【労働大学】社会主義協会・社青同27【まなぶ】
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中大班は社青同学生運動の史的総括を提起したが、主流派のイノケン派は
まともに相手をしようとしなかった。学生の実態討論を対置し議論は噛み合わ
なかった。今の時代なら安倍内閣みたいなもの議論をはぐらかすだけ。そもそも
社青同学生運動の歴史について同一の認識がとれないから六十年代の総括が
すっぽり抜け落ちている。学習点抵抗路線の誤りが明らかになればイノケン派の
学生運動論の誤りも浮き彫りになるからだ。 人民の力派は政治闘争と学生運動を停止したがイノケン派は学生運動を
添え物として便利に使い、学生に政治闘争を丸投げにして一応政治闘争も
闘っているというアリバイをつくり、その実本体の労働者からは政治闘争を
遠ざけるという姑息な手段をろうした。学生運動が衰退するとともに社青同が
政治闘争を闘わないという事実だけがそこに残された。 イノケン派が六十年代は解放派の一人勝ち状態を述べ、教訓はない
唯一教訓になるのは東京学生会館運動だと述べているが五人組運動
を真似しているのは労働運動の引き写し路線の表れだ。五人組といえば
まなぶ友の会運動で登場し「江戸時代か」と過去スレで突っ込まれていたが
すでにこの時代にしかも学生運動で現れているのだ。 まなぶと言えばまなぶの読者投稿欄に「ソ連のアフガン介入を支持するという
ことにはならないのではないのか」という投稿があったのを記憶している。
これは福田派フラクの共通認識だろうが今日的には当たり前のことでも当時は
そうでなかった。山崎耕一郎氏がアフガンに出かけソ連擁護の本も書いている。
当時は協会やソ連派諸派の他に人力派や第四インターもソ連の介入支持だった。
第四インターの「アフガン革命防衛」は名スローガンだった。 四トロは
社会主義国家の核はきれいな核
なんて呆れたこと言ってたな >>682
社会主義「国家」なんて言う時点でおまえのオツムの程度がバレバレだぞw 俺の恩師が鎌倉と一緒に平壌に言ったことあるんだが
そのときは初対面だったらしく
いろいろ話したら鎌倉はカントの影響が大きいって言ってたな
鎌倉派学生もカント読んでたのかね 鎌倉氏は鎌倉派の教祖ということではなかったはず。影響は与えたとしても
まあ顧問みたいなもんとろのだろう。4トロ的には労働者国家でないのかな。
社会主義国家と言う場合も国家に「」をつけているから682さんも誤りではない。
社会主義になったら国家は死滅するという理論にはずれてはいないから。
今更そんな教義問答には興味がないが。 アフガン問題では社会党大会でソ連非難決議を採択をした時、社青同の代議員
として山崎耕ちゃんが演壇下まで詰め寄っていたが、壇上に上がるまでは
しなかった。協会系の代議員、傍聴者もヤジを飛ばすくらいで実力阻止行動は
しなかった。まあ協会規制の後で弱っていたから。実力行使をしたら大会破壊者
になりかねない無理はできないのは仕方ない。その後の国際情勢を見たら正解だった 協会派はハンガリー、チェコ、ポーランド、アフガンでソ連擁護の
立場に立っていた。ハンガリーの時は全体として明確に表明したわけ
でない。協会は国際路線が明確にあったわけではなかった。山川均は
ユーゴと交流があったし、協会が出来る前の時期には荒畑寒村はソ連に
かなり批判的だった。協会は明確な国際路線がない状態からソ連派路線に
飛び移ったという指摘がある。構改派の方が幅広い視野があったという評価もある。 ソ連支持は向坂逸郎の個性だろう。若き日のドイツに留学していた時に
ドイツ共産党のレーニン追悼集会に参加したくらいだから。その頃レーニンが
死去した時期だった。後は日共からの流入組。ソ連主導の81か国共産党・
労働者党会議の声明の丸写しではないかという指摘もある。協会に第二の
共産党を夢見る人がやりそうなこと。親ソの爺さんに異議があろうはずがない。 協会テーゼや社会党の「社会主義の道」はソ連路線の丸写しぽいな。(国際路線が)
協会派がソ連派と言っても。本当にソ連路線なのは主流の統一戦線派。
反主流の反合研・イノケン派はソ連支持、ソ連擁護だが様々な問題では
ソ連と意見が異なる独自勢力。向坂派主流と見解が一致するのが意外
にも太田派主流。反合研派の意見をとらえソ連路線と違うと指摘していた。 知り合いだった名古屋大社青同のやつは福田派だったかな
今日のソ連邦を定期購読してた
自治会もやってたが
名大の自治会って社青同が握ってたっけ 愛知の社青同協会派は太田派が主流で学生も太田派だったが別党派が中心で
太田派なのに全共闘に参加していた。向坂派の学生だった人の話では多くが
太田派で人力に行ってしまったと述べているが実際には遅れて参加しようとして
人力に参加を拒否されてしまったそうだ。それが後に戦線派とのドッキングに
失敗して青共同(準)を結成することになるらしいが協会派の話とは離れる。 その向坂派として社青同に残った人の成果か、後に向坂派社青同全盛時の影響か
