X



詩文学
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/08/31(火) 18:15:47.81ID:Vq290yAX
アーケード
0003はひふへほ
垢版 |
2023/01/24(火) 17:06:13.28ID:bwo35FCf
万葉集 第10巻 2238番
天飛也 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
あまとぶや かりのつばさの おほひばの いづくもりてか しものふりけむ
(出典 万葉集ナビ)
0004名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/24(火) 23:46:57.61ID:bwo35FCf
飛 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
「飛(とぶ)」、「翅(つばさ)」、「覆羽(おほひば)」、「零(ふり)」
「と『ぶ』」、「つ『ば』さ」、「お『ほ』『ひ』『ば』」、「『ふ』り」

一連の「はひふへほ」の発音が想起させるイメージと「しも(霜)」の
「し」の発音が想起させるイメージの対比が強く意識されて詠まれて
いることが明らかであるように思はれる。
また、この場合、「翅(つ『ば』さ)」、「覆羽(おほひ『ば』)」の
表記に見られるとおり、「秩vという漢字は、「は」の発音を表す
ために用ひられている。ところが、万葉集の歌を検索してみると、
現代の日本語で「羽毛」が「『う』もう」と音読みされるのと同様に、
「秩vが「う」の発音を表すために用ひられている事例もあること
に気づくだろう。
0005名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/25(水) 00:07:18.79ID:FT509qvB
これはとても興味深いことであるように私には感じられる。というのも、
万葉仮名において、「秩vは、それでもやはり、圧倒的に多数の事例に
おいて「は」の発音を表すために用ひられながらも、Wiktionaryの記載
を参照してみると、中国語の中古音として想定される発音は、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これは、万葉仮名において
「う」の発音を表すためによく用ひられている「宇」という漢字の
中国語の中古音として想定される発音、"Middle Chinese: /ɦɨoX/"
と同じだからである。そして、この漢字としての「秩vと「宇」の
発音の共通性、もしくは、少なくとも近似性は、「(は)」が主と
して「はひふへほ」の系列に組み込まれ、「宇(う)」は、その
系列からは外れているという違いにもかかわらず、古代の日本語に
おいては、おそらく意識されていただろうと私には思はれるのである。
0006名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/25(水) 00:38:24.71ID:FT509qvB
例えば、万葉集ナビにおいて「宇都(うつ)」をキーワードにして検索して
みるといい。最初にヒットする用例は、現代の表記では「移ろふ」となる
「宇都呂布(うつろふ)」である。次の別の用例は、「宇都里由久(うつりゆく)」
であり、その後に「宇都世美(うつせみ)」がヒットし、これは、現代の
表記法では、言ふまでもなく、「現世(うつせ)身(み)」となるが、
万葉仮名では、「打(うつ)蝉(せみ)」という表記も見られる。
さらなる用例としてヒットするのが、「宇都良々々々(うつらうつら)」、
「宇都久之美(うつくしみ)」などである。

これらの「宇都(うつ)」を含め、「う(薄)す」、「う(失)せ」、
「う(浮)く」など、極めて多くの日本語の表現に用ひられる「う」の
発音が共通して想起させるイメージは、ちょうどドイツ語の»Haut«
(From Middle High German hūt)(出典 Wiktionary)に対応させる
ことができる「表層」だろうと私は考へている。

「う」の発音がそのようなイメージで用ひられているであろうことは、
例えば、「うたかた」という表現の用例を見ても確かめることができる。
>泡沫人(読み)うたかたびと
@ 水面に浮かぶあわのように、はかなく消えてゆく人。
はかなく死んでいく人。
※後撰(951‐953頃)恋一・五一五「思ひ河たえず流るる
水のあわのうたかた人にあはで消えめや〈伊勢〉」
(出典 精選版 日本国語大辞典)
0007名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/25(水) 09:37:04.16ID:FT509qvB
万葉集 第13巻 3336番
奥藻麻 枕所為 <蛾>葉之 衣<谷>不服尓 不知魚取 海之濱邊尓 浦裳無 所宿有人者
沖つ藻を 枕になし ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
(出典 万葉集ナビ)

「<蛾>葉之 衣(ひむしのはのころも)」とは、はだぎ(肌着)のことだろうか。

万葉集 第20巻 4431番
佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも
(出典 同上)
0008しもやけ(霜焼)
垢版 |
2023/01/26(木) 07:53:12.63ID:jserDo5L
「おほ(覆)ふ」ように「は・だ(肌)」に「か(掛)かり(雁)」「は・だ(肌)」をくる(包)むのが「は(/葉)」の「ころも(衣)」である。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 09:34:54.08ID:jserDo5L
何かに触れてどのようにか心が揺れる。
その心の揺れがどのようであるのか何らかの具現的な形象に仮託して
捉へようとする。その形象が、心の揺れがどのようであるのかを
まことにつた(伝)へるものとして、すなはち、仮託された
心のありようをうつ(映/移)すものとしてつか(使/仕)へるか
どうかをこころ(試)み/(心観)るのが「こゑ(声)」に出すことである。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 10:13:05.14ID:jserDo5L
「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 10:29:45.26ID:jserDo5L
ニーチェもそのことにはっきりと気付いていたとおり、
「なにもしないことができる」ことは、「なにかをすることができる」
ことと同じくらいに大切である。というより、「なにかをすることができる」
ことの背景には必然的に「なにもしないことができる」ことがあり、前者は、
後者により暗黙に支えられている。ただ、しばしば、人がそのことを忘れて
いるだけである。「なにもしないことができる」ことが、いかに生きる
ための基本要件であるかは、二日間、完全に眠りを奪われただけで誰でも
すぐに気づかされることになるだろう。眠ることさえできない状態とは
まさしく、「なにもしないことすらできない」状態に置かれることである。
0013名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 11:02:19.43ID:jserDo5L
ハインリヒ・マンの作品として"Der Untertan"という題名の小説があるそうだ。
"Untertan"という語をキーワードに検索したら、ヒットしただけなので、
私はこの作品も、それ以外のハインリヒ・マンの作品も読んでおらず、
この小説の内容についても、検索でヒットしたWikipediaの記載を少し見た
だけのことしか知らない。ただ、"der Untertan"は、一般的にその存在様態
からして、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」ことに
よって評価されてその立場を確保しているので、みづから(身づ柄/自ら)を
"der Untertan"であると認識して、みづから(身づ柄/自ら)の振舞ひに
よって評価されて確かめられる地位を大切にしている限り、人(ひと)が
自分に向ける言葉はすべてその関係性においてのみその価値を評価する
ことになる。したがって、人(ひと)が自分に向ける言葉が、
みづから(身づ柄/自ら)が»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うこと
に従う」ことによって評価されることの妨げとなるなら、その言葉
が「まこと」であるかどうかはどうでもよく、むしろ、そのような
何の価値もない言葉を向けられることを、せいぜい、「嫌がらせ」と
見なすか、»sich 〜 unterordnen«/「(〜の)言うことに従う」
関係性において、より低い地位にいるものとして扱おうとする侮辱
と見なすのである。
0014名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 12:06:44.28ID:jserDo5L
英語の"truth"という言葉について、もともとは、日本語の「まこと」に
対応させることができるような表現として用ひられ、"truth"と対比される
"false"は、「いつはり」に対応させることができると指摘した。
それに関連して、真理条件的意味論 (Truth-conditional semantics)
の代表例に用いられる
>'snow is white' is true if and only if snow is white.
を引用して示した。ここで、「真理条件」とはどのようなものかを考へて
みるといい。例えば、私に画面上で"c"という記号が表示され、それに
対して私が次にように発言したとしよう。
>「その記号は右に開いている」
実際、"c"は記号として右に開いているのだから、私の発言は、
"true"/「まこと」 なのだろうか。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 12:27:22.54ID:jserDo5L
画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言した場合、"c"が記号として実際に右に開いていることが
確かめられるという事実だけでは、私の発言が"true"/「まこと」
であることにはならない。これは、視力検査の場合を考へてみれば
すぐに分かることである。

画面上に"c"が表示されて、私が「その記号は右に開いている」
と発言したところで、私にその記号のどちら側が開いているのか
実際に見えていなければ、その発言が「事実として当たっている」
ことが確認できたとしても、私の発言は、「まこと」ではなく、
「でたらめ」であり、「でたらめ」の発言が偶々、
「事実として当たっている」だけであり、記号がどちらに開いて
いるのか分からないことに私が自分でも気づいているのに
そのことを認める代わりにその発言をしたなら、その発言が
偶々、「事実として当たっている」としても、私の発言は
「いつはり」/"false"であることになる。発言される言葉が
「まこと」/"true"であるというのは、事実がどのようであるか
気づいているとおりに伝へているという誓約であり、
誓約したところで、事実がどのようであるかについて、
その気づきに誤りがないという保証にはならない。誤って
いたとすれば、誓約により責任が生じることになるという
だけのことだ。
0016名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 13:39:03.57ID:jserDo5L
ひるがえって、「乳呑児がみどり児である」ことが「まこと」である
ためには、乳呑がみどりであるとはどのようなことであるのかに
気づいている必要がある。単に、「乳呑児」と「みどり児」は
互換的に言い換えが可能でると暗記しているだけでは、視力検査票
の1.0の列の記号の並びを暗記していて、それらの記号が実際に
自分にどのように見えているかにかかわらず、「言い当てる」こと
ができるのと変わらない。ましてや、「たまのを」を、「枕詞」
と定義される「たまの緒(お)」として暗記して、その表現が
分かったような気になっているのは、「でたらめ」であるだけ
でなく、「いつはり」であり、「いつはり」を他人に「まこと」
として「をし(教)へ」ながら、ただ(正)しい日本語の表現の解釈
を指導することなどできるはずもないのである。

>«Die Kunst gibt nicht das Sichtbare wieder, sondern macht sichtbar»
Paul Klee
0017名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 23:41:36.37ID:jserDo5L
現代の日本語に「痛い人」という表現があるが、「痛い人」という言葉に
私がまず想起するのは、ゴットホルト・エフライム・レッシングだ。
特に"Fable"に少し目を通しただけでもそれを感じる。ただし、
この場合、私は、「痛い人」という言葉を、現代の日本語において
通用している、人の振舞いの否定的な評価として想起しているのではない。
心から「いた(悼/傷/痛)む」ことをよく知っている人が「痛い人」である。
0018名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/26(木) 23:43:37.99ID:jserDo5L
誤:"Fable" 正:"Fabeln"

なにげなく題名を英語に変えてしまった。
これは単純に「イタい」誤記である。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/27(金) 00:00:54.91ID:HUWD1sDl
一般に悲劇において「悼む人」の代表とされるのがソポクレースの悲劇、
『アンティゴネー』でその題名ともなっている中心人物のアンティゴネー
だろうが、私はそこに描かれるアンティゴネーには、「心から
いた(悼/傷/痛)む人」を感じない。
0021名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 11:19:44.26ID:8lDDoORj
万葉仮名において「秩vが圧倒的に多くの事例において「は」の発音
を表すために用ひられながらも、中国語の中古音として想定される
発音は、「羽毛(うもう)」の「う」という漢字としての音読みに
対応するように"Middle Chinese: /ɦɨoX/, /ɦɨoH/"であり、これが、
万葉仮名において「う」の発音を表すためによく用ひられている
「宇」という漢字の中国語の中古音として想定される発音、
"Middle Chinese: /ɦɨoX/"とほぼ同じであると考えられることを
上に指摘した。日本語において、「う」と「は」の発音が互いに
関連するように用ひられていることは、他の多くの表現においても
見ることができる。例えば、「薄(うす)」と読まれる場合は、
「う」の発音であるが、「薄」の漢字が音読みされる場合には、
「はく」である。「初雪」という表現では、「初」は「はつ」と
読まれるが、「初々しい」という表現では、「うひ」と読まれる。
古語には、「はだらに」という表現があるが、これは、現代の
日本語では「うっすらと」に対応するものと考へらえている。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 11:23:02.67ID:MJ0dKKD0
万葉集 第20巻 4478番
佐保河波尓 許保里和多礼流 宇須良婢乃 宇須伎許己呂乎 和我於毛波奈久尓
佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
さほがはに こほりわたれる うすらびの うすきこころを わがおもはなくに

万葉集 第10巻 2337番
小竹葉尓 薄太礼零覆 消名羽鴨 将忘云者 益所念
笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
ささのはに はだれふりおほひ けなばかも わすれむといへば ましておもほゆ

万葉集 第20巻 4443番
比佐可多<能> 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
ひさかたの あめはふりしく なでしこが いやはつはなに こひしきわがせ
(出典 万葉集ナビ)
0023名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 11:34:12.02ID:MJ0dKKD0
このように見てくると、「はだ(肌)」は、「表層に接触する」様態を
想起させ、「はつ(初)」は、「表層につく」様態を想起させる表現で
あるように思へる。だからこそ、「はつゆき(初雪)」は、単に
「うっすらと」積もるだけでなく、薄い層として何層にも積み重なる
ものとしてイメージされるのではないだろうか。

万葉集 第10巻 2318番
夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有 [一云 庭裳保杼呂尓 雪曽零而有]
夜を寒み朝門を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり [一云 庭もほどろに 雪ぞ降りたる]
よをさむみ あさとをひらき いでみれば にはもはだらに みゆきふりたり [にはもほどろに ゆきぞふりたる]

万葉集 第20巻 4475番
波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟
初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
はつゆきは ちへにふりしけ こひしくの おほかるわれは みつつしのはむ
0024名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 11:37:21.62ID:MJ0dKKD0
万葉集 第14巻 3537番(異伝歌1)
宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都々々尓 仁必波太布礼思 古呂之可奈思母
馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろし愛しも
うませごし むぎはむこまの はつはつに にひはだふれし ころしかなしも
(出典 万葉集ナビ)
0025名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 13:31:38.15ID:MJ0dKKD0
>>16に引用したパウル・クレーの言葉は、私自身がクレーの著書を
読んで拾ってきたものではなく、先日、図書館で借りた矢羽々祟著、
『読んで味わうドイツ語文法』という本に引用されているのを使は
せてもらうことにしたものだ。

>>11において私は、
>「こゑ(声)」に出すこと自体が具現的な形象に仮託することになり、
その形象には「こゑ(声)」を出す身体の具体性がともなふ<
と指摘したが、同書には、このことを例証するのにとても好都合な
具体例も記載されている。それは、以下に引用させてもらう
ドイツ語の言葉遊びである。

>Es lagen zwei zischende Schlangen zwischen zwei spitzen
Steinen und zischten dazwischen.
2匹のシュシュと音を出すヘビが2つの尖った石の間にいて、
その間でシュシュと音を出していた< 同書、p.250

これが言葉遊びとして面白いと感じられるのは、言葉の発音が
これらの言葉によって表現されるイメージを如実に想起させる
からだろう。また、これをドイツ語の発音どおりに発音してみれば、
表現に用ひられている発音とそれによって想起されるイメージの
関係が、日本語の場合の発音とイメージの関係にもとても近い
ことに気づくはずである。ここで、そのような類似性が感じられる
のは、この言葉遊びでは擬音語/擬態語が多用されているから
に過ぎないと結論づけるのは考へが浅い。無論、形象として
利用される声(こゑ)に仮託される様態は、必然的にあらかじめ
定まったものではない。しかし、そのことは、それでも、
「どのようであるか」をその効果において如実に伝へることに
なる声(こゑ)が、「どのようであるか」を仮託する形象として
好んで用ひられることになるのを否定するものではない。
すると、実のところ、そもそも、いずれの言葉が「擬音語/擬態語」
に由来し、いずれの言葉がそうではないかという区別は、
本来的に無効なのである。逆に、「どのようであるか」を如実
に伝へる効果が感じられなくなった言葉が、「擬音語/擬態語」
としては認識されなくなり、「そういうものとして通用する」
規約として扱われるようになるのである。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 14:12:47.46ID:MJ0dKKD0
私は、学問制度としての「哲学」の「哲学史」にはほとんどまったく
関心がないが、それでもわずかながら「哲学史」について書かれた
本も読んだことがあるので、スピノザがシェリングやヘーゲルといった
ドイツの代表的な哲学者に多大な影響を及ぼしたことは知っている。
哲学に興味がないと明言したゲーテさえ、自分とは対照的な素質
の持主であるとしながらも、スピノザの哲学には深く感銘を受けた
としている。私は、ラテン語が読めないので、昔、スピノザの
『エチカ』の日本語訳に目を通してみたが、そのときには、
「これでは熱心に読んでもよく分からないだろう」と思った
だけではなく、分かる限りにおいて、「これは私の肌には
まったく合わない」と感じられた。

今、スピノザの全集が新訳で刊行されはじめているとの
ことで、これは、別にスピノザのファンではない私に
とっても歓迎すべきことで、目を通したことがない
スピノザの著作に触れれば、読まず嫌いのままになって
いる私のスピノザの印象も変わる可能性があるだろう
から、この全集が大いに売れて、地元の自治体の図書館
でも購入されることを期待している。ただ、今のところ、
近年になって出版された分厚いスピノザの哲学の詳細な
研究書に概観的に目をとおしてみて、いかにスピノザが
誤解されているかという話を少し読んでみても、やはり
私の昔からの印象はほとんど変わらない。それは、
スピノザは、観念を操作することに専念している人
であって、感性を微細に働かせて、経験を如実に捉へ
て表現しようとする人ではないというものだ。例えば、
光学レンズを磨くことで生計を立てていたといわれるが、
その経験は、光学の効果を日々確かめる経験は、
スピノザの思索にどれだけ如実に反映されているだろうか。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 14:26:49.95ID:MJ0dKKD0
>PROPOSITIO 3
Affectus, qui passio est, desinit esse passio,
simulatque ejus claram, & distinctam formamus ideam.

