【ものぐさ】岸田秀【精神分析】
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そうやって君は上から目線に立ちたくて
魔法の言葉を並べるわけだ。
敵対する者同士は似るとはよく言ったものだ >>637さんが岸田秀も恋愛を生きがいにする人間に含まれるとか面白い話
をしてくれてるけども。そうであれば、たとえば赦されない相手との恋愛に
落ちた場合、岸田秀とその相手が合意の上で心中することも絶対ありえない
とは言えないことになりますね。その場合世間はこう言うでしょう。「すべて
は幻想と看破していた学者が幻想のために心中。ありえない。なぜこんな
馬鹿なことをやったのか」
幻想であると看破することとそれから逃れることとは別で、個人がある物語
・幻想に同一化することには運命的なものが付き纏っている。たとえば
絵画に一生を費やしてきた人間が、もう描けなくなったと思った瞬間、
首をつった、という事件も起こり得る。そういうことというのは、世間では
馬鹿だ、家族の悲しみ・世間の迷惑考えろ、というのが主流だったりもする。
しかし、人間の自由というのは有限なもので、有限であるからこそその人間
がある。というのが真理だと俺には見える。岸田の用語でいえば、幻想は
有限。だからこそ人間はある。Aさんと結ばれないならBさんと付き合えば
いい。というのは幻想というのを取換え可能であると看做すから言えるので
、実はそうではない。
実は岸田自身も、上に私が書いたことには気づいている。あの理論の
読まれ方には絶対相対性というのがある。しかし人間は絶対相対性として
は生きられない。絶対相対性として読まれてしまうから、「よくあんな
心中とか自殺とか馬鹿なことを(苦笑)全部幻想なのに」というふうな目
線で見る人があの理論から生まれてくる。しかし人間はそういう人の言う
自由としては生きられないし、生きられないことは岸田自身が知っており、
しかし幻想論としてはそのような1個の運命としての人間は揶揄されたり
愚かとされたり「岸田さんの本読んでればこんなことにはならなかったのに
(苦笑)」と思われたりする。そこで人間把握としては究極では不十分じ
ゃないのか、という感想は俺には残りますね。 >>645
岸田秀は生きるのも趣味だし死ぬのも趣味だとか言ってた気がする。
ある女性の小説家だったかエッセイストだったか
その人との対談で言ってたけど
その女性はそのあとしばらくして自殺した。
別に岸田秀の幻想論は人の自殺を回避できるとは思えない。
たいした生きる意味はないんだと思い無理して生きてた自分に別れを
告げるかも知れない。
岸田秀がそんなに簡単に幻想を取り替え可能と思っている
わけではないだろう。 >>645
岸田はこんなふうにも言ってる。
「でも、楽ですよね、全部幻想だって言っちゃえばいいんだから。」
岸田「いや、楽というのは見せかけで、心の底では悩んでる。」
「幻想だけでは解決できない?」
岸田「やっぱり解決できない問題はいっぱいありますからねえ。」
まあ、岸田秀も幻想の向こうに何かを置いているのだろう、と思う。
しかしそれが神であるとかそういうものではないだろう。
岸田秀も単に相対性だけで生きてるわけではないだろう。
本能を失った人間ならその失ったものへの希求みたいなものはあるんじゃないの?
