国鉄とJR西日本は、福知山線宝塚以北の電化・複線化を完全に放棄し、武庫川渓流を眺める風情のある路線が残った。
JR発足当時は、宝塚以北は気動車と客車列車、宝塚以南は電車列車で対応していたが、北摂ニュータウン計画により沿線人口が増えた事、片福連絡線開通に伴い宝塚以南の運転本数が増やす事となった。
輸送力増強に迫られたJR西日本は、片福連絡線用の207系電車との性能と併せた福知山線用の高性能通勤型気動車を製造する。

キハ207−0番台    :運転台付片側3扉のロングシート、トイレ付
キハ207−1000番台 :運転台付片側3扉のロングシート、車端部にボックス席、トイレ無し
キハ206−0番台    :運転台無し片側3扉のロングシート車端部にボックス席、トイレ無し 

加速性能は207系電車に若干劣るが、JR西日本の青い帯と気動車を示す赤い帯を巻いた車両は最高速度120kmで福知山線を走行した。
篠山口以南の快速、普通列車は全てキハ206・207系気動車となったが、世界的に有名となる大事故を起こす車両となることはまだ誰も知らない