PROPOSITION 3
Un affect qui est une passion, cesse d’être une passion,
sitôt que nous en formons une idée claire et distincte.<
(出典 u-picardie.fr/ethique/partie5.php)

私の曲解かもしれないが、このような命題とその証明を読むだけでも、
例えば、"Affectus, qui passio est"を、より具体的に、苦悩を
もたらす混乱した「カコフォニー」/"cacophony"であるとした
場合、スピノザが説いているのは、その「カコフォニー」/"cacophony"
を、身体に対する混乱した音の悪影響として捉えて、その混乱した音を、
構成要素としての混じり合っていない単純な波長にまで分解してしまう
なら、それが苦悩を生じさせることはなくなる、というようなこと
であると感じられる。このような「曲解」であるかもしれない私の
理解に基づくなら、スピノザが説いていることは、その「思想」が
どうであれ、その実践においては、感性の働きを麻痺させることにしか
つながらないだろう、と私には思へる。
0028名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 14:56:11.72ID:MJ0dKKD0
同じ喩えを用ひるなら、苦悩をもたらす混乱した「カコフォニー」/
"cacophony"に、人々が自分勝手にてんでばらばらに奏でる楽器の音を
聴き取るのがレッシングだろう。私には音楽の素養も資質も完全に欠如
しているが、レッシングは、オーケストラのために作曲する音楽家、
またはオーケストラを編成して指揮しようとする指揮者が、各自の
奏でる楽器の調べをうまく組み合わせて、全体として調和するように
「シンフォニー」/"symphony"を構成することを「予定調和的な理想」
として目指しているように私には感じられる。ただ、レッシングは、
脚本家であるため、混乱した「カコフォニー」/"cacophony"から
調和を導き出そうとするとき、レッシングが専ら関心を向けている
のは、既に背景をもつことが前提とされている人々のそれぞれの
心のうごきの相互関係であり、音楽家が、楽器や音声以外の背景の
雑音を排除したコンサート・ホールで演奏することを前提とする
ように、背景まで徹底して探求して、知ろうとすることへの関心が
感じられない。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/28(土) 19:42:55.50ID:MJ0dKKD0
>>25
このように長々と説明してもまだ、最も大切なことがきちんと伝はっている
のかどうかよく分からないので、言ひ方を変へて繰り返そう。

言葉を話すとき、"ordinary speech"がまずあって、それを意図的に
ひねって工夫を凝らした表現技法として"figure of speech"があるの
ではない。そうではなく、声(こゑ)に出して発話する行為自体が、
発せられる声(こゑ)に仮託して、どのようであるかを伝へようと
こころみる"figure of speech"なのだ。
0030名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 10:51:05.36ID:61v6fetN
Online Etymology Dictionaryで英語の"hiss"という表現を検索して
みると、次のとおり記載されている。
>late 14c., of imitative origin. Compare Danish hysse,
German zischen, etc. Johnson wrote, "it is remarkable, that
this word cannot be pronounced without making the noise
which it signifies." <
(出典 etymonline.com/search?q=hiss)

ところで、日本語には、「敵もさるもの引っ搔くもの」という
言い回しがあるが、「さる(猿)」は、「引っ搔く」から「さる」と
呼ばれるのだろうか。
0031名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 11:35:12.94ID:61v6fetN
岩波古語辞典で「さる【猿】」の項目を参照すると、
>B湯女(ゆな)の異名。風呂屋女。「[湯女(ゆな)]の異名を
『さる【猿】』と言ふ事は、諸人[ノ]垢(あか)を掻く故なりとかや」
(仮・都風俗鑑、四)<
とある。

ここで、「掻」をWiktionaryで検索してみると、その元となった
漢字として「搔」があり、この漢字の中国語の中古音として想定
されている発音は、"Middle Chinese: /sɑu/"であり、その語源を
「爪」の発音に関係づける想定もされているようだが、「爪」の
想定される中古音は、"Middle Chinese: /t͡ʃˠauX/"である。
さらに、引っ搔かれたなら「擦傷(さっしょう)」が生じることが
連想されるので、「擦」で検索してみると、この漢字の発音を
表す部分である「察」の想定される中古音は、
"Middle Chinese: /t͡ʃʰˠat̚/"である。

万葉集で「猿」が表記に用ひられている歌では、「猿」は、一般に
「さる」の発音ではなく、「まし」という発音を表記するために
使はれているが、次の歌では、例外的に「さる」と読まれるものと
され、そのように読むことは、この歌のそれ以外の言葉との関連
からも妥当だろうと思へる。

万葉集 第3巻 344番
痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見<者> 猿二鴨似
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ
(出典 万葉集ナビ)
0032名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 11:49:30.81ID:61v6fetN
さて、>>30で英語の"hiss"という表現について、
>Johnson wrote, "it is remarkable, that this word cannot be
pronounced without making the noise which it signifies."
という言葉を引用したが、英語には"hiss"の他にも多くの
「擬音語」/「擬態語」に分類される表現が存在するだろう。
なぜ、"hiss"の発音がその発音が表現して伝へようとすること
と合致していることが、特に"remarkable"/「おも・『しろ』し」/
「いと・『しろ』し」と感じられたのだろうか。

日本語の場合、かつては「猿」を表現するために用ひられた「さる」
という発音が、「引っ搔く」作用を如実に想起させたことは間違ひ
ないだろうと私には思へる。では、「さる(猿)」が「引っ搔くもの」
を表現していたとすると、「さる(猿)」は、「擬音語」/「擬態語」
なのか。そうであると考へるか否かは、「さる」の発音を用ひる
ことが、「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させるような効果を
発揮していると感じられるか否かに依存するだろう。
0033名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 13:33:01.37ID:61v6fetN
湯女(ゆな)の異名として風呂屋女を「さる」と呼ぶこと、これは
差別だろうか。「さる」が「諸人[ノ]垢(あか)を掻く」行為と
実際に結びついていて、そう呼ばれたのなら、「引っ搔く者」
を指す言葉として用ひられたと考へられ、実際、それをメタ言語
的に説明する必要性が生じていることから見れば、
「湯女(ゆな)」は獣(けもの)としての「猿(さる)」に「ひと(等)」
しいというような発想ではなかったのだろうと思ふ。ただ、
それでも、「引っ搔く者」として「猿(さる)」のようである
ということであれば、やはり、「湯女(ゆな)」を「さる」と
呼ぶことに、見下すような差別意識が働いていたと考へるのが
自然だろう。
0034名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 13:55:59.30ID:61v6fetN
欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。では、人(ひと)を
「さへづ(囀)る者」と呼ぶことは、差別だろうか。"Twitter"という
名称は、「さへづ(囀)る」ことを意味する英語の動詞、"to twitter"
に由来するが、今では、"Twitterer"/「ツイッタラー」という表現
も流通しており、"Twitterer"をCambridge Dictionaryで検索すると、
次にように説明される。

>a person who publishes short remarks or pieces of information
on the social media service Twitter<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/twitterer)

この説明では、Twitter社のソーシャルメディア・サービスで自らの
発言を発信する人が"twitterer"と呼ばれるとされることになるが、
そもそも英語の"to twitter"という動詞そのものが「さへづ(囀)る」
行為を意味しているわけだから、人を"Twitterer"/「ツイッタラー」
と呼ぶことがただちに「さへづ(囀)る者」を想起させることにも
なることは避けられないだろう。ところで、日本語の古語では、
人が話していることが「さへづ(囀)る」と表現される場合、
そこには、「(小鳥が)さへづ(囀)る」のと同様に「人(ひと)の言葉
としては認識されない話し方で何やらしゃべっている」という
差別意識が明白に働いている。
0035Ich bin dein Labyrinth...
垢版 |
2023/01/29(日) 14:13:32.55ID:61v6fetN
逆説的に聞こえるかもしれないが、差別の根源は、
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」ことにあり、このことには疑ひの余地がない。
「ひとをひととしてあつか(扱)ふ」とは、「ヒトをヒトとして扱ふ」
ことを含め、「『ひと(等)しいもの』を『ひと(等)しいもの』として扱ふ」/
"To treat what is equal as being equal"であり、裏を返せば、
「ひとでないものは、ひととしてあつか(扱)はない」こと、つまり、
「『ひと(等)しくないもの』は、差別するように扱ふ」/
"To treat what is not equal as being different"という「差別化」/
"differentiation/discrimination"であることになる。
0036名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 14:53:31.31ID:61v6fetN
>欧米では、人(ひと)を獣(けもの)としての「猿(さる)」呼ばわりする
ことが人種差別の代表的な行為であるとされる。<

これも逆説的に聞こえるかもしれないが、人種差別をなくすことを
訴え、働きかけつづける、良心的であるとされる欧米のメディア、
政治家、知識層に属するとされる人々は、理想としてすら、
「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
などまったく目指してはいない。人(ひと)がそのような理想が
掲げられているものと思ひ違ひをしたとすれば、それは、
人(ひと)が誰でも、理想的な世界が実現されたなら「自分も人(ひと)
として人(ひと)らしく配慮されて扱はれるはずだ」と都合よく考へて
しまうことに基づく錯覚である。では、そのような良心的な人々が
実際に「理想としてその実現を追求している」のはどのような
世界かと言えば、それは、「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"
の個体または個体の集団としてうまく扱ふことができる世界」
である。無論、この場合、「猿(さる)」/ "ape"というのは、
科学的な知見に基づくとされる「類人猿としてのヒト」のこと
である。これも、大学の研究機関を含む「知的活動」として
長年にわたってどのようなことが推進されてきたのか、どの
ようなことが徹底的に妨害されてきたのかを自らの体験として
経験し、観察してきたなら、まったく疑いの余地がない。
「人(ひと)」は、科学的な事実として「類人猿としてのヒト」
であるのだから、その前提に基づいて物事を考へようとしない
者は、生物学における「進化論」を否定する非科学的な信念に
囚われた何か異常のある/矯正されるべき「猿(さる)」/ "ape"の個体
であるものとして扱はれることになる。
0037Ich bin dein Labyrinth...
垢版 |
2023/01/29(日) 15:40:36.95ID:61v6fetN
各自に「ひとがひととしてあつか(扱)はれる」ようになる世界の実現
が理想として追求されているかのような錯覚を抱かせつづけながら、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の集団
としてうまく扱ふことができる世界」の実現を目指す仕組み作りに
各自に自主的かつ献身的に貢献させる、これが統治の課題である。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/29(日) 16:09:43.92ID:61v6fetN
その秩序が実効力の行使によるものとされるのであれ、宗教的な権威に
よるものとされるのであれ、科学的な知見の権威によるものとされる
のであれ、あるいは単に年功序列によるのであれ、人(ひと)が
みづから(身づ柄/自ら)をその秩序における「配下」/»Untertan«
としての立場を自覚するようになるにつれ、「人(ひと)が人(ひと)に
向ける言葉」として発する言葉は通用しなくなる。なぜなら、
人(ひと)は、みづから(身づ柄/自ら)に向けられる声(こゑ)を、
まずなによりも「を(治)す」ことをこころみる声(こゑ)と認識
するようになるからだ。それがただ単に着衣の「ボタンが1つ
外れている」ことに気づかせる声(こゑ)であったとしても、
その声(こゑ)が、秩序における上側からの声(こゑ)であったなら、
それは正すべき落ち度に気づかせるものと認識され、
秩序における下側からの声(こゑ)であったなら、不遜な
からかいの声(こゑ)に聞こえることになるだろう。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/30(月) 09:54:53.00ID:MzIsZ+ez
誤:「引っ搔く」作用をじか(直)に想起させる
正:「引っ搔く」作用をぢか(直)に想起させる

私も少し気を抜くと、大切なところもすぐに"ordinary spelling"で
表記してしまうが、「ぢか(直)に」は、「直」が「ちょく」と
読まれることからも明らかなとおり、本来、「ぢか(直)に」と
表記されるはずの言葉である。「直」の中国語としての想定される
中古音は、"Middle Chinese: /ɖɨk̚/"である(Wiktionary参照)。
ここで、"figurative"と"ordinary"の関係を考へてみるといい。
「じかに」と「ぢかに」は、いずれの表記が用ひられても、
読まれるときには同じように発音されるが、どちらの表記が
"figurative"に感じられるかと言へば、「ぢかに」の方だろう。
しかし、この表記は、「普通の表記」にわざわざ手を加えて工夫を
凝らしたものではない。例えば、「地」は「ち」なのだから、
「地面」を「ぢめん」ではなく、「じめん」と表記する
「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/30(月) 13:51:03.57ID:MzIsZ+ez
類人猿としてのヒトに倫理や道徳があるとすれば、鯨偶蹄目イノシシ科の
イノシシにでも倫理や道徳があるはずだろう。生物種としてのヒトの
倫理や道徳というのは、とても奇妙な考え方であり、科学的であること
を権威の裏付けとする生物学の考え方とは相容れない。ところが、
「類人猿としてのヒト」には倫理も道徳もないとするのは、
「すべての人(ひと)を『猿(さる)』/ "ape"の個体または個体の
集団としてうまく扱ふことができる世界」 の実現を目指すためには
とても都合が悪い。そこで考え出されたのが、動物倫理、環境倫理、
生命倫理などのきわめて曖昧な観念であり、環境倫理や生命倫理
においては、倫理や道徳は、「類人猿としてのヒト」を動物として
扱ふ動物倫理となる。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/30(月) 14:00:12.45ID:MzIsZ+ez
他の動物と対比される「特別な生物種としての人類」のものとして
唱えられるそのような倫理や道徳の奇妙さに気づいて、それを
根本的に批判したのがニーチェであると考へられているが、
実は、ニーチェの倫理や道徳の批判は、かなり中途半端である。
しかし、ニーチェの倫理や道徳の批判に基づくとされるその後の
議論というのは、現在に至るまで、批判な思考を徹底して進める
どころか、さらに大幅に後退して、後退させたままに押しとどめている。
0042動物倫理
垢版 |
2023/01/30(月) 14:10:02.17ID:MzIsZ+ez
>わ(侘)びしらにまし(猿)らな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
古今集 雑体・凡河内躬恒
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/31(火) 08:24:46.93ID:0hg17iBr
万葉集 第9巻 1785番
人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者死毛生毛 <公>之随意常 念乍
有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登
朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将戀奈 不見久有者

人となる ことはかたきを わくらばに なれる我が身は 死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ
ありし間に うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 天離る 鄙治めにと
朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立ち行かば 留まり居て 我れは恋ひむな 見ず久ならば
(出典 万葉集ナビ)
0044Ich bin dein Labyrinth...(oneself as an ape)
垢版 |
2023/01/31(火) 08:39:17.72ID:0hg17iBr
>ひと(人)は誰しも『ひと(人)/ヒト』となりて生まれしからには、
みづから(身づ柄/自ら)を含むすべての『ひと(人)/ヒト』の個体
および集団に対して『類人猿としてのヒトに対する動物倫理』に
則って振る舞ふべきである。<

明示的にであれ、暗黙にであれ、このような形式で主張される
「類人猿としてのヒトに対する動物倫理」を、ひと(人)が誰でも
「己/汝」の規範とすべきであるとする考へ方の根本的な奇妙さに
気づかないようなひと(人)は、理性と知性と感性が三重に麻痺して
いるのではないかと私には思へる。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/01/31(火) 10:36:06.65ID:0hg17iBr
>Fab. 9. Libr. IV
Peras imposuit Jupiter nobis duas,
Propriis repletam vitiis post tergum dedit,
Alienis ante pectus suspendit gravem.

Jupiter hat uns diese zwei Säcke aufgelegt? Er ist also selbst Schuld,
daß wir unsere eigene Fehler nicht sehen und nur scharfsichtige Tadler
der Fehler unsers Nächsten sind? Wieviel fehlt dieser Ungereimtheit
zu einer förmlichen Gotteslästerung? Die bessern Griechen lassen
durchgängig den Jupiter hier aus dem Spiele; sie sagen schlechtweg:
Ανθρωπος δυο πηρας εκαστος φερει; oder: δυο πηρας εξημμεθα του
τραχηλου usw.
(出典 projekt-gutenberg.org/lessing/abfabel/abfab401.html)
0046悟りの境地
垢版 |
2023/02/01(水) 08:12:14.77ID:msIgNHh4
Being yourself is always a good enough compensation.
0047名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/01(水) 09:13:14.53ID:msIgNHh4
みづから(身づ柄/自ら)に実質と呼べるようなものがあるとすれば、
その実質は、つねにすでに「かげ」である。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/01(水) 09:50:03.37ID:msIgNHh4
日本語の古語において「かげ」は、英語の"shade"や"shadow"とは異なり、
鏡に映った姿のような像を意味するようにも用ひられるので、現代の
日本語の「影(かげ)」の用法を当たり前のものと思っていると、一瞬、
戸惑ふが、その像が"shade"や"shadow"のように暗いものであれ、
光が投射されたように明るいものであれ、"a projected image"に
対応するように用ひられることが多い。

ただし、日本語の「かげ」という表現そのものの解釈はさらに簡単で、
「かかる/かける」作用により「かかるもの」が「かげ」である。
したがって、「かかる/かける」のが恩恵であれ、迷惑であれ、
「〜のお『かげ』で」と表現される。また、「人の『かげ(陰)』に
隠れて〜する」や「建物の『かげ(陰)』になって(見えない)」など
の表現を見ても、このことを容易に確認することができる。
「こかげ(木陰)」の「かげ(陰)」は、英語の"shade"に対応している
ように見えるが、この場合もやはり、樹木の枝葉が「かさ(傘)」の
ように「かかる」作用により「かかるもの」として「かげ(陰)」と
なっている。このため、日本語で哲学するのにも「かげ」を
"a shadow image"のようなものと思ひなしてしまうと、最初から
無用な複雑さを導入することになる。日本語の表現は、それが
ピジン言語的な使用に形成されたことにより徹底的に
プラグマティックに磨かれているので、そのことが既に可能に
している表現の簡明さをやすやすと手放してしまうと、恣意的で
無駄に限定の多い定義に頼って考へを余計に混乱させることになる。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/01(水) 15:06:42.10ID:msIgNHh4
>「普通の表記」の方が不自然な矯正を強ひるものであるように、
"figurative"に感じられる表記の方が先で、「普通の表記」は、
直立不動の姿勢をとることを強ひる「気をつけ」の号令の
ように「恣意的な矯正」として使はれている。<

