東京メトロ日比谷線 22
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川崎F「ふろん太」明かす中村憲剛、夜中の涙/手記
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201231-22300892-nksports-socc
12/31(木) 10:00配信
川崎フロンターレMF中村憲剛(40)が、1月1日の天皇杯決勝ガンバ大阪戦(国立)をもって現役を引退する。
そんな中村の“親友”、クラブマスコットの「ふろん太」が、ラストマッチを前に日刊スポーツへ独占手記を寄せた。
18年間全ての苦楽を共にしてきた相棒が、おごらず、飾らず、前向きな、等身大の中村の姿を明かした。
◇ ◇ ◇
ケンゴと出会ったのはもう18年前。
ひょろっとしてて、とてもプロのアスリートになるようには見えず、頼りない感じだった。
ま、今もパッと姿だけ見たら、頼りないけど。どんどん成長して、日本代表にも選ばれて有名になっていっても、
僕らが触れるケンゴは今も昔もそのまま。誰かと比較したり、自分の物差しや判断基準と違う人がいても、
それを一方的に批判したりはしない人。いろんな人の意見を聞いて、自分なりに解釈して前に進む人。
みんなに感謝して、自分の言葉でありがとうを伝えられる人。
そして18年前に「結婚したいと思ってる大切な彼女がいる」って僕に話してくれた時から、今でも変わらず
ただの奥さん大好き人間。「足を向けて寝られないどころか、頭が上がらない」って、いつもいつも言ってる。
きっと僕にも頭が上がらないだろうと、僕は思ってる。 1年目の開幕戦でメンバー入りした時からケンゴは、ヒロキ(伊藤宏樹=現強化部)と僕と
「今日は何人来てくれるかな」「どうやったら等々力を満員にできるかな」って話し合っていた。
今では当たり前のようにたくさんのみんなが来てくれるようになったけど、雨の予報が出てるとき、
寒いかなってとき、平日のとき、チームの調子が悪いとき…。 白いコートの気持ち悪いおばさんに遭遇した。
隣に座ったら、ぶつぶつと何か言い出し、握りこぶし固めて威嚇(笑)してきた。
上野駅で降りていったが、降りるときまでずっとぶつぶつ何か言い続け、睨み付けられた。
年明け早々、キ○ガイに出くわして嫌な気分になった。 経営者の手腕で日本スポーツ界に寄与してきた半世紀|堤 義明(前編)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20210102-00037415-forbes-spo
1/2(土) 11:30配信
学生時代から「スポーツ」と「観光ビジネス」を融合させた発想で、日本のスポーツ
観光産業の先導役を果たしてきた堤義明さん。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)
の理事や副会長などを歴任し、1989年に日本オリンピック委員会(JOC)が独立した際
には初代会長を務め、1998年長野オリンピックの招致、大会成功に大きく貢献されました。
また、西武鉄道や国土計画にアイスホッケー部を創設し、オーナーを務めた西武ライオンズ
を名実ともにプロ野球を代表とする球団へと導きました。常に先見の明を持ち、豊かな発想で
日本スポーツ界の発展に寄与されてきた堤さんにお話をうかがいました。
JOC独立のきっかけとなった"モスクワ五輪ボイコット"
──いよいよ今年は東京オリンピック・パラリンピックイヤーということで、これから
さらに機運が高まっていくことが予想されます。東京で2度目のオリンピック・パラリンピック
を開催することができるのも、日本におけるオリンピックのトップ組織であるJOC
(日本オリンピック委員会)が、日本体育協会から独立したことが大きいと言えます。
その初代会長を務められたのが、堤さんでした。
もともとJOCは日本体育協会(以下、日体協)内の特別委員会として発足したものでした。
それが、1989年に日体協から独立をして「財団法人日本オリンピック委員会」(2011年より
公益財団法人)となったわけですが、ことの発端は、1980年のモスクワオリンピックの
ボイコット(1979年12月にソビエト連邦〈現・ロシア〉のアフガニスタンへの軍事侵攻に
抗議するため、当時ソ連と冷戦状態が続いていたアメリカがモスクワオリンピックへの
ボイコットを提唱。日本も全面不参加を決定し、日本選手団の派遣を中止した)にありました。
アメリカのジミー・カーター大統領(当時)からの呼びかけに応じて、日本政府から日体協に
「モスクワオリンピックには選手を派遣しないでほしい」という要請を受けたのです。 当時、私は日体協の理事とJOCの委員を兼任していたのですが、JOC側としては納得がいかず、
猛反発しました。それに対して説得をされたのが、当時日体協会長で参議院議長を務められて
いた河野謙三先生でした。
「あなた方がオリンピックに行きたいというお気持ちはよくわかります。しかし、官邸から
このような要請を受けたのだから」と。というのも、当時のJOCには自分たちで予算を賄う
機能はまったくなく、すべて政府の補助金で賄われていました。言ってみれば、唯一の
スポンサーである政府からの頼みを無下に断るわけにはいかないということだったんです。
結局JOCも不参加することに同意するほかありませんでした。
しかし、その後もJOCにはその時の出来事がずっとくすぶっていたわけです。そこへIOC
(国際オリンピック委員会)から「いつまでも政府の外郭団体ではいけない。どこからも
干渉されない独立した組織として法人化することがIOCとしては望ましい」という要望を
受けたことをきっかけに、独立への機運が高まっていきました。
そして、独立するにあたっては世代交代をしたほうがいいということで、当時日体協および
JOCの要職に就かれていた青木半治さん(早稲田大学競走部出身で戦前に砲丸投げ選手として活躍。
JOC総務主事、日本陸上競技連盟会長、日体協会長などを歴任。1968年メキシコシティーオリンピック、
1972年ミュンヘンオリンピックでは日本選手団団長を務めた)や柴田勝治さん(日本大学ボクシング
部出身。1952年ヘルシンキオリンピックではボクシング日本代表監督を務めた。その後、
JOC総務主事や日本ボクシング連盟、アジアボクシング連盟の会長を歴任)、藤田明さん
(早稲田大学水泳部出身。日本が水球で初めて出場した1932年ロサンゼルスオリンピックでは、
コーチ兼主将として出場。日本水泳連盟会長、日体協理事、JOC常任委員などを歴任)らから私に
「我々は日体協に残ってバックアップするけれども、新しいJOCからは身を引き、君に任せる。
だから、しっかりと財団法人を設立してくれ」という話があったんです。 それで、私が独立したJOCの初代会長を務めることになりました。まず私が要望したのは、
JOCの役員をアスリート出身者に務めてもらうことで、具体的な人選はすべて青木さんと
柴田さんにお任せいたしました。これは良かったと思います。JOCの内部の人間ではなく、
お二人のように外部の方のほうが、利害関係を考えずに公正な視点で選べますからね。
それで選ばれたのが、バレーボールの松平康隆さん(慶應義塾大学出身。全日本男子バレー
ボール監督として、1968年メキシコシティーオリンピックで銀メダル、1972年ミュンヘン
オリンピックで金メダルに導く)、水泳の古橋廣之進さん(日本大学出身。何度も世界新記録
を樹立するなど、戦後の日本水泳界の大エースとして活躍。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。
日本水泳連盟会長、JOC会長などを歴任)、レスリングの笹原正三さん(中央大学出身。
1956年メルボルンオリンピックではレスリング・フリースタイル62kg級で金メダルを獲得。
日本レスリング協会会長、国際レスリング連盟副会長、JOC副会長などを歴任)ら15人のメンバーでした。
──堤さんは、1977年に日体協の理事に就任し、1983年から1990年までは副会長を務められました。
日体協に関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?
ある日、当時日体協の専務理事だった飯沢重一さんが河野先生の言伝で私の元へ来られまして、
「どうしてもあなたに日体協の理事をやってほしい」と言われたんです。その理由を聞くと、
「日体協は破産寸前で、どうにもならない状態です」と言うんです。聞けば、政府からの予算で
選手強化や大会派遣などは賄われているけれども、事務的なことなど協会を運営するための
費用は予算では拠出できず、困り果てていると。そこで私に「日体協の経営再生をお願いしたい」
というお話でした。
しかし、実際に中に入ってわかったことですが、日体協には外部から予算をもってくる機能がなく、
私の会社から出すことも、財閥組織から寄付を募ることも不可能な状態だったんです。そこで
どうしようかといろいろと調べてみたところ、経営再生の道は意外にも簡単なところにありました。
当時、日体協は各地域にスポーツ施設を持っていたんです。 それをすべて各都道県に無償で寄付することにしまして、多額の固定資産税を支払わずに済むよう
にしたところ、早急に経営状態は改善されました。その件で、みなさんからの信頼を得ることが
できまして、副会長に就任することになったんです。そしてそれが、JOC独立の際に、青木さんや
柴田さんが、私を会長に推してくれた理由でもありました。経営を再建した私なら日体協の人たち
も説得し、スムーズにJOCが独立できるだろうということだったんです。
私にとって運が良かったのは、当時の文部大臣(現・文部科学大臣)が、私が親しくしていた西岡武夫
さんだったことでした。私が直接西岡さんにJOCの独立について何かお願いをしたわけではなかったの
ですが、西岡さんのほうから「文部省からきちんと独立の許可を出します」というお話がありました。
ご理解のあった西岡さんが文部大臣だったからこそ、日体協からの独立がスムーズに進みました。
──堤さんを筆頭に、さまざまな方々のご理解とご尽力があって、1989年にJOCが日体協から独立を
果たしました。JOCが独立したことが、2年後の1991年に開催が決定した長野オリンピック招致活動
の成功にもつながっていったのではないでしょうか。
そうですね。長野オリンピックの招致活動は、面白いご縁がありましてね。当時アディダスの会長
を務めていたレネ・イエギさんは、私と同じ早稲田大学(以下、早大)の出身で、柔道部に所属
していたんです。実は私の唯一のスポーツ歴は、柔道なんです。父親(堤康次郎、西武鉄道創業者、
衆議院議長)が柔道家だったものですから、自宅には道場がありまして、小学生から高校まで柔道
の家庭教師に稽古をつけてもらっていました。あの時、柔道ではなく、英語の家庭教師でもつけて
くれていたら、もっと賢くなっていたと思うんですけどね(笑)まあ、これは冗談ですが、そんな
ことで大学入学時には三段でして、早大の柔道部に籍だけは置いていたんです。実際には自分で
立ち上げたサークル「観光学会」のほうで活動をしていたのですが、名簿上では私はイエギさんに
とって早大柔道部の先輩にあたるわけです。 そんな縁があって、長野オリンピックの招致活動をしていた時に、イエギさんが私を訪ねてきまして、
IOCのファン・アントニオ・サマランチ会長(当時)を紹介してくれたんです。こちらとしては、
これからどのようにして長野オリンピックを招致したらいいか模索していた時でしたので、
本当にいいタイミングでした。
その後サマランチ会長と食事をすることになったのですが、そのころ、IOCはオリンピック・ミュージアム
の建設を計画していまして、聞けば、総工費が40億円かかると。IOCはその経費を集めるために寄付を
募っていて、サマランチ会長は私にも依頼してきたんです。当時の日本は、非常に景気が良かったですし、
企業イメージの向上にもつながるだろうということで、総工費の半分を寄付することにしたんです。
一口が約1億4000万円でしたから、20口を引き受けました。とはいえ、会社のお金を寄付するわけには
いきませんでしたから、私は個人で寄付しましたが、あとは知り合いの企業の経営者などに依頼し、
なんとかお金を集めました。それでIOCは開館に漕ぎ付けたのです。
サマランチ会長からは大変感謝されました。サマランチ会長自身も個人で何口かを寄付したので、
ローザンヌ(スイス)に建てられたオリンピック・ミュージアムに行きますと、寄贈のところに
世界中の企業名や団体名が並ぶなか、私とサマランチ会長だけは個人名が刻まれているんです。
そういうこともあって、サマランチ会長は長野オリンピックの招致やその他日本のスポーツ界の
諸問題について親身になってサポートしてくれたのだと思います。長野オリンピックの開会式の
数日前に、IOCの理事たちを軽井沢のプリンスホテルに招待してパーティーを開いたのですが、
その席でもサマランチ会長はオリンピック・ミュージアムの建設に関する貢献について謝意を
述べられました。
長野オリンピック招致&開催の成功秘話
──1998年に開催された長野オリンピックは、準備段階で環境問題などいろいろなことが
ありましたが、日本選手の活躍やボランティアの協力などで成功裏に終わりました。
長野県の吉村午良知事(当時)の存在が非常に大きかったと思います。吉村さんはオリンピック
を何が何でも招致したいという強い情熱をお持ちでした。 というのも、1982年に上越新幹線が開業してからというもの、同じ雪国で昔から肩を並べていた
新潟県に、すっかり遅れをとってしまったと感じられていたようなんです。そこで長野県に
オリンピックを招致して、新幹線開通をそのレガシーにしたいと考えておられました。実際、
オリンピックの開催にともなって長野新幹線が開業し、県民の皆さんは非常に感謝していますし、
その後の北陸新幹線の開業にもつながりましたから、富山県、石川県、福井県の方々にとっても
大きなレガシーとなりましたよね。
東京オリンピック・パラリンピックにおいても、よく「無駄に費用がかかりすぎる」という指摘
がありますが、大会のためだけにかかる費用というのは、主に運営費と仮設施設の費用の2つ。
そのほか、スポーツ施設をつくったり、交通網を整備したりするというのは、なにもオリンピック・
パラリンピックのためだけではありません。たとえば、長野県への新幹線開通はなにも長野オリンピック
のためだけのものではないですよね。オリンピックはきっかけに過ぎないんです。
ですから運営費とインフラ整備のためにかかる費用とを混ぜこぜにして考えてはいけないと私は思います。
──長野オリンピックでは環境問題が大きなテーマとなり、アルペンスキーの滑降コースが変更になりました。
本来は志賀高原の岩菅山に世界に誇れるコースを新設する計画があったのがとん挫してしまいました。
当時の報道にもありましたが、自然保護団体から反対の声があがったんです。それで白馬村の八方尾根
で行われたわけですが、ありがたかったのは白馬の関係者たちが非常に協力的だったことでした。
当初、長野オリンピックのスキー競技の会場は、志賀高原、白馬、野沢温泉の3地域が候補にあがって
いまして、白馬はアルペン競技を望んでいました。しかし、アルペンは志賀高原で行うことが決まり、
白馬はノルディック・スキーの会場になったんです。それで白馬は、長野オリンピックのために立派な
ジャンプ台を創設してくれました。さらに、結果的に志賀高原でできなくなったアルペンのほうも急遽
お願いすることになったわけですが、気持ちよく受け入れてくれて、白馬の人たちの心の広さを感じました。 ──長野オリンピックは財政的な面でも非常に成功しました。その重要な役割を果たしたのがJOCが中心
となって出資して創設した「ジャパン・オリンピック・マーケティング」(JOM)という部門。これをJOC
に創設し、長野オリンピック記念グッズを販売するショップを東京にもオープンさせたりするなどの
マーケティング戦略が成功しました。そのおかげで51億円の黒字となり、オリンピック後に広く活用されました。
その背景には、プロ選手がオリンピックに出場することが容認されたことが非常に大きかったと思います。
ご存じの通り、もともと「オリンピック憲章」(IOCによって採択されたオリンピズムの根本原則などを
成文化したもの)にはアマチュア規定があり、参加はアマチュア選手に限られていました。しかし、1972年
に札幌で開催された冬季オリンピックの時に、こんな事件が起こりました。アルペンスキーのオーストリア代表
で出場するはずだったカール・シュランツ選手が広告への写真提供によって収入を得ていることが、開幕数日前
にアメリカのメディアで報道されたんです。アマチュアリズムに強いこだわりを持っていたアベリー・
ブランデージIOC会長(当時)はこれを問題視しまして、IOC委員による投票の結果、シュランツ選手の参加は
認められませんでした。アマチュア選手だけが出場を認められていた当時、オリンピック選手はスポーツを
利用してお金を得ることは許されていなかったんです。この事件を受けて、私と旧知の仲である国際スキー
連盟のマーク・ホドラー会長(当時)は「今すぐにIOCを改革しなければ、オリンピックは金持ちだけが
参加できるということになってしまう。こんなバカな話はない」と憤っていました。
彼は当時IOCの理事も務めていて、会計担当もやっていて、IOCのなかでも非常に力がありましたから、
IOC改革の中心的役割を果たしたと思います。実際、2年後の1974年にはオリンピック憲章から「アマチュア」
という文字が削除され、プロ選手の参加については各国際競技連盟に一任されるようになったんです。
そして、1980年にサマランチさんがIOC会長に就任したことで、全面的なプロ選手のオリンピック出場が
容認されることになりました。しかし、そうした世界的な流れの中、日本は後れをとりました。 当時の日体協にはアマチュア委員会がありまして、アマチュアリズムが根強く残っていたんです。ようやく
日体協の「アマチュア規定」を廃止して、「スポーツ憲章」を制定し、スポーツは「人間が運動を自ら楽しみ
として求めることによって成立してきた人類共通の文化」であると位置づけられたのは1986年。
これ以降、日本でもプロ選手のオリンピック参加が認められていくようになったんです。
──1986年のスポーツ憲章制定が大きな意味をもちますが、年配の方たちの中には、アマチュアリズム
に強いこだわりを持っていらっしゃる方たちが大勢いたはずです。アマチュア規定の廃止にもっていく
ためには、特にプロ容認の旗振り役として大きな責務を負われた堤さんは相当なご苦労があったのではないでしょうか。
世間一般的には知られていませんが、水面下では本当に大変でした。ただ、すでに世界がプロ化の道を
進み始めていましたから、「プロ選手の出場を容認しないと、どんどん日本は世界に後れをとってしまいます」
ということが言えたのは説得力がありましたね。
──そうした世界的な流れの中、長野オリンピックではアイスホッケーにはNHL(ナショナルホッケーリーグ
:北米プロアイスホッケーリーグ)の選手たちがアメリカやカナダの代表として出場しました。
NHLの現役選手がオリンピックに出場したのは、この時が初めてでしたから、世界的な話題となり、
アイスホッケーの試合は大盛況でした。
長野オリンピックの開催が決定した後、私とサマランチ会長とでは「NHLの現役選手をオリンピックに
参加させよう」という話をしていました。そこでサマランチ会長と旧知の仲であったIIHF(国際アイス
ホッケー連盟)のルネ・ファゼル会長にも協力してもらいまして、オリンピックのために史上初めて
レギュラーシーズンを中断する「オリンピック・ブレイク」を設け、オリンピック出場が可能となったんです。 長野オリンピック組織委員会としても、NHLの選手たちも参加しやすいように条件を整えました。まずは
予選リーグと決勝ラウンドで選手の入れ替えを許可するルールにしました。また、NHLの選手たちに
とっては本来であればリーグ戦真っただ中の時期ですから、なるべく短期間で終えられるようにと、
シード国(6チーム)と非シード国(8チーム)に分け、NHLの選手が多くいる強豪国をシードとし、
決勝ラウンドから参加すれば良いようにしました。さらにギャランティが発生しない代わりに、選手と
その家族の分のファーストクラスの航空チケットとホテルを用意するというVIP扱いにしました。
初めてNHLの現役選手がオリンピックに参加して結成された"ドリーム・チーム"同士の試合は予想以上
の人気を博しまして、チケットは完売し、放映権料も高騰しました。これは嬉しい"誤算"。これほど
すごいことになるとはまったく予想していませんでした。51億円もの黒字は、アイスホッケーのおかげでした。
──長野オリンピック以降のオリンピックでは、財政的に厳しい状況が続いています。
確かにスポンサー集めには苦労しているかもしれませんね。2008年の「リーマン・ショック」
(アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが破産申請したのを契機に起こった世界的な金融危機)
で景気が悪化したことも大きく影響したのではないでしょうか。
しかし近年、日本の景気は上向き状態にありますし、昨年JOCの新会長に就任した山下泰裕さん
(全日本柔道選手権9連覇。1984年ロサンゼルスオリンピックでは柔道無差別級で金メダルを獲得。
全日本柔道連盟副会長、東海大学副学長、味の素ナショナルトレーニングセンター長などを歴任)
は世界的なアスリートでしたから、その山下さんがJOCの顔になったということも大きいと思いますね。
山下さん自身、リーダーシップもありますし、表現力豊かで話もうまい。そういう意味では、企業から
のサポートを受けて、財政的にも良いサイクルを生み出していくのではないかと期待しています。
>> 後編 へ続く
(この記事は、笹川スポーツ財団「スポーツ 歴史の検証」から転載したものです。*無断転載禁止) ロッテの主力・清田育宏 不倫相手との「札幌同伴遠征」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20210107-00000011-friday-base
1/7(木) 17:02配信
「彼はA子にベタ惚ぼれでした。不倫と知りながらA子が関係を続けたのも、
彼の情熱に惹ひかれたからです。彼から遠征先に来てほしいと誘われれば会いに行ったし、
『奥さんと別れてほしい』なんてワガママも言わなかった。それなのに、自分の身が危うく
なると、まったくA子を守ることなく保身に走った。A子を裏切ったあの男を私は許せません」
コロナ禍の対応に追われた2020年シーズンの最中、千葉ロッテマリーンズの清田育宏
(いくひろ)(34)が不貞行為を繰り返していたことが明らかになった。
冒頭のように告発するのは、清田の不倫相手・A子さんの友人である。
清田は’10年にドラフト4位でロッテに入団。ベストナインやゴールデングラブ賞など
を獲得し、侍ジャパンに選出されたこともあるチームの顔だ。
’12年に高校時代の同級生と結婚し、子供もいる清田だが、実はその裏で、A子さんと
3年に及ぶ不倫関係を続けていたという。友人が続ける。
「A子が清田と知り合ったのは、’17年の春。開幕してすぐの頃に、複数人での食事会
に呼ばれ、そこにたまたま清田も同席していたんです」
A子さんはモデル経験もある桐谷美玲似のアラサー美女。彼女の美貌とハキハキとした
性格に惹かれ、清田は食事会の後に連絡先を交換。約1ヵ月後には遠征先に呼び出し、
男女の関係となった。以来、清田はA子さんにのめり込み、密会を重ねるようになった。
「コロナ禍でも、毎週のように会っていました。A子が住む東京で会うこともあれば、
清田が遠征先に呼び出すこともあった。遠征先に行く際は、選手が宿泊しているホテル
に清田が別の部屋をとり、一晩を共にするというのがお決まりでした。清田は朝まで
A子と一緒にいた後、元気に試合に出かけていたそうです。
清田はとにかくマメで、試合中と寝てるとき以外は四六時中LINEをしてくる。
A子のLINEには、『可愛いよ』『好きだよ』『ずっと付き合っていきたい』
というような甘い言葉が並んでいました」 だが、昨年秋頃、関係は破綻。原因は他でもない、新型コロナウイルスだった。
ロッテでは昨年10月に選手ら14名の集団感染が発覚。清田も感染者の一人だった。
9月29日〜10月1日に札幌で行われた日本ハムとの3連戦でクラスターが起きた可能性が高いとされた。
ロッテは遠征中に「部外者との会食禁止」というルールを設けており、集団感染発覚後も、
「ルールを破った選手はいなかった」と発表した。しかし清田に関しては、これは真っ赤な嘘。
清田はこの札幌遠征にもA子さんを同伴≠オ、連日、外食を共にしていたのだ。
「A子が泊まったのは、ロッテの選手たちと同じ札幌の『エクセルホテル東急』。
試合が終わった後に、外で晩ご飯を食べて、ホテルに帰り、清田がA子の部屋に泊まる
といういつもの遠征と同じパターンでした。札幌遠征では9月28〜30日まで一緒にいて、
市内の寿司屋や焼き肉店で清田と一緒に食事をしました」
その後、清田は10月6日に感染が発覚。A子さんは紛まぎれもなく濃厚接触者である。
しかし、清田はA子さんの存在を隠し、「部外者との会食はしていない」と球団に報告したのだ。
さらに清田は、保身のためにA子さんにこんな「お願い」までしてきたという。
「清田の感染が発覚した頃に、A子も発熱した。しかし清田は、そんな彼女に
『病院には行かないでほしい』と頼んできたんです。A子は不安を訴えましたが、
彼は『自宅用の抗原検査キットを買ってそれで検査してほしい』と」
A子さんが病院に行けば、誰と濃厚接触したのかを説明しなければならない。
清田は、球団についた嘘がバレることを何とか避けたかったのだろう。
「検査キットの結果は陰性でしたが、その後もA子の熱は下がらなかった。それでも、
A子は清田の『病院に行かないでほしい。自分のことは言わないでほしい』という
頼みを守って、2週間自宅に籠こもって隔離生活を送っていました」
以来、清田への不信感が募つのっていったA子さん。そんな中、清田のさらなる裏切りが発覚する。 「A子の他にも不倫相手がいることがわかったんです。3年の間に浮気発覚は何度かあり、
バレるたびに『何でもするから許してほしい』と懇願し、A子の自宅前で待ち伏せして
号泣までするので許してきましたが、さすがに愛想が尽きた。昨年12月3日に別れを告げました」
本誌は友人が語ったこれらの経緯についてA子さんに取材。彼女はすべて事実であると認めたうえで、
「札幌遠征には誘われて行きました。不倫なんてしていた私がバカでした」と目に涙を浮かべて語った。
一方の清田本人はどう申し開きをするのか。1月初旬、自宅近くで直撃した。
―A子さんと不倫関係にあったのは事実でしょうか。
「(天を仰ぎフーとため息をつきながら)いや、これはちょっと……。マズいッス」
―清田選手の感染が明らかになった後、A子さんに「病院に行かないでほしい」と伝えたのは事実ですか。
「いや……病院に行かないでほしいとは言っていないです」
―検査キットで検査してほしいと伝えたのは記憶にありますか。
「はい……。(道端に座り込みながら)あぁ、もうホントに勘弁してください」
―昨年9月末の札幌遠征中、A子さんと外食に行ったことを球団に報告しなかった?
「そうですね。球団は何も知らない」
―A子さんの他にも不倫していると聞いています。
「覚えてないです。わからない」 ―何かほかに弁明はありますか。
「(約30秒、無言が続いた後)ちょっと待ってくださいよ。ホントどうしよう」
遠征中のルールを破っていた清田に対し、何らかの処分はあるのか。
本誌の取材に対しロッテは、次のように回答した。
「シーズン中は毎日、行動記録の提出を義務付けていました。また昨年の札幌遠征後も
行動記録について確認を行いましたが清田選手本人からは部外者との外食についての報告を
受けておらず把握をしておりませんでした。(記事の)内容を精査させていただき事実確認
をした上で厳正に然るべき処分を行います」
本誌は5年前にも清田の不倫をスクープ。記事掲載後、清田は妻に対し「もう一度不倫したら
野球をやめる」という内容の誓約書を書いたという。不貞の代償は高くつきそうだ。
FRIDAYデジタル 「代々木スタジアム争奪戦」激化!都心移転狙う3クラブの“東京ダービー”
東京Vは親会社・ゼビオで勢い、人気・経営面でリードするFC東京、町田ゼルビアも色気
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210109-00000019-ykf-spo
1/9(土) 16:56配信
コロナ不況に打ちのめされた、サッカーJリーグの救世主となるのか。
1991年のリーグ設立以来、30年にわたり空白地帯だった東京23区内に計画されているのが、代々木公園
(東京都渋谷区)内のサッカー専用スタジアムだ。昨年末に破綻の危機に瀕した
J2・東京ヴェルディに手を差し伸べ、買収に踏み切ったスポーツ用品大手のゼビオ・ホールディングス(HD)
にとって、このスタジアムへの移転は名門再建の起点となり得る。ただし、新ホームを巡る争奪戦はライバルが多い。
人気や経営面ではJ1・FC東京がリードしており、親会社のサイバーエージェントが渋谷にあるJ2・町田ゼルビア
も色気を見せそうだ。都下3クラブのどこが都心への進出を果たすのか。(編集委員・久保武司)
年明け早々から緊急事態宣言の発令が不可避となり、今年も続くコロナ禍のなかでJクラブの
経営は正念場だ。とりわけ東京Vは「(昨年末に)対策を取らなければ確実に破綻していた」
(Jリーグ関係者)。2010年からスポンサーを務めてきたゼビオHDが、昨年12月25日
に筆頭株主となり、10億円近い赤字も7億5000万円の特別損失として計上。当座の危機を脱した。
上場企業として株主から強い反発も予想されるなか、コロナ禍で大打撃を受けるスポーツ事業
の買収にあえて踏み切った背景にあるのが、首都東京の新スタジアム構想だ。
スポーツ庁が全国規模で掲げる「スタジアム・アリーナ新設・建て替え構想」のひとつとして、
「代々木公園サッカー専用スタジアム」はしっかり明記されている。
候補地は同公園内のサッカー・ホッケー場で、収容人員は最大4万人を計画。ネックは土地の所有者の国、
管理者の東京都ともに建設資金を出す予定が全くないことだ。そこで「一般社団法人渋谷未来デザイン」
(代表理事・小泉秀樹東京大学教授)が音頭をとり、渋谷区が賛同。東急、ソニーや東京Vのスポンサー
を務めるゲーム会社「アカツキ」など多くの企業が参画中で、27年の完成を目指すとしている。 Jリーグにとっても悲願だった都心進出。ホームにできればメガクラブへの成長が期待できるだけに、
名門から凋落して久しい東京Vにとっては起死回生の起爆剤となり得る。昨年末のお家騒動では、
11年間もトップに君臨した羽生英之前社長(56)と対立するなかで悪者に仕立てられたゼビオHDだが、
クラブOBは「ゼビオさんには今後のヴェルディ再建に向けて多くのアイデアがあります」と期待を寄せる。
東京Vは現在、15競技17チームを所有する総合スポーツクラブに進化中で、ビーチサッカーは
世界4位の実力を誇る。肝心のサッカーが成績も観客動員も鳴かず飛ばずだが、ゼビオHDは
地方自治体と組み、スポーツ施設を運営するノウハウを持っているのが強みだ。
仙台市所有の土地に30億円を投じて12年に多目的アリーナを建設し、運営にも参画。
バスケットボール男子Bリーグ・仙台の本拠地となっている。
近年はプロ野球・DeNAを黒字にしたDeNA、J1・鹿島を買収したメルカリなど、IT企業の
スポーツ事業への参入が目立つ。前出のアカツキもその一角だが、東京Vのお家騒動では前社長側だった
とされる。都心の新スタジアムを確保するうえでも、ゼビオHDとの今後の関係が注目されるところだ。
東京で唯一のJ1クラブ、FC東京の本拠地は味の素スタジアム(東京都調布市)。
東京Vと共用のうえ、サッカー専用ではないため移転先を探している。
18年から株主に加わったIT大手のミクシィは、本社が渋谷にあることから代々木新スタジアム構想
に早くから着目。現状では新ホーム争奪戦でも先頭に立つ。
J2町田の親会社も、同じくIT大手のサイバーエージェントだ。同社社長の藤田晋オーナー(47)
は06年から2年間、東京Vの2位株主だった経緯もあり、町田より先に東京Vに買収を持ちかけたが破談。
あくまで都内にこだわり、18年に神奈川県境にある町田市のクラブの経営権を約11億円をかけて取得した。 翌19年10月にはクラブ名を「FC町田トウキョウ」に変更するとぶち上げたが、サポーターの猛反対に遭って保留。
それでも将来的には「J1で戦えるチームを目指すため、町田を軸にチーム名に『東京』を入れたい」
との姿勢を崩していない。町田市内にあるホームスタジアムの改修に巨費を投じているが、渋谷の本社から
目と鼻の先にできる新スタジアムを、手をこまねいて他クラブに譲るだろうか。
いまだ計画段階にある都心のサッカー専用スタジアムが動き出したとき、熾烈な“東京ダービー”のキックオフの笛が鳴る。 「日暮里・舎人ライナーを埼玉へ」は現実的か 県知事熱望 検討3ルートで解決できぬ課題
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210109-00010000-norimono-bus_all
1/9(土) 6:20配信
●ライナー延伸・3つのプラン、最適解はどれ?
東京都の新交通システム「日暮里・舎人ライナー」を、埼玉県側に延伸するプランが浮上しています。
2019年には、東京都内の鉄道のうち何本かを埼玉県側に延伸する「あと数マイルプロジェクト」を掲げた
大野元裕知事が当選し、埼玉県が2020年9月に開催した「第2回 公共交通の利便性向上検討会議」では、
都営大江戸線や東京メトロ有楽町線の延伸計画とともに、舎人ライナーについても言及されました。
日暮里・舎人ライナーは片側2車線ある「尾久橋通り」の中央部分に高架線が設けられており、終点の
見沼代親水公園駅(東京都足立区)は、北へ300mほど行けば都県境という位置です。埼玉県はここから、
「西方向」「北方向」「東方向」と3方向の延伸プランを提示しています。
延伸ルートの詳細はまだ決まっていませんが、尾久橋通りが毛長川を渡り埼玉県草加市に入ってすぐ、
大型ショッピングセンター(島忠ホームズ)のある「遊馬町(西)」交差点付近までは3ルートとも共通でしょう。
その先の想定されるコースを、地域の路線バスに乗りながらそれぞれ検証しました。
■西方向:埼玉高速鉄道に接続
日暮里・舎人ライナーを道路上に延伸させるには、中央分離帯に幅4m程度の橋桁を設置する空間が必要です。
その点で有利なのは、3方向のうち西側の埼玉高速鉄道 鳩ヶ谷駅か新井宿駅(いずれも川口市)に至るルートでしょう。
尾久橋通りは埼玉県に入って「第二産業道路」と名前を変え、旧鳩ヶ谷市内を北西方向に貫きます。
道幅や中央分離帯の規格は東京都側とさほど変わらず、導入スペースはほぼ問題がなさそうです。
途中、首都高S1川口線との交差部が存在しますが、日暮里・舎人ライナーは現時点でも、扇大橋で
首都高C2中央環状線をまたいでいるという「実績」もあります。
ただ第二産業道路周辺は、それほど人家が密集しているわけでもなく、現状で路線バスも小型の
コミュニティバス(川口市「みんななかまバス」など)が道路周辺を1日数回走るのみ。 また建設できたにしても、いま鳩ヶ谷駅から東京メトロ南北線でJR山手線の内側に向かっている人々が、
山手線以外に乗り替えの選択肢が少ない日暮里経由に通勤ルートを変えることは考えにくいのではないでしょうか。
●他の2案にも課題
北方向および東方向のルートはどうでしょうか。
■北方向:武蔵野線に接続
西方向と比べて一定の需要が見込めるのは、3本のルートの中央にあたる北方向のルートでしょう。
JR武蔵野線まで延ばすというこのルート上には、最寄りの鉄道駅まで遠く、かつバス路線が集中する
「新郷(支所・貝塚付近)」「安行出羽」(いずれも川口市)などの地区が点在しています。
川口市商工会も一定の人口がある市東部地区への鉄道延伸やバス路線の開設を要望しており、それにも合致するはずです。
ただ問題は、線路をどこに通すか。大きな道はなく、川口市の峯八幡宮周辺で断続的に続く起伏や、
土地に余裕がない新郷支所近辺の住宅街などで建設の難航が予想されます。また接続が想定されている
JR武蔵野線には、現在駅そのものがない(ただし延長線上の「越谷出羽」地区はもともと新駅が検討されている。
東川口と南越谷の中間)うえに、現在の営業距離が9.7kmの鉄道をさらに8km延伸する形となり、
所要時間や車両基地、小さな車両ゆえの長時間の乗り心地など様々な問題が想定されます。
■東方向:東武スカイツリーラインに接続
線路の建設でさらに不利な条件を抱えるのは、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の谷塚駅や
草加駅方面に向かう「東方向」のルートです。このプランに沿った「遊馬通り」などの道路は、
交通量が多い割に蛇行して狭く、見沼代親水公園駅から草加市街地を結ぶ東武バスの「草加22」系統は、
小型車で何とか運行できるような狭い住宅街を縫うように走っています。
日暮里・舎人ライナーと東武線のあいだの「交通空白地帯」に鉄道が開通すれば、草加市内の移動は
格段に便利になります。しかし都内への移動で考えると、ライナーは距離ごとの加算運賃を高めに
設定しているうえに、西日暮里へ通じる東京メトロ千代田線への乗り換えが容易な東武線が相手となると、
お膝元の日暮里エリアでも優位に立てるか疑問符がつくほどのシビアな競合が予想されます。
※※※ このように、延伸ルートは「導入スペースはあるが需要が少ない」「需要はあるが運用が難しい」
「需要はややあるが他社と競合」と、それぞれにメリットと課題が存在するのです。
■ホントに必要なのは「東西横断ルート」か
もともと、川口市と草加市にまたがるこれら地域は、ライナー延伸とは別の問題を抱え、自治体も
改善を模索し続けているのです。それは道路事情による「東西交通の貧弱さ」。
草加市も「公共交通再編計画」のなかで東西方向の道路が少ないことを課題に挙げています。
3ルートの経由地を結ぶ川口駅〜草加駅間は、路線バス(国際興業バス川11・川12系統)が大型車両で
1日300本近く運行されるほか、中間の安行出羽などから川口側、草加側どちらにも多くのバス路線が
発着しています。しかし、その主要ルートである埼玉県道・草加川口線が拡張されないうえ、
南北に走る道路との交差点周辺で渋滞も起こり、移動時間を読みづらい状況です。
ライナーを南北に延伸できたとしても、その周囲の交通状況が改善しなければ、駅への移動も支障を
きたしてしまいます。ライナー延伸の環境を整えるのであれば、まず接続するバス路線の充実によって、
埼玉県内からライナーへの移動需要をしっかり確立させることが近道ではないでしょうか。
また延伸には何より東京都の協力が必要ですが、日暮里・舎人ライナーは車両がコンパクトなことも
あってピーク時の乗車率が180%以上にのぼり、延伸による混雑の増加に足立区議会が難色を示しています。
埼玉県も計画の実現に向けて、延伸費用にとどまらない都内ユーザーへの配慮が必要となるかもしれません。
ちなみに、見沼代親水公園駅の近くには大相撲の「境川部屋」があります。2020年6月には、毛長川に
転落した女性を部屋の力士20人が川へ飛び込んで救助したことでも話題になりました。ライナーができる以前、
力士たちは東武線の竹ノ塚駅までバスで出て、そこから電車を乗り換えて両国国技館へ向かっていたそうですが、
ライナー開通による時間短縮と快適さに、境川親方は「うちの部屋のために作ってくれたんじゃないのか」
とさえ思ったと、足立区のインタビューで振り返っています。
宮武和多哉(旅行・乗り物ライター) 経営者の手腕で日本スポーツ界に寄与してきた半世紀|堤 義明(後編)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20210103-00037416-forbes-spo
1/3(日) 11:30配信
学生時代から「スポーツ」と「観光ビジネス」を融合させた発想で、日本のスポーツ観光産業
の先導役を果たしてきた堤義明さん。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の理事や副会長
などを歴任し、1989年に日本オリンピック委員会(JOC)が独立した際には初代会長を務め、
1998年長野オリンピックの招致、大会成功に大きく貢献されました。
また、西武鉄道や国土計画にアイスホッケー部を創設し、オーナーを務めた西武ライオンズを
名実ともにプロ野球を代表とする球団へと導きました。常に先見の明を持ち、豊かな発想で
日本スポーツ界の発展に寄与されてきた堤さんにお話をうかがいました。
西武ライオンズが生み出した プロ野球の慣習
──堤さんご自身は早大の学生時代には「観光学会」というサークルをつくったり、在学中に
軽井沢にスケートセンターをつくって人を呼び込んだりと、「スポーツ」と「観光ビジネス」
をうまくマッチさせてきたと思います。今では「スポーツツーリズム」(スポーツイベントと
その開催地周辺の観光とを融合させ、人々の交流促進・拡大や経済への波及効果などを図る取り組み)
という考えも浸透しつつありますが、以前は日本にはそういう概念がほとんどなかった中、
堤さんはどのようにしてそのような発想に至ったのでしょうか。
今から50年ほど前、私が学生のころは軽井沢には避暑地というイメージしかなく、夏に利用する
別荘しかなかったんです。父親から軽井沢の開発を任された際、どうすれば軽井沢の別荘に夏以外
にももっと人を呼び込めるかを考えたんですね。その時に思ったのが「冬の寒さを活かしたものが
できれば、もっと人が来るようになるのでは」と思いまして、何がいいかを考えた結果、スケート場
にたどり着いたわけです。そしたら大当たりで、最盛期には夏にも負けないほどの人が冬に軽井沢
に行くようになりました。ところが、最初はうまくいっていたのですが、そのうちに同じような施設が
周りに次々とできてしまいまして、来場者がどんどん減っていってしまったんです。 それで若い年代に人気のスケートではなく、もう少し高い年齢層の人たち向けに何かないかな
と思いまして、そしたらスキーにたどり着いたと。軽井沢には雪は積もりませんから、それで
群馬県の万座温泉のほうにスキー場をつくったわけです。
そうした成功を機に、「スポーツ」と「観光」というものを融合させて考えるようになったんです。
もともと不動産を家業とする家で育ってきていますけれども、先代も都心にビルを建てるというような
ことよりも、リゾート開発に注力していました。子どものころ、先代についていっていろいろと
見ていく中で、その地域にあった「付加価値」を考えるようになったのだと思いますね。それが
「スケート」「スキー」「ゴルフ」「テニス」というスポーツだったということなんでしょうね。
それとちょうど時代的にも、生活にゆとりが出てきて、スポーツを楽しむようになってきていた
ということもあったと思います。
──堤さんの功績として欠かすことができないのが、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)です。
1978年、経営難に陥っていたクラウンライターライオンズを、西武グループの国土計画が買収し、
「西武ライオンズ」が誕生しました。
当時、盟主を自認していた巨人でさえ多摩川の河川敷で練習し、小さなピッチング練習場しか所有して
いなかった時代に、西武のオーナーに就任した堤さんは、メジャーリーグのドジャースタジアムをモデル
としたすばらしい新球場を建設し、さらに球場付近には第一、第二グラウンドや室内ピッチング練習場、
選手寮までつくられました。それに応えて、球団創設3年目の1982年には24年ぶりの日本一を達成しました。
実は、あれほど早く優勝するとはまったく予想していなかったんです。それまでライオンズは最下位が
定位置というくらいの球団でしたから、私は日本シリーズで対戦するセ・リーグの6球団もあわせて、
11年かけて日本一になればいい、と長期計画で考えていました。
ですから即戦力の選手を集めるのではなく、チームスポーツなのだから、個人的な能力よりも
チームワークを大切にしてコミュニケーションを図れるような選手たちを集めなさいと指示していました。 殺伐とした雰囲気ではなく、みんなで一致団結をして明るい雰囲気で優勝をめざすような
チームづくりをテーマに掲げていたんです。
──今ではプロ野球では一般的になりましたが、選手が移動の時にスーツを着るというのも
西武ライオンズが始めたことでしたし、ライオンズの公式マスコット「レオ」のピンバッジ
を選手がみんな胸に付けるというのも画期的なことでした。そうしたこともすべて「一致団結」
を意味していたんですね。
最初にライオンズの選手たちを見た時に、あまりにもバラバラだったんですね。例えば、
高校野球とかアマチュアの選手はきちんと整列したり、そろえるのが当たり前ですよね。
ところが、プロはそうではなかったんです。それで、服装などをそろえたらチームに
団結力が生まれるのではないかと思いまして、それで始めたことでした。
──他球団も西武ライオンズに追随していって、今ではどこの球団もやるようになりました。
また、チームづくりにおいても、前年に最下位だったクラウンの監督である根本陸夫さん
(元プロ野球選手。引退後、コーチ、監督、ゼネラルマネジャー〈GM〉を歴任。
特にGMとしての手腕に優れ、西武ライオンズやダイエーホークス〈現・福岡ダイエーホークス〉
の黄金時代を築いた)に権限を持たせ、3年目の1981年に広岡達朗さん(巨人の遊撃手として
活躍し、現役引退後は監督としてヤクルトスワローズ〈現・東京ヤクルトスワローズ〉、
西武を日本一に導いたプロ野球界屈指の名将)を監督に抜擢したというのも、さすがでした。
根本さんは監督としての能力はとても高いとは言えませんでした(笑) クラウン、西武
の監督を務めた3シーズンの成績は、リーグ5位、6位(最下位)、4位でしたからね。しかし、
有望新人選手の獲得などチーム編成やフロント業務のGMとしての能力は非常に高いと思って
いましたから、正解でしたね。広岡さんを監督にした背景には、実は川上哲治さん(戦時中から
戦後にわたって巨人で強打者として活躍。引退後、コーチを経て1961年に巨人の監督に就任。
14年間で日本一11回を誇り、特に1965年から1973年までの日本シリーズ9連覇達成は
「巨人V9時代」として今も語り草となっている)からの助言がありました。 周囲には絶対に気づかれないように、あるテレビ局の応接室をお借りしまして、川上さんにお会い
しまして「あなたの思想を最も受け継いでいる人を紹介してもらえませんか」と言ったところ、
広岡さんの名前が出てきたわけです。おかげで球団創設4年目、広岡さんが監督就任1年目の
1982年にはリーグ優勝、日本一を達成しました。あんなに早く優勝できたのは99%、広岡さんの力でした。
東京オリンピック・パラリンピックは 心を豊かに体を健康にするきっかけに
──日本スポーツ界の発展に幅広くご尽力されてきた堤さんは、今後、日本スポーツ界がさらに
発展していくためには何が必要だと思われますか?
まずJOCですが、リーダーシップがあり、国際的にも顔が広い山下泰裕さんが昨年に新会長に
就任したことは、非常に良かったと思っています。あとはマーケティング部門に適任の人材を
持ってこられるかということだと思います。山下さんが全幅の信頼をおける方にお任せして、
財政面をきちんとできれば、あとは選手強化に対しては山下さんはご専門ですから、うまく
まわっていくと思います。
──日本スポーツ協会(以下、JSPO)が主要事業としている国民体育大会(以下、国体)ですが、
今、その開催意義が問われています。国体をさらに発展させるためにはどうしたらいいでしょうか?
参加数を減少させて縮小化することで、自分たちで首を絞めている状態だと思います。
縮小化は経費の問題が理由だというけれども、そもそもなぜ国体はすべての競技をひとつの都道府県で
開催しなければいけないのでしょうか。たとえば「北海道」「東北」「関東」「東海」「北陸」
「近畿」「中国」「四国」「九州」と9地域にわけるとかね。近隣の複数の府県が協力しあってやれば
いいわけですよ。そうすれば、経費の負担も減らすことができますし、これまで仲が悪かった
地域同士が仲良くなって新たな交流が生まれて活性化につながると思いますよ。
──今、日体協を前身にもつJSPOとJOCを再び合併したほうがいいのではないか、
という話もありますが、堤さんはどのようなお考えでしょうか? それはとんでもない話で、まったく意味のないことです。そもそも何の為に合併の必要性があるのか、
私にはまったくわかりません。JSPOとJOCとでは、それぞれ違う役割があるわけですから。
JSPOにとって最大の主要事業は、国体ですから、トップアスリートを育成、強化するのではなく、
幅広くスポーツを普及させることが最大の役割なんです。それに対してトップアスリートを世界へ送り
出すのがJOCの務めなわけです。そういうふうにまったく異なる役割であるJSPOとJOCを、いったい
何の為に合併させようとしているのかなと思いますね。そもそもJOCはIOCの下部組織なわけで、
オリンピック憲章にも「各国のNOCは独立した組織でなければならない」というふうになっているんです。
──何か問題が起きた時に、日本スポーツ界として取りまとめるトップの存在が必要ということはないでしょうか。
お互いに話し合えば済むことではないかと思いますよ。というのも、JOCの理事のひとつはJSPOの会長となって
いますし、逆にJSPOの理事のひとつはJOCの会長となっていて、双方の関係性が築かれているわけです。
ですから何かあった時には理事会を開けば意見の交換ができることになっています。それで十分ではないかと思います。
──堤さんが注力してこられた冬季スポーツの衰退も深刻化しています。例えばアイスホッケー
ですが、1966年にスタートした日本アイスホッケーリーグは、チームの廃部が相次ぎ、2005年を
最後に休止に追い込まれました。現在は、日本、韓国、ロシアの「アジアリーグ」が行われて
いますが、いずれにしても難しい状況が続いています。
2017年に中部電力の水野明久会長が日本アイスホッケー連盟の会長に就任し、基盤づくりを進めて
くれていますので、まずは一安心というところですね。アイスホッケーの場合は、選手強化よりも
まず先に組織の体制を強化していくことが先決です。そういう意味ではアイスホッケー選手の出身者で、
なおかつ経済界でご活躍されている水野さんというすばらしい方が引き受けてくれましたので、大丈夫だと思います。
また、全日本スキー連盟も北野建設の北野貴裕氏が会長に就任後、改革を進めて非常にうまくまわっています。
私はすでにスポーツ界から身を引いたわけですが、安心して見ていられるなという気持ちでいます。 ──いよいよ目の前に迫ってきている2度目の東京オリンピック・パラリンピック開催の意義
については、どのように感じられていますでしょうか?
世界最高峰のスポーツの祭典であるオリンピックというのは、人が見て「こんなにすごいことができるんだ」
と感動するものだと思うんですね。それによって、多くの人たちがスポーツに関心を持つこと。
それが大切だと思います。パラリンピックも同じではないでしょうか。障がいがあって、これまでは
自宅にいることが多かった人たちが、パラリンピックを見て、「自分ももっと外で動いてみよう」
というふうに思えるきっかけとなればいいなと思います。
──未来の日本に託したいこととは何でしょうか?
スポーツの最大の役割というのは、人の心を豊かにすることだと思います。いきいきとした人生を
送ること、つまり娯楽性に富んだものなんですね。ですから、スポーツには生産性はないのだけれども、
その生産性のあることに従事している人たちに刺激を与えることだと思います。
今、オリンピックやパラリンピックで勝つことだけがフォーカスされていますが、本来の目的というのは
国民がスポーツに関心を寄せて親しんでもらい、それによって心が豊かになり、体が健康になる、
そのきっかけになることだと思います。
そういう本来の目的を忘れてほしくないなと思います。
(この記事は、笹川スポーツ財団「スポーツ 歴史の検証」から転載したものです。*無断転載禁止)
連載:スポーツ×ソーシャルイノベーションで切り拓く未来 【年表】
1912(明治45)年
ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加
1916(大正5)年
第一次世界大戦でオリンピック中止
1920(大正9)年
アントワープオリンピック開催(夏季)
1924(大正13)年
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928(昭和3)年
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932(昭和7)年
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1934年
堤 義明氏、東京に生まれる
1936(昭和11)年
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940(昭和15)年
第二次世界大戦でオリンピック中止
1944(昭和19)年
第二次世界大戦でオリンピック中止
1945年
第二次世界大戦が終戦
1947年
日本国憲法が施行
1948(昭和23)年
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1950年
朝鮮戦争が勃発
1951年
日米安全保障条約を締結
1952(昭和27)年
ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
1955年
日本の高度経済成長の開始
1956(昭和31)年
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1957年
堤 義明氏、早稲田大学商学部を卒業し、国土計画興業(後のコクド)代表取締役を務める
1959(昭和34)年
1964年東京オリンピック開催決定
1960(昭和35)年
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)
ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
堤 義明氏、西武鉄道取締役に就任
1964(昭和39)年
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)
東海道新幹線が開業
堤 義明氏、伊豆箱根鉄道社長に就任
1968(昭和43)年
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969(昭和44)年
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任
アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972(昭和47)年
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)
1973年
堤 義明氏、日本アイスホッケー連盟会長に就任
堤 義明氏、西武鉄道社長に就任
オイルショックが始まる
1976(昭和51)年
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
堤 義明氏、プリンスホテル社長に就任 ロッキード事件が表面化
1977年
堤 義明氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)理事に就任
1978(昭和53)年
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
堤 義明氏、西武ライオンズオーナーに就任
日中平和友好条約を調印
1980(昭和55)年
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
1982年
東北、上越新幹線が開業
1984(昭和59)年
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)
1986年
堤 義明氏、全日本スキー連盟会長に就任
1987年
堤 義明氏、世界長者番付で1位となる
1988(昭和63)年
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)
1989年
堤 義明氏、日本オリンピック委員会会長に就任
堤 義明氏、西武鉄道会長に就任
1992(平成4)年
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
堤 義明氏、アルベールビルオリンピック日本選手団長を務める
1994(平成6)年
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
1995年
阪神・淡路大震災が発生 1996(平成8)年
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
1997年
堤 義明氏、日本オリンピック委員会名誉会長に就任
香港が中国に返還される
1998(平成10)年
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2000(平成12)年
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
堤 義明氏、国際オリンピック委員会栄誉委員に就任
2002(平成14)年
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2003年
堤 義明氏、日本アイスホッケー連盟名誉会長に就任
2004(平成16)年
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006(平成18)年
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007(平成19)年
第1回東京マラソン開催
2008(平成20)年
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
リーマンショックが起こる
2010(平成22)年
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2011年
東日本大震災が発生
2012(平成24)年
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定
2013年
堤 義明氏、日本オリンピック委員会名誉顧問に就任
2014(平成26)年
