
すると川端さんは「どうしたんですか」と訪ねられたさうである。
別の話。私がお訪ねしたときにトーストと牛乳が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸してたべてゐた。
すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを牛乳に浸して口へ運ばれだした。
別段おいしさうな顔もなさらずに。
三島由紀夫24歳「現代作家寸描集――川端康成」より 大体明治以来の作家を、文章に於て、三大別することができる。独創的なスタイルを作つた作家と、体質的な
スタイルを身につけた作家と、人工的なスタイルの作家と三種類である。小説はスタイルばかりで値打が
決るものではないから、俄かにこの三種類の優劣を定めるわけにはゆかないが、第一類の総代が森鴎外で、
ずつと下つて、小林秀雄や堀辰雄がこの系列に入る。第二類の総代が夏目漱石で、武者小路実篤や丹羽文雄や
武田泰淳までがこの系列に入る。第三類の総代が、泉鏡花あるひは芥川龍之介で、横光・川端はほぼこの系列の
作家である。
しかし鏡花と龍之介を一緒に第三類にぶちこむには異論があるにちがひない。事実、この第三類はもつとも厄介な
問題を蔵してをり、人工的な天性をそのまま人工的文体に生かした鏡花のやうな、第二類の変種のやうな作家も
ゐれば、人工的な天性から逆の自然的なスタイルを生み出さうとして苦闘した龍之介もある、といふ風である。
横光はどちらかといふとこの龍之介型、苦闘型であり、川端は、鏡花型、人工的天性型だといへるであらう。
三島由紀夫「横光利一と川端康成」より (引用略)
「機械」のラストの文章である。
故意に句読点と段落を極度に節約し、文脈には飜訳調を故意にとり入れてゐる。すべてが、この小説の主題の
展開にふさはしいやうに作り上げられた文章である。これだけの引用ではわからないが、「機械」一篇を読了して
この結末に来ると、実際「機械の鋭い先尖がぢりぢり」読者を狙つて来るやうに感じられるのである。
われわれは日本人である以上、日本語の文章を書くわけだが、日本語の一語一語が持つてゐる伝統的ニュアンスと
いふものは否定しがたく、多くはそのニュアンスによりかかつて文章を書くわけである。手紙の候文などは
その極端なものであらう。
横光が「機械」の文章で試みた実験は、日本語から歴史や伝統を悉く捨象して、意味だけを純粋につたへるところの
いはば無機質の文章を書くことであつた。右の引用文でも、かういふ試みの極点に達してゐることがみとめられよう。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より 明治の哲学者は、ドイツの観念論哲学の用語をそれぞれ飜訳して、該当する漢語を作りだし、それを組み合はせて、
今までにない抽象的な日本文を作つた。ところがさうして作られた言葉も、何十年かたつと、苔が生えるやうに、
日本語としての複雑なニュアンスを帯びてくるから、ふしぎである。
しかしさういふ意味では、「機械」の文章は、今日も日本の歴史の苔のつかないふしぎな乾燥した抽象的性格を
保持してゐる。それはまた題材乃至主題との幸福な出会ひでもあり、横光はかうして作つた文体でいくつかの
短編を書くが、それが彼の固有の文体にまではならないのである。
(中略)横光の到達しえた最もリアリスティックな文章は、したがつて、「機械」の文章――氏の技法上の冒険が、
人間性探求の冒険と、最も無垢に歩調を合はせたときに生れた文章――であるといへよう。
氏の晩年の作品では、「微笑」が傑作と思はれ、又その文章は、青春時代の叙情をよみがへらせたふしぎな
みづみづしさをもつてゐるが、紙数の関係で割愛する。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 一 横光利一」より 横光と比べると、川端康成は自己批評の達人であり、どうにもならない自分の資質に対して、これほど聡明に
身を処して来た人はめづらしい。氏の文章も、それをよくあらはしてゐる。(中略)
氏の文章は、感覚だけでしか、外界とつながらうとしないのである。つまり自分の長所、得手によつてしか。
(中略)
氏の文章を、横光利一のやうに、段階的に分けて見ることはむづかしい。又その必要もなささうに思はれる。
芸術家としての氏にはかつて自己革命といふのがなかつたから、文章にもそれのあるわけがないのである。
かうした事情は、最も幸福な、又、最も不幸な芸術家の宿命である。氏の文章を初期から最近までずつと見て
来た者は、実際、真の芸術家には、自己革命なんてある筈がないといふ奇妙な逆説的確信にとらはれてしまふ。
なるほど、例へが突飛だが、スタンダールにはそんなものはなかつた。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より 川端康成の文章の極意は、一行から一行への神秘な転調にあるので、構文そのものにあるのではない。構文
そのものには特色がないことが、私をして、決して独創的な文章ではないと言はしめる所以である。
(中略)
文章といふものには、どんなそつけない散文にも、内的な音楽といふものがある。氏の文章にはそれがない。
これは実におどろくべきことだ。ためしに氏の小説を朗読してみるがいい。たとへば永井荷風の小説などに比べたら、
朗読の快感といふものはほとんどない筈である。
しかし強ひて言へば、この世のものならぬ音楽性といふものはある。それは琴の絃が突然切れたひびきや、精霊を
よび出す梓弓の弾かれた弦の音のやうなものである。氏の小説にたびたび用ひられる頻繁な改行の技巧は、実は
かうした音の突然の断絶の効果ではあるまいか。してみればさういふ改行の配慮は、氏の音楽性に対する配慮と
いへるかもしれない。
三島由紀夫「横光利一と川端康成 二 川端康成」より 川端さん、新年おめでたうございます。
毎年一月二日には、御年賀に上つて、賑やかな賀宴の末席に連なるのが例ですが、はじめて伺つてから、今年で
もう十年になります。(中略)
それは寒い日で、大塔宮裏のお宅までは、まだバスも通じてゐなかつたころと思ひます。廿一歳の私は、いろいろ
生意気なことを口走つたとおぼえてゐますが、内心はびくびくして、無言に堪へることができなかつたのでした。
失礼なことを申しますが、川端さんが黙つたまま、私をじろじろ見られるので、身のすくむ思ひでありました。
(中略)
いつのお正月でしたか、あまり御酒を嗜(たしな)まれぬ川端さんが、子供のお客たちにまじつて、テレヴィジョン
ばかり見てゐられたのを思ひ出します。テレヴィジョンの画面には、踊り子たちが、寒中、裸の脚をそろへて
上げて、右に左に顔を向けては踊つてゐました。
三島由紀夫31歳「正月の平常心――川端康成氏へ」より 川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがつひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、
私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。混沌と不安に対処して、
世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具とては文体しかない。
フロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも
挙げられるが、文体とはさういふものである。
ところで、川端さんの傑作のやうに、完璧であつて、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、
どういふものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、
虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が、不安と混沌をおそれて
大理石に託した造型意志とまさに対蹠的なもの、あの端正な大理石彫刻が全身で抗してゐる恐怖とまさに反対の
ものである。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より (中略)
