【労働大学】社会主義協会・社青同27【まなぶ】
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後に主体と変革派、根拠地派、福岡県本派というのもあり、協会派は太田派と
向坂派に分かれており、人民の力派というグループが飛び出して行ったことも
知った。五十年前のアサヒジャーナルで構改左派の主体と変革派銀ヘル五千の
隊列(数は盛っていると思う)という記事があった。社青同構改派は労働者部隊
だから学生運動では出てこない。福岡地本派も学生桜木派が消滅している。 協会派て今は佐藤協会、坂牛協会、細川協会、旧太田協会の進歩と改革の四団体? ↑そうです。でも細川協会は弱小で、進歩と改革も不活発です。 坂牛協会は佐藤協会との社民主義をめぐる論争の時は一体感があったが
その後社民党と新社会党との協力関係を強めたいグループと消極的な
グループとの間に確執が生じ、新社会党委員長選でのしこりもあり、坂牛派は
分裂した。一時は佐藤派の論客から坂牛派は一緒にやりたくないという意思が
感じられるとまで不信感をもたれたが実はその逆であった。 社青同は結成当初から民青のまねや(当初の主流の講改派)や学習会で日常を
すごし(特に協会派)選挙の時は候補者に手足のごとく狙われている。また現代の
ブランキストとして跳ね上がるのでは時代錯誤と(主に解放派か)清水慎三氏に
喝破されていた。本当にそうなったのだから仕方ない。他に反合闘争だけ論とか
思想闘争優先路線まではさすがの清水氏も予見できなかった。 その清水派とか言われるグループの思想闘争とはどういう運動だったのか?
反合研の物取り主義、経済闘争路線とは違いがあるのか? 教えを請いたい 同じ清水でも清水慎三氏は左社綱領制定の時の清水私案が有名な人。
思想闘争主義の清水は清水由紀郎氏、社青同三つの見解の内第一見解の
(向坂派)起草者。反合研はサンディカリスト的な組合主義、経済主義な
偏向があるがあからさまにそれを主張しているのではない。反合闘争だけ論は
社青同段階で主流のイノケン派から強く発信された。 六十九年の社青同全国大会で清水氏の第一見解は思想闘争色が強かった
ので同じ向坂派内でも違和感があったらしいが。向坂、太田、反戦の三つ巴で
激しく論争している時にそれは言えなかったそうだ。三つの見解と言っても太田、
反戦両派ともいろんな見解に分かれていたと向坂派言っているが向坂派も内実は
同じで七十年代になったら露呈する。ただ社青同を制覇するまでまとまっていた
向坂派の勝利だったのであろう。 清水派の総括によると第三見解すなわち太田派は職場闘争・反合闘争を断固
闘うと言っていたが(実際60年代後半に断固闘ったのは向坂派ではなくむしろ
太田派だ)それは物取り主義的な意味であると煙にまいてみせるが物理的に
合理化を阻止するとか賃上げを獲得するのが物取り主義で向坂派というより
清水派のそれは思想闘争主義である。春闘で断固賃上げのために闘うというのは
当たり前のことでどこの党派でもやること問題は思想闘争だというのが清水流である。
かの三十五万円要求もそうした傾向から出てきたこと。 清水派は八〇年代くらいの論争でも第一見解を聖典化していた。清水起草だから
当然ではあるが清水派と意見の違う人々を第三見解(当時の太田派)と同じと批判
していた。現象的に左派の結集、労線の右翼的再編反対、日共との共闘も行う、
政治闘争の必要性の主張と実際の取り組み、改憲阻止の強調、国労での分裂に
につながった原則的な取り組みが当時の太田派を想起させるのだそうだ。 清水派だろうがなんだろうが要するにイノケン派だろ
家計簿をつけることが「階級闘争」みたいな恥ずかしいことを機関紙に載せせた恥ずかしいことを自覚してないんだよな 生活向上物取り運動が今どう影響しているか
体制は変わらずともその雁字搦めの範囲内で向上したらよいという
冷めた空気と冷笑系のシニカルな体制擁護派だ
抑圧された社会は何も変わっておらず
その自分を苦しめてるものを支持してしまうという
哀れな捩れだ 清水派は七十年代社青同主流派のイノケン派が行き詰まり分解した後
イノケン派の路線を引き継いだ人達が形成した。つまり八十年代以降
イノケン路線を継承した人々。家計簿づけは春闘を闘うにあたって家庭を
顧みないで家計を奥さんまかせにしてい活動家が賃金要求の根拠に窮して
思い付きではじめたもの。家計の掌握度では奥さん方の足元にも及ばなかった。 そんなものを春闘期に社青同や労組青年部あげての運動にされたらたまらんな。
独身者は家計簿ではなく小遣い帖をつけろとか言われたものだ。そのあげくが
例の三十五万円要求運動だ。他党派には春闘を混乱させるものと批判された。
社青同全国大会でも激しく論争して正当化につとめたが突然総括もなく打ち切られた。
向坂氏よりマルクスの「賃金・価格および利潤」にもとづき賃金は利潤を上回ることは
ないと批判されあわててなかったことにしたらしい。恥ずかしい話だ。 60年代の最初の頃、協会派と解放派は合同で向坂邸でフラク会議を合宿で
やっていた。まだ当時は未分化だった、勉強会だと言い訳するだろうけど。
三多摩社青同のインターは当時東京の主流の構改派と反主流の左派連合に
二又をかけていた。後に三多摩は解放派に当初の非協力をわびている。
また三多摩のインターは表向き協会はフラクの一員ということになっていた。 宮城も協会派フラク内で強い発言力があったと表現されている回想があるが
当初の主流の講改派から奪権した時に表向き協会派ということになっていた。
宮城では解放派とインターは関係が良くなかった回想されている。これに対し
東京の解放派とインターは対協会派での戦友関係での友情関係があった。
インター関係の本でも宮城のことをすっとぼけている。 解放派は内部文書で三多摩、宮城や福岡は他の協会派と違う傾向で今後
ますます増えそうと書きつつ、正体をばらさないように配慮している。
他方もっと秘密性の高い文書ではインターや桜木派をおびき出すとも
書かれている。まあ自分らからばらさないようにしていることか。なお
山形もインター系。三多摩以外社会党との関係から抑制的だ。 協会派と解放派が対立始めると協会派はインター系を対解放派で引き込もうとして
山崎耕一郎氏と三多摩幹部との会談もあったそうだ。逆に解放派に三多摩のインター
との対抗を持ち掛けたりした。また解放派内の労学分断もはかったそうだ。ただ
インター系が提携相手として協会派と比べて解放派がふさわしいと判断したとのこと。
急進派同士の提携は考えるまでもないと後世の人は思うだろうがこのようないきさつがあった。 ただ66年9月の決定的対決まで協会、解放派の同盟員同士の人間関係は維持
されていたそうだ。相談に乗ったり、酒を飲んだり人間的な付き合いもしていた。
協会派の解放派への共感や理解もあったそうで66年の東京地本大会も議案が
協会派に接近したという評価もあったくらいである。主導権争いが優先され残念な
暴力事件にいたってしまった。 対立のキーマンは協会派は水原輝雄氏、解放派は滝口弘人氏。水原氏は
別党コースのための商売敵である急進派を排除したかったのだろう。左派的
戦闘的活動家を横取りされてなるものかということだろうか。滝口氏は観念的な
セクト的排除主義が頭をもたげたのだろう。水原氏は協会のボリシェビキ化を唱えて
いたようだが福本主義の再来でしかない。滝口氏も山川・ローザ主義とは異なる。 水原輝雄氏は元九州学連書記長で後に日共九州委員会に左遷されてきた宮顕氏の
秘書をやったこともあった。その後向坂逸郎に傾倒しその門下となった。向坂逸郎が
彼の事を日共脱落組というように日共の代わりに協会を革命的前衛党としようと
したのであろう。協会の規約を制定するときも日共に似せたような規約を出してきた。
すでに社会党を社会主義革命党に強化・変革することは考えていなかったのだろう。 外部の観察者から見て協会派は別党コースを書いては消している様に見えた
らしい。向坂氏も説得に努めたそうだ。人事でも和田静雄氏を議長職において
向坂代表を棚上げにしようとした。九州支局でも向坂系を窓際に追いやり、実務に
つかせないようにした。社青同の中執も協会分裂前に太田系を増やし過半数を
確保した。理論・路線・で争わず規約の改正ということで協会を制しようとした。 協会分裂時にしてやったりは太田派、一杯食ったのは向坂派。裏で意思統一を
して大会代議員の多数を制した。向坂派はぼう然。だが今度はしてやられるのは
太田派の方だった。権謀術策に頼る者は権謀術策に制せられる。太田派は内部の
足並みの乱れもあり向坂派に寄り切られることになる。 太田が都知事になってれば
また違ってただろうな
あの右翼の白色テロを防衛できなかった社青同の責任は重い
学習会ばかりしてるから白兵戦にはからっきし役に立たない 太田選挙に関しては美濃部氏と不仲で協力を得られなかったのもひびいている。
向坂協会も微妙で灰原派が不満げだった。もちろん太田派・向坂派対立のしこりも
あるが太田氏が良い行革に近い雰囲気だったのも影響している。ただ灰原氏は
当選したら万歳だよと言っていたのは批判的と思われるのを気にしていたのだろう。
灰原派の有力活動家は当選してもしなくてもこれからは大変になると言っていたのは
遠回しに批判的トーンをあらわしていたのだろうか。 太田選挙の打ち上げ集会で新宿東口広場を埋め尽くしていたのは社共・総評
都労連などの総合的な力、社青同の力はそれほどではない。それでも比較的
重要な防衛的な責任をもっていたはずだが、そうした指導は一切なし。ゆえに
各労組の一動員者的立場にとどまっていた。結果右翼の宣伝カー突入、投石
などのテロになすすべはなかった。結果太田候補に重傷を負わされる失態を演じた。 サイレンを鳴らしながらノーブレーキで突入してくる街宣車は避けるのが精一杯
かもしれないが、その後の投石は反撃出来たはずだ。最初からそれなりの構えが
あれば奇襲で乱れても立て直しが可能だ。むしろ一般の参加者の方が物を投げ
返したりしていた。新聞では太田氏負傷で革新支持者は奮起するだろうと書いていたが
一般有権者はそうではなかった。あんな騒動で顔面負傷して的な受け止めもあったのかも。 あの片目白眼帯の姿は痛々しいってより
頼りない印象を与えてしまったよ 太田候補は社青同全国協(太田派)なら全力支援だったろう。社青同(向坂派)は
手を抜いていたわけではないが通り一遍で区議選などの方に全力だったのでは
ないのか。協会派は地方選挙でもすべてではないが統一戦線派と反合研が
ギクシャクしていた。後に福岡知事選でみせた太田派を中心とした結集ぶりとは
だいぶ様子が違う。奥田八二氏は川口武彦氏より向坂代表の後継者と言われた人。 東京の太田派は一部が人力に行き、残りは太田派本体と分裂して(党建設派)
崩壊していたからね。党建設派も雑誌がつぶれて後には右派に身売り状態だから。
「党建設」の古い論文を使って深田肇氏と本を出したのが七十年代後半か。
反協会グループの一員として日中のしんろ派等とも協力していたが青年の力の
年寄りメンバーになっていたのは違和感ありまくりだった。 「青年の力」って山岸の電通民同どもがでっちあげた右派分派じゃなかったか?
1978年頃の総評青年協で向坂派社青同にボコボコに殴られてたな せっかく鈴木と麻生に分裂してくれたのにな
社会党ってこういとこあんだよ 民青から日本共産党、マル学同から革共同(中核でも革マルでも)に行くのは活動実績を認められたうえでの誇らしいステップアップなんだが、社青同から社会党にも党籍を置かざるを得ないってのはどんな心持ちだったんだろうかね…
まぁ、それが向坂派社青同の言うところの「社会党の階級的強化」だったんだろうけどな 青年の力は文字通りでっち上げ組織で全電通の青年部(青年会議)の役員に
当番のごとく割り当てていたみたいだ。組合の職場社会党員も組合役員が
割り当ている。党費等も組合費から出ていた思われる。それはともかくこの
集団と社青同は時々小競合いを起こしていた。ある学生はアルミの旗竿で
ひどく殴られたと言っていた。殴ったのは太田派崩れのおっさんメンバーと思われる。 青年の力は全電通の当番メンバーや太田派崩れのおじさんのほかは、新左翼
崩れの社会党や労組の書記や一匹狼的活動家−後に地方議員になった人もいる。
なんと国労組合員もいた。右派が社会党を離脱すると用済みになったということ
だろう。すぐに消滅してしまった。自立した青年の運動ではないからだ。 >>624
麻生は選挙戦終盤もう捨て鉢になっていた。政見放送か、演説会で歌を
歌っているのをテレビで見た。あんまり票を取って票が割れないようにと
言い含められていたのではないか。公明も鈴木に流れた。麻生は麻生久の
息子で浅沼稲次郎の秘書だったが浅沼暗殺後民社から出馬して浅沼ファンの
奥さん方が「裏切者」と宣伝カーの前に立ちふさがったというそういう役割の男だ。 >>625
その日共や革共同への移行にあたるのは社青同→社会党→協会コースではないか。
社青同から社会党ぬきに協会だけに入ることは許されなかった。ただし入党、入会が
前後するのは当然ありうる。またまれに社会党は嫌で協会に先に入会し社会党入りは
拒否していて新社会党が出来た時にはじめて入党した人もいた。まあお金もかかるし
社会党は入るが協会は遠慮すると言う人も結構いた。社青同−党−協会の三重負担と
なるからだ。また協会がサロン化して入る意義がわからんと言う人もいた。 社会党は選挙運動とその準備活動だけ。協会はサロン。社青同は学習・交流
サークル。協会と社青道内の分派が党みたいな役割ではないのかな。 浅沼は右社だからな
左社より民社に近かろう
ディズニーの声の吹き替えまでやってるんだから
あのレッドパージに加担したディズニーのな 民社は元右派社会党のうち旧社会民衆党系が中心で分裂していった。
旧日労系は一部を除き社会党にとどまったので(河上派−浅沼等)民社の
旗上げは失敗となった。安保闘争の頃は国民的に人気があった浅沼を
左派は担いだ。例の「アメリカ帝国主義は・・・」の発言はその反映。 民社も分裂して結党した時は一定の議席を持っていたが見る間に減少した
自民党と右寄りを競って自滅した。社市連→社民連も極少数のまま終わった。
山崎耕一郎氏によると分裂して出た党派は(この場合主として左派の党のこと)
分裂結党の時が最大勢力だといったがたしかに労農党、人力、新社会党皆そう
だった。社民党は分裂して出て行ったのではなく分裂されて置き去りにされたが
お気の毒だが今は見る影もない、新社を吸収して立民等と合同するしかあるまい。 1971年の社青同大会で向坂&太田の両協会、解放派、国際主義派(四トロ)、主体と変革派、ブント崩れの福岡地本が名目上は同じ政治党派としての大会に結集したこと自体が不思議だよな??
それまでは同一班に別の分派のSY同盟員がいたとしたら会議は成立していたんだろうか?
その時点では歴然と集会・デモでは白ヘル、青ヘル、赤ヘル、銀ヘルの別党派として動いていたんだから… 71年の第十回大会は向坂派主導の議案が中央委員会で否決され、委員長名で
招集されたもの大会会場を変えて十分案内しないで強行開催された。向坂派の
ゲバ部隊に厳重に警備され反対派は粉砕などの手出しはできなかった。解放派と
太田派は自派主導の社青同の再建をめざしており、他の反戦派は大会で議案を
否決して立ち直りの出来ないような打撃をあたえるつもりだったようだ。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 不具合で意図しない連投になっている。各分派が1つの班で別々の色のメットを
被って行動することはなかったのではないのかな。各分派ごとに同じメットで
行動している。まあ地本ごとに○○派ということになっているので埼玉地本は
銀ヘルということになろうが。東京は地本が協会と解放の二つ存在していたので
行動も別々。インターは赤ヘルカマトンカチで独立して動いていた。 初期の協会・社青同スレで第10回大会にて向坂派のヘルメット部隊が結集して
いるのを向坂逸郎が満足そうにしていた場面が書かれていたが、労農派の学研肌の
先生の場合戸惑う場面だろうが、向坂爺さんはこういうのが好きな人だった。それが
心酔者の人からは魅力だったのだろう。前年の社会党大会でも解放派対策で全国から
集めて取り囲めと指示し、三池労組員まで動員した。 その際、爺さんは三池の労働者も年取ったなと感想を述べている。後世の人は
三池の労働者をそんな場面に動員してはいけないと思うだろうな。東京地本の
暴力事件の後始末の為の社青同中央委員会を三池労組の地、大牟田で開いた。
その際出迎えに出た三池労組の塚元氏は憔悴しきっていたそうだ。なんで社青同内の
問題で三池労組が巻き込まれなければならないのかという気持ちがあったと思う。 解放派を排除できていなかったら協会は分裂している余裕はなかったで
あろうと樋口圭之介氏は述べているが協会両派は大衆闘争ではくっついたり
離れたり、全共闘、反戦青年委、三里塚闘争では向坂派のみ参加。東交闘争
支援では太田派のみ都電を占拠したり、煙突男をやったり。向坂派はなんと
学習会をしろとよびかけていそうだ。統一しうる課題では向坂・太田合同の
取り組みとなった単独では格好がつかないから。 そのころの写真で東大、東洋大等の向坂派、武蔵大、武蔵工大等の太田派の
メット部隊が合同で集会を開いているものが全共闘等の写真集に載っていた。
後の中心的活動家の若かかりの日の姿もある。太田、向坂派の労学の前で
立山学氏がアジっている横を解放派を中心にした反戦派の大隊列が行進し、
圧倒されている場面が書かれていたものがあったが当時の勢いはそんなものだったろう。 69年の佐藤訪米阻止闘争では前段集会では参加していた向坂派が反戦派から
蒲田に行こうと誘われ行くような素振りをして行かなかったと書かれている。前年の
10・21でも協会派は新宿へ向かう素振りをしていた。映画「怒りをうたえ」より。それでも
蒲田方面に向かったが太田派は改憲阻止青年会議の結成集会という季節はずれの
カンパニア。向坂派は独自の屋内集会を開いて無届け集会だと警察にねじこまれていた。 当時の反戦派の人の話ではガス銃を乱射しながら突撃してくる小型警備車に
あっという間に粉砕されて、民家の床下に潜り込んでのがれたそうだ。翌朝
協会両派と反戦派の生き残りがその他の人々と六郷土手で現地集会を開いた。
初っ端から機動隊に押し込まれ折からの雨で泥だらけになって終わった。
これを泥にまみれた阻止闘争と協会派は自画自賛していたそうだ。 九州発祥の戦線派(L学同)が70年代前半に短期間で首都圏でも武蔵大学自治会を掌握して明大、法政でも傍流とはいえそれなりの党派になったけど解放派や中核派との関係はどうだったのかね?
敵対するわけでもない人畜無害な党派として大目に見られてたんだろうか?
彼らも80年代半ばには個別戦線に分散化して党派としてはフェイドアウトしちまったみたいだが… 戦線派(L学同)は人力が学生運動と政治闘争の停止を決定したために分裂して
出来た党派。L学同が九州発というのは佐賀大が太田派→人力だったからかな。
武蔵大、武蔵工大も同じコース。一定の核が出来れば他校にも波及する。明大、
法大には向坂派社青同も存在したが中核、解放とは敵対しなかったからか排除
されていない。法大の協会派は古く、明大の協会も70年安保頃には存在した。 、_,i|::::::::::|:::::i::::::::|:::i:::::i::::::|::::::::i//.::::::::::::::::/.::::::ヽ._ノ
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おじちゃん
月曜日だよ L学同は後に学生連帯とポーランドの連帯にあやかった名称に変えたが
結局学生運動全体の衰退の波にあらがえなかったのであろう消滅した。
人力は学生が党派を乗っ取り党派として変質するのを恐れたようだ。旧
構造改革派四党派のように。なんでも拠点校で大量の鉄パイプが発見
されたとか。東洋大のL学同の手記で元々向坂派だったが経済主義、
組合主義に疑問をもって移ってきたそうだ。いかにもありそうな話だ。 向坂派の人に聞いた話では、共闘仲間の太田派学生班の被っていたメットが
白ヘル反独占から白ヘル反帝に急に変わったとのことだ。人力への移行が
始まっのだろう。L学同は別に過激にならず人力指導部の危惧は杞憂だった
ようだ。人力派も衰退しつつ小分裂を繰り返して今や見る影もない。どこも
似たようなものだろうとの突込みがありそうだけどもな。 太田派が学生班を失ったことは常任的、専従的活動家の供給源を失ったという
ことで党派的衰退の原因となっている。また国労青年部を担っていた太田派が
人力に移って国労本部青年部を人力が掌握するという現象も起きた。後に親組合
執行部に逆らったか追い落とされてしまった。その後は青年部長向坂派、副部長
太田派の体制が国労旧主流派による鉄産労への分裂までつづく。 中大と法大には有力な協会派班があったが中大には第4インター、法大には解放派の
反対派が形成された。明治はご存じの通りの解放派の拠点。法大の解放派が中核との
緊張関係をよんだ。向坂派は後に法大では中核派とはうまくやっていたようである。
集会では「革命と〜反革命との〜」みたいな演説をしていた。中核の影響らしい。某県・
某地区の向坂派青年労働者も地域の中核派アジトで一般青年を含む交流をしていた。
三里塚闘争に中核の部隊にまじって参加したこともあったとのこと。 明治の協会派は解放派との関係で黒ヘルノンセクトに化けていた。ようするに
協会はいないことになっていたわけだ。最初に二部班が出来、一部班は中大の
影響で後で出来た反主流の鎌倉派である。二部班は主流のイノケン派→清水派。
過去の明大の学生運動スレに明大に協会がいるなんて嘘だろというレスがあったが
広く存在が明らかになっていると危険であったからそれで正解であろう。 >>580
中大の駿河台からの移転間近の77年ころだったかな、赤ヘルノンセクトからテロ宣言をされたときに久しぶりに鉄パイプをふところに入れて中庭で集会をしていたな
それを見た民コロが岩井章事務所に「社青同がこんなトロみたいなことをやってますよ、いいんですか?」とチクったらしい。
その後の顛末は知らんけれど… 日共・民青より社青同は暴力容認集団とレッテル貼りをされていた。
中大社青同のメンバーが角材をもって走っている写真が赤旗に出ていた。
中大班は合成写真と言い、イノケン派は中大ならやりかねないと言っていた。
まあ主流派の東洋大班も学内暴力支配をしていたがな。それに中大の民青は
ゲバ民じゃないか。みなさん適当すぎる。 過去スレに鎌倉派なんて存在しないという書き込みがあったがマル共連に
新左翼だったらしい人の書き込みで「我々は鎌倉派である」と名乗っていた
そうである。対外的な自称が一般的に広まったとみられる。社青同内では
鎌倉派という名称は聞いたことがなかった。組織内では用いなかったので
そういうことになったのであろう。鎌倉派は一種の都市伝説と言う人もいた。 協会から福田派が離脱した頃、革マル機関紙−解放に福田派を鎌倉派と表現
していたのでなんと適当なことを書くのかと思ったが、中大派がそのように自称
していたのではそんな誤解を生むであろう。過去スレに鎌倉派って=福田派?
という質問もあった。鎌倉派は福田派フラクの一員であるが完全なイコールでは
ない。ちょうど桜木派が協会派フラクの一員だが独自の存在であるように。 当時岩井事務所を支えていたのは反合研グループなので中大は管轄外だろう。
岩井事務所に出入りする学生上がりの国労書記が「中大か、しょうがないな」
と悪口を言うのが関の山だ。それに対日共ということで社会党・社青同系より
日共系の方の肩をもつわけにもいくまい。民青は適当にあしらったのだろう。 武蔵には宇野派の桜井がいたけど
理論的には宇野派影響はうかがえないかな
もっとも宇野派で協会派に属していた研究者はいたので
まんざら無関係でもないのかな 向坂教授と日共の論争はもっと徹底的にやってほしかった。
さらに言うと、山川イズムと福本イズムの論争をもう一度やって決着をつけるべきだった。
そうすれば、社青同の理論もより明確になった。 向坂派と宇野派の不思議な関係。どうやら向坂氏と宇野氏の友情関係が
根底にありそうだ。向坂派のなかにも鎌倉氏のような両派兼任みたいな
人がいた。協会派の学生のなかでも宇野経済学を好む人はけっこういた。
教条派の人も首を傾げつつ容認していた。向坂、宇野両氏も決定的な対立に
ならないように配慮していたようだ。 戦前の労農派対日共・講座派論争は権力の両派弾圧によって強制終了に
なった。戦後もちょくちょく論争があったが激しいのは七十年代の向坂協会
と日共の論争だろう。協会は二冊も本を出して食らいついたが日共の方が
大人の対応で自然に終了した。これ以上は無益と判断したのだろう。日共
としても左派最大勢力の協会と対立しぱなしでは共闘の芽をつむことになる。 >>660
宇野直系の大内秀明、鎌倉孝夫、塚本健あたりが協会員だったが、向坂に関しては政治的配慮からだろうが直接的には言及していなかった。
むしろ九大で向坂の教え子だった小林晃なんかがチクチクと的はずれな窮乏化論で宇野批判をしていたな。
なお向坂とともに協会代表だった大内兵衛の息子の大内力は宇野の教え子だったが協会員ではなかったはず そういえば大内「国独資論」を革マルがやたらと持ち上げていたが、ケインズの財政スペンディング論と宇野恐慌論を重ね合わせたものにしか思えなかったけどなぁ 向坂逸郎も晩年宇野批判をしようと思っていたが「宇野君も体が弱っている
ようだと」言って自制したそうだ。向坂氏も体が弱っていたのだろう。宇野批判に
こだわっていたのは灰原派=反合研界隈であろう。自主管理社会主義論の関係
で宇野批判をしていた。大内力氏に批判的な人達とも新社会党結党の頃には関係が
改善していた。護憲・平和にこだわるということでわかりあえたようだ。 自主管理社会主義なら
工場占拠=生産手段の自主管理を主張してた宇野派(批判派)の
岩田弘の世界資本主義論なら親和性無かったのか?
鈴木鴻一郎まで宇野から離れて年若き岩田に追随するほ
段階論と現状分析の宇野の弱点を喝破したのだから 自主管理社会主義云々は社会党右派が社会主義放棄の一里塚として自主管理
社会主義を利用したからではないかな。参加と介入論も同じ。右派の利用主義。
用済みになったら一切語らなくなる。そういう意味で反合研グループの批判も
きわめて政治性の強いもの。「社会通信」なんて別冊の小冊子を出していたが、
そんなに論議が広がった記憶はない。(灰原派・反合研周辺でも) 岩田宏やブント前衛派の生産点管理・武装蜂起を通した労働者ソビエトによる労働者管理と社会党右派のお花畑の「自主管理社会主義」とは全く正反対のベクトルだろうな
ソビエト=レーテに関しての考察をそれなりに追求したのは解放派だった 過去スレに鎌倉派は鎌倉氏が組織したのかという問いがあったが鎌倉派は
中大などの学生活動家が対外的に名乗っただけで鎌倉氏が組織したり、
指導しているわけではないという答えが出ていた。鎌倉派は福田グループに
対する排斥するような対応に嫌気がさして離脱していったという風に書かれていた。
まあ学生運動が衰退していく中で展望を失い、見切りをつけたこともあったのだろう。 鎌倉派は突然いなくなった印象だ。好意的な人にも相談もせずに消えたので
もう少し思慮深いかと思ったと不信感をもたれていた。聞いたところによると
生協運動や地方議員に活路を見出したそうだ。市議や区議に当選した人が
結構いたみたいだ。学生運動でつまらない清水派がしばらく残り、鎌倉派が
早く消えたのは今から思えば残念だった。 過去スレに鎌倉氏がチュチェ研に関与していたので鎌倉派もチュチェ研に
関係しているのかという問いがあった。回答としては鎌倉氏がチュチェ研に
関与するかなり前に鎌倉派は協会系を離脱しているので両者は無関係と
いうことだ。鎌倉氏は福田派フラクから離れ、国鉄闘争では中核派に近い
立場にたっており、福田派系が国労旧主流派に近い立場に立つことを見ると
鎌倉氏と福田派系はかけ離れた存在となっていたようだ。 鎌倉派は筑波大闘争で奮闘し、マル共連か何かでつくば闘争の集会で鎌倉派が
大挙して現れたのでびっくりしたという書き込みを見たことがある。なんでも
東洋大のノンセクトが洋大の協会派になんで君達は参加しないのだと問うと
無言で立ち去ったそうだ。これは何かあるなと思ったとのこと。学協内部で
新左翼との共闘の是非でもめていたそうだ。学協主流派はセクト主義で当然反対。 筑波大闘争で処分を受けた人が後に他県で市議→市長になり、民主党
政権下で消費者庁長官になっていた。筑波大の人ではないが別の地方の
市議になっていた人は社民党から民主党に行こうとして旧反戦派(無党派)の
人も含め説得されて思いとどまっており後に社民党の県幹事長になっていた。 ファッショ統一教会福田が学長をやる規定路線の筑波大開学期には
宇野派の降旗節夫がいたのだが
彼のスタンスは戦う学生を排斥も応援もしないという
客観主義的スタンスだったな
なぜかカクマルには好かれていて
「科学とイデオロギー」「歴史と主体性」「解体する宇野学派」の著作で
カクマルの諸君に解答、提起した文章を書いていた
ある意味付き合いがいいのだ 鎌倉派は主流派から分派として警戒されていた。極左なんだとも陰口を
言われていた。鎌倉派側も除名されるのではないかと警戒していたらしい。
福田豊氏がまだ統一戦線派の指導者としてやっていた頃。中大グループは
福田氏をよんでレーニン研という学習会をやっていたそうだ。イノケン派の
経済主義を批判するために「なにをなすべきか」を学習していたらしい。 実は六十年代後半にも太田派が旧来の協会派の政治性の不足を克服する
為に「なにをなすべきか」を活用したという話もある。それはともかく背景には
学習点抵抗路線から七十年安保前後に比較的オーソドックスな学生運動スタイルに
転換していた協会派学生運動をイノケン派的運動に染め上げるために主流派が
攻勢をかけ労働運動の引き写し路線で画一化しようとして押し付けたためである。 中大派の言い分は労働運動と学生運動はそれぞれ特性があり同一のもの
ではない。労学連帯の視点こそ必要という至極当たり前でまっとうなもの。
これに対し主流派は中大等は小ブルであり自分達こそ労働者派であるという
きわめて主観主義的なもの。労働運動の引き写し路線は過去学民協運動や
学習点抵抗路線で大失敗している教訓にまったく学んでいない。 中大班は社青同学生運動の史的総括を提起したが、主流派のイノケン派は
まともに相手をしようとしなかった。学生の実態討論を対置し議論は噛み合わ
なかった。今の時代なら安倍内閣みたいなもの議論をはぐらかすだけ。そもそも
社青同学生運動の歴史について同一の認識がとれないから六十年代の総括が
すっぽり抜け落ちている。学習点抵抗路線の誤りが明らかになればイノケン派の
学生運動論の誤りも浮き彫りになるからだ。 人民の力派は政治闘争と学生運動を停止したがイノケン派は学生運動を
添え物として便利に使い、学生に政治闘争を丸投げにして一応政治闘争も
闘っているというアリバイをつくり、その実本体の労働者からは政治闘争を
遠ざけるという姑息な手段をろうした。学生運動が衰退するとともに社青同が
政治闘争を闘わないという事実だけがそこに残された。 イノケン派が六十年代は解放派の一人勝ち状態を述べ、教訓はない
唯一教訓になるのは東京学生会館運動だと述べているが五人組運動
を真似しているのは労働運動の引き写し路線の表れだ。五人組といえば
まなぶ友の会運動で登場し「江戸時代か」と過去スレで突っ込まれていたが
すでにこの時代にしかも学生運動で現れているのだ。 まなぶと言えばまなぶの読者投稿欄に「ソ連のアフガン介入を支持するという
ことにはならないのではないのか」という投稿があったのを記憶している。
これは福田派フラクの共通認識だろうが今日的には当たり前のことでも当時は
そうでなかった。山崎耕一郎氏がアフガンに出かけソ連擁護の本も書いている。
当時は協会やソ連派諸派の他に人力派や第四インターもソ連の介入支持だった。
第四インターの「アフガン革命防衛」は名スローガンだった。 四トロは
社会主義国家の核はきれいな核
なんて呆れたこと言ってたな >>682
社会主義「国家」なんて言う時点でおまえのオツムの程度がバレバレだぞw 俺の恩師が鎌倉と一緒に平壌に言ったことあるんだが
そのときは初対面だったらしく
いろいろ話したら鎌倉はカントの影響が大きいって言ってたな
鎌倉派学生もカント読んでたのかね 鎌倉氏は鎌倉派の教祖ということではなかったはず。影響は与えたとしても
まあ顧問みたいなもんとろのだろう。4トロ的には労働者国家でないのかな。
社会主義国家と言う場合も国家に「」をつけているから682さんも誤りではない。
社会主義になったら国家は死滅するという理論にはずれてはいないから。
今更そんな教義問答には興味がないが。 アフガン問題では社会党大会でソ連非難決議を採択をした時、社青同の代議員
として山崎耕ちゃんが演壇下まで詰め寄っていたが、壇上に上がるまでは
しなかった。協会系の代議員、傍聴者もヤジを飛ばすくらいで実力阻止行動は
しなかった。まあ協会規制の後で弱っていたから。実力行使をしたら大会破壊者
になりかねない無理はできないのは仕方ない。その後の国際情勢を見たら正解だった 協会派はハンガリー、チェコ、ポーランド、アフガンでソ連擁護の
立場に立っていた。ハンガリーの時は全体として明確に表明したわけ
でない。協会は国際路線が明確にあったわけではなかった。山川均は
ユーゴと交流があったし、協会が出来る前の時期には荒畑寒村はソ連に
かなり批判的だった。協会は明確な国際路線がない状態からソ連派路線に
飛び移ったという指摘がある。構改派の方が幅広い視野があったという評価もある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています