夏目漱石の『こころ』
不朽の名作にして純文学の頂点に立つ作品、夏目漱石の『こころ』について語りましょう
そうだなあ 読書経験の浅い高校生が、本文(教科書不掲載部分を含め)だけで分析的な読解ができる便利なテキストだからかな。
実写版キャスト
先生 堺雅人
K 高岡蒼甫
お嬢さん 宮崎あおい
奥さん 高畑淳子
>>39
高畑さんぴったりです!
「よござんす、さしあげましょう」のセリフが似合う女優さんは少ない。
堺雅人の先生も、若い頃から晩年までうまく雰囲気が重なり続けそう。
Kは二枚目過ぎてはいけないので、津田寛治あたりでいかがでしょう。
若い学生の「私」は向井理できまりかな。
お嬢さんの死後、縁者のない遺骨を預かる「私」。
先生の墓に遺骨を納め、祈りを捧げる後ろ姿、
カメラがパンしてその横顔は、老けメイクの向井理。
そこでタイトルバック始まる! 「こころ」
こんな感じですかね。
市川崑の『こころ』は名作。
先生(森雅之)がK(三橋達也)の死体を発見して、机の上の遺言の中身を確かめるところは背筋が寒くなる。 そうですね、叔母さんの一族がいるはずですから。
とはいえ、先生の言葉から疎遠気味なのは確か。
従兄弟の代になると、もう縁が切れているも同然だったりして。
では、「私どもよりもあなたが最初にご焼香を」と従兄弟が「私」に勧める。
そこで遺影に手を合わせる「私」。カメラがパンすると老け顔の向井理。
そこでタイトル 「こころ」
先生はどうやって自殺したと思いますか?
自分は何故か、崖から海へ入水したというイメージなんですが 静を悲しませないための3条件
@ 自殺と察知されない
A 自宅で死なない (「私がいながら」も「私が家を空けなければ」もだめ)
B 死体が損壊されない状態で見つかる
と考えると・・・ 1と2はともかく、3は難しくないかな
遺体が見つからないようにしない限り。学生の「私」がどうにかしたのか・・・?
そもそも学生の「私」が東京に着いた時には先生は亡くなっていたんだろうか 「私」が駆けつけると、先生は平然とお茶を飲んでいて、
「○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○」
と言った。 >>41
高畑さんは白い巨頭でのファビョり具合が最高だった >>51 雪国の里山を散策中に道に迷って頓死、とかいうなら全条件満たせるのですが、何しろ先生の死期は夏。
炬燵でCO中毒というのも同様に却下。
ボート釣りで転覆・・・先生は泳ぎが達者。
虎列剌・窒扶斯・・・なりたくてなれるもんじゃなし。
脳卒中・・・先生、酒はやめてたし。
あえて毒茸か青梅でも食べてみるしかないのでしょうか。
>>52「これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ」
あ、作者が別ですか。
カミソリが喉に刺さったまま、平然とお茶を飲むわけないか。 息子2人戦死、面目保てた…乃木大将の手紙発見
日露戦争(1904〜05)で中国・旅順を攻略した陸軍大将、乃木希典まれすけ(1849〜1912)の手紙が見つかり、入手した広島市の学校法人修道学園が8日発表した。
自刃する2年前、かつての部下に宛て、日露戦争で約6万人の死傷者を出すなど多大な犠牲を強いた責任を感じ、「弊家へいけハ小生共しょうせいとも一代いちだい」と乃木家を断絶させる決意をつづっている。
手紙は1910年7月6日の消印。陸軍時代の部下で、同学園の前身の修道中学校総理(理事長)だった佐藤正に宛てた。乃木も後に学習院院長となり、同じ教育者として交流を深めたという。
手紙では、広島の特産品をもらった礼をつづった後、戦争で跡継ぎの2人の息子を亡くした乃木に養子縁組を勧める佐藤に対し、「小生共一代」と跡継ぎのための養子は考えていないと記した。
また、天皇陛下や戦死した将兵の遺族に対し「申譯もうしわけナク」と謝罪し、息子2人の戦死は「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と、かえって面目を保てたとしている。
(2012年2月8日15時31分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120208-OYT1T00678.htm?from=navlp
殉死だ殉死! そんな時代だったんだなあ
「広島の特産品」って何だったんだろう >>27
こころ血潮(実践)⇔懐疑理性(理論)
だと思っている。
先生は「愛の高貴な理論化」だから静とはできない。孤独。
私とは遺書ではじめて心臓云々書く。
Kも以前は(漆の心臓)死ぬとき初めて血潮が見れる。
つまり、先生とKは死の瞬間にしか愛=こころのつなかりもてない。 >>58
概ね同意します。
ただ、Kが先生に見せつけた血潮は、すでにどす黒く粘って(まるで漆のように)いたように思われます。
己が恨みや嘆きを先生に突きつける一方で、その真情は全く語らない(当然遺書も素っ気ない)。
そのため先生はKを最後まで受容することができず、「よそよそしい頭文字」で呼び続けます。
しかし、先生は「温かく流れる血潮」を私に浴びせ、その真情を余すとこなく伝える。
その結果先生の死後も絶えない敬慕が生まれる。
そんなふうに考えていました。 >>59
概ね同意します。
K→先生→私、と反省されているのはその通りだと思う。
「受容することができず」ってとこもうちょい訊きたい。
先生とKの関係をどう捉えてます?