川端さんのかういふおそれげのなさ、自分を無力にすることによつて恐怖と不安を排除するといふ無手勝流の
生き方は、いつはじまつたのか?
思ふに、これはおそらく、孤児にひとしい生ひ立ちと、孤独な少年期と青年期の培つたものであらう。氏のやうに
極端に鋭敏な感受性を持つた少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど
信じられない奇蹟である。しかし文名の上りだした青年期には、氏が感受性の溌剌たる動きに自ら酔ひ、自ら
それを享楽した時代もあつたことはたしかである。氏がきらひだと言つてをられる「化粧と口笛」のやうな作品では、
氏の鮮鋭な感受性はほとんど舞踊を踊り、稀な例であるが、感性がそのまま小説中の行為のごとき作用をしてゐる。
氏の感受性はそこで一つの力になつたのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるやうな力だつた。何故なら
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければ
ならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だつた。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より しかしそのときもし、感受性が救ひを求めて、知力にすがらうとしたらどうだらう。知力は感受性に論理と
知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。
やはり川端さんがきらひだと言はれてゐる小説「禽獣」で、作者がのぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、
もつとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じやうな契機によつて書かれた横光利一の
「機械」と近似してをり、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、
地獄へ、知的迷妄へと沈んでゆくのである。
このとき、川端さんのうちに、人生における確信が生れたものと思はれる。(中略)情念が情念それ自体の、
感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れないといふ
確信である。虚無の前に張られた一条の絹糸は、地獄の嵐に吹きさらされても、決して切れないといふ確信である。
これがもし大理石彫刻なら倒壊するだらうが。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より かうして川端さんは、他人を放任する前に、自分を放任することが、人生の極意だと気づかれた。その代り
他人の世界の論理的法則が自分の中へしみ込んで来ないやうに警戒すること。しかしその外側では、他人の
世界の法則に楽々と附合つてゆくこと。……実際、快楽主義といふものは時には陰惨な外見を呈するものだが、
ワットオと共に、氏の芸術を快楽的な芸術だと云つても、それほど遠くはなからう。
(中略)
ここまで言へば、冗く言ふ必要もないことだが、川端さんが文体をもたない小説家であるといふことは氏の
宿命であり、世界解釈の意志の欠如は、おそらくただの欠如ではなくて、氏自身が積極的に放棄したものなのである。
(中略)
さういふ川端さんが、完全に孤独で、完全に懐疑的で、完全に人間を信じてゐないかといふことになると、それは
一個の暗黒伝説にすぎないことは、前にも述べたとほりである。氏の作品には実にたびたび、生命(いのち)に
対する讃仰があらはれ、巨母的小説家であつた岡本かの子に対する氏の傾倒は有名である。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より しかし川端さんにとつての生命とは、生命イコール官能なのである。この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、
氏の永い人気の一因でもあつたが、これについて中村真一郎氏が、私に面白い感想を語つたことがある。
「この間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。すごくエロティックなんだ。
川端さんの純文学の小説より、もつと生なエロティシズムなんだ。ああいふものを子供によませていいのかね。…」
(中略)
氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を
辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象
すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り
永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと
思はれる。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について
論じたい誘惑にかられるが、もう紙数が尽きた。
しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の知的な
ものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、
破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも
破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。
戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の
美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。
三島由紀夫31歳「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。
(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
(永井)荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。ところで現実の投影の作品世界を清掃してゆくには、
雑然たる東西混淆の日本の現実、日本の不可思議な雑種文明そのものを批評して行かなければならない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より (中略)
今の東京は、よかれあしかれ、明治以来の継木文化そのままの都市的表現であつて、東京のグロテスクは、
そのまま、われわれ知識人と称するものの内面のグロテスクの反映である。これに対立するものとして、荷風の
江戸のイメーヂがあり、久保田(万太郎)氏の古い東京のイメーヂがある。共に作家の批評の果てに結実した
イメーヂであつて、現実とは断絶してゐる。たゞ荷風が「冷笑」その他の、あらはなエッセイの形でこの批評を
行つたのに対し、久保田氏は、作品だけで批評を行つたにすぎぬ。だから一見、久保田氏の作品は、批評的に
見えない。しかし舞台の上のわびしい朝顔の花一輪にも、批評が、すなはち西洋が結実してゐるのである。
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。
西洋イコール批評と云つても差支へない。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より さて、日本の現実の、かかる文化的混乱状態の結果として、日本における芸術家の特異な運命がはじまる。
日本では、芸術家肌の作家ほど、極度に批評的にならねばならないのである。これは本当に困つたことで、
芸術創造の機能と批評の機能とは、本来、相反するものなのである。モオツァルトの音楽がどうして批評であらうか。
日本で何故かくも小説といふジャンルが隆盛を極めてゐるかを考へて、私は、その一つの理由に、小説がもつとも
批評的な芸術であるといふ理由を数へずにはゐられない。(中略)
かくて、日本に生れた芸術家は、不断に日本の文明批評を強ひられ、この東西の混淆のうちから、自分の真の
風土と本能にふさはしいイメーヂをみつけ出し、それを的確に結実させた人のみが成功する。(中略)
さて、私はやうやく、川端康成の問題に戻つて来られたやうである。
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光(利一)氏よりも、批評家として上であつた。
氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが
私の意見である。
三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より 二十代の新感覚派時代の氏の作品は、当時のモダニズムの社会的風潮のスケッチであり、それを独自な感覚で
裁断したものであつて、最もハイカラな文学だつたと云へよう。ただ氏の場合の特色は、自分の鋭敏な感覚を発見し、
それに依拠して、それ以外のものにたよらぬ潔癖のおかげで、作品世界の調和を成就したことである。(中略)
私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に
裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が
直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、
いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。
そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは
作品形成の技術乃至方法だけにとどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が
書きはじめられる。
三島由紀夫32歳「川端康成の東洋と西洋」より 少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な酷さがそなはつてゐる。
少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと一緒にしか成長しないものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より
正直すぎると死ぬことさへある。
ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に白状したのかもしれません。
たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、
勇気の生れる余地がなくて、さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。
本当にウソをつくには、お体裁を捨て、体当りで人生にぶつからねばならず、つまり一種の桁外れの正直者で
なければならないやうです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より 一口に非処女と云つても、一ぺん何かのいはゆる「あやまち」を犯しただけの非処女と、男を百人も遍歴した
非処女とのあひだには、天地雲泥の相違がある。かりに処女を神聖と考へるとしても、処女だけを神聖と考へるのは
まちがひでして、女の神聖さには無数の段階とニュアンスがあるのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 処女・非処女を問題にすべからず」より
お節介は人生の衛生術の一つです。(中略)お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、
自らたのしむ」ことができ、しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。なぜならお節介や忠告は、
もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より
現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。
世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より 友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした美しい友情などと
いふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。(中略)人間関係の動物的本質に
とつては、このはうがむしろ自然ですから、裏切りがないかぎり、いくらでも永つづきします。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より
己惚れといふものがまるでなかつたら、この世に大して楽しみはありますまい。
謙遜といふことはみのりのない果実である場合が多く、又世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。
(中略)高い地位に満足した人は、安心して謙遜を装ふことができます。
己惚れとは、一つのたのしい幻想、生きるための幻想なのですから、実質なんぞ何も要りません。(中略)
己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
恋愛から己惚れを差引いたら、どんなに味気ないものになつてしまふことでせう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。
流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、あとになつて、
その時代の、美しい色彩となつて残るのである。
浅薄な流行は、一度すばやく死んだのちに、今度は別の姿でよみがへる。軽佻浮薄といふものには、何かふしぎな、
猫のやうな生命力があるのです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より
世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのですが、こんなものに影響をうけた女性は、
スープを音を立てて吸ふ男を、頭から野蛮人と決めてしまひます。
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より 全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、誰にも身を
売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を鼓舞されて、
大得意になるといふ妙なケダモノであります。
女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、そのウェイスト、その脚の
魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に
属するものと考へず、何かますます普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身を
やつし、どんなに鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より 私は猫が大好きです。理由は猫といふヤツが、実に淡々たるエゴイストで、忘恩の徒であるからで、しかも猫は
概して忘恩の徒であるにとどまり、悪質な人間のやうに、恩を仇で返すことなどありません。
人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と忘れるべきである。これこそ
君子の交はりといふものだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より
人を悪徳に誘惑しようと思ふ者は、大ていその人の善いはうの性質を百パーセント利用しようとします。善い性質を
なるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 沢山の悪徳を持て」より
若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしてゐるのは、たいてい失恋常習者である。
およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より 「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、「人間の真実」とか
「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、といふことを知つてゐます。
ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを
首にかけて出かけるのが慣例です。人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年に
いつぺんぐらゐ、あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。
権力者も女性も人生や社会の真実から自分の目がおほはれてゐることに喜びを見出す人種であります。その点で、
権力者と女性は似てをり、又、どちらも実においしい栄養十分な果物であり餌であるといふ点でも、似てゐます。
三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より 男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、女にとつては
精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも
肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、
男だけの問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。
五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と交はつた男は、単なる放蕩者に
止まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき男であるといふ事態も起り得る。
女性にとつては、本当のところ、御用聞きとの高笑ひといふ程度の浮気から、実際に良人以外の男と寝る浮気までの
間には、程度の相違、量的相違があるだけで、質的相違はないのだといふのが私の考へです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より 「よろめき」が罪だとしても、どこからどこまでが罪で、どこまでが罪でないかといふ本当の目安はないのです。(中略)
この「罪」とは、女性の「宿命」と言ひかへてもいいので、精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の
特有そのものを、仮に「罪」と呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の
悪徳も、この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。崇高な母性愛も、
良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から
出てゐるといふところに、女性の女性たる所以があります。
虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、……かういふものは
みんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、男の嫉妬を形づくります。男の嫉妬の
本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた怒りだと断言してもよろしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より 人生は、たつた一つの小さな歯車が外れたばかりに、とんでもない大事件が起ることがある。戦争も大事件も、
必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとしたまちがひから、十分起りうるのです。
そして大思想や大哲学は、概して大した事件もひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。
運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。そしてわれわれは、
あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたかどうかを知ることができません。
人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を支配するといふふしぎは、
本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。われわれが意識して犯す悪は、ただの
まちがひに比べれば、底が知れてゐると云へるかもしれません。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より われわれは死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。憎まれ嫌はれてゐた死者ほど早く忘れたいのです。
そのためにはほめるに限る。ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。
死者に対する悪口は、これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。
ですから私は死んだら、私の敵が集まつて呑んでゐる席へ行つて、みんなの会話をききたいと思ふ。(中略)
私はどうしても、ピンシャン生きてゐるうちに私が言はれてゐたのと同じ言葉を、死後もきいてゐたいそれこそは
人間の言葉だからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より
親や兄弟の千万言のしんきくさい教訓よりも、青年男女に社会の過酷な法則を、骨の髄まで味はせる場所としては、
映画界ほどよく出来たところはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 映画界への憧れ」より ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」などと持ちかける
ダラシのないヤカラはゐないことです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より
(キャッチ娘やキャッチ息子の、気取つた喋り方は)喋つてゐるのではなくて、出来合ひの言葉に喋らされて
ゐるのであり、現代マスコミ文化といふ神さまの託宣が、その口を借りて滔々と流れ出す神がかりの霊媒の
やうな存在なのです。
それは意見が自分の意見でないばかりではない。感情も他人の感情で代用されてしまふので、キャッチフレーズばかり
並べながら、キャッチ娘とキャッチ息子が、どこかの喫茶店で恋を語ることも可能なら、そのままサカサくらげへ
直行することも可能である。(中略)かうなると、人形芝居の人形の恋みたいで、ちよつとした怪談です。
なまじつかな「意見」なんかよりも、自然な「機知」のはうが、ずつと人生の知恵として高度なものなのであります。
マスコミにおいて最も涸渇してゐるのは、かういふ自然な機知であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 キャッチフレーズ娘」より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています