【労働大学】社会主義協会・社青同27【まなぶ】
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>>524
民社学同から産経新聞に就職していった奴が多いから
そりゃ誰も革新どころか中道とさえ見てなかったわ >>552
たしかに第三見解派が現象的に最右派的だったのはたしかだが−反戦青年委員会に
反対したり、全共闘や三里塚闘争参加を否定したのは太田派であるし、新左翼系を
トロツキストと一括して否定したり、日共に一番近い対応が太田派だと言われたから。
東交闘争(都電廃止反対)を原則的に闘ったのは向坂派よりも太田派であるし、柔軟対応
の向坂派よりも六十年代末期の職場闘争を断固闘ったのは太田派の方。 向坂派と太田派はお互いに相手を反戦派との間の中間派と規定し合っていた。向坂派は
職場での太田派の運動は孤立化路線だとし、政治闘争を街頭のカンパニアに集約する反戦派
への路線的接近だと批判して見せる。太田派は反戦派の存在を利用して揺さぶりをかけてきた
と恨み節。本当に追い込まれざる得なかったと言っている。太田・向坂連合で反戦派から共同
防衛すべきではなかったのかというのがその言い分。 人力は社会党からの別党コースで人力は暴力革命をかかげるなど協会系の潮流では
むしろ最左派。L学同は人力が学生運動の暴走を恐れ学生運動等を停止してしまったから
人力が分裂して戦線派が出来、その学生組織としてL学同が出来た経緯がある。青共同は
遅れて人力に参加しようとした愛知の太田派学生班が人力に拒否されてしまったので発足
した。遅れた分、より全共闘に影響されていたのでブントにあこがれたと思う。 別党コースの水原派と協会の党内党、党内派閥化路線の太田派はイコールではなく、
向坂派に対する共闘。すぐに内部分裂して立場を弱めてしまった。水原派は別党派、
太田派は党変革派、向坂派は党強化派。向坂派と太田派はしばらく白ヘル反独占のメットを
被って共闘していた。単独では格好がつかなかったから。協会派はあんなに批判していた
新左翼系の運動に近いことをやるとはマヌーバーではないかと指摘もされていた。 全共闘の人の回想録で東大の全共闘の集会に白ヘル反独占の見慣れない小集団が
いたので仲間に聞いてみたら協会派のそれも向坂派らしいと言われ「なんでいるの」
と思ったそうだ。太田派は向坂派の東大全共闘参加に日共とのゲバルトにも参加したのかと批判していた。実際殴り合ってなくても加担したのと同然ということらしい。
後の親日共的姿を想像させるものがある。三里塚闘争にも一切近づかなかった。 当たり前だが向坂協会では向坂逸郎の名前が出てくる。しかし太田協会では太田薫の名前はほとんど出てこない
太田協会の出自自体がよくわからない
代々木の隠れ党員と言われた太田薫の社会党内の代々木フラクションというにはあまりにも中途半端… 遥かなる後輩の疑問
社青同は何故、共産党における民青のような、一体感がないのですか? >>560 スターリン主義の一枚岩組織と社民主義組織では全然違うにきまってるだろ。 民青は一体感以前に、同盟員自体がほとんどいなくなってしまった
社青同はその名前とは逆に老人ばかりになってしまった 太田薫さんは総評議長退任後の存在意義を確保するために一定の政治勢力が必用だったの
ではないのかな。それを利用として水原氏の別党グループやその他一旗揚げようとる人が
太田氏を祭り上げたのではないのか。深田肇社青同委員長は太田親衛隊を組織しようとしていた
というし、協会内の非向坂的人々の中心として担ぎ挙げられたのであろう。太田、岩井氏とも
日常的に協会運営に関わっていたわけではかったいわばパトロンみたいな存在。 太田氏によれば「出て行ったのは彼ら(向坂派)の方だよ」それはその通り。向坂派にすれば
乗っ取られたので離脱して再建したということだろう。太田派は別党派が社会タイムスを社会新報
に代わる機関紙にしようとしたり、協会所属社会党議員の歳費を協会が管理しようとしたりやりすぎ
感満載危機感があったと思う。太田氏は太田ラッパというくらい奔放な方言が魅力で一貫した
理論性とは別であり、カリスマ性はあるが協会のような思想集団のそれ−向坂氏のようなものは
希薄である。 関東無政府主義国の公式サイト:
ttp://x0000.net/category.aspx?id=262-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0
今後の目標(関東無政府主義国)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3690-0
王・農・工・士・商
