お前らSNSでどれくらいいいね付くの?
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Canonの5D系とR5
最高記録が一投稿で6000かな
一番最近のが3000くらい ガンレフはSNSなの?
投稿するだけで他人のを評価しないし、コメント付いても反応しないから全然増えないな
今日の1枚とかFPに選ばれても気がついたときには流れてることが多いし SNSでの写真評価の基準とフォトコンとかの評価の基準って全然違うよな当たり前だけど >>11
フォトコンは審査員の好み次第な部分が大きいからな
専門家しか理解出来ない作品より今やSNSで評価される方が遥かに権威が強いよな >>13
影響力は全然違うだろうね
そうなると塗り絵みたいな破綻した写真も影響力あれば強いってことになるのが少し悲しい 一発勝負の写真だからインパクト勝負だからそれも戦術
これが写真集とか個展だと目が疲れて五月蝿い写真なのがバレるけど
小さいスマホで見るSNSにはSNSに向いた写真があるからね SNSでいいねがつく写真と印刷して家に飾る写真と全く別物だからな
まあ上手い人は両方撮れるけど下手くそに限って「俺はSNSで通用しないだけ」とか勘違いしてるけど インスタ映えスポットで塗り絵みたいにすればいいんじゃないの? >>17
そう思うなら試しにやってみてインフルエンサーになってから自分本来のスタイルを見せればいいじゃん
結果も出せないのに出来るような言い方ってプロ野球選手にダメ出しするおっさんみたいでめっちゃダサいで >>18
その手のやつはもう卒業しましましたよ
彩度ギラギラ笑バカじゃないかと思っちゃう >>20
お前はなにか評価されてるような言いぐさだな いいねがいっぱい欲しいなら
どんな写真を撮るかじゃなくて
どんな♯をつけるかだよ 適当に名所に行きまくって写真撮ってりゃ安定していいね付く お前らはこうやったらいいねがたくさんついたよじゃなくて他人のいいねがたくさんついた写真に対してこんなの○○してるだけ!って小馬鹿にしてるようにしか見えん >>25
そこへ行けば撮れる写真で彩度ギラギラにしてるだけ
戦争でも起きたかのような夕焼けこやけ
バカの一つ覚えの神社仏閣等に和傘。
バカの一つ覚えの麦わら帽子にボストンバック女の後ろ姿 >>11
M1審査員wみたいなもん
大衆相手のお笑いなのに、それを評価するのが大衆じゃないっていうね。
一般人ウケしてないのに審査員の評価がたかいって、言い換えりゃ審査員の感覚がズレてるだけだからな。 爺の写真ってどんな加工をしても無駄だと思うの。
真っ黒にして何かの名画に例えるオナニーしたままが一番いい。 >>27
でもそれ以下の評価のお前ってもっと下手ってことじゃん ちゃんといいカメラ使ってるんだから200〜300くらいはいいね付くよな
まさかスマホに負けてるのに彩度が〜とか言い訳してないよな? フォローもフォロワーもゼロで非公開にしているからゼロだよ まともにポートレートよりレタッチ頼みの後ろ姿のやつに何千もいいね。付いてるとムカついてくる 昔は、真っ正面から真剣に文学論を闘わせるような気風もあったが、最近では、「争いがいけない」「嫌われたくない」ということばかり優先するようになり、
友達の数やSNSの「いいね」の数を誇るようになってしまった。しかし、そもそも「人から好かれよう」と思うのは卑しい考えで、「友達の数が多いほどいい」という考えは物質主義の行きついた虚無思想の代表なのである。
今はすべてが数で判断され、ベストセラーがよい本とされるが、昔は売れる本はむしろバカにされた。求めるべきは数ではなく質なのに、数でものを見るグローバリズムという消費文明が世界を覆ってしまったのだ。
思えば一昔前は、食べ物をじっと見ただけで「卑しい」と叱られるような社会だった。(全12話中第8話) ●「争いがいけない」「嫌われたくない」でダメになった現代社会
―― 先生は若い頃にいろいろ、いわゆる文学青年同士の付き合いがありました。
執行 たくさんありました。
―― そういう話の中で魂と魂をぶつけ合うような議論というか、討論会みたいなものもあったと思います。それはもう全力で、それぞれがぶつけ合うということでしょうか?
執行 これはもう全力で、喧嘩してでも意見をぶつけ合うしかない。それ以外は文学論ではありません。現代社会は「喧嘩がいけない」とか「争いがいけない」となってしまったので、文学論などもしづらくなっています。でも私の学生時代まではありました。
―― 飲み屋とか、特定の地域(よく名前が挙がったりしますが)にしょっちゅう作家さんが集まって喧嘩しているといった話もありました。
執行 ありました。私も大学生まではよく、好きな作家の家に遊びに行って、みんなで文学論をやりました。それで一時期、大喧嘩になったとか、いろいろあります。
―― それも含めて、体当たりということですね。自分の信条をそのまま吐露して。
執行 これはもう、やって失敗して、覚えるしかない。
―― その繰り返しこそが、一つの結果を作っていく。
執行 もちろんそうです 自分自身を作っていくということですね。
執行 武士道も全部そうです。山本常朝も「自分が失敗していくしかない」といったことを言っています。人の失敗から学ぶことはできません。人とは運命が違うから。
―― だからこそ体当たりを繰り返して、どんどん失敗して覚えていく。
執行 今は「嫌われたくない」と思う人が特に多いようですが、人に嫌われることは非常に重要なことです。どういう人にどう嫌われたかで、また自分がわかるわけです。だからあえて嫌われるように人生を送ってみなければダメです。私はそう思います。
嫌われたって、何てことありません。「得しよう」と思っていなければ。
だいたい、他人に「好かれよう」というのは卑しいじゃないですか。なぜ、現代人はそう思わないのでしょう。 かつては「売れた本」は「程度が低い」とバカにされた
―― 不思議な歌がありまして、小学校1年生になったときに歌う歌で、「友達100人できるかな」というものがあります。ああいう発想はよくないということですね。友達の数ではない。最近は、とくにツイッターとかフェイスブックとか、SNS等でもフォロワー数が……。
執行 あれが、最もくだらない。あれが物質主義の行き着いた虚無思想の代表です。友達や友情、愛といった魂の問題は、人類発生以来、「質」に決まってます。そんなものを数で考えるのは、魂が物質化してきたということです。だから私は、人類は滅びるのではないかというのです。
―― そこに質がない。数だけを誇るということには。
執行 「いいね」みたいなものは、とくにそうです。友達も友情の深さより、数をいばっている人がいますね。友達が多いとかで。
―― 「フォロワーが多くていいね」「私のは全然伸びなくて」みたいなことを言う人も、おそらくいるといます。
執行 今はそういう風潮です。ものすごく、くだらない考え方です。そんなことを悩んでいる人間自体が、私から言わせれば知能を疑います。悩むことそのものが ベートーヴェンの第九の歌詞に「本当に惹かれ合う友人を得た者が(ともに喜びの声を上げよう)」といったメッセージがあります。
人間たるものはそこを追求していかなければいけない。
執行 愛と一緒です。愛も友情もすべて一緒。信頼も。そうした人類にとって一番重要だったものが、今、物質文明、消費文明、グローバリズムによって、どんどん壊されているわけです。
―― 「数」になってしまった。
執行 すべてのものが「数」になる。今だと本だって売上げでしょう。
―― まあ、そうですね。
執行 昔は「何冊売れたか」なんて問題にした書物はありません。とくに19世紀までは。議論の対象は内容に決まっています。20世紀の中頃から売れた数が本の価値みたいになってきた。
―― ベストセラーのランキングみたいなかたちで。
執行 そうなってきてしまった。最初にベストセラーが出た頃は、「ベストセラー」という言葉がどのくらいくだらないかをみんな言っていたのに、すっかりなくなりました。
私が小さい頃、60年ぐらい前まではありましたが、私が10歳になる頃、高度成長ぐらいからなくなりました。
―― 確かに昔はちょっと分かれていました。「これは大衆が読む売れる本」とか。
執行 売れた本なんか、かえってバカにされる。
―― そういう傾向がありましたね。
執行 学問をやっている人はみんな、人気がある本やたくさん売れた本は「ああ、そうだろうな。あいつの本は程度が低いから」と言っていました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています