「私がやろうと試みていることは、X氏、X氏だけが犯行をなし得たことを証明する古い〈クイーン方式〉から離れることなのだよ」(同書191頁)というダネイの言葉に、
訳者・飯城氏は「初期の国名シリーズなどの愛読者はこのダネイの言葉に衝撃を受けるだろう」と注を付けている。
さらに言えば、「衝撃」だけでなく、それを「退行」と受け止めるファンも少なくないはずだ。
 だが、本国のクイーン・ファンの認識は違う。本書の著者もこれを代弁していると見ていい。グッドリッチは、「第三期(1942―1958)は『災厄の町』で始まり、12の長篇で勝利に勝利を重ねていった」(31頁)とし、「『十日間の不思議』はクイーン長篇の最高傑作である」(47頁)と言う。
我が国で究極の傑作と見なされている『Yの悲劇』は本国ではほとんど評価されておらず、本国での一番人気作『災厄の町』をはじめとするライツヴィルものこそがクイーンの絶頂期の作品と考えられている。
そして、それは作者クイーン自身の認識でもあるのだ。
 ダネイは、「〈意外な犯人〉そのものが時代遅れなのだ――それは探偵小説における、より人工的な策略の一部だが、私の意見では、われわれはもうそこから卒業してしまったのだ」(70頁)、「物質的手がかりと決定的で超論理的な推理から、私は逃れようとしてきた」(191頁)と語り、
リーもまた、「僕は〔……〕人間たちの物語を求めて、そこから出て行った――並外れた性格、あるいは並外れて興味深い性格、そして/あるいは、対立する人間関係、そして/あるいは、見覚えがあり興味深い背景――論理パズルというより人物、関係、出来事の総合体である物語を求めて」(107頁)と語る。
 探偵エラリーもまた、大きく変わった。グッドリッチが、「『ローマ帽子の謎』の気取った血の通わない好事家は、『十日間の不思議』の良心に苦しめられる血肉を備えた人間とは、何一つ似ていない」(338頁)と述べるように。
そして、作者クイーンも本国のファンも、そこにエラリーの「成長」を見出す。「退行」ではなしに。
 こう見てくると、我が国のファンと本国のファンは、同じ〈クイーン・ファン〉と称しても、まるで違う志向性を持った〝異質の〟ファンだと言っても決して極言ではあるまい。