【労働大学】社会主義協会・社青同27【まなぶ】
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外部の観察者から見て協会派は別党コースを書いては消している様に見えた
らしい。向坂氏も説得に努めたそうだ。人事でも和田静雄氏を議長職において
向坂代表を棚上げにしようとした。九州支局でも向坂系を窓際に追いやり、実務に
つかせないようにした。社青同の中執も協会分裂前に太田系を増やし過半数を
確保した。理論・路線・で争わず規約の改正ということで協会を制しようとした。 協会分裂時にしてやったりは太田派、一杯食ったのは向坂派。裏で意思統一を
して大会代議員の多数を制した。向坂派はぼう然。だが今度はしてやられるのは
太田派の方だった。権謀術策に頼る者は権謀術策に制せられる。太田派は内部の
足並みの乱れもあり向坂派に寄り切られることになる。 太田が都知事になってれば
また違ってただろうな
あの右翼の白色テロを防衛できなかった社青同の責任は重い
学習会ばかりしてるから白兵戦にはからっきし役に立たない 太田選挙に関しては美濃部氏と不仲で協力を得られなかったのもひびいている。
向坂協会も微妙で灰原派が不満げだった。もちろん太田派・向坂派対立のしこりも
あるが太田氏が良い行革に近い雰囲気だったのも影響している。ただ灰原氏は
当選したら万歳だよと言っていたのは批判的と思われるのを気にしていたのだろう。
灰原派の有力活動家は当選してもしなくてもこれからは大変になると言っていたのは
遠回しに批判的トーンをあらわしていたのだろうか。 太田選挙の打ち上げ集会で新宿東口広場を埋め尽くしていたのは社共・総評
都労連などの総合的な力、社青同の力はそれほどではない。それでも比較的
重要な防衛的な責任をもっていたはずだが、そうした指導は一切なし。ゆえに
各労組の一動員者的立場にとどまっていた。結果右翼の宣伝カー突入、投石
などのテロになすすべはなかった。結果太田候補に重傷を負わされる失態を演じた。 サイレンを鳴らしながらノーブレーキで突入してくる街宣車は避けるのが精一杯
かもしれないが、その後の投石は反撃出来たはずだ。最初からそれなりの構えが
あれば奇襲で乱れても立て直しが可能だ。むしろ一般の参加者の方が物を投げ
返したりしていた。新聞では太田氏負傷で革新支持者は奮起するだろうと書いていたが
一般有権者はそうではなかった。あんな騒動で顔面負傷して的な受け止めもあったのかも。 あの片目白眼帯の姿は痛々しいってより
頼りない印象を与えてしまったよ 太田候補は社青同全国協(太田派)なら全力支援だったろう。社青同(向坂派)は
手を抜いていたわけではないが通り一遍で区議選などの方に全力だったのでは
ないのか。協会派は地方選挙でもすべてではないが統一戦線派と反合研が
ギクシャクしていた。後に福岡知事選でみせた太田派を中心とした結集ぶりとは
だいぶ様子が違う。奥田八二氏は川口武彦氏より向坂代表の後継者と言われた人。 東京の太田派は一部が人力に行き、残りは太田派本体と分裂して(党建設派)
崩壊していたからね。党建設派も雑誌がつぶれて後には右派に身売り状態だから。
「党建設」の古い論文を使って深田肇氏と本を出したのが七十年代後半か。
反協会グループの一員として日中のしんろ派等とも協力していたが青年の力の
年寄りメンバーになっていたのは違和感ありまくりだった。 「青年の力」って山岸の電通民同どもがでっちあげた右派分派じゃなかったか?
1978年頃の総評青年協で向坂派社青同にボコボコに殴られてたな せっかく鈴木と麻生に分裂してくれたのにな
社会党ってこういとこあんだよ 民青から日本共産党、マル学同から革共同(中核でも革マルでも)に行くのは活動実績を認められたうえでの誇らしいステップアップなんだが、社青同から社会党にも党籍を置かざるを得ないってのはどんな心持ちだったんだろうかね…
まぁ、それが向坂派社青同の言うところの「社会党の階級的強化」だったんだろうけどな 青年の力は文字通りでっち上げ組織で全電通の青年部(青年会議)の役員に
当番のごとく割り当てていたみたいだ。組合の職場社会党員も組合役員が
割り当ている。党費等も組合費から出ていた思われる。それはともかくこの
集団と社青同は時々小競合いを起こしていた。ある学生はアルミの旗竿で
ひどく殴られたと言っていた。殴ったのは太田派崩れのおっさんメンバーと思われる。 青年の力は全電通の当番メンバーや太田派崩れのおじさんのほかは、新左翼
崩れの社会党や労組の書記や一匹狼的活動家−後に地方議員になった人もいる。
なんと国労組合員もいた。右派が社会党を離脱すると用済みになったということ
だろう。すぐに消滅してしまった。自立した青年の運動ではないからだ。 >>624
麻生は選挙戦終盤もう捨て鉢になっていた。政見放送か、演説会で歌を
歌っているのをテレビで見た。あんまり票を取って票が割れないようにと
言い含められていたのではないか。公明も鈴木に流れた。麻生は麻生久の
息子で浅沼稲次郎の秘書だったが浅沼暗殺後民社から出馬して浅沼ファンの
奥さん方が「裏切者」と宣伝カーの前に立ちふさがったというそういう役割の男だ。 >>625
その日共や革共同への移行にあたるのは社青同→社会党→協会コースではないか。
社青同から社会党ぬきに協会だけに入ることは許されなかった。ただし入党、入会が
前後するのは当然ありうる。またまれに社会党は嫌で協会に先に入会し社会党入りは
拒否していて新社会党が出来た時にはじめて入党した人もいた。まあお金もかかるし
社会党は入るが協会は遠慮すると言う人も結構いた。社青同−党−協会の三重負担と
なるからだ。また協会がサロン化して入る意義がわからんと言う人もいた。 社会党は選挙運動とその準備活動だけ。協会はサロン。社青同は学習・交流
サークル。協会と社青道内の分派が党みたいな役割ではないのかな。 浅沼は右社だからな
左社より民社に近かろう
ディズニーの声の吹き替えまでやってるんだから
あのレッドパージに加担したディズニーのな 民社は元右派社会党のうち旧社会民衆党系が中心で分裂していった。
旧日労系は一部を除き社会党にとどまったので(河上派−浅沼等)民社の
旗上げは失敗となった。安保闘争の頃は国民的に人気があった浅沼を
左派は担いだ。例の「アメリカ帝国主義は・・・」の発言はその反映。 民社も分裂して結党した時は一定の議席を持っていたが見る間に減少した
自民党と右寄りを競って自滅した。社市連→社民連も極少数のまま終わった。
山崎耕一郎氏によると分裂して出た党派は(この場合主として左派の党のこと)
分裂結党の時が最大勢力だといったがたしかに労農党、人力、新社会党皆そう
だった。社民党は分裂して出て行ったのではなく分裂されて置き去りにされたが
お気の毒だが今は見る影もない、新社を吸収して立民等と合同するしかあるまい。 1971年の社青同大会で向坂&太田の両協会、解放派、国際主義派(四トロ)、主体と変革派、ブント崩れの福岡地本が名目上は同じ政治党派としての大会に結集したこと自体が不思議だよな??
それまでは同一班に別の分派のSY同盟員がいたとしたら会議は成立していたんだろうか?
その時点では歴然と集会・デモでは白ヘル、青ヘル、赤ヘル、銀ヘルの別党派として動いていたんだから… 71年の第十回大会は向坂派主導の議案が中央委員会で否決され、委員長名で
招集されたもの大会会場を変えて十分案内しないで強行開催された。向坂派の
ゲバ部隊に厳重に警備され反対派は粉砕などの手出しはできなかった。解放派と
太田派は自派主導の社青同の再建をめざしており、他の反戦派は大会で議案を
否決して立ち直りの出来ないような打撃をあたえるつもりだったようだ。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 結果太田派の表現によると向坂派の一派集会であり、「大会」であるという中身になった。
太田派は第九回大会で失墜した後は離脱して独自組織化の道を取り始めたし、別党派は
離脱の道に向かって行った。解放派も九回大会後の執行部に加わらず、福岡地本は解散
の道を選択した。全体的には太田派、反戦派は不参加となった。後に太田派は社青同全国協
を結成し、解放派は自派のみの社青同を「再建」した。主革派は離脱して自立し、インター派
は後に共青同を結成した。ここに社青同の三分解は確定する。 不具合で意図しない連投になっている。各分派が1つの班で別々の色のメットを
被って行動することはなかったのではないのかな。各分派ごとに同じメットで
行動している。まあ地本ごとに○○派ということになっているので埼玉地本は
銀ヘルということになろうが。東京は地本が協会と解放の二つ存在していたので
行動も別々。インターは赤ヘルカマトンカチで独立して動いていた。 初期の協会・社青同スレで第10回大会にて向坂派のヘルメット部隊が結集して
いるのを向坂逸郎が満足そうにしていた場面が書かれていたが、労農派の学研肌の
先生の場合戸惑う場面だろうが、向坂爺さんはこういうのが好きな人だった。それが
心酔者の人からは魅力だったのだろう。前年の社会党大会でも解放派対策で全国から
集めて取り囲めと指示し、三池労組員まで動員した。 その際、爺さんは三池の労働者も年取ったなと感想を述べている。後世の人は
三池の労働者をそんな場面に動員してはいけないと思うだろうな。東京地本の
暴力事件の後始末の為の社青同中央委員会を三池労組の地、大牟田で開いた。
その際出迎えに出た三池労組の塚元氏は憔悴しきっていたそうだ。なんで社青同内の
問題で三池労組が巻き込まれなければならないのかという気持ちがあったと思う。 解放派を排除できていなかったら協会は分裂している余裕はなかったで
あろうと樋口圭之介氏は述べているが協会両派は大衆闘争ではくっついたり
離れたり、全共闘、反戦青年委、三里塚闘争では向坂派のみ参加。東交闘争
支援では太田派のみ都電を占拠したり、煙突男をやったり。向坂派はなんと
学習会をしろとよびかけていそうだ。統一しうる課題では向坂・太田合同の
取り組みとなった単独では格好がつかないから。 そのころの写真で東大、東洋大等の向坂派、武蔵大、武蔵工大等の太田派の
メット部隊が合同で集会を開いているものが全共闘等の写真集に載っていた。
後の中心的活動家の若かかりの日の姿もある。太田、向坂派の労学の前で
立山学氏がアジっている横を解放派を中心にした反戦派の大隊列が行進し、
圧倒されている場面が書かれていたものがあったが当時の勢いはそんなものだったろう。 69年の佐藤訪米阻止闘争では前段集会では参加していた向坂派が反戦派から
蒲田に行こうと誘われ行くような素振りをして行かなかったと書かれている。前年の
10・21でも協会派は新宿へ向かう素振りをしていた。映画「怒りをうたえ」より。それでも
蒲田方面に向かったが太田派は改憲阻止青年会議の結成集会という季節はずれの
カンパニア。向坂派は独自の屋内集会を開いて無届け集会だと警察にねじこまれていた。 当時の反戦派の人の話ではガス銃を乱射しながら突撃してくる小型警備車に
あっという間に粉砕されて、民家の床下に潜り込んでのがれたそうだ。翌朝
協会両派と反戦派の生き残りがその他の人々と六郷土手で現地集会を開いた。
初っ端から機動隊に押し込まれ折からの雨で泥だらけになって終わった。
これを泥にまみれた阻止闘争と協会派は自画自賛していたそうだ。 九州発祥の戦線派(L学同)が70年代前半に短期間で首都圏でも武蔵大学自治会を掌握して明大、法政でも傍流とはいえそれなりの党派になったけど解放派や中核派との関係はどうだったのかね?
敵対するわけでもない人畜無害な党派として大目に見られてたんだろうか?
彼らも80年代半ばには個別戦線に分散化して党派としてはフェイドアウトしちまったみたいだが… 戦線派(L学同)は人力が学生運動と政治闘争の停止を決定したために分裂して
出来た党派。L学同が九州発というのは佐賀大が太田派→人力だったからかな。
武蔵大、武蔵工大も同じコース。一定の核が出来れば他校にも波及する。明大、
法大には向坂派社青同も存在したが中核、解放とは敵対しなかったからか排除
されていない。法大の協会派は古く、明大の協会も70年安保頃には存在した。 、_,i|::::::::::|:::::i::::::::|:::i:::::i::::::|::::::::i//.::::::::::::::::/.::::::ヽ._ノ
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おじちゃん
月曜日だよ L学同は後に学生連帯とポーランドの連帯にあやかった名称に変えたが
結局学生運動全体の衰退の波にあらがえなかったのであろう消滅した。
人力は学生が党派を乗っ取り党派として変質するのを恐れたようだ。旧
構造改革派四党派のように。なんでも拠点校で大量の鉄パイプが発見
されたとか。東洋大のL学同の手記で元々向坂派だったが経済主義、
組合主義に疑問をもって移ってきたそうだ。いかにもありそうな話だ。 向坂派の人に聞いた話では、共闘仲間の太田派学生班の被っていたメットが
白ヘル反独占から白ヘル反帝に急に変わったとのことだ。人力への移行が
始まっのだろう。L学同は別に過激にならず人力指導部の危惧は杞憂だった
ようだ。人力派も衰退しつつ小分裂を繰り返して今や見る影もない。どこも
似たようなものだろうとの突込みがありそうだけどもな。 太田派が学生班を失ったことは常任的、専従的活動家の供給源を失ったという
ことで党派的衰退の原因となっている。また国労青年部を担っていた太田派が
人力に移って国労本部青年部を人力が掌握するという現象も起きた。後に親組合
執行部に逆らったか追い落とされてしまった。その後は青年部長向坂派、副部長
太田派の体制が国労旧主流派による鉄産労への分裂までつづく。 中大と法大には有力な協会派班があったが中大には第4インター、法大には解放派の
反対派が形成された。明治はご存じの通りの解放派の拠点。法大の解放派が中核との
緊張関係をよんだ。向坂派は後に法大では中核派とはうまくやっていたようである。
集会では「革命と〜反革命との〜」みたいな演説をしていた。中核の影響らしい。某県・
某地区の向坂派青年労働者も地域の中核派アジトで一般青年を含む交流をしていた。
三里塚闘争に中核の部隊にまじって参加したこともあったとのこと。 明治の協会派は解放派との関係で黒ヘルノンセクトに化けていた。ようするに
協会はいないことになっていたわけだ。最初に二部班が出来、一部班は中大の
影響で後で出来た反主流の鎌倉派である。二部班は主流のイノケン派→清水派。
過去の明大の学生運動スレに明大に協会がいるなんて嘘だろというレスがあったが
広く存在が明らかになっていると危険であったからそれで正解であろう。 >>580
中大の駿河台からの移転間近の77年ころだったかな、赤ヘルノンセクトからテロ宣言をされたときに久しぶりに鉄パイプをふところに入れて中庭で集会をしていたな
それを見た民コロが岩井章事務所に「社青同がこんなトロみたいなことをやってますよ、いいんですか?」とチクったらしい。
その後の顛末は知らんけれど… 日共・民青より社青同は暴力容認集団とレッテル貼りをされていた。
中大社青同のメンバーが角材をもって走っている写真が赤旗に出ていた。
中大班は合成写真と言い、イノケン派は中大ならやりかねないと言っていた。
まあ主流派の東洋大班も学内暴力支配をしていたがな。それに中大の民青は
ゲバ民じゃないか。みなさん適当すぎる。 過去スレに鎌倉派なんて存在しないという書き込みがあったがマル共連に
新左翼だったらしい人の書き込みで「我々は鎌倉派である」と名乗っていた
そうである。対外的な自称が一般的に広まったとみられる。社青同内では
鎌倉派という名称は聞いたことがなかった。組織内では用いなかったので
そういうことになったのであろう。鎌倉派は一種の都市伝説と言う人もいた。 協会から福田派が離脱した頃、革マル機関紙−解放に福田派を鎌倉派と表現
していたのでなんと適当なことを書くのかと思ったが、中大派がそのように自称
していたのではそんな誤解を生むであろう。過去スレに鎌倉派って=福田派?
という質問もあった。鎌倉派は福田派フラクの一員であるが完全なイコールでは
ない。ちょうど桜木派が協会派フラクの一員だが独自の存在であるように。 当時岩井事務所を支えていたのは反合研グループなので中大は管轄外だろう。
岩井事務所に出入りする学生上がりの国労書記が「中大か、しょうがないな」
と悪口を言うのが関の山だ。それに対日共ということで社会党・社青同系より
日共系の方の肩をもつわけにもいくまい。民青は適当にあしらったのだろう。 武蔵には宇野派の桜井がいたけど
理論的には宇野派影響はうかがえないかな
もっとも宇野派で協会派に属していた研究者はいたので
まんざら無関係でもないのかな 向坂教授と日共の論争はもっと徹底的にやってほしかった。
さらに言うと、山川イズムと福本イズムの論争をもう一度やって決着をつけるべきだった。
そうすれば、社青同の理論もより明確になった。 向坂派と宇野派の不思議な関係。どうやら向坂氏と宇野氏の友情関係が
根底にありそうだ。向坂派のなかにも鎌倉氏のような両派兼任みたいな
人がいた。協会派の学生のなかでも宇野経済学を好む人はけっこういた。
教条派の人も首を傾げつつ容認していた。向坂、宇野両氏も決定的な対立に
ならないように配慮していたようだ。 戦前の労農派対日共・講座派論争は権力の両派弾圧によって強制終了に
なった。戦後もちょくちょく論争があったが激しいのは七十年代の向坂協会
と日共の論争だろう。協会は二冊も本を出して食らいついたが日共の方が
大人の対応で自然に終了した。これ以上は無益と判断したのだろう。日共
としても左派最大勢力の協会と対立しぱなしでは共闘の芽をつむことになる。 >>660
宇野直系の大内秀明、鎌倉孝夫、塚本健あたりが協会員だったが、向坂に関しては政治的配慮からだろうが直接的には言及していなかった。
むしろ九大で向坂の教え子だった小林晃なんかがチクチクと的はずれな窮乏化論で宇野批判をしていたな。
なお向坂とともに協会代表だった大内兵衛の息子の大内力は宇野の教え子だったが協会員ではなかったはず そういえば大内「国独資論」を革マルがやたらと持ち上げていたが、ケインズの財政スペンディング論と宇野恐慌論を重ね合わせたものにしか思えなかったけどなぁ 向坂逸郎も晩年宇野批判をしようと思っていたが「宇野君も体が弱っている
ようだと」言って自制したそうだ。向坂氏も体が弱っていたのだろう。宇野批判に
こだわっていたのは灰原派=反合研界隈であろう。自主管理社会主義論の関係
で宇野批判をしていた。大内力氏に批判的な人達とも新社会党結党の頃には関係が
改善していた。護憲・平和にこだわるということでわかりあえたようだ。 自主管理社会主義なら
工場占拠=生産手段の自主管理を主張してた宇野派(批判派)の
岩田弘の世界資本主義論なら親和性無かったのか?
鈴木鴻一郎まで宇野から離れて年若き岩田に追随するほ
段階論と現状分析の宇野の弱点を喝破したのだから 自主管理社会主義云々は社会党右派が社会主義放棄の一里塚として自主管理
社会主義を利用したからではないかな。参加と介入論も同じ。右派の利用主義。
用済みになったら一切語らなくなる。そういう意味で反合研グループの批判も
きわめて政治性の強いもの。「社会通信」なんて別冊の小冊子を出していたが、
そんなに論議が広がった記憶はない。(灰原派・反合研周辺でも) 岩田宏やブント前衛派の生産点管理・武装蜂起を通した労働者ソビエトによる労働者管理と社会党右派のお花畑の「自主管理社会主義」とは全く正反対のベクトルだろうな
ソビエト=レーテに関しての考察をそれなりに追求したのは解放派だった 過去スレに鎌倉派は鎌倉氏が組織したのかという問いがあったが鎌倉派は
中大などの学生活動家が対外的に名乗っただけで鎌倉氏が組織したり、
指導しているわけではないという答えが出ていた。鎌倉派は福田グループに
対する排斥するような対応に嫌気がさして離脱していったという風に書かれていた。
まあ学生運動が衰退していく中で展望を失い、見切りをつけたこともあったのだろう。 鎌倉派は突然いなくなった印象だ。好意的な人にも相談もせずに消えたので
もう少し思慮深いかと思ったと不信感をもたれていた。聞いたところによると
生協運動や地方議員に活路を見出したそうだ。市議や区議に当選した人が
結構いたみたいだ。学生運動でつまらない清水派がしばらく残り、鎌倉派が
早く消えたのは今から思えば残念だった。 過去スレに鎌倉氏がチュチェ研に関与していたので鎌倉派もチュチェ研に
関係しているのかという問いがあった。回答としては鎌倉氏がチュチェ研に
関与するかなり前に鎌倉派は協会系を離脱しているので両者は無関係と
いうことだ。鎌倉氏は福田派フラクから離れ、国鉄闘争では中核派に近い
立場にたっており、福田派系が国労旧主流派に近い立場に立つことを見ると
鎌倉氏と福田派系はかけ離れた存在となっていたようだ。 鎌倉派は筑波大闘争で奮闘し、マル共連か何かでつくば闘争の集会で鎌倉派が
大挙して現れたのでびっくりしたという書き込みを見たことがある。なんでも
東洋大のノンセクトが洋大の協会派になんで君達は参加しないのだと問うと
無言で立ち去ったそうだ。これは何かあるなと思ったとのこと。学協内部で
新左翼との共闘の是非でもめていたそうだ。学協主流派はセクト主義で当然反対。 筑波大闘争で処分を受けた人が後に他県で市議→市長になり、民主党
政権下で消費者庁長官になっていた。筑波大の人ではないが別の地方の
市議になっていた人は社民党から民主党に行こうとして旧反戦派(無党派)の
人も含め説得されて思いとどまっており後に社民党の県幹事長になっていた。 ファッショ統一教会福田が学長をやる規定路線の筑波大開学期には
宇野派の降旗節夫がいたのだが
彼のスタンスは戦う学生を排斥も応援もしないという
客観主義的スタンスだったな
なぜかカクマルには好かれていて
「科学とイデオロギー」「歴史と主体性」「解体する宇野学派」の著作で
カクマルの諸君に解答、提起した文章を書いていた
ある意味付き合いがいいのだ 鎌倉派は主流派から分派として警戒されていた。極左なんだとも陰口を
言われていた。鎌倉派側も除名されるのではないかと警戒していたらしい。
福田豊氏がまだ統一戦線派の指導者としてやっていた頃。中大グループは
福田氏をよんでレーニン研という学習会をやっていたそうだ。イノケン派の
経済主義を批判するために「なにをなすべきか」を学習していたらしい。 実は六十年代後半にも太田派が旧来の協会派の政治性の不足を克服する
為に「なにをなすべきか」を活用したという話もある。それはともかく背景には
学習点抵抗路線から七十年安保前後に比較的オーソドックスな学生運動スタイルに
転換していた協会派学生運動をイノケン派的運動に染め上げるために主流派が
攻勢をかけ労働運動の引き写し路線で画一化しようとして押し付けたためである。 中大派の言い分は労働運動と学生運動はそれぞれ特性があり同一のもの
ではない。労学連帯の視点こそ必要という至極当たり前でまっとうなもの。
これに対し主流派は中大等は小ブルであり自分達こそ労働者派であるという
きわめて主観主義的なもの。労働運動の引き写し路線は過去学民協運動や
学習点抵抗路線で大失敗している教訓にまったく学んでいない。 中大班は社青同学生運動の史的総括を提起したが、主流派のイノケン派は
まともに相手をしようとしなかった。学生の実態討論を対置し議論は噛み合わ
なかった。今の時代なら安倍内閣みたいなもの議論をはぐらかすだけ。そもそも
社青同学生運動の歴史について同一の認識がとれないから六十年代の総括が
すっぽり抜け落ちている。学習点抵抗路線の誤りが明らかになればイノケン派の
学生運動論の誤りも浮き彫りになるからだ。 人民の力派は政治闘争と学生運動を停止したがイノケン派は学生運動を
添え物として便利に使い、学生に政治闘争を丸投げにして一応政治闘争も
闘っているというアリバイをつくり、その実本体の労働者からは政治闘争を
遠ざけるという姑息な手段をろうした。学生運動が衰退するとともに社青同が
政治闘争を闘わないという事実だけがそこに残された。 イノケン派が六十年代は解放派の一人勝ち状態を述べ、教訓はない
唯一教訓になるのは東京学生会館運動だと述べているが五人組運動
を真似しているのは労働運動の引き写し路線の表れだ。五人組といえば
まなぶ友の会運動で登場し「江戸時代か」と過去スレで突っ込まれていたが
すでにこの時代にしかも学生運動で現れているのだ。 まなぶと言えばまなぶの読者投稿欄に「ソ連のアフガン介入を支持するという
ことにはならないのではないのか」という投稿があったのを記憶している。
これは福田派フラクの共通認識だろうが今日的には当たり前のことでも当時は
そうでなかった。山崎耕一郎氏がアフガンに出かけソ連擁護の本も書いている。
当時は協会やソ連派諸派の他に人力派や第四インターもソ連の介入支持だった。
第四インターの「アフガン革命防衛」は名スローガンだった。 四トロは
社会主義国家の核はきれいな核
なんて呆れたこと言ってたな >>682
社会主義「国家」なんて言う時点でおまえのオツムの程度がバレバレだぞw 俺の恩師が鎌倉と一緒に平壌に言ったことあるんだが
そのときは初対面だったらしく
いろいろ話したら鎌倉はカントの影響が大きいって言ってたな
鎌倉派学生もカント読んでたのかね 鎌倉氏は鎌倉派の教祖ということではなかったはず。影響は与えたとしても
まあ顧問みたいなもんとろのだろう。4トロ的には労働者国家でないのかな。
社会主義国家と言う場合も国家に「」をつけているから682さんも誤りではない。
社会主義になったら国家は死滅するという理論にはずれてはいないから。
今更そんな教義問答には興味がないが。 アフガン問題では社会党大会でソ連非難決議を採択をした時、社青同の代議員
として山崎耕ちゃんが演壇下まで詰め寄っていたが、壇上に上がるまでは
しなかった。協会系の代議員、傍聴者もヤジを飛ばすくらいで実力阻止行動は
しなかった。まあ協会規制の後で弱っていたから。実力行使をしたら大会破壊者
になりかねない無理はできないのは仕方ない。その後の国際情勢を見たら正解だった 協会派はハンガリー、チェコ、ポーランド、アフガンでソ連擁護の
立場に立っていた。ハンガリーの時は全体として明確に表明したわけ
でない。協会は国際路線が明確にあったわけではなかった。山川均は
ユーゴと交流があったし、協会が出来る前の時期には荒畑寒村はソ連に
かなり批判的だった。協会は明確な国際路線がない状態からソ連派路線に
飛び移ったという指摘がある。構改派の方が幅広い視野があったという評価もある。 ソ連支持は向坂逸郎の個性だろう。若き日のドイツに留学していた時に
ドイツ共産党のレーニン追悼集会に参加したくらいだから。その頃レーニンが
死去した時期だった。後は日共からの流入組。ソ連主導の81か国共産党・
労働者党会議の声明の丸写しではないかという指摘もある。協会に第二の
共産党を夢見る人がやりそうなこと。親ソの爺さんに異議があろうはずがない。 協会テーゼや社会党の「社会主義の道」はソ連路線の丸写しぽいな。(国際路線が)
協会派がソ連派と言っても。本当にソ連路線なのは主流の統一戦線派。
反主流の反合研・イノケン派はソ連支持、ソ連擁護だが様々な問題では
ソ連と意見が異なる独自勢力。向坂派主流と見解が一致するのが意外
にも太田派主流。反合研派の意見をとらえソ連路線と違うと指摘していた。 知り合いだった名古屋大社青同のやつは福田派だったかな
今日のソ連邦を定期購読してた
自治会もやってたが
名大の自治会って社青同が握ってたっけ 愛知の社青同協会派は太田派が主流で学生も太田派だったが別党派が中心で
太田派なのに全共闘に参加していた。向坂派の学生だった人の話では多くが
太田派で人力に行ってしまったと述べているが実際には遅れて参加しようとして
人力に参加を拒否されてしまったそうだ。それが後に戦線派とのドッキングに
失敗して青共同(準)を結成することになるらしいが協会派の話とは離れる。 その向坂派として社青同に残った人の成果か、後に向坂派社青同全盛時の影響か
愛知に向坂派社青同の学生がいたのは確かである。その人達が鎌倉派だったのか
清水派だったのか今となっては知る由もないが卒業後就職して長距離通勤で消耗
している同盟員を支えようとしている三池研らしい人の発言を聞いたことがある。
福田派らしい人なら鎌倉派だろう。名大自治会を社青同が担っていたかどうか聞いた
ことがない。自治会役員の一員ならありえる話かもしれないが。 福田豊氏は統一戦線派の指導者で福田派と言われていたが七十年代後半から
しだいにユーロコミュニズムに傾倒し、統一戦線派は分岐していく。従来の
見解を保持した人達は佐藤事務局長、川口武彦代表代行ら幹部が多く中間派の
佐藤派。福田派は福田本といわれた著作を出してハチの巣を突いたような
騒ぎになった。灰原派は佐藤派と連合し福田氏を糾弾したのですべて福田氏に
賛同しているわけでもない人まで含めて協会を離脱して協会弱体の一因をつくった。 福田氏は協会離脱後新団体を設立して機関誌も出したがすぐ立ち消えになった。
その後大内英明、高木郁郎各氏らとともに社会党右派勢力の支援や社会民主主義の
宣伝をおこなっていたが英労働党の第三の道の紹介など右に行きすぎ、ご高齢という
こともあってその後政治的発言はしていない。福田派の活動は山本正弘氏の創る会や
各労組の民同幹部に引き継がれた。北海道では民主党に東北では社民党にその他
各地域の条件によってその後の去就は決められている。 福田さん達は協会離脱後なぜユーロコミュニズムで踏みとどまらなかったのか
という質問に対してユーロコミュニズムでは日共との差が出ないので右派からの
支援が受けにくいからではという答えがあった。しかし福田氏にあくまでついて
いったのは田中慎一郎氏ら少数で福田氏は先走りすぎたとの印象だ。今から見たら
たいしたことではないことも当時は早すぎたのだろう。ペレストロイカが始まったのは
それから数年後のことである。皮肉な話だ。 福田氏も協会内にとどまるという選択が可能だったらユーロコミュニズムで
とどまっていたであろう。もっともソ連・東欧の崩壊でユーロコミュニズム自体が
消滅してしまったのでいずれ転換したであろうが。その後協会自体がМL主義の
呼称や協会思想による党内思想の統一と言う方針の放棄、佐藤協会の社民主義
への接近など福田氏達の後追いになっているのはなんとも皮肉な話だ。 過去スレで北海道の社青同地本事務所の大家さんは民主党だと嫌味ぽい
指摘があったが社会党の道本部の多数が民主党に移行してしまったので
大家さんの表札が変わっただけというオチだった。事務所がある会館は同じ
である。社青同は民主党、社民党、新社会党の三つの党の関係者を同盟員に
している。佐藤協会もこれら三つの党の党員を会員にしている。これに対し坂牛
協会は基本的に新社会党員のみを構成員にしている。(自然にそうなる) 田中慎一郎が最右翼だと清水派の社青同専従者が言っていた。その頃
鎌倉孝雄氏は「現代と展望」という雑誌で自由な研究が保障されない
ようでは仕方ないと別の研究集団をつくったと述べているが実際のところ
鎌倉氏は協会派と絶縁したわけではなく(主に佐藤協会)また旧太田派の
「進歩と改革」にもいろいろ書いている。 田口富久治、ニコス・プーランツァス、ラルフ・ミリバンドの
ユーロコミュニズムからのマルクス主義国家論論争では
福田豊も首突っ込んだけど
どちらかといえばレーニン主義国家論の範疇を出てなかったな
まあ協会派だからそうなんだろなと
あまり刺激にもならなかった そもそも福田豊のマルクス主義とレーニン主義の理解の程度が怪しげだった
ユーロコミュニズムなんてのを持ち上げていたが、ただの帝国主義社民でしかなかったのは明らかだろ 福田氏もいきなり社会民主主義と言うわけにはいかなかったのだろうと思う。
いわば過渡的方針と思われる。当時福田派の中堅幹部の人が「左翼社民主義の
優位性」を説いていた。帝国主義社民まで行くと福田氏の支持者も含めて到底受け
入れられないだろう。ユーロコミュニズムのほかにユーロソシアリズムやユーロレフト
という概念も出てきていた。福田派の人はレーニン主義、プロ独の放棄を述べていた。 田中慎一郎氏は大変ナーバスになっていたという反合研派の幹部の話も
聞いたことがあった。協会の総会の舞台裏では福田糾弾の文書を配布しろ
という灰原派幹部(三多摩の常松と山崎耕)が佐藤事務局長に迫っていた場面も
あった。福田批判でも灰原派と中間派の佐藤派では温度差があったようだ。
福田派から見たらかっての仲間、川口、佐藤、成清氏に裏切られたと気持ちが
強かった。実際そういう声を聞いたことがある。 福田氏が非難にさらされている時、篠藤光行氏が奥さんから「福田さんに
子供のオムツを変えてもらったことがあったじゃない」と言われたと複雑な
胸中を吐露していたことがあったが灰原派の幹部はお涙頂戴だと切り捨てていた。
中間派の佐藤派としてはかっての統一戦線派仲間の人達となんとかどこかで
収めたかった.のだろう。灰原派はこの間のうっ憤をはらしたかったのだろうか。 福田派の佐藤時弘氏が佐藤派の成清氏に社会党をМL主義で純化するという
考えは誤りですねと問うと「そんなこと言っていると協会におれなくなるよ」と
言われたそうである。実際そうなった。佐藤氏は第4インターなどに言わせると
セクト的官僚主義の権化で60年代当時の急進派にもっとも忌避されていたらしい。
尚、佐藤氏は後に結局社民党にとどまり衆院選に立候補までしている。 篠藤光行氏はソ連崩壊後の総括でマルクスレーニン主義の呼称に
導入当時違和感があったと後に述べている。構造改革論争で構改派
の方がマルクス、レーニンを盛んに引用して論議を進めたということと
別党派の人達が第二共産党化の布石として導入したことですんなり通って
しまった。また労農派出身者の人達の日共コンプレックスも背景にあったと思う。 社青同主流派のイノケン派は鎌倉派の動向を一々気にしていた。中大の誰それが
離脱した。本女の誰それが親に実家に連れ戻されたなどと学生班でもない自分にも
漏れ聞こえていた、わざとアナウンスしていたのだろう。日本女子大は後の鎌倉派が
自治会を担いパリストもやったとネットに出ていた。そういう積極的な話の方が良いのに
学協の対立の話ばかり聞こえてきた。洋大では反主流の学生が孤立させられていたそうだ。 主流派は東洋大でかなり後でも機動隊を導入されるような闘いをしたそうだが
そういう話をすべきであろう。テレビニュースでも社青同協会派が云々と報道され
洋大生の親が友人からお宅のお子さんがテレビに写っていたよと知らせてきたそうだ。
この頃、民学同ともめて警察に弾圧される口実を与えるポカもやっているが。鎌倉派が
衰退離脱して、その後の清水派も衰退してデモをやっても少なすぎてジグザグデモに
ならずチンチン電車ごっこのようだったと自嘲気味に語っていた。 実際清水派の運動はズレまくっていた。北大では寮生の自殺をイノケン派的に
当局に殺されたと騒ぎ利用主義だと猛反発された。学生班協で国労ストへの支援と
交流に入ると「学生も苦しいのだ」と言いはり「そんなに苦しいのなら働いたら」と
国労青年部員に言われて(( ゚Д゚))「・・・・」状態だったそうだ。当時の学生は今の学生
ほど困窮していなかったはずだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています