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詩文学
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/08/31(火) 18:15:47.81ID:Vq290yAX
アーケード
0952名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/06(火) 10:48:59.34ID:0Jug9dwu
ひと(人/一)は一般に、みづから(身づ柄/自ら)に身分が無い状態、
みづから(身づ柄/自ら)の身分が失はれた状態を脱したいと願い、
みづから(身づ柄/自ら)の身分が失はれることを恐れ、少なくとも
それが現状のまま維持されること、また、できるなら、より
有利な身分を確保することを望んでいるのであって、
すべての人々に関して、ましてや人類とその他の生き物に関して、
「身分的な差別が全面的に解消されること」などまったく望んでいない。

それをあたかも、ひと(人/一)が一般に、「身分的な差別が全面的に
解消されること」を願っている錯誤させようとする思想の言説は、
意図的な誤った誘導であり、その行為そのものが、他者を誤誘導
できる優位な立場をみづから(身づ柄/自ら)の身分を確保しようと
する意志の表れである。
0953名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/06(火) 16:10:51.45ID:0Jug9dwu
>自然は人間にたいして公正である。自然は人間の労苦にむくいる。
それは、より大なる労働にはより大いなる報酬を結びつけているから、
人間を勤勉にする。だが、もし恣意的な権力が自然の報酬をとり去る
ならば、人々はふたたび労働をいやがり、無活動が唯一の善と思われる
ようになる。<
モンテスキュー、『法の精神』、p.161

この認識は、近年、よく話題になっている「人工知能」と労働の関係
について考えるうえでも重要だろう。データとして大量に取り込まれる
情報の何らかのプログラミング的な処理が、「人工知能」と呼ばれる
としても、それは、そのような仕組みが人の代わりに、現状の問題
を解決するのに何か役に立つことに気づいて、何らかの解決法を
考案して人に提案してくれるといったようなものではない。

これまでに、どのようにか役立つこととして人が気づいたことの
大量の蓄積をデータとして利用しやすくする仕組みとして有用
であるというだけのことで(といっても、そのように大量の
データに容易にアクセスできるようになったことがとても重要な
ことなのだが)、それを何らかの新たな課題の解決の取組みに
役立てることができると同時に、その取組みによる新たな気づき
がそのまま、「人工知能」を管理する側のデータとして取り込ま
れてゆくという仕掛けである。これは、いはば、アルゴリズム
的な「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)く(汲/組)み」の「先取り」
として情報を管理する仕組みとして機能することになる。
0954名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/06(火) 19:49:46.78ID:0Jug9dwu
>>951-952
このことに気づくことは、「差別」一般について考える場合にも、
とても重要だろうと私は思ふ。一般的な「思想の言説」では、差別的な
言動や振舞ひをする「〜差別主義者」は、差別の対象とする人々を、
誤った知識に基づく偏見により、何らか特性を有するカテゴリとして
分類して差別的な扱ひをするものとされる。しかし、私は、
「差別の実態」は、ほとんどの場合、そのようなものではまったく
ないだろうと考へている。学校のイジメの場合を考へてみるといい。

イジメる側の生徒が、イジメる相手に対して「臭い」とか、
「汚い」とかいったことをイジメる理由として挙げるとして、
それが何ら事実に基づかないとすれば、それを確かに「偏見」
と呼ぶことはできるが、それが事実無根であることが知識
として明らかになったからといって、イジメが行はれなく
なるわけではない。差別の場合も同様で、「○○差別主義者」
は、差別を正当化する理由を口先ではいくらでも挙げるかも
しれないが、それは差別するための「口実」であって、その
「口実」としての理由が事実無根であることが明らかになった
からといって、差別をしなくなるわけではない。では、何が
主として人々を差別に駆り立てるのかと言へば、それは
自分自身が、「身分の無い者」、「身分を失った者」と
同等であると見做されること、またそのような人々と
同様に扱はれることの拒絶である。差別の対象とする人々に
共通する特性を見出して分類し、分別作業のように
差別をしているわけではない。
0955名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/06(火) 22:57:03.36ID:0Jug9dwu
>>954
このように見ると、「差別」と呼ばれる行為は、英語を用ひるなら
次のように一般的に記述することができるのではないか。

>a demonstrative act of singling out someone as having
no social status as "fellow 〜" to show one's superiority

差別のない平等な社会の実現を目指して活動していると主張する
思想の言説が、しばしば、差別行為とまったく同じ形式で行はれ
ているように見えるのは、ニーチェの言葉を借りるなら、
「人間的、あまりに人間的」なことだろう。
0956partisan politics/徒党を組む
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2023/06/07(水) 09:42:16.49ID:KHkQRkSv
>singling out someone as having no social status

この行為の形式により可能になるのが/"what this form of action enables is"
徒党を組むこと、つまり、"to gang up on someone"という行動の様態である。
そして、ニーチェが、みづから(身づ柄/自ら)の在り方として明示的に拒絶した
のも、そのような行動の様態に従ふことである。

>Der Glaube ist immer dort am meisten begehrt, am dringlichsten nötig,
wo es an Willen fehlt: denn der Wille ist, als Affekt des Befehls,
das entscheidende Abzeichen der Selbstherrlichkeit und Kraft.
Das heißt, je weniger einer zu befehlen weiß, um so dringlicher
begehrt er nach einem, der befiehlt, streng befiehlt, nach einem Gott,
Fürsten, Stand, Arzt, Beichtvater, Dogma, Partei-Gewissen.<

Friedrich Nietzsche, "Die fröhliche Wissenschaft",
347. Die Gläubigen und ihr Bedürfnis nach Glauben
(zeno.org/nid/20009253998)
0957名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/07(水) 13:40:19.33ID:KHkQRkSv
またしても、当たり前すぎて誰も言葉にしようとしないことを言ふが、
「記憶」とは、それが紙に書き残されたメモであろうと、
ハードディスクに電子情報として残されたものであろうと、
インターネット上でネット化された絶えず更新されるデータベース
として提供されるものであろうと、想起のために残された手がかり、
言い換へるなら、「『気づき方の織り成しを思ひ起こさせる』ための
『よすが』」である。
0958名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/08(木) 11:51:22.37ID:dKeEJpbt
>>956
ニーチェの表現をうまく理解できない人々は、おそらく、みづから(身づ柄/
自ら)の立場を、ニーチェの表現における「いずれかの側」にあらかじめ
固定してそれを解釈しようとしてしまうのだろうと私は思ふ。

>451
Gerechtigkeit als Parteien-Lockruf. – Wohl
können edle (wenn auch nicht gerade sehr
einsichtsvolle) Vertreter der herrschenden Klasse
sich geloben: wir wollen die Menschen als gleich
behandeln, ihnen gleiche Rechte zugestehen.
Insofern ist eine sozialistische Denkungsweise,
welche auf Gerechtigkeit ruht, möglich; aber wie
gesagt nur innerhalb der herrschenden Klasse,
welche in diesem Falle die Gerechtigkeit mit Opfern
und Verleugnungen übt. Dagegen Gleichheit der
Rechte fordern, wie es die Sozialisten der
unterworfenen Kaste tun, ist nimmermehr der
Ausfluß der Gerechtigkeit, sondern der
Begehrlichkeit. – Wenn man der Bestie
blutige Fleischstücke aus der Nähe zeigt und wieder wegzieht,
bis sie endlich brüllt: meint ihr, daß dies Gebrüll Gerechtigkeit bedeute?
(出典 zeno.org/nid/20009234470)
0959名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/08(木) 18:44:19.84ID:dKeEJpbt
ところで、話は変はるが、「『けがらはしき』モノ」や「『きたなき』モノ」
がまず存在して、「けがれ」や「きたなさ」があるのではない。
「み(身)ど(獲/取)り」に「あた(能/価/値)ひ」しないとして
「放出されたモノ」/《ce qui est déchargé》を「み(身)」に
「引き受ける」/《se charger de 〜》ことが、「けがらはし」、
「きたなし」とされるのである。
0960名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/10(土) 09:44:59.52ID:L8vH0MDq
カタルシスの作用は、心のもつれを解きほぐすが、そのことによって
もたらされるのは、葛藤が解消されることではなく、むしろ、
葛藤がどのように生じているのかが、その「ま(真)こと(言/事)の
姿(すがた)」において「あら(顕/現/露)は」にされることである。
0961名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/10(土) 10:00:19.88ID:L8vH0MDq
生きつづけようとすることがカタルシスの作用を要請するのであり、
放出される必要がある「けがれ」をもたらしているのは、
他でもない、みづから(身づ柄/自ら)の「み(身)ど(獲/取)り」
の働きそのものである。
0962よろこばしきしろしめし
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2023/06/10(土) 10:08:51.57ID:L8vH0MDq
したがって、み(身)をほろ(亡)ぼすことによって完全なカタルシスの
作用が実現されると想念するのは、夢想に過ぎない。
それによってもたらされるのは、「み(身)ど(獲/取)り」の働き
が消え失せるとともに、カタルシスの作用の必要性も消滅する
ということだけである。
0964余裕をかます福笑ひ
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2023/06/10(土) 19:48:59.52ID:L8vH0MDq
万葉集 第13巻 3253番
>葦原 水穂國者 神在随 事擧不為國 雖然 辞擧叙吾為 言幸 真福座跡
恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾 <[言上為吾]>

>葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと
障みなく 幸くいまさば 荒礒波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙げす我れは <[言挙げす我れは]>

万葉集 第15巻 3583番
真幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敝尓多都等母 佐波里安良米也母
ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
(出典 万葉集ナビ)

最初の歌では、「さき(幸)く」に漢字として「福」が当てられている。
「さき・く」の「さき」は、「さ(咲)く」、「さか(栄)ゆ」、「さきはふ」
と共通して、挟まれた状態から空間が開ける様態を表しているだろう。
だからこそ、「余裕」/"room for maneuver"の広がりが現れる様態
を表現することに対応する(例えば、「裕福」という表現を想起して
みるといい)「福」の漢字が「さき(幸)く」に当てられたのだろうと
私には思はれる。

逆に、「余裕」/"room for maneuver"が無くなるように「逼迫」を
生じさせるのが、「鬼(お/ゑに)」である。万葉集の歌では、
「鬼」の漢字が「もの」という表現に当てられて詠まれている例が
複数見られるが、その場合も、「逼迫」を生じさせることを
想起させるために「鬼」の漢字を用ひているのだろうと考へられる。
0965名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/10(土) 20:25:08.99ID:L8vH0MDq
「鬼ころし」という酒(さけ)があるが、「さけ(酒)」もゑ(酔)ひ
の効果として「さきはひ」/《beatitude》を感じさせるから
「さけ(酒)」と呼ばれるのだろうと私は思ふ。
0967名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/11(日) 09:38:50.55ID:bPpwWXxi
>万葉集の歌では、「鬼」の漢字が「もの」という表現に当てられて
詠まれている例が複数見られるが、その場合も、「逼迫」を
生じさせることを想起させるために「鬼」の漢字を用ひている
のだろうと考へられる。<

この「もの(鬼)」の用法が想起させる感覚は、現代の日本語にも
引き継がれているだろうことが、例えば、「ものもの(物々)しい」
という表現に見て取れるだろう。これを、「ものもの(鬼々)し」
と万葉仮名で書き換へてみれば、いかにも「(こちら側が)継続的に
逼迫を感じさせられる様態」が想起される。

また、事象のあら(顕/現)はれを「もの」として扱ふようにする
「物象化」も、そのあら(顕/現)はれの効果を、(こちら側に)
「逼迫」/「必然性」/「強制力」/"ἀνάγκη"を感じさせる
「もの」にする。
0968名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/11(日) 20:00:35.74ID:bPpwWXxi
私は、制度宗教には関心がないので、それがどのように
理解され、説明されてきたのかまったく知らないのだが、
キリストが歴史上、実在したとすれば、「キリストが十字架にかけられる
ことによる人類の贖罪」というのは、「論理的」に考へれば、
「キリスト教の教義」であって、「キリストの教へ」ではないだろう。
0969名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/12(月) 00:01:35.56ID:qAM30JD0
医師になるのは、めちゃくちゃ簡単だよ。
どんな馬鹿医大でも国家試験の合格率7割以上はあるし、自治医大以上ならほぼ100%。

弁護士の場合は難関ロースクールを卒業しても、国家試験を通るのは10%程度。

医師になるには金と時間がかかるが、試験自体は簡単。
うちは従兄弟三人医師になったが、英検二級すら落ちるレベルの頭だからね。

医師国家試験の合格率ランキング見てみ。
一番低い杏林大学ですら、79.4%。

奈良県立大以上の偏差値の25校は95.0%超え。

これのどこが難関試験なの?
医学部に学費を支払える財力のハードルが高いだけで、医師にはバカでもなれる。

弁護士、司法書士、会計士、英検1級あたりは、バカには絶対に無理。

まとめると
医師国家試験→バカでも受かる。しかし、医学部6年間で1,000万以上かかる学費のハードルが高い。
司法試験→ロースクール卒業しても、合格できるのはごく一部。非常に難関な試験。
司法書士→ロースクールに行かなくても受験できるが、難易度は司法試験並み。
英検1級→英語がずば抜けて優秀でないと合格できない。英語の偏差値100必要。(実際にはそんな偏差値はないが)
会計士→おそらく、最難関試験か。会計大学院修了者の合格率は7.6%しかない。
不動産鑑定士→鑑定理論が地獄。単体の科目としては最難関の一つ。経済学などは公務員試験より簡単か。
0970名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/12(月) 00:52:00.57ID:+PF4GUDa
>à ce moment l’ivresse dionysienne sera proche.
Alors l’esclave est libre, alors se brisent toutes les barrières rigides
et hostiles que la misère, l’arbitraire ou la « mode insolente »
ont établies entre les hommes.<
[...]
>L’homme n’est plus artiste, il est devenu œuvre d’art :
la puissance esthétique de la nature entière, pour la plus haute béatitude
et la plus noble satisfaction de l’Un-primordial, se révèle ici sous
le frémissement de l’ivresse.<
(出典 fr.wikisource.org/wiki/Page:Nietzsche_-_L’Origine_de_la_Tragédie.djvu/36)
0971名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/12(月) 01:09:20.02ID:+PF4GUDa
この場合も、私はニーチェの著作のフランス語訳に接していて、
それを知っていてこのようなテクストに行き当たるわけではない。
単に「さけ(酒)」⇔「さきはひ」⇔「ゑ(酔)ひ」による《beatitude》
という連想が、日本語、フランス語、ドイツ語という言語の境界
を超えるから、"béatitude"&"ivresse"をキーワードに検索して
簡単にこのようなテキストにたどり着くのである。

言い換へるなら、日本語による自由連想がそのまま、言語の
境界を超える「気づき方の織り成し」の類似性を見出すための
手がかりをもたらすのだ。「勘が働く」というのは、
そういうことであり、日常言語による普通の「気づき方」を
離脱した何か神秘的なプロセスではない。
0973書斎というSanctum
垢版 |
2023/06/12(月) 09:15:27.53ID:+PF4GUDa
「いは(祝/斎)ひのさけ(酒)」の「いは(祝/斎)ひ」が意味するのは、
「祝福する」/"abençoar"(ポルトガル語)ことであると指摘しても、
何をそんな分かり切ったことを指摘しているのかという反応しか
返ってこないだろう。ところが、さらに一歩進んで、「祝福する」/
"abençoar"とは、「『余裕の広がり』/"room for maneuver"
を『しろしめす』」ことであり、そのようにして「しろしめされる
空間」が「しろ」であり、そこに建てられたものが「や(屋)しろ(代)
/(社)」であると指摘したとすれば、今度は、「何を言っているのか
わからない」、「誰がそんなことを言っているのか、どこにそんな
根拠があるのか分からない」といったような反応が返ってくるのが
普通である。多くの人々は、大抵の場合、自分で考へるための
手がかりとして説明を求めているのではなく、他人に責任を転嫁して、
自分で考へなくても済むようにするために説明を求めているのである。
だから、第三者も受け入れる説明が与へられれば、それが辻褄の
合ふものであろうとなかろうと、それで満足するのである。
0974名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/12(月) 12:04:27.91ID:+PF4GUDa
「祝福されて」ゐ(居)るというのは、「めぐ(恵/廻/巡)まれて」
ゐ(居)るということであって、それに「あた(能/価/値/与)ふ」
ような何かをすることによりそれが得られたということ
ではなく、「祝福」や「恵み」はつねに、その不意の訪れが
悦ばしきこととして歓迎される"windfall"である。

何かがどのようにか役立つことに気づくことも、そのように
歓迎される"windfall"であり、その「気づき方」は、いつでも
「みづから(身づ柄/自ら)のもの」でしかあり得ないものの、
それが役に立つのは、既にそこにあったものとして見出される
「気づき方の織り成し」を活用することができるようになる
ことによってである。さらに、統治する側がいくら
「や(八)すみ(隅)し(知/領)し」と告知することによって
あらゆる「気づき方」の「先取り」を宣言したところで、
「気づき方の織り成し」は、「ま(真)こと(言/事)」には、
「誰のものでもない」。
0975名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/12(月) 12:40:12.11ID:+PF4GUDa
私は、歓迎される"windfall"として私を訪れる「気づき方」を、
それが私みずから(身づ柄/自ら)にどのように役に立つものであると
感じられる限りにおいて、何のを(惜)しみもなく振る舞ふが、
それは、そのような「気づき方」が「誰のものでもない」
「気づき方の織り成し」を活用しているからであり、逆に、
そうでないとすれば、私の「気づき方」は何の役にも立たない
ことになるだろう。

ところが、「や(八)すみ(隅)し(知/領)し」と告知するような立場
からすれば、私のような「を(惜)しみない振舞ひ」は、
「何の役にも立たない無駄な浪費」であることになる。
というのも、その告知が効力を発揮するためには、
「気づき方の織り成し」は、その「先取り」が周知/公知
のものであるとされなければならず、それを活用する
ことは、「恵み」に対する「感謝のしるし」としての
「上納」を伴はずに勝手に行はれてはならないからである。
0976名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/13(火) 07:29:49.83ID:bOFJnPVl
哲学が制度的な学問とは基本的に異なる理由は、哲学することが、
その言葉の最も根源的な意味において「汝/己みづから(身づ柄/自ら)
につかへ(使/仕)る」こと(その「かひ(効験)」が"self-serving"である
こと)にあるのであって、「上納/貢献」/(すなはち、"contribution")
の度合を他者に評価もらうこと、つまりは、人事評価においてその活動
の成果の価値が認められることにあるのではないことによる。
0977名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/13(火) 11:34:37.05ID:bOFJnPVl
「ひと(人/一)」としての「汝/己(な)」に役立たないことが、
「ひと(人/一)」としての「他(た)」に役立つはずのないことは
自明だろう。しかし、「ひと(人/一)」としての「他(た)」に
役立つことが、「汝/己(な)」に役立つかどうかは、まったく
自明ではない。

「汝/己(な)」には役立たなくても、「ひと(人/一)」としての
「他(た)」に役立つことが、一般に、「貢献」/「寄与」/
"contribution"と呼ばれ、その「汝/己(な)」には役立たない
が「他(た)」には役立つ「差分」が、「ひと(人/一)」により
認められる限りにおいて、「むく(報)はれる」に「あた(与/
能/価/値)ひ」する「はず/べき」ものとされる「自己犠牲」
と見做される。

ところが、いくら「汝/己(な)」の振舞ひが「自己犠牲」
であると「ひと(人/一)」としての「他(た)」に認められた
ところで、「汝/己(な)」がその「自己犠牲」に「あた(与/
能/価/値)ひ」するように「むく(報)はれる」という保証は
どこにもないだけでなく、それが「汝/己(な)みづから
(身づ柄/自ら)」のいのち(命)を犠牲にすることであるなら、
「汝/己(な)」が「むく(報)はれる」見込みそのものが消滅する。
つまりは、「ひと(人/一)」としての「他(た)」に役立つことが、
「汝/己(な)」にはまったく役立たないという事態は、稀に
どころか、往々にして生じるのである。

ところで、「汝/己(な)」に役立つことが、すなはち、
「他(た)」にも役立ち、「他(た)」に役立つことが、すなはち、
「汝/己(な)」にも役立つという関係性が成立するなら、
そのことにより、「汝/己(な)」と「他(た)」は、もはや、
「ひと(人/一)」として互いに「他(た)」の関係にはなく、
「ひと(人/一)」としての「他(た)」は消えて、「汝/己(な)」
のキアスム的な反転関係だけがあることになる。すると、
それと同時に、「貢献」/「寄与」/"contribution"と呼ばれ
る行為も成立しなくなるだろう。では、なぜ、「自己犠牲」
を払う「貢献」/「寄与」/"contribution"と呼ばれる行為が、
これほどまでに人々によって賞賛されるのか、それを問ひ
として一人一人の考へてみるように求めたのがニーチェである。
0979名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/13(火) 11:45:59.08ID:bOFJnPVl
>では、なぜ、「自己犠牲」を払う「貢献」/「寄与」/"contribution"
と呼ばれる行為が、これほどまでに人々によって賞賛されるのか <

だが、実は、人々は、そんなことは問ひとして明示されなくても、
よく分かっている。わざわざそんな不都合なことは、口に出すことを
しないだけである。だからこそ、統治は、その沈黙を、
「負債/罪の意識」として徹底的に利用する技法として磨かれて
きたのだ。
0980名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/13(火) 13:14:38.24ID:bOFJnPVl
思想や制度宗教がつねに、「ひと(人/一)」としての「他者」による
統治を支えるイデオロギーの役割を担ってきたとすれば、
哲学の担う役割は、「ひと(人/一)」としての「他者」による統治が
必然的に「汝/己(な)みづから(身づ柄/自ら)」にもたらす
「なやみ/やまひ(病)」に対する治癒法である。
哲学を「アナーキズムの思想」と見誤るのは、思想が統治を支える
イデオロギーの役割を担うことしかできないことに対する自覚の
欠如の裏返しでしかない。
0981名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/13(火) 15:43:42.20ID:bOFJnPVl
理想的な「文明化状態」において、
「『ひと(人/一)』は『ひと(人/一)』に対して『鬼(すなはち、
「逼迫」/「必然性」/"ἀνάγκη"を生じさせる存在の擬人化)』である。」

>Homo homini lupus
>Thomas Hobbes drew upon the proverb in his De Cive,
writing in the dedication "To speak impartially, both sayings
are very true; That Man to Man is a kind of God;
and that Man to Man is an arrant Wolfe.
The first is true, if we compare Citizens amongst
themselves; and the second, if we compare Cities."
[...]
"In the one, there's some analogie of similitude
with the Deity, to wit, Justice and Charity,
the twin-sisters of peace: But in the other,
Good men must defend themselves by taking to them
for a Sanctuary the two daughters of War, Deceit and Violence."<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Homo_homini_lupus)
0982名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/14(水) 14:57:59.49ID:mHy0BdV0
「『もの(物)』の『け(怪)』」の「もの(物)」にも対応
する「鬼(お/ゑに)」は、既に指摘したとおり、
「『逼迫』と感じられる効果を生じる作用の擬人化」
ではり、この作用は、ドイツ語を用ひて説明するなら、
»Verdrängung«に対応するだろう。そのように
イメージすることの妥当性は、例えば、
「やまひ/なやみ」が重篤になることが、「あつしくなりゆき」
と表現されることにも如実に反映されている。

>出典源氏物語 桐壺
「恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき」
(出典 学研全訳古語辞典)

また、「鬼やらひ」とも呼ばれる「追儺(ついな)」という
行事があるが、この行事は、その名称からもすぐに分かる
とおり、「擬人化」された「逼迫」/»Verdrängung«を
「追い払ふ」/»vertreiben«という意味合ひをもっている。

>追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や
疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。
(出典 /ja.wikipedia.org/wiki/追儺)
ja.wikipedia.org/wiki/追儺#/media/ファイル:Tsuina_of_Yoshida_shrine.jpg
0983お断りします
垢版 |
2023/06/15(木) 10:27:48.91ID:QpldIHxi
まず「理/ことはり」があって、その「理/ことはり」に
反することが「無理(むり)」なのではない。そうではなく、
「無理(むり)もない」ことが、「理(り)に適(かな)ふ」
ことであり、「理(り)に適(かな)ふ」ようにすることが
「理/ことはり」なのだ。

>「それは無理な願いなのだろうか」/
"Is that too much to ask?"/»Ist das zu viel verlangt?«
0984名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/15(木) 11:11:46.94ID:QpldIHxi
>出典源氏物語 花宴
「切(せち)に責めのたまはするに、のがれがたくて」
(出典 学研全訳古語辞典)

「自ずとこころに責めが生じる」作用が「こころの鬼」
と呼ばれるが、こころに「責め」/「逼迫」/»Verdrängung«
が生じるのは、「求め」/»Verlangen«にこた(応)へなければ
ならないとする「必然性」/"ἀνάγκη"を認めることによって
である。したがって、「の(逃)がる」/"to escape"/»entrinnen«
(この場合、»rinnen«は、英語であれば、"to leak"に対応する
とされる)は、キアスム的な関係において「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«の効果として生じる作用である(また、
「ここで、これに関連して自然に想起されるのが、
「ぬばたまの〜」という表現である)。また、このような
関係性から、現代の日常語としても残っている「がき(餓鬼)」
というのが、どのような表現であるのかも、よりよく理解する
ことができるだろう。
0985名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/15(木) 11:23:04.43ID:QpldIHxi
「の(逃)がる」/"to escape"/»entrinnen«ことができる
ことが望ましいと感じられる「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«の効果を「鬼(おに)」として「擬人化」
して、逆に、「追い払う」/»vertreiben«、ここに
「鬼やらひ」/「追儺(ついな)」という行事のおもしろさ
がある。

しかし、この「気づき方の織り成し」が、その模擬的な
行為によって同時に認めざるを得ないことになっているのは、
「鬼(おに)」は、一時的に「追い払う」こと、つまり、
居場所を変えるように強制的に退去させること("temporary
forced displacement")だけが可能であって、その存在
そのものを消滅させることは不可能であるということだ。
0986名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/15(木) 11:43:38.12ID:QpldIHxi
「汝/己(な)」と「他(た)」は、ともに「ひと(人/一)」である
から、「気づき方」が互いに似ているのではない。
そうではなく、「気づき方」が活用される「気づき方の
織り成し」を介して、「汝/己(な)」と「他(た)」が
互いの「気づき方」を近似することが可能であると
感じられるから、その「汝/己(な)」と「他(た)」が
その「近似のプロセス」を、互いの「ひと(人/一)となり」
として認めるのである。だから、互いの「気づき方」が
逆に乖離していくように感じられるなら、相手は、
身体的にには互いによく似通った姿をしていても、
「ひと(人/一)」ではない、人の姿をした何か別の
ものとして認識されることになる。
0987名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/16(金) 09:43:37.53ID:lK+N5Nrs
>宮の御湯持て寄せ給へるに、かき起こされ給ひて、
ほどなく生まれ給ひぬ。うれしと思すこと限りなきに、
人に駆り移し給へる御物の怪ども、ねたがりまどふけはひ、
いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。<
(出典 frkoten.jp/2016/07/25/post-1891/)

出典として利用されてもらったサイトの現代語訳の
注において、この引用箇所に見られる「人に駆り移し給へる」
の「人」とは、
>※よりまし=物の怪などが取りつくためのよりしろになる役のこと。
と適切に解説されている。「よりまし」は、漢字の表記では、
「寄坐/憑座/憑子/尸童」など様々な表現法が見られるが、
「より・まし」という日本語に最も素直に対応し、その
表現上の意味が分かりやすくなる漢字表記は、「依座」、
つまり、「依(よ)り座(ま)し」だろう。また、検索すると、
「よりまし」と類似する表現として、「ものまさ」という
のがあることが分かるが、こちらには、「尸者」という漢字
表記が当てられているようである。しかし、「依(よ)り座(ま)し」
の表現法との比較から、「ものまさ」は、「もの(物)ま(座)さ」
と無理なく解釈できるだろうという推測が成り立つ。さらに、
ここで、万葉仮名を用ひるなら、「尸者/もの(物)ま(座)さ」の
「もの」に「鬼」を当てることが可能であり、「尸」は、
通常は、死者を表すのだから、中国語の漢字の用法から考へても、
この場合の「もの」に「鬼」を当てることは妥当だろう。
したがって、引用した箇所の「人」は、
「物の怪などが取りつくためのよりしろ」として使はれて
いるのだから、「もの(鬼)まさ(座)」の役割をさせられている
と言ふことができる。
0988名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/16(金) 10:00:52.07ID:lK+N5Nrs
私は、既に述べたとおり、制度宗教に関心がないので、
キリスト教神学の教義について詳しいことは何も知らない。
しかし、ニーチェのキリスト教批判は、キリスト教の
神学を専門的に学ぶことを通じてよりもむしろ、この
ような日本語の表現法の考察を介することによって、
より明快に理解できるようになるのではないかと私は
思ふ。ここで、ニーチェが批判を向けているのは、
キリスト教という制度に対してであって、キリスト
その人ではないことに留意する必要がある(ニーチェは、
キリストその人に対しては、むしろ親しみさえ感じて
いるだろう)。さらに、ニーチェのキリスト教批判は、
キリストの教へを尊重しながらも制度の運用の現状
を批判するといったような、宗教制度改革的な志向
のもの(キリスト教内部からの改良のこころみ)ではない
ことにも留意する必要がある。
0989名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/16(金) 10:31:46.75ID:lK+N5Nrs
では、私の見るところでは、ニーチェは、キリスト教の
なにを批判しているのか。それは、ここで検討した
日本語の表現を活用して私が自己流に説明するなら、
キリスト教神学(キリストその人の教へではなく)が、
キリストに、「人類全体」にとっての「憑子/尸童/
依座(よりまし)」/「尸者/鬼座(ものまさ)」を
「代表する役割」を担はせていることであり、
十字架にかけられることにより、「鬼座(ものまさ)」
として「物の怪などが取りつくためのよりしろになる役」を
「人類全体」のために果たす、つまり、「責め」/「逼迫」/
»Verdrängung«を一身に引き受けて、「人類全体」
の「罪(つみ)」を「贖(あがな)ふ」という名目/理路/
理屈により、「汝/己(な)」の一人一人に「人類全体」の
「責め」/「逼迫」/»Verdrängung«を、本来でれば、
「な(汝/己)みづから(身づ柄/自ら)」が負ふべきはずの
ものであるという意識、すなはち、「こころ(心)の鬼」
を生じさせようとすることにある。

ここで最も注意しなければならないのは、「汝/己(な)」は、
そもそも、キリストが「人類全体」を代表する「尸者/
鬼座(ものまさ)」の役割を担ふという媒介の作用をする
のでなければ、「人類全体」のなかの「一人一人」では
なく、そのような「こころ(心)の鬼」に悩まされなければ
ならないような存在者ではないということだ。
0990Ecce Homo: How One Becomes What One Is
垢版 |
2023/06/16(金) 10:41:27.06ID:lK+N5Nrs
そのような「こころ(心)の鬼」が生じることが「誰にとって
どのように好都合なのか」をよく考へてみる必要があるだろう。
この「誰にとって」の「誰」は、「人類全体」では「あり得ない」。
なぜなら、「人類全体」は、原理的に存在しないからである。

繰り返そう。

>理想的な「文明化状態」において、
「『ひと(人/一)』は『ひと(人/一)』に対して『鬼(すなはち、
「逼迫」/「必然性」/"ἀνάγκη"を生じさせる存在の擬人化)』
である。」 <

"In the one, there's some analogie of similitude
with the Deity, to wit, Justice and Charity,
the twin-sisters of peace: But in the other,
Good men must defend themselves by taking to them
for a Sanctuary the two daughters of War, Deceit and Violence."<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Homo_homini_lupus)
0991名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/16(金) 10:59:32.28ID:lK+N5Nrs
理想的な「文明化状態」においては、
「汝/己(な)」が「人類全体」の「一人一人」として
「こころ(心)の鬼」の「尸者/鬼座(ものまさ)」の役割を
担ふことになり、その「鬼」が、「人に駆り移し給へる
御物の怪ども」として「ねたがりまどふけはひ、
いともの騒がしう」することになり、誰もが
「いと心もとなし」という常態に留め置かれること
になるだろう。

>jede Person ist ein Gefängnis, auch ein Winkel.
(出典 www.zeno.org/nid/20009255516)
0992水に流す
垢版 |
2023/06/16(金) 11:22:45.44ID:lK+N5Nrs
>尸童 よりまし
憑坐,神子とも書く。依代 (よりしろ) となる人間のこと。
子供である場合が多い。神意を伺おうとするときに,
男女の幼童の上に神霊を招いて乗移らせ,神の依ります
ところとして,その託宣を言わせるもの。
現在でも各地の祭礼にみられ,神幸の際に行列の
中心になり,美しく着飾らせる (→稚児舞 ) 。
人形を用い,祈り終ってから川に流すこともある。 <
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
0994advantageous practice of mutual deception
垢版 |
2023/06/17(土) 07:13:09.76ID:DFuJsPId
ひと(人/一)は、実のところ、道徳(宗教的道徳を含む)
を実践することが、「汝/己(な)みづから」の「み(身)
ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」に役立つとともに
「同類」とされる「他(た)者」の「み(身)ど(獲/取)り
のと(獲/取)り(汲/組)み」を損なひ、自滅に導くこと
をよく知っており、道徳は、本来的に、それを
実践することが「みな(皆)」、すなはち、「汝/己(な)
みづからを含む『同類』すべて」(その「同類」は、
「生きるものすべて」であってもよい)の「ためになる」
と「他(た)者」に信じ込ませようとする「騙し合ひ」
として成立している。ただし、その「騙し合ひ」は、
「汝/己(な)みづから」が騙されている姿を「模範」
として実践してみせなければ、「他(た)者」を騙す
ことができないという避けて通ることができない
「汝/己(な)みづから」にとっての大きなリスクも
伴っている。
0995名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 08:56:31.44ID:DFuJsPId
>>983
「理/ことはり」とは、「理(り)に適(かな)ふ」ように
すること、»vernünftig«であることであり、それは、
とりもなほさず、「無理(むり)」が生じないように
気をつけること、みづから(身づ柄/自ら)の振舞ひ
により、みづから(身づ柄/自ら)に「無理(むり)」が
生じる惧れがあるなら、そのような振舞ひを回避し
ようとすることである。

したがって、「理(り)に適(かな)ふ」ようにしようと
するなら、みづから(身づ柄/自ら)に止むを得ず
「無理(むり)」が生じる惧れがある場合、
「無理(むり)」が生じることによって「汝/己(な)」に
もたらされる危険性/リスクを「他(た)者」に転嫁
することが重要である。例えば、ネズミを駆除する
場合に毒入りの餌を撒いた場合でも、それを食べた
個体は死ぬが、その様子を見た同類の他のネズミ
は、その餌をもはや食べようとはしない。人も、
餓えて他に食べ物がない場合、さもなければ、
食べようとはしない毒の作用があることが知ら
れているものまで食べようとするが、どれだけ
食べても「無理(むり)」が生じないか、どのよう
に処理すれば、毒の作用が生じることを避けること
ができるか、他の人々のこころみを観察し、その
結果に応じてどのように振る舞ふことがより
「よ(良)い」のかを知ろうとするだろう。
0996名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 09:22:41.00ID:DFuJsPId
>「み(身)ど(獲/取)り」に「あた(能/価/値)ひ」しないとして
「放出されたモノ」/《ce qui est déchargé》を「み(身)」に
「引き受ける」/《se charger de 〜》ことが、「けがらはし」、
「きたなし」とされる<

>生きつづけようとすることがカタルシスの作用を要請する
のであり、放出される必要がある「けがれ」をもたらして
いるのは、他でもない、みづから(身づ柄/自ら)の
「み(身)ど(獲/取)り」の働きそのものである。<

「生きる」ことについてのこのような捉へ方は、それが
そのように明示的にメタ言語的に記述されていないとしても、
そのモデル化された表現が、古代から現代に至るまで、
「俗信」とされる慣習に広く一般的に反映されて見られる
ものだろう。そのモデル化された表現による模倣が
実効性のある結果をもたらすことが恐れられる/期待
される限りにおいて、そのような慣習は「迷信」と
されるが、「けが(穢)れを祓うこと/浄めること」と
「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」の
キアスム的な関係性は、生物学的に見ても、
「ナンセンス/無意味なこと」などではまったくない
だろうと私は思ふ。
0997名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 09:52:30.28ID:DFuJsPId
とは言へ、私は生物学についても詳しいことは知らない。
生物学関連の授業を必修の科目として受けたことはあるが、
そこで学習することを要求される生物学的な「自然選択説」
による「進化論」に基づく物事の考へ方は、私には、
「科学」を口実にした「洗脳」以外のなにものでもない
としか感じられなかった。したがって、私がここで述べ
ようとすることも、「生物学」的な知見などではなく、
「生物(いきもの)」として「生きる」ことがどのように
私にイメージされるかである。

例えば、「自然選択」/"natural selection"という表現で
私が想起するのは、「ダーウィンの進化論」ではなく、
まず何よりも、生物としての身体を形成する「み(身)
ど(獲/取)り」が、「けが(穢)れ」を祓う/排泄する
「選択的なと(獲/取)り(汲/組)み」、すなはち、
「浄められたもの」として「みづから(身づ柄/自ら)」
の「い(生/息)のち(力)/命」が保たれる「浄化」/
"filtering in/out"として働いているということだ。
「生き物」が「生き物」を「みづから(身づ柄/自ら)」
の「み(身)ど(獲/取)り」のための栄養分として
「選択的」に「と(獲/取)り(汲/組)む」多細胞生物
として「進化」してきたプロセスも、私には、
そのようなものとしてイメージされる。
0998名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 10:13:26.46ID:DFuJsPId
「生き物」が「生き物」を「みづから(身づ柄/自ら)」
の「み(身)ど(獲/取)り」のための栄養分として
「選択的」に「と(獲/取)り(汲/組)む」多細胞生物
として「進化」してきたのは、生きることの仮説的
な前提として、現に「生き物」として形成されて
いる「身」が、相対的に「けが(穢)れ」が祓われた
「浄められたもの」として「い(生/息)のち(力)/命」
を保っているからではないのか。

それは、分かりやすく簡単に言い換へるなら、
生物は、他の生物の身体の「浄化」/"filtering in/out"
の働きを「みづから(身づ柄/自ら)」の身体の形成の
ために効率的に活用しているということだが、
それは別に、生物の個体が他の生物の個体を餌食
にするということではなくても、多細胞生物の
身体のレベルで見るなら、生物の個体の身体
そのものが、細胞レベルでそのような仕組みとして
働いて、もはや「み(身)ど(獲/取)り」の
「選択的なと(獲/取)り(汲/組)み」に役立たなく
なった死んだ細胞を「けが(穢)れ」として日々
祓う/排泄することによって「みづから(身づ柄/自ら)」
の身体を浄化されたものとして、その「い(生/息)の
ち(力)/命」を保っていることとして記述すること
ものできるだろう。
0999名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 15:27:24.38ID:DFuJsPId
誤:記述することものできるだろう。
正:記述することもできるだろう。

>>996-998
あの世において「浄められた魂」が救済されて、「永遠の命」
を得るという死後の世界のイメージも、「現世に生きる」
ことがこのような関係性において捉へられていることを、
裏返して利用しているに過ぎない。そのことは、死後に
おいても魂が浄められることがなく、呪はれることが、
肉体的な責め苦(つまり、み(身)ど(獲/取)りが損なはれ
ること)が限りなくつづく状態としてしかイメージされ
ないことからも分かるだろう。魂が浄められていようと
いまいと、死によって肉体は既に失われているのだから、
死後の世界があると想定しても、そこで肉体的な苦痛が
生じ得るとするのは矛盾である。少なくとも
『クラテュロス』においては、ソークラテスは、
死後の魂の在り方について、そのような矛盾した想定
はしていない。
1000名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/17(土) 17:32:32.23ID:DFuJsPId
スレの最後を訂正に使ふのは気が進まないが、
放置しておくのもよくないので、訂正しておく。

誤:ソークラテス
正:ソークラテース
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垢版 |
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