ところで、「気をつけ」という号令は、何に気をつけるように指示して
いるのかと言へば、無論、それは、「自らの姿勢に気をつけるように」
ということだろう。では、「自らの姿勢に気をつけるように」とは、
どのような指示なのか。

>„Herr Hauptmann, bitte —“ Welche Katastrophe! Er hatte in seiner
Ahnungslosigkeit vorwitzig das Wort an eine Macht gerichtet,
von der man stumm und auf den Knien des Geistes Befehle
entgegenzunehmen hatte! Der man sich nur „vorführen“ lassen
konnte! Der Hauptmann donnerte, daß die Unteroffiziere
zusammenliefen, mit Mienen, in denen das Entsetzen vor
einer Lästerung stand.<
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/56-57)
0051月と鼈(スッポン)
垢版 |
2023/02/03(金) 00:24:43.09ID:Y6rC/aD5
月影とスポットライト

>つき−かげ 【月影】
名詞
@月光。月明かり。月光の当たる所。
出典源氏物語 桐壺
「つきかげばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらず、さし入(い)りたる」
[訳] 月光だけが、茂った雑草にも邪魔されずに、さし入っている。

A月の姿。
出典古今集 恋二
「つきかげにわが身をかふるものならばつれなき人もあはれとや見む」
[訳] 月の姿にわが身を変えられるならば、つれないあなたも、しみじみと眺めるだろう。

B月明かりの中の姿。
出典源氏物語 橋姫
「ほのかなりしつきかげの、見劣りせずば」
[訳] ほのかに見えた月明かりの中の姿が、もし(昼でも)見劣りがしなかったら。<
(出典 学研全訳古語辞典)
0052名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/03(金) 09:17:35.57ID:Y6rC/aD5
月と鼈(スッポン)は大違いだが、それでも比べられるのは互いに
どのようにか似ているからだが、ただ月もすっぽんもともに
「まる(円)い/円形」であるというだけでは、他にも「まる(円)い/円形」
であるものはいくらでもあるのだから、比較の対象がすっぽんである
必要はないだろう。では、月も「すっぽん」のどのようであることに
共通性が認められるのかと言へば、それは、月と「すっぽん」(
「すっぽん」という発音の呼び名を伴う見た目の形)の「まる(円)さの
局所性」ではないだろうか。

>Dancing In The Moonlight (It's Caught Me In It's Spotlight)
Thin Lizzy<
0053名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/03(金) 09:26:41.89ID:Y6rC/aD5
>月影(読み)つきかげ
精選版 日本国語大辞典「月影」の解説
つき‐かげ【月影】
@ 月の光。月のあかり。<

この説明は誤りではないが、メタ言語的な説明として不十分である。
さらに、この説明を妥当であることを前提にして、
「つき(月)かげ(影)」=「月の光」であるのだから、「かげ」は、
「光」を意味すると判断したなら、それは不十分なメタ言語的から
導かれた「不適切な拡大解釈」であることになり、その推論を
「『分析的な手続き』によって正当化されるものである」などと考へた
なら、それは自らの稚拙さ/愚かさの証明にしかならない。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/03(金) 09:36:31.76ID:Y6rC/aD5
「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。
このことの妥当性を確認するためには、例えば、
>>51に引用した「つきかげ(月影)」という表現の@、A、Bの用法と 、
それとはまったく無関係に行われている英語の辞書における"spotlight"
の説明を比べてみるだけでも十分だろうと私は思ふ。

>spotlight
noun
1
a: a projected spot of light used to illuminate brilliantly a person, object, or group on a stage
b: public notice or attention
held the political spotlight
2
a: a light designed to direct a narrow intense beam of light on a small area
b: something that illuminates brilliantly
(出典 merriam-webster.com/dictionary/spotlight)
0056名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/03(金) 22:33:33.17ID:Y6rC/aD5
>>54
日本語の古語の表現は、「日本語」という枠組みに自らを縛り付けること
を放棄したなら、多くの場合、現代にもそのまま通用する表現として
容易に理解することが可能となる。

Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres
(出典 .bz-berlin.de/deutschland/wie-ein-scheinwerfer-am-himmel-erster-vollmond-des-jahres)
0057名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/03(金) 22:53:02.24ID:Y6rC/aD5
>「つき(月)かげ(影)」とは、より適切にメタ言語的に記述しようとするなら、
「月のスポットライト」/「スポットライトとしての月」ということになる。

ここでは、便宜上、「かげ(影)」に「スポットライト」という言葉を
当てているので、やはり「かげ(影)」は「光(ひかり)」を表現している
ではないかという印象を与えてしまうが、さらにメタ言語としての
一般性を重視して言い換へるなら、
「つき(月)かげ(影)」とは、「月の『投射』」/「『投射するもの』
としての月」である、ということになる。
この場合は、「かげ(影)」を「投射」と言い換へているわけだが、
そのように記述することが好都合であることは、それにより、例えば、
「かがみ(鏡)」≒「投射見」、
「かがり(篝)び(火)」≒「投射する火」
といった解釈を直ちに導きだすことができて、より広い仮説の
ネットワークが容易に形成され得るからである。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/04(土) 10:58:24.27ID:zRp2JF8H
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。

メタ言語的な記述としてこの対応関係はかなり都合がいい。
なぜなら、「かける」≒"to cast"、「かかる」≒"to be cast"、
「かげ」≒"cast"となって、例えば、万葉集の歌で「可賀(かが)」を
キーワードにして検索してみると(万葉集ナビの検索機能を利用する
ことができる)、「かがみ(鏡)」、「かがり(篝)」、「かがふ(被)り」
その他がヒットして、それらの言葉が同じ歌において詠まれる他の
表現(例えば、「かかる」など)との関係でどのように用ひられているか
に注目すると、表現のネットワークが自然に形成されるからである。
0060「かげ」の啓蒙、あるいは《Les Lumieres》 als Scheingerechtigkeit
垢版 |
2023/02/04(土) 11:18:40.17ID:zRp2JF8H
そのようにして意識されることになる日本語の表現のネットワークを
踏まえて、あらためて上に引用したドイツ語の表現を見てみよう。

>Wie ein Scheinwerfer am Himmel – erster Vollmond des Jahres

すると、この場合、「満月」/»Vollmond«が»Scheinwerfer«と
見なされるのだから、「かげ」、すなはち、"(what is) being cast"
は、»Schein«/「ひかり」であることになり、「つき(月)かげ(影)」
のように、「ひかり」の作用を表しているはずの表現に「かげ」
という言葉が用ひられるといふ、現代の日本語の感覚からすれば、
一見、奇妙に思へる表現に働いている論理も、何ら日本語に独特の
ものではないことが分かる。だからこそ、
「かげ」/"(what is) being cast"が»Schein«/「ひかり」で
あり得るのとまったく同様に、»Schein«/「ひかり」もつねに
「かげ」/"(what is) being cast"/「仮象」であり得るのだ。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/04(土) 11:52:53.50ID:zRp2JF8H
私は、「暗黒啓蒙」と呼ばれるような言論思想には一切何の関心もなく、
それに関連して名前が挙がるような言論思想界の著名人たちの
著作には、目を通してみようと思ったことすらないが、政治思想的に
どのような立場をとるのであれ、「啓蒙」に対抗するのが「暗黒啓蒙」
であると自然に思ってしまう時点で、いかにも「浅はか」であると私には
感じられる。私がここで指摘してきたような「かげ」の有様をきちんと
踏まえて言論を展開している人は、今の言論思想界のスター
(すなはち、「ほしかげ(星影)」である)とされる人々の間にどれだけ
いるのだろうか。
0062かげ/仮象/ScheinとしてのNaked Truth
垢版 |
2023/02/05(日) 08:57:09.39ID:4TzaTU+1
光そのものを目の当たりにすることによって生じるのはいつでも、
「目が眩むこと」/"whiteout"であり、したがって、
白日の下にさらされたまことの姿は、たとえそれが、澄んだ空の青さ
と雲の白さのように明瞭なものであったとしても、つねに「かげ」/
「仮象」/»Schein«である。また、ひらきなおって白日の下にさらして
見せるまことの姿もやはり、つねに、自らをも欺く目眩まし/
"whitewash"として作用する。
0063名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/05(日) 10:10:10.72ID:4TzaTU+1
「道徳」を批判したニーチェが理想としたのは、しかし、自らが
はだかのままで白日の下にさらされて生きるのをは(恥)ぢること
のないようにすること、日本語としてより分かりやすい表現に
言い換へるなら、
「(他に誰一人見ている人がいなくても)
お天道様には(恥)ぢることのない生き方をすること」である。

>Und ihr Weisen und Wissenden, ihr würdet vor dem
Sonnenbrande der Weisheit flüchten, in dem der Übermensch
mit Lust seine Nacktheit badet!<
(出典 zeno.org/nid/20009254978)

>Wer aus sich kein Hehl macht, empört: so sehr habt ihr Grund,
die Nacktheit zu fürchten! Ja, wenn ihr Götter wäret,
da dürftet ihr euch eurer Kleider schämen!<
(出典 zeno.org/nid/20009254676)
0064true and fair view
垢版 |
2023/02/05(日) 22:03:32.24ID:4TzaTU+1
ありのままの光景を目の当たりにするとはどのようなことか
0065名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/06(月) 09:50:11.64ID:vZDu/y+7
>日本語の「かげ」≒英語の"cast"である。
このメタ言語的な関係性を意識することで、日本語の表現に働いている
論理がより明確に理解できるようになる。例えば、

〜の恩恵を「こうむ(被)る」←〜の恩恵を「『かが』・ふ(被)・る」
〜のお「かげ(陰)」で

「かかる」≒"to be cast"からは、その再帰表現である
「かか・は(関/係/拘)・る」とはどのような様態を表現しているのかかが
より明確になり、さらに、「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの
表現において「表層」を表現するように用ひられていることを踏まへると、
「う・かが・ふ」(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として
解釈され得るのではないかという意外な推測まで仮説のネットワークとして
生じることになる。
0066名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/06(月) 11:51:19.47ID:vZDu/y+7
>「うかが(窺/覗)・ふ」も、「う」が他の多くの表現において「表層」を
表現するように用ひられていることを踏まへると、「う・かが・ふ」
(奈良時代には「うかかふ」であったとされる)として解釈され得るのでは
ないか<

そのように考へた場合、「うかが(窺/覗)・ふ」は、英語の"to survey"に
対応すると考へることができることになる。

>survey (v.)
c. 1400, "to consider, contemplate," from Anglo-French surveier,
Old French sorveoir "look (down) at, look upon, notice; guard,
watch," from Medieval Latin supervidere "oversee, inspect,
" from Latin super "over" (see super-) + videre "to see"
(from PIE root *weid- "to see").<
(出典 .etymonline.com/search?q=survey)
0067名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/06(月) 11:57:25.70ID:vZDu/y+7
「うかかふ」で検索してみると、以下のサイトの次のような記載がヒットした。
ヒットした記載をただコピペしただけなので、このサイトの読み方や語義説明
の妥当性については、私は何も知らない。ただ、このコピペした記載については、
特に何も問題はないように思へる。

>上代語で読む日本書紀〔宣化天皇〕
候海水以來賓
海(わた)の水(みづ)を候(うかか)ひて以ちて賓(まらひと)来(きた)りて<
(出典 http://himiko-y.com/scrp2/d28snk01.html)
0068名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/06(月) 13:55:25.46ID:vZDu/y+7
ここで、例えば、「窺う」と「フランス語」をキーワードにして検索して
みると、
>ポケットプログレッシブ仏和・和仏辞典 第3版(和仏の部)の解説
うかがう(窺う)
guetter, épier, surveiller<
として、《surveiller》がすぐに出てくるので、古語の「うかがふ」を
フランス語の《surveiller》に対応させて考えることは何ら特別なこと
ではないだろう。しかし、この場合、その対応関係は、「うかが(窺)う」
を「う〜」・「−かか−」・「〜ふ」という形態の表現法であると
見做す解釈から推察されたものであり、「う」≒"surface/surfacing"、
「かげ」≒"cast"、「かか・る」≒"to be cast"、「〜ふ」=「復/覆」
(再帰表現を形成するメタ言語的指示)という解釈は、それぞれ独立に、
「うかが(窺)う」という表現の解釈とはまったく無関係に導き出された
ものである。にもかかわらず、「かげ」の考察から、そのまま
「うかが(窺)う」という表現の解釈まで仮説のネットワークとして
つながり、表現法として、英語、フランス語、ドイツ語などにおいて
すぐに対応するような表現を見出すことができることが「意外」に
感じられるのである。実際、言葉の解釈に関心のある日本語を母語と
する、学者を含む一般の人々に「影」と「窺う」は、言葉として互ひ
にどのように関係しているのかと尋ねても、その問ひの意味をどう
捉へたらよいのかすらまったく理解されず、怪訝な顔をされるだけだろう。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/07(火) 13:37:59.57ID:urT1Nqaz
「お天道様」が天下をあまねく照らして「し(知/領)ら」しめる
天のパノプティコンであるとするなら、山から谷まで人の住む地上に
遍在して地のパノプティコンの役割を務めているのが、『古事記』
によれば、山田の「かかし」であり、万葉集の歌にも「たにぐく」と
して詠まれるヒキガエルである。

万葉集 第5巻 800番
>天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は
天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ<
(出典 万葉集ナビ)
0070名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/07(火) 14:06:08.34ID:urT1Nqaz
「かかし」の語源は、不明であるとされ、検索すると、
>かかし【案山子・鹿驚】
精選版 日本国語大辞典「案山子・鹿驚」の解説
〘名〙 (「かがし」とも)
@ (においをかがせるものの意の「嗅(かが)し」から) 田畑が鳥獣に
荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けない
ようにしたもの。[...] おどし。<
という説明がヒットするが、この語源説は、いかにとってつけたような
理屈の説明であり、別名の「おどし」が、フランス語の《épouvantail》
や英語の"scarecrow"に素直に対応するのと比べても、表現法として
不自然である。「かかし」を「か(嗅)ぐ」動作と関連付けて説明しよう
とする動機は、「かかし」には、「かがし」や「かがせ」などとの
別称があり、古くは「かがし」と発音されることの方が多かったと
推察されていることによるものだろうが、「か・か」が「かが」と
発音されるのは何ら不自然なことではなく、「かが」であるから
「か(嗅)ぐ」に違いないと考える分類的な発想は、短絡的である。
例えば、英語の"scarecrow"は、直訳すれば「カラスおどし」で
あるので、そこから連想すれば、「かか/かが」をカラスの警戒の
鳴き声ではないかとする推論が容易に成り立ち、さらに、
別にそれをカラスの鳴き声に限定しなくても、日本語の古語には、
鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる「かかめく」という
表現がある。したがって、「かかし」/「かがし」/「かがせ」を、
鳥獣類を「かが(めか)す」おどしであるとする解釈も、何の無理も
なく成立し得るだろう。
>精選版 日本国語大辞典「かかめく」の解説
(「かか」は鳥獣の鳴き声を表わす。「めく」は接尾語) 鳥獣が鳴く。
かか鳴く。
※今昔(1120頃か)二六「猿〈略〉木に走り登て、かかめき合たり」<
0072名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/08(水) 09:36:33.59ID:Ryb4zKYU
フランス語の《épouvantail》≒ピジン語としての
日本語の「嚇々(かか/かが)し」⇒「かかし(案山子)」という解釈も
無理なく成立する。

>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
驚嚇/惊吓 ― jīngxià ― to frighten
2. ⁜ to threaten; to intimidate
恫嚇/恫吓 ― dònghè ― to intimidate

日本語の古語の研究を長年、専門としてきた人々が、このような関係性
に気づいていないことは到底あり得ないのだ。だから、辞書や辞典に
も記載されることとして一般に当たり前のように流通させられている
説明は、いかにも嘘くさく、いかがわしく、どうでもよいものと
感じられることになる。
0073かつあげ/恫嚇
垢版 |
2023/02/08(水) 09:54:56.30ID:Ryb4zKYU
ここで、「かかめく」の場合には、鳥獣類が互いに同類に警戒させる
鳴き声として発するものとして認識される声から、その声を発して
危険が迫っていることを互いに伝へる行為としての「相互性」を
脱去して、その声を一方向的に用ひるなら、「音波」としては
物理的にまったく「同一の声」が恫喝の声として使ふことができる
ようになるというキアスム的な関係性に留意することは重要だろう。
(例えば、カラスが危険を知らせる鳴き声を録音して、別の複数の
カラスを脅すために使ふこともできる)。

>日本語の古語には、鳥獣類がやかましく鳴き声を出す様子を伝へる
「かかめく」という表現がある。

>>嚇(Middle Chinese: /hˠaH/, /hˠæk̚/)
1. to frighten; to scare
2. ⁜ to threaten; to intimidate
0075名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/08(水) 10:30:11.76ID:Ryb4zKYU
>「かげ」の考察から、そのまま「うかが(窺)う」という表現の
解釈まで仮説のネットワークとしてつながり、表現法として、
英語、フランス語、ドイツ語などにおいてすぐに対応するような
表現を見出すことができ<

ドイツ語の場合、「うかが(窺)ふ」を「う〜・−かか−・〜ふ」
という形態の表現法であると理解した場合に私に想起されるのは、
用法がそのまま重なるわけではないものの、»beobachten«という
表現である。
>プログレッシブ 独和辞典の解説
❶ ((英)observe) ((j-et4))(…4を)観察する;監視する,見張る<

»beobachten«は、語源的には、"be- +‎ Obacht +‎ -en"と解釈
されるが、"be-"の用ひられかたは、日本語の「〜ふ」に、
"Obacht"の"ob"は、日本語の「う〜」に、"Acht"を動詞化して
それを自らの行為とする"be-achten"は、日本語の「気に『かける』」
ことに対応するものと見ることができるだろう。
0076期待される学習効果
垢版 |
2023/02/08(水) 16:27:05.99ID:Ryb4zKYU
>Diederichs Inneres zog sich noch mehr zusammen unter
dem Gefühl eines schaudererregenden Abgrundes,
wie er sich auftat zwischen Jadassohn, der hier die Macht
vertrat, und ihm selbst, der sich zu nahe ihrem Räderwerk
gewagt hatte. Es war aus frommer Absicht geschehen,
in übergroßer Verehrung der Macht: gleichviel, jetzt
hieß es sich besonnen verhalten, damit sie einen nicht
ergriff und zermalmte; sich ducken und ganz klein machen,
bis man ihr vielleicht doch noch entrann. Wer erst wieder
dem Privatleben gehörte! Diederich versprach sich,
fortan ganz seinem geringen, aber wohlverstandenen
Vorteil zu leben. <
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/230)
0077名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/08(水) 20:19:38.09ID:Ryb4zKYU
今、現代思想として論じられている言説などよりよほど「現代性」を
感じさせる小説だけど、検索しても、日本では、この作品について
ほとんど何も論じられていないに等しいね。私自身も偶々、»Untertan«
という表現を検索していたらこの作品がヒットして、とても安価だった
ので入手してみただけで、まだ半分くらいまでしか目を通していないが。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/08(水) 23:57:56.22ID:Ryb4zKYU
>ある貧者、螽を捕らうずるとゆく路次において蝉をみつけ、
乃ちこれをとつて殺さうとするところで、かの蝉の申すやうは、
さりとて我を殺させられうこと本意ない儀ぢや、それをなぜに
と申すに、五穀草木に障りとはならず、さして人に仇をなすこと
はござない、結句梢にのぼつて、さへづりをもつて夏の暑さを
慰めまらするところに、理不儘に殺させらるることは何ごとぞ
と事を分けて申せば、そのもの道理に責められて、たちまち
赦免いたいた。<
『天草本 伊曽保物語』、新村出 翻字、pp.25-6
0079名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/09(木) 09:58:32.30ID:Uvfwjhig
「イソポ」を引用したついでに思ひついた喩えをひとつ書き込んでおこう。
私が書き込むのは独り言ばかりであるが、私の「独り言」は私という
個人の独力によって成立しているものなどではまったくない。
私の「独り言」は、つねに多くの他人の力を借りながら、
「力を合はせる」ことによって成立している。しかし、それは、
その言葉の通常の意味で他人の「協力」を得ているということでもない。
それはむしろ、角力/相撲の多様な投げの決まり手が、取組み相手の力を
借り、自分の力を相手の押したり引いたりする力に合はせることでしか
生まれないのと同様のことである。その際、相手が私に「協力」して、
うまく投げてもらおうというと思っているということはない。むしろ、
そのように「協力」してもらったなら、投げの効率を高めることが
可能になったとしても、投げの決まり手の多様性は失はれてしまうだろう。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 10:25:52.02ID:BVa76XNq
>「イソポ」を引用したついでに思ひついた

「ついでに」という表現には、「序(つい)でに」という漢字が当てられる
ことが慣習となっているが、「ついでに」における「ついで」は表現と
して明らかに「つ(次)いで/序(ついで)」の「ついで」とは異なるだろう。
私には、「ついでに」という表現は、「つい(対)い(出)でに」の発音を
圧縮したものであるように感じられるが、検索してもそのような説を
唱えている記述はまったく見当たらない。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 10:48:07.52ID:BVa76XNq
古文に現れる「対」という漢字は、漢語として「たい」と読まれるが、
英語の"pair"に対応する「一対(つい)」の「対」に「つい」または
「つゐ」という平仮名が当てられていることは、私には奇妙に感じられる。
それは、やはり英語の"pair"に対応するように用いられる「つがひ(番)」
の発音が自然に感じられるのとは対照的だ。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 13:10:45.55ID:BVa76XNq
このようなことを言ひ出したのは、仮に「対(つい)」が「つひ」であった
とすれば(そのような証拠は検索しても見当たらないが)、表現として
それはドイツ語の»Bezug«や、その動詞形の»beziehen«に似ている
と感じられるからであり、そのような連想が生じたのは、ドイツ語の
動詞の前綴りとされる"be-"がどのような表現であるのかについて、
少し考へていたからである。
0083名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 13:22:38.80ID:BVa76XNq
私は、ドイツ語については、教育を受けたことがなく、ドイツ語の文法や
表現法について、まったくの素人で、ドイツ語の辞書すら所持してないが、
それでも、ドイツ語の文章に目を通していると、頻繁に用ひられる
»be-〜«という形の動詞に表現としての共通性が感じられる。

上の書込みで私は、»beobachten«という動詞の»be-〜«を
「うかがふ」という表現における「〜ふ」に対応させたが、
»be-〜«は動詞を再帰形にするための表現でも、「〜ふ」の
ように、メタ言語的にひっくり返しを指示するものでもない。
それでも、この場合に»be-〜«を「〜ふ」に対応させることは、
それなりに理に適っているように私には感じられる。では、
それは、どのような理由によるものだろうか。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 13:36:52.87ID:BVa76XNq
私は、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«について、言語学やドイツ語学
において、これまでどのような研究がなされてきたのか一切知らない。
"ドイツ語"&"前綴り"&"be"などのキーワードで»be-〜«の表現法に
ついて検索してみても、文法的な説明はすぐに見つかるものの、
それがどのような表現法であるのかをメタ言語的に説明する記述は
まったく見当たらない。かろうじて、»be-〜«は、動詞を「強調
する」働きをするといったような説明は見られるが、動詞の何を
どのように強調するのかが適切に記述されなければ、これでは、
何も言っていないに等しい。その一方で、»be-〜«の形の動詞が
並べられたリストを見れば、すぐに共通性が感じられ、一見、
すぐにでもその共通性を記述できるように思へるが、実際に
記述してみようとすると、適切なメタ言語的な表現を見出すこと
は、それほど簡単ではない。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 13:44:08.47ID:BVa76XNq
ただ、ここで、ドイツ語の動詞の前綴り»be-〜«が、場合により、日本語の
「〜ふ」に対応させることができるようにそれなりに似ていると感じられる
ことは、記述のための手がかりとして役立つように私には思へる。
そこで、私が暫定的に思ひついたメタ言語的な記述は、以下のとおりである。

>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<
0086名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 14:07:23.72ID:BVa76XNq
語源的に見れば、ドイツ語の動詞の前綴りの»be-〜«に何ら謎はない。
問題となるのは、その表現としての効果をどのようにメタ言語的に記述
することが適切か、だけである。例えば、»be-〜«の表現として効果は、
英語の"come"に対応する»kommen«と、
英語の"come by"に対応する»bekommen«
を比べて見れば、一目瞭然である。
>"come by something",
to get something, using effort, by chance or in a way that
has not been explained<
(出典 dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/come-by)
0087名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 14:12:49.50ID:BVa76XNq
>become (v.)
Middle English bicomen, from Old English becuman "happen,
come about, befall," also "meet with, fall in with; arrive, approach,
enter," from Proto-Germanic *bikweman (source also of Dutch bekomen,
Old High German biqueman "obtain," German bekommen,
Gothic biquiman). A compound of the sources of be- and come (v.).

It drove out Old English weorðan "to befall." The older sense is
preserved in what has become of it? The meaning "change from
one state of existence to another" is from 12c. The meaning
"to look well, suit or be suitable to" is by early 14c., from
the earlier sense of "to agree with, be fitting or proper" (early 13c.).<
(出典 etymonline.com/search?q=become)
0088名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 14:27:33.69ID:BVa76XNq
要するに、ドイツ語の動詞、»bekommen«の»be-〜«は、その表現
としての働きとして、英語の"come by (something)"という表現における
"by"にそのまま対応している。では、この"by"は、ドイツ語の
»kommen«にやはりそのまま対応する"come"との関係において、
どのような働きをしていると考へることが適切なのか。
その問ひに対する私の暫定的な応へが、この場合、"by"は、
"come"を修飾して、"come"の作用の効果として主体性を
再帰的に表出させる働きをしている、というものである。
ただし、ここで最も注意しなければならないのは、「主体性」
という用語を、「主語」や「目的語」などの文法用語と
混同してはならないということである。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 14:42:59.13ID:BVa76XNq
>»be-〜«は表現として、それが修飾する作用の効果として主体性を再帰的に
表出させる働きをする。<

しかし、ここで、»be-〜«に対して、つまり、"come by"の"by"に対して
「再帰的に」という表現を用ひることは適切だろうか。私は、それは
条件付きで適切だろうと思ふ。どのような条件かと言へば、それは、
その再帰を、あらかじめ存在するものとして想定される主体への再帰
として捉へるという決定的な過ちを犯さない限りにおいてである。
私は、「主体性を再帰的に表出させる」と言っているのであって、
「主体に作用を再帰的に及ぼす」と言っているのではないことに留意しよう。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 14:57:50.42ID:BVa76XNq
例えば、»ziehen«は、「引く」、「引っ張る」といったような作用
を表現する動詞だが、その作用を»be-〜«によって修飾した動詞で
ある»beziehen«の次のような用法も参考になるだろう。