あと、私がなぜ『こころ』と呼ばれる文章を書いたのか。
どうお考えですか?
>>60
先生とKの間にいわゆる「心の交流」はないと考えています。
Kが自殺した際、先生は今後の運命をぼんやり危惧するだけで、悲しむことはありません。
保身が先に立ったというより、Kの喪失を惜しんでいないせいでしょう。
先生が自分の罪を明視するのは、己が死を意識してからです。
「私」が『こころ』を書いたのは、「真面目に人生そのものから生きた教訓を得たい」と願う人が、自分の他にもいると考えたから。
ただし、先生が「記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたい」と望んだ静の死を待って、「私」は語り始めます。 >>61
遅れましてすみません。あなたの読み方は全く正しいと思います。
しかしその上で書いておきたいこともある。
先生は「Kの喪失を惜しんでいない」訳ではないと思われます。
それにしては、@死ぬ前に誰かに伝えたいという「自己のため」、
A人生の教訓を与えるという「私のため」を越えた鬼気迫る「こころ」がある。
(「私」の文章はそれに比べると「観照的」といえるほどに。
実際「私」は父という身近な人の死に際しても、あるいは父と先生の死後に記した文章でもほとんど揺らいでいない)
先生は「よそよそしい頭文字」を使わざるをえなかったのではないでしょうか。
実際によそよそしく思っていることと、よそよそしくしか書けないことは別だと思うのです。
我々が『こころ』を読むときにあまりに「観照的」ではないかと素朴に思ってしまいます。私個人として。
(長くなったのでで『こころ』が書かれた理由は割愛します。すみません。) ご教示ありがとうございます。
「Kの喪失を惜しんでいない」は確かに的外れですね。
先生にとってKとは「宿痾」・「厄難」のような物だったのでしょうか。
晩年の先生は「人間の罪」を見つめます。Kは罪の象徴。
では罪とは。「嫉妬」や「虚言」よりは「浅慮」と「傲り」ではないかと考えています。
軽はずみな親切心や、意識しないほどの優越感が、先生とKの悲劇の源。
漱石はなぜ友人のイニシャルに「K」を選んだのか。
恐らく「荊」のメタファでしょう。
先生の心に植え付けられた荊は、年月とともに繁茂してゆきます。
やがて荊冠が頭を締め付け、荊垣が心を閉じ込めていく。
眠り姫よろしく荊城にとらわれた先生は、死に向かわざるを得ない。
よろしくご意見をお聞かせください。 俺的には漱石の中では「こころ」が一番の名作なんだが。 KはKYのK
先生とお嬢さんの間に勝手に割り込んできやがって
しまいには、先生への当てつけのように自殺してしまうとは
だからKなんて名前で呼ばれるんだよ
本当に頭に来る奴だわ
こんな奴のために悩まされる先生が可哀相だな 一つ屋根の下に若い女一人と若い男が二人。
こうなること先生は予想できなかったのかね? この先生って酷い人間だよね。たった一人の親友を陥れて。
女の腐った奴みたい。お嬢さんとKがカルタやる時の
嫉妬メラメラさせるところが怖すぎるわ
どっちかっていうと、Kはお嬢さんよりも奥さんのほうが
好きそうというか似合いそうだと思ったけどどうだろう
集英社版の解説で、女(有名人らしいが)の感想が酷過ぎた。
>>70の感想と似てるが。 どう感じてどう思ったかは読んだ人の自由だけど、この夏目漱石の文章を読んで、Kは邪魔もの、親友裏切る先生は最低、ってそれだけで片付けられるのは悲しい。
上手く言えないけど、この物語の"何か"をわかってほしい。 「恋は罪悪ですよ」
結局、これに尽きると思うがな。 先生はさー、体を動かすバイトとかすればよかったと思う 先生の叔父も、当初は親切心で実家を引き受けたのかもしれません。
しかし、「世話をしてやっているのだ」「若いのだから丸め込めるはず」といった傲りや慢心が、彼を欲の途へと駆り立てました。
先生もKに対し全く同じ失敗を繰り返す。
『こころ』とは弱い心を持つ「人」の罪深さを描いた作品だと思います。
しかし先生の真情を受け継いだ「私」は、その事実を客観的に受け止め、
先生と「人」を許容する。
『こころ』からは、そんな「人」の靱さも読み取れます。 結構立派な先生が、こころは同性愛として結論づける人がいて
気分悪かったのを覚えている。
お互いの過度のもたれあいに全く無いわけではないと思うけど。
でももっと人の持ちうる善性をより追求しているうちに、悪性も自身にも
人にも先生にも、あることをあまりに軽んじてしまった時からKは病んでいたと思う
それにしても何年か前にみた、こころのアニメは酷かったことを付け加えておく。 「我輩は猫である」「坊ちゃん」等、青空文庫の名作が無料で読める
iphone対応アプリ sReader Lite (無料)
http://itunes.apple.com/jp/app/sreader-lite/id492514436 高校で読まされた時には何にも感じなかったのに、大人になって読んだら苦しくなった。
こんな心理があることをよく的確に描けるなあと思った。
しかも、感情的じゃなく、淡々と書いてるんだよね 「こころ」を学んだとき、Kになることはあっても先生になることはないだろうと思っていた。
まもなくKの立場を経験し、長じて先生と似た失敗をやらかした。
(別に恋愛のもつれとかではない。ちょっとした虚栄心と同情から引き受けた問題が深刻化した)
その頃は自分の罪に手足を縛され、何事にも興味関心の持てない状態となったが、
数年も経つと罪悪感は薄れ、なんとなく立ち直ってしまった。恐らく防衛機制が働いたのだろう。
先生は自分の罪を一生正視し続けた。
その意志の強さは敬服に値する。 >>83
>先生は自分の罪を一生正視し続けた。
だったらお嬢さんと結婚してなかったろうなw Kを自殺させてしまったから自分だけ幸せになることはできない、じゃなく
Kを自殺させてしまった上にお嬢さんとの婚約破棄なんて罪の上塗りだ、って思考になったんじゃない?
私もショックな事があって自責の念に駆られた時、自分について決まっている事を変えるのはいけない事だと思い込んで斜め上の判断をして
より悪い方へ進んだことがある。
積極的行動が出来なくなるというか。 先生の場合、むしろお嬢さんと結婚したことによって罪を正視しつづけような気がする。
本当に無責任だったら問題の元になった女も何もかも放り出して出奔しそう。
今に比べたら精神的にも潔癖だったから学生の頃はわかったような気でいたが。
年取ってみると、なぜKが自殺したのか理屈では自身に潔癖で友の裏切りと
自分自身に絶望して・・・などなど理由を思い浮かべてみることは出来るんだが、
肌ではわからない。鬱病だったんだろうとぼんやり思う。これが年を取ったということだろうか
Kという人間は自分とはかけ離れた人物なんだな。 Kも真面目過ぎるよね。
先生が裏切った時、自殺するんじゃなくて「裏切りやがったなこの野郎!」と怒る方向に行けば良かったのに。
つーか先生も、Kに打ち明けられた時、「俺もお嬢さん好きなんだ」と言えば良かったのに。
この二人、ちゃんと向き合って衝突してないよね。 殴りあったり罵りあったりするのも無様でみっともないって思っちゃったのかな
他の友達にお互い悪口言い合うようなことも無いくらい閉塞した関係だよね。
先生は世話してやるみたいにKにいつも兄か教師みたいな上からの態度で、
KはKで泰然自若としているけど、その関係が崩れることがそんなにも致命的になることだろうか この作品について語られる場合、なんでもかんでもKKって流れになるのは教科書にその部分しか載ってないから? 教科書はどこの部分か知らないが、自分とこの学校は選択現国取った奴は丸々全部やったぞ。
エスカレーター式の学校だから受験勉強入れない分、内容を掘り下げる授業形式だった。
二週間で全部読んで週明けの授業で各章ごとに要約と全体の感想文は原稿用紙2枚以上。発表あり
発表は年に二回回ってくる。ちなみに自分は芥川の或る阿呆の一生と谷崎の細雪が発表
2週間に一冊づつこの手の文豪と呼ばれる本読んだな。 >>90
やっぱりそこがクライマックスだからでは?
先生の人生を決定的にした部分だし。
私も、大人になって全部読んだときにもKのところが一番しんどかったしいろいろ考えたし印象に残った。
Kがもっと明るくて柔軟で、先生に気楽にいろいろ言える人だったら違ってたのにね。
でもそうだったらそもそも先生と仲良くなってないか(というか仲良かったのだろうか?この二人) うちなんて中学と高校で二回もやった気がする。
Kの自殺の箇所だよね。 こころは友情の裏切りという学生にはわかりやすい心境を扱っているからなあ
選択国語でこころも全編やった91だが、
最初授業が始まった金色夜叉やたけくらべの読みにくいこと共感しにくいこと
最後の方のプロレタリア文学の領域の蟹工船や夏の花などの暗いこと救いがなことといったら
こころはその中でも、他人の葛藤や覚悟の程を垣間見えたのは若い頃心に残った
ただ最期の明治の精神に殉じた。というきっかけはぴんと来なかった 教科書でKのあたりだけ読まされても、その前の伯父さんに裏切られた前提を読んでないとほんとの意味が分かんないよね。
明治の精神に殉じたというのは、その時代の人じゃないと分からないのかな。
私は、「ちょうど良いきっかけが出来た」くらいにしか想像出来なかった。 夏目漱石の「坊っちゃん」は、これだから田舎はいやなんだ! ケッ!と田舎をバカにした小説である
精神を病んでいたところに、正岡子規から田舎で教師をやってみないか、と誘われて行ったものの
道後温泉に行ったとか、そば屋で食ったらおいしかったので何杯もおかわりしたら、その一部始終を
必ず誰かに見られており、「田舎にはプライバシーというものがないのかよ!」と激怒
そのうらみつらみを元ネタに、小説に書いたもの
ところが、1977年に中村雅俊主演の映画「坊っちゃん」が公開された
原作とはストーリーが違い、型破りな教師と田舎の純朴な生徒たちとのふれあい、とさわやかな内容に改変されており
これが大ヒット、松山・道後温泉ブームが起き、地元もこれに乗った形となった
伊予鉄の路面電車などは、「マッチ箱のようだ。乗ったと思ったら、もう終点。どうりできっぷが安いはずだ。」と
けなされているにもかかわらず、その「坊っちゃん列車」を忠実に再現(笑)
そうなんだよね、明治の精神というか時代に殉じるなんて今では多分そんな人いない。
だから先生を含めて何かに殉じるという気持ちがわからないのがもどかしかった覚えはある。
だから結局あの時代の生の空気を知っていないと読み違えることあるんだろうなと思う お嬢さんを巡っての先生とKの葛藤があれだけ繰り広げられた一方で、肝心のお嬢さんの意思が完全スルーだったのが何か気持ち悪かった。
きもいって意味じゃなく、違和感とか納得行かないみたいな意味で。
物みたいな扱いだよね。本人も何を思っているのか(何も疑問に思っていないのか)全くわからない。
それもあの時代は普通の事だったのかな。 奥さんの、よござんす。差し上げましょうで嫁入り先決定だからなあ。
ただ母親だからどこかで娘の意も汲んで選択した気もする。
そもそも婿候補として書生に招いた気がするしKは行き先無くて元々先生が世話した
いきさつだったと思うから、最初からどこか恵まれない人で眼中にも無かったような お嬢さんと奥さんは元々先生が良いと思ってると私は思ったけどな
Kは女受けしないもの
もっといえば家族を他人を支えるような余裕がどこにも感じられない
奥さんは最初ないし早くから先生を婿候補に見ていたと思うよ。
お嬢さんの真意は明確でないが、結婚後の様子を見るに先生よりだったようには見える。 先生は、自分の友人を死に追いやったあげく、それを精神的自己ストレスの
理由にして、仕事もせずにぶらぶらし、略奪で手に入れた奥さんを勝手に
見放す、誠に勝手な人間なのです。いわば、「人間のクズ」の見本のような
人と言えるでしょう。 奥さんがお嬢さんの意思なしに認めるわけがないとか言ってただろ
先生との結婚は完全に自分の意思 お嬢さんは草食系な先生の当て馬にKを選んだだけで、Kのことなんて全然
好きではなかったと思う。
彼氏の相談をさんざん男友達にしといて、いざ男が「俺にしとけよ!」って
熱くなったら「そんなつもりじゃなかったのに…」って男二人の間で悲劇の
ヒロインぶるようなタイプ。
お嬢さんにはKは単なる当て馬でしかないから死んだことも何とも思ってい
なくて、先生に「この私はあなたを選んであげたのに一体何が不満なのよ?」
とか思ってそう。
逆に先生は自分のしでかした罪を背負うためにお嬢さんと結婚したけれど、
恋の熱がとれてくると親友を裏切ってまで欲しかったお嬢さんがこんな女
だったのかと静かに絶望。
と家庭板に毒された自分がゲスパーしてみる。 奥さんの下宿はモーツァルトにおけるウェーバー家を思い出す。 >>107
自分もそうだとは思う。
けれども下宿で二人きりできゃっきゃしたりお嬢さんとKの怪しい描写が描かれすぎている印象がある。
お嬢さんの無邪気さに起因するにしても、二人でコソコソしている理由がわからない。 >>108
モーツァルトはアロイジア・ウェーバーに振られて妹のコンスタンツェ・ウェーバーと結婚したからな。
下宿屋の母親の策略もあったでしょうね。 >>46
先生の自殺方法って、なんとなく布団の中で睡眠薬か青酸カリ使って
きれいに死んでいそう
首吊りやリスカだと、静に強いショック与えるし Kは布団の中で、頚動脈切りだっけ。
同じ方法をとりそう。
失敗もしそう。 >>114
先生は私宛の告白で「静に残酷な衝撃を与えたくない」みたいな事を
書いていたはず
だから自死の方法も見た目がきれいな薬物だと思う 私は、先生はどこか人目につかない遠いところで静かにいなくなった印象があったな。
デスノートのナオミの最期みたいに 先生の「あなたは腹の底から真面目ですか。」という質問に対して
「私」が言った「私の命が真面目なものなら、今言った事も真面目です。」って答えになってない気がするけど、どうなんだ。
余裕のないこのセリフ自体に「私」の真面目さが出ているから、先生は話すことを決心したんだろうか。
ずっと気になってたけど特に解説してくれる本も人もいないので、いまだに引っかかってる。 最初に読んだとき、Kがイニシャルで書かれているのが、
なんとなく気味悪かったのを覚えている。
自殺するという展開があったから、よけいに印象に残ったのかもしれないが・・・
「こころ」は明治版上流階級のゲイ物語ですよね。映画「ブロークバックマウンテン」は現代版ガテン男のゲイ物語。ホモ物語も読み比べ、見比べすると面白いですね。
「こころ」を現代版に書き換えるとどんな感じになるのだろう ...脈々と受け継がれ現在ではラノベと呼ばれている。 ・最初に出てくる外人の裸が気になる描写
・話したこともないオッサンに出会えないかと、毎日浜辺に出かけていたところ
生々しい描写が許されない時代だったけれども、それにしても、ゲイが気になる男に接近していく努力の過程を上手く表現出来ていると思います。
先生と私には同性愛的要素は感じません
むしろ、若かりし頃の先生のKに対する仕打ちに歪んだ愛情を感じます 「こころ」を同性愛小説として認めない人たちは、どの人も私と先生が海岸で出会い、私がしつこく海岸で待ち伏せしたときの状況や心境を上手く説明しないし、見事にスルーしている 同性愛小説だと思ってるけど、
フンドシ爺さんと「私」じゃ萌えねーんだよ
老け専うぜー!!!
あれは先生(若)とKさんの同性愛小説だ どう読もうと自由。
ホモにはホモの世界がある。
ホモの脳内のことだ。
だれも否定はできまい。 途中までしか読んでなくてごめん
先生って何歳? 明確な歳の描写って出てくるの? >>135
いちおう
ttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/2694790.html 本質をわからない愚物は、なんでも同性愛に結びつけるんだよね。