愛知に向坂派社青同の学生がいたのは確かである。その人達が鎌倉派だったのか
清水派だったのか今となっては知る由もないが卒業後就職して長距離通勤で消耗
している同盟員を支えようとしている三池研らしい人の発言を聞いたことがある。
福田派らしい人なら鎌倉派だろう。名大自治会を社青同が担っていたかどうか聞いた
ことがない。自治会役員の一員ならありえる話かもしれないが。 福田豊氏は統一戦線派の指導者で福田派と言われていたが七十年代後半から
しだいにユーロコミュニズムに傾倒し、統一戦線派は分岐していく。従来の
見解を保持した人達は佐藤事務局長、川口武彦代表代行ら幹部が多く中間派の
佐藤派。福田派は福田本といわれた著作を出してハチの巣を突いたような
騒ぎになった。灰原派は佐藤派と連合し福田氏を糾弾したのですべて福田氏に
賛同しているわけでもない人まで含めて協会を離脱して協会弱体の一因をつくった。 福田氏は協会離脱後新団体を設立して機関誌も出したがすぐ立ち消えになった。
その後大内英明、高木郁郎各氏らとともに社会党右派勢力の支援や社会民主主義の
宣伝をおこなっていたが英労働党の第三の道の紹介など右に行きすぎ、ご高齢という
こともあってその後政治的発言はしていない。福田派の活動は山本正弘氏の創る会や
各労組の民同幹部に引き継がれた。北海道では民主党に東北では社民党にその他
各地域の条件によってその後の去就は決められている。 福田さん達は協会離脱後なぜユーロコミュニズムで踏みとどまらなかったのか
という質問に対してユーロコミュニズムでは日共との差が出ないので右派からの
支援が受けにくいからではという答えがあった。しかし福田氏にあくまでついて
いったのは田中慎一郎氏ら少数で福田氏は先走りすぎたとの印象だ。今から見たら
たいしたことではないことも当時は早すぎたのだろう。ペレストロイカが始まったのは
それから数年後のことである。皮肉な話だ。 福田氏も協会内にとどまるという選択が可能だったらユーロコミュニズムで
とどまっていたであろう。もっともソ連・東欧の崩壊でユーロコミュニズム自体が
消滅してしまったのでいずれ転換したであろうが。その後協会自体がМL主義の
呼称や協会思想による党内思想の統一と言う方針の放棄、佐藤協会の社民主義
への接近など福田氏達の後追いになっているのはなんとも皮肉な話だ。 過去スレで北海道の社青同地本事務所の大家さんは民主党だと嫌味ぽい
指摘があったが社会党の道本部の多数が民主党に移行してしまったので
大家さんの表札が変わっただけというオチだった。事務所がある会館は同じ
である。社青同は民主党、社民党、新社会党の三つの党の関係者を同盟員に
している。佐藤協会もこれら三つの党の党員を会員にしている。これに対し坂牛
協会は基本的に新社会党員のみを構成員にしている。(自然にそうなる) 田中慎一郎が最右翼だと清水派の社青同専従者が言っていた。その頃
鎌倉孝雄氏は「現代と展望」という雑誌で自由な研究が保障されない
ようでは仕方ないと別の研究集団をつくったと述べているが実際のところ
鎌倉氏は協会派と絶縁したわけではなく(主に佐藤協会)また旧太田派の
「進歩と改革」にもいろいろ書いている。 田口富久治、ニコス・プーランツァス、ラルフ・ミリバンドの
ユーロコミュニズムからのマルクス主義国家論論争では
福田豊も首突っ込んだけど
どちらかといえばレーニン主義国家論の範疇を出てなかったな
まあ協会派だからそうなんだろなと
あまり刺激にもならなかった そもそも福田豊のマルクス主義とレーニン主義の理解の程度が怪しげだった
ユーロコミュニズムなんてのを持ち上げていたが、ただの帝国主義社民でしかなかったのは明らかだろ 福田氏もいきなり社会民主主義と言うわけにはいかなかったのだろうと思う。
いわば過渡的方針と思われる。当時福田派の中堅幹部の人が「左翼社民主義の
優位性」を説いていた。帝国主義社民まで行くと福田氏の支持者も含めて到底受け
入れられないだろう。ユーロコミュニズムのほかにユーロソシアリズムやユーロレフト
という概念も出てきていた。福田派の人はレーニン主義、プロ独の放棄を述べていた。 田中慎一郎氏は大変ナーバスになっていたという反合研派の幹部の話も
聞いたことがあった。協会の総会の舞台裏では福田糾弾の文書を配布しろ
という灰原派幹部(三多摩の常松と山崎耕)が佐藤事務局長に迫っていた場面も
あった。福田批判でも灰原派と中間派の佐藤派では温度差があったようだ。
福田派から見たらかっての仲間、川口、佐藤、成清氏に裏切られたと気持ちが
強かった。実際そういう声を聞いたことがある。 福田氏が非難にさらされている時、篠藤光行氏が奥さんから「福田さんに
子供のオムツを変えてもらったことがあったじゃない」と言われたと複雑な
胸中を吐露していたことがあったが灰原派の幹部はお涙頂戴だと切り捨てていた。
中間派の佐藤派としてはかっての統一戦線派仲間の人達となんとかどこかで
収めたかった.のだろう。灰原派はこの間のうっ憤をはらしたかったのだろうか。 福田派の佐藤時弘氏が佐藤派の成清氏に社会党をМL主義で純化するという
考えは誤りですねと問うと「そんなこと言っていると協会におれなくなるよ」と
言われたそうである。実際そうなった。佐藤氏は第4インターなどに言わせると
セクト的官僚主義の権化で60年代当時の急進派にもっとも忌避されていたらしい。
尚、佐藤氏は後に結局社民党にとどまり衆院選に立候補までしている。 篠藤光行氏はソ連崩壊後の総括でマルクスレーニン主義の呼称に
導入当時違和感があったと後に述べている。構造改革論争で構改派
の方がマルクス、レーニンを盛んに引用して論議を進めたということと
別党派の人達が第二共産党化の布石として導入したことですんなり通って
しまった。また労農派出身者の人達の日共コンプレックスも背景にあったと思う。 社青同主流派のイノケン派は鎌倉派の動向を一々気にしていた。中大の誰それが
離脱した。本女の誰それが親に実家に連れ戻されたなどと学生班でもない自分にも
漏れ聞こえていた、わざとアナウンスしていたのだろう。日本女子大は後の鎌倉派が
自治会を担いパリストもやったとネットに出ていた。そういう積極的な話の方が良いのに
学協の対立の話ばかり聞こえてきた。洋大では反主流の学生が孤立させられていたそうだ。 主流派は東洋大でかなり後でも機動隊を導入されるような闘いをしたそうだが
そういう話をすべきであろう。テレビニュースでも社青同協会派が云々と報道され
洋大生の親が友人からお宅のお子さんがテレビに写っていたよと知らせてきたそうだ。
この頃、民学同ともめて警察に弾圧される口実を与えるポカもやっているが。鎌倉派が
衰退離脱して、その後の清水派も衰退してデモをやっても少なすぎてジグザグデモに
ならずチンチン電車ごっこのようだったと自嘲気味に語っていた。 実際清水派の運動はズレまくっていた。北大では寮生の自殺をイノケン派的に
当局に殺されたと騒ぎ利用主義だと猛反発された。学生班協で国労ストへの支援と
交流に入ると「学生も苦しいのだ」と言いはり「そんなに苦しいのなら働いたら」と
国労青年部員に言われて(( ゚Д゚))「・・・・」状態だったそうだ。当時の学生は今の学生
ほど困窮していなかったはずだ。 鎌倉派なき後、清水派の学生運動が消滅すると社青同学生運動も壊滅した。
すでに民同丸抱え運動がなくなり干されていた労働戦線では一部を除き、新規の
参加者もなくなってきており学生が残り少ない新規運動参加者の供給源も断たれる
こととなった。本来労組青年部運動の参加者をまなぶ等で青年部役員の同盟委員が
オルグするということがだんだん有効でなくなってきたなかでかなり痛かった。 解説者の話では社青同では学生運動は添え物と思われており、学生運動に
重点を置く党派のように運動維持の努力をしなかったためとしているがそうした
対策をとっている各党派も衰退・消滅をしているので衰退・消滅はあらがえない
時代の流れであろう。学生運動どころか労組青年部運動の現役がおらず、職場
自体からも現役がいなくなってきている。労組の退職者会「青年部」と自虐的に
語られる向きもある。社老同かと突っ込まれそう。 過去スレにまず高校生班がなくなり次に学生班がなくなり、労組青年部員が
いなくなり、ついに労組の現役労働者がいなくなりつつあるということがあったが、
このまま行くと生存者がいなくなりそう。それは当たり前だが寿命が尽きる前に
少なくても健康寿命がなくなりつつある。まあそうなる前にシニア左翼として
再デビュウしたらと思う。 60年代には社青同本部と東京地本の事務所は国会図書館にあったのだって。
今では信じられない話だが国会図書館とは本来議員の資料集めの場だから政党に
作業室を提供するということなら不思議な話ではない。そうした本来の目的とは
別に便宜供与されていた部屋を社青同にまた貸ししていたのだろう。家賃が
ただになるから。それなら三宅坂の社文の部屋を供与すればいいではないかと
突っ込まれそう。批判される前に九・三暴力事件を契機に退去した。 社青同本部と東京地本の事務所がワンフロワーにあるから協会派と解放派の
執行委員や書記がにらみ合い状態で大変だったそうだ。暴力事件を契機に
退去してお互いほっとしただろう。インター系の三多摩分室の事務所にも協会派が
押しかけ小競合いになっていたそうだ。社青同本部派は須田町ビルの方に行った
のだろうか。山崎耕ちゃんが青年の声の発送作業をしていたという話も過去スレに出ていた。 安田講堂攻防戦の時に社青同同盟旗が打ち振られそれを見た人々から
協会系の社青同本部に激励電話が全国からかかってきたそうだ。「うちは関係あり
ません」とも言えず戸惑いながらもお礼を言っていたそうだ。微笑ましい話だ。
後に太田派はあれは排除されていた解放派だったと述べているがそんなことは
一般の人にはわからない、闘争不参加の太田派、逃亡の向坂派あまりかっこ良くない。 関東無政府主義国の公式サイト:
ttp://x0000.net/category.aspx?id=262-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0
今後の目標(関東無政府主義国)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3690-0
王・農・工・士・商
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3683-0 反戦派排除の流れの中で社会党大会は押し寄せる解放派等から大会防衛の
ために向坂逸郎は会場を取り囲めと号令して防衛体制を敷いたのは良いとしても
党本部が機動隊を導入したのでちぐはぐなことになってしまった。それでも大会
会場内まで機動隊を導入しなかったので大会は成立したのであろう。入れていたら
流会になってしまうところだった。当時の写真で大会会場内に反独占のメットを
被った防衛隊が通路にすわりこんでいるものを見たことがある。 大会会場内まで機動隊を導入したのは社会党兵庫県本大会だ。岡崎宏美擁立
問題でもめたからといって大会会場内に機動隊を導入したら流会になるに決まっている。
これは兵庫県本分裂、護憲社会党結成の原因となった。これが後に新社会党兵庫県本と
なった。兵庫は東京と違って左派がほぼ丸ごと新社会党に行ったのはこういういきさつが
あったのだ。東京だけでなく千葉、埼玉等で左派内での対応が分かれた。 70年に話をもどすと全国大会防衛に参加していた人の話を聞いたところ
ノンヘルで横隊列を組んでいたところに解放派に殴りこまれてメタメタにやられた
仲間がグロッキーで病院に連れて行ったそうだ。どうも頼りなさそうなので本部は
機動隊を導入したのかもしれない。映画「怒りをうたえ」にもその場面があった。
捕まった解放派の学生がしまったというか何とも言えない表情をしていた。 協会派らしい話。機関紙社会新報にプロレタリア独裁の話を一面に掲載し
一般読者からこの新聞やめたいと言われたそうだ。機関紙局を握っていたのは
協会派。本部書記局多数派の向坂派が現実路線に傾いたのはこういう失敗を
へての話であろう。協会派の当時の教条主義ぷりがわかるエピソード。やがて
本部書記局は福田派、山本創る会の拠点となった。 高校生班で思い出したのは高校生班だった人から「生命と権利」では
高校生としてはピンと来なかったので「改憲阻止・反合理化」の基調の
ままでいくことにしたという話を聞いたことがあった。ただ70年代の頃
反合理化はともかく改憲阻止は課題的にピンとこないうらみがある。
後に改憲阻止が焦点化した頃には反合闘争が闘えなくなっていた。 山川均は山川イズムで党分裂反対派のイメージが強いが戦前には社会大衆党から
日本無産党を分立させた。また戦後も山川新党を準備した。社会党の左右分裂で
新党をつくる必要がなくなったので立ち消えとなったが。その前には労農派の
一部を含めて労農党が出来たが日共の同調勢力の雰囲気が強い。荒畑寒村は
社会党離党後、いわば山川新党(準)の候補者としての孤高の選挙を闘った。 >>723
そういう信念の怪しい連中を多く読者に抱えて
啓蒙を怠ってきたのが社会党という政党
投票率が上がって浮動票が社会党に流れれば選挙に勝てるという
政党の根幹、非党員頼みの情けない政党 一般人を読者とするなら、「プロレタリア独裁」などというおどろおどろしい教義を
掲げたらみんな引いてしまうのが当然だ。
自民党で言うと、自由新報に「八紘一宇」「一億玉砕」などと書くようなものだ。
そこまで信念を通すなら、身内向けの新聞にするしかない。 共産主義の革命政党なら「全国政治新聞」として強烈な紙面でもいいけれど
社会新報にそれはなじまない。そういうのは自派の機関紙誌でやれば良い。
太田派は社会タイムズを社会新報の代わりにするつもりだったようだ。
福田豊氏は講演で新報を赤旗並みに日刊化し、しかもブル新との併読を
しなくてもすむ赤旗のようにしたいと夢のようなことを語っていた。 山川均はハンガリー事件でソ連を非難していたか゛協会をはじめ社会党左派は
ソ連批判を抑え込んだ。向坂逸郎は批判抑制派だ。実は戦前から山川均は
ボルシェビズムやコミンテルンに批判的だが向坂逸郎はこれに同調せずこの点に
関しては猪俣津南雄に近いと述べている。基本的な問題で破局を恐れ討論を
避けていた節がある。たしかにとことん議論すると山川・猪俣、山川・荒畑、向坂・高橋
向坂・太田等長年の同志と決裂することになるから。これらの離別は避けられたものも
あったかもしれない。 社会党界隈には薄気味の悪い人達がいた。協会派に所属していたがこの人
何者と思われる人、元民学同で大学卒業後、昔風に言うと学士入学して8年間
在学した経歴がある人社会党、協会派的にみたらいわば草のような存在。
協会派でないがこの人チュチェ研?と思える人。MPDからの加入派とささやかられ
ている青年、ある日突然いなくなりMPDの一員として行動していた。 第四インターは中核派に加入要員派遣を要請していた。中核派のメンバーが
マル青労働の組織化を始めたからお引き取り願ったそうだが、そうなるのは
当然でそもそも加入戦術しているのは第四インター自身ではないか。両者とも
お断りである。PKO闘争での逮捕者が社党の議員秘書になっていた。なんでも
日向派であるとかこういうルーズさ、いい加減さもたいがいにした方が良い。 ここが難しい所であんまり厳重にしてしまうと党専従者のなり手が不足してしまう。
労組書記も似た傾向があった。社会党本部には自分の机の周りをロッカーで囲い
三里塚闘争等の連絡ばかりやっていた人がいたそうだ。総支部にも新左翼あがりの
専従者がいた。協会系でも党、社青同、労組書記で新左翼からの転身組がいるから
あんまり言えない部分もあったろう。もっとも協会系は協会派に変わってからの任務
配置だから加入戦術とは違う。 九大のブントからの加入組は微妙だ。加入戦術と社会党・協会溶け込みの
中間か。九大転身組の第一世代は島崎譲氏らで日共から協会への移行組だ。
第二世代は日共からブントをへて協会へ。この二つは協会派の中核となる。
第三世代は日共をへずにブンドに直接入り、協会系に移った。安保ブントは
加入派として特色を残して社青同に参加した。いわゆる桜木派だ。 社青同第四回大会で協会派が主導権をとった翌年には早くも福岡地本が
批判的立場を明らかにした。四回大会ですぐに委員長を選出出来なかった
のは福岡地本三池出身の中山氏で調整していたのだがこういう背景もあった
ということらしい。だがここは対立的にしないために福岡からも執行部に
入ってもらうこととし木原執行委員を選出した。信任投票では協会系の
候補の中で最高の信任票を得た。反対派が一番害のない候補とみたからである。 木原氏は他の人の回想録で九大ブントとして名が出ている。加入派の
桜木派である。反主流各派の人々も実はわかっていたのだろう。過去スレで
桜木さんという人が指導者なの?という問いに対してペンネームを党派的表現
としているという答えがあった。一方で批判的潮流のようで他方で協会派の一員
としての動きもしている。東京でのデモ指揮にかかわる殴打事件で木原氏は三多摩
の同盟員に殴打されている。学生班協総会では学対として学習点抵抗路線を訴え
退けられすごすごとと帰っていった。協会中央に利用されていたらしい。 九・三の暴力事件後の中央委員会では本部に賛成せざる得なかったそうだ。
暴力事件の内容がひどすぎたからだ。とてもかばいきれるものではなかったろう。
福岡地本は妙に反合闘争に流し込むような議論をしてみたりする。これは協会的な
ものに同化しようとして不自然に組合主義的主張をしているのか。学民協も社会党・
民同的なものに迎合していたが学習点抵抗では桜木派が協会派の一員として東京の
学生協会派に同調している。 協会派中央に言わせると福岡地本は職場の闘いの困難さを悩みと評して
確信的な提起や指導が出来なくなった悩み路線と表現している。職場闘争の
観念化が進み、後のイノケン派や清水派さらに三池研に影響を与えたと
言われている。イノケン路線が盛んな時向坂派のベテランは昔福岡でやって
いたことを全国でやっているとなげいていたそうだ。(過去スレより) 三池労組の親組合は協会派だが青年部は協会桜木派影響下というが、
後に桜木派の影響から離れたらしい桜木派の人が向坂派に移ったともいう。
福岡は太田派も強い所だから対抗上桜木・向坂連合もあったのではないか。
福岡地本が解散となって同調しない人が向坂派と一緒に地本を再建したらしい。
引き継ぐ人がいたらハンコと旗を渡すよと言ったら本当に再建してしまったらしい。 第四インターは福岡地本派を野武士と表現して持ち上げている。宮城と福岡は
お互いを発見し合い連合したと言うが解放派も含めお互いに承知していた
というのが真相のようだ。福岡は協会成りきり派、宮城は協会なりすまし派。
三池労組が後に向坂派ではなく太田派や日共が主導権をとっていたのもこの
時代の後遺症だろう。宮川組合長が太田派支持だったと聞いたこともある。 国労元委員長の武藤久氏は元協会派で川口武彦門下生。太田派、向坂派分裂
の際に抜けたそうだ。と言っても国労民同としては太田派と協力関係。
太田派が九州をおさえたので向坂派は東京に拠点を移した九州見捨て協会派
なんてことを言っている。太田派が分裂した際には東京の分派が太田派本体の
ことを九州協会と言っていた。たしかに福岡は九大−三池ラインが強力だが
労農派は戦前から本拠は東京である。政治の中心は東京だからだ。協会本部も東京。 その武藤が反動資本に屈服するんだから
協会というのは元からそんな連中が集まっていたのか
それとも脱落分子なのか
いずれにしてもみっともない話だ 協会をぬけた時点でフリーになっているだろう。それでも民同左派くらいには
収まっていただろうが本部に上がって富塚民同派になって革同や協会の役員を
篭絡させていた。修善寺大会の時は前委員長として影響力を行使し休会にして
採決を回避しようとしていた。その後は日教組のように委員長がハンコをもって
逃げ回り分裂を避けようとしたらしい。急転直下採決になって武藤案は潰えた。 福岡は太田派が強く向坂派も根強い、しかも社青同は得体の知れない桜木派
関わるのが煩わしくなったのでは?それでも第一派閥は太田派だからそのあたり
うまくやったと思われる。福岡の社会党も県評も太田派の拠点では。労組青年部
も太田派で社青同も全国協で独自に再建した。九州協会の面目躍如である。 福岡は太田派が強く向坂派も根強い、しかも社青同は得体の知れない桜木派
関わるのが煩わしくなったのでは?それでも第一派閥は太田派だからそのあたり
うまくやったと思われる。福岡の社会党も県評も太田派の拠点では。労組青年部
も太田派で社青同も全国協で独自に再建した。九州協会の面目躍如である。 全国の協会派が敬意を表する福岡地本が協会派の中央に反旗を翻した点に
ついては反戦派も当時の主流派太田派も同じような強い印象をもっている。
福岡での全逓からの独立など福岡での太田派の攻勢は巻き返し戦略の一端
なのであろう。福岡中郵労組は向坂派からの厳しい批判をあびた。桜木派
は協会派内に支持を増やせずローカル分派で終わった。反対派の急先鋒ながら
反戦派、第二見解に全面的には賛成せず向坂派との連携の余地も残していた。 協会派は解放派に第二、第三の三池をつくると言いながら出来ていないでは
ないかと責められ主に太田派の方が答えようとした。意外なことに職場抵抗
闘争の協会派のはずが見るべきものが東交闘争くらいしかなかったのは
協会派の空白の歴史だろう。東京の社青同も最初は構改派中心で労組青年部も
協会派中心と言うことはなかった。社青同は当初民同の青年将校が中心。 当時から反合闘争だけ論的な協会派は具体的な職場の闘いの報告では解放派や
三多摩に圧倒されていたそうだ。職場闘争を学習会に切り縮め囲い込み運動に
終始する万年主体形成主義。これは後のちも繰り返して現れる。こうした中で
協会派の代表拠点であるはずの岩通班が急進派側のシンパになるという事態も
生じた。こうして主導権争い優先の九・三衝突事件へと悲しい歩みを進み始める。 社会主義協会はその路線が確立した時に組織論で決裂した。なんとも皮肉な
結果だが協会テーゼは太田派も大きく関与しており、後に福田派メンバーは我々が
協会テーゼに背くと言うが協会テーゼの多くが太田派の手によるものだと不満を
口にしていた。反福田派はだれが書いたではなく中身が大事だと反論していた。
灰原派幹部は福田本は反テーゼ本だと非難した。すでに協会テーゼは「社会主義
協会提言」と若干薄めたものに変えられていた。 今は佐藤協会、坂牛協会、進歩と改革とも新しい路線にたっているのだから
後ろ向きの議論ばかりしていても仕方ない前向きの議論をしないと忘れさられる。
進歩と改革は社会民主主義、坂牛協会は科学的社会主義を標榜するも民主的
社会主義を唱えている。佐藤協会はその中間か。北海道ははっきり社民主義だ。
実際は民主的社会主義どころか社民主義の浸透、普及もうまくいっていない。 社青同第九回大会の時の三つの見解についてさらっと議案の提出と向坂派は
述べているが太田派の第三見解が弱いというか薄すぎる。これは意見書というより
大会議案に基づく発言原稿ではないのか。本来の大会議案は太田派の手により
提出されており、大会代議員で主流太田派も他の二派も過半数がとれず三つの見解を
議案と一緒に採択するという形で一時的にしのいだにすぎない。 これは中執多数派(太田派)が議案を採択できないとともに向坂・反戦連合でも
対案はまとめられないということの表れだ。太田派に言わせるとここは太田・向坂
連合で八回大会のようにまとめるべきだというのだろうが力を落としてきた太田派に
向坂派を巻き込む力はなかったのだろう。むしろ向坂派は反戦派とも連絡をとっており
太田派を追い込むために揺さぶりをかけてきたというのが実態のようだ。 今日では三つの見解だけが知られており、本来的な議案は完全に忘れ去られている
大会当時でも棚上げでないも等しいあつかいであろう。太田派もこの状態に愕然とした
に違いない。本来の議案は事実上葬られ第三の見解は急遽提出した発言原稿の
ようなもの。あわてて取り下げようとしたり神奈川地本の方から別の意見書を出しても
すべて却下。取り下げを認めれば議案が事実上復活する。向坂派や反戦派内の狡猾な
指導部が認めなかったのだろう。よりましな意見書もせっかく太田派がポカをやったのに
その回復処置を両派が認めるはずもなかった。 たまらず太田派は大会三日目をボイコット。これが裏目に出て逃亡者の
烙印を押されてしまった。執行部にも太田派にあけてあったのにこれを蹴って
後のち挽回の基礎を放棄してしまった。太田派は主導権を失うようならば自派の
社青同を再建しよう腹づもりをしていたのだろう。別党派は社会党勢力自体から
飛び出す覚悟だからあっさりしたものだったろう。社青同にあんまり固執しないのでは。 太田派は内部が分裂気味で一部が離脱傾向にあった。逆に向坂派は中間派が
合流している。太田派が不利になるのは当然だ.。向坂派は太田派は「社会党
ナンセンス」と言われれば(当時の新左翼からは言われそうだ)「そうだ」と答え
「でも飛び出すとは限らない」と言っていたそうだが、いかにもありそうな話だが太田派の
統一見解とは思えない。彼らは社会党内残留派と離脱派に分かれていたはずだ。むろん
揺れている人はいただろうがこういう思わせぶりなあいまいな言い方はままあることだ。 別党派はあまりむき出しで方針を語ると警戒されて対策を立てられると
曖昧な表現をしたのではないか。なるべく同調者を増やしたいはずだから。
逆に太田派本流はなるべく思いとどまってほしいので鮮明にしすぎて説得の
余地がなくなるのを防ぎたかったのだろう。それにあまりに亀裂が鮮明であると
分派闘争が不利になると考えたのは当然であろう。 党組織論では別党派の社会党からの離脱独立論。太田派本流の強力な分派闘争論。
すなわち協会の社会党内での党内党化か派閥化それによる乗っ取りか革命党への
作り替え路線。向坂派の思想団体にとどまり党強化と革命党へ純化路線。に整理
されるがもうひとつ隠れた本音もあるはずだ。社会党は大衆政党として存在し続け
協会こそが本物の党だという考え、向坂派は協会を党のようにする考えには同調
しないだろうが意識しないで事実上そうなるということだ。 党を協会流の革命思想で統一すると−純化路線−右派、中間派が離脱して
ユーロコミュニズム以外の欧米の小さな共産党みたいな政党になる。それよりも
大衆団体的な意味で大衆政党として平和と民主主義、生活と権利を守る幅広い
支持を受ける政党として存在し続けてほしい。それが我々の活動基盤になる
という考えも根底にあったはずだ。むろん党が右傾化すると居場所がなくなるので
右傾化防止の闘いはする。太田派の党の革命党への変革、向坂派の同じく強化
路線は建前として崩せないが−信じている青年もいるので。太田・向坂派の主流
または大人たちは口にださなくてもそう考えていただろう。 向坂派は太田派が社研(佐々木派)批判を凄くやったと言っている。
何のことかと思ったら社研が解放派の後ろ盾になっていたから東京地本
問題で恨んでいたらしい。逆に太田派は向坂派が派閥に無害な存在として
自己を売り込んだと言っている。たしかにそれはある。60年代後半の向坂派は
党・労組幹部に無害で役に立つ存在として重宝がられた。 社会党都本部の実力者曽我書記長は解放派のパトロンで解放派とは
相互利用の関係にあった。東京地本の事件の前には樋口委員長を
佐々木更三氏が説得する場面もあったそうだ。九・三事件で解放派という
足を失った曽我氏は失脚せざる得なかった。東京社研は協会派に乗っ取られて
しまった。佐々木派は議員派閥で独自の足をもっていなかったからだ。 派閥の利用主義は佐々木派と解放派だけでなく三多摩社会党と第四インター、
北海道の横路孝弘氏が反戦派(主革)をヨイショしている発言も見たことがある。
まあ旧構造改革派同士の縁もあるだろうが。向坂派もそうした利用主義に乗って
勢力を伸ばした。自分の所の社青同が何派か何者かを問わず選挙に役に立てば
利用するということだろう。多くがその後鬼っ子化して悩まされることになる。 三多摩の四トロは三トロ、目黒のインターはメトロと言っていたと雑誌に
駄洒落かと苦言を呈していた記事を見たことがある。どうせ協会派内部の
言葉遊びだろ。九・三事件では週刊現代に「民青よりこわい社青同の猛獣たち」
という悪意にあふれた記事も書かれている。民青がこわいというのも吹き出しもの
だが当時の社青同のあやうさも浮き彫りになっている。 太田派が不利になったのは向坂派に別党派と宣伝され党内から警戒されたから
と認めているが別党派は少数だと釈明している。それなら毅然たる対応をすべき
だったのではないか。思わせぶりの事を言っているから太田派=別党派なんて
印象操作を受けることになる。派閥批判をやっているから余計こうした宣伝は
浸透する。太田派は別党派が離脱した時に向坂派と話し合いに入るべきだった。 太田薫氏は後に出て行ったのは彼ら(向坂派)だよ。と述べているがたしかに本部事務所
機関誌を引き継いだのは太田派だ。主流、多数派だったのも太田派だ。向坂逸郎宅の
勉強会に来た青年が「僕も社会主義を読んでいます」と見せたのが太田派の方の雑誌
だったという実話の笑い話もある。両者の行き詰まる組織戦、感情的対立、近親憎悪も
あったから和解はむずかしかったのだろう。今から見たら残念な話だ。 太田派は別党コースという疑いの他に本部書記長に対立候補を立てたり
叛旗を翻しているから反戦パージの当時も反戦派ほどではないが疎外された
扱いになっていたそうだ。それだけでなく東交闘争のような闘い方、少数分裂組合
や闘争組合での闘いを重視するやり方が向坂派から孤立化路線と批判された。
向坂派の議論の是非はともかく民同幹部からは忌避されたであろう。 この他当時の政治課題とは関わりなく改憲阻止に固執したことや反戦青年委を
めぐる問題でセクト的にごり押ししたこと。デマで宣伝組織しようとしてそれがバレて
信用を失墜したことがなどつまらない失態もあった。向坂派の講師が病気だと触れ回り
本人が元気に現れるということもあったらしい。向坂派は学習会主義者だと批判
していたら今度は自分達の方が勉強しなくなり論争で敗れるということもあったようだ。 それは闘争の頂点、佳境で学習会をよびかけるような向坂派と裏表の誤り。
理論と実践の機械的対立、闘争の代わりに学習会で済ませたり、無学の実践家を
誇る傾向等ありがちだが安易な方向に流れる傾向があった。前のスレタイにサロン、
サークルというのがあったが協会にはそうした所は以前から指摘されており、その
克服に太田派系が務めたというのも事実であろう。 太田派の言う組織性、政治性の強調も一理あるという評価も向坂派内にも
ある。ボケと突っ込みではないが両者は補い合っていた部分もある、片肺だと
偏ったものしか出ない。社青同向坂派一派支配時代を見よ。イノケンカルト化。
向坂、太田、構改派、反戦派の中の穏健分子と切磋琢磨していくべきであった。
青年運動にありがちな対立と分裂。今更言っても遅いが。 社会主義協会は1950年代前半にはまだまだ右派がいたんだよね?月刊「社会主義」を見ると日共には在日朝鮮人党員が多くて外国の力で革命をしようとしているという批判が載っていた。 それも歴史の一コマ何だろう。六全協までは日共と在日北系は一体でやっていた
からな。荒畑寒村の選挙では日共候補のライバルと目されて寒村が演説を
始めると在日朝鮮人の商店会の街頭スピーカーからけたたましい音楽が流れ
出すというあんばいだ。メーデー事件では朝連が全学連、日雇い労働者とともに
主力だった。火炎瓶闘争でも似たようなもの。新宿火炎瓶闘争で北朝鮮国旗を
掲げた駆け足デモの写真が撮られている。でも今は違うから、公平に見て。 労農派首脳は日共の創設者だから。日共は山川均の批判はしても
堺利彦の悪口は言わない。何しろ創設初代委員長だから。協会派の
幹部には元日共が多い。戦後左翼では日共が圧倒的であったから。
学生運動出身者を中心に向坂、太田両派とも。代表例−高沢寅男。
元何々がどうしたということよりその後が大事であるが。 日共の学生運動出身者の流入の後には構造改革派から社会党へ流れた部分も
社会党の政党としての近代化(思想的というより技術的ノウハウ的なもの)に役だった。
他方社会党には日共からの秘密党員が平和同志会の議員と秘書にすべてではないが
存在した。日中共産党対立で日共を除名された秘密党員もいた。社青同も山口と宮崎が
そんな類型の人々であろう。第一から第三の見解と別に意見書を出していた。 太田派は沖縄闘争くらいまでは東京でも独自デモをやっていたのではないのか。
東京の太田派が崩れて見かけなくなったが協会系の再建東京地本は向坂派
そのものになっていたとのこと。太田派は東京地本は認めるが中央本部は
認めないという方針だった。東京の太田派は奪権派、西日本の太田派本体は
社青同そのものの再建派。やがて社青同全国協という別組織をつくった。 太田派の東京の分派は本体のことを九州協会と言っていたが向坂派では
福田派が分裂後協会主流のことを四谷協会とよんでいた。四谷に本部が
あったからだ。これに対して協会本部派は四谷教会は上智大学だと笑い
飛ばしていた。この九州協会、四谷協会はすぐに言われなくなった。
まあ両分裂組織がすぐ消えてしまったから当然だけれどもね。 太田派は向坂派が一派で勝手に社青同綱領と規約を改訂した、統一の基礎を
台無しにしたと述べているが、両派とも統一する意思などなかったであろう。
規約の改訂は後のちいろいろと禍根を残すものであったが。反戦派の造反に
苦しめられた彼らは本部主流派に対して厳重な防備をめぐらしたがこれが
社青同の民主的運営や自由闊達な議論の妨げになることはたしかであった。 太田派が失脚する前には例えば団結集会の前日、向坂派の執行委員や
担当者が夜遅く着いて準備を停滞させるようなやり方はたびたびあったそうだ。
まあ太田派も同じようなことをやっていただろうからお互い様だろうが。こんな
ことを反戦派もふくめ三つ巴でやっていたのだから残念な人達だ。こういう話は
両者、あるいは三者から聞かないと実像はわからない。 例えば第十回全国大会前の東京地本大会で太田派の執行委員がボコられた
と太田派は述べているが向坂派に言わせると放置していると流会になりかねない
くらい暴れていたらしい。両者合わせると実態が浮かび上がる。九・三事件では
本部執行委員の来賓挨拶が強制終了させられ来賓席に押し戻されたと協会派
述べているが四十分にわたって挑発的演説をやり続けてやめなければそうなるよな。
むしろ大会会場の付近まで来ていた深田委員長が挨拶せず、平の執行委員にそういう
役割を押し付けるのはいかがなものか。 九・三事件では協会派の言う衝突の回数と他者の言う衝突回数が違う。
協会派は三回、他者は二回、どちらが正しいのか。つまらないことと言う
向きもあるかもしれないが裁判であったならば重大な事実誤認ということに
なる。だからと言って解放派の滝口−神谷ラインの暴挙は免罪されるもの
ではないが。滝口・神谷氏は当初から何度も処分の対象になっている。 ぼやぼやしていると社民が立憲と合流する前に立憲と国民で新党つくっちまうぞ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています