981 名前:OFW :02/08/27 23:21
>>966(957さん)
>国家的(社会全体的)に行われ、強制力を持って実行され
概念上および歴史上の両面から言って、国家と社会(現実の共同体)は対立的な存在です
(例:<国際社会>は国家の上位(下位?)にある)。
強制力(権力)は疎外された社会の中(つまり外部)にもあるが、内部の権力とは自己決定のことですから、
強制(働かされる)のではなく、自ら働くことです。外部の力を自己のものにする過程が社会の発展です。

>どんな学習過程を経てきたか
特別なものはない。<真理>に向かえ、とか。

>>972,973(高ぞう→将軍さん)
>商品と価値の哲学・・・では・・・静的な見解があらわされている
労働価値説とは「価値の実体は労働である」ということです。
<実体>とは、偶有的諸関係を貫く全体として必然的なもの、であり、<必然性>とは、他在(他様)である
可能性の否定、ですから、価値実体論とは結局<不動の過去>が支配する資本主義世界の本質を明らか
にすることです。価値の必然性(価値法則)が支配する世界は静的であり、「生あるものは餓死するしかない」
(ヘーゲル)飢餓的な世界です。マルクスはそのことをそのままにあらわしただけです。

>個人レベルの現実を、無視すること
原子的個人の実存(現存在)は欲求ではなく、欠乏というのが相応しい。
そこには個人の根拠としての社会がないからこそ、むしろ価値(欲求の欠如態)が社会の代わりとして諸個人を
結合する。個人は他の個人に向き合うのではなく商品に向き合い、社会的欲求を物への欲求(所有)にまで
極小化させる。それが個人レベルの現実でしょう。

>個人レベルの交換の場では、現実的に流動的な面が多く、静的な価値論には合わなくなってくる
交換とは常に社会レベルの行為であり、直接的な価値形態(物々交換における偶然的な面)が貨幣形態に
まで発展するのは、<社会の現実性>が現れてくる過程です。無論それは物象化された疎外においてですが。