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【何もかもが】司馬遼太郎アンチスレ【嫌い】
0001無名草子さん
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2011/10/15(土) 23:22:01.94
司馬遼太郎の一方的な決め付けが嫌い。
そのクセ裸眼の思索者とか馬鹿?
0337無名草子さん
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2022/08/06(土) 19:52:41.67
開国前夜―田沼時代の輝き―(新潮新書
田沼意次といえば、賄賂を好んだ金権政治家と見られがちだが、彼の施政には、旧来の格式にとらわれない発想の斬新さと先見性があった。
田沼時代は、この時代がなければ、のちの明治維新はなかったと思えるほど、諸外国とくらべても遜色のない経済の活況と豊饒な文化を生みだした時代なのである。
本書では、平賀源内や杉田玄白、池大雅など、開国前夜ともいうべき時代を生きた先駆者たちを通して田沼時代を俯瞰する。
鈴木/由紀子『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』で第四回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞

主殿の税 田沼意次の経済改革 (講談社文庫) 佐藤雅美 (著)
財政再建にとりくんだ老中の「志」とは何か。意次の読みの深さと卓抜した行動力の秘密。
通説をくつがえす歴史経済小説――十代将軍・徳川家治の、日光東照宮参詣費用20万両を、いかに捻出するか。
この難事を克服した田沼意次は、次第に逼迫する幕府財政を立て直すため、新しい「事業」に着手する。だが意次の前には、反対勢力の厚い壁が……。
賄賂の卸問屋といわれた田沼意次像を打ち破り、財政再建に懸けた老中の「志」を描く、歴史経済小説

田沼意次(中) (講談社文庫) 村上元三 (著)
0338無名草子さん
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2022/08/06(土) 23:43:30.54
六つの村を越えて髭をなびかせる者 単行本 – 2022/1/12西條 奈加 (著)
直木賞作家の新たな到達点! 江戸時代に九度蝦夷地に渡った実在の冒険家・最上徳内を描いた、壮大な歴史小説。
本当のアイヌの姿を、世に知らしめたい―― 時は江戸中期、老中・田沼意次が実権を握り、改革を進めていた頃。幕府ではロシアの南下に対する備えや交易の促進などを目的に、蝦夷地開発が計画されていた。 出羽国の貧しい農家に生まれながら、算学の才能に恵まれた最上徳内は、師の本多利明の計らいで蝦夷地見分隊に随行する。
そこで徳内が目にしたのは厳しくも美しい北の大地と、和人とは異なる文化の中で逞しく生きるアイヌの姿だった。イタクニップ、少年フルウらとの出会いを通して、いつしか徳内の胸にはアイヌへの尊敬と友愛が生まれていく……。 松前藩との確執、幕府の思惑、自然の脅威、様々な困難にぶつかりながら、それでも北の大地へと向かった男を描いた著者渾身の長編小説!

第25回歴史文学賞受賞作
北夷の海 単行本 – 2002/1乾 浩 (著)
樺太は半島か島か―。極寒の地・樺太の探検に情熱を注ぐ松田伝十郎と間宮林蔵。二人の苫難の行程と葛藤を描き、両者の人間像を活写する力作!表題作のほか「東韃靼への海路」「遙かなる氷雪の島」を収録

。北冥の白虹―小説・最上徳内 単行本 – 2003/4/1乾 浩 (著)
天命6年(1786)、日本人として初めて択捉島・得撫島に足跡を印した北方探検家・最上徳内。出羽国楯岡村の貧農の子に生まれた徳内の北方探検に賭けた夢と生き様を描く長編歴史小説
0339無名草子さん
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2022/08/07(日) 00:03:43.11
林蔵の貌 上 (集英社文庫) 文庫 – 1996/11/20
北方 謙三 (著)
激動の予兆をはらむ江戸・文化年間、越前の船頭・伝兵衛は謎の武士・野比秀磨を乗せ蝦夷地へと櫓を漕ぐ。
そこに待っていたのは測量家の間宮林蔵。彼らの行ったロシア艦との秘密交渉は、徳川幕府とそれに対抗する朝廷・水戸・島津の連合勢力
との抗争の口火となった―壮大な北の海にひろがる男たちの野望
。反幕勢力、南下するロシア、莫大な利権を狙う海商たちの錯綜する思惑が極北の蝦夷地に結集する。ある秘命を帯びた間宮林蔵は諸国を奔走し、
権力者たちの野望うずまく中へと身を投じてゆく。それぞれの命運を背負った男たちの人生と、黎明期の日本を描く迫真の時代小説。

荒波のなか蝦夷地に向かう舟一艘―文化年間、歴史は静かに動き始めた。謎の武士・野比秀磨は、蝦夷に上陸し、測量家・間宮林蔵に出会う。
北の大地の巨大利権を巡る、幕府、朝廷、豪商たち、そして雄藩・水戸と薩摩をも巻き込んだ密謀は成功するのか?鍵を握るのは、
蝦夷地を知り尽くしたこの男…。新しい国のかたちを模索する男たちの激情と策略のうねりを活写する、幕末大河巨編。
0340無名草子さん
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2022/08/07(日) 01:19:27.67
街道をゆく 15 北海道の諸道 (朝日文庫)
函館を出発点に札幌、旭川、陸別へ──古代から幕末維新までの長い道のりをたずね歩く旅。
原野を切り開いた開拓使や劣悪な環境で労働を強いられた囚人、屯田兵の時代を振り返り、アイヌとの抗争から台頭した松前氏の京風文化を思う

稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、
兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。

司馬遼太郎『街道をゆく<32>阿波紀行・紀ノ川のみち

船山馨
お登勢〈上〉 (文庫コレクション―大衆文学館
0341無名草子さん
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2022/08/07(日) 01:25:04.44
静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) 文庫 2007/6/7
池澤 夏樹 (著)
短い繁栄の後で没落した先祖たちのことを小説にするのは、彼らの物語を聞いて育ったぼくの夢だった--明治初年、淡路島から北海道の静内に入植した宗形三郎と四郎。
牧場を開いた宗形兄弟と、アイヌの人々の努力と敗退をえがく壮大な叙事詩。著者自身の先祖の物語であり、同時に日本の近代が捨てた価値観を複眼でみつめる、構想10年の歴史小説。第3回親鸞賞受賞作。〔解説・高橋源一郎

静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族
花崎皋平 著岩波現代文庫
幕末の蝦夷地を踏破した松浦武四郎.アイヌ民衆の受難と出会い,自己変革を遂げた男の軌跡を活写する
幕末の蝦夷地を十数年間も探検・調査し,アイヌ民族の風俗・文化を記録する中で和人による虐待を告発した松浦武四郎.大地に根を張り,固有の習俗を育んできたアイヌ民衆の輝きとは何か.
なぜ彼らは抑圧の下で呻吟することを強いられているのか.記録者として自己変革を遂げていく松浦を描き出す入魂の力作評伝.池澤夏樹解説
0342無名草子さん
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2022/08/20(土) 21:23:57.52
李舜臣だが、韓国では朴正熙政権時代(一九六一〜七九年)になってから最高級の偉人として称えられ、光化門前に銅像も立てられナショナル・ヒーローになったが、それまではそれほど有名ではなかった。政治的に曲折のあった人物だったからだ。
それを武人だった朴正熙が歴史からピックアップし国民的英雄に仕立てたのだ。
ところが面白いことに李舜臣はむしろ日本で昔から高く評価されていた。その話は司馬遼太郎の名著『坂の上の雲』(第八巻)に登場するが、日本海軍では彼は「世界第一の海将」とされ、
その業績と戦術が研究され語り継がれてきた。そして日露戦争の勝敗を決した日本海海戦にあたって、鎮海湾から出撃した日本の連合艦隊は「李舜臣の霊」に戦勝を祈ったという

司馬遼太郎が参照したのは川田功の小説『砲弾を潜りて』
・司馬はこの「小説の記憶」を頼りに、連合艦隊の水雷艇の艦長が李舜臣に祈ったというエピソードを書いた
・しかし当小説にそんな記述はなく、主人公の「水兵」が負傷したとき李舜臣が薩摩兵の銃弾を受けて泰然自若としていてことを思い出して、痛みをこらえたという場面しか出てこない
・創作の水兵のエピソードを司馬遼太郎が読んで水雷艇の艦長の実話になった
・それを朝鮮人が聞いて東郷平八郎の逸話にした
0343無名草子さん
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2022/08/29(月) 21:01:20.22
司馬遼太郎全講演〈第2巻〉1984‐1989
奄美大島と日本の文化
0344無名草子さん
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2022/08/30(火) 18:48:55.11
司馬遼太郎なんかもさ、著書で稲伝来と日本人のルーツについて述べる時
大陸江南地方からのルートに言及する際に必ず言い訳的に「朝鮮半島からも来た」って注釈をつけてるのよね。
あれは何に対して忖度していたのか。よっぽど色々言われてたんだろうなと。

そもそも亜熱帯食物の稲が何で乾燥寒冷な半島経由が必然ルートみたいな前提話なのか。
皆無と言っているのではなく、枕詞の半島由来ってのが印象操作臭い

稲を日本に持ち込んだのが弥生人でありそれが朝鮮半島から来た
ってのは、誰の意向か知らんが学校教科書含めて大々的に日本で喧伝されて来たからね(今でも根強く)
0345無名草子さん
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2022/09/15(木) 12:05:26.01
新編 木馬と石牛 (岩波文庫) 1996/10/16
金関 丈夫 (著)

「和漢洋にわたる象のように重い知識と,それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせている」と言われ,
しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897−1983).人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる該博な知識を駆使し,
鋭い着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証する.学問をたのしむことを教えてくれる本.

矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。
占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊。
0346無名草子さん
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2022/09/17(土) 21:30:01.70
第六回和辻哲郎文化賞受賞
咸臨丸 海を渡る (中公文庫) 文庫 – 1998/12/1
土居 良三 (著)
軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸に搭乗、太平洋を渡った長尾幸作の航海日誌『鴻目魁耳』―。
本書は、著者の曾祖父が遺したこの一次史料を手がかりに、福沢諭吉ら同乗者たちとの友情、勝海舟の辛苦など、渡航のドラマを克明にたどる
0347無名草子さん
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2022/09/27(火) 16:37:16.04
司馬遼太郎の『故郷忘じがたく侯』で「第十四代沈壽官は名人だ」という話になっていますが、ネットで「司馬遼太郎はウソつきだ!」とバラした人間がいるのです。

 実は、第十四代の沈壽官は焼き物など焼いていないのです。当時、東京の早稲田大学政経学部にいたのです。『中杉 弘のブログ』「仏法対話(84)沈寿官の真実」でも一度、掲載しましたが司馬遼太郎は凄いウソつきです。

この間、土方歳三資料館に行ってきました。土方家子孫の愛(めぐみ)さんに会ってきました。その資料館に土方歳三の愛刀があり、持っていた刀は、「和泉守兼定第十二代」と書かれています。それを司馬遼太郎の小説では、
「和泉守兼定第二代」の之定(のさだ)になっているのです。司馬遼太郎の小説は全てウソです。それは、自分が一番よく知っているのです。二代目之定は、千両もする刀です。それを土方歳三が持っていることにして話をつくっているから、「燃えよ、剣」は全て創作です。

十四代は昭和四一年に、韓国民を震え上がらせていたKCIA(韓国情報局)の招きで渡韓し、
>朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。その時十四代はどういう肩書で渡韓している
>のか。司馬の筆によると「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者にまねかれ
>て渡韓した。」(同書五九ぺージ)とある。ここでは陶工家の肩書は出てこない。←←←
>薩摩焼きの第一人者でもないのだ。それはそのはずである。十四代が東京から帰鹿したのは
>昭和三五年以降のはずである。昭和三一年出生の長女の届けは東京都。長男のそれは昭和
>三四年、横浜で届け出。次女の出生(昭和三六年三月三一日)の届げ出が初めて鹿児島でな
>されている。この間の十四代の経歴はどうなっていたのか
0348無名草子さん
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2022/10/04(火) 00:31:03.77
家康が朱印船貿易では秀吉以上の成果を収めたとか、
ノヴァイスパニア(メキシコ)との通商を望んで田中勝介を渡海させたとか、
ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを顧問として重用したとか、
家康の開明的な面はまったく描かず、田舎の陰険な爺さん扱いしたんだよね。
家康に関しては明らかな不当評価だと思われる

「鎖国は百害あって一利なし」と言ってた海音寺潮五郎の影響を感じさせる
0349無名草子さん
垢版 |
2022/10/17(月) 20:45:03.05
高句麗は北方にある。民族としての感じも、あるいは風俗や言語まで韓族とはちがっていたらしい。韓族の国が、南のほうの新羅・百済だが、
ところがこの両国にはさまれてちっぽけな国がひとつあった。洛東江の下流がうるおしている穀倉地帯にあり、それがいまの地名でいえば金海付近にあった。

朝鮮の民間伝承でも、「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」
というのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれる。

「倭というのはかならずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸地方から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」
という説得力に富んだ説まで出ている。さらにまたこの駕洛国のひとびとが日本に弥生式農法と文化をもってきた、ともいう。

新羅が百済を滅ぼした後のことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本の文化や生産に参加した。
日本にゆけば優遇される。
と、戦勝側の新羅人も考えたに違いないが、彼らを動かして海に浮かばしめた直接の動機は政情不安やら内乱だったに違いない。朝鮮は半島国家であるだけに常に政情不安がある。
新羅は唐の助けを借りたために唐の属領に近い形になった。
このための軋轢や政争というものが、日本への政治亡命者を間断なく出す羽目になったように思える。
日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたと言ってよく、
関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。百済・新羅から渡来した人々は互いに敵国だったため、日本に来てからも仲が悪かったらしい。

白村江でその大帝国の外征軍と戦って惨敗した以上、その大帝国に対抗せねばならぬという外的事情と、その外的事情を内的事情に転化して古代的土着勢力を一掃して強力な統一国家を確立すべき必要に迫られていた。
それにはまず、官僚養成のために必要な大学を作らねばならないのである。そのための総長が必要であった。鬼室集斯がどれだけの学者であったかは不明だが、彼以外にはその適任者がなかったに相違なく、それによって日本最初の大学総長が百済人であったという歴史が必発するのである
0350無名草子さん
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2022/10/17(月) 20:45:24.01
今の京都市の市内と郊外は、かつて山城国と呼ばれていた。平安遷都以前においてこの山城平野を開拓したのは朝鮮からの渡来者であった。彼らを秦氏と言い、太秦を首都としていた。
その隆盛期に出た秦河勝は政治家としての聖徳太子の経済的なパトロンであり、太子のために太秦に広隆寺をたて、いわば別荘として提供した。
その秦氏がその部族の工人に作らせたか、本国から持ってきたかしたものがこの日本で最も優れた彫塑とされている弥勒の半跏思惟像なのである。
侵略というこの凶々しい関係の他にそういう関係も日本と朝鮮との間に濃厚にある。たとえばその秦氏は決して虐待されていない。上古ではこの氏族から大臣も出たし、
その後も豪族として大いに栄え、その支族は山城と播磨に広がり、はるかに降って戦国の大名である土佐の長曾我部元親の長曾我部氏も本姓ハ秦氏ナリと自ら称しており、
いずれにしても上代から中世にかけての日本の氏族の中で、この朝鮮系氏族は最も華やかな氏族の一つであった。
0351無名草子さん
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2022/10/17(月) 20:52:29.40
百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう。私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、鬼室集斯のような王族の場合は一族郎党を率いて朝廷を通してやってきたに違いない。
「蒲生」という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神崎郡のあたりは「蒲生野」と言われる原野であった。
蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)と同じ意味を表す異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったと思われる鴨族の居住地のことだったに違いない。
要するに鬼室集斯ら百済の亡命者がこの蒲生郡一帯に住んだ時にはすでにこの辺りには出雲系の鴨族がいて古神道を奉じ、弥生式農業を営んでいたに違いないが、『日本書紀』の記述の臭いから察しても広漠たる原野というに近く、人煙もまれであったように思われる。
鬼室集斯がこの国にやってきた時、天智朝廷は、大層な位階を与えているのである。小錦下とは、後の従五位下に相当する。
0352無名草子さん
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2022/10/18(火) 02:55:18.73
日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫) 文庫 1994/6/17
梅原 猛 (著)
かつて東北は文化の先進地だった。亀ケ岡式土器に代表されるように、繊細で深みのある高度な縄文文化が栄えたのである。
著者は東北各地を旅しながら、宮沢賢治など詩人たちの心の深層に耳を傾け、また土着の信仰や祭りの習俗・アイヌの言葉に、日本人の隠された魂の秘密を探り当てる。原日本文化論の新たな出発点を印す意欲作。

北のまほろば―街道をゆく〈41
太宰治が「悲しき国」と嘆いた津軽・南部・下北。稲作が始まって以来、“けかち(飢饉)”に悩まされてきた本州最北端の大地には縄文の豊かな生活の跡が埋まっていた!
縄文の昔は「まほろば」として栄えた本州最北端の地・青森を歩き、風土に即した生活とは何かを問う。太宰治が悲しき国と嘆いた津軽・南部・下北など、「けかち(飢饉)」に悩まされてきた地に、豊饒の歴史の鉱脈を探る。

縄文時代、青森県の地は山や野に木の実が豊富で、三方の海の渚では魚介がとれ、走獣も多く、川にはサケ・マスもやってきて、考古学上、信じがたいほど豊かだったと想像されている、という。著者は、縄文時代の青森県の地を「北のまほろば」だったと称している。
しかし、弥生時代以降、稲作が日本全国にくまなく浸透し、特に江戸時代、コメの獲れ高(石高)が身分や豊かさを規定する基準となってからは、平均して五年に一度は冷害で凶作となる北国はしばしば飢饉に見舞われ、
貧しさにあえぐのがつねとなってしまった。かつての「北のまほろば」は失われ、相対的に後進地帯の位置付けとなってしまったことを著者は嘆いている。土地それぞれの持ち味を発揮できない「画一化」への警鐘とも受け取れる。
三内丸山をはじめとする遺跡を巡りつつ、風土に即した生活とは何かを問い、この地が育んだ作家や板画家・棟方志功を思う
0353無名草子さん
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2022/10/21(金) 10:17:05.96
東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称された。特に邪馬台国の所在地をめぐる論争では畿内説を主張し、九州説を唱えた白鳥と激しい論争が展開された

「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。
それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であつて、
これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言つていいのであります
0354無名草子さん
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2022/10/21(金) 10:42:36.15
日本文化史研究(上) (講談社学術文庫) 文庫 – 1976/10/8内藤 湖南 (著)
日本文化は、中国文化圏の中にあって、中国文化の強い影響を受けながらも、日本独自の文化を形成してきた。

支那論 (文春学藝ライブラリー) 文庫 2013/10/18内藤 湖南 (著)
その中国論は、一言で言えば、皇帝の権力が強くなる一方、貴族階級が消滅して平民が台頭し、商業が盛んになった北宋(960年~)の時点ですでに、中国は近世(近代)を経験した、というものである。
「支那の歴史を見れば、ある時代からこのかたは、他の世界の国民の……これから経過せんとしているところの状態を暗示するもので、日本とか欧米諸国などのごとき、
その民族生活において、支那よりみずから進歩しているなどと考えるのは、大いなる間違の沙汰である」
――湖南は、中国の民主化の挫折を予言するのであるが、それも、中国が「近世」の段階にすでにこれを経験・失望し、西洋や日本の「近代」での経験に先んじていたからなのである。
政治的独裁と経済発展が混在する現代の中国。湖南の中国認識は、今日、いっそうのリアリティを持っており、われわれ自身の中国認識の出発点となりうるだろう。

史論の代表的なものに、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って大きく時代を分けるというものが唐宋変革論である。内藤は秦漢時代を上古と規定し、
後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。そして唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。
この説は内藤の死後、宮崎市定ら次世代の京都学派が発展させ、宋以後中世説を唱える歴研派との時代区分論争が展開された

唐宋変革の位置づけについては中世から近世への変化とする学説(京大説)と、古代から中世への変化とする学説(歴研説)とがあり、両説を巡って激しい論争が展開された
唐代以前を貴族中心の時代と位置づけるのに対し、宋代では庶民が政治・経済・文化の中心になると解釈される
宋代を近世とするのは、政治・経済・文化の多面的な変化はヨーロッパのルネサンスと共通点が多いことからである。
0355無名草子さん
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2022/10/22(土) 00:22:39.71
司馬遼太郎「街道をゆく(25)中国・閩のみち」(朝日文庫・新装版,朝日新聞出版,2009)より引用:


 私は,こどものころから『西遊記』がすきである。

 五,六年前,太田辰夫・鳥居久靖氏の完訳上下二巻(「中国古典文学大系」31・32,平凡社刊)を数週間かけて読み,その期間中,そのおもしろさにぼうとした。たまたまこの期間中十点ほどの小説作品を読む義務が継続していたために,そのどれもこれもが色褪せてみえて閉口した。

 むろん両者を比較するなど饅頭とワインをくらべるようなものだが,読み手としての私の心の結像装置はひとつだから,つい『西遊記』にひかれてしまう。

 『西遊記』という奇想天外なイメージを創ったというだけでも,中国人は偉大である。しかし作者はたれかとなると,特定が困難らしい。

 もっとも,現代中国では作者がはっきりしていて,明の中期の文学者呉承恩(1500~82)とされている
0356無名草子さん
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2022/10/22(土) 00:23:49.59
西遊記』の作者を明の呉承恩としたのは,胡適(1891~1962)であった。このひとが二十世紀の中国における学問的巨人で中国の近代化に功があったことはよく知られる。ただしかれはデューイの高弟で,プラグマティストであった。1946年,米国からもどって北京大学学長になったが,翌々年脱出した。その後,新中国では胡適の近代主義は資本主義の代弁者のようにみなされ,かれに対する批判文だけでも全8巻あるという。

 その胡適に「西遊記考証」という論文があって,作者呉承恩説がはじめて世に出た。

 魯迅(1881~1936)も,その著『中国小説史略』で,呉承恩が作者であるとしている。魯迅自身はコミュニストではなく,むしろ生硬な左翼には批判的であったが,人間そのものの擁護という立場を持しつづけた。死後,その稀有な清潔さは新中国の精神的支柱になり,毛沢東はかれをもって「中国第一等の聖人」と評した。

 私は正岡子規を好むことと同じ感情のなかで魯迅を沁み入るように好んでいる。しかし国家の聖人にされてしまっていては,地下の魯迅も窮屈にちがいない。

 胡適はともかく魯迅が「呉承恩」といったことが,その後の中国における『西遊記』研究をせまいものにしているらしい。(pp. 192-194)
0357無名草子さん
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2022/10/22(土) 00:37:32.83
『佐渡のみち』
の中の、孫悟空と佐渡、の話が良かった。面白くて、何回も繰り返し読みました。よくこんな話を思いつくな、と感心します。
西遊記なんて子供用の物語だと思ってましたが、そうでもないようです

司馬遼太郎はここで起きた「小比叡騒動」について、かなりの紙数をついやしてふれている。
有能なために抜擢された相川町奉行が、腐敗している既存勢力からねたまれ対立した。奉行は江戸中央に訴えようとしたが失敗する。蓮華峰寺の僧は奉行を支持して寺にかくまい、ともに戦ったが、制圧された。
このことと比較して、司馬は『西遊記』をとりあげる。
通天河という大きな河に、霊感大王という大悪人がいた。その支配下にある小悪人どもを孫悟空が活躍して倒すのだが、霊感大王には歯が立たない。ついに天上に昇って観世音菩薩に泣きついて助けを求めた。
そこで菩薩は近くを歩いてみて、裏庭の蓮池に泳いでいる金魚がいっぴき足りないことに気がつく。菩薩は小さな籠をもって通天河に降りていき、ひょいと金魚をすくって籠に入れる。
これだけのことで解決してしま
この話は中国の官僚制批判であると司馬遼太郎はいう。
 中国史はそのまま官僚史といってよく、裏返せばそれ以上に、それによる民衆の被害史であるともいえる。(中略)
 地方の官や吏は、その匪賊よりもたちが悪いというのは歴朝の民衆にとってのごく平凡な常識で、いかにすればかれら地方官吏の強欲な私益追求から、よりすくなく害を受けられるかということが
、中国が官僚史である反面での中国民衆史であったといっていい。
0358無名草子さん
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2022/10/30(日) 19:26:10.50
秋山駿氏が次のように書いている。
”私は五味康祐の『柳生武芸帳』を時代小説の戦後傑作の第一に推す。星の数ほども無数にある時代小説の中で随一の傑作であると思っている。吉川英治の宮本武蔵よりずっと格が上であると思っている。これは三島由紀夫さんも賛成してくれた。“
 秋山氏はやはり昨年新たに刊行された文春文庫「柳生宗矩と十兵衛」のあと書きで”五味氏の時代小説はいわゆる凡百の歴史小説などよりずっと上にあるものだ。“と書き、その理由として、何よりも文体がよい。そして剣に生きる武士の心情や剣に泣かされる心の心事を描いていかにも思い入れが深い。
 剣を中心に日本人は独自の心性を形成してきた。そういう日本的な独自の心性の細部が五味氏の描く断片や行間のあちこちから気韻をもって甦ってくることである。これこそ大きなことだ。
と書いている。
0359無名草子さん
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2022/10/31(月) 16:27:36.14
野口武彦
『谷崎潤一郎論』で亀井勝一郎賞、1980年、『江戸の歴史家』でサントリー学芸賞、1986年、
『「源氏物語」を江戸から読む』で芸術選奨文部大臣賞、1992年、『江戸の兵学思想』で和辻哲郎文化賞、2003年、『幕末気分』で読売文学賞受賞
江戸人の精神絵図』講談社学術文庫
忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』ちくま新書

渡辺保 『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』講談社学術文庫
0360無名草子さん
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2022/10/31(月) 19:19:39.57
荒木又右衛門(下)文庫コレクション―大衆文学館
著:長谷川 伸

寵童渡部源太夫を河合又五郎に殺害された岡山藩主・池田宮内少輔忠雄の怒りは、又五郎が、かねて池田家に遺恨を抱く旗本組に身を寄せるに及んで頂点に達する。そのころ、大和郡山で事態の進展を見守る源太夫の義兄・荒木又右衝門は、
武門の意地と掟の狭間で深い苦悩の中にあった……。旗本対大名の対立と幕藩体制の緊張感を背景に、緻密な考証で仇討の本義を描き出す、本格歴史小説屈指の名作!
亡君の上意を得て、事情は一変する。又右衛門は安んじて義弟・数馬の願いを容れた。同じころ、長年の盟友河合甚左衝門もまた甥・又五郎のために起った。かくして、旗本と大名の対決という幕府を震撼させる危機を孕んだまま、
伊賀上野鍵屋ヶ辻の決闘の朝は来た!史料の精査をもとに、日本3大仇討の1つとして芝居に講談に喧伝された虚飾と誇張を排しリアルな剣客像を創出した歴史文学の最高峰!
0361無名草子さん
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2022/11/01(火) 17:41:36.76
小説を書くという作業は、自分自身の中にある普遍的人間が歴然と住んでいて、それがいかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、
本来普遍性から外れることがないという、いわば証明不要の公理のようなものを信ずる以外に書けるものではない。(中略)男は一個の身を無数の権力もしくは権力現象に身をゆだねたり、
そのとりこになり、他に害をあたえたり、あるいは害を受けたり、ときにはそれを得ることによって何事かの自己表現を遂げようとあくせくし、それがために生死する。
(中略)志とは単に権力志向へのエネルギーに形而上的体裁をあたえたにすぎない場合もあるが、それはそれなりに面白く、さらにはいかなる志であっても志は男が自己表現をするための主題であり、ときには物狂にさせるたねでもあるらしい。
— 司馬遼太郎「自分の作品について
0362無名草子さん
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2022/11/01(火) 18:27:45.94
『戦国名刀伝 (文春文庫) 。東郷隆
 歴史上に知られる名刀を取り上げた8篇が納められている。
 「にっかり」「末広がり元平」「竹俣」「かたくり」「児手柏このてがしわ」
「伊達脛中」「石州大太刀」「まつがおか」である。

甲冑は単なる武具ではなかった。凝りに凝ったデザインはその実力を誇示するばかりでなく、信ずる「神」すら顕示されていた。それは究極の自己表現でもあった。
本書は信長、秀吉ら武将たちの甲冑にまつわる奇妙な物語6編を収録、その夢、野望、そして無念の死を鮮やかに描きだす。舟橋聖一文学賞受賞作。

『狙うて候―銃豪村田経芳の生涯』で新田次郎文学賞
0363無名草子さん
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2022/11/02(水) 21:33:49.96
「盗賊モノ」にはさまざまな名作がありますよね。雲霧仁左衛門は、いわゆる義賊ではありません。鼠小僧のように、世の悪を懲らしめ、庶民に富を分配するみたいな存在では決してない。
「雲霧仁左衛門」
あくまで「悪」に徹している。でも、盗賊の矜持を大切に生きる本格の盗賊。そのありように、僕は何だか好感を抱いてしまう。悪を悪のままで描き切っている筆致。そのさじ加減が、素晴らしい。

ただ、物語の展開はあまりに早くて、似たような人名、地名、屋号が次々と出てくるため、ちょっと混乱するかも知れません。雲霧一味の足並みも、後半になると「ほつれ」が見え始めます。そのあたりのゴチャゴチャした感じと、スリルもまた良いのです。
それにしても、読み進めていて強く感じるのは、「江戸の街は圧倒的に今よりも暗い」ということです。夜の闇がめっぽう深いのです。そうすると、人々は、
五感を今よりも遥かに働かせて生きていかなければならない。風や、温度、川の流れ、季節の移ろい。五感をフル活用させていくぶん、さまざまなデバイスで補完されている僕たちよりも、能力がよっぽど高いように思います。
0364無名草子さん
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2022/11/04(金) 12:15:47.81
火付盗賊改-鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」 (中公新書) 新書 – 高橋 義夫 (著)
江戸の放火犯・盗賊・博徒を取り締まった火付盗賊改。時代小説では颯爽たるイメージだが、江戸庶民の評判は必ずしも芳しくなかった。不透明な捜査手法、苛酷な取調べには幕閣も眉をひそめた。捕物名人と呼ばれて人気を博し、無宿人対策の人足寄場創設に尽力した
長谷川平蔵などは例外的であった。当時の随筆や世相風聞録をも博捜し、時の権力者や大盗賊たちとの関わりも絡め、功罪相半ばした火付盗賊改の活動の実態に迫る。

「火附盗賊改」の正体 ――幕府と盗賊の三百年戦争 (集英社新書) 新書 – 2016/9/16
丹野 顯 (著)
「鬼平」だけではない、武闘派旗本の知られざる素顔
泣く子も黙る“殺しのライセンス”
「火附盗賊改」と言えば “鬼の長谷川平蔵”の名が挙がる。否、正確には長谷川平蔵の名しか挙がらない、とも言える。実際、彼らは町奉行に比べ日陰の立場にあった。だが、強盗・放火といった凶悪犯罪が多発した百万都市・江戸で、火附盗賊改ほど頼りにされた組織はなかった。謎多き存在感と相まって、町人はもちろん武士たちも、畏怖と同時に畏敬の念を抱いたという。
本著では、凶悪な盗賊一味との対決を軸に、その誕生から変遷、彼らならではの捕り物、苛烈な詮議の様子、幕臣の中での位置づけ、人情味あふれる素顔まで、豊富な資料をもとに、旗本の中でも武闘派の猛者ぞろいだった火盗改の実像に迫る。
0365無名草子さん
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2022/11/04(金) 16:26:02.80
文:北上 次郎 (文芸評論家)『海狼伝』 (白石一郎 著)
大佛次郎『ごろつき船』『ゆうれい船』、長谷川伸『国姓爺』、村上元三『八幡船』、南條範夫『海賊商人』、隆慶一郎『見知らぬ海へ』、近年では和田竜『村上海賊の娘』など、海を舞台にした時代小説は少なくない。そのなかでも白石一郎は、海洋冒険小説を数多く書き、強い印象を残している。
直接的な海の描写は少ないが捕鯨場面が圧巻の『サムライの海』、織田水軍の将・九鬼嘉隆と副題のついた『戦鬼たちの海』なども読ませるが、本書はそのなかでも最高傑作といっていいだろう。本書は、昭和六十二年七月に、
第九十七回の直木賞を受賞している作品だが、いまでも全然古びていないのは見事。そもそも時代小説は現代を舞台にしていないのだから古びないだろうというのは間違い。残念ながら古びてしまうものもあったりする。では、いまでも色彩感豊かに読ませる作品は何がポイントなのか。大佛次郎『ごろつき船』を想起すればそれは明らかだ。
こちらは海の活劇を活写する波瀾万丈の大ロマンで要約が難しい長編だが、この主人公たちが陸の国境に縛られていないことに注意。彼らは海に生きることでその拘束から自由になっている。こういう視点を持たないと、海洋冒険小説に躍動感は生まれない。
 本書でも、迫力満点の海の戦闘は描かれている。まぎれもなく、これは海の小説だ。しかしそういう場面があれば、それだけで海洋冒険小説になるというものではない。主人公が陸の国境に縛られず、海賊衆の掟にも縛られず、あらゆることから自由になっていることが、この物語に自由な風と躍動感を与えているのである
0366無名草子さん
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2022/11/05(土) 15:21:31.07
池波正太郎 真田太平記を読み始めたんだけど・・・
一巻で嫌になった
「・・・」であった。
こういう同じような文章が頻繁に出てきてうんざりしてしまった
「うーむ」や「はい・・・いいえ。」をくどいまでに多用する
山岡壮八を思い出した
こういうのって作家の癖なんだろうか?
時代小説にしてはボギャブラリーが少ないのも気になったし
山本周五郎や吉川英治を読みすぎたせいだろうか
0367無名草子さん
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2022/11/05(土) 20:09:18.28
戦国時代用語辞典 単行本 2006/12/1学研プラス
戦国は言葉という面でも、江戸時代への助走エリアであった。中世から近世へとシフトし、外国との交渉もあり言葉の面でも進化がみられた。
「江戸語」との差異を見極めながら、戦国時代特有の用語を取り上げ、図解と共に明解に解説した必携の書。

時代小説用語辞典 単行本 –2005/4/1学研プラス
歴史群像編集部 (編集)
本書は江戸時代のおもに江戸を舞台にした時代小説に出てくる用語をテーマ、項目ごとに解説したものである

時代小説「江戸」事典 (双葉文庫)
江戸を舞台にした時代小説を、より楽しく深く味わうために知っておきたい事柄や用語をわかりやすく解説した、読んで面白い「江戸」事典です。時代小説を読むときに手元に置いておくのもよし
、江戸雑学物として読むのもよし、時代小説入門ガイドにもよし。双葉文庫の時代小説とあわせて1冊あると重宝すること間違いなし。
全10章、101のテーマ、収録語数2000余の充実の内容。江戸と、そこに生きた人びとを理解する教科書として読むのもよし

江戸ことば・東京ことば辞典 (講談社学術文庫)
あかぬけ・ごますり・しみったれ・とんちき・はすっぱ・はったり・へっぽこ・やぼてん…。人々の口から口へ伝えられたイキでイナセな庶民のことばの数々。
現代人の毎日の暮らしの中でいまも使われているクチコミ語八二二の語源・意味・用例を明快に解説する。江戸から東京へ。国語学界の第一人者が多年にわたる近代日本語の変遷の研究のなかからまとめた「江戸ことば・東京ことば」おもしろ小辞典。

江戸語辞典 新装普及版
江戸のことば13000語を収録した「江戸ことば百科」! 日常語を中心に名物、地名、有名店から祭祀、慶弔、飲食、遊郭など、
当時使われていたことば・関連語を五十音順に配列。便利な巻末付録付き。(江戸時代和暦・西暦対応表、吉原略図、芝居小屋略図、方位・時間の図〔一日〕、年中行事〔一年〕、人生儀礼〔一生〕)
江戸市民の日常語を中心に、遊郭の言葉・役者言葉・隠語・ことわざ・地口、当時にぎわいをみせた地名、役者・俳人など通人といわれた人名、さらに飲食・服飾・祭祀・商売など
0368無名草子さん
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2022/11/05(土) 21:44:50.94
山本周五郎→藤沢周平
格調が高く主人公もストイックで立派なのが多いよね。
読んでて「おい、おい、そんなに頑張らなくていいよ」なんて
言いながらも涙がでてきちゃうような主人公とか。

池波正太郎
俗っぽくて主人公もあんまり格調高くないよね。「おい、おい
あんまり酒ばかり食らってるなよな」というような主人公。
0369無名草子さん
垢版 |
2022/11/12(土) 17:18:22.78
水上 勉の清富記 (新潮文庫
南宋の風光明媚な都、臨安のはずれ、苦竹の森に日がな一日、山繭を混ぜた竹絹紙を漉く孟阿は、清貧を好しとせず、富を捨てず心を富ませて隠棲を楽しんだ「清富記」。
南宋と同様に、度牒乱売で禅宗が堕落衰滅した頃の明に漂着した、尺八(洞簫)の上手な無外和尚の最期と、鳩を飼う母子の悲哀を伝える「飛奴記」。
他に、達磨を始祖とする禅宗の六代目の祖「慧能えのう」など禅的世界を描く短編集

度牒(どちょう)は、国家公認の得度に際して、国家機関によって新たに得度した僧尼に交付される身分証のことである。出家得度の証明書。公験(くげん)、告牒(こくちょう)、度縁(どえん)ともいう

朝廷と無関係に成立した鎌倉新仏教や真言律宗は、太政官に替わって宗派の名において独自の度牒を発行するようになった。
江戸幕府は各宗派の独自発行を認めたが、替わりに発行元を本山に限定する事で統制を行った。
明治維新後はこうした規定は廃止され、各宗派それぞれの規定に基づいて(大抵は得度時に)度牒を交付する事になっている
0370無名草子さん
垢版 |
2022/11/17(木) 19:51:10.28
大仏次郎賞受賞作
リンネとその使徒たち―探検博物学の夜明け (朝日選書) 単行本 1997/11/1
西村 三郎 (著)
実在の“ロスト・ワールド”探検。啓蒙の18世紀、大博物学者リンネの愛弟子たちは、
師の教えに導かれ、新大陸・アラビア・日本へ。この偉大なる「使徒」たちの苦難と栄光の旅を、鎮魂の想いをこめて描く。

博物学の欲望―リンネと時代精神 (講談社現代新書) 新書 1992/8/1
松永 俊男 (著)
世界のすべてを知りつくしたい―。動・植・鉱物=万物を収集、分類、記述する博物学が学問の王だった18世紀。
その帝王リンネと、その下に鎖国日本を含む全世界をめざす弟子。珍品に踊る王、富豪。博物学の壮大な野望を描く

ナチュラリストの系譜 ――近代生物学の成立史 (ちくま学芸文庫)
西欧でどのように動物や植物の観察が生まれ、生物学の基礎となったか。分類体系の変遷、啓蒙主義との親和性等、近代自然誌を辿る名著。解説 塚谷裕一
0371無名草子さん
垢版 |
2022/11/17(木) 20:00:50.64
第12回和辻哲郎文化賞
文明のなかの博物学―西欧と日本〈上〉 単行本 – 1999/8/1
西村 三郎 (著)
西欧と日本、ユーラシア大陸の東西の端を占める両地域で、近世に同時に起きた、
大衆レベルでの広範囲な博物趣味の大流行。この文明のパラレリズムを地球的・世界史的スケールで考察する。

博物学は,人間が身のまわりに見いだすありとあらゆる事物を関心の対象とする知の体系であるという。上巻では,18世紀から19世紀にかけての博物学と
博物趣味の社会的ブームのありさまを,西欧と日本ついてみることから始め,中国の本草学の起源と沿革,その日本への導入,西欧における本草学・博物学の系譜などについて述べている。
そして下巻では,近世の西欧社会と日本で博物学のブームを引き起こした原因は何であったかを考察し,西欧と日本での博物学の展開の違いを,両世界での精神史的構造と結びつけて考察している
西欧の博物学が近代生物学へと発展を遂げたのに対し、絢爛たる興隆をみせた江戸の博物学はやがて衰退していく…。「西と東の博物学」のその後の運命を決定づけた、両者の基本的性格の違いを明らかにする。

チャレンジャー号探検―近代海洋学の幕明け (中公新書) 新書 – 1992/10/1
西村 三郎 (著)
十九世紀中葉、三年半の年月を費やして世界の海を巡り、当時まったく未知の領域であった深海を探って、近代海洋学の礎を築いたイギリスの科学探検船、チャレンジャー号。この探検によって、
海全体の様相が白日のもとにさらされ、地球の自然を知るという人類史的営みの上でも大きな意義をもたらした。本書は、大海原に乗り出した乗組員と自然との闘いを通し、彼らが情熱を注いで解明しようとした海とそこに棲む生物の世界を活写する。
0372無名草子さん
垢版 |
2022/11/19(土) 19:02:55.32
手毬 (新潮文庫) 文庫 1994/11/30
瀬戸内 寂聴 (著)

本書「解説」より
この『手毬』の作者である瀬戸内寂聴の良寛像はこれまでのどの良寛像ともちがっている。それを強いて言ってみれば、エロスによって融けてゆく良寛だといっていい。そのためには直接にエロスでもって良寛像を融かすよりも、貞心尼という晩年の良寛にまつわる尼僧との交流を介するのがいちばんいいことになる。(略)
貞心尼はエロスの自在さを与えられて、同性愛のおぞましさも、不能の夫との性行為も知り、佐吉という教養ある行商人には生理にこめられたエロスをさしだし、良寛にたいしては魂のエロスともいうべきものを流露させる。
――吉本隆明(文芸評論家)
0373無名草子さん
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2022/12/16(金) 19:58:17.78
岡田英弘bot

すでに国民国家化に踏み切っていた清朝は、日清戦争の直後から、日本を国民国家のモデルとして採用した。その過程で各省が建設した日本型の新軍が、
漢人の反満洲革命運動の温床となり、清朝を滅ぼすことになったのである

じつは(シナの)大家族制というのはフィクションなのである。清朝時代の大地主を調査したものを見ると、どんな大地主でも三代目になると、均分相続のために資産が細分化され、経営が成り立たなくなる

日本の家のように長男が家督を継ぐところは何十代でも続くが、シナでは旧家は存在せず、次から次へと潰れて、新しい人間が持ち主になる。
すでに国民国家化に踏み切っていた清朝は、日清戦争の直後から、日本を国民国家のモデルとして採用した。その過程で各省が建設した日本型の新軍が、
漢人の反満洲革命運動の温床となり、清朝を滅ぼすことになったのである

マルクス主義の時代区分では、「古代奴隷制、中世封建制、近代資本制」と、それぞれの時代には特有の生産様式が存在することになっている
。言うまでもなくこれはとんでもないナンセンスである。時代の三区分はあくまで政治を基準にした区分であり、それが経済構造に対応すべき必然的な理由は何もない

日本の家のように長男が家督を継ぐところは何十代でも続くが、シナでは旧家は存在せず、次から次へと潰れて、新しい人間が持ち主になる。
0374無名草子さん
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2022/12/19(月) 00:42:48.98
赤い影法師
本書「解説」より
一言でいえば、伝習のサイクルに全体の構成をととのえながら、その中で、思う存分に空想をおどらせ、ハメをはずし、作者もたのしめば、読者もよろこばすといった伝奇小説のコツに徹した快作なのである。(略)
その上、作者独自のドライなエロティズムは、もはやあぶな絵といった不健康な覗き趣味とはちがった現代的感覚をもっている。アワヤ落花狼藉といったような古風なくすぐりとは無縁なところに成立している。
――瀬沼茂樹(文芸評論家)
0375無名草子さん
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2022/12/27(火) 15:23:30.96
司馬が自分は「(広い意味で)日韓同祖論者」とか言ってるし。

韓国の田んぼ見て滋賀あたりの風景と似てるとか言ってるし・・・そりゃ
日帝が整備したから当たり前って突っ込みたかった。

付合ってる連中も金達寿(半分司馬もあきれてたが)、京大の上田、京都の在日
パチンコ屋の鄭詔文とかアレな連中が・・・
しかも鄭詔文の高麗美術館の理事とかなってるし・・・・

司馬が「竜馬〜」の長吏で解放同盟から攻撃受けた時、助けたのは街道シンパの上田?
0376無名草子さん
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2023/01/02(月) 20:26:53.92
この国のかたち

朱子学の作用:明治維新派革命的思想としては貧弱というほかにない、尊王攘夷でしかない。後醍醐天皇は宋学(朱子学として大成)という
イデオロギーのとりこになって、天皇という歴史的存在から飛躍して中国皇帝のようなつもりになった
統帥権の無限性:参謀という得体のしれぬ権能を持った者たちが愛国的に肥大して謀略を企んで国家に追認させてきた。
明治憲法は三権分立だったのに昭和になって統帥権が次第に独立し始めた。その万人が参謀本部で自分たちがそれを所有していると信じていた

日本が六朝の影響を脱するのに明治維新までかかったこと

明治国家は、十分に成功した国家といえる。その因の一つとして、
汚職がほとんどなかったことをあげていい。政治家•官吏あるいは教育者たちの汚職ほど社会に元気を失わせるものはないのである。

天領では税金が安かったからゆとりがあり独自の文化が花開いた

革命をおこした国は据傲になる。特に革命で得た物差しを他国に輸出したがるという点で、古今に例が多い
。明治の日本人には朝野ともにその意識がつよく、他のアジア人にとって不愉快きわまりないものであったろう

弥生式の稲作がひろがるにつれて日本は松の多い景色に変った。松は日本にとって繁栄の象徴

「重油によるエンジンの出現により……対米戦など、万が一でもおこせるものではなかった」
0377無名草子さん
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2023/01/08(日) 16:27:16.79
土地の公有化というのは、あくまでも象徴的な表現であると思います。
ポイントは、土地が空氣や水のような共有財産であり、公共の利益に即して利用する方が、個々の為に利益になるであろうという
長期的な視点に立つ考え方にあると思います。労働や知恵で稼ぐよりも、そこにある地面を売ったり山を切り崩すことの方が、
利益になるという考え方が国を滅ぼす、そのようなことを言いたいのであろうと思います。
大事なことは、日本における資本主義が非常にあやういものの上に立っており、欧米の資本主義とは大きく異なることを理解することかもしれません。
太閤検地以来、見逃されていた山林の扱いについても、このことを考えるにあたり非常に興味深いものがあります

「土地はすべて公有し、利用価値の高い人に適切に利用させるようにすべきだ」という小説家の意見に対し、「所有権を否定しても、利用権の付与を誰が決めるのか?この点をクリアしないと、社会制度は改善されない」旨、やんわりとたしなめる松下幸之助がすばらしい。
他方で、都会の田畑を(土地利用の不効率として)否定するような発言が小説家から繰り返しなされたことには問題があった。現在の我々は、この本の刊行後(平成4年以降)、”農地の宅地並み課税”が実現した結果、
マンションだらけの(魅力のない)町並みだらけになってしまったことを嘆かざるを得ない。
優れて直感的であったが、もう一歩突っ込んだ議論になぜならなかったか?
小説家の「結論ありき」の手法は、遺憾としか言いようがない。

「作家の良心と感」によって本書を成したことは評価できるものの、すでに21世紀、人口減少と土地余りの時代をむかえた現在に読み返せば、
当時の高名な人物達の思考でさえ随分と目先だけのものであり、長期的な視点がないことがわかり、反面教師的な面白さもある、
「資本主義はあくまでも物をつくってそれを売ることによって利潤を得るものであり、企業の土地投機や土地操作によって利益を得るなどは、何主義でもない」
などという文を見ると司馬の経済・経済学に関する無知がよく理解できよう、おそらくは司馬は複式簿記を理解していない
0378無名草子さん
垢版 |
2023/01/08(日) 16:44:48.27
.普仏戦争…明治日本に強い影響を与えた普仏戦争(明治3年〜4年)。パリ留学中の前田正名(旧薩摩藩士)、渡正元(旧芸州藩士)らもパリ陥落で義勇兵として参戦している。
プロシアの圧倒的な勝利は、幕末以来仏式だった日本の兵制を、此の戦争中プロシアに留学した桂太郎の献策によって独式に大転換した。

「太平記とその影響」…講釈師が演じた程の人気があった『太平記』は、その音感的な名調子に南朝方の正統思想を織り込み、楠木正成人気を興して日本人に朱子学と尊皇イデオロギーを受容させた。
それは歴史を動かす程の力を秘め、桂内閣では明治天皇に続く北朝の統から、数代の天皇を除き、明治天皇を以て第121代とする変更をさせるに到った。

.異風の服飾…仙石権兵衛秀久、伊達政宗、前田利家といった傾奇者の服装は、ただ派手に留まらず、独創性溢れる拵えは才覚を表すものであった。

日本的権力について」…独裁者を古来嫌う日本の権力史。中国から輸入した律令制が早々と破綻し、貴族時代を経て、
鎌倉幕府は紛争の調停機関の役割を主とし、日本の政体はこれ以降天皇と武家政権との二重構造を維持した。徳川幕府は更にその中に譜代と外様との二重構造を持つ、日本独特の合議制機関であった。
0379無名草子さん
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2023/01/25(水) 22:35:26.43
神道は、たとえば「死んだらどうなりますか」という問いへの答えはありません(司馬 p.164)。
・日本の場合、基本的に神道的なものがあって、清浄こそこの世
の最高価値で、もっとも尊いと思っている(司馬 p.179)日本の拭き掃除という清潔な習慣について言及している

・・一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に 仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な
  空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか。・・(司馬)
ここでいう神道とは、要するにお座敷ならお座敷を清らかにしておくと
いうだけで、べつに教義もなければ何もない。「皿」のようなもので仏教も儒教もその上をかすめていっただけという。

第二章 空海と一休 − 宗教の普遍性について
国際的な真言密教
一休の魅力

第三章 金の世界・銀の世界 − 乱世の美学
足利義政と東山文化
革命としての応仁の乱
金の復活 − 織豊時代

第八章 江戸の文化
上方は武士文化、江戸は町人文化
0380無名草子さん
垢版 |
2023/01/27(金) 15:12:58.88
復元安土城 (講談社学術文庫) 文庫 – 内藤 昌 (著)
天正七(一五七九)年。琵琶湖畔、安土の山に峻峭な天主が完成する。黄金の瓦、黒漆の壁、朱の八角円堂。
和様、唐様、南蛮風を統合した造形美が、新しい時代の到来を告げる。戦国の世の終焉と平安楽土の現出を託した天才・都市プランナー信長
はどんな町作りを実現したのか?広範な史資料の渉猟と発掘調査の結果をもって、日本初の近世都市の驚くべき全貌を明らかにする。

安土城天主は、軍事を第一機能とする旧来の常識からは遠く離れた存在であった。(略)理想郷志向の「城」の歴史相において、この安土城を「天下を正す」シンボルとなし、
総見寺で天道思想にもとづく庶民信仰をおこす。くわえて「楽市・楽座」の施策をもって城下の繁栄を図り、なおかつ周辺には外濠をうがって外敵からの安全性を住民に保障し、その「正義」をより具体的に天下に顕示したわけである

城 夢想と現実のモニュメント―渋澤龍彦コレクション河出文庫 2001/10/1
渋澤 龍彦 (著)
権力意識が一点に凝集し、しかも絶対的な夢想に支配された〈城〉。織田信長の「幻の城」安土、廃墟となったサド公爵の
ラコストの城……カステロフィリア(城砦愛好)に憑かれた人々をめぐる珠玉のエッセイ集。
0381無名草子さん
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2023/01/29(日) 13:01:31.75
司馬遼太郎さんは1991年のソ連崩壊で赤恥を書いてしまい御気の毒でしたよね。
五味川順平さんも同じでしたかね。
1991年のソ連崩壊で、ロシア大統領に就任したエリツイン大統領が、
スターリンが極秘国家機密にして封印した、赤軍のモンハン戦争敗因調査団報告書。
頃を解除して全面公開
迫る対フインランド侵攻の戦車師団を、ジューコフに任せたいスターリンが、ノモンハンの壊滅的敗北の隠蔽を命令したんですね
其のジューコフは雪の中の戦いの冬戦争で、白い布でd覆った速射砲を操る全身白衣のフィンランド軍に戦車師団を壊滅される大苦戦。
戦後に書いた自叙伝で、ノモンハンの生き地獄と、冬戦争のフィンランド軍の作戦に殺られてしまいました。
毎晩涙が止まらず、数年間は朝起きると枕がびっしょり濡れて居ました。
と正直にお記述していて世界を驚かせました。
まぁ其の後、幅広キャタピラで傾斜砲塔のT34が配備されてからは、ベルリン迄鼻歌を歌いながら荒野を快速で走る戦車ハイキングでした。
と自慢を扱いていますけどねw
現在でもアマゾンで完売されている「ノモンハンの真実」と言う本に、
赤軍ノモンハン戦争敗因調査団報告書、の全貌が詳しく記述されていますね。
0382無名草子さん
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2023/02/25(土) 01:47:14.79
地形と気象"で解く! 日本の都市 誕生の謎 歴史地形学への招待 単行本(ソフトカバー) – 2021/5/25
竹村 公太郎 (著)

養老孟司氏激賞!
「技術者の視線が解き明かす、新しい日本通史。日本人のアイデンティティーの深層に迫る竹村史観」

東京(江戸)、京都、大阪、神戸、福岡、仙台、静岡、奈良、鎌倉、甲府――
街はどのようにつくられ、賑わったか!?
[本書の主な内容]
奈良盆地での文明誕生/中央の湖を自由に行きかう舟/恵みの地は呪いの地へ/日本列島の地理的な中心・京都/
東日本へ行く要の地/モンゴル軍を破った福岡の地形/「信玄堤」という画期的な治水事業/
信長が戦った比叡山と大坂の地形/今も現役の「太閤下水」/家康が関東で発見した宝/
安倍川がつくった鉄壁の軍事都市/日本堤と墨田堤の仕掛け/幕末に広重が描いた風景/全国の森林が消失する危機

日本史の謎は「地形」で解ける (PHP文庫) 文庫 – 2013/10/3
竹村 公太郎 (著)
養老孟司氏、推薦! 荒俣宏氏、推薦!

荒俣宏氏、驚嘆! 「地形で読み解けば、全地球の文明・文化が理解できる。第2弾は古代エジプトの謎まで! 」
養老孟司氏、激賞! 「なぜ日本は世界一の長寿国になれたか──。その問いを解く鍵が『大正10年』にあったとは! 」

養老孟司氏、荒俣宏氏、またも大絶賛!!―― 「3部作完結、もう読めないって!? 冗談じゃないよ、読者の楽しみ奪うのかい!?」(荒俣氏)
0383無名草子さん
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2023/02/27(月) 19:44:50.53
顕家の戦死に続き、閏7月には越前で新田義貞が戦死した(親房は『神皇正統記』で義貞の戦死もほぼ無視している)。8月には足利尊氏が征夷大将軍となり、南朝の劣勢は覆いがたい情勢となった。
親房は反撃の体勢を整えるため、自ら再び奥州へ向かうことを決意する。この年の9月に義良親王・宗良親王・結城宗広そして親房を乗せた大船団(一説に500艘)が奥州目指して伊勢を出航した。ところが船団は暴風雨に襲われて散り散りになり(『神皇正統記』によると房総沖、『太平記』では天竜灘沖)、
義良と宗広は伊勢へ吹き戻され、宗良は遠江に漂着、鎌倉周辺に漂着して足利方に討ち取られる者も多くいた。親房の乗る船はいったん房総沖から伊豆まで吹き戻されたが、ひとまず北上して常陸の内海(霞ヶ浦。当時はより広大・複雑だった)に入って東条荘(現・茨城県稲敷市)に上陸した。ここには南朝に味方する勢力があったようで、親房はまず神宮寺城に、
それから阿波崎城へと入っている。しかし上陸直後にその情報が出回ったらしく、足利方の烟田時幹の攻撃を受けて神宮寺・阿波崎2城は10月上旬に相次いで落城した。
続いて親房は常陸の有力武士で南朝方となっていた小田治久の居城・小田城(現・つくば市)へと入った。小田治久は常陸守護をつとめることもあった名門で、元弘の乱の折に流刑となった後醍醐の腹心・万里小路藤房を預かり、それが縁で南朝方となっていたのである
0384無名草子さん
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2023/02/27(月) 19:46:46.62
小田城に腰を落ち着けた親房はこの常陸の地で5年間に及ぶ奮闘を開始する。はじめ親房は義良親王と結城宗広が奥州に到着したものと信じていたが、彼らが伊勢に吹き戻されてしまったことを知って構想の修正を迫られる。
親房がもっとも頼りにしたのは白河にいる宗広の子・結城親朝で、親房は五年間で合計70通に及ぶ書状を親朝に送り続け、
出陣を催促し続ける。結果的に親朝が実際に出陣することなく終わるのだが、親朝は彼なりに可能な限りの資金や物資の援助、あるいは足利方への軍事的圧力を北からかけるといった親房への支援を行っている。
 延元4年(暦応2、1339)8月16日、後醍醐天皇が吉野で無念のうちにこの世を去った。後を継いで即位したのはかつて親房が擁していた11歳の義良親王=後村上天皇である。このころ親房は小田城内において「大日本は神国なり」で始まる日本通史『神皇正統記』の執筆にとりかかる。
この『神皇正統記』は建国神話から始まって後村上に至るまでの歴史をつづり、「万世一系」の皇統が連綿と続いてきたことが日本の特殊性であると主張する一方で、「不徳の皇統は断絶する」(武烈、称徳、陽成の例)という儒教的価値観も導入され、
それが「天照大神のおはからい」によって皇室の「正統」が“移動”して続いていく、という論理で大覚寺統=後醍醐=後村上こそが「正統」であるという結論を導き出す。当時最高水準の和漢の歴史に精通していた親房らしく、
手元に持っていた簡単な皇統譜のみを材料に日本・中国の史書・前例をちりばめた濃厚な一冊であり、江戸時代以降の尊王論、いわゆる「皇国史観」へとつながって後世の日本に重大な影響を与えることになる。
0385無名草子さん
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2023/02/28(火) 23:06:25.26
陳儀
司馬遼太郎は、陳を「絵に描いたような東洋的政治家」と評している。その意味は、賄賂を取りまくって私腹を肥やし、周囲を腐敗させる中国型官僚のことで、実際彼が関わった中国の省はことごとく腐敗している。
意外なことに彼は日本の陸士を出ており奥さんも日本人

台湾大虐殺(二二八事件)当時の台湾統治の責任者。現在では虐殺の首謀者は蒋介石だと判明しているが、当事者of当事者の一人として台湾史最凶の人物として伝えられている
0386無名草子さん
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2023/03/07(火) 15:02:20.00
たたら製鉄の原料は鉄鉱石でなく、砂鉄です。砂鉄を「ここ数年の屈託である」と司馬氏は語っています。元来日本は東アジアにおける鉄の後進国で、鉄生産が盛んになるのは平安中期です。
これ以降、日本人の中に欲望と好奇心という猛々しい心が育ち、ひいては農業や商品経済の発展につながったのではないか、そう推察した司馬氏は砂鉄を通じて東アジアの本体のようなものの一端がのぞけないかと考え、今回の旅に至るのです。

田部たなべ長右衛門ちょうえもん氏の屋敷を訪ねます。かつて「日本一の山林王」と称され、吉田村自体が「田部家の城下村」でしたが、屋敷には村を威圧するような豪壮さがなく「どちらかといえば質実な造り」と司馬氏は驚いています

司馬氏は「別世界」と評しました。菅谷の山を降り、掛谷の町の橋まで戻ってきたとき、「なにやらほっとして下界に戻ったような気がした」とも述べています

司馬遼太郎著 「司馬遼太郎が考えたこと 14 エッセイ1987.5〜1990.10」(新潮文庫)」 の16−44ページに、司馬遼太郎のロンドン講演録(「文学からみた日本歴史」、昭和62年6月)が載っています。その中に 「製鉄」の歴史とその社会的意味が述べられています。
そこには、日本には紀元5世紀頃、製鉄技術が朝鮮半島から出雲地方に渡ってきた、鉄製品は農耕用の鍬や鋤などが多く生産され、稲作が急速に普及して多くの人口を養い、商品経済も盛んになって、「縄文時代」 と呼ばれる社会から
稲作勢力の社会である 「弥生時代」 が始まった、対中国への「鋼(はがね)」 の輸出が盛んになり、 中国からは 「漢文」 の書物が多く入るようになり、日本式漢文の読み方が発明されて、文学の興隆となった、とあります。
また、同講演録には、産業革命の中心の英国では、先端技術の 「蒸気機関」 とともに、やはり「製鉄」 が産業の基盤であり、とくに 「コークス」の発明によって、それまでの製鉄燃料の木材の消費量が減って、英国の森の消失を緩和し、大気汚染も緩和された、などとあります。
0387無名草子さん
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2023/03/10(金) 01:41:33.76
実は、それ以前から司馬遼太郎は小説を書いていた。確認できる限りでの最初の作品は「わが生涯は夜光貝の光と共に」と題された短篇で、仏教雑誌「ブディスト・マガジン」創刊号に載せた。明治初年、すでに本家の大陸でも
伝来地日本でも伝統技巧の失われた螺鈿(らでん)細工に魅せられ、その技法の追究と完成に生涯を費す男の物語だった。
そこには「芸術至上主義者」に対して司馬遼太郎が抱く距離感が早くもあらわれている。司馬遼太郎は「名人上手」と「技芸への執念」を、性として好まないのである。このとき彼は満二十六歳だった。
その六年後、五六年の年頭からは「花妖譚」と題した連作を、生け花の家元が主宰する「未生」という月刊誌に書いている。これは、とくに司馬遼太郎の作家キャリア前半期における短篇小説群の重要な
サイドストリームとなった「怪異」への傾きが見てとれる作品である。寺内大吉に小説家たらんとする希望を「告白」したのはこの時期のことだった。

三十二歳の司馬遼太郎は、このときの「当選の辞」につぎのように書いている。
「私は、奇妙な小説の修業法をとりました。小説を書くのではなく、しゃべくりまわるのです。小説という形態を、私のおなかのなかで説話の原型にまで還元してみたかったのです
。こんど、その説話の一つを珍しく文学にしてみました。ところがさる友人一読して『君の話の方が面白えや』、これは痛烈な酷評でした。となると私はまず、私の小説を、私の話にまで近づけるために、うんと努力をしなければなりません」
0388無名草子さん
垢版 |
2023/03/10(金) 01:48:28.07
戈壁(ゴビ)の匈奴」だった。それは、かつて隊商の交易都市として繁栄し、蒸発し去ったかのように消えた都市国家西夏(せいか)の物語である。
第一次大戦直後、広大な西疆(せいきょう)の砂の中で、ひとりの退役イギリス軍大尉にして考古学者が、大きな玻璃(はり)の壺を見つけた。鉛がふくまれているのか、打つと清涼な金属の音を発した。
砂漠で小石を拾っても、そこに死者の声が聞こえはせぬかと耳にあてる彼は、その壺を見つめるうち、「あの、考古学徒のみが享受しうる詩と奇蹟と科学の融けた『天国』が、静かに霧のように降りてくる」のを体験した。
彼が「天国」の向こうに見たのは「西夏の街衢(まち)、そこを往(ゆ)き交う異風の男女」そして「暁闇(ぎょうあん)の風を衝(つ)いてゆく十万の騎馬軍団」の幻景だった。
 こんな書き出しからユーラシア中央部の十三世紀の物語が展開され、司馬遼太郎の極初期代表作と目される「戈壁の匈奴」だが、
この退役大尉の心境は司馬遼太郎のそれと重なる。彼もまた拾った石器に耳をあて、遠い過去の声を聞きとろうとした少年だった。
0389無名草子さん
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2023/03/10(金) 01:49:59.65
「風が絹のように柔らかい。光が、たわむれるように肌にまつわる。此処には、人間の膚骨を刺戟する何ものもない。このようなくにに住む者達は、一体、悪というものを知っているであろうか。悪を知らなければ、おそらく善をも知るまい」(「兜率天(とそつてん)の巡礼」)
渡海し、さらに竹内峠を越えてきた古代秦氏の先祖にこういわせている司馬遼太郎は、少年の頃より陸と海とを走るその道から、遠く大陸の草原と砂漠を見はるかしていたのである。その意味で彼が作家への
道を歩むことは石に彫られていたかのように必然であったし、その初期作が日本人の出てこない「説話」であったこともまた必然だったのである。
 司馬遼太郎の短篇小説には竹内街道や当麻村にゆかりのある主人公が少なくない。役小角(えんのおづぬ)(「睡蓮」)、飛び加藤(「飛び加藤」)、果心居士(「果心居士の幻術」)などである。
これらの人々には大陸渡来のにおいがある。そして彼らはみな人間離れした「幻術」のつかい手である。合理の精神に満ちた作家であるはずの司馬遼太郎にして、これはどうしたことだろう。
 宗教記者であった四八年夏、二十五歳の司馬遼太郎は京都北西の山中、まさに深山幽谷というべき地にある志明院(しみょういん)という真言の寺を訪ねたことがあった。「もののけ」が出るとされたその寺で、彼は実際もののけのしわざを体験したのだ、とさらっと語っている。
もののけは、年ごとに明るさを増す俗界の夜に耐えがたく、ここまで逃げてきたものらしいと語ったあと、つぎのようにつづけた。
「結局、私自身にもそういった雑密(ぞうみつ)的原始感情に感応するところがあるからでしょうね」「根っこのところでは日本人が伝統的にもっている暗くて華やかなロマンチシズムのようなものにもつながっているのではないでしょうか」(「密教世界の誘惑」『司馬遼太郎全集』第12巻月報27)
こんなセンスが、一連の不思議な傑作短篇を生んだのである。そしてまた、「電気のない闇というもののすばらしさを、宮崎さんのアニメでひとつ表現していただきたいものですな」(「宗教の幹」宮崎駿、堀田善衞との鼎談
0390無名草子さん
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2023/03/19(日) 15:14:19.21
中国文明の歴史1 中国文化の成立 水野清一 責任編集
北京原人が出現した太古の時代から中国文化の原型が成立した殷・周までの時代を、考古学の最新成果を駆使して描く大いなるドラマ。

中国文明の歴史2春秋戦国 貝恂ホ樹 責任編集
周王朝の崩壊とともに中国古代社会の秩序は崩れ、世は実力主義の時代となる。諸国の君主は虎視眈々と機会を窺い富国強兵策に狂奔する。

中国文明の歴史3秦漢帝国 日比野丈夫 責任編集
法律と謀略と武力のかたまりだった秦は、わずか十余年で亡ぶが、受けつぐ漢は、前後四世紀にわたる安定した王朝となる

中国文明の歴史4分裂の時代―魏晋南北朝 森鹿三 責任編集
北方民族と漢族の対立抗争で、三国時代・五胡十六国・南北朝と政権は四分五裂。一方、仏教が西方から招来、ヒミコの使者が洛陽訪問。

中国文明の歴史5隋唐世界帝国 外山軍治 責任編集
分裂を隋が統一し唐が世界帝国の建設を受けつぐ。東西の交流が行われ東アジア文化圏が成立。日本は律令制により国家体制を整備。

中国文明の歴史6宋の新文化 佐伯富 責任編集
庶民の力を結集し宋代の新文化は日本にも刺激を与えて鎌倉新文化を出現。それは西アジア、欧州ルネサンス文化の成立にも影響。
0391無名草子さん
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2023/03/19(日) 15:18:27.16
中国文明の歴史7大モンゴル帝国 田村実造 責任編集
モンゴルを統一し、世界征覇の野望のもとに、空前絶後の世界帝国を築いたチンギス・カン。恐るべきエネルギーで欧亜を席捲。

中国文明の歴史8明帝国と倭寇 三田村泰助 責任編集
永楽帝時代に海外発展で国威を発揚、繁栄と泰平の世を迎える明帝国は、「北虜南倭」の患が高じ、秀吉の朝鮮出兵が明の衰亡を促す

。中国文明の歴史9清帝国の繁栄 宮崎市定 責任編集
十八世紀は比類ない繁栄をもたらした清王朝の黄金時代であった。しかし盛者必衰の法則にもれず、やがて没落と衰亡の前兆が……。

中国文明の歴史10東アジアの開国 波多野善大 責任編集
惰眠をむさぼる東アジアは、聖書とアヘンと近代兵器を携えた西欧に開国を強いられ、そして侵攻にあえぎながらも民族意識が芽ばえる。

中国文明の歴史11中国のめざめ  宮崎市定 責任編集
清朝の三百年の統治は遂に破綻をきたし、この腐敗混迷を救うべく孫文が立ちあがる。かくして辛亥革命は成功し、北伐がはじまる。

中国文明の歴史12人民共和国の成立へ  内藤戊申 責任編集
蒋政権樹立から内戦十年、抗日八年の歴史が始まる。蒋軍、紅軍、日本軍の三つ巴の戦い、大長征を経て人民共和国が成立する。
0392無名草子さん
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2023/05/13(土) 16:56:18.87
作家・司馬遼太郎氏(1923―96)が「唯一の別荘を置く町」として観光パンフレット
などでPRしてきた和歌山県古座川町が、司馬遼太郎記念財団(大阪府東大阪市)からの
「宣伝に使われるのは本意でない」との苦情を受けて、パンフレットから同氏の話題を
削除したことが10日、わかった。
人口3700人、「自然」以外には氏の名前しかPRの柱にできるものがなかっただけに、
町は「残念だが仕方ない」。

町などによると、司馬氏は、同町出身の知人の案内で75年から何度も訪問。
77年、江戸時代から続く庄屋屋敷跡が売りに出され住民が残念がっていることを知って購入し、
木造2階建ての「山荘」を建てた。
「人々が超然とした姿勢で美しい自然を守っている」と、ゆったりとした風土への愛着を周囲に語り、
山荘にも数回滞在。没後は財団が管理している。

町は99年、財団の協力を得て「南紀熊野体験博」で、古座川での氏の足跡や業績を紹介する写真展を
開催。翌年にはパンフレット(16ページ)に4ページにわたって、著書「街道をゆく」を引用して紹介。
癒やしの地として氏が山荘を構えたことにも触れ、これまでに約8万部を配った。
しかし財団は昨年9月、「保存のための土地購入で、本来、別荘の趣味はなく、自己顕示欲の少ない人。
体験博終了後も宣伝されるのは本意ではない」と抗議。町はパンフレットからゆかりの話題を削除した。

広瀬征彦町長は「財団からは了承してもらっていると思っていたので、残念」と肩を落とすが、
財団は「山荘の有効利用などは別途、検討したい」としている。
0393無名草子さん
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2023/05/13(土) 17:43:02.12
山本健吉」と「井上光貞」の対談の中で「山本健吉」は、「飛鳥というのは日本人の心の故郷だと言っていますけれども、そこに住んでいたのは百済人や新羅人であった。飛鳥の住民の8〜9割は渡来人によって占められていた」と語っている。さらに続けて「井上光貞」は、「それは続日本紀に書かれている」と述べている。
「奈良時代」ごろ「飛鳥地方の住民の80%〜90%が朝鮮人」であったことは「続日本紀」「姓氏録」に書かれており、また、「司馬遼太郎・上田正昭・金達寿の対談集」によれば「飛鳥は朝鮮文化をぬきには語れない」と語り、「飛鳥における政治の実権は蘇我氏<朝鮮人>の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」と亀井勝一郎氏は述べている。
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。」
0394無名草子さん
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2023/05/23(火) 17:47:05.62
内藤湖南「明代はつまらん」
宮崎市定「明代はナマコのように特徴がない」
司馬遼太郎「明代は古代よりも古代らしい」
0395無名草子さん
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2023/05/26(金) 21:58:23.70
司馬遼太郎の記述によれば

「台湾先住民族、高砂族は四国の漁師のようだ、「褌」ふんどしをして気風、気性、習慣が
同じだ」とある
0396無名草子さん
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2023/07/22(土) 20:54:28.42
それで?
0397無名草子さん
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2023/08/31(木) 10:09:32.06
坂の上の雲で乃木は人格については超一級の人として書かれてるけど、能力については伊地知とともに無能の代表みたいに書かれてる

無能ってのは司馬遼太郎の小説の中の話が先行しすぎだろ
機関銃を据えたコンクリの縦深陣地と戦うって人類にとって初めてのケースだし
日露戦争の頃の装備で勝利するには消耗戦で勝つ以外にないだろ
逆に効果的な攻略法があったなら第一次大戦での欧州人はどれだけ無能だったのかって話よ
203高地が決戦場になったのもそれまでに地道にロシア軍の戦力を削り続けた結果ロシア軍も決戦に応じるしか無くなったからだし

司馬なんて慶州の陵墓(まあ古墳)を見て「息を飲む美しささ」とか
韓国に、おべんちゃら使う五島勉レベルの作家だよ
(写真を見れば分かるが少なくとも息を飲む美しさでも何でも無い)

司馬の作品は「長州憎し」で塗り固められてるからなあ
学徒出陣で陸軍に徴兵され、死ぬほど嫌いな魚を食わされた恨みで凝り固まってるw
0398無名草子さん
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2023/09/08(金) 18:21:38.99
池波正太郎
明確なシリーズではありません。
設定や主人公を読み替えることで、シリーズのように楽しめる作品群です。
おすすめの順番は次の通り。
夜の戦士
蝶の戦記
忍びの風
忍びの旗
忍者丹波大介
忍びの女
火の国の城 
0399無名草子さん
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2023/09/11(月) 19:46:35.38
行きゆきて峠あり
(大衆文学館―文庫コレクション) 文庫 – 子母沢 寛 (著)
江戸昌平黌(しょうへいこう)の卒業試験に落ちた榎本釜次郎は、彼を見込む箱館奉公・堀織部正に随(したが)って北海道を知り、
また長崎で海軍の技術を習得する。オランダ留学も果たし海軍副総裁となった榎本だったが、倒幕の流れは洋々たる前途を一気に押し流す。「男」を描いて定評ある著者が辿る幕末の異才・榎本武揚の運命
。官軍への幕府海軍艦船引き渡しを拒否した榎本武揚は、主力を卒いて箱館へ向かう。脱走である。一旦は松前軍を破り独立政府を名乗るが、
官軍の圧倒的な物量の前に降伏、かくて榎本らは江戸の獄中へ…。得意の聞き書き、関係者の証言等を多用し、榎本武揚とその時代を骨太に描く、巨匠晩年の代表的雄篇
0400無名草子さん
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2023/09/14(木) 15:11:16.50
船は、どの船でも人格を感じさせる。特にジャンクは中国人の思想を具象化したものといえる──福建省の古代名である「びん」。古くは稲作の民にして漂流民でもあった越人の地、
そして大航海時代には東西文明の交流の舞台となった地域を歩く。

福建省もともと漢民族の土地ではなく、文化が異なる。びん(もんがまえに虫)は漢民族が少数民族を見下して名付けた名前であるが、多くのものはけものへんである

元々、中国から日本へ輸出される生薬の荷造り用のヒモとして使われていたのを、阿波・堂ヶ浦の漁師が大阪で見て「釣糸としてつかえるのでは!?」と考え、テグスとして広まった
そのおかげで、庶民の食卓に鮮魚が行き渡るようになったという。
「特殊な蛾の大型のイモムシをながめていて、その中に糸のモトがあるだろうと考えた最初の福建人(?)はえらい人である。
その糸を見てこれを魚釣りにつかおうと考えた堂ヶ浦の漁師も、われわれの恩人といっていい。異国間の文化交流というのは、テグスのようであるのが理想のように思える」

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0401無名草子さん
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2023/09/25(月) 00:27:23.90
司馬遼太郎が考えたこと〈9〉エッセイ 1976.9~1979.4 (新潮文庫)
この巻は、「新疆ウイグル自治区を訪ねて」や日本と中国の成り立ちを対比して考察した「砂鉄がつくった歴史の性格」など

これは、1976年から2年半の司馬さんの思い出を綴った書です。国内では成田空港が開港し、国際的にはイラン革命がおこるなど騒然とした頃です。この頃司馬さんは、
「胡蝶の夢」や「項羽と劉邦」などを執筆されています。日本の近代化の中での医療に携わった松本良庵や、中国の漢帝国建設時の物語を描かれていた時期です。
 「砂鉄がつくった歴史の性格」では、鉄器を作り始めた漢時代からの燃料としての木炭の需要について語られています。
現在の中国の砂漠化が、この時代からはじまっていることを知ると、当時の繁栄国が、その将来と子孫に大きなツケを廻していることを知ることができます
。現代の環境問題の原因のひとつを探ることができます。「坂本竜馬と怒涛の時代」では、竜馬の新しい価値観が、日本を幕末から商品経済に導いていったことが、興味深く記されています。
 また、「近所の記」では、司馬さんが住んでおられた土地の歴史を、郷土誌家とは違って視点で描かれています。
 民族と土地の問題を通して、日本の将来とアジアの中の日本を見つめようとされた時期だったような気がします。
0402無名草子さん
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2023/10/03(火) 22:25:10.63
忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫) | 丸谷 才一,
なぜ忠臣藏は人気があるのか。『たった一人の反乱』の作者が、あのたった47人の反乱の謎を解明し、
忠臣藏論のパラダイムを変革した、文芸評論の名作。野間文芸賞受賞作。

忠臣蔵と四谷怪談―日本人のコミュニケーション (朝日選書) 単行本 – 1983/11/1
鶴見俊輔 (著), 安田武 (著)
0403無名草子さん
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2023/10/05(木) 17:56:48.13
徹底検証〈忠臣蔵〉の謎
編:尾崎秀樹  講談社文庫
江戸の民衆は、赤穂浪士の討入りを固唾(かたず)をのんで待っていたという。
ではなぜ討入は成功したのか。松の廊下刃傷(にんじょう)事件の真の動機は?大石内蔵助や堀部安兵衛は巷間伝えられるような人物だったのか?歌舞伎、
講談等が形づくった虚像を排し史実に迫った、興味尽きない〈忠臣蔵〉面白読本
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2023/10/06(金) 22:39:05.74
岩波現代文庫 >
「瞼の母」「一本刀土俵入」など見捨てられた者の悲哀と意地を描き,同時代の庶民に圧倒的に支持されてきた大衆文学の巨匠長谷川伸.
その核心にある義理人情を分析し,生活者のモラルを問い詰め日本人の情感の根源に迫る.独学の評論家佐藤忠男が口先だけの知識人への怒りをこめて描く迫真の力作評伝.
佐藤さんの最初の論文「仁侠について」(『思想の科学』)以来あたためてきた,庶民の精神史」というテーマを,大衆文学の巨匠長谷川伸の生涯と作品を題材に描きだした.本書は,他の大衆文学作家との比較や三島由紀夫との対比によって,
長谷川伸の特異性を浮彫にした,近代日本の倫理思想史,大衆文化史,庶民教育史といった側面をもつ作家論である.見捨てられた者の悲哀と意気地を,苦労人の立場から追求して,
同時代の庶民の代弁者であった長谷川伸の世界は,佐藤忠男の世界でもあった.

「私は,長谷川伸を近代の日本の代表的な思想家のひとりと見なしてこの長編評論を書いたのである.長谷川伸が表現した思想とは
,義理人情であり,侠気であり,意地である.それらはふつう,思想とはみなされていないが,じつは社会を構成している大きな思想の流れの重要な一部であると思う.ただ,
ふつう思想と呼ばれるものが教義とか宣言とか論文というかたちで表れてくるものであるのに,これらはフィクションの物語としてしか表現されていないためにそうは認められていなかっただけなのだと思う」
 60年代半ば,騒然とした世相のなかで,佐藤忠男さんは口先だけで三島由紀夫を賛美する左右の知識人への怒りを込めてこの評論を書き継いでいった.
0405無名草子さん
垢版 |
2023/10/06(金) 22:46:02.78
池波正太郎先生の大変素晴らしいエッセイを何十冊も読んだ中に、「…師匠の長谷川伸は…」と何度も出てくる
0406無名草子さん
垢版 |
2023/10/07(土) 00:01:39.39
現在の集落の基礎ができたのは江戸時代に入ってからで、大和郡山藩の金堂陣屋を中心に古代の条里制地割に沿って、弘誓寺や勝徳寺・浄栄寺などが周囲に配置され、集落が形成されました。
五個荘金堂地区の近江商人は、主に江戸時代後期から明治・大正・昭和戦前期にかけて、呉服や綿・絹製品を中心に、革新的商法によって商圏を全国に広げました

五個荘金堂地区の町並みは古代条里制地割を基本とし陣屋と寺院を中心に形成された湖東平野の典型的な農村集落で、近江商人の本宅群と伝統的な農家住宅がともに
優れた歴史的景観をよく伝え、我国として価値が高いとされています

司馬遼太郎氏は、五個荘金堂地区を訪れた時、この町並みの印象を「たがいに他に対してひかえ目で、しかも微妙に瀟洒(しょうしゃ)な建物をたてるというあたり、
施主・大工をふくめた近江という地の文化の土壌の深さに感じ入ったのである(出典 「街道をゆく」近江散歩)」と、表現されています。

五個荘金堂地区の町並み保存事業は、レトロ感覚の時代村造りではありません。優れた歴史文化を身近に感じながら暮らし続けること、これが地域の人びとの誇りとなり、
地域のアイデンティティとなり、より豊かな現代のまちづくりへと生かすための事業です。
0407無名草子さん
垢版 |
2023/10/07(土) 19:59:17.86
講談社 講談名作文庫 全30冊
1真田幸村 2水戸黄門 3大岡政談 4柳生旅日記 5赤穂義士銘々伝
6太閤記 7鼠小僧次郎吉 8いれずみ奉行 9猿飛佐助 10一休和尚漫遊記
11由井正雪 12快傑自来也 13荒木又右衛門 14伊達騒動 15天保六花撰
16弥次喜多道中記 17寛永三馬術 18清水次郎長 19塚原卜伝 20大久保彦左衛門
21雷電為右衛門 22左甚五郎 23幡随院長兵衛 24田宮坊太郎 25国定忠治
26岩見重太郎 27後藤又兵衛 28寛永御前試合 29野狐三次 30佐倉宗五郎
0408無名草子さん
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2023/10/11(水) 11:02:22.91
平林たい子文学賞、河竹賞
忠臣蔵 もう一つの歴史感覚 (講談社学術文庫)
渡辺 保 (著)
日本人の心のうちに、「大石内蔵助」という名は一つの男の理想像として刻み込まれている。このイメージは、実は歴史上の人物像とは隔たりがある。それでは「忠臣蔵」という共同幻想をつくったのは、いったいだれなのか。そしてこの壮大なフィクションは、どのようにして歌舞伎最大の古典となり、
時代を超えて一つの美意識を完成させるに至ったのか。

読売文学賞
黙阿弥の明治維新 (岩波現代文庫)
渡辺 保 (著)
河竹黙阿弥の「江戸情緒」や「江戸趣味」は本物なのか、彼の作品「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」の背景に存在する招魂社の意味は何か。明治維新をはさみ前半生の小団次らとの協働の検証と後半生の散切物の読み込みを通して、黙阿弥こそが日本の近代演劇の
始祖であるとの主張を掲げ、演劇史の書き換えを要求する刺激的な評伝
0409無名草子さん
垢版 |
2023/10/16(月) 01:01:04.92
矢田 挿雲(やだ そううん『江戸から東京へ (中公文庫)』は、都市化が進む東京の町を散策する内容で、地誌読み物の草分けとして名高い

三田村鳶魚  鳶魚江戸文庫  (中公文庫)全36巻 別巻2巻

江戸を楽しむ―三田村鳶魚の世界 (中公文庫) 2000/2/1
山本 博文 (著)
荒木又右衛門や赤穂浪士仇討ちの真実、将軍家光「大馬鹿説」の真相、町奉行所の捕物の実際と自白第一主義の裁判、
蕎麦から肉食まで、ゆたかだった江戸の食生活など―。日本エッセイスト・クラブ賞受賞の近世史家が、江戸学の祖・三田村鳶魚の業績を辿りつつ、
大名家史料など第一次史料をもとに、新たな江戸時代像を描く。

江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社文庫) 1994/11/1
山本 博文 (著)
江戸の萩藩お留守居役、福間彦右衛門の日記「公儀所日乗」。この第1級史料をもとに藩邸生活の実態、藩の命運かけてたたかう
外交官・留守居役の実像などを新進気鋭の歴史学者があきらかにする歴史ノンフィクション。根廻し、裏工作など現代社会の原像がかいま見える好著。
日本エッセイストクラブ賞受賞作
0410無名草子さん
垢版 |
2023/10/18(水) 11:18:30.20
司馬遼太郎は、長い間日本から遥かに遠い僻陬(へきすう)の海に位置するアイルランドに強い関心を持ち続けてきた。
その国はかつてシーザーも征服欲を
刺激されないといわれるほど厳しい風土の国であった。しかし司馬遼太郎はアイルランド人が
古代ケルト民族から受け継いできた比類ない「想像力」と、孤高の精神を見つめようとする

ヴィエルの<青春の痕跡>を追う。やはりスペイン・バスク出身のロヨラはパリでザヴィエルと出会い、
二人はやがてイエズス会を結成する。司馬さんは二人のバスク人キリスト者のなかに対照的な精神性を感じとった
0411無名草子さん
垢版 |
2023/10/18(水) 13:18:00.68
吉川英治の武蔵は、自己鍛錬に終始した誰が読んでもカッコイイというイメージです。他方、司馬遼太郎などが描く武蔵は、勝つためなら何でもする、手段を選ばない戦略をめぐらす合理主義的なところがありま
0412無名草子さん
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2023/10/18(水) 13:23:48.28
月形半平太
幕末の京都を舞臺に男の器量、女の情を描いた正統派時代劇です。末だ、丗の中が「司馬史観」に汚染される前の作品で、イデオロギー的擦り込みが無いのが氣持ち良いですね
和装の着付け着こなしがいいですね(当たり前に着て居るだけですが、近頃の邦畫は此の點見られたものでは無いので)
本筋は政談では無くて人情ですから本作の様に型の美しさが大切で、其れを失ったら時代劇たり得ません。
0413無名草子さん
垢版 |
2023/10/18(水) 17:01:35.65
1〜3巻はひどいです。4〜5ページに1回は「薩長は汚い、ずるい。会津は清い。」と繰り返しくりかえし主張してあり、うんざりしてきます。
作者が取材した歴史的な事実や文献が列記されているページが多く、歴史的にはほぼ無名の会津人が、何流の学問を修め、刀は何流で槍は何流等といった、ストーリー上はほぼ無意味なことが、細かく書かれています。会津人の怨念と執念が書かせているのかもしれませんが、
読み飛ばさないと、話の筋が追えません。
江戸で戦った彰義隊を描いた5・6巻、河井継之助の長岡城攻防戦を描いた10・11巻、白虎隊の12巻、鶴ヶ城落城の13巻は読む価値はあると思いますが、
読んでいて面白くは無いです。

「少し偏り過ぎているかな」という感は否めません。幕末の知識と客観的な見識が無いと幕末について誤った知識を植え付けかねない本ではあります。
戦争では敵も味方もみんな自分が正義と思って戦っています。故に自分の大事なものを命をかけて守るために戦うのです。にもかかわらず、一方だけを悪としその事を叩くといった本についてはいかがなものかと思います。

17年にわたって雑誌に連載されたためでしょうか、同じエピソードが何度となく書かれています。
このことは17年かけて読む場合は記憶を呼び覚ます上で良いのかもしれませんが、一気に全巻を読む人間としては、繰り返しが多いと感じられます
0414無名草子さん
垢版 |
2023/10/19(木) 11:20:01.68
吉川英治を読んでて、つられて俺も『新平家』を読んだら、これにはまりまくって、つられて
荘八の『伊達政宗』を読んだら、これがもう古臭くて古臭くて閉口したね。なんか1巻の途中で放棄したよ。
隆慶一郎なんかを読んじゃうと荘八って全然だめね。
その点、吉川英治は時代を越えて凄いと思っ
新平家物語』の完成度は凄いと思う。一人一人の登場人物が丹念に書きこまれている。
法皇(上皇)から下賎の民まで千差万別
0415無名草子さん
垢版 |
2023/10/26(木) 10:51:32.44
美男狩」(野村胡堂 講談社大衆文学館 全2巻
幕末も間近な頃の江戸。抜け荷(密貿易)の咎で捕らえられ獄死した銭屋五兵衛が残したという莫大な財宝を求めて、五兵衛の孫・お京が現れるところから物語は始まります。
 品川台場沖に船を出したお京たちですが、それを見咎めたのは幕末三剣客の一人斉藤弥九郎と桂小五郎。彼らに捕らわれたお京を救うために立ち上がった北辰一刀流の美剣士

宝探しあり剣戟あり、恋の鞘当てあり妖術合戦ありと、時代伝奇小説の魅力をぎゅっと凝縮したような盛り沢山の内容であります。

他の作家、例えば怪建築と妖しの女性大好きの国枝史郎が書くと妙にEROくてその一方で妙に求道的な内容になりそうですが
、そこはさすがに胡堂先生、「ですます」調の爽やかな文体もあって、全体のテンションを保ちつつも、題材から来る陰惨さや淫靡さを巧みに緩和して物語を構成しており、感心させられます。

乱れからくり 泡坂妻夫
1978年)日本推理作家協会賞受賞作、第79回直木賞候補
銭屋五兵衛の隠し財産
玩具会社部長の馬割朋浩は隕石に当たるという奇禍で命を落とす。
その葬儀も終えぬ内に彼の幼児が睡眠薬を過って飲み死亡する。さらに馬割家の人々のあいだで不可解な死が連続して……。ねじ屋敷と呼ばれる馬割家の庭に造られた巨大迷路に隠された一族の謎とは? 
伝法肌の女性探偵と新米助手の活躍

宗教的幻想がほろびかけて、しかも科学への信仰がまだ十分に力を得ていない時代に奇術が華麗な分野を占めた。
「探偵小説」と銘打ったこの作品にもそういう妖しさが感じられる

泡坂・連城の両氏の、読者を騙すためなら既存の小説観に捉われず何をしてもいいという姿勢、それを実現するための優れた技巧の数々は
、後の新本格推理の作家たちにも大きな影響を与えた。

荒唐無稽なストーリーやかなり詳しくうんちくを語るところが、この作者
前半薀蓄ばっかりだし、なかなか話の本筋が見えてこないし
いつものことだが、キャラが弱い。ボクシング経験者という設定も、あまり活きていない。
とはいいつつも、オチが面白いのも泡坂作品の特徴
0416無名草子さん
垢版 |
2023/10/26(木) 11:21:11.13
銭屋五兵衛は、加賀藩に高額な運上金と引き換えに抜荷を黙認されていたが、幕府の疑惑にさらされるや、
藩によって財産没収の上極刑という足切りにあう。しかし、その財宝の一部は隠匿されという、
吉川英治「檜山兄弟」みたいな作品ですが、この銭屋秘宝争奪譚というのはかなりの数の作品があり、しかもこの昭和初期に多いようですね。
先日読んだ誰ぞの短編に似たようなのがありました。

檜山兄弟 上 (角川文庫) 2016/9/22
吉川 英治 (著), 北上 次郎 (解説)
八十年の時を超えた名作が復活!
幕末、開国を迫る列強の圧力が高まる中、一人の男が長崎にやってきた。豪商・銭屋五兵衛の遺児である檜山三四郎は50万両という大金を積んだ星雲丸の行方を求めて出島の異人屋敷に蟄伏したのだ。
鍵は船長が残した懐中時計。だが三四郎は天誅組崩れの志士に感化され勤王の志を抱くようになる。
一方、遠島破りを犯して長崎に流れ着いた梅吉と安は放蕩を続けていたが、三四郎を襲ったことで運命の歯車が回り始めた…。
英公使パークスの元に身を寄せた檜山三四郎は、薩長連合の秘命を帯び、両藩の巨頭に会うべく動き出す。
阻止せんとする幕府の刺客との暗闘! 壮大な奇想と圧倒的なリーダビリティ。幻の傑作時代伝奇が遂に復刊。
0417無名草子さん
垢版 |
2023/10/28(土) 12:46:55.73
結束 信二(けっそく しんじ
「東映時代劇」の黄金期を支えた、昭和時代を代表する脚本家の一人。
碑には司馬遼太郎の筆で
結束さんは人生をよき景色としてみていたすばらしい心のもちぬしでした
の言葉が刻まれている
0418無名草子さん
垢版 |
2023/11/01(水) 23:06:45.98
吉村昭著「虹の翼」巻末、元担当編集者の解説文によると、司馬遼太郎が「菜の花の沖」執筆に向け資料収集や取材を行っていたまさに同時期、吉村昭も高田屋嘉平を盛んに調べていたそうである。
編集者がネタが被っている旨を両者に告げると、司馬遼太郎は今からネタを変更すると原稿が間に合わないと頭を抱えたのに対して、吉村昭は「では私は高田屋嘉平を書かない事にします」とあっさり諦めたという。
「菜の花の沖」と「北天の星」両作品で重要人物となるディアナ号副艦長リコルドは、嘉平を才覚と度量を兼ね備えた大人物と評し、強い友情で結ばれたのに対して、五郎治を少しでも隙を見せると小細工を弄する曲者として、常に警戒し続けている。
吉村昭は、この対比を作中の人物のみならず、作品自体でもやろうとしたのではないかと思える。
何れか一方だけ読んだと言う方には、是非とももう一方も読んでいただきたい。
2人の歴史小説家の視点の違いは、きっと面白いと感じる筈だ。
0419無名草子さん
垢版 |
2023/11/05(日) 01:38:33.64
天下城〈上〉佐々木 譲
我らの頼り、志賀城が落ちた。信濃での平穏な暮らしは武田軍に踏みにじられた―。その日こそが、戸波市郎太の原点となった。若者は軍師の弟子となり、戦国乱世に遍歴を続けた。だが師の逝去により、その道を絶たれてしまう。運命は、彼を名高き近江の石積み、穴太衆のもとへ導いたのだった。鍛えあげた
戦略眼と最高峰の技術を受け継いだ男は、やがて、日本一の城造りとなる。

戦国武将たちは、自城の守りを固めるため、城造り・戸波市郎太の力を求めた―。織田信長の再三の要請を受け、市郎太は覇王の言う「天下城」を造ることを約束する。
その機会が訪れる前にも多聞山城や合戦前の長篠城を手がけ、技術を磨いた。乱世を平定した信長は、近江に城を築くことを決めた。伝説となった安土城の栄枯盛衰。そして数奇な運命を生きた鬼才の生涯も幕を閉じる。
0420無名草子さん
垢版 |
2023/11/11(土) 19:59:34.89
微光のなかの宇宙 私の美術観
好太郎の生涯は、31歳までしかなかった。かれはそのみじかい時間のなかで、すぐれた作品をのこしたばかりでなく、
めまぐるしく旋回する行動と精神によって、ひとの人生の何倍かを生きた。三岸節子は、そういう好太郎の精神と内臓の奥まで入りこんで、血や粘液にまみれたさまざまのものをつかみ出しては、昇華させ、表現した。
そのころの三岸節子には、すでにこんにちの巨大なる開花を約束するすべての天分がみられたが、しかし好太郎のように虚空に閃いてひらく華のようではなく、
石の多い坂道を登る大型のいきもののように、足どりは着実でゆるやかであった。しかし夭折した天才が時間切れのために伸ばし得なかったもっとも重要な部分を、彼女の一部として継承した。

『歴史の世界から』 司馬遼太郎、中公文庫
戦後、いくつかの三岸節子の作品を見たときの感動は、わすれられない。
当時、なみはずれて激しく大きい質と量をもった彼女の情念を包みこむには、この人の手持ちの、
もしくはこの世の既存の造形技術は、小さくすぎるように思われた。ちょうど、一反風呂敷のはしばしにロープをつけて、
いきのいい牛をむりやりに押し込んでいるといった感じで、その破綻した場所からはげしいなにかが噴き出していたし、むしろ私の場合、そのふしぎな気体に酔わされた。
ころ私は、主題性が脆弱で処理技術がうまいだけの絵を無数に見ていただけに、日本にも、天性、油彩世界に適った才質がうまれ得るのだということを三岸節子の作品において思ったりした。
0421無名草子さん
垢版 |
2023/11/11(土) 20:01:57.01
オホーツク街道 街道をゆく
三岸好太郎ほど北海道の風土を象徴する芸術家はいないと私はおもっている。
31歳で夭折するまでの十年間、自分の天才性を、さまざまな様式を借りて表現した。好太郎にとって様式は貸し衣装のようなもので、様式そのものに生命はなく、借りた様式は、不必要なら容捨なくぬぎすてた。
替り身が早いというのではなかった、好太郎には、中身がある。
若い最晩年の名作は「オーケストラ」(1933年)である。キャンバスに白っぽい絵具をたっぷり塗りたくったあと、釘のようなもので、引っ掻くようにして、群像を描いた。古代の洞窟画に似ていた。
「オーケストラ」が発表された翌年に三岸好太郎は死ぬ。幾度も羽化をくりかえした蝶のような生涯だった。
かれは、その全作品でもって、大正末年から昭和初年までの日本のモダニズムの先頭を駈けぬいた。その作品には日本的風土の異質性の重みからくる澱もなく、
思想的ためらいからくるひるみもなかった。快活な水泳選手の泳ぎっぷりを見るようだった。もっとも実人生のほうは破滅的だったが。
三岸好太郎は、典型的な都会派でもあった。都市を信じきっている都会っ子のように、油絵がもつ近代性と普遍性を信じきっていたかのようで、どの作品にも筆触に田舎くさい躊躇がない。
つまりは、札幌に似ている。
0422無名草子さん
垢版 |
2023/11/11(土) 20:03:40.64
オホーツク街道−街道をゆく
その村井氏と、札幌の横断歩道をわたりながら、私はまたしても三岸好太郎の画風をおもいだした。すれちがう人々が、たとえば尾張名古屋や、伊予松山、安芸の広島などのまちの人達とどこか違うのである。
日本の大都市は、札幌および神戸、横浜などをのぞいて、ほとんど城下町から出発している。むろん城下町には、そのよさがある。
ただ、都市における都市性というのは、多少の気どりで成立している。街路を歩くひとびとは、舞台を歩く俳優のように多少は気取ってもらわなくてはならない。札幌には、それがある。
日本の多くのまちは、まわりの農村にとって入会山のようなものでありつづけている。まちにきても、家のなかの顔のまま−いわば野良着やドテラの顔のまま−で歩いている。
−親しみやすいまちですね。
といわれるのは、都市にとってうれしいことではない。
札幌の場合、明治初年の都市建設のとき、都市はこうあるべきだという観念がちゃんと成立して出発したせいか、
みな根っからの市民の顔をしている。都市の象徴としての娘さんたち姿が、よその都市よりも自然に背筋が伸びているようなのである。
要するに札幌は三岸好太郎に似ている。
風土が希薄というより、希薄なのが札幌の風土だとおもえばいい。
0423無名草子さん
垢版 |
2023/11/24(金) 14:38:14.62
円空と木喰 (角川ソフィア文庫
修験道の厳しい修行に身をおいた円空。旅を棲家とした木喰。二人の「ひじり」の作った仏像には、極めて大きな違いがある。
孤高にして厳しく知的に冴えた刀痕と、清潔にして火のように激しい意志的な造型の円空仏。日本の仏像彫刻で忘れ去られた完全な一本彫りを試み、
自刻像をはじめ飄逸な作品を多く残した木喰。仏教民俗学の泰斗が両者の足跡を丹念に歩き、作られた仏像を通して、芸術的側面だけではなく宗教的側面の謎に迫る。

木喰上人 (講談社文芸文庫) 文庫 2018/4/12
柳 宗悦 (著)
かつてない表情をたたえる木喰仏に一目で魅入られた著者の情熱が、上人が生地に書き残した記録の発見という僥倖を呼び、
後半生をかけた五千里にも及ぶ廻国修行で千躰以上の仏躯を刻んだという、江戸後期の知られざる行者の、
想像を絶する生涯の全貌が明らかに。全国各地で忘れられていた多くの木喰仏が発掘される調査の過程が、後の民藝運動の礎となった記念碑的研究の書が初文庫化。
0424無名草子さん
垢版 |
2023/11/24(金) 18:48:41.53
街道をゆく 38 オホーツク街道

日本人の先祖の一派で、5~10世紀に北海道を拠点に活躍したオホーツク人。幻の海洋民族の痕跡をたずね、著者は稚内、枝幸、常呂、網走などを歩いた。
少年時代からの考古学ファンで、さらに雄大な北海道考古学の世界に魅せらせる。「雪の季節に北海道に行ってみたかった」という一行そのままに、ゴム長姿で雪を蹴散らし、地元に溶け込んでいく

。司馬氏の「街道をゆく」というと、大きくは「氏の博学を披歴したシリーズ」と「氏の思いを夢物語風に語るシリーズ」に分かれると思っています
で、当巻は、全43巻(43巻は未完)の38巻に当たることもあり、後者に入る1冊かと思います

稚内から網走にかけて。この地域にはかつて「オホーツク人」が活動していたという。アイヌ民族ではなく、樺太の民族とも微妙に違う、独特の民族らしい。

本州の弥生文化=稲作も必要なかった。そしてこのオホーツク文化と擦文文化を受け継ぐ形で、13世紀以降(鎌倉時代)にアイヌ文化が生まれた。

稲作文化から見ると、冷害をもたらすオホーツク海は恐ろしいのに対して、漁業にとっては宝をもたらし、千島海流は「親潮」となる。
農業と漁業で、同じ天気が真逆になることもあるとは新鮮な指摘だった

市会議員を28年もつとめた中川イセさんの述懐が興味深かった。北海道は自由と平等の土地だという。「本州には古い因襲や伝統があって、人間はそのしがらみに縛られているからどうしようもない。
唐ちりめんの帯なんかしてると「村長の娘さえ締めてないのに」と非難される。夜遅くまで働いてると、
他人に対するイヤミだとか、あの嫁は本家への面当てに働いてるなんて言われる。その点、北海道は、夜、寝ないで働いても誰も何も言わないでしょ」
0425無名草子さん
垢版 |
2023/11/24(金) 21:21:12.98
著者は冒頭で、明治初年に、乾いた寒冷の陸奥地方に北欧の国土経営法をあてはめていたら、岩手県などは蜜と乳の流れる山河になっていたかもしれない、と問題提起している。
日本では弥生時代に稲作が伝わって以来、全国あまねく稲作を普及させることが政権における「王化」であり、特に江戸時代は、水稲の獲れ高(石高)をもって大名や武士の権威づけとされた

陸奥地方は古来から名馬の産地であり、農耕よりも牧畜により適しており、もし牧畜を主体に経済活動が構築されていたら、というのが著者の嘆きである。
ただ、江戸時代に例えば南部藩が、水田をほどほどにして牧畜を盛大にする、という政治決断をしたとしたら、必ず失敗したにちがいない、と著者は考えている。
それは、水稲から牧畜への変更が、単に経済の問題にとどまらず、水稲の神聖を犯す重大な挑戦行為と受け取られたため、というのが著者の見解である。
著者は次のようにも述べている。「日本人は均一化を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫であり、従って南部の土地でさえ米をつくらざるをえず、もし作らねば世間の仲間に入れてもらえないようなはめになる」。
著者は「街道をゆく」で、均一化、画一化による没個性化の弊害をしばしば訴えている。

陸奥は言わずと知れた東北地方ではあるが、福島から北、現在の山形秋田である出羽の国を除く太平洋側の地域のことである
八戸と盛岡は南部藩領であり、津軽藩とは相いれないところがある

八戸の偉人は医師である安藤昌益であり、身分階級差別なくみな平等であるという思想を唱えており、封建体制への抵抗、儒教を否定した。
0426無名草子さん
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2023/11/24(金) 21:24:30.86
薩肥は鹿児島と熊本のこと
大和政権の時代の熊本の球磨と鹿児島の曽於(そお)に住んでいた部族をいい、その後皇帝に仕える「隼人」になったとされる
戦国時代を経て、加藤清正の所領となったが、肥後もっこすといわれるほどのプライドの高さ、組織だった活動に向かないことは、加藤清正の朝鮮出兵時の活躍や、
熊本城築城をはじめとする治水事業、農業普及や南蛮貿易など多くの功績によるものがあかもしれない。

薩摩はまたすごい、島津氏は江戸時代には徳川家康にさえも機会あらば討たんという態度であり、幕末には西洋式近代産業を取り入れ富国に努め、
倒幕という爆裂が一気に起こった。更に隼人の爆裂は西郷隆盛を中心とする士族と官軍との熾烈な戦いとして勃発しその戦いは九州を北上し、
田原坂において最大の決死線となりその後6カ月も続いたのちに、敗北し、薩摩隼人の心行きは消滅に至った。この際に薩摩人は敵味方の屍を区別なく丁重に弔ったという。

薩摩人の気風について次のように述べている。「薩摩人は江戸期を通じて他国人では加藤清正がいちばん好きであり、清正でなくてもよく戦う敵がもっとも好きだという傾向が濃厚であった」。
真田幸村について、薩摩の旧文書に、「真田は日本一の兵(つわもの)」と、幸村の奮戦を称賛しているのも、よく戦う敵が好きだという薩摩人の気風を表しているのかもしれない。
薩摩藩は、関ヶ原の合戦後と、豊臣秀吉の九州征伐後の二度、「薩摩処分」を経験したが、いずれの危難も男性的に処理し、耐え、子宮的発想をしなかった、と著者は述べている
幕末、日本が欧米列強の植民地にならなかったのは、薩摩藩の主導力によるところが大きい、とも著者は述べている。
「かれら(薩摩人)は決して政治的ヒステリーをおこさなかった。その理由のひとつとして薩摩藩には拗ね意識というものが歴史的に存在しなかったということにもよる」。

西南の役で薩摩士族が徹底的に壊滅してから薩摩の気風が絶えたのかもしれない、と著者は推測している
0427無名草子さん
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2023/12/01(金) 01:36:27.66
「中学校の時から30歳まで18年ほど悩む時期がありました。 400年以上日本に住んでいたのに、なぜ卑下発言を聞かなければならないのかと思いました。 一体何をすれば日本人になれるのか。 また、何が韓国人を作るのか気になりました」

長い彷徨は有名小説家の司馬遼太郎と相談して終止符を打った。 彼は父親のシム·スグァンをモデルに小説「故郷を忘れるわけがない」を書いた作家だ。 「真の愛国は他国を理解し愛することだとおっしゃいましたね。 日本人や韓国人が重要なのではなく、ただ一つの人間として生きていくかが重要だと」

そのため、政治的に韓日両国関係が揺れるたびに心が痛む。 「政治が文化に介入するのは良くないと思います。 不買運動などが二度と起こらないことを願っています」

彼は「私にとって韓国は父の国、日本は母の国」とし「日本人がこのように素敵な伝統工芸があるということを誇りに思うなら、それが私が韓国に恩返しをすること」と強調した。
0428無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:03:17.23
)日本の場合も、徳川幕府は朱子学をもって官学とした。
ただ、日本の場合、幸いにも江戸中期、多様な思想が出てきて、朱子学が唯一のものではなくなった。たとえば、
ほとんど人文科学に近い立場をもつ荻生徂徠や伊藤仁斎の学問がそうで、かれらは朱子学の空論性を攻撃した。徂徠における実証主義は清朝の考証学より半世紀さきがけ、
江戸期の思想に好もしい影響を与えた。余談になるが、儒学の面のみに限っていうと、朱子学を唯一の価値とした朝鮮と、このあたりでレールが岐れたともいえる。
が、日本でも一か所だけ、おそるべき朱子学的幻想が沈殿していった土地がある。水戸だった。
水戸黄門といわれた徳川光圀は、早くから日本史編纂の大事業を企てていたが、たまたま明の遺臣朱舜水が異民族王朝である清からのがれて亡命してきたのを手厚く保護した。
こうした気分のなかで、光圀は学者をあつめて修史事業をつづけ、その没後もつづけられた。事業は、水戸徳川家の財政を圧迫しつつも二百数十年も継続したのである。その気長さにおいて、日本史にまれな偉観であるといっていい。
その修史態度は史料あつめや史籍の校訂、考証においてすぐれていたが、しかし記述にあたっては、“義理名分”をあきらかにし、忠臣叛臣のくべつを正すという徹底的な宋学価値観の上に立ったために、後世への価値はほとんどない。光圀も雄大なむだをやったものである。
ただ、この事業によって、幕末、水戸が朱子学的尊王攘夷論の中心的な存在になったことはたしかである。
要するに、宋学の亡霊のようなものが、古爆弾でも爆発したように、封建制の壁をぶち壊してしまった。もっとも、それによってひらかれた景色が、滑稽なことに近代だった。この矛盾が、その頃もその後もつづき、いまもどこかにある。(
0429無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:05:21.40
これは夢想だが、もし江戸後期あたりにルソーの思想が漢訳されて日本につたわったとすれば、そういうグループの参加によって明治維新の思想も、器の大きなものになっていたはずである。
現実には、その思想はあとから(明治十年前後)きた。革命政権というのは革命思想を守るものなのである。あとからきた思想は、当然、危険思想あつかいにされてしまう。
明治維新は、思想的な器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。しかも、明治後、教育の面では、江戸期の日本的な“諸子百家”の思想までが教えられることがなく、
ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた。
過去は動かしようのないものである。
ただ、これに、深浅いずれにしても苦味を感じる感覚が大切なのではないか。
0430無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:06:58.45
<この国のかたち(一)第二章「朱子学の作用」より、転載>

敗戦までを日本の近代とすれば、−とくに官の歴史としてはーその出発点は明治初年の太政官政府にある。それを成立させたのはいうまでもなく明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。
スローガンは、尊王攘夷でしかないのである。外圧に対するいわば悲鳴のようなもので、フランス革命のように、人類全てに通ずる理想のようなものはない。
また人間の基本の課題もほとんど含まれていないのである。
革命が内蔵した思想や熱気、あるいはそれがかかげた理想は遺伝子のようなもので、結局はその後の(敗戦までの)歴史を規制したり、形づけたり、器の大小をきめたりした。
「異民族をうちはらえ。王を重んじよ」
などとは、まことに若衆組が棒を握って勇んでいるようで、威勢はいいが、近代という豊饒なものを興すテーゼにはならない。
このことについては、大正末年から敗戦までのあいだに“近代”そのものが痩せおとろえてしまったことと思い合せればいい。
幕末の攘夷書生や処士が鎖国の継続こそ勅諚であるととなえて大暴れし、結果として太政官政府ができると、開国してしまった
0431無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:08:07.97
宋以前の中国人は、いわば文明主義者だった。むろん異民族に対して野蛮という感覚はもっていたが、
漢民族としての民族主義はことさらもたなかった。みずからの優位性は当然のことだったし、ナショナリズムがうまれたり、それを鼓吹する必要もなかったのである。
宋においては、ナショナリズムの鼓吹が切迫して必要だった。漢人でありながら、侵略者である異民族王朝の官僚になったりするものも多く、
また漢民族王朝の宋の官僚で敵に通じる者さえあった。このため夷は攘うべく王(漢民族正統の王)は
尊ぶべしという思想が成立した。つまりは、宋という特殊な状況下で醸し出された一種の危機思想で、本来、普遍性はもたないものなのである。それが新思想として13世紀の日本にきた。
中国・朝鮮、それに日本における尊王攘夷思想の成立と展開という研究を左右に偏せず、社会科学的にやってもらいたいと思うのだが、そういう本は昔もいまもないらしい。
0432無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:18:16.79
幕府は、学問はなるべく朱子学であれとしていた。ですから、朱子学を官学、お上の学問としておりましたが、強制力はそれほどなかったようです。越後長岡藩は七万石ほどの藩ですが、ここは外様ではなくて普代の大名なんです。
ところが陽明学が藩の学問でした。朱子学も陽明学も似たようなものなのですが、ちょっとにおいが違います。陽明学のほうが、変な言い方をしますと、ややちょっと一神教の雰囲気があるというか、その点が違う程度であります。
南部藩は明治以後、単に岩手県になってしまってですね、規模からいっても気の毒なことであります。南部藩では折衷学という学問が中心になっていました。要するに朱子学は観念論哲学であります。
しかし江戸初期が過ぎた頃に荻生徂徠が登場します。この人は中国にも朝鮮にもいなかった儒学者でした。ちょうどいまの人文科学に似たような考え方の学問を起こしまして、
当時はそれを古学とか、古文辞学と呼んでいたかも知れませんが、物を平たく見るというような基本的な姿勢があった学問です。
南部藩は、この朱子学と陽明学を折衷させようとした学問、折衷学をとった藩です。そしてこの藩から、明治になって内藤湖南という人物が出ています。
われわれ日本人で明治元年から今日に至るまで、トインビーに匹敵するような大歴史家を一人挙げよと言えば、文句なしに内藤湖南でしょう
0433無名草子さん
垢版 |
2023/12/08(金) 14:20:39.15
どうして大和政権が古代日本の代表的な勢力となったのか。4、5世紀であっても大和政権は、他の諸勢力に比して比較的大きかったが、絶対的ではなかった。
ところが7世紀になると、戦国乱世のような大規模な攻伐があったようには思われないのに統一性の高い国家ができた。この奇現象は、1869年の版籍奉還も同じである。
7世紀の面妖さは、5世紀の中国に隋という統一帝国が勃興したことにより説明できる。対外恐怖心が共有されたことが大きい。これは明治維新も同じである。統一国家の芯となったのは「律(刑法)・令(行政方)・格(例外的な法規)・式(細則)」である。
四者は相関し法体系をなした。これらは中国から導入した王土王民制(儒教に基礎をおく)である。しかし、制度のうち宦官と科挙は入れず、儒教も学問としては導入したが民間の宗教意識としては導入しなかった。これらを導入していたら日本は中国そのものになっていただろう。
6、7世紀に日本に導入された仏教もインドのそれとは異なる。王朝や氏族を守護するものとして導入された。平安初期の天台宗・真言宗もこの点で変わりはない。
日本では幸運にも、ついに、ヨーロッパ、中近東、インドあるいは中国のように、人々のすべてが思想化されてしまうという歴史を持たなかった。しかし、思想への憧れは持っており、宗教ではなく書物を通じて摂取しようとした。
0434無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:29:07.73
日本の13世紀はすばらしい時代であった。新仏教、彫刻におけるリアリズム、開拓農民の政権(鎌倉幕府)により、
律令制下で力を蓄えた公家・寺社勢力と対抗し、田を作るものがその土地を所有する権利を確立した。
この素朴なリアリズムをよりどころにする百姓の政権ができて、日本は中国や朝鮮とは似ない歴史を歩み始めた。
宋学(尊王攘夷)はイデオロギーであったが、このとりこになったのが後醍醐天皇である。日本の天皇としてではなく、中国の皇帝のようなつもりになり大乱を起こした

。後醍醐天皇は、建武の中興において、ごく自然な日本的体制であった鎌倉の武家体制を否定し、中国の皇帝のような専制権を持とうとした。
正成はこれに呼応して、河内金剛山のふもと赤坂に城塞を作り、1000名の手兵で幕府軍20万7600騎(太平記)の大軍に抵抗した。
北条執権府がいかに無能で弱いかを天下にさらけ出し、赤坂陥落後も、ゲリラ戦や正規戦で幕府軍を大いに苦しめた。
尊氏が北朝を立ててからは、焦土作戦を企画した。京都という都市は食糧を生産せず貯蔵もしていない。いったん京都を退いて敵の尊氏を京都に呼び込み、
四方を固めて敵を叩こうとした。しかし、帝の側近は帝が京都を退くこの策を受け入れず、聖運でなんとかなるのではないかとした。正成は、わずか500騎で兵庫に下り、湊川で一族とともに討ち死にする。
太平記読みは講談の源流であり、とくに江戸期、元禄のころ武士や庶民の間で隆盛を極めた。人気は正成に集中した。昭和になり、朱子の尊王論が国民教育に取り入れられ、楠木正成は思想語に近くなった。
0435無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:52:06.03
耽羅紀行 街道をゆく
十六、七世紀頃から、世界の経済や思想が騒然としはじめて、価値観が多様になる気配を示しはじめたころでもなお、中国と朝鮮は世界史に背を向け、独創を排し、
朱子学一価値に固執し、知性を牢獄に入れているとしか言いようのないこの制度を頑固に続けていた。
朱子学は、宋以前の儒学とは違い、極度にイデオロギー学だった。正義体系であり、べつのことばでいえば正邪分別論の体系でもあった。
朱子学がお得意とする大義名分論というのは、何が正で何が邪ということを議論することだが、こういう神学論争は年代を経てゆくと正の幅がせまく鋭くなり、
ついには針の先端の面積ほどもなくなってしまう。その面積以外は、邪なのである。

その試験は朱子学をもって唯一の学派とし・・・このことは、朝鮮史に凄惨な災禍をもたらした。朱子学は、考証や訓詁といった実証性よりも、大義と名分を重んじ、
それについての異同を飽くなくたたかわせる学派なのである。・・・中国人や朝鮮人ほどに、精神の活力に富んだ民族が、
世界が近代に入ってゆくもっとも大切な五世紀を、この屁理屈のような学問のために消耗したというのは、くやまれてならない。

韓国と日本の文化の違いは、韓国には知識人がいるだけで、日本のように知的な奇人がいなかったということだ。ということを、十年ばかり前、韓国人の文章の中で読んだことがある。
 ・・・私はこの人は李朝と江戸期を比較しているのだと思った。江戸期には太田蜀山人や平賀源内だけでなく、秋田の殿様で精妙な昆虫分類学者もいたし、
大阪の傘職人で蘭学の研究をした人もいたし、伊予宇和島の仏壇修繕屋だったハンパな職人が銅板張りの蒸気機関を作ったりもした。
 それらは、商品経済が活性化した社会が生み出す人間の精神の一分化で、人種論的なものではない。
0436無名草子さん
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2023/12/08(金) 14:54:15.61
そのころ朝鮮には肩引きや動物に引かせる車さえ無かったというのは、文明史的な驚異である。
朝鮮人ほど思弁的能力の高い民族が、形而下的な面になると車も持たなかったというのは、要するに朱子学的な政治のせいではあるまいか。

朱子学というのは大義名分を論じ始めると、カミソリのような薄刃を研ぎにといで、自傷症のように自らを傷つけ、
他を傷つけたりもするイデオロギー

「潜水漁法は、済州島の海女が、日本の海女に教えたのだ」

<朱子学は、妥協を許さぬ方向へ人を駆り立てる思想>
日本でも朱子学的名分論を主流とした「水戸学」は、幕末の志士たちに大きな影響を与えたにもかかわらず、維新後の
明治政府の要職には水戸出身の姿は見えない。
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水戸藩内部では維新が成る前に、佐幕派の諸生党、勤王激派の天狗党で、血みどろの内部抗争が続き、惜しい人材
をみんな殺してしまったのだそうです
0437無名草子さん
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2023/12/08(金) 15:14:29.64
司馬遼太郎『長安から北京へ
・ 大正期から日本の参謀本部は、中国に対する侵略ということを軍事思想の基礎に置いていたことはまぎれもない。
中国の領土の地面をおさえ、その資源を得て対ソ防衛をするという以外に防衛思想がなく、
しかも事故催眠をかけてそれが東洋平和のためだと思い、宣伝もした。

中国では礼教の外の民族(夷狄)を獣に類するものとしてきたが、
これは人種差別ではなく、「文化差別」というべきもの。

儒教は近代国家の原理と決してかみ合うことがない。
儒教の本質が同血の秩序を論理化したものである以上、「私」が絶対に優先する原理だから。

加害と被害の貸借対照表を作るとすれば、従来はモンゴル人のほうが常に加害者だとされがちだったが、
これは漢民族本位の見方で、実際には、漢民族の農民が上代以来、農地を求めてモンゴル地帯に進出し、
あるいは浸透し、それを漢民族の王朝が保護し、結局はモンゴル人の遊牧地を三色したという側面が強い。
清朝時代には、王朝の方針としてモンゴル人の力が弱められ、「外館(ワイコワン)」と称する、
魔物のような商業機構が北京に出現し、
モンゴル人相手の商売に、この世のものとは思えないほどのあくどさで儲け、
モンゴル人はこの外館に血を奪われて疲弊し、
日本の大正末期ころには救い難いほどに貧窮化させられることとなった。

中国が昔から互いにひとつの民族であるという認識を持てたのは、
「漢字」が「表意文字」であったことが大きい。
もし「表音文字」であったのなら、互いが同じ民族であるとは中々意識しづらかったにちがいない
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