私のつたない詩に厳しい評価おねがいします [転載禁止]©2ch.net
題 そして私は再び
鉄道506号は止まることを知らない
それは急行ともリニアとも形容しがたい
気がついたときには私は線路の上にいた
80年間の運行に幕を閉じるとき
私は何を思うだろうか
鈍行列車506号はまもなく終点につきます
お荷物をお忘れなく
ではまたのご乗車をお待ちしております 題 人生とは何である
人生とは何である
人生とは何である
この思考をしたとき
いま幸せであると気づく
わたしの一瞬を考える
この私はだめなとき
みんなの人生を考える
この私はいきているとき
人生とは何である
この問題はとく必要がなかったんだね 上の詩の506は五臓六腑からとったものです
数字からのみでは五臓六腑と読み取ることはむずかしいので
他の数字でよい候補があったらおねがいします ひとつめの詩は電車を人の一つの人生のメタファーにしました
ふたつめは人生とはなにか考えてるときは実は自らに余裕ができたことの現れをしめしていて
その問いを答えることよりもその問い自体に意義があるとおもった経験を詩にしました >>1
嫌なことをさっさっと済ませたい人。
さばさばしている。
鉄道は五臓六腑のたとえ。
線路も人生コースのたとえ。
電車も人生のたとえ。
80歳だけが直接の言葉。
80歳の老人を要にして読んでいくと。
終点も死のたとえ。
お荷物をお忘れなくは、心の残りのないように生き抜いてください。と。
ではまたのご乗車をお待ちしておりますは、現世での旅を終え、来世でまた会おう。と。
自分のことをとらえているというよりは、他人事と思ってとらえてるように思います。
80歳の方が教育を受けて労働をやってこられてその培ってきた血汗がにじみ出ているとは思えない。
たとえはより豊かに相手に伝えるための工夫。
・直接の言葉を、たとえの言葉で補足するのは良い。
・たとえの言葉を、たとえの言葉で補足するのは良くない。伝わりにくくする。逆効果。
そこにまたたとえの言葉で説明が加わるといよいよ作者の本当に言いたいことから離れていく。
たとえをたとえで補うのはやめたほうがいいんじゃないかと思います。
まずはたとえなど使わずに素直に書いてみることではないでしょうか。
五臓六腑のことを言いたいのであれば、直接、五臓六腑と書いてしまったほうが伝わります。
直接、五臓六腑と書いてしまってはいけない理由もないでしょう。
あるとするなら、何か後ろめたいことがあるのではないでしょうか。
嫌われたくない、傷つけたくない、傷つきたくない、とか。人の思わくを気にしすぎてるとか。 >5の続き。
たとえのほうが要になっているのがいけないと思います。
この詩の要はなんなのかを、もう一度検証把握することではないでしょうか。
本人もそれがわかっていないと、このように本来補足であるはずのたとえのほうにひっぱられて
たとえのほうに重点を置くような書き方になってしまう、と。