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お前らの心に響いた言葉書いてけ
0005名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/03/11(日) 13:15:22.21ID:Sa+eA9M1
すごくおもしろいPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
参考までに書いておきます
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

87K8R
0006名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/05/08(水) 05:47:27.27ID:cSkXEHEE
けっつの肉以下の存在
0008名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/10/09(土) 18:44:16.50ID:ovFVg5uE
帽子の下に顔がある。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/11/20(土) 06:48:11.20ID:FvlkB71q
言葉は口から出るウンコ
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/11/20(土) 07:19:49.73ID:cHH2QkZQ
「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事において文句はないのだ。」
0013名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/03/10(木) 00:49:31.89ID:nt9CleD4?2BP(1000)

「空樽は音が高い」と同じ意味で、「中身のない樽ほどよく水に浮く」世界各国のことわざ集みたいな絵本で知った。
このことわざとその意味を知っており、かつそれを他の人に積極的に伝えるという皮肉がこの言葉の面白い所だと思っている。
0014Anima
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2022/04/10(日) 16:01:20.61ID:MwWSq28O
ドイツの詩人・作家のゲーテの言葉

『私が愚かなことを言うと、彼らは私の言い分を認める。私の言うことが正しいと、私を非難しようとする。』

確かになって思ったときがある言葉。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/26(木) 19:59:36.44ID:zFwYuDqE
絶望は虚妄だ 希望がそうであるように
魯迅『野草』
0016名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/27(金) 10:51:14.03ID:fSLODHkT
詐欺師を育てる自己啓発セミナー連中
tanaka kentarou
54.12.17生
投資詐欺、暴行
https://imgur.com/hhq43zu.jpg
0019名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/20(月) 00:14:39.39ID:R0zd4lMP
>閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
松尾芭蕉、『奥の細道』

散文的読み
Echoing the silence,
Chirring of cicadas
seeps into the stone/rock.

直訳
Oh what silence…,
Cicadas’ chirring
seeping into the stone/rock.
0020名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/20(月) 00:16:10.95ID:R0zd4lMP
表現の“incongruity”を活かす

>古池や 蛙飛び込む 水の音
(試訳)
>Oh the stillness of an age-old pond…,
a resonant plop
of a frog jumping in
0021名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/20(月) 23:48:14.01ID:R0zd4lMP
適墓不登壟 野辺送り
0022名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/21(火) 08:50:30.29ID:PXSYvXfv
日本語としては「野(の)」となったと考えられる漢字の「壟」という
表現には、「壟」が断絶していることをイメージさせることによって、
他を圧するように(dominate)(市場を)独占することを意味する
「壟断」という表現や、特に砂丘が縦方向に延びている地形を
表現するのに用いられるらしい「沙壟」という表現から見ても、
もともと「進行方向における連続性」のイメージが伴っているのだろう
と思う。そのために、水田の畔(くろ)や畦(あぜ)、畑の畝(うね)の
ように連続的に高くなっている形状に対して「壟」が表現として
用いられるのだろう。ところが、畔(くろ)や畦(あぜ)は、
その連続性を横方向から見た表現であると考える方が適切であり、
岸/崖がそうであるように、むしろ、その方向で登る動きを妨げる
ことをイメージさせる。したがって、畔(くろ)、畦(あぜ)
と見なされる「モノ」に対して、「壟」が当てられることがあるから、
「壟」は、畔(くろ)、畦(あぜ)と同じ「モノ」であると考えることは、
表現の解釈を誤ることになるだろう。同じ「モノ」が異なる表現で
呼ばれ、互いに違う「モノ」が同一の表現で呼ばれることは、ごく
普通のことであり、表現の意味を解釈するのに、「〜とは何か」
という問いにおいて、それを「モノ」として捉えようとするのが、
そもそもの誤りのもとであり、意味を適切に解釈するには、それが
「モノ/コトを『どのように捉えているのか』」を問わなければならない。
0025名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/21(火) 11:36:15.66ID:PXSYvXfv
日本語における語頭の「ね」は、「捻(ね)ぢる」の場合も
そうだけど、中国語の表現の発音において語末の子音を脱落させて、
そのまま流用している。その語末の子音を脱落させた「ね」に
「ち」を組み合わせることで、日本語としての「捻(ね)ぢ」を
形成している。だから、古語で「年をとる」ことを「ねぶ」
と表現するが、これも、中国語の表現としての「年」の語末の
子音を脱落させた「ね」に「〜ふ」を組み合わせただけの表現と
なっている。

ところで、「壟(long)」が「野(no)」になったのと同様に、
語頭の"l"と"n"の間で交替が比較的容易に生じ得ることは、
「捻」の語頭の発音が、閩南語では、逆の方向で"n"から
"l"に移されて、「liàm」となっていることにも見てとることができる。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/23(木) 07:04:37.09ID:Ieu2piDw
*このイベントは終了しました

会期 平成27年7月11日(土) 〜 9月23日(水・祝)
会場 静岡市立登呂博物館
企画展「豊かな水源に生きる」
-水田農耕のルーツは湿地に生きることにある‐
を開催します!

豊かな水源がもたらす恩恵と苦難――
静岡市南部と、富士市・沼津市にかかる浮島沼・浮島ヶ原周辺の湿地を比較して展示します。
豊かな水源を生き抜いた人々の誇りが感じられます。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/23(木) 07:09:35.50ID:Ieu2piDw
>心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。

「長沼」であるとは、どのようなことか。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/23(木) 08:36:07.71ID:Ieu2piDw
阿(あ)弖(て)流為
阿(あ)氐(て)河荘

埿 - ウィクショナリー日本語版
どろ。(泥の異体字とされる) · 埿部視枳(はつかしべのしき)や、
万葉仮名の『で』にも使われた。

「泥」が「でい」と読まれることは、当然、「泥(Middle Chinese: /neiH/)」
に直接に関係しているが、"n"が"d"というより"t"の有声音に移された
ことには、表現としての発音イメージの混交がかかわっているのだろうと思う。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/23(木) 09:45:28.20ID:Ieu2piDw
>一方、新たに開発された耕地は、もともとが低湿地、あるいは台地上であったため、
洪水や早魃の被害を受けることが多く、治水対策が大きな社会的・政治的課題と
なってきた。特に、江戸中期以降、全国の低湿地のほとんどのところで
洪水の氾濫が常習的に起こっていた。<

>治水工事が本格的に実施されるのは明治以降のことであり、低湿地の乾田化工事は、
近代にはじまり戦後において完成するのである。<

水土の礎 | 一般社団法人農業農村整備情報総合センター
0032名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/23(木) 09:46:50.90ID:Ieu2piDw
>一方、新たに開発された耕地は、もともとが低湿地、あるいは台地上であったため、
洪水や早魃の被害を受けることが多く、治水対策が大きな社会的・政治的課題と
なってきた。特に、江戸中期以降、全国の低湿地のほとんどのところで
洪水の氾濫が常習的に起こっていた。<

>治水工事が本格的に実施されるのは明治以降のことであり、低湿地の乾田化工事は、
近代にはじまり戦後において完成するのである。<

水土の礎 | 一般社団法人農業農村整備情報総合センター
0036名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/24(金) 18:22:43.89ID:yCmxaUO5
誰かに都合の悪いことを平気で言うので、排除されまくって、
ほとんどどこにも書き込めなくなっているが、いずれ
ここからも排除されるのだろう。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/24(金) 18:40:27.61ID:yCmxaUO5
言語が異なれば、当然、発音が想起させるイメージの体系的な使い方も
違う、というより、その違いが大きいことが、言語を互いに異なる
ものとしてその境界を保つことに役立っているわけだが、それでも、
発音の用い方は、まったく互いに無関係であると考えてられている
言語同士の場合でも、よく似ていることが少なくなく、言語表現を
解釈しようとするとき、その類似性を無視しようとすべきではない。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/25(土) 08:47:50.01ID:I7MV9LBI
通常、言語と呼ばれているものは、表現を体系的に合理化しながら形成して
使うことの実践であり、表現しようとする行為に先立ってあらかじめ
その体系的な合理化が規定されているわけではない。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/25(土) 08:50:15.28ID:I7MV9LBI
言語表現を適切に解釈しようとするのに、生成文法のカテキズムを習う必要
などさらさらなく、学問の世界であれ、信仰の自由は建前上は保証されている
のだから、そんなものの学習は、入信希望者だけにやってもらえばいいのである。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/25(土) 11:13:55.05ID:I7MV9LBI
名前を頼りに物事を考えることを優先するような思考法を批判しているんだが?

例えば、「日本語」について考える場合、古代に遡れば、「日本」は国として
成立していないのだから、「日本語」と呼べるものは存在しない。では、
「日本語の古代」については何も語ることができないのか。そんなことは
ない。なぜなら、現代の「日本語」が、「中国語」として成立することに
なった言語表現の実践を継続的に活用してきたことは明らかだからだ。
そこで私も、「日本語」は、「中国語」の表現を流用することによって
成立していると表現するわけだが、ここで、その便宜上の言い回しから、
既に成立したものとしての「中国語」の存在を前提として想定してしまう
ことも、当然、誤りである。探索の手段として、現代の「日本語」から
「中国語」の表現をたどり、そこから、どのような言語表現を流用した
のかをリバース・エンジニアリング的に推測しているのだから、
そのプロセスにおいて、「日本語」、「中国語」という名称で
指し示される言語体系の規範化の実体の存在を想定しようとすること
そのものが誤っている。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/26(日) 12:29:58.52ID:doZL2OC7
一見、もっともらしいことを言いながら、探求を阻害する手法という
のは確立されていて、例えば、「日本語の古代」について研究する
ことを提案したとすると、研究の対象とする「古代の日本語」を
まず明確に定義し、その対象を研究する目的を明示できなければ、
研究を開始する許可は与えられない、といった類のものだ。しかも、
そのような要求を、研究を推進するという表向きの制度的な立場
から権限を握ったうえで、それを受け入れるか、拒絶するかの
二者択一でつきつける。「古代の日本語」などというものは存在
しないので、当然、要求を受け入れたなら、自己矛盾に陥って
探求を進めることはできず、その要求をナンセンスなものとして
拒絶したなら、許可を受けて探求することを断念することを
迫られ、許可されるか否かにかかわらず探求を進めようとする
なら、反抗的な態度を非難し反省を迫り、人格攻撃をする。
「日本語の古代」というのは例に過ぎず、この手法には
汎用性があり、どのような研究に対しても用いることができ、
意図的に行われているので、無視して勝手に探究をする以外
に逃げ道はない。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/27(月) 08:33:25.42ID:+knF8js5
私は囚人扱いされるのは御免だが、それは看守になりたいということではない。
そしてそのことにこそ、看守として重要な役割を任せられていることを自負して
いる人々は、自らの価値を蔑ろにされていると感じるのだろう。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/06/28(火) 07:25:58.46ID:ACAyb1x+
屋根の「野地(のぢ)板」、山の「稜線」

「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること
からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも
取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる
用法も互いに関連しており、その互いの関連性は、日本語においても反映
されている。そのことに気づきにくくなっているのは、これらの表現の
語頭が漢字においては、"l"で発音されるのに対して、それが流用されて
日本語として取り入れられる過程で"n"に移されているからである。
0047藻塩
垢版 |
2022/06/28(火) 08:38:07.80ID:ACAyb1x+
「塩(しほ)」は、云はば、"exfiltration"の結果であるわけだが、それを表す
言葉が、「喜びも一(ひと)入(しほ)である(≒"all the more infiltrating")」と
表現される場合のように"infiltration"を表す「入(しほ)」と同じ言葉である
こと自体、「しほ」がもともと表現しているのが、"exfiltration"としても、
"infiltration"としても限定されるものではなく、《s'infiltrant》と表現する
ことができるような再帰的な作用の効果であることを示している。そして、
その再帰性を担っているのが、「しほ」においては、「〜ほ」という活用形
として現れている「〜ふ」である。「しほ」は、「しほり」という表現に
「湿(しほ)り」という漢字が当てられることにも表れているとおり、当然、
漢字の「濕(Middle Chinese: /ɕiɪp̚/)」や「隰(Middle Chinese: /ziɪp̚/)」
に関連していると考えられるわけだが、本当に検討されなければならない
問題は、ここからだろうと思う。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/02(土) 09:03:42.51ID:7jRCvYlj
何がそんなに都合が悪いのか知らないが、不明な理由でほとんどの掲示板から
書込み規制で無期限に完全に排除されて、書き込める場所がほぼ無くなっている。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 09:46:58.11ID:RSY1z00W
言語表現の意味をリバース・エンジニアリング的に推測するとか、物事を
非物象化して考えるとか言うと、何かよく分からない、雲をつかむような
話だという印象を受けるかもしれない。しかし、これは、実際に
具体例から考えてみるなら、特に難しいことを要求しているわけではない。
例えば、「壟」とは何かという問ひに対して、Wiktionaryを参照すると、
その英訳として、この漢字が中国語においては、"grave"、"mound"、
"raised path between fields"、"ridge"を表現するように用いられると
いう答えが示されている。ところで、これらは、すべて物象化された
答えである。つまり、「壟」が「何」を表現しているのかがそれぞれの
用例において「分かり切ったモノ」として提示されていることになる。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 10:07:39.66ID:RSY1z00W
そこで、「分かり切ったモノ」として提示される答えに対してリバース・
エンジニアリング的に推測を働かせて、「壟」を非物象化して考えてみると
どうなるだろうか。それは、例えば、「壟」≒"a mound"という物象化された
一つの答えを足/手がかりにして、それを逆物象化して、
「壟」/"a mound"⇒"to be in a mounting position"という推測を働かせ、
「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること
である。そして次に、そのように想定することが実際にどれだけ有効で
あるかを確かめてみるために、今度は、この想定から、既に
「分かり切ったモノ」として物象化されて提示されている"grave"、
"mound"、"raised path between fields"、"ridge"としての用例を、
発展的な組織化、すなわち、流用によって派生させることができるか
どうか、そのような派生が自然に導き出されるように感じられるかどうか
を問ひ直してみるのである。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 10:30:31.12ID:RSY1z00W
無論、この逆物象化のプロセスにおいては、
「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること
事体が暫定的であり、確実であるものと規定され得る出発点も、
必然的に導かれる到達点もない。したがって、この想定は、それが発展的な
組織化を派生させるのに有用/有効でないのなら、反証によって否定される
までもなく、自ずと放棄されることになる。逆に言えば、この想定は、
それが発展的な組織化を派生させるのに有用性/有効性が認められる
限りで、暫定的に正しい想定として保持され、利用される。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 10:55:24.46ID:RSY1z00W
料理における「隠し味」/《un agent infiltré》としての塩(しほ) は、
舌に対して食べ物の素材そのものがもつ味を引き出す/際立たせる。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 08:29:47.45ID:ONGQfs5g
>「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること
からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも
取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる
用法も互いに関連しており

>「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみる

以上の2つのことを前提とすると、例えば、「しの(凌)ぐ」という日本語の
表現に当てられるように用いられてている漢字である「凌」によって
表される中国語の表現は、それを流用していると考えられる日本語の表現
とともに、リバース・エンジニアリング的に考えて英語で記述するなら
"to surmount"に相当するものと解釈することができるだろうという
推測がもたらされる。すると、「凌(Middle Chinese: /lɨŋ/)」/「しのぐ」/
"to surmount"という関係性において、「し『の』ぐ」の「の」が
"/lɨ(ŋ)/"に対応するイメージを想起させているものと推定されること
になり、そこからすぐに、では、「しの(忍)ぶ」の「の」はどうなのか
という疑念が思い浮かぶ。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 08:50:56.43ID:ONGQfs5g
「しの(忍)ぶ」の「〜ぶ」は、当然のことながら(といっても標準的な国語学
の説明においてではなく、私が勝手に提示する解釈においてだが)、
再帰表現を形成する「〜ふ」であり、メタ言語的な「ひっくり返し」の
指示である。ところで、「凌」をWiktionaryで参照すると、その定義
として"to place oneself above; to override; to transgress,
alt. forms: 陵"と記載されている。ここで、"to place oneself above"
は、私が提示した"to surmount"にそのまま対応するが、
それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にもうまく対応している
と考えるなら、これを"oneself"との関係において「ひっくり返す」
なら、"to have 〜 over oneself"となり、これは、
そのまま「しの(忍)ぶ」にうまく対応するのではないだろうか。
リバース・エンジニアリング的に考えるとは、このようにして
生じる想定のネットワークを確定した事実として認識することではなく、
絶えず試行錯誤する立場から捉え直すことである。そうすることで、
既に与えられた規定に従ふ/従はせるという狭量な姿勢から、
与えらているモノゴトをどのように活用できるのかを探求する
積極的な姿勢への転換が生じる。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 13:12:31.79ID:ONGQfs5g
>>56
ここで私は、「しの(凌)ぐ」を"to place oneself above"に対応するものと
見做して、「しの(凌)ぐ」と発音的に重なる「しの(忍)ぶ」を、その
「〜ぶ」という表現の形式から判断して、"to place oneself above"を
単に"oneself"に関してひっくり返すことにより、"to have 〜 over oneself"
を「しの(忍)ぶ」に対応させることができるのではないかと示唆した。

そのような誰によってもその正しさ保証されていない勝手な操作に
よって導かれた結果にいくらかでも有用性/有効性が認められるかどうか
は、実際に、「しの(忍)ぶ」≒"to have 〜 over oneself"というような
捉え方が役に立つかどうかを試してみることで知ることができる。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 13:21:50.64ID:ONGQfs5g
例えば、「〜するのは『忍びない』」という言い方がある。この場合、
「忍びない」とはどのような意味だろうか。ここで、「忍びない&英語」
で検索してみると、研究社 新和英中辞典での「忍びない」の英訳
として、
>…するに忍びない
do not have the heart to do
be reluctant [not willing] to do
cannot bring oneself to do<
という訳例が示される。しかし、これらの訳例は、私にはどれも
「忍びない」という日本語の表現をうまく伝えているようには
感じられない。そこで、私自身が示唆した「しの(忍)ぶ」≒
"to have 〜 over oneself"という捉え方を利用してみると、
私には、"cannot have 〜 on my conscience"という英語の
慣用表現がすぐに思い浮かび、こちらの方が、私には「忍びない」
の伝える感覚によく合っているように思える。そして、私には
そのように思える限りにおいて、この捉え方は、少なくとも
私には役に立っていると言える。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 20:17:47.72ID:ONGQfs5g
>>59
誤解のないように補足すると、私には、"cannot have 〜 on my conscience"
という英語の慣用句が、「忍びない」という日本語に似たような感覚を伝え
ていると思われると言っているのであって、この2つの表現が互いに直接に
対応関係にあると言っているわけではない。「忍びない」の「ない」は、
普通に解釈して、否定の「ない」ではなく、程度の甚だしさを表現する
「ない」である。それが英語の通常の表現として通用するかどうかという
ことを無視して、記述的なメタ言語として英語を利用して、
「しの(忍)びない」という表現そのものとの対応関係を伝えようとする
なら、私は、"it is too much subduing of onself (to do 〜)"のような
記述をすることになるだろう。ただし、このように記述しても、
それがやはり、"subdue oneself"が、"to place oneself above"/
"surmount"を「ひっくり返す」ことによってもたらされることを
見てとることができるだろう。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/08(金) 08:59:38.03ID:GBBLJ0P6
ところで、このような反転操作をしてみると、「しの(凌)ぎ」/"surmounting"
として表現される作用は、自己/"onself"の立場を「ひっくり返して」みると、
「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の作用として捉えることもできる
ものと解釈され得る。ここで、私が、中国語で「壟」として用いられている
表現の流用であるとして指摘した日本語の「野(の)」に戻ると、
岩波古語辞典に、
>日本書紀に「奴」と表記し、また、万葉集に「奴」と書いた例もある
ことが指摘されている。すると、(例えば、「野(の)」を越えて行くような)
「しの(凌)ぎ」/"surmounting"の作用も、その作用を捉える自己/"onself"
の立場を反転させるだけで、「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の
作用として捉えられるのだから、日本書紀や万葉集に「野(の)」が「奴」
と表記される場合、「奴」は、やはり"subduing (of oneself)"の作用を
想起させた、すなわち、「奴」としての「野(の)」は、「山に『の』された
ようななだらかな地形」をイメージしたものではないかと思える。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/08(金) 09:04:31.64ID:GBBLJ0P6
ちなみに、Wikitionaryで「奴」を参照すると、この表現の次のような解釈が
記載されている。

>Unger (1990) groups 奴 (OC *naː) as well as 努 (OC *naːʔ) &
弩 (OC *naːʔ) in a word-family with the basic meaning "tense",
hence "press into service".
0063名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/09(土) 12:03:25.96ID:U5PMkG4x
私は中国語を知らないし、漢文も読めず、そのように説明されている
例についても知らないが、「砂上の楼閣」や「空中楼閣」の
「楼/樓(Middle Chinese: /ləu/)」も、この表現の発音が
"surmounting"の作用を想起させることから派生しているので
はないかと思える。
0064前方後円墳
垢版 |
2022/07/10(日) 09:09:06.50ID:i59ifCCR
髑(どく)髏/顱(ろ)

方趾円顱 ほうし−えんろ
天と頭はどちらも丸く、大地と足はどちらも四角いために、
人と天地が似ているものであると、古代中国では考えられていたということから
0065名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/10(日) 09:14:40.05ID:i59ifCCR
中国語としての表現:壟/陵/楼/樓/髏/顱 ⇒ 日本語としての表現:
"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用としての「の(野/埜)」
0066名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/10(日) 14:05:09.31ID:i59ifCCR
ちなみに、これらの壟/陵/楼/樓/髏/顱の中国語の中古音として想定される
語頭の"l"の発音は、「上代の日本語」と同様に語頭に「ラ行」の発音が
来ない朝鮮語においても、"n"の発音に移される。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/11(月) 11:45:12.68ID:wWFxI/rL
>>64-66
「頭蓋骨&中国語」で検索すると、白水社の中国語辞典で「頭蓋骨」を
引いた結果がヒットし、「颅(顱)ピンインlú」と記載される。

このように見てくると、人の頭部を覆う部分が、それまでは何の関係
もないものとして認識していた、一般には「〜陵」として表される
前方後円墳の後円部分や、自然の風景としてある野(の)に類似したもの
として、にわかに共通のイメージで捉えられて想起されるようになる。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/11(月) 19:54:10.63ID:wWFxI/rL
>>65
>中国語としての表現:壟/陵/楼/樓/髏/顱 ⇒ 日本語としての表現:
"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用としての「の(野/埜)」 <

日本語の表現として用いられるようになった「の(野/埜)」がどのような表現
であるのかをイメージするのに、フランス語の次のような慣用句も参考になるだろう。

>faire le chien couchant
>Fig. et fam., Faire le chien couchant auprès de quelqu'un, Le flatter,
tâcher de le gagner par des soumissions basses et rampantes.<
0070名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/12(火) 09:34:02.57ID:DvjsMjru
記号論を提唱したパースは、記号を単なる所与としてではなく、記号の生成に
おいて自ずと進化するものとして捉えていた。記号が進化するというのは、別に
オカルト神秘主義的な考えではない。例えば、上の一連の考察は、中国語の
表現としての「壟」(として使われれるようになった言葉)が、日本語において
「野(の)」として流用されているという認識から始まっている。しかし、
なぜそうであると考えられるのかを問ふことによりもたらされるのは、
単に中国語の中古音の"l"が日本語では"n"に移され、語末の子音が消滅して
"long"に近いような発音が想定される中国語の「壟」が日本語の「野(の)」
に変化して、「壟」→「野(の)」となったという結論ではない。
問ひに適切に応えようとする過程において、どのように考えれば
「壟」と「野(の)」が互いに適合するようになるのかが探られて、
そのことによって「壟」と「野(の)」のいずれの捉え方にも進化的な
変化が(その過程を追想するものとして)生じているのである。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:47:53.50ID:DvjsMjru
「壟」と「野(の)」が互いに適合することが納得されるようになった時点で、
「壟」という漢字が表現しているのはもはや、単に「土」と「龍」の組合せで
はなく、「土」を基礎にした「龍のものとして想定されるような動き方」
であり、それをイメージするには、現代の「龍舞」/"dragon dance"を
想起してみるのもいいだろう。ただし、披露される「龍舞」/"dragon dance"
は、軽快な動きを可能にするためにハリボテ構造のようなものを用いて
いるので、その動きには、想像上の動物である龍に想定されるような
巨大な重量が感じられず、「うねうね」と動いているように感じられる。
確かに、「龍のものとして想定されるような動き方」は波が「うねる」
ようなものだろうが、龍に巨大な重量があるとすれば、それが「うねる」
ように上昇するとすれば、そのことがその動きが下側に働かせる抑えつける
強い力が「作用/反作用」の関係で意識されるはずであり、その関係を
私は、"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用として
記述した。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:54:09.57ID:DvjsMjru
ここで逆に、"subdued & 中国語"をキーワードとして検索してみると、
Cambridge Dictionaryの例文として次のような記載がヒットする。

If a colour or light is subdued, it is not very bright.
(色彩或光線)柔和的,暗淡的
subdued lighting 柔和的燈光

If a noise is subdued, it is not loud.
(聲音)壓低的,小聲的
subdued laughter/cheers 竊竊的笑聲/低聲歡呼

If a person is subdued, they are not as happy as usual or they are quieter than usual.
(人)悶悶不樂的,默不作聲的
He seemed a bit subdued at lunch - is he all right? 午飯時他顯得有點悶悶不樂——他沒事吧?
0073名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/12(火) 09:58:51.69ID:DvjsMjru
記載される例文には、「抑えが効いている」ことについての"subdued"の
二重のイメージがよく表れていて、英語の"subdued"という表現が、
なだらかな「野(の)」風景を表現するのにも、視点を反転させて、何か
重しがかかって抑えつけられて、それを耐えし「の」(忍)んでいる様子
を表現するのにも適合することが見て取れるだろう。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/13(水) 16:16:29.54ID:AD4K3wR4
ののしる
精選版 日本国語大辞典「ののしる」の解説
>※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「法雷を響(ノノシリ)て弁を吐(つは)はき、
慮を静めて微(ひ)に通ずる者は」

Wiktionary, "龍"
>Etymology
From Proto-Sino-Tibetan *m-bru(ŋ/k) (“dragon; thunder”). Cognate with
Tibetan འབྲུག ('brug, “dragon; thunder”). The STEDT database also lists
隆 (OC *ɡ·ruːŋ, “thunder; sound of thunder”) and 雹 (OC *bruːɡ, “hail”)
as cognates. Also compare 靐 (OC *brɯŋs, “sound of thunder”) and
霹靂 (OC *pʰeːɡ reːɡ, “thunder”). <
0075avoir le dessus/dessous
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2022/07/14(木) 00:26:15.89ID:5ses6n6u
>>56
>ここで、"to place oneself above"は、私が提示した"to surmount"に
そのまま対応するが、それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にも
うまく対応していると考えるなら、これを"oneself"との関係において
「ひっくり返す」なら、"to have 〜 over oneself"となり<

この記述は、説明の分かりやすさという便宜の点ではとても都合がいい
が、哲学的に見れば、ここには大きな落とし穴が潜んでいる。
その落とし穴とは、「"oneself"との関係において『ひっくり返す』」
という言い方である。というのも、この言い方では、まず、"oneself"
が自明のものとして存在して、それに関して表現を「ひっくり返す」
ことになってしまうからだ。しかし、哲学的に見れば、事態はその
逆であり、むしろ、表現の「ひっくり返し」が成立することによって
"oneself"が存在するのである。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 00:48:10.82ID:5ses6n6u
日本語の「の」が「龍のものとして想定されるような動きに伴う作用」
を想起させるとすれば、それは「昇龍」か「降龍」のどちらかのもの
というわけではなく、そのどちらかでありながら、どちらでもあり得る
反転可能性においてそれを想起させるのである。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 18:50:26.99ID:zzsdBWx5
困難に直面したときにそれに対処する姿勢を表す英語の表現として、
"ride the storm"というのと、"it'll blow over"というのがある。
前者は、航海中に嵐に遭遇してそれを「乗り切る/しのぐ」という
イメージだろう。他方、後者は、暴風が過ぎ去るまで頭を低く
したまま、身をかがめて「耐えしのぶ」というイメージだろうと思う。
また、"storm"に関しては、実力行使でたちまちのうちに制圧する
ことを意味する表現として、"take by storm"というのもある。
いずれにしても、英語において"storm"が想起させるイメージは、
中国語の「龍」および日本語の「竜(たつ)」(例えば:竜巻)のイメージに
類似していると言うこともできるだろう。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 20:39:40.58ID:zzsdBWx5
Merriam-Webster

1 a : to sit and travel on the back of an animal that one directs

3 : survive, outlast —usually used with out
rode out the gale
6 a : obsess, oppress
ridden by anxiety
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/23(土) 08:18:40.27ID:K4B573Fb
>>78
>英語において"storm"が想起させるイメージは、中国語の「龍」および
日本語の「竜(たつ)」(例えば:竜巻)のイメージに類似していると言う
こともできるだろう。<


>三十七法雷を震ひ法鼓を撃ち、慈雲を布き甘露を酒ぐ、龍象の蹴踏潤ひ無邊、三乘五性皆醒悟す。

証道歌(読み)しょうどうか
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「証道歌」の解説
中国,唐の僧,永嘉 (ようか) 大師といわれる玄覚 (665〜713) の作った詩篇。
247句。禅の真の意義を興のおもむくままに 63節に詠じたもので,
禅の修行者たちの間で重要視される。なお敦煌出土の文献中に
これと内容の等しい『禅門秘要訣』がある。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/23(土) 08:35:56.76ID:K4B573Fb
>"storm"に関しては、実力行使でたちまちのうちに制圧する
ことを意味する表現として、"take by storm"というのもある。<

"thunderstorm"/「龍」の如く急襲し、制圧する
0083名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 00:57:07.25ID:1Jornk+b
>人の頭部を覆う部分が、それまでは何の関係もないものとして認識して
いた、一般には「〜陵」として表される前方後円墳の後円部分や、
自然の風景としてある野(の)に類似したものとして、にわかに共通の
イメージで捉えられて想起されるようになる。<

>「壟」と「野(の)」が互いに適合するようになるのかが探られて、
そのことによって「壟」と「野(の)」のいずれの捉え方にも進化的な
変化が(その過程を追想するものとして)生じているのである。<

>《Mon dessin ne représentait pas un chapeau.
Il représentait un serpent boa qui digérait un éléphant.》<
Chapitre I - Le Petit Prince de Saint Exupéry

>中世纪动物寓言集·龙象之争
0084名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 09:59:56.29ID:1Jornk+b
>ちなみに、これらの壟/陵/楼/樓/髏/顱の中国語の中古音として想定される
語頭の"l"の発音は、「上代の日本語」と同様に語頭に「ラ行」の発音が
来ない朝鮮語においても、"n"の発音に移される。<

ちなみに、「ラ行」の発音と「ナ行」の発音の関係に関連して、
「喜連(きつれ)川」という地名が存在するが、その古称は
「きつね(狐)川」であったことが知られているので、
この場合は、逆に、「ナ行」の発音が「ラ行」に移されている。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 14:15:58.16ID:1Jornk+b
『星の王子さま』で《un serpent boa qui digérait un éléphant》の
《un serpent boa》は、「ウワバミ」というあまり聞きなれない言葉
で訳されているが、「をろち(大蛇)」と訳したなら、そのイメージは、
地形としての「壟」/「野(の)」を表現する隠喩としても流用すること
ができるだろう。ところで、本に描かれた絵では、その傾斜は、
「をろち(大蛇)」の連続性を示していながらも、かなり急峻なので、
「壟断」という表現が思い浮かぶ。「壟断」は、市場で独占的な地位
を獲得することの隠喩だが、例えば、中国資本がインドの大企業を
吸収合併するようなことがあれば、「象(インドの象徴)を飲み込んだ
龍(中国の象徴)」というイメージをそのまま「壟断」を表現する隠喩
として用いることもできるだろう。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 14:29:37.06ID:1Jornk+b
『星の王子さま』に描かれたのと同様の絵を見せられて、「これは『帽子』
ではなく、『象を吞み込んだウワバミ』の絵だ」と思ったとしたら、それは
その絵を「帽子」を描いたものと判断するのと同様の誤りだろう。
なぜなら、そのような見方は、「帽子」を「ウワバミ」と「象」の複合体
によって置き換えたに過ぎないからだ。誤りは、その絵は、「何を描いた
ものであるか」と問うこと自体にある。この絵が描かれた意図に沿う
より適切な問いは、「それは『どのようである』ことを描いた絵なのか」
である。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 10:17:53.20ID:pgDG357m
「言葉の意味とはその用法」である。したがって、ある言語表現の語源が
明確に分かっているからといって、その言語表現の意味がその語源から
確定するわけではない。これは、ある意味で既に常識となっているが、
だからといって、言語表現の意味がその用法から理解されるとは、
どのようなことであるのか、そのプロセスが明示的に意識されている
わけではないだろう。具体的にそれがどのようなことであるのか、
ポルトガル語/スペイン語の"salpicar"(英語の"splash"に対応するような
用法で使われることが多い)という表現を例にとって、後で説明を試みる
ことにする。

salpicar
プログレッシブ ポルトガル語辞典(ポルトガル語・日本語の部)の解説
salpicar /sawpiˈkax/
[29][他]
❶ …に塩を振りかける
salpicar a carne|肉に塩を振りかける.
❷ …を振りかける
salpicar sal|塩を振りかける.
❸ (水や泥などを)はねかける,はねかけて汚す.
0088名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:12:43.00ID:pgDG357m
ポルトガル語/スペイン語の"salpicar"という表現に語源的に不明なところはない。
これらの言語において、"sal"はそのまま「塩」を意味する言葉であり、
"picar"もそのまま「突き刺す」動作/作用を意味する言葉として使われ、
さらに、味としては「辛い」作用を表現するように使われる。
したがって、それ以外の知識なしに"sal・picar"の意味を推測すると、
この表現は、「塩辛い」ことを意味しているのではないかと思えるが、
実際には、上に引用したポルトガル語の辞書の記載のとおり、
「塩を振りかける」、「振りかける」、「とばっちりを浴びせる」
といったような意味で使われることが多い。したがって、"picar"
は「(塩)辛い」というよりもまずは、「点在させるように散らす」
動作/作用を表現しているものと理解することができるだろう。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:32:53.48ID:pgDG357m
また、"salpicar a carne"(肉に塩を振りかける)という用法では、
"sal・picar"の"sal"は、無論、文字通りそのまま「塩」を意味している
ことになるが、"salpicar"が「振りかける」や「とばっちりを浴びせる」
という意味で用いられる場合、"sal"は、「振りかけられる塩のように
散らされて点在するもの」を代表していることになる。したがって、
この場合には、"sal"は「塩味」を想起させるように用いられている
わけではなく、むしろ、そのイメージを脱去させられており、その
ように散らされて点在するものは、「ゴマ」であっても、
「泥水のしぶきがかかった汚れ」であっても、さらには、風景に
点在する「家々」であってもよいことになる。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:49:10.25ID:pgDG357m
さて、ここからが本題だ。では、次の例はどうだろうか。
これは、『ブラス・クーバスの死後の回想』として日本語訳が出版されている
Machado de Assisの"Memórias Póstumas de Brás Cubas"に目を通して
いてその表現に目が留まった一節からの引用である。

>Meu espirito deu um salto para traz, como se descobrisse uma
serpente deante de si. Encarei o Lobo Neves, fixamente,
imperiosamente, a ver se lhe apanhava algum pensamento occulto...
Nem sombra disso; o olhar vinha direito e franco, a placidez do rosto
era natural, não violenta, uma placidez salpicada de alegria. <
0091名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 00:05:57.02ID:I6WDDBU5
問題は、この最後の"uma placidez salpicada de alegria"の"salpicada"を
どのように解釈することが適切であるかだ。英訳では、おそらくそう
訳されているだろうと当たりをつけて検索してみると、案の定、
"a calmness sprinkled with joy"としてこの箇所の訳文がヒットする。
この箇所の日本語訳を確認してみるために図書館で訳本を借りてきたが、
次のように訳されている。
>むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297)
0092名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 00:30:03.72ID:I6WDDBU5
ちなみに、これは、語り手である男性が、自分の不倫相手の女性の
夫の表情を、その不倫に気づかれたのではないかと思って緊張し、
警戒しながら窺っている場面の描写である。政治家である夫が
県知事として北部に赴任するという話が持ち上がり、そうなれば、
不倫相手の女性と離ればなれになってしまうことになり、困って
いたところ、夫自らが、男性に秘書として一緒に北部に行かないか
と提案してきたのである。そこで、男性は、その提案には、
裏の意図が隠されているのではないかと恐れたのだ。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 08:35:43.62ID:I6WDDBU5
"uma placidez salpicada de alegria"に対する"a calmness sprinkled with joy"
という英訳は、辞書に記載される"salpicar"の英訳から直ちに想定されるいかにも
安易なものだが、"salpicar"も"sprinkle"もともに、一般に、「点在させる」ことを
意味するように用いられるので、誤訳であるとは言えないだろう。しかし、
この場合の訳としてうまく適合しているだろうか。男性は、不倫相手の夫の
表情に何か裏の意図を読み取ることができるのではないかとその顔の様子を
窺っている。ここで"calmness"と訳されている"placidez"は、「おだやかさ
/平静/平穏」を意味し、私の語感では、"pla"の発音に日本語の「ひら(平)」
がそのまま対応するので、日本語訳としては、「おだやかさ」よりも
「平静」または「平穏」の方が好ましく感じられる。いずれにしても、
表情は、「平静さ/平穏さ」を装いながら、何か裏に意図を隠し持っている
ということはよくあることだろう。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 08:59:18.26ID:I6WDDBU5
ところが、この場面において、語り手の男性は、不倫相手の夫の表情の
「平静さ/平穏さ」が自然である、つまり、不自然なところが認められない
こと、その「平静さ/平穏さ」が"alegria"/"joy"/「よろこび」で
"salpicar"されているのを見て、何も裏の意図はないものと判断して
安心するのである。さて、しかし、顔の表情の「平静さ/平穏さ」は
本来的に「おもて(表/面)向き」である。さらに、"sprinkle"は、
スプリンクラーがそうであるように、通常、何らかの表面に上から
「振り撒く」ことを意味するように用いられ、この英訳において、
"salpicar"はそのように解釈されていると考えられる。これに対して、
語り手の男性は、相手の顔の表情に裏の意図を見てとることができ
ないか探っている。"alegria"/"joy"/「よろこび」がその表面に
「振り撒かれた」ような「平静さ/平穏さ」を見て安心するだろうか。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 09:23:05.42ID:I6WDDBU5
その点、英訳と比べて、日本語訳の方は、この表現が用いらている場面に
ついてより深く考えられていると言える。
>むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297)
日本語の訳者は、この場合、"salpicada de alegria"を、「歓び」が
表情の上に「振り撒かれた」ようであると理解することには不適合を
感じて、観察する男性の視点から、「らちらと浮かぶ」と表現した
のだろう。ただし、「顔によろこびを浮かべる」という日本語の表現
は一般的であるものの、"salpicadar"に「浮かべる」という意味合い
はなく、「歓びがちらちらと浮かぶおだやかさ」という表現も、
私にはあまり自然な日本語であるとは感じられない。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 09:44:37.55ID:I6WDDBU5
「だったらお前はどう訳すのか」と言われそうだが、ポルトガル語/スペイン語
の初歩的な知識しかない私は、特に深く考えることもなく(探求は後からでいい)、
まずは、
"uma placidez salpicada de alegria"≒「よろこびの入り混じった平静/平穏)さ」
と訳すだろう。

ここでは、特に考察もなくひとまず、"salpicada de 〜"に「〜の入り混じった」
という訳を当てているわけだが、これは適切だろうか。そこで私にすぐに
思い浮かぶのが、"salpicar"の"sal"が連想させるイメージも影響して、
「ちらし寿司」である。私が子供の時に初めて「ちらし寿司」を食べたとき、
細かく切られた具材が酢飯に「入り混じって」いて、明らかに混ぜてある
のになぜ「『ちらし』寿司」と呼ぶのか疑問に思ったものである。だが、
この場合、「ちらし」は、"salpicar"の一般的な用法と同様に、具を
「散在させる」結果をもたらすことを意味するように用いられており、
「上から振り撒く」ことを意味しているわけではないだろう。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 10:10:25.74ID:I6WDDBU5
誤:平静/平穏)さ、正:平静/平穏さ

ところで、日本語には、「話を『混ぜ返す』」という表現がある。
検索すると、
>わきから口出ししたり、ちゃかしたりして人の話を混乱させる。
まぜっかえす。「茶々を入れて話を―・す」<
という説明がヒットする。話を「ちゃかす」こと、
話に「ちゃちゃを入れる」ことが、「混ぜ返し」を生じさせることになると
捉えられていることになる。これに対して、次の"salpicar"のスペイン語の
用法の例は、「ちゃかす」こと、「ちゃちゃを入れる」ことに似ている
(ただし、この場合、その行為の対象は、「他人の話」に限定されない)と
言うことができるのではないか。

>salpicar vtr figurado (esparcir elementos) (figurative)
sprinkle⇒, pepper⇒ vtr
dot⇒, pepper⇒ vtr

Salpica de comentarios graciosos todos los temas.
He sprinkles (or: peppers) all of his comments with funny remarks.
0098名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 10:28:19.03ID:I6WDDBU5
出典:WordReference.com | Online Language Dictionaries

実は、ポルトガル語/スペイン語の"picar"には、「突き刺す」という
用法だけではなく、「細かく刻む」という用法もある。そして、
"picar"という表現の発音そのものが、「突き刺す」動作/作用に
おいてもそうであるように、「小さい裂開を生じさせる」動作/作用
の擬態を表現するものと考えられている。すると、「ちゃかす」や
「ちゃちゃを入れる」の「ちゃ」はどうだろうか。やはり、
擬態/擬音的に「小刻み」な動作/作用を想起させるのではないか。
このように見ると、ポルトガル語/スペイン語における"picar"の"pi"と、
日本語の「ちゃ、ちゅ、ちょ」、「ち」のそれぞれの発音が、
類似したイメージを想起させるように用いられていると考えることも、
あながちこじつけではないだろう。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 11:06:32.16ID:I6WDDBU5
さて、日本語には、「胡麻塩頭(ごましおあたま)」という表現がある。

>精選版 日本国語大辞典「胡麻塩頭」の解説
〘名〙 黒い髪の毛に白髪のまじった頭。しらがまじりの頭。<

これは"salpicar"と同様に「塩(しほ)」という言葉を流用した表現だが、
この場合、「塩(しほ)」は、単に「(塩のように)振り撒かれたもの」として
散在する様態を表現するのに利用されているだけでなく、胡麻が黒い
こととの対比において「塩(しほ)」は、「(散在して)白く見えるもの」
として、「塩(しほ)」の「白く見える性質」が活用されている。この
ように、同じ"sal"/「塩(しほ)」という物象化された表現を語源として
利用していても、その物象化がどのような性質として利用されるかは、
あらかじめ決まっているわけではなく、その流用の目的次第であり、
物象化された言葉も、表現の解釈において《enjeu》として活性化され
るのだ。日本語では、「よろこびもひと『しほ(入)』である」という
表現がある。この場合、「しほ(入)」は物象化されることなく、
浸透作用を表現するものとして用いられている。では、
冗談を交えて話す場合に用いられる"salpicar"は、どうだろうか。
「冗談」は、「ちゃかす」もの、「ちゃちゃを入れる」ものとして
やはり"sal"/「塩(しほ)」のような働きをするものとしてイメージされて
いないだろうか。"uma placidez salpicada de alegria"の場合は
どうだろう。その都度、「どのようである」と表現していると考える
ことが妥当であるのかを考えるのが、言語表現を適切に解釈しようと
することであり、明確な定義から出発して、それに解釈を合わせて
終わりにするとというのは、感性を麻痺させる/バカにするもの
でしかない。「言葉の意味とはその用法である」とはそういうことだ。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 23:30:02.11ID:I6WDDBU5
>「ちゃかす」や「ちゃちゃを入れる」の「ちゃ」はどうだろうか。
やはり、擬態/擬音的に「小刻み」な動作/作用を想起させるのではないか。<

ちなみに、「切」の漢字で表される中国語の表現の想定されている中古音は、
"/t͡sʰeiH/"である。朝鮮語は、これを"[t͡ɕʰe̞]"/[체]の発音で取り入れている。
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