>>197
ショウペンハウエル読者について
引用
いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。
引用終了

キミの主張そのままですね。
ようは、鵜呑みにせずに考えろ。
これはキミにそのまま、ブーメランとして言えてしまうんです。

ショウペンハウエルを読んだならば、それが本当にそうなのか、知能を使って考えなければならないんですよ。
大量にかき集めた知識より自分で考えた事の方が〈本当に〉価値があるのかという事を、検討しなければいけない。

キミのいう実存とやらが何なのか私の知った事ではありませんが、哲学領域では、実存主義といえば構造主義に破壊されているというのが通説であるわけですね。
実存主義は代置しえない個別的実存のもつ哲学的重要性を強調する立場とされ、
構造主義は自覚的な意識や主体性に、いわば、無意識の秩序が先行していることを示す。

例えばキミは個を強調しますが日本語を使っていますね。当然ながらオリジナル言語ではない。
日本語を使う以上は文法のワクの中でしか言葉を駆使できない。
自分の頭で考えているように見えても、日本人が慣習で育んできた語彙に則って会話する事しかできない。
日本語は無生物主語が苦手ですから、モノ優先の認知はされにくくなるわけです。
「風がドアを開けた」のような認知は、詩的に新鮮でしょう。
実存と構造という概念を知らなければ、自分の頭がレールに乗って動いている事すら気づけない。
自分で考え込んだつもりでも、文法のレールに従わせられた思考は代置しえない個別的実存にはなりえない。
逆にレールに気付けば文法の盲点から個別性の高い思考を展開できるのです。

自分の頭だけで考える事〈実存〉に盲点が生じているときには、大量に集めた知識は盲点を突くヒントになりえ、そのケースにおいてショウペンハウエル論の「自分で考える>データ」という式の価値は逆転する。
皮肉な事に、こう考えるとショウペンハウエルの極論は、むしろそれを鵜呑みにする者をせせら笑うものなのとも言えるのです。
そんな極論を頭から信用して、知識も集めず検証もせずに鵜呑みにしているキミをこそ、馬鹿にしているのです。