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2016(平成28)年
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2018(平成30)年
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季) 大都会の東京駅からなんと「荒川土手」まで! 路線バス「東43」系統で楽しむギャップ旅とは
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210103-00010000-metro-life
1/3(日) 8:34配信
■東京駅と荒川土手の意外なギャップ
東京の玄関口、東京駅。都内はもちろん、全国各地から鉄道路線や高速バス路線が集まってきます。
周辺にはオフィスビルが多く立ち並び、まさに都心部と言えるエリアです。
そして、もちろん路線バスも多く東京駅を発着します。晴海や豊洲といった臨海部方面へ向かうバス
が中心ですが、それ以外にも南千住、錦糸町、目黒方面へ向かうバスもあります。
その中にとても気になるバスの行き先があります。それが「東43」系統「荒川土手」行きです。
都心部の「東京駅丸の内北口」を発着し、まちの端をイメージさせるような「荒川土手」に向かう路線バス。
いったいどんな路線なのでしょうか。
「東京駅丸の内北口」バス乗り場はJR東京駅丸の内北口を出てすぐのところにあります。
このバス乗り場から発着するのは「東43」系統のほか、錦糸町に向かう2系統と観光用の特殊な
車両で運行される「S-1」系統「東京→夢の下町バス」のあわせて4系統です。
「東43」系統と「S-1」系統は乗り場も共用しており、片や観光系統、片やまちの果てまで
行ってしまいそうな「荒川土手」行きのバスとユニークな組み合わせとなっています。
ちなみにこのバス停から荒川土手へ向かうバスは1時間に1〜2本。乗る際は時刻表を確認していきましょう。
「東京駅丸の内北口」バス停を出たバスは日比谷通りに出ます。右折して北に曲がるとまもなく大手町バス停です。
大手町は地下鉄路線の集まる場所ではありますが、路線バスはこの「東43」系統のみが通ります。
大手町を抜けると神田橋を渡り、道は日比谷通りから本郷通りに名を変えます。
神田の中小オフィスビル群の中を抜けていくと、程なくして駿河台下交差点で靖国(やすくに)通りと交差します。
このあたりでは神保町エリアらしく本屋やスキー用品店、カレー屋を車窓に見ることができます。
■御茶ノ水から駒込、田端方面へ
駿河台下交差点からは上り坂。明治大学駿河台キャンパス(千代田区神田駿河台)や楽器店を見ながら
御茶ノ水駅前バス停に着きます。 ここまで東京駅からおおむね10分強。近くに駅や順天堂病院があることから多くの人が乗ってきます。
また、ここから秋葉原駅と駒込駅を結ぶ「茶51」系統と同じルートをしばらく走ります。
御茶ノ水駅前を出ると千代田区から台東区になります。バスは順天堂病院の間を抜け、国道17号線
に入ります。ここからはオフィス街から住宅街になり、マンションが多く見られるようになります。
またお店もコンビニや飲食店が増えていきます。
国道17号線に入りしばらく進むと本郷エリアに入り、「東大赤門前」バス停、「東大正門前」バス停と
東大本郷キャンパスを車窓右に見ながら本郷通りを北上します。やがて店の密度も低くなり、マンション
やビルが低くなっていきます。地下鉄南北線本駒込駅のあたりでバスは本郷通りを外れ、北東へ進路を変えます。
建物の密度や高さはさらに低くなり、都心部から外側に来たことが視覚的にも感じることができます。
東京駅から約35分で都立駒込病院前にある「駒込病院」バス停に到着します。ここまでが「東43」系統
の本数が少ない区間で、ここから先、荒川土手までは毎時3〜6本のバスが運行されています。
駒込病院バス停を出るとすぐに坂を下り、不忍通りと交差。荒川区に入ると再び小さい丘を切り通しで抜け、
田端駅の上を通る跨線橋(こせんきょう。鉄道線路を立体交差で越えるために架けられた橋)にさしかかります。
東京駅から約45分。跨線橋の上にある「田端駅前」バス停ではJR線から多くの人が乗ってきます。
ここからが「東43」系統が多くの人を輸送する区間です。新幹線の高架をくぐると左手にJR東日本
東京支社のビルがあります。ビル周辺の田端から尾久にかけては新幹線、貨物列車、通勤電車など
さまざまな列車が留置される線路が敷かれています。まさに東京に関わる輸送を支える重要な拠点のひとつです。
跨線橋から降りていくと再び住宅地の中を進みます。住宅地の建物の密度は高く、各バス停で人を
数人ずつ降ろしながら北へ進むと隅田川にかかる小台橋を渡り、足立区に入ります。地図で見ると
隅田川と荒川がすぐ近くを流れ、バスが橋を渡った先の小台や宮城周辺は離れ小島のように見えます。 しかし、実は元々隅田川は荒川がそのまま注ぎ込んでおり、治水のためにつくられ、大正時代に
完成した放水路が現在の荒川です。そのため、元々は川の左岸だった場所が島のようになってしまった
という非常に面白い場所です。第2次世界大戦中のころから工場を中心に発展し、近年は工場が住宅
に転換していきました。元々「東43」系統の原型になったバス路線も小台や宮城周辺の工場へ人々
を輸送するためにつくられたのではないかと言われています。
■本当に土手の下にあったバス停
小台地区・宮城地区の中で住宅街を丁寧にカバーするようにバスは走り、降りる人も増えます。
2008(平成20)年に日暮里舎人(とねり)ライナーが開業するとともに足立小台駅ができましたが、
昔からあって住宅地まで来るバスの需要は高いようです。
宮城地区を抜けると江北(こうほく)橋を渡ります。車窓左には首都高速中央環状線の五色桜大橋が見えます。
「ダブルデッキ式ニールセンローゼ橋」と呼ばれる構造の美しい橋です。夜にはライトアップするのですが、
以前はその電気の一部を通行する車両の振動エネルギーでまかなっていました。
江北橋を渡ると土手から首都高速の高架下を通る道路に入り、すぐのところが終点の「荒川土手」バス停です。
東京駅丸の内北口からここまで1時間10分。本当に荒川左岸の土手の下にバス停はありました。
バス停は「東43」系統の終着になっているほか、池袋から王子、西新井を短絡し、本数が多い
「王40」系統が通ります。なので、帰りは「東43」系統を利用してもいいですが、「王40」系統
を利用すれば山手線の西側に抜けられますし、東武スカイツリーライン方面にも抜けることができます。
ちなみに「東43」系統の始発バス停は200m離れたところにある「荒川土手操車場」です。
操車場は土手から少し住宅地を走る狭い2車線道路沿いに5台ほど停車できる場所ですが、バスが入る際
にはバックが必要となります。そのため、誘導員が出て安全確保を行いバスの安全運行を支えています。 「荒川土手」バス停はできた当初、本当に何もない土手近くに折り返し場がつくられたので
この名前になったのでしょう。現在は2002年に完成した首都高速江北ジャンクションの下にあたり、
荒川左岸も住宅地が広がっています。果てのような場所に見えても、東京という都市の中。
広大な郊外住宅地の中に「荒川土手」はありました。
「東43」系統沿線には今回書き切れなかった面白いスポットや知ると車窓の見方が変わる小話もまだまだあります。
ぜひいろいろなスポットも探しながら東京駅から「土手」までのプチトリップを楽しんでみてください。
鳴海侑(まち探訪家) >>466-467
重複スレで黙って落とせば良いものをdat落ち寸前で>>401みたいに無意味に保守しているからだろw
それなら荒らしてさっさと埋めた方が良いし、ある意味当然かもなw 下町を駆け抜け、いざスカイツリーへ! 新橋発の路線バス「業10」系統で楽しむ1時間プチ旅行とは
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201205-00010001-metro-life
2020/12/5(土) 8:41配信
■新橋と東京スカイツリーを結ぶ系統
2012年に開業した、世界で最も高い電波塔・東京スカイツリー(墨田区押上)にはいまも多くの人が訪れています。
タワーの下には商業施設「東京ソラマチ」があり、2020年はさらに「東京ミズマチ」が隣接地に開業、
東京スカイツリーと浅草が結ばれ回遊性が強化されました。
東京スカイツリーへのアクセスは鉄道がメインですが、実は都心から路線バスでもアクセスできます。
その路線バスが都営バス「業10」系統です。新橋と東京スカイツリーを結ぶ系統で毎時4本ほど走っています。
この「業10」系統は新橋から東京スカイツリーを結ぶという意外性もさることながら、ナゾがふたつあります。
ひとつめのナゾは系統番号の「業」の字です。都営バスの系統は多くが「漢字1文字+数字2ケタ」
で表記することを基本としており、漢字には何らかの意味があります。
例えば「上」であれば上野エリア発着、「宿」であれば新宿エリア発着を指します(経由地の漢字の場合もあります)。
また特殊な系統には学生バスを表す「学」や深夜バスを表す「深」といった漢字が割り当てられます。
では今回紹介する「業10」系統の「業」は何を表すのでしょうか。
実は「とうきょうスカイツリー」駅の改称前の駅名、「業平橋」駅を表しています。もともと「業10」系統
は日暮里から木場を結ぶ路線から始まっており、その後新橋に延長され、系統分割を経て業平橋〜新橋の路線
になったといういきさつがあります。そのため、業平橋駅前が始発地という扱いになり、現在も「業」
という字を使っているようです。
■バス停は銀座線3番出口近く
もうひとつナゾは、新橋駅側の始発バス停「新橋」です。新橋駅近辺を発着、経由する他の都営バスの
停留所名は「新橋駅前」や「新橋駅北口」というバス停名がついているのに対し、この系統だけがバス停
の名前が「新橋」と駅の近くではない、まるで別の場所にあるようなバス停名になっているのです。 歴史をひも解くと、どうやら駅北側の大通りを挟んで北側には「新橋」、南側には「新橋駅前」という
バス停名を割り当てていたようです。以前は「新橋」バス停を発着、経由するバス停はいくつもありましたが、
現在では「業10」系統だけになっています。
「業10」系統に乗るためには、新橋駅銀座口から大きな通りを渡ってバス停へ向かいます。
東京メトロ銀座線からであれば3番出口近くです。乗り場まで着いても行き先に気をつけてください。
主にとうきょうスカイツリー駅行きと深川車庫前行のふたつの行き先があり、東京スカイツリーへ
行くためにはとうきょうスカイツリー駅行きに乗ります。
■銀座から晴海エリアへ
新橋バス停を発車したバスは外堀通りを北上し、東京高速道路をくぐると銀座エリアに入ります。
間もなく東急プラザ銀座が左手に見えると、数寄屋橋交差点で右折します。数寄屋橋交差点を昼間
に右折可能なのは路線バスのみで、南側からの右折はこの「業10」系統のみ許可されています。
数寄屋橋交差点からは晴海通りを南東に向かいます。銀座の東西軸とも言える道路で、銀座の中心
である「銀座4丁目」交差点を通りすぎ、銀座三越の前にあるバス停に停車します。
この銀座4丁目バス停は勝どきや晴海エリアへ向かうバスが通ることからバス待ちの人が多くいます。
銀座へのアクセスは鉄道のイメージが強いですが、バスでアクセスする人も少なくありません。
銀座4丁目バス停を出発すると東銀座で歌舞伎座を左に、築地場外市場を右手に見ながら南東に進み、勝どき橋を渡ります。
国の重要文化財でもある可動橋で、1960年代までは船の通行のために中央部を実際に跳ね上げていた橋です。
勝どき橋を過ぎ、勝どき駅前で左折して晴海通りを外れます。そして間もなく右折し、月島駅近くの
住宅街の中を走り、再び晴海通りに戻ります。
今度は豊洲方向へ向かい、豊洲へ渡る春海橋からは車窓左前に東京スカイツリーが見えます。
少し東京スカイツリーが遠くに見えるため、これからバスがあの場所まで向かうことが不思議に思えるかもしれません。 ■大小のビルが立ち並ぶ「三つ目通り」
豊洲エリアの新しいまち並みを見ると今度は北に向きを変え、東京スカイツリー近くまでは深川、
本所と下町を南北に貫く三つ目通りを進みます。
通りの名前の由来は首都高速7号小松川線の下を流れる竪(たて)川にかかる橋「三之橋」で、
隅田川から「三つめの橋」の通りということで三つ目通りと名付けられました。
竪川には一之橋から六之橋までかかっており、うち四つの橋がいまも江東区・墨田区を南北に貫く
大きな通りの橋になっています。下町は運河が多く、「業10」系統は三之橋までに橋を何本も渡ります。
車窓にはコンクリート造りの中小のビルと住宅、時折マンションが入り交じります。下町というと、
木造の家や人と人が行き交う義理と人情のまちというイメージが強いと思いますが、実際は深川や
本所は小さいビルのような建物が多く、碁盤の目状に道路が張り巡らされ、車やバスが行き交う
都市中心と郊外の間らしい風景が広がります。
商業施設も商店街だけではなく、大規模商業施設もありあす。「木場6丁目ギャザリア前」バス停
では最寄りの大型商業施設「深川ギャザリア」に用向きのある多くの人が乗り降りします。
下町のリアルな人の動きを見られるという意味でも「業10」系統は面白い路線です。
■浅草通りに入るとラストスパート
深川ギャザリア以外に三つ目通り沿いにある施設としては「東京都現代美術館」が挙げられるでしょう。
美術館としては非常に大きくユニークな展示が多い美術館ではあるのですが、駅から遠く、
行くのには思い切りが必要な美術館です。
しかし「業10」系統であれば美術館のすぐ近くまで行くことができ、ぜひ立ち寄っておきたいスポットです。
菊川駅前では都営新宿線に乗り換える人が多く下車し、墨田区内は駅への接続がないことから、大きな人の
乗り降りはあまりなく北上していきます。それでも各停留所で降りる人がいるところに下町エリアでバスが
重宝されていることが感じられます。
都営浅草線の本所吾妻橋上にある吾妻橋交番交差点を右折し、浅草通りに入るといよいよ「業10」系統の
プチトリップもラストスパート。系統名の由来ともなった業平橋を渡ると東京スカイツリーの麓に到着します。 東京スカイツリーは東武鉄道の社有地に建てられた電波塔で、周囲には東武鉄道所有ビルや施設が多くあります。
浅草通りから左折し、最後にバスが渡る橋は「東武橋」。橋を渡ると間もなく終点のとうきょうスカイツリー駅です。
「業10」系統で新橋から終点とうきょうスカイツリー駅まで1時間ほど。車窓を楽しみながら歴史やいまを
感じることができる、観光ルートにも組み込めそうなこのバス路線。ぜひプチトリップに利用してみてください。
鳴海侑(まち探訪家) 横浜市内から西武秩父駅へ、40000系「S-TRAIN」で全区間乗り通した
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201128-00000014-mynavin-ent
2020/11/28(土) 17:00配信
西武鉄道の池袋〜西武秩父間では、001系「ラビュー」の特急列車が活躍し、いままでの車両にはない
斬新なデザインとあたたかみのある内装で好評を博している。
一方、秩父方面へアクセスできる列車は「ラビュー」だけでなく、元町・中華街〜西武秩父間で土休日
に運行される「S-TRAIN」もいる。みなとみらい線・東急東横線・東京メトロ副都心線から直通しており、
沿線に住む人ならこちらに乗る選択肢もあるだろう。
横浜在住の筆者は、先日開催された「Laview ブルーリボン賞受賞記念 車両基地まつり in 横瀬」
を取材する際、元町・中華街駅から「S-TRAIN」に乗車した。そのときの様子を紹介したい。
■元町・中華街駅から西武秩父駅まで合計2,570円
「S-TRAIN」に使用される車両は西武鉄道の通勤型車両40000系。
ロングシート・クロスシートに転換可能な編成が活躍している。
元町・中華街駅発着の「S-TRAIN」は土休日のみ運行され、本数は元町・中華街発の下り3本、元町・中華街行の上り2本。
うち下り1本・上り1本が西武秩父駅まで運転される。平日は西武池袋線から東京メトロ有楽町線へ直通し、
朝の時間帯に所沢発豊洲行の下り2本、夕方以降に豊洲発小手指行の上り5本を運行している。
今回、筆者が乗車した列車は、元町・中華街駅を7時1分に発車する「S-TRAIN1号」。当日のイベント会場
(横瀬車両基地)への最寄り駅は横瀬駅だが、「S-TRAIN」は横瀬駅を通過するため、終点の西武秩父駅まで
乗り通すことにした。元町・中華街〜西武秩父間の運賃は1,510円、同区間の指定券は1,060円。合計で2,570円となる。
「S-TRAIN1号」は元町・中華街駅を定刻通りに発車。みなとみらい線を走行し、みなとみらい駅、横浜駅の順に停車する。
この2駅は乗車専用駅とされており、みなとみらい線内だけで「S-TRAIN」に乗車することはできない。 横浜駅で2分ほど停車した後、7時9分に発車して東急東横線へ。次の停車駅は自由が丘駅、その次の停車駅は渋谷駅で、
東横線の特急停車駅である菊名駅、武蔵小杉駅、中目黒駅は通過するのだが、「S-TRAIN1号」はこれらの駅で
ドアを開けない運転停車を行った。意外にもアップダウンのある東横線をトップスピードで走り、元住吉駅と
祐天寺駅では各駅停車を追い抜く。代官山駅を通過して地下に入り、7時35分に渋谷駅に到着した。
東京メトロ副都心線における「S-TRAIN」の停車駅は新宿三丁目駅と池袋駅のみ。池袋駅は降車専用駅と
なっていることに注意したい。小竹向原駅から西武線に入るため、運転停車して乗務員の交代を行う。
7時55分に小竹向原駅を出た後、2駅先の練馬駅でも機器の切替えのために運転停車を行い、8時頃に発車した。
■デュアルシートや「パートナーゾーン」が特徴の車内
「S-TRAIN」に使用される40000系は通勤型車両だが、全席指定制の「S-TRAIN」として運行する際、車内は
優先席を除いてクロスシートに転換されている。座席は青色を基調に、桜の模様を散りばめたデザイン。
背面にフックとドリンクホルダー、足もとの壁側にAC100V電源があり、それぞれ自由に使用できるようになっている。
元町・中華街〜西武秩父間の長距離輸送に対応すべく、4号車にトイレが設置されている。10号車の乗務員室後方
に設けられた「パートナーゾーン」も40000系の特徴のひとつ。車いす・ベビーカー利用者や大きな荷物を持った
乗客が利用しやすいように考慮され、こどもたちが車窓を楽しめるように、窓も大型化されている。
「パートナーゾーン」の腰掛は窓側を向いており、めくるめく変化する車窓風景を迫力満点で楽しめる。
クロスシートはちょうど良い柔らかさだったが、ロングシート・クロスシートに切り替えられるデュアルシート
の宿命か、背もたれにリクライニング機能は備わっていない。客室窓は通勤型車両として割り当てられている
ので、座る席によっては車窓風景が見づらい場合もある。
乗降時のドアにも注意が必要だ。40000系は片側4ドアだが、「S-TRAIN」での運行中、停車駅で開閉する
ドアは各号車1カ所(1・10号車は乗務員室寄りのドア、2〜9号車は元町・中華街方のドア)のみ。 車内アナウンスでも注意喚起が行われるので、目的の停車駅に着いたのに目の前のドアが開かず、
そのまま乗り越してしまうことのないよう気をつけてほしい。
筆者が乗った号車では、元町・中華街駅を発車した時点で他の乗客はほとんどいなかったが、横浜駅から
少しずつ増え始め、西武線内から乗車する人も見られた。最終的には全体の半数程度の着席率になっていた。
筆者と同じように1人で座っている人も多いが、中には家族で乗車しているところも。スマートフォンを見る人、
読書する人、ゲームで遊んでいる子など、思い思いに車内での時間を過ごしている様子だった。
■西武池袋線を西へ - 飯能駅で方向転換、山間部を走る
練馬駅を出た「S-TRAIN1号」は、西武池袋線の複々線区間に入り、外側の急行線を高速で走行する。
石神井公園駅から先は複線区間となり、沿線も郊外の住宅地の風景に移り変わっていくが、「S-TRAIN1号」
は速度を緩めることなく走り抜ける。秋津駅を通過した後、左に大きくカーブしながら西武新宿線と合流し、
8時18分、所沢駅に到着した。
所沢〜入間市間を走行中、小手指駅を通過した後、進行方向右手の小手指車両基地に東京メトロ有楽町線・
副都心線の新型車両17000系が停まっているところを見かけた。来年2月にデビュー予定とのことで、
「S-TRAIN」と営業運転ですれ違う日も遠くはないだろう。
入間市駅からさらに車窓風景が変化し、だんだんと山が見え始める。入間川を渡り、続いてJR八高線と交差。
進行方向右手に西武秩父方面の線路が合流したところで、8時38分、飯能駅に到着した。ここから西武秩父駅
まで進行方向が逆になり、10号車が先頭になる。そのままだと逆向きに座ることになるため、車内では座席を
回転させる人がほとんど。隣の席に誰もいなかったので、筆者も座席を回転させた。
「S-TRAIN1号」は8時41分に飯能駅を発車したが、東飯能駅、高麗駅の2駅を通過しただけで、それまでの景色
が嘘のような山間部の景色になる。正丸駅付近まで、ひたすら蛇行を続ける高麗川に合わせ、電車も急カーブ
やトンネルが連続する中を走る。電車は道路よりも少し高いところを走っているため、眺望性は良い。 正丸トンネルを越え、「S-TRAIN1号」は芦ヶ久保駅、横瀬駅を通過。最後のトンネルを抜けると秩父市の市街地
に抜け、進行方向左手に秩父鉄道の線路が見えたところで、9時16分、終点の西武秩父駅に到着した。
西武秩父駅は2017年にリニューアルされ、上品かつ落ち着きのある黒色の外観・内装、提灯や行灯を使用した
照明など、「和」を体感できる駅になった。駅に併設して「西武秩父駅前温泉 祭の湯」が営業しており、
温泉エリアは入館料が必要だが、1階のフードコートと物販エリアは自由に利用可能。列車の待ち時間を使って
食事を取ったり、弁当・軽食やお土産を買ったりするのも楽しい。
「S-TRAIN1号」に乗り、元町・中華街駅から西武秩父駅までかかった時間は約2時間15分。背もたれを倒せない
ことや、座る席によっては景色を見づらいことなど、デメリットも感じたが、横浜市内から秩父方面へ、着席が
保証された上で乗換えなしで移動できる快適さもある。40000系ならではのデュアルシートや「パートナーゾーン」
も注目したい点である。土休日に西武線を利用して秩父方面へ出かけるなら、池袋駅発着の「ラビュー」と
うまく使い分けてみるのも良いかもしれない。
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