マルクス経済学初学者スレ
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マルクス経済学を初めて勉強する人のスレッドです。
マルクスのここが分からないとか分かり難いというところを
書き込んでいきましょう。 当初は様々な産業部門で利潤率がバラバラでも、やがて利潤率の高い部門に参入していく。 利潤は差し詰め割引キャッシュフローを追い求める行為であり、利潤率は割引率を追い求めることにイメージが近い。 全部門は平均利潤率に落ち着き、平均利潤率によって得られる利潤を平均利潤という 商品の価格は価値CVMから離れ、費用価格+平均利潤という生産価格に転化する 剰余価値を不変資本にどんどん投入していくと利潤率M/(C+V)は低下していく。
これを利潤率の傾向的低下の法則という。 >>128 まで
余りにもモデルがstatisticalと非難され、現実と照らし合わせた
ところ照合しないと言われていたね。シューンペーターが反証
した記憶がある。
三位一体定式。
利子の所得源泉は資本、地代の所得源泉は土地、賃金の所得源泉は労働である。
マルクスによるとこの考えはあまりにも表面的。ただの利潤の分岐である 利潤率はどんどん下がる。労働者の賃金はドンドン減る。
生産量は増えていき、需給のバランスが崩れ、商品が売れなる。
一気に恐慌が起こり、企業が淘汰され、再スタートとなる。 とりあえず以上で終わります(止めます)。
書き込みはどっかでまとめます。
今までありがとうございました。 128さん
追加投資は利潤率を低下させるとは限らない。という理解でよろしいか >128 :革命的名無しさん:2010/12/25(土) 21:52:59
>剰余価値を不変資本にどんどん投入していくと利潤率M/(C+V)は低下していく。
>これを利潤率の傾向的低下の法則という。
利益剰余金は自己資本として計上されるので、継続的に黒字を生み出している
企業は自己資本率が上昇し、株主資本利益率(ROE)が下がるということですな。
でもそれはまた、何か不測の事態が起きた場合の倒産確率が下がるということ
でもある。
なぜかというと、自己資本部分の資本コスト(=リスクテイクに対する見返り
=配当+株価上昇)は、他人資本(=借入金)部分の資本コスト(=利息)より
高くあることが市場から要求される一方、経営が苦しくなった場合でも利息は
事前に定められた額を定められた期日に支払わないといけないが、配当は無理
して払う必要はないから(正確に言うと、配当として社外に出す現金の額をい
くらにするかの最終的な決定権は株主にあり、株主の過半数が企業の継続を求め
る限りは、無理な配当支払いは回避されるということ。)
ここがいい例。
http://ediunet.jp/company/3593/
自己資本率85%でROE8.4%というのは
あまりにも高すぎる防護用の砦を築きすぎているともいえる。
なかで経営者がサボってる恐れもあるが、創業家が株式を
たくさん保有しているので、他の株主の意見は通りにくい。
事業自体は順調だが、こういう企業は市場からの高い評価は
得にくい。 2ちゃんねるニュース速報+ナビ(RSS生成可)http://www.2nn.jp/ >>38, >>134
ほんだば、ご要望さ応えてコピペの続投なんぞ。
492 名前:OFW :02/06/07 06:28
>>484
>経済学は対象が非合理であるがゆえに、まだ科学に達していない
ここでの「批判」という言葉は倫理的ではなく、科学としての成立要件に対する限界設定という
認識論的な意味合いが含まれています。 経済学に限らず社会科学の研究対象は生きた主体ですから、
自然科学のような客観性を得ることは一定の条件内でしかできない。
「まだ科学に達していない」より「既に科学を超えている」と言う方が適切でしょう。
>ここを、もっとくわしくお願いします。
価値概念を持たない近代経済学が<価格の分析>を行な(っているように見)えるのは、
貨幣を<価値自体>として自明な前提にしているから。
小学校でも「需要と供給の均衡」という(ミクロ)経済学の“大”法則は習うでしょうが、
そこでの説明(いわゆる需要曲線と供給曲線の交点が価格と需給量を同時に決定する)とは奇妙なものです。
1.価格とは正確には<単価>(=商品単位当たりの○○)ですが、
(商品量×単価)つまり販売額が何を表わしているのか(○○とは何なのか)の説明がない。
それは単なる貨幣量(例:金xxg、紙幣xx円、電子マネーxx単位等)であり、
貨幣とは「何でも買える便利なもの」という位ですね。それは何ら科学的な説明ではない。
2.需要といっても、貨幣を所持して市場に登場する必要があるが、それはどこから手に入れたのか?
「市場から」と言うなら、それは循 環論法ですね。
また、異なる商品種に対する最大の効用量(満足度)とは何なのか?(欲求が貨幣に換算(変容)されている。)
3.供給といっても、利潤最大を目指すための販売であり、利潤=売上−仕入(あるいは売上原価)である以上、
既に決まった仕入額(あるいは売上原価)から利潤が如何に発生するのか(結果論ではない)説明が必要ですが、
通常は「付加価値」といった偽の概念でごまかす位ですね。 等々。
>「価格」も労働時間に規定されるということですか?
当然そうです。市場価格はそこからの変動(偏差)しか表現しない。
494 名前:OFW :02/06/08 09:28
>>493
>労賃と利潤はどうちがうのですか?
スレのテーマであるマルクス自身の“しっかりとした”説明(1847年の労働者向けの講演会で述べた内容)が
『賃労働と資本』として公表されています。(下記サイトに電子化されているので、簡単に読める。)
ttp://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/chin0.html
少し引用すると、
「賃金とは、労働力の価格・・ふつう労働の価格とよばれている・・にたいする、
人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。」
「資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、
あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。資本のこれらの構成部分はみな、
労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。
新しい生産のための手段として役だつ蓄積された労働が、資本である。」
「直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、
蓄積された労働を資本とするのである。」
>階級差を規定する定義は?
一般的には<生産手段に対する所有関係>が階級を規定します。
<生産手段>とは、土地、海洋、原材料等の労働対象と、施設設備、道具、機械等の労働手段とに大別され、
衣食住のための<生活手段>と対比されます。生産手段と労働力の結合が生産活動であり、
その最終生産物が生活手段(資料)ですね。
資本家階級は、生産手段を私有し、他人の労働力を使用する。労働者階級は、他人の生産手段に結合されて、
自らの労働力を使用する。自営業者(小ブルジョア階級の一部)は生産手段を私有し、かつ自ら労働する、
という中間的な位置にある。
495 名前:OFW :02/06/08 09:30
>>493(つづき)
>ゲイツやヒッキーの労賃も、<平均>すれば、けっきょくは適正価格になるのですか?
経営者(トップマネジメント)とは資本家階級の一部(代理人)であり、
その収入は利潤の一部から充当されるものです(彼らは従業員ではなくその収入は労賃ではないから、
価格はなく、適正な値もない)。
他人に雇われないクリエータ(自由業)も自営業ですね(その収入は自己に支払う労賃プラス利潤と言える。)
>ヒッキー(クリエーター)の労働時間を、どうやって計測するか
社会的平均から大きく外れた人(あるいは事象)は、確かに世の注目を浴び、羨望の的にもなるが、
科学者は例外事象として統計から外すでしょうね。(幻想を売る場合は、また違うが。)
>それとも、クリエーターの作業は、労働とは言えないのですか?
もちろん労働ですが、上にも述べたように、生産労働ではなくサービス労働(消費的労働)です。
クリエータ(創造者、たとえば歌手)は芸術的・精神的な価値をもつ作品を産み出すが、
それは経済的な価値をもつもの(商品)としてはCDやCMコピーとして市場に出てくる。
それらはレコード会社や広告代理店という資本主義的企業の所有に属し、
歌声や笑い顔はCD生産の原材料として製造原価に算入すべき(工業簿記)か、
著作権料として販売管理費(経費)に算入すべき(商業簿記)か、経理課でも迷うかな(笑)。
505 名前:OFW :02/06/09 08:09
>>496
>なるほど、クリエーターの労働はあくまでも例外事象であって、マルクス経済学が注目するのはCD製造とか、
>製本などの工業的作業過程の労働だということですね?
全く違うな。上で言ったのは、
1.資本主義経済の下での基本的な階級区分は、
資本家階級/労働者階級/中産階級(小ブルジョア階級)に大別され、
クリエータ(正確に何を指すのか不明だが)が資本家に雇われなければ、自営業として第3の階級に属する。
しかし、その商品は企業化されざるを得ないため、結局第1の階級に従属する「中間的で動揺した部分」(マルクス)だ、
ということであり、中産階級(の労働)は例外事象ではない(確かに、ウォルフレンが言うように、
日本の中産階級は弱過ぎで、“先進”諸国の中でも例外的かな(笑))。
2.例外事象とは、ゲイツやヒッキーという飛び抜けた個人の例を指しているのであり、
「社会的に必要な平均的労働時間」の計測にとっては例外的なものだということ。
3.ゲイツやヒッキーの「労働」は決して賃労働(労働力商品の販売)ではなく、その収入は賃金ではないということ。
労働(Work,仕事)一般と賃労働(Labor,労働力商品)とを混同するのは、
マルクスの時代からあった意図的なゴマカシでもある。
4.「マルクス経済学」の話はどこにもなく、資本主義企業での経理(近代会計学)の話。
また、>>474で書いたように、日本の「マルクス経済学」なるものはマルクスの思想を誤解していると。
>それだけのリスクをつねに背負っているのに、
>資本主義社会では資本家が労働者を搾取していると主張されるのはどういうことでしょうか?
「ハイリスク・ハイリターン」(マルクス謂う所の「命がけの飛躍」の現代的表現)と搾取(剰余価値の形成とその帰属)とは
直接関係がない。
搾取とは剰余価値(形成された価値の必要労働分以上の余剰)に関して、
それが等価交換原則から外れている(不払い労働)事情の俗称です。
506 名前:OFW :02/06/09 08:12
>>496(つづき)
>リスクを背負う以上、それ相応の分け前をもらうのは当然ではないでしょうか?
初期の「冒険資本主義」の時代から、リスクは常に一攫千金の夢と共にあるものだが、
賃労働者には夢は無い反面、失業、過労死、労働災害、精神破壊の高いリスクがあることを忘れずに。
また「分け前の正当性」という、昔の労働組合までが使った余り適切とは言えない議論が重要なのではなく、
>>494で引用したマルクス自身が説いているように、「労働者が自らの生産した生産物(資本)によって支配される」という
<物象化、疎外>が本質的な問題なのだということ。
資本家とは資本というモノ、カネに憑かれた非ー人間(これは道徳的意味ではなく、論理的意味として)に過ぎないので、
確かに資本家自身が資本の限度のないリスクの犠牲者だとも言える。
(「あなた人間止めますか、それとも資本家止めますか」ちゃて。)
>共産主義社会が成立して、資本家も労働者も収入が同じになる
共産主義は階級(資本家と労働者の区別)自体の廃絶を目指す運動です。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という労働・分配原則は、
“分け前”といったブルジョア的な原則とはレベルが異なるもの。
529 名前:OFW :02/06/12 06:13
>>507
>自由な立場で商品選択させて、そこには強制はないから。
「自由とは何か?」とは古来から哲学上の大問題だが、
「形式的な自由を恣意と呼ぶ。その内容は他から与えられており、自己が産み出したものではないため、
それは真の自由ではない。」(ヘーゲル、パラフレーズ付き)くらいは心得ておこう。
選択の自由とはまさに与えられた枠内で選ぶ恣意に過ぎない。
>旧共産圏
「旧国家資本主義圏」の誤り。前スレその他で繰り返し言っているが。
>>508
>ブルジョア的な自由
とは、利己的な個人の恣意そして貨幣価値の増殖の自由でしかない。
>理性の設計による権力の大きな惨劇
<理性の設計>などどこにあったのかな?たとえば、いわゆる計画経済は実は恣意的な強制経済だったわけで、
“理性的”官僚のトップダウン方式は民主的な要素に欠けるために実は無計画なのは、日本でも同じ。
>>509
>「マルクスその可能性の中心」を読んだこと
だいぶ前に読んだので詳細まで憶えてないが、後に著者自身が語っている通り、「どこにも<中心>が書かれていない。
こりゃ看板に偽りありだ。」と当時感じた記憶がありますね。特に「賃金が前払いだという点がポイントだ」とか・・・。
>>510
>20世紀にあれほど多くの人命を奪ったマルクス主義
相変わらずのステレオタイプな意見だが、
どれほどの人命が<マルクス主義>(何を指しているのか不明だが)によって奪われたと言うのかな?
「国家社会主義」ナチス政権下のホロコーストの話?「一国社会主義」スターリン政権下の収容所列島の話?
「毛沢東主義」ポルポト政権下のKilling Fieldの話?・・・人命を奪うのは常に国家権力(テロ)では?
530 名前:OFW :02/06/12 06:15
>>512(いっしょさん)
>肉体だけでなく、才能も持っているからかな?
労働一般は人類が誕生して以来、営々と行ってきた活動(知的・非知的を問わず)を指し、
賃労働とは近代資本主義の根拠としての特殊な労働形態を指します。
生産手段の所有・非所有(生産関係)がポイント。
>どっちが悲惨なんですか?
むろん中小企業(殆ど自営業)の社長は大資本との競争において悲惨だからこそ、
過酷な競争の根源自体を廃棄すべきだということ。
>賃労働者なんて、過労死するぐらいなら、さっさと仕事やめればいい
世のサラリーマンが聞いたら、「そだよな。だけど、どこも似たり寄ったりで出口なしの社会だし、仕事は大切だから・・・」
とか言いそう。
>大量の資金を借り入れた資本家なんかより、はるかに自由人です。
資本家=資金を持つ人では?『資本論』はまさに自由の逆説(弁証法)を説く。
「近代労働者は二重の意味で自由である。伝統的な共同体の束縛から自由であり、
自己の裸の(注:別に肉体という意味ではない)労働力以外に何も持たない(所有からの自由)という意味で。」
>資本家であり賃労働者でもあるんです。
階級とは本質的な、つまり個々の実在とは異なる関係概念だということを理解すれば、現象が直ちに本質ではない以上、
<資本をもつ賃労働者>が個別に存在することに不思議はない。
要はそれが統計的に社会の基幹(本質)をなす部分かどうか(偶有的か実体的か)ということ。
>階級廃絶の具体的なビジョンがまったく見えないのですが?
何故階級廃絶が必要(必然、不可避)なのか?という根拠が分からなければ、そこへのビジョンも見えてこないでしょう。
<社会の解放>とは実践的な課題であり、課題化する主体にとってしか存在しない対象です。
>○○がほしいから、これだけ給料をくれと請求するんですか?
給料(サラリーではなく賃金)という形態ではなく、直接的な物量としての取得という形態でしょう。
無論そのためには高い生産力が前提となる(既にデフレギャップ(供給過剰)の時代に入っているが)。
555 名前:OFW :02/06/15 12:39
>>522(ふにゃぽんさん)
>真の「プロ独」はどのように行われるべきか?
<プロレタリア独裁>とは具体的にどのような形態(状態)を指しているのかについては、
形式的には民主主義でも実質的には<ブルジョア独裁>の現状を分析すれば、大よそのイメージが得られるでしょう。
そこでは、政治と経済、社会が形式的に分離しており、「民主主義は工場の前で立ち止まる。」といった状態です。
「何故社長を従業員の選挙で選ばないのか?」と問えば、
「私企業は資本家の所有物であり、政治機関ではない」という政経分離が説かれ、
<私企業内の政治>は独裁的なままですね。たとえば「社長公選制を実現しよう!」とは
(共産党ですら掲げない程の)ネタですが、“暴力革命”よりはるかに民主主義的・平和的なスローガンであり、
真のプロ独への一歩でしょう。
>それはどのように運営されるべきか?
マルクスは『ヘーゲル国法論批判』で、代議制民主主義と官僚制とは不可分の関係にあることを、鮮やかに分析している。
そしてパリコミューンの経験から、国家(幻想の共同体)と官僚制(統治技術の体系)を廃棄するためには
<交替制による全住民の行政事務への参加>を通して、皆が複雑な支配技術など不必要であることを習得し、
国家統治(他者の支配)を社会的自治に回収する可能性を説いている。
それは(日本共産党を含む)社会民主主義政党内部の官僚制にも言えること。
レーニンも(現実には官僚制に敗れたが)以下のように述べている。
「そして、結合された労働者は、自分で技術者、監督、簿記係を雇いいれ、彼らすべての労働にたいし、
一般にすべての「国家」官吏の労働に支払うのと同じように、労働者なみの賃金を支払って、
この機構を運転することが十分にできる。」(レーニン『国家と革命』)
556 名前:OFW :02/06/15 12:40
>>522(ふにゃぽんさん)(つづき)
>生産や支配行為、特に熟練が必要とされると思われるものについては、
>(革命前に)どこでどのように習得されるべきか?
たとえばNHK番組『プロジェクトX』に登場する、生産に関しての“熟練”労働者達はいわゆる政治には無関心でしょうが、
実際の労働現場では生産(モノ)の管理と人の管理(支配行為)は一体になっている
(つまり無意識に政治に参加している)。要はその“未熟練”な政治性を自覚すれば良いだけであり、
政党の役割は単なる票集めではなく、日常の政治的教育・啓蒙にある所以です。
>>526(電波狸さん)
同上です。高度情報化社会はますます<支配の不可能性>を増大させ、
コミュニケーションと社会連帯を必然化させている。
>>545(吉本隆明さん)
>労働価値説は実は暗黙に「作れば必ず売れる」というセーの法則を前提にしている。
面白い新解釈ですね。その論拠(ソース)を示して欲しいな。
因みに、マルクスはセーを俗流経済学者として批判しているが、自分を誤解していた、ということかな?
732 名前:OFW :02/07/13 12:55
>>730(いっしょさん)(つづき)
>詩や芸術のように、かんぜんに自立した観念というものがリアルに存在するのでは?
正確にいえば「存在するかのように経験される」でしょうね。そこで何よりも重要な点は、
虚構(想像的なもの)を現実(実在そのもの)と取り違えないことです。
「あらゆる詩は、表面には現れてこないけれども、条件を示す文句を言外に含んでいる。
つまり、もしいろいろなことがこれこれであったならば、そのときには・・・という具合に反応が発展する。」
(I.A.リチャーズ『文芸批評の原理』)
>「客観的な傾向」というものを、共通了解性の高い形で示すことができるでしょうか?
そのためには、経験科学の研究成果を十分に利用しなくてはならず、
たとえば20世紀以降の時代を<帝国主義>という概念にまとめるためには、
レーニンが『帝国主義論』で展開したように、地道で体系的な探求が必要となるでしょう。
「私は、その一言で世界が凍りつくような言葉が欲しい」(吉本隆明)といった主観的な傾向(衝動)のようには行かない。
735 名前:OFW :02/07/14 02:08
>>733
>役にたたない無駄な夢物語ですね。
さて、その根拠は何かな?(哲学は根拠を問うことから始まる。)
夢(幻想)は唯物論から最も遠いものであり、上の例で言えば、医学、特に解剖学は
近代唯物論の源流の一つをなしている。
たとえば、フーコーは、神経病理学における医者の患者(事物)に関する二つの観察記述を証言として提出した後、
認識論上の構造変化を指摘している。
「この二つの文章の間の差は、ごく小さいものでありながら、全面的なものである。・・・というのは、
ベールの単語の一つ一つが、その質的な精緻さによって、われわれのまなざしを恒常的な可視性の世界に
みちびくからである。これに反して、ボンムの文章は知覚の支えのない、心象(ファンタスム)のことばをかたる。」
(M.フーコー『臨床医学の誕生』序)
同様に、マルクスは、資本主義におけるファンタスムの言葉(夢物語)つまり商品語を転倒することにより、
<価値形態>を可視的なものにした。両者は共に、幻想から現実に向かう唯物論の必然的な歩みです。
738 名前:OFW :02/07/14 20:44
>>736
>並べるのはいかがなものかと。
フーコーとマルクス(主義)の表面的な共通点および相違点をあげれば、
1.真理のイデオロギー性に対する理解
「真理は権力の外でも権力なしでも存在しない」(フーコー)
「もっとも古い階級である僧侶階級の末裔としての哲学者」(マルクス)
<権力><主体>概念については、フーコーは抽象的・無人格的な構造概念として捉えており、そのため知識人の
政治的役割に関して逆に「知こそが力である」というベーコン流啓蒙主義に留まっているように見える。
一方、マルクス(主義)は実体的な生産関係(下部構造)に基づく<階級>概念の下位概念として権力を捉え、
階級支配の現実性および小ブル的知識人の政治性を捉える。
2.方法論としての歴史主義(知の考古学VS社会の自然史)
「同じ種類の契約で、もっと隠れた、もっと奇妙なものが、同じ頃に、施療院と臨床教育との間に、ひそかに
とりかわされている。・・・貧乏のために施療院に助けを求めるほかなかった患者を、いかなる権利によって
臨床的観察の対象に化しうるか、・・・今や彼は、あるまなざしのために要求される。そのまなざしにとって、
彼は客体である。」(フーコー)
「資本主義を基礎とする産業の躍進によって、働く大衆の貧しさとみじめさは、この社会が存続するための
必要条件の一つにまで引きあげられた。・・・要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、
「理性の勝利」によってうちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を幻滅させる痛烈な諷刺画であること
がわかった。」(エンゲルス)
上記からも、近代医療が物象化(患者Subjectの客体Object化)されてきた過程の背景には、医療行為における
<観察的まなざし>以上に、ブルジョアの<価値物神的まなざし>があることが分かる。
138さん
簿記上の総資本でいえばそうだけど、
マルクスのいう資本の定義は不変資本=原料+その他の販管費+設備の減価償却費と可変資本=労務費+人件費だから企業のDE戦略は無関係…と勝手に考えてみた。 むしろ企業間の競走激化により営業キャッシュフローが低下し、経常収支比率が低下すると考えた方が近いかもしれないのかな? マルクスの資本の定義が、現預金や固定資産ではなく、売上原価+販管費なのではと思った。
誰か教えてくらはい 742 名前:OFW :02/07/16 06:39
>>737
>バブルもたらした官僚制の弊害
バブル経済は別に官僚制が原因ではない。誰がそう言っているのかな?
>資本主義や議会制民主主義で直せば良いし、・・・マルクス主義で
資本主義、民主主義、マルクス主義とは何のことか?
>>739
>なぜマルクス主義といえるのでしょう?
マルクス主義が何かは論者によってさまざまでしょうが、この階級社会において、
労働者階級に向けた思想であることはミニマムラインです。大学教授や殆どの知識人は別の階級に属するため、
とかく「階級対立など存在しない」と言いがちで、親マルクス的でも要注意。
>>741
>抽象的人間労働、私的労働の意味がよくわからない
労働に二つの種類があるということではなく、分業社会の中でのすべての労働(仕事)がもつ二側面を言います。
社会から孤立した人が自給自足の生活を営む場合、彼(女)の労働(仕事)は当人だけの私的なものですが、
社会の中では何らかの<他人のために役立つ仕事>を行っている。
彼(女)の労働は社会的なものとなり、他のすべての労働と区別の無い<人間労働一般>という、
それ自体は抽象的・普遍的な側面をもつことになる。
個々の労働者は具体的に特定の仕事をすることで社会に貢献するが、
それは他の労働と同じ普遍的な労働でもあり、「我々は同じ労働者だ」と言われる所以です。
私的企業主(資本家、経営者)は
「いや、労働者は私にだけ役立つ汎用的な(何にでも使える)労働力の担い手に過ぎず、交替要員はいくらで
も調達できる」
と矛盾したことを平気で言うが・・・。
>>158
いいんでないの。
今や昔の経済学でしかないマル経スレに昔のレスのコピペ。
お似合いだがな。 OFW知ってるけど
あのひと哲学系だから経済学はほとんど素人だよ >>160
ほんじゃ、OFWって何者よ?
上のコピペを読んだ限りじゃ、資本論の解釈は極めてまともじゃん。 お晩でがす。
ほんだば、新年コピペ初めといくべか。
746 名前:OFW :02/07/17 05:40
>>743
横レス失礼。
>抽象的人間労働は、具体的有用労働を抽象化したもの。おもに労働時間によって計測されます。
>深い意味はありません。
昔から日本人は抽象的思考が苦手なようで、
ピカソの「抽象」絵画が初めて紹介された時に「こんな子供の落書きのような絵に何の意味があるのか?」
と酷評されたようですね。
確かに芸術的価値の評価は難しいものですが、
当然それはピカソが費やした制作(労働)時間では計測されない。
しかし、今は“経済的”価値の話。
ピカソが生み出す芸術作品の経済的価値はその商品価値であり、
ピカソ本人よりは絵画商の方が詳しいでしょう。彼(女)は言うでしょう、
「私は芸術は良く分からんが、それがいくらで売れるかは誰よりも良く知っている。」と。
特に生活必需品以外の便宜品、奢侈品に対する<社会的需要>、
つまりそれに対して支払い可能な社会平均的な欲求量の大きさは、
社会の豊かさの指標の一つでしょう(例:バブル期日本)。
確かに「複製時代の芸術」(ベンヤミン)作品の芸術的価値は経済的価値に比例して低下したとも言えなくもないが、
後者はコピー作品の制作技術とその制作時間(労働時間)(製造原価)に反比例している。
>資本家の労働
(繰り返しだが)資本家=非労働者というのは、階級的な本質概念。
>不当におとしめる効果があります。資本論的詭弁の温床
資本の経済的価値を弁証法的に論じた『資本論』の学問的価値を詭弁的におとしめる解釈については如何?
747 名前:OFW :02/07/17 05:46
>>746
誤:反比例している 正:比例している
807 名前:OFW :02/07/20 20:15
>>748
>抽象化と具体化をくり返すことが、「説明」すると言うこと
>>9でも簡単に触れているが、科学的な説明とは本質的・原理的な存在から現象を理論的に導き出すことを言います。
本質(Essence)とは、あるものがそのものである根拠を言い、
それ自体は抽象的自己同一性として可能的なものに過ぎないが、
具体的な諸条件の中におかれたあるもの(現存在)がそれとして存立するための
<最終的審級>(決定的条件)をなすものです。
>具体性に還元する
抽象的なものから具体的なものに進むことは「還元」ではなく、<綜合>と呼ぶべきでしょう。
>資本集中の法則、利潤率低下の傾向の法則、貧困増大の法則などなど
法則とは、上記本質が世界のうちに現象する形式を言い、具体的な成立条件を抜きにしてはその当否が語れないもの。各々の条件は何かな?
>資本家階級も労働しています。
むろんそうでしょう。その限り、経済空論家の精神労働や経営者の監督労働も資本主義の維持に寄与しているが、
彼らの労働はシステム(モノ)の要請であり、法則の奴隷としての非本質的(非主体的)な労働です。
>こちらが階級的な本質概念です。
<階級>の定義は?
本質とは、上に述べたように、あるものの自己同一性であり、
すなわち本質的な対立(矛盾)の総体としての根拠を言います。
<賃労働と資本>は互いに相手の反対であり、かつ同一のものであるということが、階級の本質なのです。
812 名前:OFW :02/07/21 10:51
>>809
>「ホンシツ」は止めてくれよ。
19世紀末頃から、古典的資本主義経済の行詰りと歩調を合わせるかのように、
西欧哲学上の認識論および存在論の世界でもホンシツ論が消え去り、現象主義が主調となったが、
それは確かに実証諸科学の脱哲学化に対抗した哲学の敗北の結果とも言える。
(例:「カントに帰れ」から「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」「事物の本質を問うより、
その存在を問え」までの理性的批判精神の衰弱の過程)。
しかし「現象(現わるがまま)が本質(あるがまま)と一致するなら、およそ学問など不要であろう。」(マルクス)
という事情があるから、科学者そして哲学者も「ホンシツ」を止めるわけにはいかないでしょう。
>言説の「意味」が根こそぎ抜け落ちるから。
19世紀末頃に、ソシュールが一般言語学を講義して、
言説の「意味」をラング(記号体系)の共時的・恣意的差異性に還元して以来、
言語学の研究対象から言説の「意味」が根こそぎ抜け落ちてしまい、
言語の本質(言語行為としての象徴的(代理的)コミュニケーション性)が見失われてきた。
前に挙げたI.A.リチャーズや時枝誠記は、共にソシュールに対する批判者であり、
<言説の意味>とは何かを正しく捉えた、つまり言語本質論を展開した、数少ない学者あるいは思想家でしょう。
つまり、ホンシツが無ければ、およそ言説は意味のないもの(無根拠な恣意)になる、ということです。
892 名前:OFW :02/07/27 10:23
>>819
>(文献)史料の文言(言説)とその解釈こそが全て
>それを書いた人物の思想などを再構成することは不可能という考え方
>哲学的分類では解釈学的現象学の亜流と考えてよいのでしょうか。
歴史学の動向については余り詳しくないので、的確な回答はできないと思いますが、
私は、<歴史>は哲学にとって最後のテーマであり、すべての 反省的思考が収斂して行く場所と考えています。
まず、現象学について言えば、現象主義よりむしろ本質主義の面が重要でしょう。
それは客観的・超越的本質は立てないが、現象のうちに形相的・志向的本質(<意味>)を立てる。
それは非歴史的な存在です。
次に、解釈(学)について言えば、ガダマーといった解釈学派の現象学者は、
現在の人間が行う歴史文献(テキスト)の解釈によって明らかになる<テキストの意味>は
つねに解釈者に相対的だという事情を理解していたようです(『真理と方法』)。
しかし、「新しい経験による先入見の修正」という解決策は、むしろ非方法的なものと言え、
既にあった現在と現存する過去との連続性の認識のためには、現在的自己の相対化(対象化)が必要でしょう。
>>820(819さん)
>戸坂潤『科学論』 四つの研究方法(分析・解析・統計・実験)
ttp://isweb35.infoseek.co.jp/school/pfeil/B1/FRAMEB1_2.HTM
戸坂の分類は幾分類型化しすぎだと思うが、史料解析(歴史データの情報化、
つまり構造化ないし組織化)は歴史概念の形成のために必要な一操作、ということは言える。
分析・綜合はその後にくる判断のタイプであり、それらは推理に発展する、というのが弁証法的な認識論です。
過去世界総体とその通時的な変化(内発的発展・衰亡)の認識のためには、社会の本質論を踏まえなくてはならない。
914 名前:OFW :02/08/02 03:12
>>906(ふにゃぽんさん)
>そのさいに、いわゆる「南北格差」はどうなるんでしょう?
南北格差とは“先進”工業国資本の“後進”諸国に対する植民地的な収奪の結果として理解すべきでしょう。
収奪のない社会間では互恵互譲が原則であり、豊かさは「北」から「南」へ還流する(格差解消)。
>「プロレタリア」とみなしていいのでしょうか?
賃労働者とは政治経済的な関係存在であり、資本(増殖する貨幣価値)があれば必ずそこには賃労働(者)があります。
また自然条件や歴史を異にする諸社会が相互作用した結果として近代世界が形成されてきたが、
その普遍力はもともと<共に働く人類>のもの、その発現です。
同じ労働者の連帯こそが人類の普遍(歴史貫通的な自然)だということ。
>「同時革命」は遂行されるべきなのか?
世界革命と世界同時革命は異なり、特に後者は日本の新左翼(赤軍派等)が使用した用語ですが、
殆ど現実性のない冒険主義的戦略だった。共産主義の内容は国際的・普遍的なものですが、
その具体的な形態や発展の過程は国や民族によって一様ではなく、
一見反動的な運動の中にその萌芽がある場合もある(例:イスラム原理主義)。
現代の世界革命は単なる政治的総力戦よりはむしろ社会的そして思想的(精神的)な主体形成の面が重要であり、
故石堂清倫氏がグラムシを受けて述べたような、<新しい「陣地戦」>といった粘り強い戦略が立てられるべきでしょう。
(ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~ikawag/isidoubunko.htm#bunko9)
>>907(ふにゃぽんさん)
>「国家主導型」では、いけないのか
これからの時代は国家の役割など急速に無用なものとなり、その社会的機能(共同的利益の遂行)は
本来の社会の中に回収されて行くだろうことは殆ど疑い得ない(例:国際的NGO)。
国家(階級対立の隠蔽)は少数者の支配にとってのみ必要であり、
多数派(世界的広がりにおける労働者階級)が社会権力を握った場合には、国家は存立の根拠を失う。
「プロレタリアは祖国をもたない」存在であり、世界に遍在している。
918 名前:OFW :02/08/03 12:58
盆踊り(とその後)で飲み過ぎた・・・気持ちワル・・・
>>915,916(ふにゃぽんさん)
>「国家」とは・・・有史以来、常に人類にとって普遍的な共同体
ではなく、階級対立は国家の根拠です。
最古の支配階級(祭祀、僧侶階級)は精神労働と肉体労働の分離(霊魂の独立)を説き、幻想の共同体=国家を
司る(例:大和朝廷と現代の皇室)。
>「町」だとか、「県」だとか、「家族」のような他の・・・「共同体」
盆踊りは町内<会>主催の<祭>でしたが、消防団が櫓やテントを設営、地元の警察が交通整理
(唯一の合理的機能)、婦人会が進行、子ども会が参加、の共同運営でした。
<伝統的共同体>(マルクス)は<会>として、祭りの中に微かに存続している。
「ストライキは祭りのように町中に広がり、生産活動は自主的に組織されていったが、
最終的に国家(連邦警察)の登場により粉砕された。」(ジェレミー・ブレッヒャー『ストライキ!アメリカの大衆ラジカリズ
ム』からのパラフレーズ)
>「生産力の発展」は、「資本主義」に任せなければならないのか
全然関係なし。生産力は資本主義によって発展したのではなく、
協働的な生産と連携した科学技術の発達や労働組織の有機化によって発展した。
>現代の段階あたり・・・で、「プロ独」を行うとマズイのか
全然問題なし。階級廃絶は可能というより、現代では現実的(他は不可能であることが既に現れている)であり、
プロ独がその現実性です。
>「家族、結婚制度」「私有財産」等
かっては結婚制度は(人間が唯一の生産力であったため)それ自体生産関係(下部構造)でしたが、
その理想は(“かけがえのない”全ての相手といった)無差別的なものではないかな。
>自己の労働力によって、獲得したものを、備蓄しておくということ
自分のものと他人のものの区別(私有=排他的所有)はなくなり、
不慮の災害・事故に対する備えはすべて社会的なもの(共有)に置き換わる。
荒らし、だろうが、コーマン、だろうが、
何でもいいからカキコしてよ。
嵐でもいいよ。 >>170
ほな、遠慮のうやらしてもらいまひょかいな。
と、書いてもやな、やるのは"村一番"サンやさかい、よう確約はできません。 【搾取制度の廃止は何故、現実的に可能なのか?@】
言うまでも無く、我が国に於ける超過利潤による大々的なる国民買収こそ、
搾取制度廃止の現実的物質的土台である!
赤字国債及び特別会計からの不透明な支出、すなわち超過利潤による大々的なる国民買収は
労働による低賃金を遥かに越える額の富を、大半の国民にバラ撒いてきたのだ!
低賃金労働によっては、到底購買し得なかったマンションやクルマなどを
大半の買収された国民は手中にしてきたのだ!
労働による低賃金以上の貨幣を、大半の日本人は財務官僚どもからバラ撒かれ、
生活を維持している!この貨幣は独占資本から齎されたものて゛、独占資本においては
最早搾取制度は不要なのである!
独占資本から中小零細には、この超過利潤分は異常に低い下請単価にみられるように、
還流していないのだ!独占資本の超過利潤は内部留保か税収として国庫に入り、
赤字国債や特別会計からの支出として国民の大半を買収するのだ! 【搾取制度廃止は何故、現実的に可能なのか?A】
労働者の賃金が如何に低かろうと、独占資本の得た超過利潤は、日本全体と
してみれば独占資本の労働者は言うに及ばず、中小零細労働者さえも
搾取する必要のない程の額に約30年以前から到達しているのだ!
この30年前からの超過利潤の費消方法は、自民党ブルジョア権力の為に、
徹底して犯罪と引き換えにバラ撒くという極めて反人間的非人間的に、人間性破壊すなわち
社会破壊の為に国庫から支出されてきたのである!
地上に存在する、あらゆるものは人類の幸福のために無ければならない!
貨幣も人類の幸福の為に使われねばならず、人間性破壊や社会破壊の為に
支出されるとは言語道断である!
人類の英知は、この破壊をファシズムと明確に定義し忌み否定してきたのである! 【搾取制度廃止は何故、現実的に可能なのか?B】
日本に於ける超過利潤買収は、ファシズムとして現象している!
戦後現代日本社会がファシズムであることは論を待たない!
報道媒体がマスゴミと蔑称される由縁は、各個撃破的超過利潤買収政策により
極度に腐敗堕落したマスゴミの、自ら行う報道統制を蔑むところから
きたのだ!
このファシズムという社会状況は、中曽根が語るように戦前戦後を一貫して
不変なのである!
ファシズムは各個撃破的超過利潤買収政策により形成されている!しからば超過利潤を闇世界では無く、
陽のあたる表世界で堂々と全国民に給付すべきなのである! 【搾取制度廃止は何故、現実的に可能なのか?C】
超過利潤による買収政策の実態は絶対に突き止め明らかにしなければならない!
大半の国民が買収されていることは極め明瞭なる事実なのだ!
赤字国債及び特別会計からの買収のための支出は、絶対明らかにしなければ
ならず、これが実現出来なければ、搾取制度の廃止は一時足踏みである!
日本の労働者は、労働によって得る以上の報酬を超過利潤買収により
得ている!
ファシズムを消滅するためには超過利潤による買収を廃止すること、
すなわち搾取制度を廃止すること以外にないのだ!
搾取制度廃止は経済的物質的には現実に可能なのである! >>171
村一でも一八でもいいから、
四の五のほざいてないで、マジでコピペ再開しろや!
搾取なくしたら利潤が生まれないから経済社会成り立ちませんよw
マルクス主義経済学って言うのに、なして共産主義経済学って言わんのかな?
そいと、マルクス主義経済学とマルクス経済学っておんなじやろ? マルクス主義経済学は資本主義を論じているのであって、
共産主義については一切論じていません。 >>179
マルクス経済学もマルクス主義経済学も『資本論』の解釈学です。
そして今や訓詁学です。
また、マルクス主義経済学とマルクス経済学の違いは、
訓詁学の党派を表してるだけです。 >>182
違うな。
資本論の解釈での派閥の違いや。
ほんでやな、強いて朱子学と陽明学にたとえると
朱子学はマルクス、陽明学はレーニンに代表される修正主義者ってとこかいな。 >>183 朱子学は理論、陽明学はその実践って理解してたけどね。
はじめてこのスレみた。
日共系の経済学入門書ってスターリン時代の「ソ同盟経済学教科書」そのまんまなんだよな。
弁証法がエンゲルス―レーニン―スターリンの体系そのまんまなんだ。
「これで学ぶ党員がいるのか、かわいそうだなあ」と15年前くらい前、学生のとき思った。 マルクスの行き着く所
朝日新聞の記事 昭和50年4月19日
http://www.asahicom.com/anotoki/asiayasasisa.htm
「アジア的優しさにあふれている」ポルポト軍
中国共産党に支援されたポルポトは政権掌握後、「アジア的優しさ」をもって国民の三分の一にあたる300万人を殺し、
自国民が他国に逃げないよう国境に地雷を埋めまくりました。
http://www.musicasenlinea.com/videos/cambodian-genocide-pol-pot-and-the-khmer-rouge-;1-SI8RF6wDE.html
CAMBODIAN GENOCIDE - POL POT AND THE KHMER ROUGE
クメールルージュ 赤いクメール 労働過程の歴史貫通(超歴史?)的性格って何ですか?? ほな,逝くえ、178はん。
919 名前:OFW :02/08/03 12:59
>>917(あちょーさん)
>プロレタリア社会はリーダーシップ無き社会
プロレタリア=(賃金)奴隷は自己を解放することで自分のリーダ(自己決定者)になる。
現代の<プロレタリア社会>=資本主義社会のリーダーシップ(例:コーポレイト・ガバナンス)とは他人の支配でしかな
いでしょう。
>ブルジョアとプロレタリアの定義
ブルジョア=生産手段(労働対象と労働手段)の私有に基づき、労働力商品(価値の源泉)を買って商品を生産・
販売することにより、価値の自己増殖(資本)を遂行する階級。
プロレタリア=自己の労働力以外に売るもの(商品)を持たない階級。
ブルジョアはプロレタリアの主人だが、それはモノがヒトの主人だということ。それは近代固有の社会形態(非人間関係)
です。
923 名前:OFW :02/08/04 13:08
>>920
>競争や自由という概念はどうなのさ
競争とは、稀少な生活資源(および生活条件)を巡って個体間で争うこと(例:バン食い競争)であり、
外的必然として自由の反対です。
自由は解放(自由になること)の下位概念(その結果)であり、豊饒な生産活動に基礎を置く場合に現実のものと
なるでしょう。
>>921
>「国家」はどのような、形式、内実のものであれ、消滅するべきなのでしょうか?
歴史上の国家は階級分裂後の共同体とともにあり、その上部にそびえる社会構成物ですが、それは<共同体成員
の共通利害>を代表した。
近代になり、<政治的国家>と(非政治的)<市民社会>との分離が果たされたが、国家(政府)の社会的機能
としては
1.公共事業:治水灌漑、水道、ガス、電気等の社会インフラ整備
2.社会的な安全対策:災害対策、治安、防犯等
3.公的サービス:教育、医療、交通、通信
また政治的・イデオロギー的機能としては
1.軍事、外交
2.法政治:立法、行政、司法
3.いわゆる権力政治:宣伝、折衝、脅しと祀り、懐柔・・・
また経済的機能としては
1.租税:公的資源の徴収
2.財政:富の再分配
3.金融:貨幣(通貨)の発行、管理
と大別できるかな。
国家の本質に<権力>があり、それは集団成員の意志を統一するために必要な強制力ですが、社会の中には
種々の権力があり、国家権力も<国家の複数性>という事実の前には絶対性を失う。
さて、上記のうち<国家>でなければできない機能、はどれでしょう?
924 名前:OFW :02/08/04 13:10
>>922(あちょーさん)
>他人を支配しないのは社会のリーダーではないです。
他人の<指導>と他人の<支配>は違います。
>自己中だけの社会はリーダーシップ無き社会ではないでしょうか。
プロレタリアは自己中ですか?
>権力、暴力によって税を搾取するのはどちらに分類されるでしょうか。
もともと税とは公共的な仕事をするために必要な資源であり、社会全体でまかなうべき予備費といったもの(備蓄、
相互扶助、インフラ整備等)。権力を使って搾取?するのは支配階級とその政治的代理人だけですね。
そもそも「搾取」「自分(他人?)のお金」とは何でしょう?
>自分のお金を金庫に保管するとプロレタリアで、株式投資するとブルジョアになるのでしょうか。
違います。ブルジョアとは社会的な集合(統計)概念ですから、個々の投資家がそのままブルジョアではない。主たる
収入を継続的に株式配当あるいは役員報酬から得ていれば、ブルジョアの一員と呼べるが
932 名前:OFW :02/08/06 06:46
>>930‐931(あちょーさん)
>どう違うのでしょう。
排他的な自己の下に相手を包摂する(相手の意志を自分のものにする)ことが支配ー隷従関係であり、
相手を自己と同類の独立した主体とみなして互いに高め合うことが指導ー被指導の(教育的)関係です。
>自己の労働力以外に商品を持たない階級だけ
しかいない社会とは階級区別が無い社会(無階級社会)であり、社会は独立した諸個人の協働体となる。
それは商品も通貨もいらない社会。
>自分のお金は自分が自由に使うことを認められているお金です。
他人のお金を自分が自由に使うことは認められていませんが、<自分のお金>と<他人のお金>の区別の根拠は
どこにあるのでしょう?
>投資家でも、継続的に収入を得られない場合はプロレタリアなのでしょうか。
階級区分としての賃労働者(近代プロレタリア)は通常、企業主や自営業者に雇用される被雇用者(「サラリーマン」
などと呼ばれています)。
バブル期以降、日本でも高給取りのサラリーマンが投資をするようになったが、投資によって生活費の大半を
まかなえる程になれば、会社を辞める(つまりプロレタリアでなくなる)でしょうね。
>社会的、公共的事業を行うものを国家と呼んでいる
公共的(public)は私的(private)の反対ですが、社会的(social)とは両者の統一したあり方を言います。
現在、個々の公共事業は実際には私的な企業(あるいはその連合体(ゼネコン))が行っており、国家(政府)は
その決定、発注をする機関ですが、国家の主体は誰でしょう?
937 名前:OFW :02/08/12 01:07
>>936(ふにゃぽんさん)
>彼らを、義務としての労働に向かわせ、かつ、「怠け」に向かわせないモチベーションは何か
日本国憲法第27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」とあるように、労働が全国民の法的な権利
および義務とされたのは近代国家に特徴的です。(資本家(使用者)は義務を果たさず、非自発的失業者は権利を
奪われている事実に対して、憲法は無頓着ですが。)
実際の労働現場では、近代以前からの「仕事は大切」というモラルが生きており、働けるのに働かない者は嫌われるもの。
確かに「資本家やそのイデオローグ達は労働を神聖化する。」(マルクス)が、誰も生産手段を奪われて、強制された労働
などしたくないのはあたりまえでしょう。
つまり<労働の解放>とは自由・自発的な労働の実現を言うのであり、「(法的)義務としての労働」が存在する場合、
未だ労働は疎外されている。何故なら、労働とは概念上、自然における人間の(肉体的・精神的)生命力の発現(自己の
現実化活動)以外の何物でもないから。
>生産緒手段をさらに発展させるものがあるとすると、現在の資本主義における競争原理に代わるものがあるのでしょうか?
生産手段の発展とは、人間の自然に対するコントロールの増大であり、豊かな自由に向かうための現実的条件です。
競争がそれを促進するという外見は実状とは異なるものであり、排他的な利己心が豊かな社会を築く原因にはならない。
<神の見えざる手>とは、<理性の狡知>というシニシズムと同様、協働的人間間のコミュニケーション不足です。
>宗教団体のコミューン
「宗教とは人間の類的本質の自己疎外であり、<神>とはそれがある疎遠な主体として立てられたものである。」(フォイエル
バッハ)
地上のコンミューンは疎外の克服であり、働く(つまり現実の)共同体として現在(即自的に)実践していることの実現に過ぎな
いでしょう。
941 名前:OFW :02/08/15 04:44
>>938(ふにゃぽんさん)
>「個人」の「自由」「自発性」
<自由>とは恣意(意志の偶然)ではなく、自己の本性(必然)に従うこと。
社会の中に生まれ生きる個人にとって、社会的自己の内的な欲求に従って動くことが自由です。
社会は「自由な個人」間の契約やゲームによって成立したのではなく、人間の自然的被規定性(人間の自然)から生まれ、
常に個人の実体的本質をなすものです。
>「働く者」と、「働かざる者」の差異
働くこと=対象的活動を営むことは生き物の本性ですから、両者の差異を抽象的に捉えれば、生きた人間と死んだ人間
との差異と同じと言える。
<共に働く社会>の中では、現在のような、死んだ労働=資本の支配に基づく、働かざる者=他者に働かせる者には
居場所がなくなるでしょう。
>私有財産は、もう存在しない
ジョン・ロックは財産(Property,固有性)の権利を市民(ブルジョア)社会の構成原理として正面にすえた。彼は(私有)
財産権の根拠を労働におき、交換によるその譲渡を「黙契」と呼び、固有な労働力の譲渡を(事実上)正当化した。
マルクスは、資本主義の否定により<個人的所有>が再建される(『資本論』第1巻24章)と述べています。
(その概念をめぐっては議論が続いていて面白いが、不十分かな。)
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~swp/japan/jprome/introdct/jprome33.htm
ttp://www.workers-net.org/kojinnteki01.html#01
ttp://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/discussion/marxism/x9911p.html
>「国家死滅」後の社会のあるべき姿を描いた青写真的な書籍
マルクスの断片的な言及は下記にまとめられています。
ttp://www.workers-2001.org/maruesensu.htm
(最近は「コミューン」より「アソシエーション」が流行りのようで)
>「フォイエルバッハ・テーゼ」しか載ってないんですが・・・。
新訳ではそのようですね。その辺の経緯については下記にコメントあり。
ttp://www1.odn.ne.jp/swptext/shohyo/doide.htm
こんなに粘着的にコピペしてるのは本人なんだろうなw >>198
本人が本人なら、な。
が、本人が本人ならコピペなんぞしねーで、
新たにカキコするんとちゃうか?
>>199
んなことより、早くコピペしろ!つーの。
では、はいります。
948 名前:OFW :02/08/18 08:57
>>944(ふにゃぽんさん)
>その社会が本当に必要とする労働量=労働力と、各個々人が、自発的に行う労働総量が、
必ずしも一致するとは限らない
>>21でも少し触れましたが、各種生活財を必需品、便宜品および贅沢品に分類した場合、必需品
(その範囲も社会水準と共に可変的ですが)については、その社会的需要(種類・量)を予測・算定・調整することは
十分可能でしょう。
1.社会インフラ・基礎的福祉の種類と量・電気、水道、ガス、医療、教育、防災、交通、環境保全等
2.社会成員の基礎的な生活財・サービスの種類と量・いわゆる衣食住に関する物資・サービス
3.上記を生産するために必要な生産財の種類と量・原材料、生産施設、機械設備、道具等
上記の“シビル・ミニマム”が与えられれば、その生産に必要な労働力(質と量)を算出するのは技術的な問題であり、
資源と労働力双方の産業連関的な必要量は経験的および科学的に算出可能でしょう。
それらは社会の存立にとって<必要な部分>であり、その運営(管理と運用)には社会の全成員が機動的に(交代的に)
参加すべきものです。
さて、財および労働の両面について<必要を超える部分>をいかに規定するのか。むしろそれは無規定な
<自由・自発の領域>であり、その労働は諸個人の熟練および才能のボランタリー的な相互供与として、非経済的
(文化活動的)なものになるでしょう(価値法則の廃棄)。
953 名前:OFW :02/08/21 06:06
>>951(ふにゃぽんさん)
>「私有財産」という形での報酬
いわゆる消費財(衣食住等)と呼ばれる生活手段の一部は個人的あるいは家族的に使用する外なく、
協働的生産の成果を各人に再分配するという形式をとることになるでしょう。ただし、世界的にみて既に「能力・
働きに応じた」分配は「必要に応じた」分配に転化可能な程の生産力レベル(各人にとって必要なものは十分に
生産できる)に達していると考えられるから、分配について余り悩むことはないでしょう。
ブルジョア政治経済学では<分配の公正>について議論が盛んなよう(ベンサム、ナッシュ、ロールズ、ハーサニー、
ノージック、セン等)ですが、資本主義的私有財産制度の矛盾(結合された生産と私的な取得)を前提にして、
報酬(賃金および資本家利得)の正しい基準など得るべくもなく、個人の社会的能力に対する無報酬が共産主義的
な原則です。
>サボタージュして仕事にあたった場合の「ペナルティー」
概念上、働くこと=自己の活動能力を発揮すること、ですから、サボタージュ=<自己をサボる>こと、ですね。
それは現在のような、疎外された労働(他者としての労働)状態下での<自己を奪回する>行為とは正反対の
ものであり、疎外なき状態でサボりは如何にして可能かな?
>その仕事への「評価」
価値法則の廃棄と共に、一切の評価=(経済的)価値判断は不要となる。
後世の歴史家が「かって価値というものがあったが、ある思想家が『価値の源泉である労働(仕事)自体は無ー価値
である』と洞察して以来誰も仕事の評価などしなくなった。」と書くかどうか・・・。
>そのシステムおよび、労働者への「監視」
モノ(生産・流通)の監視は重要ですが、“民主主義的生産システム”(笑)では、他人の監視は不要でしょう。
すべては公共的(万人に開かれている)に運営され、自己(経営者としての労働者)が見ている。
964 名前:OFW :02/08/24 16:44
>>956(ふにゃぽんさん)
>「シビル・ミニマム」さえ嫌い、行わない人間がいるとどうなるのか
現在のような疎外された労働の状況では、ブルジョアおよび労働者双方が<それ>(ブルジョアにとっては労働自体、
労働者にとってはその疎外された形態)を嫌うことには理由があり、むしろ必然的な反応です。
しかし「労働が第一の生命欲求になる」(マルクス)という言葉に意味があるなら、疎外の克服とは労働による人間の
回復を言い、個人が<それ>(=階級消滅後の生命欲求充足行為としての労働)を嫌う理由は見出せない。
たとえば、空腹時に目の前にある食物に手を伸ばすことを嫌う拒食症患者のように、そこには別の理由
(例:死を望むという疎外された生命欲求)があることになり、その場合は教育的あるいは治療的な対応が必要ですね。
また、(倫理的)義務とは自己の本質に従う自覚的あり方を指し、「汝為すべきことを為せ」とは、必要(他律的欠如)
から自由(自律的充足)に向かう欲求に従え、ということです。
>>957
個人的な事柄の質問は措くとして・・・発展を止めることになるのでは?
>>948でも触れましたが、必需品・便宜品・ぜいたく品の種類・範囲は社会の豊かさと共に可変的です
(少し前に、生活保護を受けている老婦からクーラーを取り上げた民生委員がいたが・・・)。
シビルミニマムとは測定されるべき社会水準であり、そのための財の生産が計算(計画)されるということです。
>ボランタリー的労働の動機付けをなにに置き換えるつもり?
「人間は社会的動物である」(アリストテレス)であり、類的自己の実現ということでしょう。社会連帯、
コミュニケーション、相互交歓等。
>ゲームばっかりしてたりして可能。
ゲーム(遊び)と労働の対立はなくなる(仕事本来の創造的活動という姿には遊びの要素が多分にある)から、
サボってまでゲームをやる必要もなくなるでしょう。
981 名前:OFW :02/08/27 23:21
>>966(957さん)
>国家的(社会全体的)に行われ、強制力を持って実行され
概念上および歴史上の両面から言って、国家と社会(現実の共同体)は対立的な存在です
(例:<国際社会>は国家の上位(下位?)にある)。
強制力(権力)は疎外された社会の中(つまり外部)にもあるが、内部の権力とは自己決定のことですから、
強制(働かされる)のではなく、自ら働くことです。外部の力を自己のものにする過程が社会の発展です。
>どんな学習過程を経てきたか
特別なものはない。<真理>に向かえ、とか。
>>972,973(高ぞう→将軍さん)
>商品と価値の哲学・・・では・・・静的な見解があらわされている
労働価値説とは「価値の実体は労働である」ということです。
<実体>とは、偶有的諸関係を貫く全体として必然的なもの、であり、<必然性>とは、他在(他様)である
可能性の否定、ですから、価値実体論とは結局<不動の過去>が支配する資本主義世界の本質を明らか
にすることです。価値の必然性(価値法則)が支配する世界は静的であり、「生あるものは餓死するしかない」
(ヘーゲル)飢餓的な世界です。マルクスはそのことをそのままにあらわしただけです。
>個人レベルの現実を、無視すること
原子的個人の実存(現存在)は欲求ではなく、欠乏というのが相応しい。
そこには個人の根拠としての社会がないからこそ、むしろ価値(欲求の欠如態)が社会の代わりとして諸個人を
結合する。個人は他の個人に向き合うのではなく商品に向き合い、社会的欲求を物への欲求(所有)にまで
極小化させる。それが個人レベルの現実でしょう。
>個人レベルの交換の場では、現実的に流動的な面が多く、静的な価値論には合わなくなってくる
交換とは常に社会レベルの行為であり、直接的な価値形態(物々交換における偶然的な面)が貨幣形態に
まで発展するのは、<社会の現実性>が現れてくる過程です。無論それは物象化された疎外においてですが。
>>205 ほな、ちゃうカキコしたらええやん。
つか、ちゃうのしてーな。
勘違いしーなや、して欲しんはカキコやで、セクースとちゃうで。
共産主義はユダヤ製。
ソ連はユダヤ製。
http://www.youtube.com/watch?v=GbQ8K1l26i0
反共を教えられた勝共連合系の壺売りネトウヨは困惑だろなこの話は。
親米・親ユダヤの自分たちの敵である共産主義が、
実は同じユダヤが深く関与し自ら育成したとか暴露されたら、
カルト信仰的にも、そりゃ辻褄が合わなくなるもんな。p
1です。
ソ連経済学教科書を読んで、原始共産制やら狩猟⇒農耕の説明が如何にもマルクスだというのが
改めて再認識させられた。
洗脳ですね。
2ch経済まとめ@wiki - マルクス経済学
http://www36.atwiki.jp/ginkouin/pages/79.html
ソ連経済学教科書ってネットで読めない?
ぜひ読みたい リンク踏ませる前にタイトルくらい書くもんでしょう普通 日本で共産主義革命はそろそろ起きそうな気がしますが
どうでしょうか? >>212
民主連合政府の成立=民主主義革命が先ですよ
もし「共産主義革命」なるものが起きたとすれば、それは共産主義を僭称したファシストの政権奪取にすぎません ドイツの思想家マルクス(1818.5.5-1983.3.14)は労働者の味方でしたが、
動労裁判について。民事裁判(私人間のトラブルの裁き)のうち
労働問題を扱ったもの(解雇取り消し請求や未払い賃金請求等)を
労働裁判と呼びます。事業主・使用者が労働基準法に違反して逮捕→
送検→起訴されて刑事裁判(懲役や罰金を決める裁き)になった場合も
労働裁判と呼びます。 マルクス兄弟みたいでかっこいいよなハハハ(^w^) 日本共産党でマルクス、レーニンの古典を学習してましたが勉強しても世の中は変わらず心がすさみました。
今仏陀の教え(仏教)の本を読んでます。心が安らかになり鬱な気分が晴れました。
貧乏だけど幸せです。 問題@消費関数には幾つかの考え方があり、恒常所得仮説を採用した場合、消費に影響を与える要因を全て
選びなさい。(複数選択可)
要因:a現在の所得 b過去の所得の最大値 c生涯の平均所得 d利子率
このような書き込みをしてしまい、すみません ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています