「ゴサインタン」と「仮装儀礼」を読んで感じたこと。
篠田節子は宗教の理解がだいぶ甘いのではないか?
施設と、名前だけの教祖と、それらしい雰囲気、それらが用意されるだけで
自然発生的に宗教活動が始まって行くというのは無理がある。
たしかに現象面だけ見れば、信者というのは来る日も来る日も施設に
参拝をし、部外者に理解不能な経文をあげ、布施までする。
部外者にはその行為は理解できないが、しかし本人たちにしてみれば、
それは自己目的化されたものではない。
宗教活動をしているっぽく他人に見せたいからそうするわけでなく、
そもそもの始まりには、切実な、決断があったはずである。