ただ皆が自分のの見るところこそ現実であるかのように振舞って
いたときにいや誰の現実も幻想だ。という人が出てきたら
びっくりするよね。
あっちに引っ張られこっちに引っ張られ落ち着く間もなかった
人も一応一息ついたって感じじゃないか。
でも皆幻想というとあなたの言うような相対性のなかに
落ち込む危険性もあるわけだよね。 >>645
つまり絶対相対性としては生きられないのに
相対的な基準のなかで右往左往してるだけみたいなね。
岸田秀がそんなこと言ってるかどうかは別として。 >>645
ただ絶対を希求するのが人間だとしても
自分がそれを知っているとか掴んだとか言う人がたくさん出てくる
危険性はこちらにもあるよ。
だからまあ用心すべきだね。 色々なレスがあって、それに反応するのはちょっと控えて岸田秀が自分に
とって何だったかを先に書いてみたい。
彼が1980年代『現代思想』誌で登場して著名人と対談したものや、伊丹
十三とやった『哺育器の中の大人』とか、『モノンクル』とか、一時期読んで
感心してた時期があります。冴えてるな、と思ってましたね。
ただその後、俺も色々読書もし、岸田の愛読者の話も聴き、という中で、
どこかが足りない気がしてきた。それが何かは最初は見えなかったんだけど
、やはり年数の中で徐々に見えてくるものがあった。岸田の幻想という
タームにある醒め方は、人間の生涯の実相を捉えるものとしては不十分で
あり、共同幻想というところでだけは有効。というここに書いたような感想
がはっきりしてきた。岸田の愛読者はシニカルで人間嫌いで醒めたがりで。
という特徴が、あの理論に起因する、として映るようになった。そういう
知的エピゴーネンをみてて、どうも自分が人間について相当分かっていると
いう考えを抱いているようで、俺にはみててそれはひどい勘違いにみえた。
あれを愛読してこういう人間になる。こういう舐めたがり人間を生産する
というのは、岸田が望んだ読み方ではないかもしれないが。しかしそういう
愛読者を生産する要因はあそこにはある。ダメというしかないと思うように
なった。
そういうことで、俺の読み方を他の人も感じており、あの理論はもう
愛読されなくなったと勝手に思っていたところが、意外やここにこんなに
まだいるということで(笑)岸田のこともずっとフォローし、相当読んで
知っているようだし、ちょっと書いてみようと思った。 岸田も社会理論と言ってるのだからそれでいいんじゃないかな?
人間の生涯の実相ってなんだよ?そんな実相ってわからないって言ってるのが
幻想論じゃないの? そんな肩肘はって読むような本だったっけ
だいぶ前に読んで記憶も薄いけど
わりと気楽な感じの本だった気がするのだが >>651
なんか凄い使命感だなあ(笑)
こんなに(支持者)がいたのかと言ったってここ過疎スレだよ。 >>652
>岸田も社会理論と言ってる
それは知らなかったが実際には自我から岸田の理論は始まっている。社会
だけを論じている訳ではない。
>人間の生涯の実相ってなんだよ?そんな実相ってわからないって言ってる
>のが幻想論
岸田の幻想論は人間を定義するものだろう。本能が壊れ、その代理として
自我を生んだ。それが岸田のいう定義だ。そこで価値あるものを基準にし、
追求し、価値を満たすことで安定する。価値があるとみなしているが、実は
それはそう認識しているにすぎない。物語を創作し、なんとか生きていく
にすぎない。実は冷静にみれば価値もそれを追求する物語も生きていくため
に捏造された幻想である。人間の生涯などどうしようもないものだ。
立派な生涯などあるわけがない。何故なら人間は勝手な物語を作り、生きて
いくにすぎないからだ。
そういう人間観が生まれる土壌があの理論にはある。だがそれは
個人の生について回る生まれ持った資質の、あるいは育った環境の、強
いる命運へは問わない、そのため上記のような舐めた
人間観が生まれてくるにすぎない。個人の生まれ持った資質や環境が個人
をつくることへ盲目であり、物語・幻想はそこから生まれてくるものであり、
そう考えていくと、決して幻想論のいうような簡単なものではなく、
そう生きるしかなかった必然があったことが浮かび上がってくる。個人の
そういう命運について、盲目でしかない。しかもそこで軽視しうる
ことを指して「実相をつかめない」「あまりに調子のいい理論」
とみなすわけだ。
岸田の理論からはこれらは必然的に生まれてくるものだろう。読んでいれば
分かると思うが? 「全ては幻想である」みたいな「全ては〇〇」て表現は未熟な思春期の若者を引き付ける
ものがあるんだろうけど、だから岸田が間違ってるとは結びつかないと思う。 科学では全てを説明できないことを強調する人って
科学以外の何かで全てを説明出来る気になっちゃう人が多いよね >>658
どこからそんな話が出て来た?と思ったら
624を書き込んだ人間のことか >>651
「足りない」という言葉を選ぶところからみて
岸田秀の言葉だけで何かが満たされることを期待したのに
裏切られたので読者までキライになってしまったのね >>656
「環境というよりはかれのの資質だ。
なぜなら同じ環境に育った双子でも性格はちがう」「環境だけに起因させることは
できない」
というようなことで資質については語っていたね。
もちろん環境についてもまったく無視してるわけではないが。
これは酒鬼薔薇事件について述べていたときのもの。 >>653
「気楽に読める本」というよりは、「気楽に扱うことで成立する
本」といったほうが妥当だろう。実際あの理論では人間を「たいした
ものではない」「勝手な物語・幻想によって生きていく」として処理
してしまう。よって読書は暇つぶし・余暇としてしかしない知的遊び人
が主な読者になったりする。80年代からそういうところは
あった。そしてその読者に読まれる理由はあの理論に内在していたと
言える。人間への視点がそういう読者-遊び人-を呼びよせていたとい
うことだ。人間への見方がたえず醒めることを促し、何事にも本気
にはならず、斜に構え、他人の懸命な姿を流しみて内心せせら笑う。
その手の連中に好まれる傾向があったということだ。 >>664
それは岸田理論というより時代のせいじゃないの? あの頃はポストモダンとか江戸礼賛とか流行ってたしね。
大人は株や土地転がしをやってサラリーマンは接待費で浮かれ
って感じ。 >>664 >>665
時代に関係なく、岸田の本は軽く読み飛ばす連中がみな、
軽薄な遊戯的インテリかといえばそうではない。
一人の人間の中にもいろんな要素があるし、
読書家はいろんな本をいろんな扱い方で読むわけでね。
岸田のは眉唾で笑ながら軽く読み飛ばして、
他の本で真面目に学んだり考える。
そういう人も多いだろうし、それが岸田を読む姿勢として正しいということだ。 シラケ世代は70年代。
学生運動の下火、オイルショックやニクソンショックで高度成長終焉の不景気、
ウォーターゲート事件やロッキード事件で、
米大統領、日本の総理が失脚。
そういう不透明な時代に若者がシラけて、
既成の権威が崩れ、オカルトや終末論がブームになった。
岸田のものぐさシリーズが受け入れられたのはそういう時勢に乗ったから。
岸田こそ、ある意味シラけ世代の先行ランナーだった。
日本でポストモダンが流行り言葉になり、
土地転がしが横行したのは80年代後半。
シラけ世代とは時代が違うし、シラけ世代の悲観的退嬰的とも違う。
バブルは楽観的で自己肯定的だった。
江戸ブームなどまさにそれ。 >>669
80年代はけっこうシラケ世代の人が活躍してたんじゃないの?
ユーミンとか坂本龍一とか糸井重里とかは
シラけを過ごしてバブルやポストモダンの頃
開き直ったように花開いてる
「おいしい生活」なんて糸井のキャッチコピーでしょ。
そう言えば宮崎駿も岸田秀の名前を出してたりしてる。
そう単純にシラケ世代とバブル世代をキッチリ分けられないと思うね。 >>668
あんた自分の自慢話してるだけだろう(笑) 「あれもこれも幻想」というのは
ポストモダンの多様性、相対性の思想とうまく絡まって
そういうところでもてはやされた感もある。
「単に消費されるだけ」の時代に>>668のようなのが一緒になって
岸田秀を消費してたのだろう。
真面目な本を読んでたという人が
いまだにこんなスレにきてなんか言ってる >>637の話とか読んでると、幻想という呼び名とは裏腹に岸田自身は恋愛
に没頭したり、愛を語ったり、する人間だということですよね。つまり、
共同幻想にたいしては他人を無理矢理幻想の巻き添えにするかぎりでそれは
醒めた方がいい。しかし、個人の幻想にかんしてはそれで人間が自身の物語
を生きるということを肯定的に見ている。そういうことですね恐らく。でなけ
ればそれは80年代の或る種の読者が読んでいたような、知的遊びのオモチャ
にすぎない。しかし、岸田自身にはそういう知的遊戯をさせる心づもりは
なかった。ただ当時の読まれ方にはそういう知的遊戯の道具にする読者も
いたと。
共同幻想と個人幻想の差異がある、というところでは実は先に幻想のターム
を使った吉本と同じですね。吉本も1995年頃のインタビューで、「個人幻想
には共同幻想と違ってillusionという意味はない。実は同じタームで
括らない方がよいのに自分は同じ言葉で括っちゃった」と言ってる(『吉本
隆明が語る戦後55年E』政治と文学をめぐって/心的現象・歴史・民族64頁)。これが
吉本の幻想論の鍵だと思ったが、実は岸田の幻想論でも、醒めることを奨
めるのは共同幻想にたいしてであって、個人がしばしば没-交渉的な、他人
には計り知れない感性や論理で自己の運命をたどる個人幻想に
たいしてはそういうことはない。むしろ岸田自身は個人幻想の重要性を知り
、自身もそれで生きている。
そういうことでよいかと思うんですけどね。 >>675
このスレッド内で検索して
科学で説明できる出来ないって話をしてる書き込みがどこにあるかっちゅー話やがな >>676
637だけどうまくまとめてあるなあと思った。
吉本隆明はそういうこと言ってたんだ。
ああ、そういうことか、と思った。
岸田秀がそこまではっきり言及しているというのは
あいにく知らないんだけどかれの言葉の端々に時折
根源的なものを感じる。
(あるいはいくつかの文章に)
でも自覚的ではなかったのかな、と。
「哺育器の中の大人」の文庫版の解説で吉本隆明が言及していたことが
こういうことだったのかとわかってうれしい。
厳しいとともに非常に好意的な文章である。 >>679
ああ…どうもかたじけない(笑)ちなみに
>「哺育器の中の大人」の文庫版の解説で吉本隆明が言及していたこと
とはどういうことだったか教えてもらえたらありがたい。 岸田の理論は粗くて穴だらけ
いくらでもアラをついて批判は出来るし、共同幻想についての認識も批判できる
でも日本の学者には珍しく舶来思想の輸入で終わらず自分の頭で考えた痕跡は見える
そこは評価したい
そんな感じで岸田を生暖かく上から褒めてたわ、吉本は 吉本の持つ岸田観は自分のそれに近い
さすがは横綱相撲かと 岸田と吉本は関係ないんで、吉本の話はご遠慮ください >>680
「わたしははるか以前に、岸田さんとは対談を
やったことが一度だけある。
そのとき国家の共同幻想について話し合ったとき、
個人が共同幻想のなかに入りこむときは、
かならず逆立ちして幻想が身体で、身体が幻想のように
入ってゆくものだという説明が、個人幻想のの集合が
共同幻想なのだという岸田さんの考えからは
納得してもらえなかったことを記憶している。伊丹十三さんが
この本のなかで持ち出しておられたが、やはり岸田さんは現在でも
納得しておられないことがわかって、とても懐かしかった。
わたしはいまでも岸田さんを説得する自信があるが、
そんなことはどうでもいい。」
そのまえに岸田をベタ褒めって感じで
「どんな手段を折衷しても狙った獲物を射止めてしまえば
文句ないだろうとという大胆な実行者の匂いが文章や対話のなかから
にじみ出てくる。
読者はこの匂いがたまらなく好きなのにちがいない。」
そんな吉本が
個人が(自己が?)共同幻想のなかに入っていくときの
譲れないかのように言ってるので
なんだろう?と思っていた。
吉本は‘逆立ち’と自分の感覚をそのまま言葉にしているので
他の者にはちょっと伝わりにくいかもしれないな。
でも、いまでも説得する自信があると言っているから
個人と共同幻想の関係についてはかなり見極めていたのかも
知れない。 684の訂正
>個人が(自己が?)共同幻想に入っていくときの
構造は
>個人と共同幻想の関係についてはかなり自分なりに見極めて
いたのかも知れない >>680
吉本は岸田の共同幻想(社会)の見方はかなりつよく支持してるのではないか
と思った。 それから岸田の言い分としては
「社会は私的幻想の一部しか吸い上げない。
だから共同化されない私的幻想は他の集団や友達、恋人
あるいは小説を書く事や演劇をやることで私的幻想を共同化していく。
ここに自分の物語が書かれる。
もちろん社会と対立したり折り合ったりしながらなされるようなことも
あるだろう。
社会はそうして多かれ少なかれ変わりゆく。
まあひっくりかえることもあるわけだ。
社会が硬直化して人々の私的幻想をうまく開放できないというか
吸い上げきれないのであれば。 人は共同化されずに取り残された部分を自己というのかな。
すると全面的に共同化されるということはないわけだから
どこまでいっても自己は残ると。 岸田秀がユングの自己実現のことを言っている。
「自己実現というのはユングの言葉ですが、ユングは
、人間は内在的な才能、可能性があって、それを実現するのが
自己実現であって、人生というのは、その自己実現の過程であると
捉えています。たしかに、誰でも自分のなかに隠れた才能や
能力があるととらえるのは、人を元気づける考え方です。
しかし、ユング派その自己実現を容易なものと考えているわけではないのです。
ところが、最近の若い人たちが自己啓発セミナーに何十万円も
払って行ってみたり、新宗教のはしったりするのは、何か簡単に
自己実現できると考えているからでしょう。
オウム真理教など、まさにそうです。信仰して教祖の言うとおり
にしていれば、問題はすべて解決するというのですから。
>>686
岸田が吉本と対談して、吉本さんの共同幻想という言葉だか概念だかお借りしました、とか言ってたな
フォロワーというか影響を与えた人には少しは好意的になるわね
人情として >>691
そりゃあ、そうだろうけどね。
悪い気はしないだろうから。
でも、ちゃんと読んでるなあ、という気はした。
でも、そこは私の感想なので >>684>>685
引用ありがとうございます。俺もせっかくなので、2012年3月に吉本が
逝去したときの『週刊ポスト』掲載の岸田秀コメント全文書いてみます。
自分とはまったく同じとは言えないけども、影響も受け、respectも持って
いたということなようですね。二人の思想の関係を考えると興味は尽きませ
ん。
《吉本さんの考え方に出会ったのは70年代、40歳を過ぎてからでした。すべ
ての著作を読んだわけではありませんが、『共同幻想論』や『言語にとって
美とはなにか』には影響を受けました。
国家や社会は確固たる現実的基盤の上に立っているのではなく、多くの人
の共同幻想で成りたっている−吉本さんの共同幻想論に触れたとき、思わず
「そうなんだよ!」と膝を打ちたくなるほど共感しました。
かつて日本がアメリカを相手に起こした日米戦争にしても、日本人は
共同幻想によって誰一人疑うことなく、じつに真剣に戦いました。しかし、
戦争が終わるとその幻想はきれいに消え去り、誰もが「何をやってたんだ」と
我に返った。共同幻想で考えれえばストンと腑に落ちるのですが、当時、
そんなことを考える人はいませんでした。国家を幻想という概念で捉える。
−独創的な理論ですね。
10以上前に一度だけ対談をしたことがあります。私の考え方を評価してくれ
まして、「大雑把だけど自分の頭で考えている」と仰っていただきました
(笑)。
でも100%意見が一致したわけではありません。考え方が食い違うことも
あって、互いに歩み寄ることのない議論にもなりました。吉本さんは、その後
どこかで「岸田さんは私の理論を理解していないが、そのうちわかるだろう」
なんて書いていましたが、今となってはいい思い出です。》
(『週刊ポスト』2012.4.6所収『思想界の巨人を前に著名人たちも悩み考え
続けた 吉本隆明との「格闘」』より) >>693>10以上前に一度だけ対談をしたことがあります。
は誤り。
正しくは↓
“10年以上前に一度だけ対談をしたことがあります。” >>593>共同幻想で考えれえばストンと腑に落ちるのですが
正しくは↓
“共同幻想で考えればストンと腑に落ちるのですが”
むつかしいね。主体と自我との関係みたいなことなのかな?
自我が出来た時に自己をも生まれるとすれば
逆方向に互いを映し出してるとも言えるので
吉本はその感覚を逆立ちと言ったのかも知れない。
岸田は自我を私的なものと共同的なものに分けて
私的幻想を共同幻想がそのまま吸い上げるイメージ構造で
説明してるので自己が取り残される感が強い。
岸田もあまり自己という言葉は使わない。
日本人の場合自己と社会が未分化
自他が未分化ということがあるせいかなあ。 吉本の共同幻想はマルクスから来ているので
国家論から始まっている
岸田のはパーソナルな自己治療から始まっているので
起点や方向が正反対
岸田の共同幻想が個人幻想の集合なのはそのため
吉本のは個人幻想の集合のはずの共同幻想が
なぜか共同幻想になったとたん別物に変化してしまい
個人を圧迫すること、それを逆立ちと言っている だから自己と対立するものとしての自我(共同化)
と考えていいんじゃないかと思ってるわけ。
このユング流の自己を岸田はあまり語らない。
別のところでは「幻想だけでは解決できない。根源をいつも追求している」
とか岸田は言っているのであるが。
吉本のことはあまり知らないが元々詩人であることから
この内奥の自己というものに敏感なのかなと思っている。 >>698
それだとなぜ圧迫するのかという理由が語られていない。
自我(社会性)は自己疎外でもあるからだろう。 吉本の言う「逆立ち」はフロイトの言う「超自我」のこと? >>701
吉本の共同幻想が国家論から始まっているのなら
そういうふうにも考えられるよね。
岸田と吉本はどんな対談をしたのかな? 今年の4月に出た岸田秀・訳「高校生からのフロイト漫画講座」
