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昔、あるTVのバラエティー番組で、ホモ・セクシャルを揶揄した演出が問題になった。男にとってホモ・ジーニアスに関する問題は、性の根本的な問題であると私は思う。
別に男を性的な対象としたっていいが、人を不快にさせてはいけない。それはお互い様なのだ。
藤山昇は、恐らくゲイであるが、私はちっとも気持ち悪くなかった。人懐こくって人間らしい人間だった。それに対して川内は気持ち悪かった。
男の性向は倒錯しやすいから気持ち悪いのだが、正直者は気持ち悪くなくて、ペニスを押し付けてくるようなやつは、やっぱり気持ち悪い。
女は男の性向を一身に受けやすいから、さぞ毎日見知らぬ男に不快感を示していることだろう。そのこのは想像に難くない。
ただ疑問がある。それは女の喜びは、いつ訪れるのか、という疑問だ。どこからが合意の上で、どこからがセクハラになるのか。
見知らぬ女とやるとみっともない、恥ずかしい一人の雄になったような感情を抱くのは何故か?
結局受け入れて喜ぶなら、女は初めから男を受け入れればいい、というのが雄の意見だが、受け入れるのに時間が必要だと和恵は言った。
いつ手を出すか、それがわからない。性向はない方がいいのだろうか? これだけ互いが待ち望んでいるというのに。
私の結論は、やはり手を出すべきではない、というものだった。川内にセクハラを受けてわかる。私は手を出すべきではない。
「いや、それは違うぞ」とある日、松山さんは言った。私は、それとなく松山さんに、この問題を話した時のことだ。
「正直、よくわからないです」と私は正直に答えた。
「無理やり行かねーと手に入らないぞ」松山さんは