高山一実からトレーに載せて提出された醜態(素顔)は、橋本奈々未という”孤立”と対面し、彼女に「つくり声」について問われた際に流した涙くらいだろうか。
あるいは、人狼ゲームにおいて斎藤ちはるに本質的な企みの”浅さ”を見抜かれたときの動揺も醜態(素顔)といえるかもしれない。
しかし、どちらも能動的な姿態ではない。素顔を自ら晒せない高山一実は、多様性(バラエティ)の分野での資質が決定的に欠如したアイドルと云える。
硬直し強ばった彼女の笑顔(ビジュアル)は、演劇、ライブ表現の分野でも足を掴んで放さない。
橋本奈々未から提起されたこの問題を超克しようと試みる姿勢を彼女は一度もみせることがなかった。
彼女は、メンバーのトランキライザー的な役割(ピエロ)を担うことで、それをアイデンティティとすることによって自我を保ち、アイドル像を屹立させてしまった。
このまま、西野七瀬の目撃者という立場でアイドルの物語に幕を閉じるのか、西野七瀬がアイドルを卒業する時点で、
高山一実自身もある意味ではアイドルを卒業するのか、あるいは、西野七瀬の欠落、西野七瀬からの解放によって、そこではじめて本物の”素顔”を見せるのか。
アイドルとして、往生の際に、私小説を書こうと思い立ったとき、やはり、物語の主人公がターミナルキャラクターのままでは、そのカタストロフィを豊穣な物語と評価することはできないだろう。

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