では岸田のあとがきでもフロイト表記になっているので
まあ、いいんじゃないでしょうか(笑) 新刊出てるの発見して久々にこのスレ来てみたら結構伸びてんじゃん
うれしいことだ >>705
久しぶりに俺がここに来たからだろ
アンチや信者にうまくパス回ししてるからさ 岸田さんの場合、私的幻想と共同幻想の差異というところにいつも重点が
置かれていて、たとえば人間は根本善人であるという、或いは家族は分かり
合えるという、或いは話せば分かるという、そういった諸々共同幻想があり、
桎梏になってたり、抑圧になってたり、それがいつでも行為の分析のときに
出てくるものとしてある。
しかしじゃあその私的幻想、嗜好と言ってもいいが、がどうやって生まれた
のか、というところではいくつか発言を読んだ限り、手ぶらに近い感じが
あります。共同幻想の質や強度によって反発や同化やが生まれ、それに伴い
私的幻想の発露の仕方も柔らかくなったり強くなったりもする。
酒鬼薔薇事件の分析で「酒鬼薔薇くんの独創性」ということで「自分を
作った独創性」ということを言っています。遺伝や環境プラス本人が選択
したpersonalityがあると。柳美里との対談「荒れる子供たち」で言ってい
る。 707つづき
しかしその場合、選択するといっても、可能性が本人には見えない場合、
つまり前にもここに書いたように、個人の可能性というのは無限ではない。
世界というのは無限ではない。快楽殺人という内面というところで既に内面は
決定されてしまっている訳だから、生き物を殺すことで射精するような
内面が物ごころついたときに既にあったというのは、「自分でpersonalityを
選択した」とされるのはちょっと酷だし「選択」にはなってないと思います
ね。どうしてその内面がじゃあ既にあったかといえば、酒鬼薔薇くんの責任
ではないだろう。つまり、個人の内面がどう形成されていくのか、という
ところでの見方・方法がない。そこでは岸田さんの視点はちょっと粗雑に
過ぎる。強引に過ぎると思う。その辺で岸田さんの幻想論は文明批評として
の方法にはなるんだけど、個々の内面性へは届かないところが出てくるよう
に思える。
もっと言えば、個人の幻想が生成する過程での世界-経歴という概念がない
。自我に先行し、personalityの因子となる経験の概念がない。それだと個人
の幻想の生成には届きはしない。なので先の分析のような粗雑さが出てきち
ゃう。あれが「選択」なら一層重罪になる。しかし今の心理学でも岸田さん
のようなそういう見方はさすがにしないだろうし、酒鬼薔薇くんへも、更生
記録を仄聞したかぎりは更生の方法はよく考えられていたようなんで、さほ
ど心配はしてないんだけど。 >>706
ああそうなの?
ご苦労さま
コテまで湧いてにぎやかでいいね〜 酒鬼薔薇は殺人者遺伝子と親がイカレてたのが原因で、独創でもなんでもない
遺伝子と環境につくられただけ、本人の意思なんか介在しない、平気で人殺せる奴に
自由な意思なんてものはない、何も考えないからできるだけ、独創性とは真逆 遺伝子と環境と選択というのを岸田さんは行為の因子として置いているよう
だが。そこが曖昧にすぎると思う。個体の心への視線としては役に立たない。
岸田さんの言うように可能性はあるに決まっているわけだがその可能性は
有限なもの。制限されたもの。選択はあるが、選択される駒はすでに決定さ
れている訳で、そこで自由はなかったと捉えられる。岸田さんの発育観はそ
こが曖昧なので責任論に簡単に滑り落ちてしまう。「殺傷によってのみ性的
快楽が持ち得る」というのは悲惨な事態であって、「悲惨」であるという認
識がどうも岸田さんにはない。それがなければ更生の根拠自体が曖昧になる
。自己が自由に選択したとなれば自己責任論だから悲
惨だとかの認識にはならない。人間ができるだけ自由であろうとするのは普
遍的な性質であるが、にもかかわらずああいった内面性にしかならなかった。
その事実への眼差しが必要なわけで。方法として貧困である。
精神疾患への偏見は根強い。岸田さんの理論は「正常」という概念が
共同幻想であるというところまでは行くが、では精神がどう生成するか、とい
うところは手ぶらであり、どこかミシェル・フーコーに似ており、共同幻想
批判としては有効だが個体そのものの考察としては無力という感じがある。 このスレを眺めてて改めて思ったのは
誰かが発明した体系的な理屈を
「ここがなんか違いそう、あそこに違和感がある」って
各論をもっともらしく批判するのはわりと簡単に出来るけど
その批判をまとめて並べても