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3683-0 国労の旧主流派だった太田派出身の秋山ケンスケ氏によると若い頃太田薫氏に会って
感激したそうだが、国労修善寺大会で太田派が分裂した後に太田氏から握手を求められて拒否したそうだ。太田事務所は日共の援助を受けていたそうだが、太田派本体から太田氏が離脱するという皮肉な結果となった。太田派は社会党新宣言反対や労働戦線の右翼的再編反対の闘いでは当初原則的に闘っていたが国労問題でこけてしまった >>552
いちばんの謎はこれ
第三見解の太田派から人力、共研といった三里塚闘争にも参加した武闘派が生まれた経緯が不明すぎる。このスレでもいろんな解釈がなされているがいまひとつスッキリしない。当事者が語ってくれるのを待ちたい 協会の主流は構造改革論の継承者であることは太田・向坂問わず明らかだが、少数派の左派は
反構改のサンディカリストで太田派系は人力等になり暴力革命志向になった。69年沖縄デー
でも銀座・有楽町地区のメット集団の大デモに反独占のメット着用者がいたのが写真に写っている
向坂・太田いずれかの確認はできないがそうした社会的土壌はあったんだろう。愛知の太田派
学生班はなるべく多く人力に連れて行きたいので遅れて参加しようとしたがその際に全共闘運動に
参加したということだ。すでに太田派中央の方針とは別の行動をとっているわけだ。 人民の力は社会主義協会の神奈川支部の機関誌だった。水原氏は共産党脱党派の構造改革
諸党派と新党を模索したが失敗。水原氏は太田派内部で社会党残留派の多数派と対立して
事務局長を降ろされ、やがて太田派から離れ社会党を離党。他の別党派の人々とも別れた。
その別れた人たちが人力を結成。 太田派は後の人力等になった人も含めて全共闘、反戦青年委員会、三里塚闘争に背を向けていたわけだから後の変身をいぶかる人がいても不思議ではない。太田派は反戦
青年委を改憲阻止青年会議に切り替えようとして孤立した。反安保、ベトナム反戦、
沖縄闘争で盛り上がっている時に課題になっていない改憲阻止を独りよがりでごり押ししても季節はずれのカンパニアと一蹴されてしまう。自ら改憲阻止派といっていたのだからズレまくっている。このミスは致命的だったろう。 社青同は太田派主導で67年の第一次羽田闘争で日共と並んで否定的な見解を
出したが、向坂派は第二次羽田闘争に反戦青年委の関係で少数が参加。太田派と
対応が分かれ始めた。佐世保闘争は福岡地本が桜木派主導で後に協会派フラク
から離れるきっかになったという。他に佐賀大の学生班を含む社青同部隊が
機動隊の隊列を裏側から崩す果敢なデモで参加者全体を前進させた。 社青同協会派も68年にメットを被り始めすぐに白ヘル反独占に
統一した。空前の反戦闘争の盛り上がりに放置しておくと青年学生が
社青同各地本をバイパスして反戦派に合流しかねない状況だったから
である。街頭での激しいデモへの参加は避けられなかったのである。
向坂派は太田派の焦りの表れと批判したが対応は向坂派も同じだった。 68年の国際反戦デーの映像が記録映画「怒りを歌え」に残っている。太田、
向坂連合のデモ隊が渦巻きデモ、交差点座り込みをしてナレではその後に新宿
に向かったとあるが真相は定かではない。深夜に新宿に行ったら騒乱罪に
巻き込まれたかもしれないから。アジ演説では「全学連の学生わぁ〜」と完全に
時代の雰囲気に便乗している。 向坂派社青同はいつも中途半端で卑怯な奴らなんだよ
東大全共闘や中大全中闘にも一応形だけは参加して三里塚闘争にも中途半端に関わっていたくせに闘争が高揚すると必ず撤退する
70年代イノケン派労働者のSYはそれで賃上げ30万円要求とかしてさすがに協会からも苦言を呈されたはず… 東大安田講堂攻防戦の前に革マルが組織的に撤退してそこに機動隊が進出して
ガス銃を撃ちまくられたと他の全共闘から相当恨まれていた。向坂派は少人数で
目立たなかったが直前に逃亡したのは確か。武闘をしなくてもデモや座り込みで
抗議できたはず。直前敵前逃亡はいけません。影響がなかったからたいして
問題にされなかっただけでけして褒められた話ではない。 中大全中闘では闘争が勝利したのに七十年安保に向けてバリケードを維持すると
ブントの指導部が表明して不評をかっていた。それはともかく68年の国際反戦デー
では大衆的にブントであるかどうか関係なく赤ヘルを被ってゲバ棒をもって防衛庁に
デモをしかけたと後に向坂派になった人たちから聞いたことがある。ブントが一声かけ
れば千人,二声で二千人が集まると言われた時代らしい話だ。 全共闘運動からは全国全共闘が八派党派系列化したから召喚したと説明されて
いるがたしかにそれも理由だろうが後付け感が強い。闘争の武闘化進んでついて
いけなくなったというのが真相だろう。それは大いに理解できる。協会派でなくなって
しまうから。反戦青年委員会も社会党・総評が距離を置くというのでそれに乗っかった
と思う。三里塚闘争も武闘化強まり、社党・総評が離れたのは渡りに舟だったろう。 中大の協会派は早くから拠点だったが例の学習点抵抗路線の影響で伸び
悩んでいた。ただ全共闘による学生運動ブームに便乗して息を吹き返した。
向坂派は全員白ヘルに鉄パイプをもって突然登場、不意打ちとなった
他の新左翼の猛者連もその向坂派の集会に手が出せなかったそうである。
その向坂派もみんな鎌倉派の先祖になったわけではなく、イノケン派、清水派
になった人もいた。 ポジション的に白ヘル被ってデモやってた新学同(創価学会青年部学生班)といっしょだろ
あっちは白ヘル被った池田大作がデモ隊の先頭でジグザグやってたりしたから
見た目は社青同よりよっぽど戦闘的だ 俺の知り合いの中大の向坂派SYが自嘲して「反帝・半社民」って言って卑下してたなぁ
そのくせ、ブントやノンセクトに向かっては「我々こそが第一次共産党」だといきがってた奴もいたし、党派として思想的に一体性は無かった感じがした 新学同は突然ヘルメットに角材で現れ、日共に暴力集団と批判されるや一瞬で
消えた、幻の集団。裏では生き残っていて全共闘運動に紛れ込んていた。当時の
社会風潮では全共闘に共鳴する学生学会員も多かったのであろう。裏で水面下
での参加は黙認していたのではないか。学会の学生には内輪のマルクス主義の
学習会も後のちまであったそうである。当人たちから聞いた話。 第一次共産党云々は堺、山川、荒畑、猪俣ら後の労農派首脳がつくったから
間違いではない。半社民云々は社会党に関与していればМL主義者でもそう
ならざる得ない。嫌なら人力や反戦派のように飛び出るしかない。そうしない
選択をしたのだから割り切っていくしかないだろう。協会派はいろんな傾向の
連合体みたいなところがあったのは労農派の昔から60・70年代当時もその後も。 中大出身の日共さんの地方議員のブログで学生時代協会派が新左翼と
一緒に襲ってきたことがあったという記述があったが中大の民青はゲバ民
というので有名だったぞ。まあ無茶苦茶な時代だったから各勢力無茶もやって
いたのかもしれないな。だいぶ後でも中大の民青は乱暴そうだった。 中大班は新入同盟員には試験をして合格しなければ認めなかったそうだ。
学生班協の論争が始まった以降、中大班は異端扱いで中大出身者という
だけで疑いの目を向けられるたらしいそのような論争に一切かかわりのない人も
その点困惑していた。狭い了見だが主流のイノケン派が警戒していた表れだ。
実際中大派は分派だとか、極左だとか言われていたのを耳にしたし聞かされた。 中大鎌倉派はかっての九大桜木派みたいな独自潮流。桜木派よりは仲間を増やしたが。 子供の頃三派全学連が有名になり、三派とは中核派、社学同、社青同解放派の
ことと解説されておりなんで社青同ではないのかと思っていたらそのうち社青同は
幾つかに分かれており、他に国際主義派すなわち第四インター系などがあるのを
知った。協会派というのもあるがあまり影響力がない(学生運動では)とされていた。
まあ学習点抵抗路線の後遺症だろう。 後に主体と変革派、根拠地派、福岡県本派というのもあり、協会派は太田派と
向坂派に分かれており、人民の力派というグループが飛び出して行ったことも
知った。五十年前のアサヒジャーナルで構改左派の主体と変革派銀ヘル五千の
隊列(数は盛っていると思う)という記事があった。社青同構改派は労働者部隊
だから学生運動では出てこない。福岡地本派も学生桜木派が消滅している。 協会派て今は佐藤協会、坂牛協会、細川協会、旧太田協会の進歩と改革の四団体? ↑そうです。でも細川協会は弱小で、進歩と改革も不活発です。 坂牛協会は佐藤協会との社民主義をめぐる論争の時は一体感があったが
その後社民党と新社会党との協力関係を強めたいグループと消極的な
グループとの間に確執が生じ、新社会党委員長選でのしこりもあり、坂牛派は
分裂した。一時は佐藤派の論客から坂牛派は一緒にやりたくないという意思が
感じられるとまで不信感をもたれたが実はその逆であった。 社青同は結成当初から民青のまねや(当初の主流の講改派)や学習会で日常を
すごし(特に協会派)選挙の時は候補者に手足のごとく狙われている。また現代の
ブランキストとして跳ね上がるのでは時代錯誤と(主に解放派か)清水慎三氏に
喝破されていた。本当にそうなったのだから仕方ない。他に反合闘争だけ論とか
思想闘争優先路線まではさすがの清水氏も予見できなかった。 その清水派とか言われるグループの思想闘争とはどういう運動だったのか?
反合研の物取り主義、経済闘争路線とは違いがあるのか? 教えを請いたい 同じ清水でも清水慎三氏は左社綱領制定の時の清水私案が有名な人。
思想闘争主義の清水は清水由紀郎氏、社青同三つの見解の内第一見解の
(向坂派)起草者。反合研はサンディカリスト的な組合主義、経済主義な
偏向があるがあからさまにそれを主張しているのではない。反合闘争だけ論は
社青同段階で主流のイノケン派から強く発信された。 六十九年の社青同全国大会で清水氏の第一見解は思想闘争色が強かった
ので同じ向坂派内でも違和感があったらしいが。向坂、太田、反戦の三つ巴で
激しく論争している時にそれは言えなかったそうだ。三つの見解と言っても太田、
反戦両派ともいろんな見解に分かれていたと向坂派言っているが向坂派も内実は
同じで七十年代になったら露呈する。ただ社青同を制覇するまでまとまっていた
向坂派の勝利だったのであろう。 清水派の総括によると第三見解すなわち太田派は職場闘争・反合闘争を断固
闘うと言っていたが(実際60年代後半に断固闘ったのは向坂派ではなくむしろ
太田派だ)それは物取り主義的な意味であると煙にまいてみせるが物理的に
合理化を阻止するとか賃上げを獲得するのが物取り主義で向坂派というより
清水派のそれは思想闘争主義である。春闘で断固賃上げのために闘うというのは
当たり前のことでどこの党派でもやること問題は思想闘争だというのが清水流である。
かの三十五万円要求もそうした傾向から出てきたこと。 清水派は八〇年代くらいの論争でも第一見解を聖典化していた。清水起草だから
当然ではあるが清水派と意見の違う人々を第三見解(当時の太田派)と同じと批判
していた。現象的に左派の結集、労線の右翼的再編反対、日共との共闘も行う、
政治闘争の必要性の主張と実際の取り組み、改憲阻止の強調、国労での分裂に
につながった原則的な取り組みが当時の太田派を想起させるのだそうだ。 清水派だろうがなんだろうが要するにイノケン派だろ
家計簿をつけることが「階級闘争」みたいな恥ずかしいことを機関紙に載せせた恥ずかしいことを自覚してないんだよな 生活向上物取り運動が今どう影響しているか
体制は変わらずともその雁字搦めの範囲内で向上したらよいという
冷めた空気と冷笑系のシニカルな体制擁護派だ
抑圧された社会は何も変わっておらず
その自分を苦しめてるものを支持してしまうという
哀れな捩れだ 清水派は七十年代社青同主流派のイノケン派が行き詰まり分解した後
イノケン派の路線を引き継いだ人達が形成した。つまり八十年代以降
イノケン路線を継承した人々。家計簿づけは春闘を闘うにあたって家庭を
顧みないで家計を奥さんまかせにしてい活動家が賃金要求の根拠に窮して
思い付きではじめたもの。家計の掌握度では奥さん方の足元にも及ばなかった。 そんなものを春闘期に社青同や労組青年部あげての運動にされたらたまらんな。
独身者は家計簿ではなく小遣い帖をつけろとか言われたものだ。そのあげくが
例の三十五万円要求運動だ。他党派には春闘を混乱させるものと批判された。
社青同全国大会でも激しく論争して正当化につとめたが突然総括もなく打ち切られた。
向坂氏よりマルクスの「賃金・価格および利潤」にもとづき賃金は利潤を上回ることは
ないと批判されあわててなかったことにしたらしい。恥ずかしい話だ。 60年代の最初の頃、協会派と解放派は合同で向坂邸でフラク会議を合宿で
やっていた。まだ当時は未分化だった、勉強会だと言い訳するだろうけど。
三多摩社青同のインターは当時東京の主流の構改派と反主流の左派連合に
二又をかけていた。後に三多摩は解放派に当初の非協力をわびている。
また三多摩のインターは表向き協会はフラクの一員ということになっていた。 宮城も協会派フラク内で強い発言力があったと表現されている回想があるが
当初の主流の講改派から奪権した時に表向き協会派ということになっていた。
宮城では解放派とインターは関係が良くなかった回想されている。これに対し
東京の解放派とインターは対協会派での戦友関係での友情関係があった。
インター関係の本でも宮城のことをすっとぼけている。 解放派は内部文書で三多摩、宮城や福岡は他の協会派と違う傾向で今後
ますます増えそうと書きつつ、正体をばらさないように配慮している。
他方もっと秘密性の高い文書ではインターや桜木派をおびき出すとも
書かれている。まあ自分らからばらさないようにしていることか。なお
山形もインター系。三多摩以外社会党との関係から抑制的だ。 協会派と解放派が対立始めると協会派はインター系を対解放派で引き込もうとして
山崎耕一郎氏と三多摩幹部との会談もあったそうだ。逆に解放派に三多摩のインター
との対抗を持ち掛けたりした。また解放派内の労学分断もはかったそうだ。ただ
インター系が提携相手として協会派と比べて解放派がふさわしいと判断したとのこと。
急進派同士の提携は考えるまでもないと後世の人は思うだろうがこのようないきさつがあった。 ただ66年9月の決定的対決まで協会、解放派の同盟員同士の人間関係は維持
されていたそうだ。相談に乗ったり、酒を飲んだり人間的な付き合いもしていた。
協会派の解放派への共感や理解もあったそうで66年の東京地本大会も議案が
協会派に接近したという評価もあったくらいである。主導権争いが優先され残念な
暴力事件にいたってしまった。 対立のキーマンは協会派は水原輝雄氏、解放派は滝口弘人氏。水原氏は
別党コースのための商売敵である急進派を排除したかったのだろう。左派的
戦闘的活動家を横取りされてなるものかということだろうか。滝口氏は観念的な
セクト的排除主義が頭をもたげたのだろう。水原氏は協会のボリシェビキ化を唱えて
いたようだが福本主義の再来でしかない。滝口氏も山川・ローザ主義とは異なる。 水原輝雄氏は元九州学連書記長で後に日共九州委員会に左遷されてきた宮顕氏の
秘書をやったこともあった。その後向坂逸郎に傾倒しその門下となった。向坂逸郎が
彼の事を日共脱落組というように日共の代わりに協会を革命的前衛党としようと
したのであろう。協会の規約を制定するときも日共に似せたような規約を出してきた。
すでに社会党を社会主義革命党に強化・変革することは考えていなかったのだろう。 外部の観察者から見て協会派は別党コースを書いては消している様に見えた
らしい。向坂氏も説得に努めたそうだ。人事でも和田静雄氏を議長職において
向坂代表を棚上げにしようとした。九州支局でも向坂系を窓際に追いやり、実務に
つかせないようにした。社青同の中執も協会分裂前に太田系を増やし過半数を
確保した。理論・路線・で争わず規約の改正ということで協会を制しようとした。 協会分裂時にしてやったりは太田派、一杯食ったのは向坂派。裏で意思統一を
して大会代議員の多数を制した。向坂派はぼう然。だが今度はしてやられるのは
太田派の方だった。権謀術策に頼る者は権謀術策に制せられる。太田派は内部の
足並みの乱れもあり向坂派に寄り切られることになる。 太田が都知事になってれば
また違ってただろうな
あの右翼の白色テロを防衛できなかった社青同の責任は重い
学習会ばかりしてるから白兵戦にはからっきし役に立たない 太田選挙に関しては美濃部氏と不仲で協力を得られなかったのもひびいている。
向坂協会も微妙で灰原派が不満げだった。もちろん太田派・向坂派対立のしこりも
あるが太田氏が良い行革に近い雰囲気だったのも影響している。ただ灰原氏は
当選したら万歳だよと言っていたのは批判的と思われるのを気にしていたのだろう。
灰原派の有力活動家は当選してもしなくてもこれからは大変になると言っていたのは
遠回しに批判的トーンをあらわしていたのだろうか。 太田選挙の打ち上げ集会で新宿東口広場を埋め尽くしていたのは社共・総評
都労連などの総合的な力、社青同の力はそれほどではない。それでも比較的
重要な防衛的な責任をもっていたはずだが、そうした指導は一切なし。ゆえに
各労組の一動員者的立場にとどまっていた。結果右翼の宣伝カー突入、投石
などのテロになすすべはなかった。結果太田候補に重傷を負わされる失態を演じた。 サイレンを鳴らしながらノーブレーキで突入してくる街宣車は避けるのが精一杯
かもしれないが、その後の投石は反撃出来たはずだ。最初からそれなりの構えが
あれば奇襲で乱れても立て直しが可能だ。むしろ一般の参加者の方が物を投げ
返したりしていた。新聞では太田氏負傷で革新支持者は奮起するだろうと書いていたが
一般有権者はそうではなかった。あんな騒動で顔面負傷して的な受け止めもあったのかも。 あの片目白眼帯の姿は痛々しいってより
頼りない印象を与えてしまったよ 太田候補は社青同全国協(太田派)なら全力支援だったろう。社青同(向坂派)は
手を抜いていたわけではないが通り一遍で区議選などの方に全力だったのでは
ないのか。協会派は地方選挙でもすべてではないが統一戦線派と反合研が
ギクシャクしていた。後に福岡知事選でみせた太田派を中心とした結集ぶりとは
だいぶ様子が違う。奥田八二氏は川口武彦氏より向坂代表の後継者と言われた人。 東京の太田派は一部が人力に行き、残りは太田派本体と分裂して(党建設派)
崩壊していたからね。党建設派も雑誌がつぶれて後には右派に身売り状態だから。
「党建設」の古い論文を使って深田肇氏と本を出したのが七十年代後半か。
反協会グループの一員として日中のしんろ派等とも協力していたが青年の力の
年寄りメンバーになっていたのは違和感ありまくりだった。 「青年の力」って山岸の電通民同どもがでっちあげた右派分派じゃなかったか?
1978年頃の総評青年協で向坂派社青同にボコボコに殴られてたな せっかく鈴木と麻生に分裂してくれたのにな
社会党ってこういとこあんだよ 民青から日本共産党、マル学同から革共同(中核でも革マルでも)に行くのは活動実績を認められたうえでの誇らしいステップアップなんだが、社青同から社会党にも党籍を置かざるを得ないってのはどんな心持ちだったんだろうかね…
まぁ、それが向坂派社青同の言うところの「社会党の階級的強化」だったんだろうけどな 青年の力は文字通りでっち上げ組織で全電通の青年部(青年会議)の役員に
当番のごとく割り当てていたみたいだ。組合の職場社会党員も組合役員が
割り当ている。党費等も組合費から出ていた思われる。それはともかくこの
集団と社青同は時々小競合いを起こしていた。ある学生はアルミの旗竿で
ひどく殴られたと言っていた。殴ったのは太田派崩れのおっさんメンバーと思われる。 青年の力は全電通の当番メンバーや太田派崩れのおじさんのほかは、新左翼
崩れの社会党や労組の書記や一匹狼的活動家−後に地方議員になった人もいる。
なんと国労組合員もいた。右派が社会党を離脱すると用済みになったということ
だろう。すぐに消滅してしまった。自立した青年の運動ではないからだ。 >>624
麻生は選挙戦終盤もう捨て鉢になっていた。政見放送か、演説会で歌を
歌っているのをテレビで見た。あんまり票を取って票が割れないようにと
言い含められていたのではないか。公明も鈴木に流れた。麻生は麻生久の
息子で浅沼稲次郎の秘書だったが浅沼暗殺後民社から出馬して浅沼ファンの
奥さん方が「裏切者」と宣伝カーの前に立ちふさがったというそういう役割の男だ。 >>625
その日共や革共同への移行にあたるのは社青同→社会党→協会コースではないか。
社青同から社会党ぬきに協会だけに入ることは許されなかった。ただし入党、入会が
前後するのは当然ありうる。またまれに社会党は嫌で協会に先に入会し社会党入りは
拒否していて新社会党が出来た時にはじめて入党した人もいた。まあお金もかかるし
社会党は入るが協会は遠慮すると言う人も結構いた。社青同−党−協会の三重負担と
なるからだ。また協会がサロン化して入る意義がわからんと言う人もいた。 社会党は選挙運動とその準備活動だけ。協会はサロン。社青同は学習・交流
サークル。協会と社青道内の分派が党みたいな役割ではないのかな。 浅沼は右社だからな
左社より民社に近かろう
ディズニーの声の吹き替えまでやってるんだから
あのレッドパージに加担したディズニーのな 民社は元右派社会党のうち旧社会民衆党系が中心で分裂していった。
旧日労系は一部を除き社会党にとどまったので(河上派−浅沼等)民社の
旗上げは失敗となった。安保闘争の頃は国民的に人気があった浅沼を
左派は担いだ。例の「アメリカ帝国主義は・・・」の発言はその反映。 民社も分裂して結党した時は一定の議席を持っていたが見る間に減少した
自民党と右寄りを競って自滅した。社市連→社民連も極少数のまま終わった。
山崎耕一郎氏によると分裂して出た党派は(この場合主として左派の党のこと)
分裂結党の時が最大勢力だといったがたしかに労農党、人力、新社会党皆そう
だった。社民党は分裂して出て行ったのではなく分裂されて置き去りにされたが
お気の毒だが今は見る影もない、新社を吸収して立民等と合同するしかあるまい。 1971年の社青同大会で向坂&太田の両協会、解放派、国際主義派(四トロ)、主体と変革派、ブント崩れの福岡地本が名目上は同じ政治党派としての大会に結集したこと自体が不思議だよな??
それまでは同一班に別の分派のSY同盟員がいたとしたら会議は成立していたんだろうか?
その時点では歴然と集会・デモでは白ヘル、青ヘル、赤ヘル、銀ヘルの別党派として動いていたんだから… 71年の第十回大会は向坂派主導の議案が中央委員会で否決され、委員長名で
招集されたもの大会会場を変えて十分案内しないで強行開催された。向坂派の
ゲバ部隊に厳重に警備され反対派は粉砕などの手出しはできなかった。解放派と
太田派は自派主導の社青同の再建をめざしており、他の反戦派は大会で議案を
否決して立ち直りの出来ないような打撃をあたえるつもりだったようだ。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 不具合で意図しない連投になっている。各分派が1つの班で別々の色のメットを
被って行動することはなかったのではないのかな。各分派ごとに同じメットで
行動している。まあ地本ごとに○○派ということになっているので埼玉地本は
銀ヘルということになろうが。東京は地本が協会と解放の二つ存在していたので
行動も別々。インターは赤ヘルカマトンカチで独立して動いていた。 初期の協会・社青同スレで第10回大会にて向坂派のヘルメット部隊が結集して
いるのを向坂逸郎が満足そうにしていた場面が書かれていたが、労農派の学研肌の
先生の場合戸惑う場面だろうが、向坂爺さんはこういうのが好きな人だった。それが
心酔者の人からは魅力だったのだろう。前年の社会党大会でも解放派対策で全国から
集めて取り囲めと指示し、三池労組員まで動員した。 その際、爺さんは三池の労働者も年取ったなと感想を述べている。後世の人は
三池の労働者をそんな場面に動員してはいけないと思うだろうな。東京地本の
暴力事件の後始末の為の社青同中央委員会を三池労組の地、大牟田で開いた。
その際出迎えに出た三池労組の塚元氏は憔悴しきっていたそうだ。なんで社青同内の
問題で三池労組が巻き込まれなければならないのかという気持ちがあったと思う。 解放派を排除できていなかったら協会は分裂している余裕はなかったで
あろうと樋口圭之介氏は述べているが協会両派は大衆闘争ではくっついたり
離れたり、全共闘、反戦青年委、三里塚闘争では向坂派のみ参加。東交闘争
支援では太田派のみ都電を占拠したり、煙突男をやったり。向坂派はなんと
学習会をしろとよびかけていそうだ。統一しうる課題では向坂・太田合同の
取り組みとなった単独では格好がつかないから。 そのころの写真で東大、東洋大等の向坂派、武蔵大、武蔵工大等の太田派の
メット部隊が合同で集会を開いているものが全共闘等の写真集に載っていた。
後の中心的活動家の若かかりの日の姿もある。太田、向坂派の労学の前で
立山学氏がアジっている横を解放派を中心にした反戦派の大隊列が行進し、
圧倒されている場面が書かれていたものがあったが当時の勢いはそんなものだったろう。 69年の佐藤訪米阻止闘争では前段集会では参加していた向坂派が反戦派から
蒲田に行こうと誘われ行くような素振りをして行かなかったと書かれている。前年の
10・21でも協会派は新宿へ向かう素振りをしていた。映画「怒りをうたえ」より。それでも
蒲田方面に向かったが太田派は改憲阻止青年会議の結成集会という季節はずれの
カンパニア。向坂派は独自の屋内集会を開いて無届け集会だと警察にねじこまれていた。 当時の反戦派の人の話ではガス銃を乱射しながら突撃してくる小型警備車に
あっという間に粉砕されて、民家の床下に潜り込んでのがれたそうだ。翌朝
協会両派と反戦派の生き残りがその他の人々と六郷土手で現地集会を開いた。
初っ端から機動隊に押し込まれ折からの雨で泥だらけになって終わった。
これを泥にまみれた阻止闘争と協会派は自画自賛していたそうだ。 九州発祥の戦線派(L学同)が70年代前半に短期間で首都圏でも武蔵大学自治会を掌握して明大、法政でも傍流とはいえそれなりの党派になったけど解放派や中核派との関係はどうだったのかね?
敵対するわけでもない人畜無害な党派として大目に見られてたんだろうか?
彼らも80年代半ばには個別戦線に分散化して党派としてはフェイドアウトしちまったみたいだが… 戦線派(L学同)は人力が学生運動と政治闘争の停止を決定したために分裂して
出来た党派。L学同が九州発というのは佐賀大が太田派→人力だったからかな。
武蔵大、武蔵工大も同じコース。一定の核が出来れば他校にも波及する。明大、
法大には向坂派社青同も存在したが中核、解放とは敵対しなかったからか排除
されていない。法大の協会派は古く、明大の協会も70年安保頃には存在した。 、_,i|::::::::::|:::::i::::::::|:::i:::::i::::::|::::::::i//.::::::::::::::::/.::::::ヽ._ノ
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おじちゃん
月曜日だよ L学同は後に学生連帯とポーランドの連帯にあやかった名称に変えたが
結局学生運動全体の衰退の波にあらがえなかったのであろう消滅した。
人力は学生が党派を乗っ取り党派として変質するのを恐れたようだ。旧
構造改革派四党派のように。なんでも拠点校で大量の鉄パイプが発見
されたとか。東洋大のL学同の手記で元々向坂派だったが経済主義、
組合主義に疑問をもって移ってきたそうだ。いかにもありそうな話だ。 向坂派の人に聞いた話では、共闘仲間の太田派学生班の被っていたメットが
白ヘル反独占から白ヘル反帝に急に変わったとのことだ。人力への移行が
始まっのだろう。L学同は別に過激にならず人力指導部の危惧は杞憂だった
ようだ。人力派も衰退しつつ小分裂を繰り返して今や見る影もない。どこも
似たようなものだろうとの突込みがありそうだけどもな。 太田派が学生班を失ったことは常任的、専従的活動家の供給源を失ったという
ことで党派的衰退の原因となっている。また国労青年部を担っていた太田派が
人力に移って国労本部青年部を人力が掌握するという現象も起きた。後に親組合
執行部に逆らったか追い落とされてしまった。その後は青年部長向坂派、副部長
太田派の体制が国労旧主流派による鉄産労への分裂までつづく。 中大と法大には有力な協会派班があったが中大には第4インター、法大には解放派の
反対派が形成された。明治はご存じの通りの解放派の拠点。法大の解放派が中核との
緊張関係をよんだ。向坂派は後に法大では中核派とはうまくやっていたようである。
集会では「革命と〜反革命との〜」みたいな演説をしていた。中核の影響らしい。某県・
某地区の向坂派青年労働者も地域の中核派アジトで一般青年を含む交流をしていた。
三里塚闘争に中核の部隊にまじって参加したこともあったとのこと。 明治の協会派は解放派との関係で黒ヘルノンセクトに化けていた。ようするに
協会はいないことになっていたわけだ。最初に二部班が出来、一部班は中大の
影響で後で出来た反主流の鎌倉派である。二部班は主流のイノケン派→清水派。
過去の明大の学生運動スレに明大に協会がいるなんて嘘だろというレスがあったが
広く存在が明らかになっていると危険であったからそれで正解であろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています