詩文学
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/08/31(火) 18:15:47.81ID:Vq290yAX
アーケード
0851名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/20(土) 08:31:12.10ID:bNlp/l7h
エウダイモーンについてのイタリア語版のWikipediaの記述。
対応する日本語版にはアリストテレスについての簡単な記述しかない
のはどうしてなのだろう。

>È questo il cosiddetto intellettualismo etico di Socrate,
che sosteneva che l'unica causa possibile del male era
l'ignoranza del bene «So invece che commettere ingiustizia
e disobbedire a chi è migliore di noi, dio o uomo, è cosa brutta
e cattiva. Perciò davanti ai mali che so essere mali non temerò
e non fuggirò mai quelli che non so se siano anche beni.»
ma una volta conosciuto il bene, non era possibile astenersi
dall'agire moralmente realizzando il bene che era di per sé
"piacevole" in quanto generava la eudemonia, la serenità dell'animo.
(出典 it.wikipedia.org/wiki/Eudemonismo)
0852名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/20(土) 10:37:08.67ID:bNlp/l7h
>>848
《anomie》/"anomy"/「アノミー」は、『自殺論』を著したフランスの
社会学者、Émile Durkheim(デュルケーム)が自殺の類型を分類するための
概念として用ひることで広く知られることになった表現だが、
法("νόμος")が自分の身方ではなく、「自由/勝手に〜ことができる余地」
を奪ふ強制力("ἀνάγκη")として自身に作用する場合、そのことにより、
自身は、《anomie》/"anomy"/「アノミー」の立場に追い込まれること
になる。

現代の日本で「原因・動機」は、厚生労働省によれば、
「健康問題(うつ病、身体の病気等)」、「経済・生活問題(生活苦、
多重債務等)」、「家庭問題(夫婦関係の不和、家族の将来悲観等)」、
「勤務問題(仕事疲れ、職場の人間関係等)」などと分類されるが、
実際の「原因・動機」が大抵の場合、複合的なものであることは
認識されている。典型的な表現としては、「病気を苦にして」、
「借金を苦にして」、「事業不振で悩んで」、「子供の将来を
悲観して/家族の介護で追い詰められて」、「仕事の厳しいノルマ
による過労で」といったような言ひ方をよく聞くことがある。

ここで、デュルケームが用いひたよりも《anomie》を広く
一般的に、その語源的な表現に沿って捉へるなら、《anomie》/
"anomy"/「アノミー」とは、自身が「自由/勝手に〜ことができる余地」
、つまり、"autonomy"/「自律性」が何らかの強制力("ἀνάγκη")により
不可逆的に奪われて、自身には「自由/勝手に〜ことができる余地」/
ノモス/"νόμος"がもはやゆる(許)されていない状態、すなはち、
"ἄνομος"に陥った状態であると言ふことができる。すると、
「病気を苦にして」、「借金を苦にして」、「事業不振で悩んで」、
「子供の将来を悲観して/家族の介護で追い詰められて」、
「仕事の厳しいノルマによる過労で」のように様々な「自殺の
原因・動機」が挙げられるとしても、これらのいずれも、
何らかの強制力("ἀνάγκη")により(例えば、病気であれば、
その症状により、借金であれば、取立てや資産の取り押さえ
により、また過労であれば、職責とノルマにより)自身の身体
または身体的な活動が差し押さえられて、自身には
「自由/勝手に〜ことができる余地」がもはやゆる(許)されて
いない状態にあると感じられれているということになり、
《anomie》/"anomy"/「アノミー」は、自殺の類型のうち
の一つであるというより、自殺を誘発する仕組みそのものである
と見ることができる。
0853名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/20(土) 11:27:16.54ID:bNlp/l7h
法("νόμος")は、強制力("ἀνάγκη")を発揮することができないなら、
無効化する。逆に見れば、法("νόμος")が実効性を発揮する限り、
法("νόμος")の側にないとされる者にとって、法("νόμος")は、
自身を"ἄνομος"/"without law"の立場に陥れるように作用する。
法("νόμος")の運用そのものが、《anomie》/"anomy"/「アノミー」
に陥る人々を大量に生み出し、そのことを避けられないとしたなら、
おほ(大)やけ(宅)/(公)の「内部管理統制」/"management/
administration"が円滑に保たれるようにするには、何らかの
「リサイクル対策」が欠かせないだろう。そして、そのような
「リサイクル対策」は、つねに既におほ(大)やけ(宅)/(公)の
「内部管理統制」/"management/administration"には
(個々の人々にとってではなく)、フィードバック的な仕組み
として組み込まれているはずである。それはどのようなもの
であると考へられるだろうか。
0854名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/20(土) 11:40:29.26ID:bNlp/l7h
大抵の人は、暗黙には自分でも薄々と気づいているようなことでも、
それをはっきりと言葉によって捉へて表現しようとすることを忌避する。
考へたところでどうにもならないことは、気を紛らはせて忘れた
方が得策だというわけだ。しかし、それはつねに一時しのぎ
(それを死ぬまで繰り返すとしても)になるに過ぎない。
本当に「あきら(諦)める」ことができるようになるためには、
「あき(明)らめる」ように取り組む必要がある。
0855名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/20(土) 23:08:10.96ID:bNlp/l7h
特にイスラエルとかパレスチナとかの問題に関心があるわけではなく、
偶々、特に安価だったので試しに目を通してみようと思って入手した
Koestler, Arthurの小説、"Thieves in the Night"のドイツ語訳、
"Diebe in der Nacht"、まだその1/4くらいに目を通しただけだが、
なかなかうまく構成された書き方で、内容的にも社会実験の体験
レポートのような感じで、とても興味深い。扱っている題材は、
多くの人々の関心を引くものであるはずなのに、この小説は
あまり人気が出なかったようで、日本語訳も出されていないのは
不思議な感じがする。引用したい面白い記述があるが、
ドイツ語訳のテクストは、残念ながら、ネット上では見当たらない。
0857名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 09:52:37.95ID:mcaELYPH
>「し(知/領)る」とは、「気づき方を組織化する」ことである。

「哲学とは、『無知の知』である」と言はれることが多いが、
これは無用に人を苛立たせる表現であるだけでなく、「知」が
何らかの対象についての「知」であるとするなら、自分が
何らかの対象について知らないことに気づくことは、その
対象について気づいていないのだから、原理的にあり得ず、
「無知を知れ」という言明は、相手に向かってそのような言葉
を発する者が、「我は汝の知らないことを知っている」と発話
遂行的に宣言していることになり、自戒の言葉となるどころか、
何についてどのように知らないことを自他に告げようとしている
のかも不明な、「はったり」としての「空虚な相互牽制」にしかならない。
気づいていないことにあらかじめ気づいていることは原理的に
不可能であり、気づいていないことは無限定なので、
気づきの背景が無限定であることを自覚していること以外で、
無限定なものに気づこうとすることは無意味である。

むしろ、「哲学とは、『知の知』である」と言ふ方が適切だろう。
哲学するとは、「『し(知/領)る』ことを『し(知/領)る』」こと、
つまり、気づき方がどのように組織化されているのかにメタ・レベルで
気づいて、対象レベルの気づき方の組織化がどのように、どれだけ
有効であるかを、その都度、それを使ってみることによって確かめ、
確認される有効性に応じて、その組織化を保ち、無効であることに
気づいた場合には、どのように気づき方を再編成すれば、その
組織化が有効性を発揮するようになるかを探りつづけることである。
0858名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 10:35:00.58ID:mcaELYPH
自由や平等や公平ということに関連して、身分制度、社会階級、
社会階層、人々の間の様々な格差について論じている思想系の
著作は数限りなく存在する。しかし、現代の社会の組織化に関して、
もっとも根幹にあり、誰にでも直接、間接的に最も強い影響を
及ぼす仕組みである人事制度について思想として、つまり、
人事制度は、行為としてどのように構成され、運用されている
のかについて、制度論、法律論などではなく、その思想的な
根本から取り組んで解明しようとしている著作は、目にした
ことがない。
0859名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 10:40:34.44ID:mcaELYPH
自分が属する組織の人事制度について学問的な議論の対象とする
ことができないような思想的な言論が、どうやって現代の
社会の在り方にその根底から批判的であり得ると考へられるだろうか。
0861名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 13:27:48.67ID:mcaELYPH
>>859
このような発言の意図も、思想系の人々はすぐに取り違へそうだが、
私は、内部告発の必要性とか、「人事制度がまずあることを前提にして」、
それが公平、公正、平等に運用されているか否かといったことを問題
にしているのではない。そうではなく、組織の人事制度とは、
そもそも、どのように成立し、維持され、運用されるのかを、
実際に観察されるその運用に則して、忠実に記述し、それが
人々の行為をどのように仕組むように機能しているのかを明らか
にすることを「思想の言説」を展開する人々に求められる
課題として提示しているのである。
0862名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 20:15:05.28ID:mcaELYPH
>>857
このように説明される「知の知」を、Ch.S.パースであれば、単に
"semiosis"/「セミオーシス」呼んだだろう。しかし、ただ単に
「それは"semiosis"と同じことだ」と言ってみたところで、
そう呼ぶことがどのうようなことを伝へようとしているのかが
うまく伝はらなければ、意味がない。だから、昔から同様の
ことが言はれていようと、いまいと、その都度、うまく伝はる
ように適切な表現を模索する必要があるのである。
0863名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/21(日) 20:41:06.61ID:mcaELYPH
規則の適用に融通がきかないことを批判して、「杓子定規」という
表現がよく使はれることがある。

>《曲がっている杓子を定規代わりにすること、正しくない
定規ではかることの意から》すべてのことを一つの標準や規則に
当てはめて処置しようとする、融通のきかないやり方や態度。
また、そのさま。< (出典 小学館 デジタル大辞泉)

曲がっているものを真っ直ぐな定規として受け入れることを
相手に要求するのだから、要するに「ダブルバインド」である。
規則の受け入れを拒んだなら、拒んだ側は、その自らの選択
により、つまり、自己責任で自身を"ἄνομος"/"without law"の
立場に置くことになる。逆に、規則をそのまま受け入れたなら、
曲がっていることが最初から分かっているもの直ぐな定規として
受け入れることを自らの選択により決めたのだから、
規則の適用の結果として「曲がった結果」がもたらされても、
やはり自己責任ということになる。したがって、杓子定規に
規則を適用しながらも、「真っ直ぐな結果」を得ようとする
なら、自己責任/負担で勝手に融通をきかせて、つまり、規則の
曲がった適用をして曲がりを補正するか、またはその責任
をさらに別の相手に転嫁して、その相手に自己責任/負担で
曲がりを補正させる必要がある。この「杓子定規」の規則運用に
おいて、人々に自発的に「有能さ」を発揮するように競はせる
ことにこそ、人々をうまく階層的に組織化するための鍵がある。
0865名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/22(月) 09:14:12.42ID:oMNk1ghV
『クラテュロス』においてソークラテースが説く、「名」を大切に
することの重要性を普通の日本語で言ひ換えるなら、「ものは言ひよう」
ということになるだろう。例えば、私が、

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「権力の犬」であり、哲学をする者とは、「世間から
半歩身を引いて賢明であろうとする知者」である。<

と発言したとすれば、それがどのようなものであれ、何らかの
思想に関心のある人々は、それだけで気分を害するだろう。
そこで、多くの人々の気分を害することを避けるために、
これを、私が次のように言い換へたとしたらどうだろう。

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「法治の番人」であり、哲学をする者とは、「世間に
対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらなし(痴)れ者」である。<

今度は、自身を、「法治を廃絶しようとするアナーキスト」の
思想家であると自負するのでない限り、何らかの革命を目指す
思想を信奉する者であったとしても、革命後の法治を否定する
ことはないだろうから、思想に関心のある人々もその大半は、
特にこの発言に対して、何らかの保留をつけることはあった
としても、強く反発することはないだろう。他方、自分は
本当に哲学をしていると自負している者であれば、自分が
他者には、「世間に対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらな
し(痴)れ者」と見られることは、既に慣れて、承知のうえの
ことであり、「世間から半歩身を引いて賢明であろうとする
知者」とされる方がむしろ、無用な自負を他人からお仕着せ
られているような感じがして居心地悪く感じるのではないか。
(ただし、「学問」として「哲学」を研究している
「哲学研究者」、「哲学学者」、「哲学史研究者」の場合
には、または話は別だろう)。
0866名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/22(月) 09:40:36.20ID:oMNk1ghV
したがって、ソークラテースが説く、「『名』を大切にすることの重要性」は、
日本語で普通に言ひ換へるなら、「『ものは言ひよう』だから、なにごとも
適切に表現するように心掛けることが大切である」ということになるだろうが、
『クラテュロス』においてソークラテースが最終的に支持する立場では、
「『名』を大切にすること」よりもさらに重要なことがある。それは、
やはり日本語で普通に表現するなら、「なにごともその真実を正しく知る
ことが最も大切である」ということになるだろうが、「『名』を正しく
使ふ」ことを介する以外で、それがどのようにして可能となるのかは示さ
れていない。いずれにせよ、日本語で考へて表現するなら、「なにごとも
その真実を正しく知る」とは、「なにごとについても、そのま(真)
こと(言/事)をし(知/領)り心得る」ことであるので、それは、
「『名』を正しく使ふ」ことと同じことになり、「ものは言ひよう」
だが、「なにごとについても、それを、どのような言ひ方を用ひた
としても、そのま(真)こと(言/事)にたが(違)はないように表現できる
なら、それについてのま(真)こと(言/事)をし(知/領)り心得ている」
ことになるだろう。
0867名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/22(月) 10:08:52.26ID:oMNk1ghV
>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「権力の犬」であり、哲学をする者とは、「世間から
半歩身を引いて賢明であろうとする知者」である。<

>言論の活動において、いつの世でも、思想を唱へる者は
つねに、「法治の番人」であり、哲学をする者とは、「世間に
対してはす(斜)に構えたさか(賢)しらなし(痴)れ者」である。<

私にとっては、この2つは、実はまったく同じことの言ひ換えに
過ぎない。思想に関心のある人々が、このような「言ひよう」の
違いに強く拘るとすれば、思想の言説が、それがどのような
思想を唱へているかとはまったく独立に、都合により、つまり、
その局面ごとに都合のよいように「言ひよう」を変え、あるとき
には雄弁になり、あるときには沈黙し、またあるときには
一つの言ひ方に強く執着するのに対して、また別のときには
その執着がなかったかのように、別の言ひ方をするという
言説の技法として存立しているからである。これに対して、
哲学する者は、「し(痴)れ者」のように、そのような局面ごとの
都合など無視して、様々な「ものの言ひよう」が結局、「同じこと」
を言っているなら、「そのま(真)こと(言/事)にたが(違)はない」
ように言ひ換へて、「ま(真)こと(言/事)」に気づかせてしまう
のである。

ところで、岩波古語辞典で、「し(痴)れもの(者)」の項目を参照すると、
>@ばか者、あほう。A気ちがいじみた者、無茶者、乱暴者。
という用法の他に、
>Bしたたか者
「きゃつらも痴れ者、ちっとも臆せず」(浄・念仏往生記) <
という用法があることが記載されている。
0868名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/22(月) 11:28:04.06ID:oMNk1ghV
>法("νόμος")は、強制力("ἀνάγκη")を発揮することができないなら、
無効化する。逆に見れば、法("νόμος")が実効性を発揮する限り、
法("νόμος")の側にないとされる者にとって、法("νόμος")は、
自身を"ἄνομος"/"without law"の立場に陥れるように作用する。 <

階層的に組織化された人々の関係における法治、すなはち、法("νόμος")
による支配とは(人々が階層的に組織化されていなければ、そもそも
法治は必要とされない)、法とともにあるとされる側、法を身方につけた側が、
つねに「まか(任/罷)りとお(通)る」ということであり、そのことは、
とりもなほさず、法とともにないとされる側、法を身方につけれれない側、
すなはち、法("νόμος")が発揮する強制力("ἀνάγκη")によって、
"ἄνομος"/"without law"の立場に陥る者にとっては、
「杓子定規」の適用が「まか(任/罷)りとお(通)る」ということで
あり、法治の下で皆が法("νόμος")に従はふとすることは、
「杓子定規」の適用をみづから(身づ柄/自ら)に優位に働かせよう
と競争しつづけることにより支へられている。したがって、
法治がより細かく効力を発揮するようにに行はれるようになるなら、
その競争の条件そのものがあらかじめ厳しく制限されることになり、
法("νόμος")は一方的に、絶えず、自身を"ἄνομος"/"without law"の
立場に陥れるように作用するものとしてあら(顕/現)はれること
になる。そこで、「規制緩和」が唱へられれば、あたかも、
その状況が緩和されるかのように錯覚されるわけだが、
「規制緩和」の法改正によって実施されるのは、つねに
階層的に組織化された人々の関係における法治の強化である。
0869名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/22(月) 11:56:21.67ID:oMNk1ghV
ソークラテースの「魂(たましひ)」についての言説をその言葉どおり
に真に受けることができない(つまり、それを「ま(真)こと(言/事)」
であるとすることができない)のは、ソークラテースが、理想として
唱へているのが、「世間(temporal world)から半歩身を引いて」
生きることではなく、「世間(temporal world)から完全に身を引く」
こと、つまり、身体を離れた「魂(たましひ」の「あの世行き」
だからである。しかも、ソークラテースは、身体を離れた
「魂(たましひ」が決して「世間(temporal world)」に戻って来る
ことがないことも明言している。したがって、ソークラテース自身、
身体を離れて「あの世行き」になった「魂(たましひ」について、
「世間(temporal world)の現実」に基づく憶測から以外、
何も知りようがない。それ故、ソークラテースの説いている
ことは、実質的には、生きている間でも自分の「魂(たましひ)」
の在り方に気づかふなら、「あの世行き」を恐れる必要はない
と言っているに過ぎないことになる。
0870名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/22(月) 13:37:27.50ID:oMNk1ghV
「まか(任/罷)りとお(通)る」の「まか(任/罷)り」とは、
»mit Erlaubnis«(許可を得て)である。このような表現の対応関係からも、
「まき(牧)ば(場)」の「まき」が、「ま(任)け」と共通する表現である
ことを確かめることができる。
0872「〜べき/べし」と告げる/吠えるのは誰か
垢版 |
2023/05/23(火) 10:13:52.42ID:3TksVJGP
「奴隷("δούλοις")にとっては、力("ἀνάγκη")が法("νόμος")である一方で、
自由人("ἐλευθέροις ἀνθρώποις")にとっては、法("νόμος")が力("ἀνάγκη")である」

Was soll das heißen?/それはどのような「名付け」として当為なのか

"ἀνάγκη"とは、「学問」としての「哲学用語」で説明するなら、
»Sollen«/「当為」として効力を発揮することであり、日本語の日常表現
で言い換へるなら、「(そのように)成る『べく』して成る」と言ふ場合の
「べき」である。したがって、
>τοῖς μὲν δούλοις ἡ ἀνάγκη εἰσί νόμος ,
τοῖς δὲ ἐλευθέροις ἀνθρώποις ὁ νόμος εἰσίν ἀνάγκη<
とは、
「奴隷にとって、「〜べき/べし」と告げるのが法である一方で、
自由人にとって、法が「〜べき/べし」と告げることである」
ことを表現していると解釈することができる。
0873名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/23(火) 10:45:32.00ID:3TksVJGP
>>872
このように日本語の「べき」に対応する古代ギリシア語の"ἀνάγκη"
をラテン語では、"necessitas"と言い換へるわけだが、古代ギリシア語
とラテン語が印欧諸語として言語学的に同じ系統のグループにまとめら
れるからといって、古代ギリシア語の表現を解釈するのにラテン語を
使った方が、日本語を使ふのと比べて、別段、有利になるということはない。
そのことは、せいぜい、「(生活)必需品」と漢語で表現するのと、
「(暮らしのために)あるべきもの」と表現するのとで、どちらが
より表現の意図が伝はりやすくなるかといった程度の違ひに過ぎない。
0874名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/23(火) 11:04:42.48ID:3TksVJGP
名詞として用ひられる日本語の表現として"ἀνάγκη"に対応する表現には、
「当為」が、"oughtness(英語)"、"Sollen(ドイツ語)"、
"devoir(フランス語)"に対応するとされている
(出典 kotobank.jp/word/当為-103059)ことからもすぐに分かる
とおり、「はず(筈)」がある。

岩波古語辞典で「はず(筈)」を参照すると、次の記載が見られる。
>当然合致すべきものの意
>そうなるべき予定。見込み。
>そうなるべき必然性、道理。わけ。
0875名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/23(火) 13:48:10.21ID:3TksVJGP
»wollen«/《vouloir》の「〜を!」と、その求めの呼びかけに
こた(応)へる「はず」の»sollen«/《devoir》の「〜を」が
相応しく対応して「つながる」ように「適合」/《adéquation》を
こころ(心)み(観)/試みつづけることによ(依)り、みづから(身づ柄/
自ら)に「あた(与/能/価/値)ふ」ことを、その都度の「暫定的」/
"temporal"な「あた(与/能/価/値)ひ」/"ἀξίᾱ"としてし
し(知/領)ることに、「現世(うつしよ)」/"temporal world"
に「ひと(人/一)」として「よ(良)く」生きようとすることがある。

したがって、「ひと(人/一)」が生きることが、あらかじめ与へられた
»sollen«/《devoir》/「〜を」(呼びかけに応じるべきこと)によって
導かれる「べき」であるとするのは、「倒錯」であり、またそれとは
逆に、»wollen«/《vouloir》/「〜を!」(求める呼びかけ)は、
粘り強くあきらめずにこた(応)へを求めつづけるなら、必ず
かな(適)ふ「はず」であるとするのも「幻想」である。それでも、
そのような考へ方は、それらを、それぞれ、単に「倒錯」、
「幻想」と呼び捨てて済ませられるようなものではない。
というのも、人々の組織化は、そのような「倒錯」と「幻想」を
絶えず巧みに用ひつづけることによって実現されているからである。
だからこそ、「ひと(人/一)」として「よ(良)く」生きようとするなら、
世の中で唱へられる言説が、どのようにその「倒錯」と「幻想」を
増幅するように働いているのかにつねに注意深くあることが必要とされる。
0876名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/24(水) 00:14:34.41ID:ACnhw6Pj
気まぐれに買ってみたArthur Koestlerの"Thieves in the Night"の
ドイツ語訳、"Diebe in der Nacht"、まだ半分も目をとおしていないが、
自身の体験を通した優れた観察能力と記述表現能力が発揮されている。
私自身、この作品を原文の英語では読んではいないものの、
ドイツ語訳から推察するに、この作品を原著から日本語に訳すのに
適した能力のある人は、日本に数多くいるはずだろう。
原著はあまり流通していないようで、比較的価格が高めで、
日本語にも訳されていないのは残念なことだ。
0877名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/24(水) 10:15:24.92ID:ACnhw6Pj
>Was soll das heißen?/それはどのような「名付け」として当為なのか

『クラテュロス』においてソークラテースは、
»Was soll das(この場合は、「呼び名」) heißen?«という形の問ひ
にうまく応へようとこころ(心)み(観)る/試みることにより、
その»Sollen«に相応しく対応する「はず」の、そのように
名付けた/表現した人の»Wollen«/「こころ(意)」を明らかにしようとしている。
0878名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/24(水) 13:38:57.63ID:ACnhw6Pj
「みづから(身づ柄/自ら)にどのようなことが、どれだけあた(与/能/価/値)ふ
のかをし(知/領)ろうとする」こと、それが»unternehmen«、"to undertake"、
《s'y prendre》という行為であり、み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み
であり、ラテン語の"conor"に対応することは、あまりにもしつこく繰り返して
きたので、もう聞き飽きただろう。

では、その"conor"に、日本語としては、「あらかじめ/前もって」に対応する
と解釈することができる"prae-"という接頭辞をつけただけの"praeconor"
という表現についてはどうだろうか(ただし、一般に流通している語源解釈
は、そのような解釈はしていない)。こちらは、英語では、通常、
"to herald"、"to proclaim"といった訳が当てられている。これらは、
日本語としては「あらかじめ周知させる」行為として"praeconor"を
捉へているわけだが、「発話遂行的にそのような行為となっている言葉」
として対応する日本語の表現は、万葉集の歌にもすぐに見出すことが
できる。それは、「八隅知之(やすみしし)」である。

万葉集 第19巻 4254番
>八隅知之 吾大皇 秋花 之我色々尓 見賜 明米多麻比
酒見附 榮流今日之 安夜尓貴左
(出典 万葉集ナビ)
0879名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/24(水) 13:56:58.21ID:ACnhw6Pj
>やすみしし【安見知・八隅知】
国の隅々まで知らす(治める)意、または、安らかに知ろしめす意から、
「我が大君」およびその変形である「我ご大君」にかかる。
(出典 精選版 日本国語大辞典)

上に引用した万葉集 第19巻 4254番 の歌では、
天の日継と神ながら天の下を治めたまふ「我が大君」が
「四方の人をも あぶさはず 恵みたまふ」ことが詠まれているが、
自らが何かを生産する労働に従事しているわけでもないのに
そのようなことが可能なのは、「八隅知之(やすみしし)」とされる
様態を実現していることが、"prae・conor"、つまり、
「あらかじめ/前もって」の「み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み」
として「み(身)ど(獲/取)りの先取り」となっているからである。
0880名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/24(水) 14:12:20.46ID:ACnhw6Pj
万葉集 第6巻 956番
>八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
>やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
(出典 万葉集ナビ)

ところで、万葉集の歌では、「八隅知之(やすみしし)」と形容される
のは、「おほきみ(大君)」などであるが、ここで「おほきみ(大君)」
を、「法治の主権者」で置き換えるなら、それが具体的にどのような
存在者と見做されるにせよ、それが理想的な「法治の主権者」である
なら、「四方の人をも あぶさはず恵みたまふ」ことを実現させる
「はず」であると唱へることにおいて、「思想の言説」は、万葉集の
時代から千年以上を経ても、ほとんど何も変はっていないのではないか。
0881名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/24(水) 14:15:10.24ID:ACnhw6Pj
「八隅知之(やすみしし)」(隅々まで行き渡るように治める)法の支配が
実現されると、人々の生活は理想に近づくのか。
0882名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/25(木) 07:35:11.77ID:T9oJHUaA
現に統治する者が「八隅知之(やすみしし)」と形容される、すなはち、
現世が統治者により既に「隅々までし(知/領)り尽くされている」と
公布されているにもかかわらず、みづから(身づ柄/自ら)にあた(与/能/
価/値)ふことが何もないと実感されるなら、現世において、
みづから(身づ柄/自ら)には、何の望みも残されていない/
絶望しかないことになるのではないか。
0883釈迦の手の内
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2023/05/25(木) 07:56:57.34ID:T9oJHUaA
>「みづから(身づ柄/自ら)にどのようなことが、どれだけあた(与/能/価/値)ふ
のかをし(知/領)ろうとする」こと、それが»unternehmen«、"to undertake"、
《s'y prendre》という行為であり、み(身)ど(獲/取)りのと(獲/取)り(汲/組)み
であり、ラテン語の"conor"に対応する <

>「八隅知之(やすみしし)」とされる様態を実現していることが、
"prae・conor"、つまり、「あらかじめ/前もって」の「み(身)ど(獲/取)り
のと(獲/取)り(汲/組)み」として「み(身)ど(獲/取)りの先取り」となっている<

つまり、みづから(身づ柄/自ら)の「と(獲/取)り(汲/組)み」、
»unternehmen«、"to undertake"、《s'y prendre》としての行為は、
つねにすでに"incorporated in advance"という様態においてしか
あら(顕/現)はれようがないことになる。
0884名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/25(木) 08:09:54.20ID:T9oJHUaA
>如来は悟空に身の程をわきまえさせるために賭けを持ちかけ、
如来の手のひらから飛び出せなかった悟空を取り押さえて、
五行山に五百年間封印してしまった。<
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/孫悟空)

みづから(身づ柄/自ら)が五百年を超えて生き延びるなら、
現世においても望みはあるということか。
0886名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/25(木) 18:29:49.21ID:T9oJHUaA
>λύπης ἰατρός ἐστιν ἀνθρώποις λόγος
ψυχῆς γὰρ οὗτος μόνος ἔχει κουφίσματα/θελκτήρια<

(出典 Caspers, C.L., Healing speech, wandering names,
contests of words : ideas aboutlanguage in Euripides)
0887Note
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2023/05/26(金) 08:15:59.49ID:RWAUG9YX
書くというのは、どのような行為で、また、
書かれたものを読むとは、どのような行為だろうか。

記号論的(ここで「記号」論という名づけが既に誤解をもたらす
のだが、ここで通常は「記号」と訳されている表現に日本語として
より自然に対応する表現は、「しるし(標)」であり、「しるし(標)」
を用ひた「あひず(合図)」である)に言ふなら、
書くとは、気づいたことについて、何にどのように気づいた
のかを思ひ起こさせるように「しる(標)し」をつけて「あと(跡)」
に残す行為であり、読むとは、そのようにして残された
「あと(跡)」を確かめて、その「しる(標)し」によ(依)り、
何にどのように気づいたのかを思ひ起こす行為である。
0888名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/26(金) 08:33:06.47ID:RWAUG9YX
教育制度における読み書きの訓練では、速記と速読の能力を磨くことが
重視される。速記とは、その場で書かれたことや話されたことを
書き写すことであり、速読とは、書かれてあることから、
要点を拾い出すことである。したがって、速読によって訓練されて
いるのは、求められている情報を素早く検索する能力である。
0889名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/26(金) 09:57:00.56ID:RWAUG9YX
速記と速読の能力の高さが重視されるのは、それが事務処理能力として
役に立つからだ。速読の効率を高めるのは、情報の冗長性を機械的に
一括処理することであり、求められている情報とは無関係な情報は、
最初から処理の対象から除外することである。

仕事として大量の情報を処理しなければならないなら、速読の能力
が高いことは大いに有用であるが、他人に求められているわけでも
ないのに自分で何かを読もうとするなら、冗長な情報の機械的な一括
処理であれ、無関係な情報のあらかじめの除外であれ、そのような
作業がやはり必要とされるとしても、主としてその作業をやりたい
から書かれたものを読むわけではないだろう。むしろ、そのような
作業は省かれていることが望ましく、最も効率的な速読は、そもそも、
自分にとって不要な情報や冗長な情報は、まったく読まなくても済む
ことである。
0890寝耳に水
垢版 |
2023/05/26(金) 10:25:47.11ID:RWAUG9YX
ところで、事務処理であれば、必要とされる情報を記入する。
その一方で、他人から求められているわけでもないのに自分で
何かを書くとすれば、それは、
>気づいたことについて、何にどのように気づいたのかを
思ひ起こさせるように「しる(標)し」をつけて「あと(跡)」
に残す行為<
である。何にどのように気づいたにせよ、それについて、
そのように気づいて、それを言葉として「しる(標)す」
ことができるようになるまでには、また、それがまだうまく
言葉にできていないとしても、長い年月の経験の積み重ねを
要していることもある。しかし、そのようにしてようやく
「しる(標)された」言葉でも、他人にとっては、意味不明で
あったり、当たり前のことしか言っていないように思えたり、
それを「しる(標)す」本人に思ひ起こさせるのとは、まるで
別のことに気づかされ、思ひ起こさせるものとなることが
よくある、というより、その方が、何かを読むことの「反応」
としては(自分がそれを書いた場合も含めて)普通である。
だからこそ、そこに「しる(標)された」言葉を読んで、
それがどのようにか自分に役に立つものかどうかを判断しよう
とするなら、「反応」に全面的に依りかかるのではなく、
その「しる(標)し」が何にどのように気づかせることになる
のか、その可能性を探ることがつまりは、「反応」としての
自分の気づきも含めて省察すること)が必要とされるのだ。
0892名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/26(金) 10:53:30.45ID:RWAUG9YX
なぜ言論統制が行はれるのか考へてみるといい。
それは、言葉が何かにどのようにか気づかせるために使はれる
ものであるからであり、言葉を使ふことが、何かにどのようにか気づく、
その気づき方を絶えず生成しながら再編成することになるからだ。
そして、気づくことは、誰にもあらかじめ占/専有され得ないのである。
0893名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/26(金) 11:06:31.83ID:RWAUG9YX
例えば、この掲示板に書込みをするのでも、その都度、書込みの内容の
著作権が掲示板の運営者に属することになることに同意を求められ、
それに同意しなければ、書き込むことができない。したがって、
書かれたことを「製作品」/"a product"と見做すなら、その「製作品」/
"a product"の所有権を譲渡することにあらかじめ同意させられて
いる、言い換へるなら、自分自身が書き込む行為において
"I owe you whatever I write here"という関係性に同意させられて
いることになるわけだが、自分が書く行為がそのようにあらかじめ
取り込まれることになっているとしても、その書込みが公開される
結果として、場合により自他に生じ得る気づき方の再編成については、
誰もそれを占/専有することができない。
0894名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/26(金) 11:40:10.14ID:RWAUG9YX
現代ヘブライ語の使はれ方は、Arthur Koestlerが、上で言及する小説、
"Thieves in the Night"を執筆した20世紀前半の状況と現代の
イスラエルでは大きく異なるだろうが、この小説には、現代ヘブライ語が
計画的に復興されて新しい世代で母語として使はれるようになった
ことの結果についての興味深い考察が記されている。

ヘブライ語そのものは、古くから書き残され、宗教制度との関係で
使はれつづけてきたので、「古典的な言語」と呼ぶことができる
だろうが、その「古典的な言語」を基礎として、母語として計画的に
復興された現代ヘブライ語の方は、「人工言語」と見做されること
がある。私は、「人工言語」という呼称は妥当ではないと考えるが
(人が用ひる言語で「人工的」でない言語は存在せず、そのような
呼称を用ひるなら、「日本語」も「人工言語」である)、古代から
続く言語を基礎に復興させられた現代ヘブライ語も、いはば、
「古い言ひ回し」を保った「歴史の浅い」言語と感じられるような
ものとなってしまったという感慨が、この小説に記された考察から
は窺える。しかし、まったく同じことは、標準化された現代の
「日本語」についても言へるだろうと私は思ふ。これは、単に
「古い日本語」で書かれた「古典」を、現代の日本語による
解説や「翻訳」を参照しながら読むことで解決するような問題
ではない。本当に重要なのは、その「読む」行為が、どのように
「読む」行為となっているかを深く考へてみることである。
0895名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/26(金) 11:56:50.52ID:RWAUG9YX
「古典語」の教育は、「言葉の使用の歴史性」を抹消するためにすら
利用することができるのである。「言葉の使用の歴史性」は、古い言ひ
回しをそのまま用ひることによって保たれるのではない。そうではなく、
そこに見られる「気づき方」の編成を、時と場所に応じてで新たに活かす
ように用ひつづけることによって保たれるのだ。
0896丈くらべ、或いは背伸びしたしろしめし/marking
垢版 |
2023/05/27(土) 09:18:01.38ID:4yIZfhro
いき(息/生)のを(緒)、たま(玉/魂)のを(緒)としてつながること
のない言葉は、な(汝/己)のま(真)こと(言/事)をしろしめすに
あた(当/与/能/価/値)はず、な(汝/己)のま(真)こと(言/事)を
しろしめすにあた(当/与/能/価/値)はない言葉は、原理的に
真理条件を満たすことができないので、通用する言葉とは
ならない。

な(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされることは、
互ひをあざむ(欺)こうとする振舞ひを排除するものではない。
それどころか、背伸びした丈くら(比/競)べがそうである
ように、互ひをあざむ(欺)こうときそ(競)ひあ(合)ふこと
によってこそ、それまでひそ(潜)んでいたな(汝/己)の
ま(真)こと(言/事)がしろしめされることになるのだ。
ま(真)こと(言/事)をう(請)けあ(合)ふことができること/
"accountability"も、きそ(競)ひあ(合)ひの結果をたし(確)か
めることの理念化として生じるのであって、きそ(競)ひあ(合)ひ
に先立って理念として存立しているのではない。

「やま(山)のごと(如)し」と言ってみたところで、その表現が
「大きさ」を伝へる言葉として通用するためには、「やま(山)」
と呼ぶものが、みづから(身づ柄/自ら)より大きいことが、
な(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされていることが前提となる。
0897鳥占い
垢版 |
2023/05/28(日) 00:17:35.68ID:yYasP8F5
「しるし」にな(汝/己)のま(真)こと(言/事)がしろしめされている
可能性を探ろうとする読みが、"charitable reading"である。
0898名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/28(日) 00:29:07.91ID:yYasP8F5
>>896
誤:ま(真)こと(言/事)がしろしめされていることが前提となる。
正:ま(真)こと(言/事)としてしろしめされていることが前提となる。
0899名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/28(日) 08:07:44.10ID:yYasP8F5
俗(temporal/secular)に「世界」と呼ばれる現世(うつしよ)/この世は、
絶えずうつりかはる気づき方によ(依/寄/因)りお(織)りな(成)された
「おも(思)ひな(成)し」としてあり、その気づき方がどのよう
であるかを「し(知/領)らせ」ようと、何らかの「しるし(標)」
をつか(使/仕)ふこと(例えば、「こゑ(声)」を発すること)で、
その「どのようであるか」が伝へられ、そのためにつか(使/仕)は
れて「かひ(効)」があり、あと(跡)に残る「しるし(標)」として
伝へられるものが「ことば(言葉)」である。
0900a giant step for a man/a tiny leap for mankind
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2023/05/28(日) 11:51:24.30ID:yYasP8F5
残された足跡の現実離れした大きさから、
いまだかつて現存したことのない存在者としての
不在の「巨人」が理念化されてあら(顕/現)はれる。
0901名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/28(日) 18:17:51.49ID:yYasP8F5
個人的なことを言ふと、私は本当に長い間、私の周囲の人々が当然の
こととして受け入れてい行動原理と私が自然に従っている行動原理に
根本的に大きな「ずれ」があることに気づいていなかった。その大きな
「ずれ」は、匿名の掲示板であっても、私のような書込みをする人が
見渡す限り他に誰も見当たらないことにも表れているのだろう。
私としては、単に自分が言ひたいことを言っているだけなのだが、
本当に自分が言ひたいことが、このようなことばかりであるというのは、
ほとんどの人にとっては、どうもかなり例外的なことらしい。
0902名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/29(月) 07:39:54.03ID:U/GNQlnG
>atone (v.)
1590s, "be in harmony, agree, be in accordance," from adverbial
phrase atonen (c. 1300) "in accord," literally "at one," a contraction
of at and one. It retains the older pronunciation of one.<
(出典 etymonline.com/search?q=atone)

このような表現の例を見ても、英語やラテン語において、通常、以下の
ように説明される"ad-"、"ac-"、"a-"の用法
>ad-
word-forming element expressing direction toward or in addition to,
from Latin ad "to, toward" in space or time; "with regard to,
in relation to," as a prefix, sometimes merely emphatic, from
PIE root *ad- "to, near, at."

Simplified to a- before sc-, sp- and st-; modified to ac- before many
consonants and then re-spelled af-, ag-, al-, etc., in conformity with
the following consonant (as in affection, aggression). <
(出典 etymonline.com/search?q=atone)
には、古代ギリシア語の場合に、"alpha copulativum"と呼ばれる
"a- or ha-"との類似性を、したがって、表現上の用法としての"be-"や
"con-"との共通性が私には強く感じられる。

>Greek also had an alpha copulativum, a- or ha-, expressing
union or likeness, which is the a- expressing "together" in acolyte,
acoustic, Adelphi, etc. It is from PIE root *sem- (1) "one; as one,
together with."<
(出典 etymonline.com/search?q=atone)
0903名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/29(月) 08:46:08.46ID:U/GNQlnG
ひと(人/一)の言語は、気づき方によ(依)より「しるし(標)」
(代表的には、みづから(身づ柄/自ら)の身体性に結びついた
「こゑ(声)」を出すこととしての発音)を「理念化することを
活用しながら」体系を成すようにかたち(形)づく(作)られつづける。
0904名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/29(月) 18:57:31.20ID:U/GNQlnG
>>444
>1. 本居宣長の直毘霊(なおびのみたま)と、
2. ソークラテースの"ἀρετή(aretḗ)"/「すこやかさ(健全さ)」と、
3. ニーチェの思想における「快癒」<

いくら「快癒」を心から願ったところで、「なやみ」の診断が誤って
いたなら、すこやかさの回復がもたらされるどころか、「なやみ」は
さらに深刻になる。「なやむ者」にとってさらに「あ(悪)しき」ことは、
診断する役割を担ふ側が意図的に誤診断を下す場合だ。そんなことは
あり得ないと思ふだろうか。しかし、この世では、診断する役割を担ふ側
にとっては、誤診断を下しつづけて、それを人々に正しい治癒法である
と信じ込ませることこそが、診断する役割を担ふ側にとっては、
紛れもなく「よ(善/良)き」ことであるという事態がごく自然にあり得るのだ。
0905名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/29(月) 19:09:29.44ID:U/GNQlnG
私が書き込もうと思っているのは、人とその他の動物を鋭く対比させる
世界観についてである。しかし、私は、思想界隈で流通している
「動物倫理」のようなことを説こうと思っているわけではない。
それどころか、私には「動物倫理」のような言説こそ、意図的な
誤診断の典型であるように思える(だからこそ、私は、そもそも
そのようなことを主題として掲げて書かれた著作に目を通す気に
すらならないわけだが)。
0906名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/29(月) 23:41:25.01ID:U/GNQlnG
現代の社会では、身分制度は廃止されたことになっており、
身分制度を復活させるべきであると論じるような人はまずいないし、
たとえいたとしても、大多数の人々は、自分に高い身分が制度的に
保証されることになることが見込めないのだから、そのような
訴えが大半の人々の支持を得て、多数派を形成することはあり得ない
だろう。しかし、そうであるにもかかわらず、ではなぜ、あたかも
身分制度が存続しているかのように上意下達の単方向の命令指揮系統
を確立するように人々が階層的に組織化されることが一般的であり、
大多数の人々が、そのような組織化を「自発的に」受け入れている
ように見えるのだろうか。人々は、自分が階層化された組織に
おいて、命令指揮系統により下される指示に忠実に自分の務めを
果たしたなら、それが評価されて階層を昇進し、組織内で比較的
優位な立場を確保することができるようになると見込んでいるから、
組織に自発的に従属することを選択しているのだろうか。
0907名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 00:36:58.52ID:LcahEt/u
そうではないだろう。人々が階層的に組織化されることを「自発的に」
受け入れているように見えるのは、命令指揮系統において上意下達の
指示に一方的に従はざるを得ない立場であっても、組織に従属しない
個人よりは、集団として優位性を確保することができるからである。
人々は集団として、他の人々の集団より優位を確保するために
階層的な組織化を互いに競ひ合って拡大するのであり、組織に
従属しないでいることは、著しく不利な立場に身を置くことになる
のだ。ところで、このことから自ずと生じるのが、階層化された
組織に従属することにより集団としての優位性の確保していることと、
上意下達の指示に一方的に従はざるを得ない立場に身を置かざるを
得ないことの間の「葛藤」である。これは、あくまでも「葛藤」
であって、その解消が追求され得る「矛盾」ではないことに
留意する必要がある。この「葛藤」は、そのような集団において
生きる人々に深い「なやみ」をもたらすが、その「なやみ」は、
「組織化の改善」によって解決されることは望めない。なぜなら、
自らが従属する集団の階層的な組織化が解消されたなら、それは
とりもなほさず、自分にとって確保されている優位性も失はれる
ことを意味しているからである。
0908名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 00:49:04.34ID:vL/tEw9y
次のことを考へてみるといい。
階層的に組織化された集団においては、組織の命令指揮系統において
上位の立場になければ、組織化を改革しようとすることはあり得ず、
どのような改革を目指すにせよ、それが命令指揮系統の弱体化を
目標とすることはあり得ない。組織において下位の立場からの要求が
実効力を発揮することは不可能であり、またそのような組織に
従属しない者は孤立して、集団に対して著しく不利な立場に置かれて
いるので、何をどう発言したところで、集団の組織化に対して
影響力を及ぼすことはできない。
0909名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 07:47:33.17ID:vL/tEw9y
ニーチェの主著である"Also sprach Zarathustra"の冒頭には、
>Ein Buch für Alle und Keinen
という言葉が掲げられている。これは、
「すべての者のための、誰のためのものでもない本」
という意味である。一見したところ、謎めいて見えるが、
ニーチェがこの言葉によって伝へようとしているのは、この本が
書かれたのは、「すべての人々に共通するやまひ(病)」の治癒
に向けられてであるが、そこで提案される治癒法は、
「汝/己自ら以外の他の誰のためのものでもない」ということだろう。
ニーチェは、哲学や思想の長い歴史のなかで自分だけが
初めて、「すべての人々に共通するやまひ(病)」からの
治癒には、「集団組織として解決法」はあり得ず、それは
「『な(汝/己)』が健やかさを回復することに向かふ」こと
においてのみ追求され得る、ということに気づいたのだ
と感じている。これは、そのような気づき方が「な(汝/己」
のもの以外ではあり得ないという意味では、錯覚ではないが、
しかし、「『な(汝/己)』の気づき」としては絶えず、繰り返し
言葉として表現されてきたものである。しかし、その一方で、
ニーチェの言説そのものも、「人類」全体に向けられた
プロパガンダの形式をとり、"Übermensch"という標語を
用ひることで、人類という集団と対比される「自己の個人
人格崇拝」の一種として解釈されて集団組織化のイデオロギーに
ふたたび回収されてしか理解されないことが普通である。
0910名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 07:54:02.33ID:vL/tEw9y
「すべての人々に共通するやまひ(病)」には、「集団組織」としての治療法も、
「集団組織」と対比される「個人」としての治癒法もあり得ない。しかし、
思想の言説はつねに、そのことに気づかせないようにするために、
大抵の場合、意図的に思考の縺れをもたらすように言説を紡ぐのである。
0911名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 19:16:27.83ID:vL/tEw9y
キリスト教神学の言説が、それを引き継ぐ思想が、人間と他の動物
(特に「けだもの(獣)」)を明確に区別して、他の動物を人に劣る存在と
見做すことが一般に知られている。その一方で、人として集団組織
を形成する前の、あるいは集団としての組織化が十分に発達していない
とされる「野蛮」の段階にあるとされる人の生活は、「けだもの(獣)」
と同様のものとして思想の言説において描かれてきた。しかし、
その描写も、しばしば、自然観察により記述されるような野生動物
の生態とは、無関係のものであり、むしろ、「野生」についての
「奇妙な偏見」を感じさせるものであることが少なくない。そこで、
「自然との調和を求める東洋とは異なり、西洋は、人間と自然を対立的に
捉える偏った世界観に基づく物事の考え方をする」といった批評的な
論説がしばしば見られることになるわけだが、そのような批評は、
そうした「野生」についての「偏見」に見えるものが、そもそも、
思想としての「意図的なイデオロギーの反映」であることを見落としている。
0912名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/05/30(火) 20:54:01.26ID:vL/tEw9y
キリスト教神学の言説も含め、思想の言説に「典型的」に見られる
「けだもの(獣)」や「野生」についての論述は、そもそも、
考察のための基礎として、自然環境における野生動物の生態を
綿密に観察して、その特徴を捉へて記述しようとするような
ものではない。そうではなく、「けだもの(獣)」や「野生」に
ついて述べることは、自分自身を含む人々が現状で生きている
「人の集団組織化の現実」として認識された「理念」の
「裏返し」、つまり、「人々が集団組織化されていなかったとしたら、
人はどのような状態に置かれることになるだろうか」という
「欠如態の理念化」として行われているのである。だから、
「けだもの(獣)」や「野生」を著しく劣ったものと見做すことが、
そのまま、「人の集団組織化の現実」をその評価において
少なくとも相対的に持ち上げることになるのである。

「そんなに単純ではない、野生のけだもの(獣)が高貴
なものと見做されたり、その自由に対する憧れが表現
されることもある」といった類の反論があることが
予想されるが、「けだもの(獣)」や「野生」が著しく
劣ったものであるとされると同時に、その姿が「高貴」
であるとされたり、「自由」であるとして憧れられ
たりすることが、まさしく、その「理念化」が、
「人の集団組織化の現実」として認識された「理念」の
「裏返し」であることをはっきりと示しているのである。
というのも、「人の集団組織化の現実」は、それにより
自分自身に優位性をもたらすことになっているとともに、
それと引き換えに不自由な従属を耐え忍んでいることの
自覚として認識されているからである。しかも、その
優位性の自覚は、実のところ、野生動物に対するもの
というよりも、「けだもの(獣)」や「野生」に喩えられる
集団組織化において劣っていると考へられる人々に対する
ものなのである。
0913名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/30(火) 20:58:12.38ID:vL/tEw9y
思想の言説に「典型的」に見られる「けだもの(獣)」や「野生」に
ついての論述は、英語を用ひるなら、"civilized"という表現によって
理念化される様態の裏返しであると言うことができるだろう。

>civilize (v.)
c. 1600, "to bring out of barbarism, introduce order and civil
organization among, refine and enlighten," from French civiliser,
verb from Old French civil (adj.), from Latin civilis "relating to
a citizen, relating to public life, befitting a citizen<
(出典 etymonline.com/search?q=civilized)
0914名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/31(水) 08:51:29.73ID:wwARfQB8
「野生」とは、みづから(身づ柄/自ら)が「自発的に」(自己抑圧的に)
従属する集団組織化の理念化の裏返しであり、そのように裏返されて
理念化されたみづから(身づ柄/自ら)の「かげ」/"cast image"が
「けだもの(獣)」なのだ。
0915名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/31(水) 09:24:16.83ID:wwARfQB8
>>914
日本語には既に、この関係性を全体として捉へた喩としての
表現が存在する。その表現が、万葉集の歌に詠まれた
「さ『を・し』か/左乎之加/さを鹿」である。

>万葉集 第20巻 4320番
麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由加牟 安伎野波疑波良
大夫の呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原
ますらをの よびたてしかば さをしかの むなわけゆかむ あきのはぎはら
(出典 万葉集ナビ)
0916名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/05/31(水) 18:43:50.20ID:wwARfQB8
生きることにおいて「なにもしないことが『できる』」ことにより、
あたかもみづから(身づ柄/自ら)が「王」となったかのように
「巨人」の如き力を司っていることになる。
0917名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/01(木) 00:49:56.66ID:8JpyrrUh
世界は、世代を超えて受け継がれる気づき方の織り成し
としてつねに暫定的に形を成して現に生きられており、
生きることはいつでも、その形をたよ(頼/手依)りにする
ことを手探りでこころみている。
0918名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/01(木) 05:33:31.41ID:8JpyrrUh
私の言葉が人生訓のようなものと誤解されないように、次のように
私が問ふとすれば、どのような答えが返ってくるだろうか。

私がこの掲示板に書き込むことと、米国メジャー・リーグの
プロ野球選手が試合で勝ち投手になることは、「行為の達成」と
して、どちらが「より凄いこと」だろうか。ここで、私の問ひの
意味を曲解しないようにしよう。私は、そのどちらが「行為の
達成」として「より凄いこと」であるかを問ふているのであって、
私と、そのようなプロ野球選手のどちらの方が「人として凄い」
かを問ふているのではない。
0919名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/01(木) 06:03:29.76ID:8JpyrrUh
この掲示板に書き込むことは、私ではなく、他の誰かが同じ場所に
座って同じパソコン機器を目の前にしていたとしても、その他の
誰かも、多くの場合、簡単に実行することができるだろう。
それとは対照的に、米国メジャー・リーグの野球の試合で
勝ち投手になることは、その選手の代わりに同じマウンドに他の
誰かが立たされたとすれば、それを同じように実行することが
できる人は、例外的にしかいないだろう。その一方で、それを
「行為の達成」として見た場合、試合が行われて、その結果が
引き分けでない限り、対戦チームのどちらかの投手が勝ち投手
になるのであり、100年以上前のメジャー・リーグ発足当時の
試合でもやはり、それは誰かによって行為として達成される
ことである。しかし、インターネットの掲示板に書き込むことは、
その当時であれば、インターネットどころか、パソコン機器も
まだ存在しないので、それを行為として達成することは誰にも
不可能である。また、何をそんな当たり前のことを言っているのか
という反応が返ってくることは目に見えているが、人は
自らが生きている現実を言葉にして記述しようとするとき、
そこにあらゆる思ひが入り混じってしまうので、そのことを
自覚しない限り、その記述により自分がなにをどのように
考へることになっているのかすら、すぐに混乱してしまう。
0920名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/01(木) 07:38:45.06ID:8JpyrrUh
私がこの掲示板に書き込むというたったそれだけの行為を達成する
のにも、それを可能にしている前提となる条件は、数限りなくあり、
パソコン機器や、インターネットのサーバを運用する仕組みをを
作り上げている技術を形成している「気づき方の織り成し」だけ
をとってみても、それを全体としてすべて把握しているような
人は誰もいないし、それは今現在、生きている人々の「気づき方」
だけによって「織り成され」ているわけではなく、世を継いで
伝へられてきた「気づき方の織り成し」である。それでも、
それが「気づき方」の織り成しとして現存していることは、
例えば、土中から掘り出された何らかの目的で人によって
作られたモノが、その素材と形としてだけ遺された、使途不明
なものモノとなってしまうことからも分かるだろう。
0921八隅知之(やすみしし)
垢版 |
2023/06/01(木) 08:21:07.72ID:8JpyrrUh
現世に生きる人が何らかの行為を達成しようと場合、そのことは、
その行為が道を歩くというような極めて単純なことであっても、
世を継いで伝へられてきたそのような「気づき方の織り成し」を
前提としている。その全体をすべて把握している人は、現世
には誰一人いないにもかかわらず、それをみづから(身づ柄/自ら)
が何かを為すために利用するなら、それは「不在の巨人」に
よる偉業として残され、受け継がれて現存するものであるかの
ように理念化されてあら(顕現)はれることになる。
科学者のニュートンは、
>私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからです。
という言葉を残したと伝へられているが、しかし、その「巨人」は、
実在する「存在者」としてはいつの時代に遡っても「不在」であり、
つねにすでに「不在の巨人として理念化されて現世に継承される存在者」
としてのみ人々の前にその姿をあら(顕/現)はすのである。
0922炭素の巨大な足跡
垢版 |
2023/06/01(木) 08:41:25.98ID:8JpyrrUh
>現世に生きる人が何らかの行為を達成しようと場合、そのことは、
その行為が道を歩くというような極めて単純なことであっても、
世を継いで伝へられてきたそのような「気づき方の織り成し」を
前提としている。<

「統治」/»Verwaltung«による「強制力」/»Gewalt«の行使の
正当化は、このことによ(依)っている。統治者が「八隅知之(やすみしし)」
と形容される場合、そのことが発話遂行的にし(知/領)らしめているのは、
世を継いで伝へられてきたその「気づき方の織り成し」を現世において
具現化しているのが、統治者に他ならないということであり、
それは、現世に生きる人が何を為すことができたとしても、
その成果は、その前提として「気づき方の織り成し」を具現化する
統治者によってすでにつねに先取りされているということである。
0923名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/01(木) 17:39:19.18ID:8JpyrrUh
哲学をすることが何の役に立つのかという問ひは、私にとっては
無意味である。そうすることが現に私が生きることに役立つから、
私は哲学をしているのであって、それが他の誰にとってどのように
役立つのかは、私の知ったことではない。例えば、ほとんどの
人には、攀じ登って超えることが不可能に見える障壁や、
飛び越えることが無理であると思える対岸まで離れた深い堀
がそこにあったとして、それを常人には思ひもよらないような
体力と技能によって攀じ登って超えて見せたり、飛び越えて
見せたりすることは、哲学の役割ではないし、皆で力を
合せて、その障壁にトンネルを通したり、堀に橋を掛けたり
することも哲学の役割ではない。わざわざそんなことを
しなくても、その障壁の向こう側に出ることのできる、壁が
破れている箇所に気づいたなら、あるいは堀を容易に渡る
ことのできる場所があることに気づいたなら、そして
そのようにして向こう側に行くことが私にとってどのように
か生きることに役に立つのなら、それを他人に隠すことも
せずに自分で実行してみせる、それが私にとっての哲学をする
ことの意味である。
0924名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/01(木) 17:53:09.61ID:8JpyrrUh
ところで、そのような障壁や堀は、人々が向こう側に行こうとすること
を諦めさせるように人為的に作られていることがしばしばある。
すると、私が、哲学をすることによって向こう側に行けることを
実際にやってみせることは、人々に「役に立つこと」をしている
と高く評価されるどころか、「余計なまねをしやがって」という
苛立ちを生じさせて、私自身に危険をもたらす可能性すらあるだろう。
それは、並外れた体力と技能で障壁を攀じ登ってみせたり、
堀を飛び越えて見せたりする「選ばれた少数」が、むしろ、
それ以外の人々にそれが自分には無理であることを自覚させる
ことになり、万人から賞賛され、憧れの対象とされるのとは、
対照的である。また、その作業に多くの危険を伴い、実際に
作業に従事する人々に少なからぬ犠牲者を出したとしても、
障壁にトンネルを掘って貫通させたり、堀に橋をかけて簡単に
向う側に渡ることを実現させる計画を実現した「指導者」は、
(その計画自体が極めて多数の人々の試行錯誤の結果として
策定され、「指導者」はそれに認可を与えただけだとしても)
後世の人々からも高く評価されることになることが一般的
なので、そのこととも対照的である。
0925名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/01(木) 18:07:18.47ID:8JpyrrUh
より単純に次のように考へてみてはどうだろうか。
私が道を歩いていると、他の誰も気づいていないように私には
見える大きな穴が地面に開いている。それでもその穴の上を
何かが覆って穴が見えにくくなっている。私はそこを通る必要があるが、
当然、穴に落ちたくはないので、それを避けるが、
なぜそんなところに大きな穴があるのか、どれだけの深さが
あるのか、通るついでに興味本位で覆いかぶさっているものを
取り払ってしまう。私がそうすることは、人々の役に立っていると
言へるのだろうか。別に私は、その穴に落ちるかもしれない誰か
を助けようと思ってそうしているわけではないが、その危険に
晒される可能性にある人々にとっては、私の興味本位の行動は
役に立っていると言へるだろう。逆に、それが落とし穴として
意図的に苦労して作られて、人々に気づかれないように、また
気づいた人も黙って避けて通るように暗黙の了解が成立している
なら、私の行為は、その落とし穴を掘った人々の苦労を台無しに
するものであり、私の興味本位の行動は、罰せられるべき
悪しき行ひと見做されることになるだろう。
0926名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/01(木) 18:13:09.93ID:8JpyrrUh
> 人にあなづらるるもの。 築地のくづれ。あまり心よしと人に知られぬる人。
(出典 枕草子)

人に「あな(侮)づられ」て、特に私のような「愚か者」に「あな(侮)づられ」
たと感じて、気分のよいままでいられる人々はそう多くないだろう。
それが、苦労して落とし穴を掘るような人々であれば、なおさらである。
0927名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/01(木) 18:18:49.88ID:8JpyrrUh
後世の人々が、私の振舞ひを高く評価するか、見下すかといった
ことにも、私にはまったく関心がない。最も重要なことは、
その振舞ひにより私にもたらされる恐れのある危険と天秤にかけて、
それが現に私が生きることに役立つか否かである。
0928名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/01(木) 18:34:11.86ID:8JpyrrUh
私は確かに»Narr«ではあるかもしれないが、決して»Hofnarr«では
ないのである。それは、私には、これまでにそのようなお呼びが
まったくかかったことがないからでもあるが、これからもそのような
お呼びがかかることは一切ないだろう。
0929標結ふ/praeconor
垢版 |
2023/06/02(金) 08:47:04.61ID:Kol17FaT
有機化合物を消費して熱エネルギーに変換する行為に対して
グローバルに課税する権限をあらかじめ確立すべしという理念
0930妬む神
垢版 |
2023/06/02(金) 09:11:27.99ID:Kol17FaT
「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ!」

>In Greek mythology, Zelus or Zelos (/ˈziːləs/; Ancient Greek:
Ζῆλος Zēlos, literally 'zeal') was the daimon that personifies
dedication, emulation, eager rivalry, envy, jealousy, and zeal.
The English word "zeal" is derived from his name.
His Roman equivalent was Invidia.

Family
Zelus was the son of Pallas (the Titan) and Styx (an Oceanid).
His siblings were Nike (Victory), Kratos (Strength) and Bia (Force).

Titanomachy
Zelus together with his siblings were winged enforcers who stood
in attendance at Zeus' throne and formed part of his retinue.<
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Zelus)
0931名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/02(金) 09:21:46.85ID:Kol17FaT
>Titanomachy
(出典 en.wikipedia.org/wiki/Titanomachy)

>ティーターノマキアー
ティーターノマキアー(古代ギリシア語: Τιτανομαχία、古代ギリシア語
ラテン翻字: Tītānomakhiā)は、ギリシア神話で語られるゼウス率いる
オリュンポスの神々と、クロノス率いる巨神族ティーターンとの戦いである。
全宇宙を崩壊させたこの大戦は、終結させるのに10年もの歳月が必要であった。
(出典 ja.wikipedia.org/wiki/ティーターノマキアー)
0932情也良牟等(こころやらむと)
垢版 |
2023/06/02(金) 12:06:44.58ID:Kol17FaT
»um den Trübsal zu vertreiben«

>万葉集 第19巻 4187番
念度知 大夫能 許<乃>久礼<能> 繁思乎 見明良米 情也良牟等
思ふどち ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと
おもふどち ますらをのこの このくれの しげきおもひを みあきらめ こころやらむと
(出典 万葉集ナビ)
0933名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/02(金) 18:00:31.40ID:Kol17FaT
>>915>>931

944名無しさん@お腹いっぱい。2023/01/11(水) 23:24:41.43ID:gMPZezgU
「ますらを(大丈夫/益荒男)の『をを』しさ」とは、「うら」をかへすなら、
つまり、その「こころ(心)のうち」を観るなら、「木(こ)の暗(くれ)の
繁(しげ)き思(おも)ひ」であり、その様態を一言で表現するなら、
「鬱然」/»Trübsal«である。

694をふ(乎布/終ふ)のうら(浦)のうら(裏)としての俗世2023/04/29(土) 10:33:17.51ID:BWgsTt9x
このように「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/うら(浦)」を、
「『時限性』/"temporality"を離れる『潜在性』/"potentiality"」
として捉へるなら、『クラテュロス』におけるソークラテースの
語る、人の死についての冗談めかした言ひ回しが、どのような
レトリックであるのかも、容易に理解できるようになるだろう。

>wären sie aber noch von der Leidenschaft des Körpers
umhergetrieben, könnte sie nicht einmal Vater Kronos
mit seinem sagenhaften Fesseln bei sich zurückhalten.
(出典 Platon, "Kratylos", p.79, Reclam)
0934名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/02(金) 18:15:19.80ID:Kol17FaT
>オリュンポスの神々と、クロノス率いる巨神族ティーターンとの戦いである。
全宇宙を崩壊させたこの大戦は、終結させるのに10年もの歳月が必要であった。 <

たったの10年で「けりが着いた」のは、まさしくそれが「神業(かみわざ)」
だったからであり、現実には、クロノス/時の神に魂をつなぎとめられた
間だけ生きている人々の集団の戦ひは、集団としての組織化において優位
に立った側が、「世を継ぐ」(つまり、新しい世代を担ふ)ことになり、
「世を継ぐ」ことが時を超越してみづから(身づ柄/自ら)の従属する側
の集団組織化を、神の権限を代理するものとしてし(知/領)らしめること
になるので、みづから(身づ柄/自ら)のいのちがあるかぎり、つまり、
クロノス/時の神に魂をつなぎとめられて現世(うつしよ)に我が身がある
限り、終はることはない。だからこそ、「をふ(乎布/終ふ)のさき(崎/先)/
うら(浦)」は夢想としてしかあら(顕/現)はれることはなく、そのことも
自覚されている。
0935名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/02(金) 18:32:24.57ID:Kol17FaT
蛇足かもしれないが、「ますらをのこの 木の暗の 繁き思ひ」として
歌に詠まれる「鬱然」/»Trübsal«/»betrübt sein«は、
みづから(身づ柄/自ら)が「さ『を・し』か/左乎之加/さを鹿」と
してあるものとしての自覚、すなはち、みづから(身づ柄/自ら)が
「自発的に」(自己抑圧的に) 集団組織化に従属することにより、
他の集団に対して、自己の集団の優位性を保っていると同時に、
そのことにより、不可避に「な(汝/己)」が抑えつけられをり、
その状況は「時限的」/"temporal"には解消され得ないことを
「我が身」において受けとめることとしてある。
0937名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/02(金) 20:09:45.65ID:Kol17FaT
>Es ist wie die Schichten des Sandwichbrotes. Oben ist eine
krustige Lage von scheinbarer Arroganz, die, wie ich schon
bemerkt habe, nichts als Schüchternheit ist. Wenn man diese
durchdringt, stößt man auf eine weiche Lage von Frohsinn und
Anständigkeit. Wenn man aber auch durch diese durch ist,
findet man die unterste Lage von wirklichem Dünkel; er ist umso
unerschütterlicher, da er elastisch, undeutlich und unzusammenhängend
ist. Es ist die Arroganz der Überbescheidenheit, die schlimmer ist als Prahlerei.
(出典 Arthur Koestler, "Diebe in der Nacht", p.198)
0938名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/03(土) 16:14:56.76ID:M7BRRHfv
「否応なし」/である呼びかけ/»Notwendigkeit«に「いさぎよ(潔)く」/
「ま(任)けのまにまに」に応じる「ますらを(大夫)」の「『を・を』しさ」/
»Willigkeit«は、それでも「『しか』し」、「余儀なくされること」/»Not«
をみづから(身づ柄/自ら)が「う(受)けい(容)れる」意志の表明として、
そのようにし(強)ひられることによる「抑圧を否認しようとする気分」、
すなはち、「鬱然」とした様態/»Trübsal«/»betrübt sein«として
あら(顕/現)はれてしまうことを避けることができない。これは、
「うつしよ(現世)」において回避することができないことが
自覚されている「葛藤」であって、「うつつ(現)に」留まりながら、
その解消法が追求されている「矛盾」ではない。
0939名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/03(土) 16:38:19.76ID:M7BRRHfv
ところで、「めめ(女々)しさ」というのは、「『を・を』しさ」の欠如を
否定的に評価して指す表現であって、女性らしい性質、すなはち、
「『をんな(女)し』さ」(岩波古語辞典の「をんな(女)し」の項目には、
「見事な女性らしく感じられる」、「いかにも女らしい」と記載される)
の否定的な評価ではない。
0941名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/03(土) 16:42:00.56ID:M7BRRHfv
誤:「否応なし」/である呼びかけ/»Notwendigkeit«
正:「否応なし」である呼びかけ/»Notwendigkeit«
0942名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/03(土) 18:05:02.52ID:M7BRRHfv
「否応なし」である呼びかけ/»Notwendigkeit«/»Sollen«に、
応じるように、こた(応)への「を」/»Willigkeit«/»Wollen«を
適合させることと、どのようにか誘はれて生じる意欲の
「を」/»Willigkeit«/»Wollen«を、それに応じて
「必要とされること」/»Notwendigkeit«/»Sollen«と
の間で互いに適合させようとこころみることは、
似ているように見えながら、かなり異なる。
0943We shall overcome/You shall not give up
垢版 |
2023/06/04(日) 08:35:53.02ID:CX0zmviO
「ををしさ」とは、"shall"に"will"を合致させることの"commitment"に、
"will"に"shall"を適合させることの"desire"を自発的な意志により
従属させる抑圧としてある。そのようにして抑圧された"will"は、
しかしそれでも、喩として回帰してきて、歌に言葉として詠まれて
表出する。
0944名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/04(日) 08:51:13.01ID:CX0zmviO
"You shall not give up."
これは倫理的な「責務」だろうか。しかし、ソークラテースは、
むしろ、ひと(人/一)の魂(たましひ)が、それを現世(うつしよ)
につなぎ留めているクロノス/時の神による結び付けから解(と)き
放(はな)たれて、つまり、あの世(よ)行(ゆ)きとなって、
そのような"shall"/「責務」が消え去ることの方が、
ひと(人/一)の在り方として本来的に「理想の実現」として
望まれることである「はず」だろうと説いている。
0945名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/04(日) 10:12:12.70ID:CX0zmviO
>>826
>「ま(任/牧)きば(場)」としての「ノモス」と「法」としての
「ノモス」は、「自由/勝手に〜することができる(場)」と「〜させて
『いただく』ことができる『ゆるし(≒"allowance"≒「配分」⇒
「法/ノモス」)』」の関係にあるということだ。<

「法」が"νόμος"/「ノモス」でであるとするなら、「法」の基礎に
ある(「法」が「法」として確立される以前に)のは、「ま(任/負)け」であり、
それは、"Why don't you take my place/take the place on my behalf?"
という「さそ(誘)ひ」に対して、それにこころよ(快)く応じることを
"Why shouldn't I?"
という「こた(応)へ」として「みづから(身づ柄/自ら)にゆる(許)す」こと
であると言ふことができるだろう。
0946神の代理
垢版 |
2023/06/04(日) 10:25:28.09ID:CX0zmviO
"Are you asking me why I shouldn't give up the place?"
"That's because I'm taking the place on someone else's behalf."
0947欲しがりません勝つまでは
垢版 |
2023/06/04(日) 20:01:14.50ID:CX0zmviO
»Nein, wir schaffen das nicht!«

言葉には、使はれている単語の語彙としての辞書的な意味と
文法からだけでは捉へることができない「表現としての表情」がある。
例えば、ここに引用した例がなぜ滑稽に感じられるのか、
その理由をよく考へてみるといい。
0948名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/05(月) 08:19:52.82ID:gsAT79vT
思想として言説を紡ぐとは、どのようなことだろうか。
それはみづから(身づ柄/自ら)の信念や信仰の表明だろうか。
そうであるとすれば、思想の言説は、何らかの集団組織化に対する
(「個人」として他の集団組織化に対して「みづから(身づ柄/自ら)」
の「独立」を「宣言する」場合でも)忠誠の誓いにしかならない
だろう。それが不特定の人々に役立つものであろうとするなら、
思想は、必然的に「社会」思想とならなければならないはずで
あり、なおかつ、その言説は、特定の集団組織化の利益を増進を
はかることに忠誠を誓うものではなく、集団組織化一般が現に
どのように人々を組織化して、機能しているのかを適切に記述
しようと努めなければならないはずである。ところが、実際に
流通している思想の言説は、集団組織化の現実がいかに「理念」
からかけ離れているか、いかに「理想」を実現することに「失敗」
しているかを規範的に批判することばかりに専念している。
しかし、それでは、思想の言説は、やはり、みづから(身づ柄/自ら)が
忠誠を誓う集団組織化の「理想」に対して、自分たちの
「現状の至らなさ」を反省し、その集団組織化の規律を乱す
者を内なる敵として非難し、それに忠誠を誓おうとしない者を
外敵として排撃し、無力化しようとするものとしてしか役割を
果たさないことになるだろう。
0949名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/05(月) 08:27:16.95ID:gsAT79vT
「それは、思想の言説の役割ではなく、人々の歴史や社会を研究する
学問の役割である、だから人々の歴史や社会の研究は特定の思想
から独立なのだ」と主張する人々は大勢いるだろうが、現実に、
いまだかつて、そのようであることがあっただろうか。
「人々の歴史や社会を研究する学問」は、むしろ、つねに
「思想の言説」を、それが当然のことであるかのように道案内に
して、明示的にも暗黙にも現在の現状に至るまで、いつでも
「思想の言説」に導かれているのではないか。
0950名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/06(火) 08:49:32.46ID:0Jug9dwu
思想を政治とのかかはりで考えて見れば、いかに思想の言説が
その根底から無効化しているかに気づかざるを得ないだろう。
思想の言説は、制度として実施されている狭義の「政治」に
限定しても、現状の「政治」に対して何らかの有効性があると
人々に感じられる議論を組み立てられるような言葉をもって
いるだろうか。制度についてすら、有効であると感じられる
ような言葉で記述することができなくなっているのではないか。
例えば、中国、ロシア、トルコ、インド、ブラジル、日本の
政治制度は、それぞれ大きく異なり、統治管理の実態も
それぞれの国の内部ですら様々な複雑さを抱えているだろう。
「日本国内で流通している」という限定をつけた上での
思想の言説の漠然としたイメージのレベルでは、インド、
ブラジル、日本は、民主主義の政治が行われている国と
考えられているが、中国、ロシア、トルコについては、
それを民主主義と呼ぶことができるのかどうかもはっきり
せず、政治権力による強制力の行使がしばしば、「強権」、
「専制」、「独裁」といった類の否定的な評価の言葉によって
形容されるが、人々の統治管理がどのような仕組みで機能
しているのかについては、それについて語れる言葉すらない。
せいぜい、「民主主義的な自由が抑圧されている」という漠然
とした言葉があるだけで、後は、地域の「専門家」が
固有名詞をふんだんにちりばめて個々の出来事をその
「固有の脈絡」において詳しく解説するだけである。
思想には、「君主制」、「専制」、「民主制」、「共和制」、
「市民」、「身分制度」、「政治的自由」といった類の
数世紀前には議論においてまだ何らかの有効性があると思は
れていた類の語彙があるだけで、現実の統治管理の働きに
ついて記述するのに効力があると感じられる言葉は欠けて
おり、政治の現状がいかに「民主主義の理念」からかけ
離れているかを「非難する語彙」があるだけである。
0951名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/06(火) 09:53:55.20ID:0Jug9dwu
ところで、奴隷制の廃止という観点から身分制度の廃止について
語ろうとするような思想の言説は、根本的に逆立ちしているのでは
ないか。というのも、「奴隷制の廃止」と言ふと、あたかも
「『奴隷』という社会的な身分」が廃止されたかのように聞こえる
が、そもそも、「奴隷」であるとは、「社会的な身分」ではなく、
「『(人としての)社会的な身分』が『無い者』、またはそれを
『失った者』」を指す分類だろう。通貨を媒介とした経済活動の
市場が拡大したことで、それまで権益を世襲的に確保し、継承して
きた活動におい支配的な立場を維持できなくなった「(人としての)
社会的な身分」のある家系がシステム崩壊的に生じたことで、
身分制度が廃止されたのであって、身分制度の崩壊は、「奴隷制
の廃止」という「理想の追求」によって実現されたものではない
だろう。
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