余白があってこそ、人は豊かに輝く。エンタメはそのために必要で、SNSも時代を照らす要素の一つだ。アイドルとは「キラキラ」を生業(なりわい)としているようなもので、パッと華やぐような光を求められることが多い。だが、学業と両立していた期間は輝く瞬間なんてほとんどなく、極めてインスタ映えしない日々だった。
 

随分前から息切れのサインが体に表れていたのに、心はかなり頑固だった。疲れてなんかない。だって、まだ何も成し遂げていないのだから。お前に休憩する余裕はないんだから、いつでも頑張れよ。そういうアクセルの踏み方をしないと追いつけないくらい、とにかく刺激の多いレースだった。かたくなに好戦状態でいることで、私はまだ大丈夫だと、自分で自分を騙していたような気もする。それを割り引いて考えると、進んできた道が正しかったのかは分からない。何を選んでも正解はなく、どんな道に進んでも何か不足しているように感じる。過去にあったことも、捉え方によって、トラウマになったり財産になったりと、簡単に揺らぐ。かといって、不確実なことが多い社会で、何かに身を委ねたり、誰かと比べずに自信を持ったりするのも難しい。

ただ、これまでに出会った人たちが向けてくれた期待や優しさは、確かなものだった。目を瞑って過去をたどると、助けてくれた人、アドバイスをくれた人、励ましてくれた人の顔が、どんどん浮かんでくる。成り行きとご縁の果てで、「この人が言うなら頑張ってみよう」と思える人たちに出会えたことが、きっと何よりの財産だ。

そもそも、大丈夫じゃないから歩み続けるし、大丈夫になるために手数を打ってきたような気がする。大船に乗ったつもりで、少しでもコンパスの針が向く方へ進んでみる度胸は、学生時代に持っていたはずだ。結果として遠回りになっても、道中でのトライ&エラーを自分の手札の一つにすればいいし、行き着いた先を必ず正解にする必要はないのかもしれない。いつまでも「完璧な大丈夫」がやってこなくたって、私は、私が選んだ道を、最善だったと肯定しよう。落ち込んだときこそ、自分で自分に胸を張って、進むのみだ。ゆっくりしたい日もあるけれど、やっぱりもうちょっとだけ、ジタバタしてみようと思う。





山崎怜奈の「言葉のおすそわけ」第3回
https://hanako.tokyo/column/kotobanoosusowake/254366/