元のたたき台にとって替わるような一貫性の有る体系的な説明に
なるかというとぜんぜんなりそうもないってこと 長文のやつは同じ日本語とは思えないくらい何言ってるかわからないw
本人は気持ちいいんだろうけど
簡潔に誰にでも理解できるように表現しないのはなぜなのか
そんなテーマの話もあったねそういえば >>713
いいんじゃないの?別に全否定してるわけではないので。
>>714
誰でも理解できるなんてことはありえないよ。岸田のいうことだって
ある人には
よくわからないこともあるので伊丹も「保育器の中の大人」
で繰り返しあれこれ質問しているのだろう。 >>713
おまえ頭悪そうだな
読んでて恥ずかしいよ その伊丹が岸田が好きでなかったラカン派の人と
次に「快の打出の小槌」の講義を出してるのは面白いね。
伊丹とは最後まで親しくしていたわけだけど。 717
>伊丹とは最後まで親しくしていたわけだけど
岸田は 分かりやすい文章で書いてくれ
読みやすい文章で書いてくれ
手短にシンプルに書いてくれ
長くなりそうならレス番分けてくれ
長文の人の文章は、本当何言ってるか分からん
理解したいという気持ちはあるんだが、論旨に全然ついていけん >>713
まあ、こういう短文をレスし合う匿名掲示板で
独自の広範な世界観を示せと言われてもそれは無理だな
個別の案件に対するレスをつないでもそれが
広く網羅された世界観になるわけもないし
スレを上から眺めて優越感を得たい痛い子としか思えんなぁ >>707
岸田秀がそういう言い方をしてるとしたら意外です。
私の知ってるところは岸田秀の言わんとするところは
彼の場合、「殺人が趣味」だという結論です。
「オウムの場合には信仰のためといいう一般には通じないにしても
一応理屈があった」
「しかし、少年の場合には、一般に通じるも通じないも、まったく理屈がない。
殺人が趣味としかいえません。」
「殺人が趣味となると、それは当然、人々に通じるものではないですから、
世の中のひとは大きなショックを受けることになったわけです。」 722(つづき)
「社会的な議論にもなったのは、14歳の少年ということで、
大人のような罪は問えないということです。」
「少年だからこそ、こうした子供を生み出した社会や学校教育、家庭
ということに注目が集まったと言う面があります。」
「しかし、しゃかいや学校が悪いといったっら、本人には
責任はないのかということになります。」
「責任と権利は一体です。大人と同じような責任を問うならば、
権利も与えなければいけないということです。」 722や723のような論旨を中心にして
少年法や家庭、社会の問題、精神鑑定のむつかしさなどについても
語っています。
彼は社会のなかで彼のような性格の殺人やらそのほかの犯罪を
どう扱えばいいかに焦点をあてているのであって
彼自身の趣味がかれが選べるものではないから
彼の罪であるのかどうかということを論じているのでは
ないと思います。 私もその柳美里との対談は読んでみようと思います。
読んだかもしれませんが忘れているので。
722.723などは「日本人の不安を精神分析する」
のなかの第2章の酒鬼薔薇事件から引用。 >>722>>723>>724>>725
はあ。なあるほど。私も「日本人の不安を精神分析する」 は読んで
みようと思います。それで、“酒鬼薔薇くんの選択”というところを
喋ってる箇所をせっかくなので私も一部抜粋してみます。
《遺伝か環境かというのは昔からある論争だけど、遺伝説も環境説も
、正反対でありながら遺伝プラス環境ですべてであって、本人に責任
がないという点では一致しているんですね。しかし、遺伝と環境で全部
説明がつくわけじゃない。人間と言うのはオリジナリティーという
ものがあるんだと、だからこういう遺伝的条件とこういう環境的条件
があって、それらの条件の規定の中にいるということは間違いないけ
ども、それらの条件で人間というのは100%決定されるのではなくて、
それらの条件をとらえ返して、どういうパーソナリティーを形成する
か、というところに本人の決断と選択があるんであってね。
だから酒鬼薔薇くんは、そういうような条件の中でああいう行動を
するようなパーソナリティーを自分で独創的に……。独創性というと
なにかいいことみたいだけど、悪い独創性もあるんで、彼の個性という
か、彼はそういう状況の中でああいうパーソナリティーを選択したんだ
と考えなきゃいけないんじゃないかと思うんですけどね。》
(『しゃべる唯幻論者』「柳美里との対談 荒れる子供たち」青土社
174-175頁) それは彼なりの選択があった。ということじゃないですか?
それなりに子供たちには快があるので昆虫採集をする。
そういう趣味の選択はあるんじゃないかな。
普通子供が昆虫採集でとどまるところを彼は人を殺すというところまで
趣味が高じたというか。
趣味を持つのにいいとか悪いとかないですが
社会的に問題だ。ということではないでしょうか?
人間存在の不条理でしょうが。 この人間存在の不条理を社会はどう解決するかを
問うているのではないでしょうか? まあ、岸田氏も「根源的な追求に最終的な答えなんかないと思う。」
と言ってるので解決なんてないんでしょうが。
根源的なところを問題提起するということはやりつづけたいんでしょう。 >>722
橋本治がサカキバラのことを「少年の犯罪だと驚く人もいるが自分は逆。
あれが大の大人の犯罪ならそっちの方が恐ろしい」とか書いてたな。
橋本は別のことで、「幼児サディズムを人は克服できるか?」みたいなことも書いていたな。
たしかに子供はまだ痛みがわらんし常識も理性もないから、
ときに理不尽に残酷になるわね。
虫をいたぶりながら殺して喜ぶとかさ。 >>721
心に突き刺さった言葉だけ抜き出したのだね
721をネタに自己分析をしてみなさい 人殺しを独創性と言うのは間違ってるね
薬物中毒と同じで自分で自分を制御できなくて殺しただけだろ
独創性は自分の意思と努力から生まれるものだろ 薬物中毒でもないのになぜ自分を制御できなくなるんだろうか? >>732
岸田はその自分の意思とか努力を言ってるみたい。
独創性はプラスのパワーを持つこともあれば
マイナスのパワーを持つこともあるということ。 岸田「独創性というとなにかいいことみたいだけど、悪い独創性も
あるんで、彼の個性というか、彼はそういう状況の
中でああいうパーソナリティを選択したんだと考えなきゃ
いけないんじゃないかと思うんですけどね。」
「そういう中からやっぱりニュートンならニュートン、フロイドなら
フロイドが出てきたんで、そういう条件の中から本人が自分をそのように
作っていったということでね。」 独創性のマイナスパワーが人殺しで、プラスのパワーが科学者の発明、芸術家の作品だって言うのか?
どっちにしろ選択って言葉には違和感があるね、特に人殺しだの薬物中毒だのを自分の意思で冷静に分析して
選択する奴なんているのかよ
昆虫採集と人殺しを同列に扱ってるなんてクレイジーだな だからあの酒鬼薔薇事件と、今の一連の少年たちがキレる
と言われてるのとは一緒にできないなあという気はしますね。
と柳の発言が続く。
つまり酒鬼薔薇少年は自分のパーソナリティに自覚的だったということかな。
「ぼくはあのアニメに出てくる堀越二郎みたいになろう」
みたいな? >>736
>昆虫採集と人殺しを同列に扱ってるなんてクレイジーだな
だからショックを受けてるんじゃないの? >>736
選択といっても感覚的なものだと思うよ。
道義的なこととか規範的なことを考慮するわけじゃない。
趣味的なものを選択するわけだから おいお前ら、近親相姦ネタは興味あるかい?
父親とセックスしたがってる女がいて相談求めてるみたいなんだけどさ
いまんとこいろいろ聞き出したり乱暴に解釈ぶつけてその反応を見てるとこ
俺の興味としては近親相姦のタブーを乗り越えるメカニズムみたいなの事を考えてるわけよ ひとりであれこれ考えるのも楽しいんだけど、たまにはお前らと一緒にワイワイ考えるのもいいかなと思って
未熟な俺の唯幻論の理解を助ける、相談者の助けになるかも
という2つの目的なわけです
興味ある方いたらスレ紹介させていただきたいのでありまうす ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています