確かに横溝も「僧正殺人事件」なんかは絶賛していたね
「ああいうのがワタシのご趣向に合うのである」と言って

最近日本のとある作家の作品を読んで、どう考えてもその
人物が被害者を殺す必然性が読者には理解できないし
探偵も「動機はわからないけれど、論理的にこの人物しか
犯人になれない」と言って解決を終わらせてしまい、結局
犯人の心境はよくわからないという作品を読んで、

「ああカーっていうのは、論理的に事件を解明することが、
イコール犯人や関係者が何を考え、何に悩み、事件解決後
どんな人生を送るかといったドラマを読者にパーッと見せる
ことになる物語だったんだなあ」と実感した

「事件は論理的に解かれたけど、誰が何を考えていたかは
分からないまま、人間関係もモヤモヤしたまま続く」という
作品がカーには本当に少なかったんだという感覚を持った
例えば連続殺人事件とか魔女の隠れ家、蝋人形館、事件の
解決が犯人のこれまでの人生や信条みたいなものまで
一気にカーテンを開けたみたいに見て取らせてくれる

三島由紀夫がYの悲劇について、事件が解決してみると
脇役の多くは一気に影が薄くなり、別にいる必要のない
人物でしかなかったみたいに見えてしまう、という趣旨の
発言をしたのは、初期クイーンのそういうところの弱さを
衝いた言葉だったんじゃないかという気がしている