「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも 取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる 用法も互いに関連しており、その互いの関連性は、日本語においても反映 されている。そのことに気づきにくくなっているのは、これらの表現の 語頭が漢字においては、"l"で発音されるのに対して、それが流用されて 日本語として取り入れられる過程で"n"に移されているからである。 0047藻塩2022/06/28(火) 08:38:07.80ID:ACAyb1x+ 「塩(しほ)」は、云はば、"exfiltration"の結果であるわけだが、それを表す 言葉が、「喜びも一(ひと)入(しほ)である(≒"all the more infiltrating")」と 表現される場合のように"infiltration"を表す「入(しほ)」と同じ言葉である こと自体、「しほ」がもともと表現しているのが、"exfiltration"としても、 "infiltration"としても限定されるものではなく、《s'infiltrant》と表現する ことができるような再帰的な作用の効果であることを示している。そして、 その再帰性を担っているのが、「しほ」においては、「〜ほ」という活用形 として現れている「〜ふ」である。「しほ」は、「しほり」という表現に 「湿(しほ)り」という漢字が当てられることにも表れているとおり、当然、 漢字の「濕(Middle Chinese: /ɕiɪp̚/)」や「隰(Middle Chinese: /ziɪp̚/)」 に関連していると考えられるわけだが、本当に検討されなければならない 問題は、ここからだろうと思う。 0048名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/02(土) 09:03:42.51ID:7jRCvYlj 何がそんなに都合が悪いのか知らないが、不明な理由でほとんどの掲示板から 書込み規制で無期限に完全に排除されて、書き込める場所がほぼ無くなっている。 0049名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/06(水) 09:46:58.11ID:RSY1z00W 言語表現の意味をリバース・エンジニアリング的に推測するとか、物事を 非物象化して考えるとか言うと、何かよく分からない、雲をつかむような 話だという印象を受けるかもしれない。しかし、これは、実際に 具体例から考えてみるなら、特に難しいことを要求しているわけではない。 例えば、「壟」とは何かという問ひに対して、Wiktionaryを参照すると、 その英訳として、この漢字が中国語においては、"grave"、"mound"、 "raised path between fields"、"ridge"を表現するように用いられると いう答えが示されている。ところで、これらは、すべて物象化された 答えである。つまり、「壟」が「何」を表現しているのかがそれぞれの 用例において「分かり切ったモノ」として提示されていることになる。 0050名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/06(水) 10:07:39.66ID:RSY1z00W そこで、「分かり切ったモノ」として提示される答えに対してリバース・ エンジニアリング的に推測を働かせて、「壟」を非物象化して考えてみると どうなるだろうか。それは、例えば、「壟」≒"a mound"という物象化された 一つの答えを足/手がかりにして、それを逆物象化して、 「壟」/"a mound"⇒"to be in a mounting position"という推測を働かせ、 「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること である。そして次に、そのように想定することが実際にどれだけ有効で あるかを確かめてみるために、今度は、この想定から、既に 「分かり切ったモノ」として物象化されて提示されている"grave"、 "mound"、"raised path between fields"、"ridge"としての用例を、 発展的な組織化、すなわち、流用によって派生させることができるか どうか、そのような派生が自然に導き出されるように感じられるかどうか を問ひ直してみるのである。 0051名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/06(水) 10:30:31.12ID:RSY1z00W 無論、この逆物象化のプロセスにおいては、 「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること 事体が暫定的であり、確実であるものと規定され得る出発点も、 必然的に導かれる到達点もない。したがって、この想定は、それが発展的な 組織化を派生させるのに有用/有効でないのなら、反証によって否定される までもなく、自ずと放棄されることになる。逆に言えば、この想定は、 それが発展的な組織化を派生させるのに有用性/有効性が認められる 限りで、暫定的に正しい想定として保持され、利用される。 0052名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/06(水) 10:49:27.19ID:RSY1z00W>>47 食べ物の味付けにおける「隠し味」/《un agent infiltré》としての塩(しほ) 0053名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/06(水) 10:55:24.46ID:RSY1z00W 料理における「隠し味」/《un agent infiltré》としての塩(しほ) は、 舌に対して食べ物の素材そのものがもつ味を引き出す/際立たせる。 0054名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 08:07:24.10ID:ONGQfs5g 誤:想定してみること事体が 正:想定してみること自体が 0055名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 08:29:47.45ID:ONGQfs5g >「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも 取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる 用法も互いに関連しており
>「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみる
以上の2つのことを前提とすると、例えば、「しの(凌)ぐ」という日本語の 表現に当てられるように用いられてている漢字である「凌」によって 表される中国語の表現は、それを流用していると考えられる日本語の表現 とともに、リバース・エンジニアリング的に考えて英語で記述するなら "to surmount"に相当するものと解釈することができるだろうという 推測がもたらされる。すると、「凌(Middle Chinese: /lɨŋ/)」/「しのぐ」/ "to surmount"という関係性において、「し『の』ぐ」の「の」が "/lɨ(ŋ)/"に対応するイメージを想起させているものと推定されること になり、そこからすぐに、では、「しの(忍)ぶ」の「の」はどうなのか という疑念が思い浮かぶ。 0056名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 08:50:56.43ID:ONGQfs5g 「しの(忍)ぶ」の「〜ぶ」は、当然のことながら(といっても標準的な国語学 の説明においてではなく、私が勝手に提示する解釈においてだが)、 再帰表現を形成する「〜ふ」であり、メタ言語的な「ひっくり返し」の 指示である。ところで、「凌」をWiktionaryで参照すると、その定義 として"to place oneself above; to override; to transgress, alt. forms: 陵"と記載されている。ここで、"to place oneself above" は、私が提示した"to surmount"にそのまま対応するが、 それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にもうまく対応している と考えるなら、これを"oneself"との関係において「ひっくり返す」 なら、"to have 〜 over oneself"となり、これは、 そのまま「しの(忍)ぶ」にうまく対応するのではないだろうか。 リバース・エンジニアリング的に考えるとは、このようにして 生じる想定のネットワークを確定した事実として認識することではなく、 絶えず試行錯誤する立場から捉え直すことである。そうすることで、 既に与えられた規定に従ふ/従はせるという狭量な姿勢から、 与えらているモノゴトをどのように活用できるのかを探求する 積極的な姿勢への転換が生じる。 0057名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 08:57:22.20ID:ONGQfs5g 誤:与えらているモノゴト 正:与えられているモノゴト 0058名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 13:12:31.79ID:ONGQfs5g>>56 ここで私は、「しの(凌)ぐ」を"to place oneself above"に対応するものと 見做して、「しの(凌)ぐ」と発音的に重なる「しの(忍)ぶ」を、その 「〜ぶ」という表現の形式から判断して、"to place oneself above"を 単に"oneself"に関してひっくり返すことにより、"to have 〜 over oneself" を「しの(忍)ぶ」に対応させることができるのではないかと示唆した。
そのような誰によってもその正しさ保証されていない勝手な操作に よって導かれた結果にいくらかでも有用性/有効性が認められるかどうか は、実際に、「しの(忍)ぶ」≒"to have 〜 over oneself"というような 捉え方が役に立つかどうかを試してみることで知ることができる。 0059名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 13:21:50.64ID:ONGQfs5g 例えば、「〜するのは『忍びない』」という言い方がある。この場合、 「忍びない」とはどのような意味だろうか。ここで、「忍びない&英語」 で検索してみると、研究社 新和英中辞典での「忍びない」の英訳 として、 >…するに忍びない do not have the heart to do be reluctant [not willing] to do cannot bring oneself to do< という訳例が示される。しかし、これらの訳例は、私にはどれも 「忍びない」という日本語の表現をうまく伝えているようには 感じられない。そこで、私自身が示唆した「しの(忍)ぶ」≒ "to have 〜 over oneself"という捉え方を利用してみると、 私には、"cannot have 〜 on my conscience"という英語の 慣用表現がすぐに思い浮かび、こちらの方が、私には「忍びない」 の伝える感覚によく合っているように思える。そして、私には そのように思える限りにおいて、この捉え方は、少なくとも 私には役に立っていると言える。 0060名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/07(木) 20:17:47.72ID:ONGQfs5g>>59 誤解のないように補足すると、私には、"cannot have 〜 on my conscience" という英語の慣用句が、「忍びない」という日本語に似たような感覚を伝え ていると思われると言っているのであって、この2つの表現が互いに直接に 対応関係にあると言っているわけではない。「忍びない」の「ない」は、 普通に解釈して、否定の「ない」ではなく、程度の甚だしさを表現する 「ない」である。それが英語の通常の表現として通用するかどうかという ことを無視して、記述的なメタ言語として英語を利用して、 「しの(忍)びない」という表現そのものとの対応関係を伝えようとする なら、私は、"it is too much subduing of onself (to do 〜)"のような 記述をすることになるだろう。ただし、このように記述しても、 それがやはり、"subdue oneself"が、"to place oneself above"/ "surmount"を「ひっくり返す」ことによってもたらされることを 見てとることができるだろう。 0061名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/08(金) 08:59:38.03ID:GBBLJ0P6 ところで、このような反転操作をしてみると、「しの(凌)ぎ」/"surmounting" として表現される作用は、自己/"onself"の立場を「ひっくり返して」みると、 「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の作用として捉えることもできる ものと解釈され得る。ここで、私が、中国語で「壟」として用いられている 表現の流用であるとして指摘した日本語の「野(の)」に戻ると、 岩波古語辞典に、 >日本書紀に「奴」と表記し、また、万葉集に「奴」と書いた例もある ことが指摘されている。すると、(例えば、「野(の)」を越えて行くような) 「しの(凌)ぎ」/"surmounting"の作用も、その作用を捉える自己/"onself" の立場を反転させるだけで、「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の 作用として捉えられるのだから、日本書紀や万葉集に「野(の)」が「奴」 と表記される場合、「奴」は、やはり"subduing (of oneself)"の作用を 想起させた、すなわち、「奴」としての「野(の)」は、「山に『の』された ようななだらかな地形」をイメージしたものではないかと思える。 0062名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/08(金) 09:04:31.64ID:GBBLJ0P6 ちなみに、Wikitionaryで「奴」を参照すると、この表現の次のような解釈が 記載されている。
>Unger (1990) groups 奴 (OC *naː) as well as 努 (OC *naːʔ) & 弩 (OC *naːʔ) in a word-family with the basic meaning "tense", hence "press into service". 0063名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/09(土) 12:03:25.96ID:U5PMkG4x 私は中国語を知らないし、漢文も読めず、そのように説明されている 例についても知らないが、「砂上の楼閣」や「空中楼閣」の 「楼/樓(Middle Chinese: /ləu/)」も、この表現の発音が "surmounting"の作用を想起させることから派生しているので はないかと思える。 0064前方後円墳2022/07/10(日) 09:09:06.50ID:i59ifCCR 髑(どく)髏/顱(ろ)
>faire le chien couchant >Fig. et fam., Faire le chien couchant auprès de quelqu'un, Le flatter, tâcher de le gagner par des soumissions basses et rampantes.< 0069名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/11(月) 19:57:39.19ID:wWFxI/rL 韓国の扶余 陵山里(ヌンサンニ)古墳群(画像提供:wowkorea) 0070名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/12(火) 09:34:02.57ID:DvjsMjru 記号論を提唱したパースは、記号を単なる所与としてではなく、記号の生成に おいて自ずと進化するものとして捉えていた。記号が進化するというのは、別に オカルト神秘主義的な考えではない。例えば、上の一連の考察は、中国語の 表現としての「壟」(として使われれるようになった言葉)が、日本語において 「野(の)」として流用されているという認識から始まっている。しかし、 なぜそうであると考えられるのかを問ふことによりもたらされるのは、 単に中国語の中古音の"l"が日本語では"n"に移され、語末の子音が消滅して "long"に近いような発音が想定される中国語の「壟」が日本語の「野(の)」 に変化して、「壟」→「野(の)」となったという結論ではない。 問ひに適切に応えようとする過程において、どのように考えれば 「壟」と「野(の)」が互いに適合するようになるのかが探られて、 そのことによって「壟」と「野(の)」のいずれの捉え方にも進化的な 変化が(その過程を追想するものとして)生じているのである。 0071名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/12(火) 09:47:53.50ID:DvjsMjru 「壟」と「野(の)」が互いに適合することが納得されるようになった時点で、 「壟」という漢字が表現しているのはもはや、単に「土」と「龍」の組合せで はなく、「土」を基礎にした「龍のものとして想定されるような動き方」 であり、それをイメージするには、現代の「龍舞」/"dragon dance"を 想起してみるのもいいだろう。ただし、披露される「龍舞」/"dragon dance" は、軽快な動きを可能にするためにハリボテ構造のようなものを用いて いるので、その動きには、想像上の動物である龍に想定されるような 巨大な重量が感じられず、「うねうね」と動いているように感じられる。 確かに、「龍のものとして想定されるような動き方」は波が「うねる」 ようなものだろうが、龍に巨大な重量があるとすれば、それが「うねる」 ように上昇するとすれば、そのことがその動きが下側に働かせる抑えつける 強い力が「作用/反作用」の関係で意識されるはずであり、その関係を 私は、"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用として 記述した。 0072名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/12(火) 09:54:09.57ID:DvjsMjru ここで逆に、"subdued & 中国語"をキーワードとして検索してみると、 Cambridge Dictionaryの例文として次のような記載がヒットする。
If a colour or light is subdued, it is not very bright. (色彩或光線)柔和的,暗淡的 subdued lighting 柔和的燈光
If a noise is subdued, it is not loud. (聲音)壓低的,小聲的 subdued laughter/cheers 竊竊的笑聲/低聲歡呼
If a person is subdued, they are not as happy as usual or they are quieter than usual. (人)悶悶不樂的,默不作聲的 He seemed a bit subdued at lunch - is he all right? 午飯時他顯得有點悶悶不樂——他沒事吧? 0073名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/12(火) 09:58:51.69ID:DvjsMjru 記載される例文には、「抑えが効いている」ことについての"subdued"の 二重のイメージがよく表れていて、英語の"subdued"という表現が、 なだらかな「野(の)」風景を表現するのにも、視点を反転させて、何か 重しがかかって抑えつけられて、それを耐えし「の」(忍)んでいる様子 を表現するのにも適合することが見て取れるだろう。 0074名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/13(水) 16:16:29.54ID:AD4K3wR4 ののしる 精選版 日本国語大辞典「ののしる」の解説 >※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「法雷を響(ノノシリ)て弁を吐(つは)はき、 慮を静めて微(ひ)に通ずる者は」
Wiktionary, "龍" >Etymology From Proto-Sino-Tibetan *m-bru(ŋ/k) (“dragon; thunder”). Cognate with Tibetan འབྲུག ('brug, “dragon; thunder”). The STEDT database also lists 隆 (OC *ɡ·ruːŋ, “thunder; sound of thunder”) and 雹 (OC *bruːɡ, “hail”) as cognates. Also compare 靐 (OC *brɯŋs, “sound of thunder”) and 霹靂 (OC *pʰeːɡ reːɡ, “thunder”). < 0075avoir le dessus/dessous2022/07/14(木) 00:26:15.89ID:5ses6n6u>>56 >ここで、"to place oneself above"は、私が提示した"to surmount"に そのまま対応するが、それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にも うまく対応していると考えるなら、これを"oneself"との関係において 「ひっくり返す」なら、"to have 〜 over oneself"となり<
1 a : to sit and travel on the back of an animal that one directs
3 : survive, outlast —usually used with out rode out the gale 6 a : obsess, oppress ridden by anxiety 0080名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/23(土) 08:18:40.27ID:K4B573Fb>>78 >英語において"storm"が想起させるイメージは、中国語の「龍」および 日本語の「竜(たつ)」(例えば:竜巻)のイメージに類似していると言う こともできるだろう。<
>Meu espirito deu um salto para traz, como se descobrisse uma serpente deante de si. Encarei o Lobo Neves, fixamente, imperiosamente, a ver se lhe apanhava algum pensamento occulto... Nem sombra disso; o olhar vinha direito e franco, a placidez do rosto era natural, não violenta, uma placidez salpicada de alegria. < 0091名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 00:05:57.02ID:I6WDDBU5 問題は、この最後の"uma placidez salpicada de alegria"の"salpicada"を どのように解釈することが適切であるかだ。英訳では、おそらくそう 訳されているだろうと当たりをつけて検索してみると、案の定、 "a calmness sprinkled with joy"としてこの箇所の訳文がヒットする。 この箇所の日本語訳を確認してみるために図書館で訳本を借りてきたが、 次のように訳されている。 >むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297) 0092名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 00:30:03.72ID:I6WDDBU5 ちなみに、これは、語り手である男性が、自分の不倫相手の女性の 夫の表情を、その不倫に気づかれたのではないかと思って緊張し、 警戒しながら窺っている場面の描写である。政治家である夫が 県知事として北部に赴任するという話が持ち上がり、そうなれば、 不倫相手の女性と離ればなれになってしまうことになり、困って いたところ、夫自らが、男性に秘書として一緒に北部に行かないか と提案してきたのである。そこで、男性は、その提案には、 裏の意図が隠されているのではないかと恐れたのだ。 0093名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 08:35:43.62ID:I6WDDBU5 "uma placidez salpicada de alegria"に対する"a calmness sprinkled with joy" という英訳は、辞書に記載される"salpicar"の英訳から直ちに想定されるいかにも 安易なものだが、"salpicar"も"sprinkle"もともに、一般に、「点在させる」ことを 意味するように用いられるので、誤訳であるとは言えないだろう。しかし、 この場合の訳としてうまく適合しているだろうか。男性は、不倫相手の夫の 表情に何か裏の意図を読み取ることができるのではないかとその顔の様子を 窺っている。ここで"calmness"と訳されている"placidez"は、「おだやかさ /平静/平穏」を意味し、私の語感では、"pla"の発音に日本語の「ひら(平)」 がそのまま対応するので、日本語訳としては、「おだやかさ」よりも 「平静」または「平穏」の方が好ましく感じられる。いずれにしても、 表情は、「平静さ/平穏さ」を装いながら、何か裏に意図を隠し持っている ということはよくあることだろう。 0094名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 08:59:18.26ID:I6WDDBU5 ところが、この場面において、語り手の男性は、不倫相手の夫の表情の 「平静さ/平穏さ」が自然である、つまり、不自然なところが認められない こと、その「平静さ/平穏さ」が"alegria"/"joy"/「よろこび」で "salpicar"されているのを見て、何も裏の意図はないものと判断して 安心するのである。さて、しかし、顔の表情の「平静さ/平穏さ」は 本来的に「おもて(表/面)向き」である。さらに、"sprinkle"は、 スプリンクラーがそうであるように、通常、何らかの表面に上から 「振り撒く」ことを意味するように用いられ、この英訳において、 "salpicar"はそのように解釈されていると考えられる。これに対して、 語り手の男性は、相手の顔の表情に裏の意図を見てとることができ ないか探っている。"alegria"/"joy"/「よろこび」がその表面に 「振り撒かれた」ような「平静さ/平穏さ」を見て安心するだろうか。 0095名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 09:23:05.42ID:I6WDDBU5 その点、英訳と比べて、日本語訳の方は、この表現が用いらている場面に ついてより深く考えられていると言える。 >むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297) 日本語の訳者は、この場合、"salpicada de alegria"を、「歓び」が 表情の上に「振り撒かれた」ようであると理解することには不適合を 感じて、観察する男性の視点から、「らちらと浮かぶ」と表現した のだろう。ただし、「顔によろこびを浮かべる」という日本語の表現 は一般的であるものの、"salpicadar"に「浮かべる」という意味合い はなく、「歓びがちらちらと浮かぶおだやかさ」という表現も、 私にはあまり自然な日本語であるとは感じられない。 0096名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 09:44:37.55ID:I6WDDBU5 「だったらお前はどう訳すのか」と言われそうだが、ポルトガル語/スペイン語 の初歩的な知識しかない私は、特に深く考えることもなく(探求は後からでいい)、 まずは、 "uma placidez salpicada de alegria"≒「よろこびの入り混じった平静/平穏)さ」 と訳すだろう。
Salpica de comentarios graciosos todos los temas. He sprinkles (or: peppers) all of his comments with funny remarks. 0098名無しさん@お腹いっぱい。2022/07/28(木) 10:28:19.03ID:I6WDDBU5 出典:WordReference.com | Online Language Dictionaries