原文以外で海外の詩を読む人がいることを、このスレに来て初めて知った。

しかも よりによって、Rimbaudを翻訳で読む?

翻訳は、その詩人を知るきっかけ作りとしては重要だが、逆に言えば、きっかけを作ったら、用済み。

他に翻訳で読むとすれば、『海潮音』や『月下の一群』、中原中也の訳詩、有島武郎のホイットマン『草の葉』抄訳のように、
たとえ誤訳だらけだとしても、その訳詩自体が古典として鑑賞に耐えうる詩文になっている物だけだろう。

反対に聞きたいが、
スワヒリ語訳の萩原朔太郎を読んでるケニア人たちが、どのスワヒリ語訳が一番いいかと議論しているのを見かけたらどう思う?

それが君たちの姿だよ。