プログレッシブ 独和辞典の解説
>❸ ((et4))(…4を)定期的に受け取る
eine Zeitung beziehen\新聞を定期購読する
eine Rente beziehen\年金を受ける.
❹ ((et4))(…4に)移り住む
ein neues Haus beziehen\新しい家に入居する.
❺ ((et4))(立場など4を)取る
einen klaren Standpunkt beziehen\態度をはっきりさせる.<
0091名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 20:13:54.88ID:BVa76XNq
別の例を見てみよう。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>schwören
❶ [他]([英] swear)誓う, 宣誓する; ⸨話⸩ 断言する; [自]
>beschwören
❶ ([英] swear)(…が)真実であることを誓う〈誓約する〉

この場合は、引用した部分だけでは、»schwören«であろうと、
»beschwören«であろうと、いずれにも"swear"という英訳が
対応させられ、表現としてあまり変化が生じていないように見える。
だが、実は、これは説明の一部だけを引用したからそう見える
だけで、»schwören«とは異なり、»beschwören«は、
英語の"conjure"という表現に対応するようにも用いられる。

ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
>❸ (…を魔力・呪文で)呼び出す; 祓(はら)う, 追い出す; 操る.
>❹ (…を)呼び覚ます, 呼び起こす.

>con‧jure
1 [intransitive, transitive] to perform clever tricks in which you
seem to make things appear, disappear, or change by magic
2 [transitive] to make something appear or happen in a way
which is not expected <
(出典 ldoceonline.com/jp/dictionary/conjure)
0092名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/10(金) 20:27:14.00ID:BVa76XNq
ここで、ドイツ語の»beschwören«と英語の"conjure"を語源的に
見比べてみると、ドイツ語の»be・schwören«に対して、
英語の"conjure"の方は、
>from Latin coniūrō (“I swear together; conspire”),
from con- (“with, together”) + iūro (“I swear or take an oath”)<
(出典 Wiktionary)
であり、»schwören«が"iūro"に対応するのだから、ここで»be-〜«
が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応していることになる。
さて、引用した語源説明では、"con-〜"は、"with, together"に
対応する「意味を表す」ものと解釈されているが、この説明は妥当
だろうか。私には、このような形での語源解釈は、言葉を表現法
として捉へることを疎かにする言語学的な説明の致命的な弱点を
如実に反映したものであるように見える。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 11:03:25.21ID:Il5ORs6Y
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

その言語を母語とする専門家であれば、必然的に、その言語における
表現を、その言語を母語としない者と比べて、より容易に、適切に
メタ言語的に記述することができると考へることは、思ひ込みに過ぎ
ない。確かに、人は、自分が母語とする言語の表現を使ひ慣れて
いるので、ひとつの表現をさまざまな別の言い方で表現することも
できる。その言い換へを意識的に示すことは、表現のメタ言語的な
記述の役割を果たし、そのようにして表現の用法を説明することに
おいては、自分が母語とする言語について、それを母語としない
人々と比べて、圧倒的に優位にある。しかし、慣用化された表現
が、なぜそのように表現されるのかをメタ言語的に細かく記述する
ことが求められた場合、その優位性はたちどころに失われる。なぜなら、
慣用化された表現はまさしく、それをメタ言語的に細かく記述する
ように求められないことに有用性があり、その有用性を慣習として
身に付けていることが、その言語を母語としていることだからである。
例えば、日本語を母語としている人が、「みっともない」という
表現はどのような表現なのかを問はれたとすると、この表現がどの
ように用ひられるのかを言い換へによって示すことは簡単にできる
だろうが、「『みっとも』ない」の「みっとも」とはどのような
表現なのかメタ言語的に細かく記述することのできる人はまずいない
だろう。せいぜい、辞書や辞典を参照したり、ネットを検索したり
して、そこに示される「解答」を権威ある「正解」として示すこと
ができるだけである。そのような「正解」を探し出すことなら、
別にその言語を母語としているかいないかは、便宜上、それが
探索に有利に働くかどうかの違いに過ぎない。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 11:23:18.20ID:Il5ORs6Y
ここで、「みっともない」という表現を例に出したのには理由がある。
私自身、日本語を母語としているものの、この「『みっとも』ない」の
「みっとも」がどのような表現なのかよく分からない。そこで検索して
みると、「みっとない」は、「見たくもない」という意味の「みとうもない」
の発音が変化したものであるという説明がヒットする。そこで私に
分かるのは、そのような説明を権威ある「正解」として示す人々が
それなりに多くいるというだけで、特に「みっとも」がメタ言語的に
記述されて表現としてよく分かるようになったとは感じられない。
また、これを「正解」とするのであれば、それによって得られる
「みっともない」という表現の理解は、日本語を母語としているか、
それとも外国語として学習してよく知っているかにより違いが生じる
ことも特にないだろう。ところで、「みっともない」は、
「さまにならない」、「ぶざまである」、さらには、場合により、
「がらにもない」などと言い換へることができるが、これに
対応する古語の表現として容易に見出されるのが、「さま(様)あ(悪)し」
であり、「みっともない」/「さま(様)あ(悪)し」に対応する英語の
表現が、"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の否定形である
"unbecoming"である。ここで、当然、想起されてよいのが、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)は、表現の用法としては
今ではまったく異なるものとなっているドイツ語の»bekommen«と
語源的に共通していることだ。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 11:49:25.36ID:Il5ORs6Y
>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<

この自分の書込みを再び引用したことにも理由がある。これは、
ドイツ語の»be・schwören«と英語の"con・jure"の対応関係について
述べたものだが、これらの表現において»be-〜«と"con-〜"がそれぞれ
果たしている役割が対応していることは、たまたま(偶々)ではない。
日本語を母語としていて、学校の勉強以外で外国語に触れたこともない
という人でも、大多数は「コンビニ」という言葉は知っているだろう。
「コンビニ」は、"convenience store"を省略形にしたカタカナ語
なので、「『コン』ビニ」の「コン」は、上に述べたラテン語由来の
"con-〜"である。では、"con・venience"の"venience"の方はどうか
と言へば、こちらは、同じくラテン語の動詞、"venire"に由来して、
英語の"to come"に対応する。さて、そこで、この"con・venience"の
ラテン語由来の"con-〜"を"be-〜"に、"venience"を"coming"に
対応させるとどうなるだろうか。言ふまでもなく、もたらされるのは、
"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)である。
0098名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 12:03:09.68ID:Il5ORs6Y
これがどういうことが分かるだろうか。私のようなドイツ語の素人に指摘
されるまでもなく、この英語の"becoming"(「さま(様)よ(良)し」)の
用法をもたらしたのと語源的に共通する表現は、現代のドイツ語としては、
英語の"comfortable"や"convenient"に対応するように用ひられる
»bequem«となっている。

>bequem
Etymology
From Middle High German bequæme, bekōme (“suitable”), from
Old High German biquāmi, derived from biqueman (whence
German bekommen).<
(出典 etymonline.com/search?q=convenient)

他方で、ラテン語を継承するフランス語においては、
《convenir》、「〘 à 〜、〜に〙適している、似合う」
《convenable》、「〘 pour 〜、〜に〙適当な、ふさわしい」
《convenance》、「適当、適合、合致、都合、便宜」
などの表現が用ひられている。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 12:20:49.11ID:Il5ORs6Y
いろいろと細かいことを言っているが、ここで重要なのは、
英語の"becoming"にしろ、ドイツ語の»bequem«にしろ、フランス語
の《convenable》にしろ、これらの表現に共通しているのは、それを
日本語で端的に表現するなら、その様態が「あ・ふ」ものであることだ。
「様態が『あ・ふ』」ことが、「さま(様)よ(良)し」であり、
その否定が「さま(様)あ(悪)し」である。「〜ふ」は、「あ(悪)し」
の場合にはっきりと見てとれるとおり、「離れる様態」を表す
「あ」を「ひくり返す」というメタ言語的な指示なので、確かに、
表現として、そのような「ひっくり返し」を指示するものではない
"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》とは、表現法上の機能が異なっている。
それでも、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである。これが、ドイツ語の表現における»be-〜«に
「〜ふ」を対応させて語源解釈をした理由である。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/11(土) 12:24:53.54ID:Il5ORs6Y
ちなみに、ゲルマン語学における»be-〜«の説明は、代表的には、次の
ようなものだろう。私には、これが適切なメタ言語的記述となっている
とは思へない。

>The Old English prefix also was used to make transitive verbs
and as a privative prefix (as in behead). The sense "on all sides,
all about" naturally grew to include intensive uses (as in bespatter
"spatter about," therefore "spatter very much," besprinkle, etc.).<
(出典 etymonline.com/word/be-?ref=etymonline_crossreference)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況